放浪記(初出)

林芙美子




秋が来たんだ



 十月×日
 一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。
 秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。
 秋はいゝな……。
 今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。
 そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。
 なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようだ。

 十月×日
 広い食堂の中を片づけてしまって始めて自分の体になったような気がする。真実に何か書きたい。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋へ帰るんだが、一日中立っているので疲れて夢も見ずに寝てしまう。
 淋しいなあ。ほんとにつまらないなあ……。住込は辛い。その内通いにするように部屋を探そうと思うが、何分出る事も出来ない。
 夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと目を開けていると、溝の処だろう、チロチロ……虫が鳴いている。
 冷い涙が不甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達三人枕を並べているのが、何だか店に晒らされた茄子のようで佗しい。
「虫が鳴いてるよう……。」
 そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、
「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいね。」
 梯子段の下に枕をしていた、お俊さんまでが、
「へん、あの人でも思い出したかい……。」
 皆淋しいお山の閑古鳥。
 何か書きたい。何か読みたい。ひやひやとした風が蚊帳の裾を吹く、十二時だ。

 十月×日
 少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結う。
 日本髪はいゝな、キリヽと元結いを締めてもらうと眉毛が引きしまって、たっぷりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと額に垂れて、違った人のように美しくなる。
 鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。日本髪は女らしいね、こんなに綺麗に髪が結べた日にゃあ、何処かい行きたい。汽車に乗って遠くい遠くい行きたい。
 隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって故里のお母さんの手紙の中に入れてやった。喜ぶだろう。
 手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの……。
 ドラ焼きを買って皆と食べた。
 今日はひどい嵐、雨が降る。
 こんな日は淋しい。足がガラスのように固く冷える。

 十月×日
 静かな晩だ。
「お前どこだね国は?」
 金庫の前に寝ている年取った主人が、此間来た俊ちゃんに話かける。寝ながら他人の話を聞くのも面白い。
私でしか……樺太です。豊原って御存知でしか?」
「樺太から? お前一人で来たのかね。」
「えゝ!」
「あれまあ、お前きつい女だね。」
「長い事函館の青柳町にもいた事があります。」
「いゝ所に居たんだね、俺も北海道だよ。」
「そうでしょうと思いました。言葉にあちらのがありますもの。」
 啄木の歌を思い出して真実俊ちゃんが好きになった。
函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。
 いゝね。生きている事もいゝね。真実に何だか人生も楽しいものゝように思えて来た。皆いゝ人達ばかりだ。
 初秋だ、うすら冷い風が吹く。
 佗しいなりにも何だか女らしい情熱が燃えて来る。

 十月×日
 お母さんが例のリウマチで、体具合が悪いと云って来た。
 もらいがちっとも無い。
 客の切れ間に童話を書く、題「魚になった子供の話」十一枚。
 何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。
 可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配します。
「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいゝよ。」
 三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のきゝかたでさそってくれた。
「えゝ……行くとも、何日でも泊めてくれて?」
 私はそれまで少し金を貯めよう。
 いゝなあ、こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがある。
「私しぁ、もうもう愛だの恋だの、貴女に惚れました、一生捨てないのなんて馬鹿らしい真平だよ。あゝこんな世の中でお前さん! そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男は今、代議士なんてやってるけど子供を生ませると、ぷいさ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールさ、いゝ面の皮さ……馬鹿馬鹿しいね浮世は、今の世は真心なんてものは、薬にしたくもないよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからさ……ハッハッ……。」
 お計さんの話を聞いていると、ジリジリとしていた気持が、トンと明るくなる。素的にいゝ人だ。

 十月×日
 ガラス窓を、眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。
 今日は少しかせいだ。
 俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風機の台に腰を掛けて、憂欝そうに身の上話をしたが、正直な人だ。
 浅草の大きいカフェーに居て、友達にいじめられて出て来たんだが、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいゝって云ったので来たのだと云っていた。
 お計さんが、
「おい、こゝは錦町になってるんだよ。」
と云ったら、
「あらそうかしら……。」
とつまらなさそうな顔をしていた。
 此の家では一番美しくて、一番正直で一番面白い話を持っていた。
 メリービックホードの瞳を持って、スワンソンのような体つきをしていた。

 十月×日
 仕事をしまって湯にはいるとせいせいする。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも湯を楽しむ事が出来た。
 湯につかっていると、一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。
 秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれて[#「聞きとれて」はママ]いるのだった。

貴女一人に身も世も捨てた
私しや初恋しぼんだ花よ。

 何だか真実に可愛がってくれる人が欲しくなった。
 だが、男の人は嘘つきが多いな。
 金を貯めて呑気な旅でもしよう。

 ――此秋ちゃんについては面白い話がある。
 秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組みの大学生達は、マーガレットのようにカンゲイした。
 十九で処女で、大学生が好き。
 私は皆の後から秋ちゃんのたくみに動く瞳を見ていた。目の縁の黒ずんだそして生活に疲れた衿首の皺を見ていると、けっして十九の女の持つ若さではなかった。

 其の来た晩に、皆で風呂にはいる時、秋ちゃんは佗しそうにしょんぼり廊下の隅に立っていた。
「おい! 秋ちゃん、風呂へはいって汗を流さないと体がくさってしまうよ。」
 お計さんはキュキュ歯ブラシを使いながら大声で呼びたてた。
 やがて秋ちゃんは手拭で胸を隠すと、そっと二坪ばかりの風呂場へはいって来た。
「お前さん! 赤ん坊を生んだ事があるだろう……。」

 ――庭は一面に真白だ!
 お前忘れやしないだろうね、リューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯革のように、何処までも真直ぐに続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。
 お前覚えているだろう? 忘れやしないだろう?
 ――…………
 ――そうだよ。此桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。
と、桜の園のガーエフの独白を別れたあの男はよく云っていた。
 私は何だか塩っぽい追憶に耽って、歪んだガラス窓の白々とした月を見ていた時だった。

 お計さんの癇高い声に驚いてお秋さんを見た。
「えゝ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」
 秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いてドポン! と湯煙をあげた。
「うふ……私処女よ、もおかしいものだね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」
「肺が悪るくて、赤ん坊と家にいるのよ。」
 不幸な女が、あそこにもこゝにもうろうろしている。
「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」
 肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。
「私のは三日めでおろしてしまったのよ。だって癪にさわったからさホッホ……。私は豊原の町中で誰も知らない者がない程華美な暮しをしていたのよ、私がお嫁に行った家は地主だったけど、ひらけていて私にピヤノをならわせてくれたの、ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾きよ、そいつにすっかり欺されてしまって、私子供を孕んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと分っているから云ってやったわ、そしたら、そいつの言い分がいゝじぁないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私口惜しくて、そんな奴の子供なんか生んじゃあ大変だと思って辛子を茶碗一杯といて呑んだわよホッホ……どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバを引っかけてやるつもりさ。」
「まあ……。」
「えらいね、あんたは……」
 仲間らしい讃辞がしばしは止まなかった。
 お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背に掛けてやった。
 私は息づまるような切なさで聞いていた。
 弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき、裏切った男の頭をかぞえた。
 お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいゝって云う事が何の気安めになろうか――。

 十月×日
 ……ふと目を覚ますと、俊ちゃんはもう仕度をしていた。
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だよ。」
 湯殿に皆荷物を運ぶと、私はホッとした。
 博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私はそっと二人分の下駄を土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロして、人のいゝ主人の鼾も平かだ。
 お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰ってしまった。

 真実に、学生や定食の客ばかりでは、どうする事も出来なかった。
 止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあっていたものゝ、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかった。
 金が這入らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃走するより外なかった。

 朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑として、食堂のセメントの池に、赤い金魚がピチピチはねている丈で、灰色に汚れた空気がよどんでいた。
 路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと飛び降りると、湯殿の高窓から降した信玄袋を取りに行った。
 私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。
「まあこんなにあるの……。」
 俊ちゃんはお上りさんのような格好で、蛇の目の傘と空色のパラソル、それに樽のような信玄袋を持って、まるで切実な一つの漫画だった。
 小川町の停留所で四五台の電車を待ったが、登校時間だったのか来る電車は学生で満員だった。
 往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、インバイのようにも見えたろう。
 たまりかねて、二人はそばやに飛び込むと始めてつっぱった足を延した。そば屋の出前持の親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。
 自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなくなった。
 ぺしゃんこに疲れ果てゝしまって、水がやけに飲みたかった。
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいゝのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしないよ。」
「元気を出して働くよ、あんたは一生懸命勉強するといゝわ……。」
 私は目を伏せていると、サンサンと涙があふれて、たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであっても今のたよりない身には、只わけもなく嬉しかった。
 あゝ! 国へ帰ろう……お母さんの胸ん中へ走って帰ろう……自動車の窓から、朝の健康な青空を見た。走って行く屋根を見た。
 鉄色にさびた街路樹の梢にしみじみ雀のつぶてを見た。

うらぶれて異土のかたゐとならふとも
故里は遠きにありて思ふもの……

 かつてこんな詩を読んで感心した事があった。

 十一月×日
 愁々とした風が吹くようになった。
 俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
 ――寒むくなるから……――と云って、八端のドテラかたみに置いて東京をたってしまった。
 私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で、白いおまんまが、一ヶ月のどへ通るわけでもなかった。
 お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして、私は私の思想にもカビを生やしてしまった。
 あゝ私の頭にはプロレタリヤもブルジョアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたい。
 いっそ狂人になって街頭に吠えようか。
「飯を食わせて下さい。」
 眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしい情熱の中へ身をまかせようか。
 夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって、遠くに明い廓の女郎達がふっと羨ましくなった。
 沢山の本も今はもう二三冊になって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの「労働者セイリョフ」直哉の「和解」がさゝくれてボサリとしていた。

「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
 ちんとあきらめてしまった私は、おきやがりこぼしのように変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、風の吹く夕べの街へ出た。
 ――女給入用――のビラの出ていそうなカフェーを次から次へ野良犬のように尋ねて……只食う為に、何よりもかによりも私の胃の腑は何か固形物を慾しがっていた。
 あゝどんなにしても食わなければならない。街中が美味そうな食物じゃあないか!
 明日は雨かも知れない。重たい風が漂々と吹く度に、昂奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがする。
――一九二八・九――
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濁り酒



 十月×日
 焼栗の声がなつかしい頃になった。

 廓を流して行く焼栗のにぶい声を聞いていると、ほろほろと淋しくなって暗い部屋の中に、私はしょんぼりじっと窓を見ていた。

 私は小さい時から、冬になりかけると、よく歯が痛んだ。
 まだ母親に甘えている時は、畳に転々泣き叫び、ビタビタの梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いていた私だった。
 だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした佗しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思出す。

 水っぽい瞳を向けてお話をするのゝ様は、歪んだ窓外の漂々としたお月様ばかり……。

「まだ痛む……。」
 そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、黒々と私の上におおいかぶさると、今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔の香をたゞよわせて、お君さんは枕元にそっと寿司皿を置いた。そして黙って、私のみひらいた目を見ていた。
 優しい心づかいだ……わけもなく、涙がにじんで、薄い蒲団の下からそっと財布を出すと、君ちゃんは、
「馬鹿ね!」
 厚紙でも叩くようなかるい痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打つと、蒲団の裾をジタジタとおさえてそっと又、裏梯子を降りて行った。
 あゝなつかしい世界だ。

 十月×日
 風が吹く。
 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。
 それにとき色の腰紐が結ばれていて、妙に起るとから[#「起るとから」はママ]、胸さわぎのするようないゝ事が、素的に楽しい事があるような気がする。

 朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はあゝと長い溜息をついて、壁の中にでもはいってしまいたかった。

 今朝も泥のような味噌汁と、残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思った。
 私は何も塗らない、ぼんやりとした顔を見ていると、急に焦々として、唇に紅々と、べにを引いてみた。

 あの人はどうしているかしら……AもBもCも、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたが、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……。
 神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなった。

 のれん越しにすがすがしい朝の盛塩を見ていると、女学生の群にけとばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行く。

 私が此家に来て二週間、もらいはかなりある。
 朋輩が二人。
 お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返しのよく似合うほんとに可愛いこだった。

「私は四谷で生れたのだけど、十二の時、よその叔父さんに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじき売られたから、その叔父さんの顔もじき忘れっちまったけど……私そこの桃千代と云う娘と、よく広いつるつるした廊下をすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだった。
 内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴をはいて見にいったわ、土が凍ってしまうと、下駄で歩けるのよ、だけどお風呂から上ると、鬢の毛がピンとして、おかしいわよ。
 私六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったのよ。」

 客の飲み食いして行った後の、テーブルにこぼれた酒で字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。
 も一人私より一日早くはいったお君さんは脊の高い母性的な、気立のいゝ女だった。

 廓の出口にある此店は、案外しっとり落ついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。
 こんな処に働いている女達は、始めどんな意地悪るくコチコチに要心して、仲よくなってくれなくっても、一度何かのはずみでか、真心を見せると、他愛もなく、すぐまいってしまって、十年の知己のように、まるで姉妹以上になってしまう。
 客が途絶えると、私達はよくかたつむりのようにまるくなった。

 十一月×日
 どんよりとした空。
 君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしかいだ事のある、何か黄ろっぽい花の匂いがする。
 夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。
「あんたはとうと裸を見られたわよ。」
 お初ちゃんがニタニタ笑いながら、鬢窓に櫛を入れている私の顔を鏡越しに見て、こう言った。
「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事聞いたから、風呂って云ったの……」
 呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。
「嘘だよ!」
「アラ! 今言ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと、思ってたら、帰って来て、水野さん、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ! て言ったってさ、そしたら、あゝ病院とまちがえましたってじっとしてたら、丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそれゃあ大喜びなの……。」
「へん! 随分助平な話ね。」
 私はやけに頬紅をはくと、大学生は薄いコンニャクのような手を合わせて、
「怒った? かんにんしてね!」
 裸が見たけりゃあ、お天陽様の下に真裸で転って見せるよッ! とよっぽど、吐鳴ってやりたかった。

 一晩中気分が重っくるしくって、私はうで卵を七ツ八ツパッチンパッチンテーブルへぶっつけてわった。

 十一月×日
 秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。
 夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚じゃあ、体中うろこが浮いてくるだろう……

 夜霧が白い白い、電信柱の細っこい姿が針のように影を引いて、のれんの外にたって、ゴウゴウ走って行く電車を見ていると、なぜかうらやましくなって鼻の中がジンと熱くなる。
 蓄音器のこわれたゼンマイは昨日もかっぽれ今日もかっぽれだ。

 生きる事が実際退屈になった。
 こんな処で働いていると、荒さんで荒さんで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。
 インバイにでもなりたくなる。

若い姉さんなぜ泣くの
薄情男が恋ひしいの……

 誰も彼も、誰も彼も、ワッハ! ワッハ! あゝ地球よパンパンと真二つになれッ、私を嘲笑っている顔が幾つもうようよしてる。

「キングオブキングを十杯飲んでごらん、拾円のかけだ!」
 どっかの呑気坊主が、厭にキンキラ顔を光らせて、いれずみのような拾円札を、ピラリッとテーブルに吸いつかせた。
「何でもない事だ!」
 私はあさましい姿を白々と電気の下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干した。
 キンキラ坊主は呆然と私を見ていたが、負けおしみくさい笑いを浮べて、おうように消えてしまった。
 喜んだのはカフェーの主人ばかり、へえへえ、一杯一円のキングオブを十杯もあの娘が呑んでくれたんですからね……ペッペッペッだ。ツバを吐いてやりたいね。

 瞳が炎える。
 誰も彼も憎い奴ばかりだ。
 あゝ私は貞操のない女でござんす。一ツ裸踊りでもしてお目にかけましょうか、お上品なお方達、へえ、てんでに眉をひそめて、星よ月よ花よか!
 私は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行こうと思えば、オイオイ泣いてはいられない。男から食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならない。
 真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑う。

歌をきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも恋にたはむれて
それ忠兵衛の夢がたり
 詩をうたって、いゝ気持で、私はかざり窓を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて……あああの夜空を見上げて御覧、絢爛がかゝったな、虹がかゝった。

 君ちゃんが、大きい目をして、それでいゝのか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬかと、私をグイグイ掴んでいる。

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまぢりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿
 かつて好きだった歌ほれぼれ涙におぼれて、私の体と心は遠い遠い地の果にずッ……とあとしざりしだした。

 そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、れいの月はおぼろに白魚の声色屋のこまちゃくれた子供が、
「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……。」
 もうそんな影のうすい不具なんか出してしまいなさい!
 何だかそんな可憐な子供達のさゝくれたお白粉の濃い顔を見ていると、たまらない程、私も誰かにすがりつきたくなった。

 十一月×日
 奥で三度三度御飯を食べると、きげんが悪いし、と云って客におごらせる事は大きらいだ。
 二時がカンバンだって云っても、遊廓がえりの客がたてこむと、夜明までも知らん顔をして主人はのれんを引っこめようともしない。
 コンクリートのゆかが、妙にビンビンして動脈がみんな凍ってしまいそうに肌が粟立ってくる。
 酢っぱい酒の匂いがムンムンして焦々する。
「厭になってしまうわ……。」
 初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのをしぼりながら、呆然とつっ立っていた。
「ビール!」
 もう四時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くの方で鶏の鳴く声がする。
 コケコッコオ! ゴトゴト新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で、銀流しみたいな男がはいって来た。
「ビールだ!」
 仕方なしに、私はビールを抜くと、コップに並々とついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと呑み干すと、いかにも空々しく、
「何だ! ゑびすか、気に喰わねえ。」
 捨ぜりふを残すと、いかにもあっさりと、霧の濃い舗道へ出てしまった。唖然とした私は、急にムカムカとすると、のこりのビールびんをさげて、その男の後を追った。
 銀行の横を曲ろうとしたその男の黒い影へ私は思い切りビールびんをハッシと投げつけた。
「ビールが呑みたきゃ、ほら呑ましてやるよッ。」
 けたゝましい音をたてゝ、ビールびんは、思い切りよく、こなごなにこわれて、しぶきが飛んだ。
「何を!」
「馬鹿ッ!」
「俺はテロリストだよ。」
「へえ、そんなテロリストがあるの……案外つまんないテロリストだね。」
 心配して走って来たお君ちゃんや、二三人の自動車の運転手達が来ると、面白いテロリストはボアンと路地の中へ消えてしまった。
 こんな商売なんて止めようかなア……。
 そいでも、北海道から来たお父さんの手紙には、御難つゞきで、今は帰る旅費もないから、送ってくれと云う長い手紙を読んだ、寒さにはじきへこたれるお父さん、どんなにしても四五十円は送ってあげよう。
 も少し働いたら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまわってみようか……。
 のりかゝった船だよ。

 ポッポッ湯気のたつおでん屋の屋台に首を突込んで、箸につみれを突きさした初ちゃんが店の灯を消して一生懸命茶飯をたべていた。
 私も昂奮した後のふるえを沈めながら、エプロンを君ちゃんにはずしてもらうと、おでんを肴に、寝しなの濁り酒を楽しんだ。
――一九二八・一二――
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一人旅



 十二月×日
 浅草はいゝ。
 浅草はいつ来てもよいところだ……。

 テンポの早い灯の中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチウシャ。
 長い事クリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くって安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。

 テヘ! 一人の酔いどれ女でござんす。

 酒に酔えば泣きじょうご、痺れて手も足もばらばらになってしまいそうなこのいゝ気持。
 酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らしくて、まともな顔をしては通れない。

 あの人が外に女が出来たとて、それが何であろ、真実は悲しいんだけど、酒は広い世間を御らんと云う。
 町の灯がふっと切れて暗くなると、活動小屋の壁に歪んだ顔をくっつけて、あゝあすから勉強しようと思う。
 夢の中からでも聞えて来るような小屋の中の楽隊にあんまり自分が若すぎて、なぜかやけくそにあいそがつきてしまう。
 早く年をとって、いゝものが書きたい。
 年をとる事はいゝな。
 酒に酔いつぶれている自分をふいと見返ると、大道の猿芝居じゃないが、全く頬かぶりして歩きたくなる。

 浅草は酒を呑むによいところ。
 浅草は酒にさめてもよいところだ。

 一杯五銭の甘酒! 一杯五銭のしる粉! 一串二銭の焼鳥は何と肩のはらない御馳走だろう……。
 漂々と吹く金魚のような芝居小屋の旗、その旗の中にはかつて愛した男の名もさらされて、わっは……わっは……あのいつもの声で私を嘲笑している。
 さあ皆さん御きげんよう……何年ぶりかで見上げる夜空の寒いこと、私の肩掛は人絹がまざっているのでござります。他人が肩に手をかけたように、スイスイと肌に風が通りますよ。

 十二月×日
 朝の寝床の中で、まず煙草をくゆらす事は淋しがりやの女にとって此上もないよきなぐさめ、ゆらりゆらり輪をかいて浮いてゆくむらさき色のけむりはいゝ。お天陽様の光りを頭いっぱいあびて、さて今日はいゝ事がありますように。

 赤だの黒だの桃色だの黄いろだの疲れた着物を三畳の部屋いっぱいぬぎちらして、女一人のきやすさに、うつらうつら私はひだまりの亀の子。

 カフェーだの牛屋だのめんどくさい事より、いっそ屋台でも出しておでん屋でもしようか。誰が笑おうと彼が悪口を云おうと、赤い尻からげで、あら、えっさっさだ! 一ツ屋台でも出して何とか此年のけじめをつけよう。
 コンニャク、いゝね厚く切ってピンとくいちぎって見たい……がんもどき竹輪につみれ、辛子のひりゝッとした奴に、口にふくむような酒をつかって、青々としたほうれん草のひたしか……元気を出そう。

 或ところまで来るとペッチャンコにくずれてしまう、たとえそれがつまらない事だっても、そんな事の空想は、子供のようにうれしくなる。
 貧乏な父や母にすがるわけにもゆかないし、と云って転々と動いたところで、月に本が一二冊買えるきり、わけもなく飲んで食って通ってしまう。三畳の間をかりて最少限度の生活はしていても貯えもかぼそくなってしまった。

 こんなに生活方針がたゝなく真暗闇になると、泥棒にでもはいりたくなる。
 だが目が近いのでいっぺんにつかまってしまう事を思うと、ふいとおかしくなって、冷い壁にカラカラと私の笑いがはねかえる。

 何とかして金がほしい……私の濁った錯覚は他愛もなく夢におぼれて、夕方までぐっすりねむってしまった。

 十二月×日
 お君さんが誘いに来て、二人は又何かいゝ商売をみつけようと、小さい新聞の切抜きをもって、私達は横浜行きの省線に乗った。

 今まで働いていたカフェーが淋びれると、お君さんも一緒にそこを止めてしまって、お君さんは、長い事板橋の御亭主のとこへ帰っていた。
 お君さんの御亭主はお君さんより卅あまりも年が上で、始め板橋のその家へたずねて行った時、私はお君さんのお父つぁんかと思った。お君さんの養母やお君さんの子供や何だかごたごたしたその家庭は、めんどくさがりやの私にはちょいとわかりかねた。

 お君さんもそんな事はだまっている。
 私もそんな事を聞くのは腹がいたくなる。二人共だまって、電車から降りると、青い青い海を見はらしながら丘へ出た。
「久し振りよ海は……。」
「寒いけど……いゝわね海は……。」
「いゝとも、こんなに男らしい海を見ると、裸になって飛びこんでみたいね。まるで青い色がとけてるようじゃないか。」
「ほんと! おっかないわ……」

 ネクタイをひらひらさせた二人の西洋人が、雁木に腰をかけて波の荒い風景にみいっていた。
「ホテルってあすこよ!」
 目のはやい君ちゃんがみつけたのは、白いあひるの小屋のような小さな酒場だった。二階の歪んだ窓には汚点だらけな毛布が青い太陽にてらされて、いいようのない幻滅だった。
「かえろう!」
「ホテルってこんなの……。」
 朱色の着物を着た可愛らしい女が、ホテルのポーチで黒い犬をあやして一人でキャッキャッ笑っていた。
「がっかりした……。」
 二人共又おしだまって向うの向うの寒い茫々とした海を見た。
 鳥になりたい。
 小さいカバンでもさげて旅をするといゝだろう……君ちゃんの日本風なひさし髪が風にあれて、雪の降る日の柳のようにいじらしく見えた。

 十二月×日
風が鳴る白い空だ
冬のステキに冷い海だ
狂人だってキリキリ舞いをして
目のさめそうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ

毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばりかけたどじょう鍋のように
ものすごいフットウだ

しぶきだ雨のようなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握っていた。

あゝバットでも吸いたい
オオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ

白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく、あんなに大きく

あゝやっぱり淋しい一人旅だ!

 腹の底をゆするような、ボオウ! ボオウ! と鳴る蒸汽の音に、鉛色によどんだ小さな渦巻が幾つか海のあなたに、一ツ一ツ消えて唸りをふくんだ冷い十二月の風が、乱れた私の銀杏返しの鬢を、ペッシャンと頬っぺたにくっつけるように吹いてゆく。
 八ツ口に両手を入れて、じっと自分の乳房をおさえていると、冷い乳首の感触が、わけもなく甘っぽく涙をさそってくる。
 ――あゝ、何もかにもに負けてしまった!
 東京を遠く離れて、青い海の上をつっぱしっていると、色々に交渉のあった男や女の顔が、一ツ一ツ白い雲の間からもれもれと覗いて来る。

 あんまり昨日の空が青かったので、久し振りに、故里が恋しく、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。

 今朝はもう鳴門の沖だ。

「お客さん! 御飯ぞなッ!」
 誰もいない夜明けのデッキの上に、さゝけた私の空想はやっぱり故里へ背いて都へ走っていた。
 旅の故里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだったが、なぜか佗しい気持でいっぱいだった。
 穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に座ると丹塗りのはげた、膳の上にヒジキの煮たのや味噌汁があじけなく並んでいた。
 薄暗い灯の下に大勢の旅役者やおへんろさんや、子供を連れた漁師の上さんの中に混って、私も何だか愁々とした旅心を感じた。
 私が銀杏返しに結っているので、「どこからお出でました?」と尋ねるお婆さんもあれば、「どこまで行きやはりますウ……。」と問う若い男もあった。
 二ツ位の赤ん坊に添い寝していた、若い母親が、小さい声で旅の故里でかつて聞いた事のある子守唄をうたっていた。

ねんねころ市
おやすみなんしよ
朝もとうからおきなされ
よひの浜風ア身にしみますで
夜サは早よからおやすみよ……。

 やっぱり旅はいゝ。あの濁った都会の片隅でへこたれているより、こんなにさっぱりした気持になって、自由にのびのび息を吸える事は、あゝやっぱり生きている事もいいなと思う。

 十二月×日
 真黄ろに煤けた障子を開けて、ボアッボアッと消えてはどんどん降ってる雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。
「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
「あゝ」
「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
 北海道に行ってもう四ヶ月あまり、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来てこっちも随分寒くなった。
 屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれ、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。
 泊る客もだんだん少くなると、母は店の行灯へ灯を入れるのを渋ったりした。
「寒うなると人が動かんけんのう……。」

 しっかりした故郷をもたない私達親子三人が、最後に土についたのが徳島だった。女の美しい、川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始めて、私は一年徳島での春秋を迎えた事がある。
 だがそれも小さかった私……今はもう、この旅人宿も荒れほうだいに荒れ、母一人の内職仕事になってしまった。
 父を捨て、母を捨て、長い事東京に放浪して疲れて帰った私も、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥の底にひっくり返してみると懐しい昔のいゝ夢が段々蘇って来る。
 長崎の黄ろいちゃんぽんうどんや尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄や、あゝみんないゝ!
 絵をならい始めた頃の、まずいデッサンの幾枚かゞ、茶色にやけて、納戸の奥から出て来ると、まるで別な世界だった私を見る。

 夜炬燵にあたっていると、店の間を借りている月琴ひきの夫婦が漂々と淋しい唄をうたっては、ピンピン昔っぽい月琴をひゞかせていた。
 外はシラシラと音をたてゝみぞれまじりの雪が降っている。

 十二月×日
 久し振りに海辺らしいお天気。
 二三日前から泊りこんでいる、浪花節語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、もう煤けた広い台所には鰯を焼いている母と私と二人きり。
 あゝ田舎にも退屈してしまった。
「お前もいゝかげんで、遠くい行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい……お前をもらいたいと云う人があるぞな……。」
「へえ……どんな男!」
「実家は京都の聖護院の煎餅屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ務めておるがな……いゝ男や。」
「………………。」
「どや……」
「会うてみようか、面白いな。」
 何もかもが子供っぽくゆかいだった。
 田舎娘になって、おぼこらしく顔を赤めてお茶を召し上れか、一生に一度はこんな芝居もあってもいゝ。
 キイラリ キイラリ、車井戸のつるべを上げたりさげたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。
 あゝ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。
 男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。

 東京へ行こう!
 夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来る。

 十二月×日
 赤靴のひもをといてその男が上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。
「あんたいくつ……。」
「僕ですか、廿二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
 げじげじ眉で、唇の厚いその顔を何故か、見覚えがあるようで、考え出せなかったが、ふと、私は急に明るくなれて、口笛でもヒュヒュと吹きたくなった。

 月のいゝ夜だ、星が高く流れている。
「そこまでおくってゆきましょうか……。」
 此男は妙によゆうのある風景だ。
 入れ忘れてしまった国旗の下をくゞって、月の明るい町に出ると濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。
 一丁来ても二丁来ても二人共だまって歩いた。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなった。
 男なんて皆火を焚いて焼いてしまえ。
 私はお釈迦様にでも恋をしよう……ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私の此頃の夢にしのんでいらっしゃる。
「じゃあさよなら、あんたもいゝお嫁さんおもちなさいね。」
「ハァ?」
 いとしの男よ、田舎の人はいゝ。私の言葉がわかったのか、わからないのか、長い月の影をひいて隣りの町へ消えてしまった。

 明日こそ荷づくりして旅立とう……。
 久し振りに家の前の三のついたお泊り宿の行灯を見ると、不意に頭をどやしつけられたようにお母さんがいとしくなって、私はかたぶいた梟の瞳のような行灯をみつめていた。

「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」
 茶の間で母と差しむかいで、一合の酒にいゝ気持ちになって、親と云うものにふと気がついた。親子はいゝな、こだわりのない気安さで母の多いしわを見た。
 鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまった。
「あんなもん、厭だねえ。」
「気立はいゝ男らしいがな……」
 淋しい喜劇!
 東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙を書こう。
――一九二八・一二――
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古創



 一月×日
海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。

海はきむずかしく荒れていましたが
空は鏡のように光って
人参灯台の紅色が瞳にしみる程あかいのです。
島でのメンドクサイ悲しみは
すっぱり捨てゝしまおうと
私はキリのように冷い風をうけて
遠く走る帆船をみました。

一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。

 一月×日[#「 一月×日」は底本では「一月×日」]
 おどろおどろした雪空だ。

 朝の膳の上は白い味噌汁に、高野豆腐に黒豆、何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかり、いっそ京都か大阪で暮らしてみよう……。
 天保山の安宿の二階で、ニャーゴニャーゴ鳴いている猫の声を寂しく聞きながら私は寝そべっていた。
 あゝこんなにも生きる事はむずかしいものか……私は身も心も困憊しきっている。
 潮たれた蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。
 ビュン! ビュン! 風が海を叩いて、波音が高い。

 からっぽな女は私でございます……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ生きてゆく美しさもない。
 さて残ったものは血の多い体ばかり。
 私は退屈すると、片方の足を曲げて、キリキリと座敷の中をひとまわり。
 長い事文字に親しまない目には、御一泊壱円よりと白々しく壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
 夕方――ボアリボアリ雪が降った来た[#「降った来た」はママ ]
 あっちをむいても、こっちをむいても旅の空、もいちど四国の古里へ逆もどりしようか、とても淋しい鼠の宿だ。
 ――古創や恋のマントにむかひ酒――
 お酒でも楽しんでじっとしていたい晩だ。
 たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達の顔を思い浮べた。
 皆自分に急がしい人ばかりの顔だ。

 ボオウ! ボオウ! 汽笛の音を聞くと、私はいっぱいに窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港に呼びかけた。
 青い灯をともした船がいくつもねむっている。
 お前も私もヴァガボンド。
 雪々雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋いしくなって来た。
 こんな夜だった。
 あの男は城ヶ島の唄をうたった。
 沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波は荒くはなかった。
 二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互いに見あった顔、一度のベエゼも交した事もなく、あっけない別離だった。
 一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ槐多の詩を愛していた。

 これでもかッ! まだまだ、これでもかッ! まだまだ、私の頭をどやしつけている強い手の痛さを感じた。
 どっかで三味線の音がする。私は呆然と座り、いつまでも口笛を吹いていた。

 一月×日
 さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。

 市の職業紹介所の門を出ると、私は天満行きの電車に乗った。
 紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員、どんよりと走る街並を眺めながら、私は大阪も面白いなと思った。
 誰も知らない土地で働く事もいゝじゃないか、枯れた柳の木が腰をもみながら、河筋にゆれている。

 毛布問屋は案外大きい店だった。
 奥行きの深い、間口の広いその店は、丁度貝のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼い顔をして、急がしく立ち働いていた。
 随分長い廊下だった。何もかにもピカピカと手入れの行きとゞいた、大阪人らしいこのみのこじんまりした座敷に私は始めて、老いた女主人と向きあった。
「東京から、どうしてこっちゃいお出でやしたん?」
 出鱈目に原籍を東京にしてしまった私は、一寸どう云っていいかわからなかった。
「姉がいますから……。」
 こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持になってしまった。断られたら断られたまでの事だ。

 おっとりした女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。
 久しくお茶にも縁が薄く、甘いものも長い事口にしなかった。
 世間にはこうしたなごやかな家もある。
「一郎さん!」
 女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から、息子らしい落ちつきのある廿五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……。」
 役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
 私はなぜか恥をかきに来たような気がして、ジンと足が痺れて来た。あまりに縁遠い世界だ。
 私は早く引きあげたい気持でいっぱいだった。
 天保山の船宿に帰った時は、もう日も暮れて、船が沢山はいっていた。
 東京のお君ちゃんからのハガキ一枚。
 ――何をぐずぐずしているの、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいゝ。久し振に私もハツラツとなる。

 一月×日
 駄目だと思っていた毛布問屋に務める事になった。
 五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一ツの漂々とした私は、もらわれて行く犬の子のように、毛布問屋に住み込む事になった。
 昼でも奥の間には、ポンポロ ポンポロ音をたてゝガスの灯がついている。漠々としたオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。
 あゝ幽霊にでもなりそうだ。
 青いガスの灯の下でじっと両手をそろえてみると爪の一ツ一ツが黄に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。

 三時になると、お茶が出て、八ツ橋が山盛り店へ運ばれて来る。
 店員は皆で九人居た。その中で小僧が六人皆配達に行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。
 女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さん二人。
 お糸さんは昔の(御殿女中)みたいに、眠ったような顔をしていた。
 関西の女は物ごしが柔らかで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ……。」
 お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュ糸をしごきながら、見た事もないような昔しっぽい布を縫っていた。
 若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。
 そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。

 夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧さん達が皆どこへひっこむのか、一人一人居なくなってしまう。
 のりのよくきいた固い蒲団に、のびのびといたわるように両足をのばして、じっと天井を見ていると、自分がしみじみ、あわれにみすぼらしくなって来る。

 お糸さんとお国さんの一緒の寝床に、高下駄のような感じの黒い箱枕がちんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのした長襦袢が蒲団の上に投げ出されてあった。
 私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでもみていた。しまい湯をつかっている、二人の若い女は笑い声一つたてないで、ピチャピチャ湯音をたてゝいる。
 あの白い生毛のたったお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする、私はすっかり男になりきった気持で、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。
 あゝ私が男だったら世界中の女を愛してやったろうに……沈黙った女は花のように匂いを遠くまで運んで来るものだ。
 泪のにじんだ目をとじて、まぼしい灯に私は額をそむけた。

 一月×日
 朝の芋がゆにも馴れてしまった。
 東京で吸う、赤い味噌汁はいゝな、里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜と一緒にたいた味噌汁はいゝな。荒巻き鮭の一片一片を身をはがして食べるのも甘味い。
 大根の切り口みたいなお天陽様ばかり見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味しい茶漬けでも食べてみたいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。

 雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。

 夕方、荷箱をうんと積んである蔭で、私は人にかくれて思い切り足をかいた。赤く指がほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウ……えらい霜やけやなあ。」
 番頭の兼吉さんが驚いたように覗いていた。
「霜やけやったら、煙管でさすったら一番や。」
 若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。
 もうけ話ばかりしているこんな人達の間にもこんな真心がある。

 二月×日
「お前は七赤金星で金は金でも、金屏風の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
 よく母がこんな事を云っていたが、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。
 あきっぽくって、気が小さくて、じき人にまいってしまって、わけもなくなじめない私のさがの淋しさ……あゝ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたい程、焦々する。
 いゝ詩をかこう。
 元気な詩をかこう。
 只一冊のワイルド・プロフォディスにも楽しみをかけて読む。

 ――私は灰色の十一月の雨の中を嘲けり笑うモッブにとり囲まれていた。
 ――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。
 夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。
 お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私は私を嘲笑うモッブが恋いしくなった。
 お糸さんの恋愛にも祝福あれ!
 夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、キラキラ星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出したように、つくづく一人ぼっちで星を見た。

 老いぼれた私の心に反比例して、肉体のこの若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体をのばすと、ふいと女らしくなって来る。
 結婚しよう!
 私はしみじみとお白粉の匂いをかいだ。眉もひき、口唇も濃くぬって、私は柱鏡のなかの幻にあどけない笑顔をこしらえてみた。
 青貝の櫛もさして、桃色のてがらもかけて髷も結んでみたい。
 弱きものよ汝の名は女なり、しょせんは世に汚れた私で厶います。美しい男はないものか……。
 なつかしのプロヴァンスの歌でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂桶の中に魚のようにくねってみた。

 二月×日
 街は春の売出しで赤い旗がいっぱい。

 女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなった。
 ――随分苦労なすったんでしょう……と云う手紙を見ると、いゝえどういたしまして、優さしいお嬢さんのたよりは、男でなくてもいゝものだ、妙に乳くさくて、何かぷんぷんいゝ匂いがする。
 これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまった。
 お嫁にも行かないで、じっと日本画家のお父さんのいゝ助手として孝行しているお夏さん!
 泪の出るようないゝ手紙だ。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話を聞いてもらおう――。

 お店から一日ひまをもらうと、鼻頭がジンジンする程寒い風にさからって、京都へ立った。

 午後六時二十分。
 お夏さんは黒いフクフクとした、肩掛に蒼白い顔をうずめて、むかえに出てくれた。
「わかった?」
「ふん。」
 沈黙って冷く手を握りあった。
 赤い色のかった服装を胸に描いて来た私にお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強よく私の目を射た。
 椿の花のように素的にいゝ唇。
 二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。

 昔のまゝに京極の入口には、かつて私達の胸をさわがした封筒が飾窓に出ている。
 だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合わせた。私は一人立ちしていても貧乏、お夏さんは親のすねかじりで勿論お小遣もそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。
 女学生らしいあけっぱなしの気持で、二人は帯をゆるめてはお変りをしては食べた。
「貴女ぐらいよく住所の変る人ないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
 お夏さんは黒い大きな目をまたゝきもさせないで私を見た。
 甘えたい気持でいっぱい。

 丸山公園の噴水にもあいてしまった。
 二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の鳥辺山はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね……。」
「行ってみようか!」
 お夏さんは驚いたように瞳をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」

 京都はいゝ街だ。
 夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、キビッキビッ夜鳥が鳴いている。

 下鴨のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い灯がポッカリとついていた。

 門の吊灯籠の下をくゞって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。
 メンドウな話をくどくどするより、沈黙ってよう……お夏さんが火を取りに下に降りると、私は窓に凭れて、しみじみ大きいあくびをした。
――一九二六――
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百面相



 四月×目
 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ! と怒鳴ったところで、私は一匹の烏猫、世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃる。

 又いつもの淋しい朝の寝覚め、薄い壁に掛った、黒い洋傘を見ていると、色んな形に見えて来る。
 今日も亦此男は、ほがらかな桜の小道を、我々プロレタリアートよなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云いあいながら行く事であろう。
 私はじっと脊を向けて寝ている男の髪の毛を見ていた。
 あゝこのまゝ蒲団の口が締って、出られないようにしたら……。
 ――やい白状しろ!――なんて、こいつにピストルでも突きつけたら、此男は鼠のようにキリキリ舞いしてしまうだろう。
 お前は高が芝居者じゃあないか。インテリゲンチャのたいこもちになって、我々同志よ! もみっともない。
 私はもうお前にはあいそがつきてしまった。
 お前さんのその黒い鞄には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差出していたよ。
「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいゝけど……俺には俺の節操があるし。」
 私は男にとても甘い女です。
 その言葉を聞くと、サンサンと涙をこぼして、では街に出ましょうか。
 そして私は此四五日、働く家をみつけに、魚の腸のように疲れては帰って来ていたのに……此嘘突き男メ! 私はいつもお前が用心して鍵を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗いてみたのだよ。
 二千円の金額は、お前さんが我々プロレタリアと言っている程少くもなかろう。
 私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦らしくなった。
 二千円と、若い女優がありゃ、私だったら当分長生きが出来る。
 あゝ浮世は辛うごさりまする。
 こうして寝ているところは円満な御夫婦、冷い接吻はまっぴらだよ。
 お前の体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。
 お前はそんな女の情慾を抱いて、お務めに私の首に手を巻いてくる。
 どいておくれよッ!
 淫売でもした方が、気づかれがなくて、どんなにいゝか知れやしない。
 私は飛びおきると男の枕を蹴ってやった。嘘突きメ! 男は炭団のようにコナゴナに崩れていった。

 ランマンと花の咲き乱れた四月の空は赤旗だ、地球の外には、颯々として熱風が吹きこぼれて、オーイオーイ見えないよび声が四月の空に弾けている。
 飛び出してお出でよッ!
 誰も知らないところで働きましょう。茫々として霞の中に私は太い手を見た。真黒い腕を見た。

 四月×日
一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにしかされて……
 憎らしい私の煩悩よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。
鶏の生胆に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいたよ
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいた

臭い臭い夜だよ
誰も居なけりや泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました
あゝ真暗い頬かぶりの夜だよ。

 土を凝視めて歩いていると、しみじみ悲しくて、病犬のようにふるえて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。
 美しい街の舗道を今日も私は、――女を買ってくれないか、女を売ろう……と野良犬のように彷徨した。

 引き止めても引き止まらない、切れたがるきずなならば此男ともあっさり別れよう……。

 窓外の名も知らぬ大樹の、たわゝに咲きこぼれた白い花に、小さい白い蝶々が群れて、いゝ匂いがこぼれて来る。
 夕方、お月様に光った縁側に出て男の芝居のせりふを聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切って、私も大きな声で――どっかにいゝ男はいないか! とお月様に怒鳴りたくなった。
 此男の当り芸は、かつて芸術座の須磨子とやった剃刀と云う芝居だった。
 私は少女の頃、九州の芝居小屋で、此男の剃刀を見た事がある。
 須磨子のカチウシャもよかった。あれからもう大分時がたつ、此男も四十近い年だ。
「役者には、やっぱり役者のお上さんがいゝんですよ。」
 一人稽古をしている、灯に写った男の影を見ていると、やっぱり此男も可哀想だと思わずにはいられない。
 紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠のいてしまう。

「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻きのまゝあの男の宿へ忍んで行っていた。
 俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいゝ気持だった。」
 二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をする。
 私は圏外に置き忘れられた、一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ていると、此男とも駄目だよ……あまのじゃくがどっかで哄笑している。

 私は悲しくなると、足の裏がかゆくなる。一人でしゃべっている男のそばで、私はそっと、月に鏡をかたぶけて見た。
 眉を濃く引いた私の顔が渦のようにぐるぐる廻ってゆく、世界中が月夜のような明るさだったらいゝだろう――。
「ねえ、やっぱり別れましょうよ、何だか一人でいたくなったの……もうどうなってもいゝから一人で暮したい。」
 男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふきちぎって、別れと云う言葉の持つ一種淋しいセンチメンタルに、サメザメと涙を流して私を抱こうとする。
 これも他愛のないお芝居か、さあこれから忙がしくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、動坂の町へ走って出た。
 誰も彼も握手をしましょう、ワンタンの屋台に、首をつっこんで、まず支那酒をかたぶけて、私は味気ない男の接吻を吐き捨てた。

 四月×日
「じゃあ行って来ます。」
 街の四ツ角で、まるで他人よりも冷やかに、私も男も別れた。
 男は市民座と云う小さい素人劇をつくっていて、滝ノ川の小さい稽古場に毎日通っていた。

 私も今日から通いでお務めだ。
 男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛い、程のいゝ仕事よりもと、私のさがした職業は牛屋の女中さん。
「ロースあおり一丁願いますッ!」
 景気がいゝじゃないか、梯子段をトントン上って行くと、しみじみ美しい歌がうたいたくなる。
 広間に群れたどの顔も、面白いフィルムだ。
 肉皿を持って、梯子段を上がったり降りたり、私の前帯の中も、それに並行して少しずゝ[#「少しずゝ」はママ]ふくらんで来る。
 どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は甘味しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。
 だが上ったり降りたりで、いっぺんに私はへこたれてしまった。
「二三日すると、すぐ馴れてしまうわ。」
 女中頭の、髷に結ったお杉さんが、腰をトントン叩いている私を見て、慰さめてくれたりした。

 十二時になっても、此店は素晴らしい繁昌で、私は帰るのに気が気ではなかった。
 私とお満さんをのぞいては、皆住込みなので、平気で残った客にたかって、色々なものをねだっている。
「たあさん、私水菓子ね。……。」
「あら私かもなんよ……。」
 まるで野性の集りだ、笑っては食い笑っては食い無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。

 私がやっと店を出た時は、もう一時近くて、店の時計がおくれていたのか、市電はとっくになかった。
 神田から田端までの路のりを思うと、私はペシャペシャに座ってしまいたい程悲しかった。
 街の灯は狐火のように、一つ一つ消えて、仕方なく歩き出した私の目にも段々心細くうつって来た。
 上野公園下まで来ると、どうにも動けない程、山下が恐ろしくて、私は棒立ちになってしまった。
 雨気を含んだ風が吹いて、日本髪の両鬢を鳥のように羽ばたかして、私はしょんぼり、ハタハタと明滅する仁丹の広告灯にみいっていた。
 どんな人でもいゝから、山下を通る人があったら、道連れになってもらおう……私はぼんやり広小路を見た。
 こんなにも辛い思いをして、私はあいつに真実をつくさなければならないのだろうか? 不意にハッピを着て自転車に乗った人が、さっと煙のように過ぎた。
 何もかも投げ出したいような気持で、
「貴方は八重垣町の方へいらっしゃるんじゃあないんですかッ!」
と私は叫んだ。
「えゝそうです。」
「すみませんが、田端まで帰るんですけど、貴方のお出でになるところまで道連れになって戴けませんでしょうか?」
 今は一生懸命、私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがった。
「使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」
 もう何でもいゝ私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。
 しっかりとハッピの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、サメザメと涙をこぼした。
 無事に帰れますように……何かに祈らずにはいられなかった。
 夜目にも白く、染物とかいてある、ハッピの字を見て、ホッと安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなった。
 根津でその職人さんに別れると、又私は漂々とどゝいつを唱いながら路を急いだ。
 品物のように冷い男のそばへ……。

 四月×日
 国から、汐の香の高い蒲団を送って来た。
 フカフカとしたお陽様に照らされた縁側の上に、蒲団を干していると、父様よ母様よと口に出して唱いたくなる。

 今晩は市民座の公演会、男は早くから、化粧箱と着物を持って出かけてしまった。
 私は水をもらわない植木鉢のように干からびた情熱で、キラリキラリ二階の窓から、男のいそいそとした後姿を見てやった。

 夕方四谷の三輪会館に行くと、もういっぱいの人で、舞台は例の剃刀だった。
 男の弟は目ざとく私を見つけると、パチパチと目をまばたきさせて、――姉さんはなぜ楽屋に行かないの……人のいゝ大工をしている此弟の方は、兄とは全く別な世界に生きている人だった。
 舞台は乱暴な夫婦喧嘩だ。
 おゝあの女だ、いかにも得意らしくしゃべっているあいつの相手女優を見ていると、私は始めて女らしい嫉妬を感じずにはいられなかった。
 男はいつも着て寝る寝巻きを着ていた。今朝二寸程背がほころびていたのを私はわざとなおしてやらなかった。
 一人よがりの男なんてまっぴらだよ。
 私はくしゃみを何度も何度もつゞけると、ぷいと帰りたくなって、詩人の友達二三人と、温い外に出た。
 こんなにいゝ夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろう。

 四月×日
「僕が電報打ったら、じき帰っておいで。」ふん! 男はまだ嘘を云ってる、私はくやしいけど、十五円の金をもらうと、なつかしい停車場へ急いだ。
 潮の香のしみた故里へ帰るんだ、あゝ何もかも何もかも行ってくれ、私に用はない。
 男と私は精養軒の白い食卓につくと、日本料理でさゝやかな別宴を張った。
「私は当分あっちで遊ぶつもりよ。」
「僕はこうして別れたって、きっと君が恋いしくなるのはわかっているんだ、只どうにも仕様のない気持なんだよ今は、ほんとうにどうせき止めていゝかわからない程、呆然とした気持なんだよ。」
 あゝ夜だ夜だ夜だよ。
 何もいらない夜だよ、汽車に乗ったら煙草を吸いましょう。
 駅の売店で、青いバットを五ツ六ツ買い込むと、私は汽車の窓から、ほんとに冷い握手をした。
「さよなら、体を大事にしてね。」
「有難う……御機嫌よう……。」

 固く目をとじて、パッと瞼を開くと、せき止められていた涙が、あふれ出る。
 明石行きの三等車の隅ッ子に、荷物も何もない私は、足をのびのびと投げ出して涙の出るにまかせて、なつかしいバットの銀紙を開いた。
 途中で面白そうな土地があったら降りてやろうかな……私は頭の上にぶらさがった地図を、じっと見上げて、駅の名を読んだ。
 新らしい土地へ降りてみたいな、静岡にしようか、名古屋にしようか、だが、何だかそれも不安になって来る。
 暗い窓に凭れて、じっと暗い人家の灯を見ていると、ふっと私の顔が鏡を見ているようにはっきり写っている。

男とも別れだ
私の胸で子供達が赤い旗を振る
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振って暮らそう。

皆そうして飛び出してくれ
そして石を積んでくれ
そして私を胴上げして

石の城の上に乗せておくれ
さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しっかりしっかり旗を振ってくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。

 外は真暗闇、切れては走る窓の風景に、私は目も鼻も口もペッシャリとガラス窓にくっつけて、塩辛い干物のように張りついてしまった。

 私はいったい何処へ行くのかしら……駅々の物売りの声を聞くたびに、おびえた心で私は目を開く。
 あゝ生きる事がこんなにもむずかしいのなら、いっそ乞食にでもなって、全国を流浪して歩いたら面白いだろう、子供らしい空想にひたって、泣いたり笑ったり、又おどけたりふと窓を見ると、これは又奇妙な私の百面相だ。
 あゝこんな面白い生き方があったんだ、私はポンと固いクッションの上に飛び上ると、あく事もなく、なつかしくいじらしい自分の百面相に凝視ってしまった。
――一九二三・四――
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赤いスリッパ



 五月×日
私はお釈迦様に恋をしました
仄かに冷い唇に接吻すれば
おゝもったいない程の
痺れ心になりまする。

ピンからキリまで
もったいなさに
なだらかな血潮が
逆流しまする。

心憎いまで落ちつきはらった
その男振りに
すっかり私の魂はつられてしまいました。

お釈迦様!
あんまりつれないではござりませぬか!
蜂の巣のようにこわれた
私の心臓の中に……
お釈迦様
ナムアミダブツの無情を悟すのが
能でもありますまいに
その男振りで
炎のような私の胸に
飛びこんで下さりませ

俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱きしめて下さりませ
ナムアミダブツの
お釈迦様!
 妙に佗しい日だ、気の狂いそうな日だ。天気のせいかも知れない、朝から、降りしきってた雨が、夜になると風をまじえて、身も心も、突きさしそうにキリキリ迫って来る。こんな詩を書いて、壁に張りつけてみたものゝ私の心臓はいつものように、私を見くびって、ひどくおとなしい。
 ――スグコイカネイルカ
 蒼ぶくれのした電報用紙が、ヒラヒラ私の頭に浮かんで来る。
 馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたい程、切ない私だ。高松の宿屋で、あの男の電報を受け取って私は真実、嬉し涙を流して、はち切れそうな土産物を抱いて、この田端の家へ帰えって来た。
 半月もたゝないうちに又別居だ。
 私は二ヶ月分の間代を払らってもらうと、程のいゝ居座りで、男は金魚のように尾をヒラヒラさせて、本郷の下宿に越して行った。
 昨日も、出来上った洗濯物を一ぱい抱えて、私はまるで恋人に会いに行くようにいそいそと、あの下宿の広い梯子を上って行った。
 あゝ私はあの時から、飛行船が欲しくなった。
 灯のつき初めた、すがすがしい部屋に、私の胸に泣きすがったあの男が、桃割れに結った、あの女優と、魚の様にもつれあっている。水のように青っぽい匂いの流れてくる暗い廊下に、私は瞳にいっぱい涙をためて、初夏らしい、ハーモニカの音を耳にした。
 顔いっぱいが、いゝえ体いっぱいが、針金でつくった人形みたいに固くなって切なかったけれど……。
「やあ……。」私は子供のように天真に哄笑して、切ない瞳を、始終机の足に向けていた。

 あれから今日へ掛けての私は、もう無茶苦茶な世界への放浪だ。
「十五銭で接吻しておくれよ!」
と、酒場で駄々をこねたのも胸に残っている。
 男なんてくだらない!
 蹴散らして、蹈たくってやりたい怒に燃えて、ウイスキーも日本酒もちゃんぽんに呑み散らした、私の情けない姿が、こうして静かに雨の音を聞きながら、床の中にいると、いじらしく、憂鬱に浮かんで来る。今頃は、風でいっぱいふくらんだ蚊帳の中で、あの女優の首を抱えているであろう……と思うと、飛行船に乗って、バクレツダンを投げてやりたい気持ちだ。

 私は宿酔いと、空腹でヒョロヒョロする体を立たせて、ありったけの一升ばかりの米を土釜に入れて、井戸端に出た。
 下の人達は皆風呂に出たので、私はきがねもなく、大きい音をたてゝ米をサクサク洗った。雨にドブドブ濡れながら、只一筋にそっとはけて行く白い水の手ざわりを楽しんだ。

 六月×日
 朝。
 ほがらかなお天気だ。雨戸をくると、白い蝶々が、雪のように群れて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。
 雲があんなに、むくむくもれ上っている。ほんとにいゝ仕事をしなくちゃあ、火鉢にいっぱい散らかった煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の一人住いもいゝものだと思えた。朦朧とした気持ちも、この朝の青々とした空気を吸うと、元気になって来る。
 だが楽しみの郵便が、七ツ屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円四十銭の利子なんか抹殺してしまえだ!

 私は黄色の着物に、黒い帯を締めると、日傘をクルクル廻わして、幸福な娘のように街へ出た。例の通り古本屋への日参だ。
「叔父さん、今日は少し高く買って丁戴ね。少し遠くまで行くんですから……。」
 この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいゝ笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかゝえた。
「一番今流行る本なの、じき売れてよ。」
「へえ……スチルネルの自我論ですか、壱円で戴きます。」
 私は二枚の五拾銭銀貨を手のひらに載せると、両方の袂に一ツずつ入れて、まぶしい外に出ると、いつもの飯屋へ流れた。

 本当にいつになったら、あのこじんまりした食卓をかこんで、呑気に御飯が食べられるかしら。
 一ツ二ツの童話位では、満足に食ってゆけないし、と云ってカフェーなんかで働く事は、たわしのように荒んで来るし、男に食わせてもらう事は切ないし、やっぱり本を売っては、瞬間々々の私でしかないのだ。

 夕方風呂から帰って爪をきっていたら、画学生の吉田さんが遊びに来た。写生に行ったんだと云って、拾号の風景画をさげて、生々しい絵の具の匂いをぷんぷんたゞよわせていた。
 詩人の相川さんの紹介で知った切りで、別に好でも嫌でもなかったが、一度、二度、三度と来るのが重なると、一寸重荷のような気がしないでもなかった。
 紫色のシェードの下に、疲れたと云って寝ころんでいた吉田さんは、ころりと起きあがると、
――瞼、瞼、薄ら瞑った瞼を突いて、
   きゅっと抉ぐって両眼をあける。
   長崎の、長崎の
   人形つくりはおそろしや!
「こんな唄を知っていますか。白秋の詩ですよ。貴女を見ると、この詩を思い出すんです。」
 風鈴が、そっと私の心をなぶった。
 ヒヤヒヤとした縁端に足を投げ出していた私は、灯のそばにいざりよって男の胸に顔を寄せた。燃えるような息を聞いた。たくましい胸の激しい大波の中に、しばし私は石のように溺れていた。
 切ない悲しさだ。女の業なのだ。私の動脈は噴水の様にしぶいた。
 吉田さんは震えて沈黙っている。私は油絵の具の中にひそむ、あのエロチックな匂いを此時程嬉しく思った事はなかった。
 長い事、私達は情熱の克服に務めた。

 脊の高い吉田さんの影が門から消えると、私は蚊帳を胸に抱いたまゝ泣き濡れてしまった。あゝ私にはあまりに別れた男の思い出が生々しかったもの……私は別れた男の名を呼ぶと、まるで手におえない我まゝ娘のようにワッと声を上げた。

 六月×日
 今日は隣りの八畳の部屋に別れた男の友人の五十里さんが越して来る日だ。
 私は何故か、あの男の魂胆がありそうな気がして、不安だった。
 飯屋へ行く路、お地蔵様へ線香を買って上げる。帰って髪を洗うと、さっぱりした気持ちで、団子坂の静栄さんの下宿へ行く。
「二人」と云う詩のパンフレットが出来ている筈だったので元気で坂をかけ上った。
 窓の青いカーテンをそっとめくって、いつものように窓へ凭れて静栄さんと話をした。この人はいつ見ても若い。房々とした断髪をかしげて、色っぽい瞳をサンゼンと輝やかす。
 夕方、静栄さんと二人、印刷屋へパンフレットを取りに行く。八頁だけど、まるで果実のように新鮮で、好ましかった。
 帰えり南天堂によって、皆に一部ずゝ[#「一部ずゝ」はママ]送る。
 働いて、此パンフレットを長く続かせたい。
 冷いコーヒーを呑んでいる肩を叩いて、辻潤さんが、鉢巻をゆるめながら、賛詞をあびせてくれた。
「とてもいゝものを出しましたね、お続けなさいよ。」
 漂々たる酒人辻潤さんの酔体に微笑を送り、私も静栄さんも元気に外へ出た。

 六月×日
 種まく人たちが、今度文芸戦線と云う雑誌を出すからと云うので、私はセルロイド玩具の色塗りに通っていた、小さな工場の事を詩にして、「工女の唄へる」と云うのを出しておいた。今日は都新聞に別れた男への私の詩が載っていた。もうこんな詩なんて止めよう、くだらない。もっともっと勉強して、生のいゝ私の詩を書こう。
 夕方から銀座の松月へ行く、ドンの詩の展覧会、私の下手な字が、麗々しく先頭をかざっている。橋爪氏に会う。

 六月×日
 雨がザ…………葉っぱに当っている。
陽春二三月   楊柳斉作
春風一夜入閨闥 楊花飄蕩落南家
情出戸脚無力 拾得楊花涙沾
秋去春来双燕子 願銜楊花※(「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2-83-21)[#「※(「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2-83-21)裏」はママ]
 灯の下に横座りになりながら、白花を恋した霊太后の詩を読んでいると、つくづく旅が恋いしくなった。
 五十里さんは引っ越して来てから、いつも帰えりは、夜更けの一時過ぎ、下の人は務め人なので、九時頃には寝てしまう。
 時々田端の駅を通過する電車や汽車の音が汐鳴りのように聞える丈で、山住いのような静かさだ。
 つくづく一人が淋しくなった。
 楊白花のように美しい男が欲しくなった。
 本を伏せると、焦々した私は下に降りて行った。
「今頃どこへ!」下の叔母さんは裁縫の手を休めて私を見る。
「割引きです。」
「元気がいゝのね……。」
 蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行った。
 ヤングラジャ、私は割引きのヤングラジャに恋心を感じた。太鼓船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。
 だが、所詮はどこへ行っても淋しい一人身。小屋が閉まると、私は又溝鼠のように塩たれて部屋へ帰った。
「誰かお客さんのようでしたが……。」
 叔母さんの寝ぼけた声を脊に、疲れて上って来ると、吉田さんが、紙を円めながらポケットへ入れていた。
「おそく上って済みません。」
「いゝえ、私活動へ行って来たのよ。」
「あんまりおそいんで、置手紙をしてたとこなんです。」
 別に話もない赤の他人なんだけど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。鴨居につかえそうに脊の高い、吉田さんを見ていると、タジタジと圧されそうになる。
「随分雨が降るのね……。」
 この位白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか、爆発しそうで恐ろしかった。
 壁に脊を凭せて、彼の人はじっと私の顔を凝視めて来た。私は、此人が好で好でたまらなくなりそうに思えて困ってしまった。
 だけど、私はあの男でもうこりごりしている。
 私は温なしく、両手を机の上にのせて、白い原稿用紙に照り返えった、灯の光りに瞳を走らせていた。私の両の手先きが、ドクドク震えている。
 一本の棒を二人で一生懸命押しあった。
 あゝそんな瞳をなさると、とても私はもろい女でございます。愛情に飢えている私は、胸の奥が、擽ぐったくジンジン鳴っている。
「貴女は私を嬲っているんじゃないんですか?」
「どうして!」
 何と云う間の抜けた受太刀だろう。
 接吻一ツしたわけではなし、私の生々しい感傷の中へ、巻き込まれていらっしゃるきりじゃありませんか……私は口の内につぶやきながら、此男をこのまゝこさせなくするのも一寸淋しい気がした。
 あゝ友人が欲しい。こうした優しさを持ったお友達が欲しいのだけれど……私はポタポタと涙があふれた。

 いっその事、ひと思いに殺されてしまいたい。彼の人は私を睨み殺すのかも知れない。生唾が、ゴクゴク舌の上を走る。
「許して下さい!」
 泣き伏す事は、一層彼の人の胸をあおりたてるようだったけれど、私は自分がみじめに思えて仕方がなかった、別れた男との幾月かを送った此部屋の中に、色々な幻が泳いでいて私をたまらなくした。
 ――引越さなくちゃあ、とてもたまらない。私は机に伏さったまゝ郊外のさわやかな夏影色を[#「夏影色を」はママ]、グルグル頭に描いてみた。
 雨の情熱はいっそう高まって来た。

「僕を愛して下さい、だまって僕を愛して下さい!」
「だからだまって、私も愛しているではありませんか……。」
 せめて手を振る事によってこの青年の胸が癒されるならば……。
 私はもう男に放浪する事は恐ろしい。貞操のない私の体だけど、まだどこかに、一生を託す男が出てこないとも限らない。
 でも此人は、新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸・青い眉・太陽のような瞳。あゝ私は激流のようなはげしさで、二枚の唇を、彼の人の唇に押しつけてしまった。

 六月×日
 淋しく候。
 くだらなく候。
 金が欲しく候。
 北海道あたりの、アカシアのプンプン香る並樹舗を、一人できまゝに歩いてみたい。

「起きましたか!」
 珍らしく五十里さんの声。
「えゝ起きてます。」
 日曜なので、五十里さんと静栄さんと、吉祥寺の宮崎さんのアメチョコハウスに行く。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が遊びに来た。私は此人と会うのは二度目だ。
 私がおさない頃、近松さんの家に女書生にはいってた時、此人は茫々とした姿で、牛の画を売りに来た事がある。子供さんがジフテリヤで、大変佗し気な風才だった[#「風才だった」はママ]。靴をそろえる時、まるで河馬の口みたいに靴の底が離れていた。私は小さい針を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。
 きっと気がつかなかったのかも知れない。
 上野山さんは漂々と酒を呑みよく話した。
 夜、上野山氏は一人で帰って行った。

地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片方飛んでしまった

淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか

臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいゝ
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいてるスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたい
 落ちつかない寝床の中で、私はこんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴る。

――日記が転々と飛びますが、その月の雑誌にしっくりしたものを抜いて書いておりますので、後日、一冊の本にする時もありましたならば、順序よくまとめて出したいと思っております。
――筆者――
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粗忽者の涙



 五月×日
 世界は星と人とより成る。

 嘘つけ! エミイル、※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルハァレンの世界と云う詩を読んでいるとこんなくだらない事が書いてある。
 何もかもあくびいっぱいの大空に、私はこの小心者の詩人をケイベツしてやろう。

 人よ、攀ぢ難いあの山がいかに高いとても、
飛躍の念さへ切ならば、
恐れるなかれ不可能の、
金の駿馬をせめたてよ。
 実につまらない詩だが、才子と見えて、実に巧い言葉を知っている。
金の駿馬をせめたてよ…………。

 窓を横ぎって、紅い風船が飛んで行く。
 呆然たり、呆然たり、呆然たりか……。何と住みにくい浮世でござりましょう。

 故郷より手紙来る。
 ――現金主義になって、自分の口すぎ位いはこっちに心配かけないでくれ、才と云うものに自惚れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。
 五円の為替を膝において、おありがとうござります
 私はなさけなくなって、遠い古里へ舌を出した。

 六月×日
 前の屍室に、今夜は青い灯がついている。又兵隊さんが一人死んだ。
 青い窓の灯を横ぎって、通夜する兵隊さんの影が、二ツぼんやりうつっている。

「あら! 蛍が飛んどる。」
 井戸端で黒島さんの妻君が、ぼんやり空を見ている。
「ほんとう?」
 寝そべっていた私も縁端に出てみたが、もう何も見えなかった。
 夜。
 隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに来る。
 壺井さん曰く、
 ――今日はとても面白かった。黒島君と二人で市場へ、盥を買いに行ったら、金もはらわないのに、三円いくらのつり銭とたらいをくれて一寸ドキッとしたね。
「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの飢ゑと云う小説の中にも、蝋燭を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をたゞでもらって来るところがありましたね。」
 私も夫も、壺井さんの話は非常にうらやましかった。

 梟の鳴いている、憂欝な森陰に、泥沼に浮いた船のように、何と淋しい長屋だろう。
 屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」
たけのこ盗みに行くか……。」
 三人の男たちは路の向うの、竹籔を背にしている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこ盗みに出掛けて行った。

 女達は街の灯を見たかったけれど、あきらめて、太子堂の縁日を歩いた。
 竹籔の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水の様に薫じていた。

 六月×日
 ほがらかな空なので、丘の上の絹のような緑を恋いして、久し振りに、貧しい女と男は散歩に出る話をした。
 鍵を締めて、一足おくれて出ると、どっちへ行ったものか、男の蔭は見えない。
 焦々して、陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしたが、随分おかしな話である。
 あざみの茎のように怒りたった男は、私の背をはげしく突くと閉ざした家へはしってしまった。
「オイ! 鍵を投げろッ!」
 又か……私は泥棒猫のように、台所からはいると、男はいきなり、たわしや茶碗を私の胸に投げつける。

 あ、この瓢軽な粗忽者を、そんなにも貴方は憎いと云うのか……私はしょんぼり井戸端に立って、蒼い雲を見た。
 右へ行く路が、左へまちがったからって、馬鹿だねえと云う一言ですむではないか。
 私は自分の淋しい影を見ていると、ふっと小学校時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にもうつっているあの不思議な世界のあった頃を思い出して、高々とした空を私は見上げた。
 悲しい涙が湧きあふれて、私は地べたへしゃがむと、カイロの水売りのような郷愁の唄をうたいたくなった。

 あゝ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなんだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。
 前垂れを掛けたまゝ竹籔や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、ポッポッ! ポッポッ! 蒸汽船のような音がする。
 あゝ尾の道の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りた。
 そこは交番の横の工場のモーターが唸っているきりで、がらんとした広っぱ。
 三宿の停留場に、しばし私は電車に乗る人のように立っていたが、お腹がすいて、めがまいそうだった。
「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か御心配ごとでもあるのではありませんか。」
 今さきから、じろじろ私を見ていた、二人の老婆が馴々しく近よると私の身体を四つの瞳で洗うように見た。
 笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切なお婆さんは、ゆるゆる歩きだすと、信仰の強さについて、足の曲った人が歩けるようになったとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、天理教の話をしてくれた。

 川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、紅葉の青葉が、塀の外にふきこぼれていた。
 二人の婆さんは神前に額ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊りを始めだした。

「お国はどちらでいらっしゃいますか?」
 白い着物をきた中年の男が、私にアンパンと茶をすゝめながら、私の佗しい姿を見た。
「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」
「ホウ……随分遠いんですなあ……。」
 私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを摘んで、一口噛むと、案外固くって、粉がボロボロ膝にこぼれ落ちていった。
 何もない。
 何も考える必要はない。
 私はつと立って神前に額ずくと、プイと下駄をはいて表へ出てしまった。
 パン屑が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいゝ。只口の中に味覚があればいゝのだ。
 家の前へ行くと、あの男と同じ様に固く玄関は口をつぐんでいる。
 私は壺井さんの家へ行くと、はろばろと足を投げ出して横になった。
「お宅に少しお米ありませんか?」
 人のいゝ壺井さんの妻君もへこたれて、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持って、生きる事が厭になってしまったわと云う話になってしまった。
「たい子さんとこ、信州から米が来たって云ってたから、あそこへ行ってみましょう。」
「そりゃあ、えゝなあ……。」
 そばにいた伝治さんの妻君は両手を打って子供のように喜ぶ。真実いとしい人だ。

 六月×日
 久し振りに東京へ出る。
 新潮社で加藤さんに会う。詩の稿料六円戴く。
 いつも目をつぶって通る、神楽坂も今日は素的に楽しい街になって、店の一ツ一ツを覗いて通る。

隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
画いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいものだと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる

両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛いゝ女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。

血をふいて悶死したって
ビクともする大地ではないんです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間は何とまあ
ピアノのように軽やかに美しいのでしょう

そこで始めて
神様コンチクショウと吐鳴りたくなります。

 長い電車に押されると、又何の慰さめもない家へ帰えらなければならない。
 詩を書く事がたった一つのよき慰さめ。
 夜飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに来る。
俺んとこの
あの美しい
ケッコ ケッコ鳴くのが
ほしいんだろう……
 壺井さんとこで、豆御飯をもらう。

 六月×日
 今夜は太子堂のおまつり。
 家の縁から、前の広場の相撲場がよく見えるので、皆集って見る。
「西! 前田河ア」
と云う行司の呼ぶ声に、縁側に爪先立っていた私達はドッと吹き出して哄笑した。
 知った人の名前なんか呼ばれると、とてもおかしくて堪らない。
 貧乏していると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまう。
 みんなよく話をした。
 怪談なんかに話が飛ぶと、たい子さんは千葉の海岸で見た人魂の話をよくした。
 この人は山国の生れか非常に美しい肌をもっている。やっぱり男に苦労する人だ。
 夜更け一時過ぎまで花弄をする。

 六月×日
 萩原さん遊びに来る。
 酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団一枚屑屋に壱円五拾銭で売る。
 お米がたりなかったので、うどんの玉をかってみんなで食べる。

 酒の代りに焼酎を買って来る。
平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
反共産を主義とせりけり

酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。

 あゝ若人よ! いゝじゃないか、いゝじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつゝき焼酎を呑んだ。

 その夜、萩原さんを皆と一緒におくって行った夫が帰えって来ると、蚊帳がないので、部屋を締め切って、蚊取り線香をつけて寝につくと、
「オーイ起ろ起ろ!」ドタドタと大勢の足音がして、麦ふみのように地ひゞきが頭にひゞく。
「寝たふりをするなよお……。」
「起きているんだろう。」
「起きないと火をつけるぞ!」
「オイ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ起きないかい……。」
 飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞える。
 私は笑いながら沈黙っていた。

 七月×日
 朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。
 元野子爵夫人が、不良少年少女の救済をすると云うので、円満な写真が新聞に載っていた。
 あゝこんな人にでもすがってみたなら、何とか、どうにか、自分の行く道が開けはしないかしら……私も少しは不良じみているし、まだ廿二だもの、不良少女か、私は元気を出して飛びおきると、新聞に載っている元野夫人の住所を切り抜いて私は麻布のそのお邸へ出掛けて行った。

 折目がついていても浴衣は浴衣だけど、私は胸を空想で、いっぱいふくらませていた。
「パンおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいますか?」
 どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、
「一寸おめにかゝりたいと思いまして……。」
「そうですか、今愛国婦人会の方ですが、すぐお帰えりですから。」
 女中さんに案内されて、六角のように突き出た窓ぎわのソファーに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭にみいっていた。
 蒼っぽいカーテンを通して、風までが高慢にふくらんではいって来る。
「何う云う御用で……。」
 やがてずんぐりした夫人は、蝉のように薄い黒い夏羽織を着てはいって来た。
「あのお先きにお風呂をお召しになりませんか……。」
 どうも大したものだ、私は不良少女だって云う事が厭になって夫が肺病で困っていますから、少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云った。
「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業にお手助けしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさっては……。」
 程よく埃のように外にほうり出されると、彼女が、眉をさかだてなぜあの様な者を上へ上げましたッ! と女中を叱っているであろう事を思い浮べて、ツバキをひっかけてやりたくなった。
 ヘエ! 何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。

 夕方になると、朝から何も食べない二人は暗い部屋にうずくまって、当のない原稿を書いた。
「ねえ、洋食を食べない……。」
「ヘエ!」
「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝まで金を取りにこないでしょう。」

 始めて肉の匂をかぎ、ジュンジュンした油をなめると、めまいがしそうに嬉しくなる。
 一口位いは残しておかなくちゃ変よ、腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は思想に青い芽をふかす。
 全く鼠も出ない有様なんだから――。

 蜜柑箱の机に凭れて童話をかき始める。
 外は雨の音、玉川の方で、ポンポン絶え間なく鉄砲を打つ音がする。深夜だと云うのに、元気のいゝ事だ。
 だが、いつまでも、こんな虫みたいな生活が続くのかしら、うつむいて子供の無邪気な物語りを書いていると。つい目頭が熱くなる。

 イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて、白いおまんまが食えそうもないね。
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女の吸殻



 七月×日
丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です

真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
あゝ何と云う生きる事のむつかしさ
食べると云う事のむつかしさ

そこで私は
貧しい袂を胸にあわせて
古里に養われていた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。

 この老松の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私は野良犬のように歩いた。
 久さし振りに、私の胸にエプロンもない。お白粉もうすい。
 日午傘[#「日午傘」はママ]くるくる廻わしながら、私は古里を思い出し、丘のあの松の木を思い浮べた。

 下宿にかえると、男の部屋には、大きな本箱がふえていた。
 女房をカフェーに働かして、自分はこんな本箱を買ってござる。
 いつものように弐拾円ばかりの金は、原稿用紙の下に入れると、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを見てみる。

「あのお手紙でございます。」
 女中が持って来た手紙を見ると、六銭切手をはった、かなり厚い女の封書。
 私は妙に爪を噛みながら、只ならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い、女の手紙の束をみつけ出した。
 ――やっぱり温泉がいゝわね、とか。
 ――あなたの紗和子より、とか。
 ――あの夜泊ってからの私は、とか。
 私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。

 二人の間はかなり進んでいるらしい。温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけど、貴女も少しつくって下さい、と書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやった。
 原稿用紙の下にしいた弐拾円の金を袂に入れると、涙をふりちぎって外に出た。

 あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく、詩や小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりじゃなかったか。
 豚!
 インバイ!
 あらゆるのゝしりを男の筆の上に見た。
 私は、肺病で狂人じみている、その不幸な男の為に、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた……」と、唄わなくちゃあならないのだ。
 夕暮れの涼しい風をうけて、若松町の通りを歩いていると、新宿のカフェーにかえる気もしなかった。
 ヘエ! 使い果して二分残るか、ふっとこんな言葉が思い出された。

「貴方! 私と一緒に温泉に行かない。」
 私があんまり酔っぱらったので、その夜時ちゃんは淋しい瞳をして私を見ていた。

 七月×日
 あゝ人生いたるところに青山ありだよ、男から佗びの手紙来る。

 夜。
 時ちゃんのお母さん来る。五円借す。
 チュウインガムを噛むより味気ない世の中、何もかもが吸殻のようになってしまった。
 貯金でもして、久し振りにお母さんの顔でもみてこようかしら。
 私はコック場へ行くついでにウイスキーを盗んで呑んだ。

 七月×日
 魚屋のように淋しい寝ざめ。四人の女は、ドロドロに崩れた白い液体のように、一切を休めて眠っている。私は枕元の煙草をくゆらしながら、投げ出された時ちゃんの腕を見ていた。
 まだ十七で肌が桃色していた。
 お母さんは雑色で氷屋をしていたが、お父つぁんが病気なので、二三日おきに時ちゃんのところへ裏口から金を取りに来た。

 カーテンもない青い空を映した窓ガラスを見ていると、西洋支那御料理の赤い旗が、まるで私のように、ヘラヘラ風に膨らんでいる。
 カフェーに務めるようになると、男に抱いていたイリュウジョンが夢のように消えて、皆一山いくらに品がさがってみえる。
 別にもうあの男に稼いでやる必要もない故、久し振りに故里の汐っぱい風を浴びようかしら。あゝでも可哀想なあの人よ。

それはどろどろの街路であった
こわれた自動車のように私はつっ立っている
今度こそ身売りをして金をこしらえ
皆を喜こばせてやろうと
今朝はるばると幾十日目で又東京へ帰えって来たのではないか

どこをさがしたって買ってくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな丼を食べたらもう死んでもいゝと云った
今朝の男の言葉を思い出して
私はサンサンと涙をこぼしました

男は下宿だし
私が居れば宿料がかさむし
私は豚のように臭みをかぎながら
カフェーからカフェーを歩きまわった

愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
縁遠いような気がします

叫ぶ勇気もない故
死にたいと思ってもその元気もない
私の裾にまつわってじゃれていた小猫のオテクさんはどうしたろう……
時計屋のかざり窓に私は女泥棒になった目つきをしてみようと思いました。
何とうわべばかりの人間がウヨウヨしている事よ

肺病は馬の糞汁を呑むとなおるって
辛い辛い男に呑ませるのは
心中ってどんなものだろう

金だ金だ
金は天下のまわりものだって云うけど
私は働いても働いてもまわってこない

何とかキセキはあらわれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働いている金はどこへ逃げて行くのか

そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフェーだの女中だの女工だのボロカス女になり
私は働き死にしなければならないのか!

病にひがんだ男は
お前は赤い豚だと云います

矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪るい男や女の前に
芙美子さんの膓を見せてやりたい。

 かつて、貴方があんまり私を邪慳にするので、私はこんな詩を雑誌にかいて貴方にむくいた事がある。
 浮いた稼ぎなので、焦々しているのだと善意にカイシャクしていた大馬鹿者の私です。

 そうだ、帰えれる位はあるのだから、汽車に乗ってみようかな。
 あの快速船のしぶきもいゝじゃないか、人参灯台の朱色や、青い海、ツヽンツンだ。
 夜汽車、夜汽車、誰も見送りのない私は、スイッとお葬式のような悲しさで、何度も不幸な目に逢て乗る東海道線に身をまかせた。

 七月×日
「神戸にでも降りてみようかしら、何か面白い仕事が転がってやしないかな……。」
 明石行きの三等車は、神戸で降りてしまう人達ばかりだった。
 私もバスケットを降ろしたり、食べ残りのお弁当を大切にしまったりして、何だか気がかりな気持ちで神戸駅に降りてしまった。
「これで又仕事がなくて食えなきぁ、ヒンケマンじゃないか、汚れた世界の罪だよ。」

 暑い陽ざしだ。
 だが私には、アイスクリームも、氷も用はない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄ろい汚れた鏡に、みずひき草のように淋しい姿を写して見た。
 さあ矢でも鉄砲でも飛んでこいだ。
 別に当もない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、楠公さんの方へブラブラ歩いていた。
 古ぼけたバスケット。
 静脈の折れた日傘。
 煙草の吸殻よりも味気ない女。
 私の戦闘準備はたったこれだけでござります。
 砂ほこりの楠公さんの境内は、おきまりの鳩と絵ハガキ屋。
 私は水の枯れた六角の噴水の石に腰を降ろして、日傘で風を呼びながら、汐っぱい青い空を見た。あんまりお天陽様が強いので、何もかもむき出しにぐんにゃりしている。

 何年昔になるだろう――
 十五位の時だったかしら、私はトルコ人の楽器屋に奉公していたのを思い出した。
 ニィーナという二ツになる女の子の守りで、黒いゴム輪の腰高な乳母車に、よく乗っけてメリケン波止場の方を歩いたものだった。

 クク……クク……鳩が足元近かく寄って来る。
 人生鳩に生れるべし。
 私は、東京の男の事を思い出して、涙があふれた。
 一生たったとて、私が何千円、何百円、何拾円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るだろうか、私を可愛がって下さる行商してお母さんを養っている気の毒なお義父さんを慰さめてあげる事が出来るだろうか! 何も満足に出来ない女、男に放浪し職業に放浪する私、あゝ全く頭が痛くなる話だ。

「もし、あんたはん! 暑うおまっしゃろ、こっちゃいおはいりな……。」
 噴水の横の鳩の豆を売るお婆さんが、豚小屋のような店から声をかけてくれた。
 私は人なつっこい笑顔で、お婆さんの親切に報いるべく、頭のつかえそうな、アンペラ張りの店へはいって行った。
 文字通り、それは小屋で、バスケットに腰をかけると、豆くさいけれど、それでも涼しかった。
 ふやけた大豆が石油鑵の中につけてあった。
 ガラスの蓋をした二ツの箱には、おみくじや、固い昆布がはいっていて、いっぱいほこりをかぶっていた。
「お婆さん、その豆一皿ください。」
 五銭の白銅を置くと、しなびた手でお婆さんは私の手をはらった。
「ぜゞなぞほっとき。」
 此お婆さんにいくつですと聞くと、七十六だと云った。
 虫の食ったおヒナ様のようにしおらしい。
「東京はもう地震はなおりましたかいな。」
 歯のないお婆さんはきんちゃくをしぼったような口をして、優さしい表情をする。
「お婆さんお上り。」
 私がバスケットから、お弁当を出すと、お婆さんはニコニコして、玉子焼きを口にふくらます。

「お婆あはん、暑うおまんなあ。」
 お婆さんの友達らしく、腰のしゃんとしたみすぼらしい老婆が、店の前にしゃがむと、
「お婆あはん、何ぞえゝ、仕事ありまへんやろかな、でもな、あんまりぶらぶらしてますよって、会長はんも、えゝ顔しやはらへんのでなあ、なんぞ思うてまんねえ……。」
「そうやなあ、栄町の宿屋はんやけど、蒲団の洗濯があるいうてましたけんど、なんぼう……廿銭も出すやろか……。」
「そりやえゝなあ、二枚洗ろうてもわて食えますがな……。」
 こだわりのない二人のお婆さんを見ていると、こんなところにもこんな世界があるのかと、淋しくなった。

 とうとう夜になってしまった。
 港の灯のつきそめる頃は、真実そゞろ心になってしまう。でも朝から、汗をふくんでいる着物の私は、ワッと泣たい程切なかった。
 これでもへこたれないか! これでもか! 何かゞ頭をおさえているようで、私はまだまだ、と口につぶやきながら、当もなく軒をひらって歩いていると、バスケット姿が、オイチニイの薬屋よりもはかなく思えた。
 お婆さんに聞いた商人宿はじきわかった。
 全く国へ帰っても仕様のない私なのだ、お婆さんが、御飯焚きならあると云ったけれど。――
 海岸通りに出ると、チッチッと舌を鳴らして行く船員の群が多かった。
 船乗りは意気で勇ましくていゝなあ――
 私は商人宿とかいてある行灯をみつけると、ジンと耳を熱くしながら、宿代を聞きにはいった。
 親切そうなお上さんが、帳場にいて、泊りだけなら六十銭でいゝと、旅心をいたわるように「おあがりやす」と云ってくれた。

 三畳の壁の青いのが、変に淋しかったが、朝からの浴衣を着物にきかえると、宿のお上さんに教わって、近所の銭湯に行った。
 旅と云うものはおそろしいようで、肩のはらないもの。
 女達は、まるで蓮の花のように小さい湯舟を囲んで、珍らしい言葉でしゃべっている。
 旅の銭湯にはいって、元気な顔をしているが、あの青い壁に押されて寝る今夜の夢を思うと、私はふっと悲しくなった。

 七月×日
坊さん簪買ふたと云うた……
 窓の下を人夫達が土佐節を唄いながら通って行く。
 ランマンと吹く風に、波のように蚊屋が吹きあげて、まことに楽しみな朝の寝ざめ、郷愁をおびた土佐節を聞いていると、高松のあの港が恋いしくなった。
 私の思い出に何の汚れもない四国の古里、やっぱり帰えろうかなあ……御飯焚きになってみたとこで仕用がないし……。
 オイ馬鹿!
 メス!
 赤豚!
 別れて来た男のバリゾウゴンを、私は唄のように天井に投げとばして、バットを深々と吸った。
「オーイ、オーイ」船員達が呼びあっている。

 私は宿のお上さんに頼んで、岡山行きの途中下車の切符を、除虫菊の仲買の人に壱円で買ってもらうと、私は兵庫から、高松行きの船に乗る事にした。
 元気を出して、どんな場合にでも、へこたれてはならない。

 小さな店屋で、瓦煎餅を一箱買うと、私は古ぼけた、兵庫の船宿で、高松行きの三等切符をかった。やっぱり国へかえりましょう。
 透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となって、早く帰っておいでと呼んでいる。
 不幸な娘でございます。
 汚れたハンカチーフに、氷のカチ割りを包んで、私は頬に押し当てた。子供らしく子供らしく、すべては天真ランマンと世間を渡りましょう。
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下谷の家



 一月×日
 カフェーで酔客にもらった指輪が、思いがけなく役立って、拾三円で質に入れると、私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。
 古道具屋で、箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃えると、あと半月分あまりの間代を入れるのが、せいいっぱい。
 原稿用紙も買えない。
 拾三円の金の他愛なさよ。

 白い息を吹きながら、二人が重い荷を両方から引っぱって帰った時は、十時近かった。
「芙美ちゃん! 前のうち小唄の師匠よ、ホラ……いゝわね。」

傘さして
かざすや廓の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫にほふ江戸の春

 目と鼻の露路向うの二階屋から、沈みすぎる程、いゝ三味線の音〆、細目にあけた雨戸の蔭には、灯に明るい、障子のこまかいサンが見える。
「お風呂明日にして寝ましょう……上蒲団借りた?」
 時ちゃんはピシャリと障子を締めた。

 敷蒲団はたいさんと私と一緒の時代のが、たいさんが小堀さんとこへお嫁に行ったので残っていた。
 あの人は鍋も、包丁も敷蒲団も置いて行ってしまった。
 一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を思い出した、同居の軍人上りや、二階でおしめを洗ったその妻君や、人のいゝ酒屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出して読もう――。
「どうしたかしらたい子さん!」
「今度こそ幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウな人だそうだから、誰が来ても負けないわ……。」
「いつか遊びに連れて行ってね。」
「あゝ……。」

 二人は、下の叔母さんから借りた上蒲団をかぶって日記をつけた。
 一、拾参円の内より
茶ブ台      壱円。
箱火鉢      壱円。
シクラメン一鉢  卅五銭。
飯茶わん     弐拾銭  二箇。
吸物わん     参拾銭  二箇。
ワサビヅケ    五銭。
沢庵       拾壱銭。
箸        五銭   五人前。
茶呑道具 盆つき 壱円拾銭。
桃太郎の蓋物   拾五銭。
皿        弐拾銭  二枚。
間代日割り    六円。  ((三畳九円))
火箸       拾銭。
餅網       拾弐銭。
ニームのつゆ杓子 拾銭。
御飯杓子     参銭。
花紙一束     弐拾銭。
肌色美顔水    弐拾八銭。
御神酒      弐拾五銭 一合。
引越し蕎麦    参拾銭  下へ。
 一、壱円弐拾六銭 残金。

「心細いなあ……。」
 私は鉛筆のしんで頬っぺたを突きながら、つんと鼻の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。
「炭は?」
「炭は、下の叔母さんが取りつけの所から月末払らいで取ってやるってさ。」
 時ちゃんは安心したように、銀杏返えしの鬢を細い指で持ち上げて、私の脊に手を巻いた。
「大丈夫ってばさ、明日から、うんと働らくから芙美ちゃん元気を出して勉強して。浅草を止めて、日比谷あたりのカフェーなら通いでいゝだろうと思うの酒の客が多いんだって……。」
「通いだと二人とも楽しみよ、一人じゃ御飯もおいしくないね。」

 私は煩雑だった今日の日を思った。

 萩原さんとこのお節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描きの溝口さんは、折角北海道から送って来たと云う、餅を風呂敷に分けてくれたり、指輪を質へ持って行ってくれたり。
「当分二人でみっしり働こうね。ほんとに元気を出して……。」
「雑色のお母さんのところへは参拾円も送ればいゝんだから。」
「私も少し位は原稿料がはいるんだから、沈黙って働けばいゝのね。」
 雪の音かしら、窓に何かサヽヽヽと当っている。
「シクラメンって厭な匂いだ。」
 時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪も櫛も抜いて、「さあ寝んねおしよ。」
 暗い部屋の中で、花の匂いだけが、強く私達をなやませた。

 一月×日
積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかはたれに……
 時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に、白い素足が並んでいた。
「もう起きたの……。」
「雪が降ってるよ。」
 起きると、湯もたぎって、窓外の板の上で、御飯もグツグツ白く吹きこぼれていた。
「炭もう来たの……。」
「下の叔母さんに借りたのよ。」
 いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。
 久し振りに、猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない長閑なお茶を呑む。
「やまと舘の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」
 時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざす。
「こんなに雪が降っても出掛ける?」
「うん。」
「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう、童話がいってるから。」
「もらえたら、熱いものしといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなるよ。」
 始めて、隣りの六畳間の古着屋さん夫婦にもあいさつをする。
 鳶の頭をしていると云う、下のお上さんの旦那にも会う。
 皆、歯ぎれがよくて下町人らしい。
「前は道路へ面していたんですよ、でも火事があって、こんなとこへ引っこんじゃって……前はお妾さん、露路のつきあたりは清元でこれは男の師匠でしてね、やかましいには、やかましゅうござんすがね……。」
 私はおはぐろで歯をそめているお上さんを珍らしく見た。
「お妾さんか、道理で一寸見たけどいゝ女だったよ。」
「でも下の叔母さんが、あんたの事を、此近所には一寸居ない、いゝ娘ですってさ。」

 二人は同じような銀杏返しをならべて雪の町へ出た。
 雪はまるで、気の抜けた泡のように、目も鼻もおおい隠そうとする程、元気に降っていた。
「金もうけは辛いね。」
 ドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじに、傘をクルクルまわして歩いた。
 どの窓にも灯のついている八重洲の通りは、紫や、紅のコートを着た、務めする女の人達が、やっぱり雪にさからっている。
 コートも着ない私の袖は、ぐっしょり濡れてしまって、みじめなヒキ蛙。
 白木さんはお帰えりになった後か、そうれ見ろ!
 これだから、やっぱりカフェーで働くと云うのに、時ちゃんは勉強しろと云う。広い受付けに、このみじめな女は、かすれた文字をつらねて、困っておりますからとおきまりの置手紙を書いた。
 だが時事のドアーは面白いな、クルリクルリ、水車、クルリと二度押すと、前へ逆もどり、郵便屋が笑っていた。
 何と小さき人間達よ、ビルデングを見上げると、お前なんか一人生きてたって、死んだって同じじゃないかと云う。
 だが、あのビルデングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。
 ナリキンになるなんて、云ってやったら、邪けんな親類も、冷たい友人も、驚くだろう。

 あさましや芙美子
 消えてしまえ。

 時ちゃんは、かじかんで、この雪の中を野良犬のように歩いているんだろうに――

 二月×日
 あゝ今晩も待ち呆け。
 箱火鉢で茶をあたゝめて、時間はずれの御飯をたべる。
 もう一時すぎなのになあ――。
 昨夜は二時、おとゝいは一時半、いつも十二時半にはきちんと帰えっていた人が、時ちゃんに限って、そんな事もないだろうけれど……。
 茶ブ台の上には、若草への原稿が二三枚散らばっている。
 もう家には拾壱銭しかないのだ。
 きちんきちんと、私にしまわせていた拾円たらずのお金を、いつの間にか持って出てしまって、昨日も聞きそこなってしまったが。

 蒸してはおろし、蒸してはおろしするので、御飯はビチャビチャしていた。浜鍋の味噌も固くなってしまった。インガな人だなあ、原稿も書けないので、鏡台のそばに押しやって、淋しく床をのべる。
 あゝ髪結さんにも行きたいなあ、もう十日あまりも銀杏返えしをもたせて、地がかゆい。
 帰えって来る人が淋しいだろうと、電気をつけて、紫の布をかけておく。

 三時。
 下のお上さんのブツブツ云う声に目を覚ますと、ドタン、ドタン時ちゃんが大きな足音で上って来る。酔っぱらっているらしい。
「すみません!」
 蒼ざめた顔に、髪を乱して、紫のコートを着た時ちゃんが、蒲団の裾にくず折れると、まるで駄々っ子のように泣き出してしまった。
 私は言葉をあんなに用意してまっていたのに、一言も云えなくて沈黙っていた。

「さよなら時ちゃん!」
 若々しい男の声が消ると、露路口で間抜けた自動車の警笛が鳴った。

 二月×日
 二人共面伏せな気持ちで御飯をたべた。
「此頃は少しなまけているから、梯子段を拭いてね、私洗濯するから……。」
「私するから、こゝほっといていゝよ。」
 寝ぶそくな、はれぽったい時ちゃんの瞼を見ると、たまらなくいじらしくなる。
「時ちゃん、その指輪どうして……。」
 かぼそい薬指に、サンゼンと白い石が光って台はプラチナだった。
「紫のコートは……。」
「……」
「時ちゃんは貧乏が厭になってしまった?」
 私は下の叔母さんに顔を合わせる事は肌が痛くなる。

「姉さん! 時坊は少しどうかしてますよ。」
 水道の水と一緒に、叔父さんの言葉が痛く来た。
「近所のてまえがありまさあね、夜中に自動車をブウブウやられちゃあね、町内の頭なんだから、一寸でも風評が立つと、うるさくてね……。」
 あゝ御もっとも様で、洗いものをしている脊にビンビン言葉が当って来る。

 二月×日
 時ちゃんが帰らなくなって五日。
 ひたすらに時ちゃんのたよりを待つ。
 彼の女はあんな指輪や、紫のコートのおとりに負けてしまった。

 生きてゆくめあてのないあの女の落ちてゆく道かも知れない。
 あんなに貧乏はけっして恥じゃあないと云ってあるのに……十八の彼の女は紅も紫も欲しかった。私は五銭あった銅銭で、駄菓子を五ツ買って来ると、床の中で古雑誌を読みながらたべた。

 貧乏は恥じゃあないと云ったものゝあと五ツの駄菓子は、しょせん私の胃袋をさいどしてはくれぬ。手を延ばして押し入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想する。
 何もない。
 漠々。
 涙がにじんで来る。
 電気でもつけよう……駄菓子ではつまらないと見えて腹がグウグウ……辛気に鳴る。
 隣りの古着屋さんの部屋では、ジ……と秋刀魚を焼く強烈な匂いがする。
 食慾と性慾!
 時ちゃんじゃないが、せめて一碗のめしにありつこうか。
 食慾と性慾!
 私は泣きたい気持ちで、此の言葉を噛んだ。

 二月×日
芙美子さま。
何も云わないでかんにんして下さい。指輪をもらった人に強迫されて、浅草の待合に居ます。
妻君があるんですけど、それは出してもいゝって云うんです。
笑わないで下さい。その人は請負師で、今四十二です。
着物を沢山こしらえてくれましたの貴女の事も話したら、四拾円位は毎月出してあげると云ってました。
私嬉しいんです。

 読むにたえない時ちゃんの手紙の上に、こんな筈ではなかったと、涙が火のようにむせた。
 歯が金物のようにガチガチ鳴った。
 私がそんな事をいつたのんだ! 馬鹿馬鹿こんなにも、こんなにもあの十八の女はもろかったのか!
 目が円くふくれ上がって、見えなくなる程泣きじゃくった私は、時ちゃんへ向って呼んで見た。
 所を知らせないで。浅草の待合なんて……。
 四十二の男!
 きものきもの
 指輪もきものもなんだ真念のない女よ!

 あゝでも、野百合のように可憐であったあの姿、きめの柔かい桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女であった。
 何だって、最初のペエセを[#「ペエセを」はママ]そんな、浮世のボオフラのような男にくれてやってしまったんだろう……愛らしい首を曲げて、
春は心のかはたれに……
 私に唄ってくれたあの少女が……四十二の男よ呪ろわれてあれ!

「林さん書留めですよッ!」
 珍らしく元気のいゝ叔母さんの声に、梯子段に置いてある日本封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留め。
 金弐拾参円也! 童話の稿料。
 当分ひもじいめをしなくてすむ。胸がはずむ、狂人水を呑んだようにも。でも何か一脈の淋しい流れが胸にあった。
 嬉しがってくれる相棒が、四十二の男に抱かれている。

 白木さんの手紙。
 いつも云う事ですが、元気で御奮闘を祈る。

 私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩は寿司でも食べよう。
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酒屋の二階



 十二月×日
「飯田がね、鏝でなぐったのよ……厭になってしまう……。」
 飛びついて来て、まあ芙美子さんよく来たわ! と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待って、暗い露路からショボショボ出て来たたい子さんを見ると、自動車や、行李や、時ちゃんが、非常に重荷になって、来なければよかったんじゃないかと思えた。
「どうしましょうね、今さらあのカフェーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも、私に会うのバツが悪るいでしょうから……。」
「えゝ、ではそうしてね。」
 私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。
「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」
 時ちゃんは、ぶざまな行李がなくなったので、キッキッとはしゃぎながら、私の両手を振った。
「芙美ちゃん! 大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……。」
「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいゝのよ。大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」
 二人は、でもおのおのの淋しさを噛み殺していた。
「何だか心細くなって来たね。」
 時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいた。

「もうこれッ位でいゝだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」
 十時頃だ、星がチカチカ光っていた。
 十三屋の櫛屋のところで、自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出しあった。
「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ……。」
 吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」
 吉さんの笑い声が大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ていた。
「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」
 私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから。
 ――ホラお汁粉一杯上ったよ!
 ――ホラも一ツあとから上ったよ!
 お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい二人には笑えなかった。
「吉さん! 元気でいてね。」
 時ちゃんは吉さんの鳥打ち帽子の内側をクンクンかぎながら、子供っぽく目をキロキロさせていた。

 歩いて本郷の酒屋へ帰えった時は、もう十二時近かゝった。
 夜のカンカンに冷たい舗道の上を、グルグル湯気にとりまかれた。支那蕎麦屋の灯が通おっているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

 二階に上って行くと、たい子さんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火のない火鉢に、しょんぼり手をかざしていた。
 恋人かな……私は妙に白々とした空間をみやっていた。寒い。歯がガチガチふるえる。
「たい子さん帰えられなければ寝られないの?」
 時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞く。
「寝たっていゝのよ、当分こゝにいられるんだもの、蒲団出してあげるよ。」
 押入れをあけると、プンと淋しい一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいんだ……大きなアクビにごまかして、袖で瞳をふくと、うすいたなの下に時ちゃんをねせつけた。
「貴女は林さんでしょう……。」
 その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。
「僕山本虎造です。」
「あゝそうですか、たいさんに始終聞いてました。」
 なあんだ、しびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話からほぐれて来た。
 色々話していると、段々この青年のいゝ所がめにたって来る。
 ――私は一生懸命あいつを愛しているんですが……。
 山本さんは涙ぐむと、火鉢の灰をかきならしていた。
 たい子さんは幸福だなあ……私は別れて間もない男の事を思った、あんなに私をなぐっていたあの男に、この山本さんの純情が十分の一でもあったら……時ちゃんはスヤスヤいびきをかいている。
「では僕帰えりますから、明日の夕方にでも来るように云って下さいませんか。」
 もう二時すぎである。青年はコトコト路を鳴らして帰えって行った。たい子さんは、あの人との子供の骨を転々持って歩いていたが、どうしたろう、折れた鏝が散乱している。

 十二月×日
 雨がざんざん降っている。
 夕方時ちゃんと二人で風呂に行く。
 帰えって髪をときつけていると、飯田さん来る。
 私は袖のほころびを縫いながら、カフェーでおぼえた唄を フッとうたいたくなった。
 あゝ厭になってしまう。
 別れてまでノコノコ女のそばへ来る位なら飯田さんもおかしい人だなあ……。

「こんなに雨が降るのに行くの……。」
 たい子さんは佗しそうに、ふところ手をして私達を見た。

 浅草へ来た時は夕方だった。
 ざんざ降りの中を一軒一軒、時ちゃんの住み込みよさそうな家をさがして、きまったのはカフェー世界と云う家だった。
「芙美ちゃんどっかへ引越す時は知らしてね、たい子さんによろしく云ってね。」
 時ちゃんには、真実いとしいものがあった。
 野性的で、行儀作法は知らないけれど、いゝところが多分にあった。
「久し振りで、別れのお酒もりでもしようか……。」
「おごってくれる……。」
「体を大事にして、にくまれないようにね。」
 都寿司にはいると、お酒を一本つけてもらって、私達はいゝ気持ちに横ずわりになった。
 雨がひどいので、お客も少ないし、バラックでも、落ちついた家だった。
「一生懸命勉強してね。」
「当分会えないね、時ちゃん、私もう一本呑みたい。」
 時ちゃんはうれしそうに手を鳴らした。

 時ちゃんをカフェーに置いて帰えると、たい子さんは一生懸命書きものをしていた。
 九時頃山本さん来る。
 私は一人で寝床をひくと、たい子さんより先に寝る。

 十二月×日
 フッと眼を覚ますと、せまい蒲団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。
 二人ともクスリッと笑いながら、脊をむけた。
「起きない。」
「私いくらでも眠りたい……。」
 たい子さんは白い腕をニュッと出すと、カーテンをめくって、陽の光りを見た。

 トントン梯子段を上って来る音がする。
 たい子さんは無意識に、手を引っこめると、
「寝たふりをしてましょう、うるさいから。」
 私とたいさんは抱きあって寝たふりをしていた。
 やがてサラリと襖があくと、寝ているの? と呼びかけながら山本さんはいって来る。
 山本さんが私達の枕元に座ったので、一寸不快になる。
 しかたなく目をさました。たい子さんは、
「こんなに朝早く来て寝てるじゃありませんか。」
「でも務め人は、朝か夜かでなきぁ来られないよ。」
 私はじっと目をとじていた。
 どうなるものか、たいさんのやり方も手ぬるい。
厭なら厭じゃと最初から、云えばスットトンで通やせぬ……。
と云う唄もあるではないか。

 今日から街は諒闇である。
 昼からたい子さんと二人で、銀座の方へ行ってみる。
「私ね、原稿書いて、生活費位出来るから、うるさいあそこを引きはらって、郊外に住みたいと思うわ……。」
 たいさんは、茶色のマントをふくらませて電気のスタンドをショーウインドに見ると、それを買うのが唯一の理想のように云った。
 歩ける丈け歩きましょう。
 銀座裏の奴寿司で腹が出来ると、黒白の幕を張った街並を足をそろえて歩いた。
 今日は二人のおまつりだ。
朝でも夜でも牢屋はくらい……
いつでも鬼メが窓からのぞく。
 二人は日本橋の上に来ると、子供らしく、欄干に手をのせて、漂々と飛んでいる、白い鴎を見降した。

一種のコオフンは私達には薬かも知れない
二人は幼稚園の子供のように
足並をそろえて街の片隅を歩いていた
同じような運命を持った女が
同じように瞳と瞳をみあわせて淋しく笑ったのです。
なにくそ!
笑え! 笑え! 笑え!
たった二人の女が笑ったって
つれない世間に遠慮は無用だ
私達も街の人達に負けないで
国へのお歳暮をしましょう

鯛はいゝな
甘い匂いが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには
父もあり
母もあり
家も垣根も井戸も樹木も……

ねえ小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいった
大きな広告を張っておくれ
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜んで遠い近所に吹ちょうして歩く事でしょう
――娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って下れましたが、まあ一ツお上りなしてハイ……。

信州の山深い古里を持つ
かの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
――明日は明日の風が吹くから、ありったけのぜにで買って送りましょう……
小僧さんの持った木箱には
さつまあげ、鮭のごまふり、鯛の飴干し

二人は同じような笑いを感受しあって
日本橋に立ちました。

日本橋! 日本橋!
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでいた。

二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。
ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう
二人はどん底を唄いながら
気ぜわしい街ではじけるように笑いました。

 私は食物の持つ、なつかしい木箱の匂いを胸に抱いて、国へのお歳暮を楽しんだ。

 十二月×日
「こんやは、庄野さんが遊びに来てよ、ひょっとすると、貴女の詩集位いは出してくれるかもわからない、福岡日々の社長の息子ですってよ……。」
 たいさんと二人でいつもの夕飯を食べ終ると、二人は隣りの部屋の、軍人上りの株屋さんだと云う、子持ちの夫婦者のところへ、まねかれて行く。
「貴女達は呑気そうですね。」
 たいさんも私もニヤニヤ笑っている。
 お茶をよばれながら、三十分も話をしていると、庄野さんがやって来た。インバネスを着て、ゾロゾロした格構だ。
 此人は酔っぱらっているんじゃないかと思う程クニャクニャしていた、でも人の良さそうな坊ちゃんだが。
 こんな人に詩集を出してもらったって仕様がない。
 私は菓子を買って来た。炬燵にあたって三人で雑談する。
 飯田さんと、山本さん二人ではいって来る。たゞならない空気だ。
「××××!」
 飯田さんが最初に投げつけた言葉はこれであった。たい子さんの額に、インキ壺が飛ぶ、唾が飛ぶ、私は男への反感がむらむらと燃えた。
「何をするんです。又たい子さんもどうしたのこれは……。」

 たいさんは、ボウダと涙をせぐりあげながら話した、飯田にいじめられていると、山本のいゝところが浮ぶのです。山本のところへ行くと、山本がものたりなくなるのです。
「どっちをお前は本当に愛しているのだ!」
 飯田さんは、悪党だ。私は二人の男がにくらしかった。
「何だ貴方達だって、いゝかげんな事してるじゃないかッ!」
「なにッ!」
 飯田さんはキラリと私を睨む。
「私は飯田を愛しています。」
 たい子さんはキッパリ云い切ると、飯田さんをジロリと見上げた。
 私はたいさんが憎らしかった、こんなにブジョクされて……山本さんは溝へ落ちた鼠のように、しょんぼりすると、蒲団は僕のものだから持ってかえると云い出した。
 すべてが渦である。
 たい子さんはいち早く山田清三郎氏のところへ逃げて行った。
 私はブツブツ云いながら三人の男たちと外に出た。
 カフェーにはいって、酒を呑む程に、酔がまわる程に、四人はますますくだらなくなって来る。
 庄野さんは、下宿へ来て泊れと云う。蒲団のない寒さを思うと、私は庄野さんと自動車に乗って、舌たらずのギコウにまけてなるものか、私は酒に酔ったまねが大変上手だ。

 二人はフトンの上に、二等分に帯をひっぱって寝た。
「山本君だって飯田君だって、たいさんだってあとで聞いたら、関係があると云うかも知れないね。」
「云ったっていゝでしょう。貴方も公明正大なら、私も公明正大ね、一夜の宿をしてくれてもいゝでしょう。蒲団がなけりゃ仕様がない」
 私は出もどりのヴァージンだ。どっかに、一生をたくす男がある筈だ、私は、私に許された領分だけ手足をのばして目をとじた。
 たいさんも宿が出来たかしら……目頭に熱い涙が湧いた。
「庄野さん! 明日起きたら、御飯食べさせてね、お金もかしてね、原稿を新聞にかくから……。」
 私は朝まで眠ってはならないと思った。男のコオフン状態なんて、政治家と同じようなものさ、駄目だと思ったらケロリとしている。

 明日になったら、又どっかへ行くみちをみつけなくちゃあ……。

 十二月×日
 ゆかいな朝だ、一人の男に打ち勝って私は意気ようようと、酒屋の二階に帰える。
 たいさんが帰えっていた。畳の上で何か焼いた跡らしく、点々と焦げて、たいさんの茶色のマントが、散々に破られていた。
「庄野さんとこへ昨夜泊ったのよ。」
 たいさんはニヤリと笑った。
 私はもう捨てばちである。
 たいさんは結婚するかも知れないと云う。うらやましくて仕様がない。
 今は只沈黙っていたいと云う、淋しかったが、たいさんの顔は更生に輝いていた。
 みじめな者は私一人じゃないか、私はぺしゃんこにくず折れた気持ちで、片づけて行くたい子さんの白い手を見ていた。
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三白草どくだみの花



 九月×日
 今日も亦あの雲だ。
 むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。

 今日こそ十二社に歩いて行こう――そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私はお隣りの信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
「勿論歩いて行くんですよ。」
 此青年は沈黙って無気味な雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、此広場の人達がタイキャクするまで、僕は原始にかえったようで、とても面白いんです。」
 チェッ生噛じりの哲学者メ。
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……。」
「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居ませんよ、十二社の方は焼けてやしないでしょうね。」
「さあ、郊外は×××が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょう。」
 青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら、雲の間から、霧のように降りて来る灰をはらった。
 私は四畳半の蚊帳をたゝむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、ゴソゴソ荷物を片づけていた。
「林さん大丈夫ですか、一人で……。」
 皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、モウモウとした道へ出た。
 根津の電車通りは、みゝずのようにかぼそく野宿の群がつらなっていた。
 青年は真黒に群れた人波をわけて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。

 私は下宿に、昨夜間代を払わなかった事を何か奇蹟のように思えた。お天陽様相手に行動をしている、お父さん達の事を思うと、此三拾円ばかりの月給も、おろそかにつかえない。
 途中壱升壱円の米を二升買う。
 外に朝日五ツ。
 干しうどんくず五拾銭買う。
 お母さん達が、どんなに喜こんでくれるだろう。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は、長い青年の影をふんで歩いた。
「よくもこんなに焼けたもんだ!」
 私は二升の米を肩を替えながら脊負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして厭だった。

すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから止しますわ。」
 青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすと、それを私に突き出して云った。
「これで五十銭借して下さい。」
 私は伽話的な青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気もちよく桃色の五拾銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。
「貴方お腹がすいてたんですね……。」
「ハッ…………。」青年はほがらかに哄笑した。
「地震って素的だな!」
 十二社までおくってあげると云う、青年を無理に断わって、私はテクテク電車道を歩いた。
 あんなに美しかった女性達が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなって、桃色の蹴出しは、今は用のない花である。

 十二社についた時は、日暮れだった。四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。
「まあ入れ違いですよ、今日引越していらっしたんですよ。」
「まあ、こんな騒ぎにですか……。」
「いゝえ、私達が、こゝをたゝんで帰国しますから。」
 私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすい此女を憎らしく思った。

 私は堤の上の水道のそばに、米を投げるようにおろすと、深々と煙草を吸った。少女らしい涙がにじんで来る。
 遠くつゞいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように、皆地びたにしゃがんでいる。
 星がチカチカ光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところへ。堤を降りると、とっつきの歪んだ床屋の前に、ポプラで囲まれた広場があった。
 そして、二三の小家族が群れていた。
「本郷から、大変でしたね……。」
 人のいゝ床屋のお上さんは店から、アンペラを持って来て、私の為に寝床をつくってくれた。
 高いポプラがゆっさゆっさ風にそよぎ出した。
「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」
 夜警に出かける、年とった御亭主が、鉢巻きをしながら、空を見て、つぶやいた。

 九月×日
 朝。
 久し振りに、古ぼけた床屋さんの鏡を見る。
 まるで山出しの女中さんだ、私は苦笑しながら、髪をかきあげた。油っ気のない髪が、バラバラ額にかゝって来る。
 床屋さんに、お米二升お礼に置く。
「そんな事してはいけませんよ。」
 お上さんは一丁ばかりもおっかけて、お米をゆさゆさ抱えて来た。
「実は重いんですから……。」
 そう云ってもお上さんは、二升のお米を困る時があるからと云って、私の脊に無理に脊負わせてしまった。

 昨日来た道である。
 相変らず、足は棒のようになっている。若松町まで来ると、膝が痛くなってしまった。

 すべては天真ランマンにぶっつかろう、私は、鑵詰の箱をいっぱい積んでいる自動車を見ると、矢もたてもたまらなくなって叫んだ。
「乗っけてくれませんかッ!」
「どこまで行くんですッ!」すべては、かくほがらかである。
 私はもう両手を鑵詰の箱にかけていた。

 順天堂前で降ろされると、私は投げるように、四ツの朝日を運転手達に出した。
「ありがとう。」
「姉さんさよなら……」

 私が根津の権現様の広場へ帰えった時、大学生は、例の通り、あの大きな傘の下で、気味の悪るい雲を見ていた。そして、その傘の片隅には、シャツを着たお父さんがしょんぼり煙草をふかしていた。
「入れ違いじゃったそうなのう……。」もう二人共涙である。
「いつ来た! 御飯たべた! お母さんは……」
 矢つぎ早やの私の言葉に、父は、昨夜×××と間違えられながらやっと来たら入れ違いだった事や、帰えれないので、学生さんと話しあかした事なぞ物語った。

 私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋を持たせると、汗ばんでしっとりしている拾円札を壱枚出して父にわたした。
「もらってえゝかの?……。」
 お父さんは子供のようにわくわくしている。
「お前も一しょに帰えらんかい。」
「番地さえ聞いておけば大丈夫よ、二三日内に又行くから……。」

 道を、叫んで行く人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。
「産婆さんはお出になりませんかッ……どなたか産婆さん御存知ではありませんかッ!」

 九月×日
 街角の電信柱に、始めて新聞が張り出された。
 久し振りに、なつかしいたよりを聞くように、私も多勢の頭の後から、新聞をのぞいた。

 ――灘の酒造家よりの、お取引先きに限り、大阪まで無料にてお乗せいたします。定員五拾名。

何と素晴らしい文字よ。
あゝ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。
私の胸は空想でふくらんだ、酒屋でなくったってかまうものか。
旅へ出よう。
美しい旅の古里へ出よう。
海を見て来よう――。

 私は二枚ばかり単衣を風呂敷に包むと、帯の上に脊負って、それこそ漂然と、誰にも沈黙って下宿を出た。

 万世橋から乗合馬車に乗って、まるでこわれた羽子板のように、ガックン、ガックン首を振って長い事芝浦までゆられた。
 道中費、金七拾銭也。
 高いような、安いような、何だか降りた時は、お尻がピリピリ痺れてしまっていた。
 すいとんうであずきおこわ―果実―こうした、ごみごみと埃をあびた露店をくゞって行くと、肥料くさい匂いがぷんぷんして、築港には、鴎のように白い水兵達が群れていた。
「灘の酒船の出るところはどこでしょうか。」

 飛魚のように、ボートのいっぱい並んでいる小屋のそばの天幕の中に、その事務所があった。
「貴女お一人ですか……。」
 事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をジロジロ注視した。
「え、そうです、知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて戴きたいのですが……国で皆心配してますから。」
「大阪からどちらです。」
「尾道です。」
「こんな時は、もう仕様おまへん、お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ……。」
 ツルツルした富久娘のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年と、行き先きを書いたのを渡してくれた。
 これは面白くなって来た。
 何年振りに尾道へ行く事だろう。あゝあの海、あの家、あの人……お父さんや、お母さんは、借金が山程あるんだから、どんな事があっても、尾道へは行かぬように、と云ったけど、少女時代を過ごしたあの海添いの町を、一人ぽっちの私は恋のようにあこがれた。
「かまうもんか、お父さんだって、お母さんだって知らなけりや、いゝんだもの?」
 鴎のような水夫達の間をくゞって、酒の香のなつかしい酒荷船へ乗り込んだ。

 七拾人ばかりの中に、女は私と、いゝ取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た女と、美しい柄の浴衣を着た女と三人きりである。その二人のお嬢さん達は、青い茣座の上に始終横になって、雑誌を読んだり、果物を食べたりしていた。s
 私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽の上に腰かけているきりで、彼の女達は、私を見ても一言も声を掛けてはくれない。
「ヘエ! お高く止っているよ。」
 あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。

 女が少ないので、船員達が皆私の顔を見る。
 あゝこんな時にこそ、サンゼンと美しく生れて来ればよかった。
 つかい古した胡弓のような私。私は切なくなって、船底へ降りると、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん箱を膝でこすって、顔をうつしてみた。
 せめて着物でも着替えよう。井筒の模様の浴衣にきかえると、落ちついた私の胸に、ドッポンドッポン波の音が響く。

 九月×日
 もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなかった。

 私はそっと上甲板に出ると、ホッと息をついた。
 美しい朝あけである。
 乳色の涼しいしぶきの中を蹴って、此古びた酒荷船は、颯々と風を切って走っている。
 月もまだ寝わすれている。

「暑くてやり切れねえ!」
 機関室から上って来た、たくましい菜っ葉服を肩にかけた船員が朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。
 美しい風景である。
 マドロスのお上さんも悪るくはないな。無意識に美しいポーズをつくっている、その船員の姿をじっと見ていた。

 その一ツ一ツのポーズのうちから、苦るしかった昔の激情を呼びおこした。
 美しい朝あけである。
 清水港が夢のように近かづいて来る。
 船乗りのお上さんも悪るくはないな。

 午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る、お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走って行く。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」
 上甲板に出ると、焼きたての、ビスケットを両の袂にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。
 あの人達は、私が女である事を知らないでいるらしい。二日目である、一言も声をかけてはくれぬ。
 此船は、どこの港へも寄らないで、一直線に海を急いでいるのだから嬉しい。

 料理人の人が「おはよう!」と声をかけてくれたので、私は昨夜寝られなかった事を話した。
「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ、今日は船員室でお寝なさい。」
 此料理人は、もう四十位だろうか、私と同じ位の脊の高さなのでとてもおかしい。
 私を部屋に案内してくれた。
 カーテンを引くと押入れのような寝台である。
 その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開いて私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイが、まとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝台に長々と寝そべった。
 一寸頭を上げると円い窓の向うに大きな波のしぶきが飛んでいる。
 今朝の美しい機関士も、ビスケットをポリポリかみながら一寸覗いて通る。私は恥かしいので、寝たふりをして顔をふせていた。
 ジュンジュン肉を焼く油の匂いがする。
「私はね、外国航路の厨夫なんですが、一度東京の震災も見度いと思いましてね、一と船休んで、こっちに連れて来て貰ったんですよ。」
 大変丁寧な物云いをする人である。
 私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、御馳走を食べた。
「後でないしょでアイスクリームを製ってあげますよ。」
 真実、この人は好人物らしい。神戸に家があって、九人の子持ちだとこぼしていた。

 船に灯がはいると、今晩は皆船底に集ってお酒盛りだと云う。
 料理人の人達はてんてこ舞いで急がしい。

 私は灯を消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。
 フッと私は、私の足先きに、生あたゝかい人肌を感じた。
 人の手だ!
 私は枕元のスイッチを捻った。
 鉄色の大きな手が、カーテンに引っこんで行くところである。
 妙に体がガチガチふるえる。どうなるものか、私は大きなセキをした。

 カーテンの外に呶鳴っている料理人の声がする。
「生意気な! 汚ない真似しよると承知せんぞ!」
 サッとカーテンが開くと、料理鉋丁のキラキラしたのをさげて、料理人が、一人の若い男の脊を突いてはいって来た。
 そのむくんだ顔に覚えはないが、鉄色のその手にはたしかに覚えがあった。
 何かすさまじい争闘が今にもありそうで、その料理鉋丁の動く度びに、私はキャッとした思いで、親指のようにポキポキした料理人の肩をおさえた。
「くせになりますよッ!」
 機関室で、なつかしいエンジンの音がする。
 手をはなすと、私は沈黙ってエンジンの音を聞いた。
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秋の唇



 十月八日
 呆然と梯子段の上の汚れた地図を見ていると、蒼茫とした夕暮れの日射しに、地図の上は落寞とした秋であった。
 寝ころんで、煙草を吸っていると、訳もなく涙がにじんで、細々と佗しくなる。
 地図の上では、たった二三寸の間なのに、可哀想なお母さんは四国の海辺で、朝も夜も私の事を考えて暮らしているだろうに――。
 風呂から帰えって来たのか、下で女達の姦しい声がする。
 妙に頭が痛い、用もない日暮れだ。

寂しければ海中にさんらんと入ろうよ、
さんらんと飛び込めば海が胸につかえる泳げば流るる、
力いっぱい踏んばれ岩の上の男。
 秋の空気があんまり青いので、私は白秋のこんな唄を思い出した。
 あゝ此世の中は、たったこれだけの楽しみであったのか、ヒイフウ……私は指を折って、さゝやかな可哀想な自分の年を考えてみた。
「おゆみさん! 電気つけておくれッ。」
 お上さんの癇高い声がする。
 おゆみさんか、おゆみとはよくつけたもの私の母さんは阿波の徳島。

 夕御飯のおかずは、いつもの通り、するめの煮たのにコンニャク、そばでは、出前のカツが物々しい示威運動、私の食慾はもう立派な機械になりきってしまって、するめそしゃくされないうちに、私は水でゴクゴク咽喉へ流し込む。
 弐拾五円の蓄音器は、今晩もずいずいずっころばしごまみそずいだ。

 公休日で朝から遊びに出ていた十子が帰えって来る。
「とても面白かったわ、新宿の待合室で四人も私を待ってたわよ、私知らん顔して見てゝやった……。」
 その頃女給達の仲間には、何人もの客に一日の公休日を共にする約束をして一つ場所に集合させて、すっぽかす事が流行っていた。
「私今日は妹を連れて活動見たのよ、自腹だから、スッテンテンよ、かせがなくちゃ場銭も払えない。」
 十子は汚れたエプロンをもう胸にかけて、皆にお土産の甘納豆をふるまっていた。
 今日は病気。胸くるしくって、立っている事が辛い。

 十月×日
 夜中一時。折れた鉛筆のように、女達は皆ゴロゴロ眠っている。
 雑記帳のはじにこんな手紙をかいてみる。

 ――静栄さん。
 生きのびるまで生きて来たという気持です。
 随分長い事合いませんね、神田でお別れしたきりですもの……。
 もう、しゃにむに淋しくてならない、広い世の中に可愛がってくれる人がなくなったと思うと泣きたくなります。
 いつも一人ぽっちのくせに、他人の優さしい言葉をほしがっています。そして一寸でも優さしくされると、嬉し涙がこぼれます。大きな声で深夜の街を唄でもうたって歩きたい。
 夏から秋にかけて、異常体になる私は働きたくっても働けなくって弱っています。故、自然と食う事が困難です。
 金が慾しい。
 白い御飯にサクサクと歯切れのいゝ沢庵でもそえて食べたら云う事はないのに、貧乏すると赤ん坊のようになる。
 明日はとても嬉しいんです、少しばかりの原稿料がはいります、それで私は行けるところまで行ってみたいと思います。
 地図ばかり見ているんですが、ほんとに、何の楽しさもない此カフェーの二階で、私を空想家にするのは、梯子段の上の汚れた地図です。
 ひょっとしたら、裏日本の市振と云う処へ行くかも知れません。生きるか死ぬるか、とに角、旅へ出たい。
 弱き者よの言葉は、そっくり私に頂戴出来るんですが、それでいいと思う、野性的で行儀作法を知らない私は、自然へ身を投げかけてゆくより仕方がない。此儘の状態では、国への仕送りも出来ないし、私の人に対しても済まない事だらけです。
 私はがまん強くよく笑って来ました、旅へ出たら、当分田舎の空や土から、健康な息を吹きかえすまで、働いて来るつもりです。
 体が悪るいのが、何より私を困らせます。それに又、あの人も病気ですし、厭になってしまう。金がほしいと思います。
 伊香保の方へ下働きの女中にでもと談判したのですが、一年間の前借百円也ではあんまりだと思います。
 何のために旅をするとお思いでしょうけど、とに角、此まゝの状態では、私はハレツしてしまいます。
 人々の思いやりのない雑言の中に生きて来ましたが、もう何と言われたっていゝ私はへこたれてしまった。
 冬になったら、十人力に強くなってお目にかゝりましょう、いちばちか行くところまで行きます、私の妻であり夫である、たった一ツの信ずる真黄な詩稿を持って、裏日本へ行って来ます。お体を大切に、さよなら――。

 ――あなた。
 フッツリ御無沙汰して、すみません。
 お体は相変らずですか、神経がトゲトゲしているあなたに、こんな手紙を差し上げるとあなたは、ひねくれた笑いをなさるでしょう。
 私、実さい涙がこぼれるんです。
 いくら別れたと云っても、病気のあなたの事を思うと、佗しくなります。困った事や、嬉しかった思い出も、あなたのひねくれた仕打ちを考えると、恨めしく味気なくなります。壱円札二枚入れて置きました、怒らないで何かにつかって下さい。あの女と一緒にいないんですってね、私が大きく考え過ぎたのでしょうか。
 秋になりました、私の唇も冷く凍ってゆきます。あなたとお別れしてから……。
 たいさんも裏で働いています。

 ――オカアサン。
 オカネ、オクレテ、スミマセン。
 アキニ、ナツテ、イロイロ、モノイリガ、シテ、オクレマシタ。
 カラダ、ゲンキデスカ。ワタシモ、ゲンキデス。コノアイダ、オクツテ、クダサツタ、ハナノクスリ、オツイデノトキ、スコシオクツテクダサイ、センジテノムト、ノボセガ、ナオツテ、カホリガ、ヨロシイ。
 オカネハ、イツモノヤウニ、ハンヲ、オシテ、アリマスカラ、コノマヽキヨクエ、トリニユキナサイ。
 オトウサンノ、タヨリアリマスカ、ナニゴトモ、トキノクルマデ、ノンキニシテイナサイ、ワタシモ、コトシワ、アクネンユエ、ジツトシテイマス。
 ナニヨリモ、カラダヲ、タイセツニ、イノル、フウトウ、イレテオキマス、ヘンジクダサイ。
フミヨリ。

 私は顔中涙でぬらしてしまった、せぐりあげても、せぐりあげても泣声が止まない。
 こうして一人になって、こんな荒れたカフェーの二階で手紙を書いていると、一番胸に来るのは、老いたお母さんの事だった。
 私が、どうにかなるまで、死なゝいで下さい、此まゝであの海辺で死なせるのは、みじめすぎる。
 あした局へ行って、一番に送ってあげよう、帯芯の中には、さゝけた壱円札が六七枚もたまっている、貯金帳は、出たりはいったりで、いくらもない。木枕に頭をふせているとくるわの二時の拍子木がカチカチ鳴っている。

 十月×日
 窓外は愁々とした秋景色。
 小さなバスケット一ツに一切をたくして、私は興津行きの汽車に乗る。
 土気を過ぎると小さなトンネルがあった。
サンプロンむかしロオマの巡礼の
知らざる穴を出でて南す。

 私の好きな万里の歌である。
 サンプロンは、世界最長のトンネルだけど一人のこうした当のない旅でのトンネルは、なぜかしんみりとした気持ちになる。
 海へ行く事がおそろしくなった。
 あの人の顔や、お母さんの思いが、私をいたわっている、海まで走る事がこわくなった。

 三門で下車する。
 ホタホタ灯がつきそめて、駅の前は、桑畑、チラリホラリ、藁屋根が目につく、私はバスケットをさげたまゝ、ぼんやり駅に立ちつくしてしまった。
「こゝに宿屋ありますか?」
「此の先の長者町までいらっしゃるとあります。」

 私は日在浜を一直線に歩いていた。
 十月の外房州の海は、黒々ともれ上って、海のおそろしいまでな情熱が私をコオフンさせてしまった。
 只海と空と砂浜、それも暮れ初めている。自然である。なんと人間の力のちっぽけな事よ、遠くから、犬の吠える声がする。

 かすりの伴天を着た娘が、一匹の黒犬を連れて、歌いながら急いで来た。
 波がトンキョウに大きくしぶきすると、犬はおびえたように、キリッと正しく首をもたげて、海へ向って吠えた。ヴォウ! ヴォウ!
 遠雷のような海の音と、黒犬の唸り声は何か神秘な力を感ぜずにはいられなかった。
「此辺に宿屋ありませんか!」
 この砂浜にたった一人の人間である、この可憐な少女に私は呼びかけた。
「私のうち宿屋ではないげ、よかったらお泊りなさい。」
 何と不安もなく、その娘は、漠々とした風景の中のたった一ツの赤い唇に、うすむらさきの、なぎなたほうずきを、クリイ、クリイ鳴らしながら、私を連れて後へ引返してくれた。
 日在浜のはずれ、丁度長者町にかゝった、砂浜の小さな破船のような茶屋である。
 此茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。
 こんな延々と、自然のまゝの姿で生きていられる世界もある。
 私は、都のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえおそろしく思った。天井には、何の魚の尻尾か、かさかさに乾いたのが張りつけてある。

 此部屋の灯も暗らければ、此旅の女の心も暗い。
 何もかも事足りなくて、あんなに憧憬れていた裏日本の秋も見る事が出来なかったが、此外房州は、裏日本よりも大まかな気がする。市振から親不知へかけての民家の屋根に、沢庵石のようなものが、ゴロゴロ置いてあったのや、線路の上まで、白いしぶきのかゝるあの蒼茫たる風景、崩れた崖の上に、紅々と空に突きさしていたあざみの花、皆何年か前のなつかしい思い出だ。
 私は磯臭い蒲団にもぐり込むと、バスケットから、コロロホルムのびんを出して、一二滴ハンカチに落した。
 此まゝ消えてなくなりたい今の心に、じっと色々な思いにむせている事がたまらなくなって、私は厭なコロロホルムの匂いを押し花のように鼻におし当てた。

 十一月×日
 遠雷のような汐鳴りの音と、窓を打つ※(「金+肅」、第3水準1-93-39)々たる雨の音に、私がぼんやり目を覚ましたのは、十時頃だろうか、コロロホルムの酢の様な匂いが、まだ部屋中流れているようで、私はそっと窓を開けた。
 入江になった渚に、蒼い雨が煙っていた。しっとりとした朝である。母屋でメザシを焼く匂いがプンプンする。

 昼から、あんまり頭がズキズキ痛むので、娘と二人黒犬を連れて、日在浜に出て見る。
 渚近い漁師の家では、女子供が三々五々群れて、生鰯を竹串につきさしていた。竹串にさゝれた生鰯が、兵隊のように並んだ上に、雨あがりの薄陽が銀を散らしていた。
 娘は馬穴ばけつにいっぱい生鰯を入れてもらうとその辺の雑草を引き抜いてかぶせた。
「これで拾銭ですよ。」
 帰えり道、娘は重そうに馬穴ばけつを私の前に出してこう云った。

 夜は生鰯の三バイ酢に、海草の煮つけに生玉子、娘はお信さんと云って、お天気のいゝ日は千葉から木更津にかけて、魚の干物の行商に歩くのだそうな。
 店で茶をすゝりながら、老夫婦にお信さんと雑談していると、水色の蟹が敷居の上をガクガク這って行く。
 生活に疲れ切った私は、石ころのように動かない此人達の生活を見ると、そゞろうらやましく、切なくなってしまう。

 風が出たのか、ガクガクの雨戸が、難破船のようにキイコ、キイコゆれて、チェホフの小説にでもありそうな古風な浜辺の宿、十一月にはいると、もう足の裏が冷々とつめたい。

 十一月×日
富士を見た
富士山を見た
赤い雪でも降らねば
富士をいゝ山だと賞めるに当らない。

あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った徊想
尖った山の心は
私の破れた生活を脅かし
私の瞳を寒々と見降ろす。

富士を見た
富士山を見た
烏よ!
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け!
真紅な口でカラアとひとつ嘲笑ってやれ

風よ!
富士はヒワヒワとした大悲殿だ
ビュン、ビュン吹きまくれ
富士山は日本のイメージーだ
スフィンクスだ
夢の濃いノスタルジヤだ
魔の住む大悲殿だ。

富士を見ろ!
富士山を見ろ!
北斎の描いたかつてのお前の姿の中に
若々しいお前の火花を見たが…………

今は老い朽ちた土まんじゅう
ギロギロした瞳をいつも空にむけているお前――
なぜやくざな
不透明な雲の中に逃避しているのだ!

烏よ! 風よ!
あの白々とさえかえった
富士山の肩を叩いてやれ
あれは銀の城ではない
不幸のひそむ大悲殿だ

富士山よ!
お前に頭をさげない女がこゝに一人立っている
お前を嘲笑している女がここにいる

富士山よ
富士よ!
颯々としたお前の火のような情熱が
ビュンビュン唸って
ゴウジョウな此女の首を叩き返えすまで
私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。

 私はまた元のおゆみさん、胸にエプロンをかけながら、二階の窓をあけに行くと、ほんのひとなめの、薄い富士山が見える。
 あゝあの山の下を私は何度不幸な思いをして行き返えりした事だろう。でもたとえ小さな旅でも、二日の外房州のあの亮々たる風景は、私の魂も体も汚れのとれた美しいものにしてしまった。
 旅はいゝ、野中の一本杉の私は、せめてこんな楽みでもなければやりきれない。
 明日から紅葉デーで、私達は狂人のような真紅な着物のおそろいだそうな、都会はあとからあとから、よくもこんなチカチカした趣考を思いつくものだ。
 又新らしい女が来ている。
 今晩もお面のようにお白粉をつけて、二重な笑いでごまかしか……うきよとはよくも云い当てしものかな――。
 留守中、お母さんから、さらしの襦袢二枚送って来る。
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 十一月×日
浮世離れて奥山ずまい……
 ヒゾクな唄にかこまれて、私は毎日玩具のセルロイドの色塗り。
 日給七拾五銭也の女工さんになって四ヶ月、私が色塗りした蝶々のお垂げ止めは、懐かしいスブニールとなって、今頃はどこへ散乱して行った事だろう――。
 日暮里の金杉から来ているお千代さんは、お父つぁんが寄席の三味線ひきで妹弟六人の裏家住い、「私とお父つぁんとで働かなきゃあ、食えないんですもの……。」お千代さんは蒼白い顔をかしげて、佗しそうに赤い絵具をベタベタ蝶々に塗っている。
 こゝは、女工が二十人、男工が十五人の小さなセルロイド工場、鉛のように生気のない女工さんの手から、キュウピーがおどけて出たり、夜店物のお垂げ止めや、前帯芯や、様々な下層階級相手の粗製品が、毎日毎日私達の手から洪水の如く流れて行く。
 朝の七時から、夕方の五時まで、私達の周囲は、ゆでイカのような色をしたセルロイドの蝶々や、キュウピーでいっぱいだ。
 文字通り護謨臭い、それ等の製品に埋れて仕事が済むまで、めったに首をあげて、窓も見られない状態だ。
 事務所の会計の妻君が、私達の疲れたところを見計らっては、皮肉に油をさしに来る。
「急いでくれなくちゃ困るよ。」
 フンお前も私達と同じ女工上りじゃないか、「俺達ゃ機械じゃねえんだよっ。」発送部の男達が、その女が来ると、舌を出して笑いあった。
 五時になると、二十分は私達の労力のおまけだ、日給袋のはいった笊が廻って来ると、私達はしばらくは、激しい争奪戦を開始して、自分の日給袋を見つけ出す。

 襷を掛けたまゝ工場の門を出ると、お千代さんが、後から追って来た。
「あんた、今日市場の方へ寄らないの、私今晩のおかずを買って行くの……。」
 一皿八銭の秋刀魚は、その青く光った油と一緒に、私とお千代さんの両手にかゝえられて、サンゼンと生臭い匂いを二人の胃袋に通わせた。
「この道を歩いている時だけ、あんた、楽しいと思った事ない。」
「本当にね、私ホッとするわ。」
「あゝあんたは一人だからうらやましいわ。」
 お千代さんの束ねた髪に、白く埃がつもっているのを見ると、街の華やかな、一切のものに火をつけてやりたいようなコオフンを感じる。

 十一月×日
 なぜ?
 なぜ?
 私達はいつまでもこんな馬鹿な生き方をしなければならないのか! いつまでたっても、セルロイドの唄、セルロイドの匂い、セルロイドの生活だ。
 朝も晩も、ベタベタ三原色を塗りたくって、地虫のように、太陽から隔離されて、歪んだ工場の中で、コツコツ無限に長い時間を青春と健康を搾取されている、あの若い女達のプロフィルを見ていると、ジンと悲しくなる。
 だが待って下さい。
 私達のつくっている、キュウピーや、蝶々のお垂げ止めは、貧しい子供達の頭をお祭のようにかざる事を思えば、少し少しあの窓の下では、笑んでもいゝだろう――。

 二畳の部屋には、土釜や茶碗や、ボール箱の米櫃や、行李や、机が、まるで一生の私の負債のようにがんばって、なゝめにひいた蒲団の上に、天窓の朝日がキラキラして、ワンワン埃が縞のようになって流れて来る。
 いったい革命とは、どこを吹いている風なんだ……中々うまい言葉を沢山知っている。日本のインテリゲンチャ、日本の社会主義者は、お伽噺を空想しているのか!
 あの生れたての、玄米パンよりもホヤホヤの赤ん坊達に、絹のむつきと、木綿のむつきと一たいどれ丈の差をつけなければならないのだ!
「お芙美さん! 今日は工場休みかい!」
 叔母さんが障子を叩きながら呶鳴っている。
「やかましいね! 沈黙ってろ!」
 私は舌打ちすると、妙に重々しい頭の下に両手を入れて、今さら重大な事を考えたけど、涙がふりちぎって出るばかり。
 お母さんのたより一通。
 たとえ五拾銭でもいゝから送ってくれ、私はレウマチで困っている、此家にお前とお父さんが早く帰って来るのを、楽しみに待っている、お父さんの方も思わしくないと云うたよりだし、お前のくらし向きも思う程でないと聞くと、生きているのが辛い。
 たどたどしいカナ文字の手紙、最後に上様ハハよりと書いてあるのを見ると、お母さんを手で叩きたい程可愛くなる。
「どっか体でも悪いのですか。」
 此仕立屋に同じ間借りをしている、印刷工の松田さんが、遠慮なく障子を開けてはいって来る。
 背丈けが十五六の子供のように、ひくゝて、髪を肩まで長くして、私の一等厭なところをおし気もなく持っている男だった。
 天井を向いて考えていた私は、クルリと脊をむけると蒲団を被ってしまった。
 此人は有難い程深切者である。
 だが会っていると、憂鬱なほど不快になって来る人だ。
「大丈夫なんですか!」
「えゝ体の節々が痛いんです。」
 店の間では、商売物の菜っ葉服を叔父さんが縫っているらしい、ジ……と歯を噛むようなミシンの音がする。

「六拾円もあれば、二人で結構暮せると思うんです。貴女の冷い心が淋しすぎる。」
 枕元に石のように座った、此小さい男は、苔のように暗い顔を伏せて私の上にかぶさって来る。
 激しい男の息づかいを感じると、私は涙が霧のようにあふれて来た。
 今まで、こんなに優さしい言葉を掛けて私を慰さめてくれた男があっただろうか、皆々私を働かせて煙のように捨てゝしまったではないか。
 此人と一緒になって、小さな長屋にでも住って、世帯を持とうか、でもあんまり淋しすぎる。十分も顔を合わせていたら、胸がムカムカして来る此小さな男。
「済みませんが、私体具合が悪るいんです、ものを言うのが、おっくうですの、あっちい行ってゝ下さい。」

「当分工場を休んで下さい。その間の事は僕がします。たとえあなたが[#「あなたが」は底本では「あたなが」]僕と一緒になってくれなくっても、僕はいゝ気持ちなんです。」
 まあ何てチグハグな世の中であろう――。

 夜。
 米を一升買いに出る。
 序手に風呂敷をさげたまゝ逢初橋の夜店を歩く。
 剪花屋、ロシヤパン、ドラ焼屋、魚の干物屋、野菜屋、古本屋、久々で見る楽しい路上風景だ。

 十二月×日
 ヘエ! 街はクリスマスでござんすとよ。
 救世軍の慈善鍋も飾り窓の七面鳥も、ブルジョワ新聞も、一勢に街に氾濫して、ビラも広告旗も血まなこになってしまう。

 暮れだ、急行列車だ。
 あの窓の風があんなに動いている。能率を上げなくてはと、汚れた壁のボールドには、二十人の女工の色塗りの仕上げ高が、毎日毎日数字になって、まるで天気予報みたいに、私達をおびやかすようになった。
 規定の三百五十の仕上げが不足の時は、五銭引き、拾銭引きと、日給袋にぴらぴらケープのような伝票が張られて来る。
「厭んなっちゃうね……。」
 女工はまるで、サヽラのように腰を浮かせて、御製作だ。
 同じ絵描きでも、これは又あまりにコッケイな、ドミエの漫画ではないか。
「まるで人間を芥だと思ってやがる。」
 五時の時計が鳴っても、仕事はドンドン運ばれて来るし、日給袋は中々廻りそうもない。
 工場主の小さな子供達を連れて、会計の妻君が、四時頃自動車で出掛けて行ったのを、一番小さいお光ちゃんが、便所の窓から見ていて、女工達に報告すると、芝居だって云ったり、活動だって云ったり。正月の着物でも買いに行ったのだろうと言ったり、手を働らかせながら、女工達の間にはまちまちの論議が噴出した。

 七時半。
 朝から晩まで働いて、六拾銭の労働の代償、土釜を七輪に掛けて、机の上に茶碗と箸を並べると、つくづく人生とはこんなものかと思った。
 ごたごた文句を言っている奴等の横ッ面をひっぱたいてやりたい。
 御飯の煮える間に、お母さんへの手紙の中に長い事して貯めた桃色の五拾銭札五枚入れて封をする。
 残金十六銭也。
 たった今、何と何がなかったら楽しいだろうと空想して来ると、五円の間代が馬鹿らしくなった。二畳で五円である。
 一日働いて米が二升きれて平均六拾銭、又前のようにカフェーに逆もどりしようか、あまたゝび、水をくゞって、私と一緒に疲れきった壁の銘仙の着物を見ていると、味気なくなる。
 ハイハイ私は、お芙美さんは、ルンペンプロレタリヤで御座候だ。何もない。
 何も御座無く候だ。

 あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない無精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んで持たせた奴等にぶち投げるだろう。
 こんな女が、一人うじうじ生きているより早くパンパンと、××を真二ツにしてしまおうか。

 熱い飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリ頬ばると生きている事もまんざらではない。
 沢庵を買った古新聞に、北海道にはまだ何万町歩と云う荒地があると書いてある。あゝそう云う未開の地にプロレタリヤの、ユウトウピヤが出来たら愉快だろうな。
 鳩ぽっぽ鳩ぽっぽと云う唄が出来るかも知れないな。
 皆で仲よく飛んでこいって云う唄が流行るかも知れないな。

 湯から帰えりしな、暗い路地で松田さんに会う、私は沈黙って通り抜けた。

 十二月×日
「何も変な風に義理立てしないで、松田さんが、折角借して上げると云うのに、お芙美さんも借りたらいゝじゃないの、実さい私の家は、あんた達の間代を当にしているんですから。」
 髪の薄い叔母さんの顔を見ていると、おん出てしまいたい程、くやしくなる。
 これが出掛けの戦争だ。急いで根津の通りへ出ると、松田さんが、酒屋のポストの傍で、ハガキを入れながら私を待っていた。
 ニコニコして本当に好人物なのに、私はムカムカしてしまう。
「何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいゝんですが、貴女がこだわると困るから……。」
 塵紙にこまかく包んだ金を私の帯の間にはさもうとした、私は肩上げのとってない昔の羽織を気にしながら、妙にてれくさくなってふりほどいて電車に乗ってしまった。

 どこへ行く当てもない。
 正反対の電車に乗ってしまった私は、白々とした上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。
 どうしよう。
 狂人じみた口入れ屋の高い広告灯が、難破船の信号みたように、ハタハタしていた。
「お望みは……。」
 牛太郎のような番頭に、まず私はかたずを呑んで、商品のような求人のビラを見上げた。
「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん良く考えた方がいゝですよ。」
 肩掛もしていない。此みすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、ジロジロ私の上下に目を流している。
 下谷の寿司屋の女中さんに紹介をたのむと、壱円の手数料を五拾銭にまけてもらって、公園に行く。
 今にも雪の降って来そうな空模様なのに、ベンチの浮浪人達は、朗らかな鼾声をあげて眠っている。
 西郷さんの銅像も浪人戦争の遺物。
 貴方と私は同じ郷里なんですよ。鹿児島が恋しいとお思いになりませんか、霧島山が桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンの甘味い頃ですね。
 貴方も私も寒そうだ。
 貴方も私も貧乏だ。

 昼から工場に出る。生きるは辛し。

 十二月×日
 昨夜机の引き出しに入れてあった、松田さんの心づくし、払えばいゝんだ借りておこうかな、弱き者汝の名は貧乏なり。

家へかえる時間となるを
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。
 啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っている、私は工場から帰えると棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをする、それがたった一つの楽しさだ。
 二寸ばかりのキュウピーを一ツごまかして、茶碗をのせる棚に、のせて見る。
 私の描いた瞳、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけて、かき込む淋しい夜食。

 松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通ると、台所からはいって、声をかける。
「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい肉を買って来たんですよ。」
 松田さんも同じ自炊生活、仲々しまった人らしい。
 石油コンロで、ジ……と肉を煮る匂いが、切なく口を濡す。
「済みませんが此葱切ってくれませんか。」
 昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れておいたくせに、そうして、たった拾円ばかりの金を借して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。
 あんな人間に図々しくされると一番たまらない。
 遠くで餅をつく勇ましい音が聞える。
 私は沈黙ってボリボリ大根の塩漬を噛んでいたが、台所の方も佗しそうに、コツコツ葱を刻み出した。
「あゝ刻んであげましょう。」
 沈黙っているにはしのびない悲しさで、障子を開けて、松田さんの鉋丁を取った。
「昨夜はありがとう、五円叔母さんに払って、五円残ってますから、五円お返ししときますわ。」
 松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っていた。
 奥では弄花が始ったのか、叔母さんの、いつものヒステリー声がビンビン天井をつき抜けて行く。
 松田さんは沈黙ったまま米を磨ぎ出した。
「アラ、御飯まだ焚かなかったんですか。」
「えゝ貴女が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」

 洋食皿に割けてもらった肉が、どんな思いで私の食道を通ったか。
 私は色んな人の姿を思い浮べた。
 そしてみんなくだらなく思えた。
 松田さんと結婚してもいゝと思えた、始めて松田さんの部屋へ遊びに行く。
 松田さんは、新聞紙をひろげて、ゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて笊へ入れていた。
 あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、又前よりもさらに凄くキリヽッと弓をはって、私はそっと部屋へ帰った。

「寿司屋もつまらないし……」
 外は嵐。
 キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。
 吹き荒さめ、吹き荒さめ、嵐よ吹雪よ。

――何だかあんまり長くなりましたので、これで一寸ひとやすみしましょう。気分が新らしくなりましたら、又続けます。長谷川氏及び愛読者諸氏の好意を謝します。筆者――
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裸になって



 四月×日
 今日はメリヤス屋の安さんの案内で、親分のところへ酒を入れる。
 道玄坂の漬物屋の露路口に、土木請負の看板をくゞって、奇麗ではないが、ふきこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢のそばで茶をすゝっていた。
「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に銀行が建ちましょうよ。」
 お爺さんは人のいゝ高笑いをして、私の持って行った一升の酒を受取った。

 誰も知人のない東京だ。恥ずかしいも糞もあったもんじゃない。ピンからキリまである東京だ。裸になり次手に、うんと働いてやろう。私は辛かった菓子工場の事を思うと、気が晴れ晴れとした。
 夜。
 私は女の万年筆屋さんと、当のない門札を書いているお爺さんの間に、店を出した。
 蕎麦屋で借りた雨戸に私はメリヤスの猿股を並べて「弐拾銭均一」の札をさげると万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死を読む。
 大きく息を吸うともう春だ。この風には、遠い遠い思い出がある。
 舗道は灯だ。人の洪水だ。
 瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算記を売っている。
「諸君! 何万何千何百に、何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
 高飛車に出る、こんな商売も面白いものだな。
 お上品な奥様が、猿股を弐拾分も捻って、たった一ツ買って行く。

 お母さんが弁当持って来る。
 暖かになると、妙に汚れが目にたつ、お母さんの着物も、さゝくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。
「私が少し変るから、お前御飯お上り。」
 お新香に竹輪の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっている。舗道に脊をむけて食べていると、万年筆屋の姉さんが、
「そこにもある、こゝにもあると云う品物ではござりません。お手に取って御覧下さいまし。」
 私はふっと塩ぱい涙がこぼれた。
 母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄をうたっている。
たったったっ田の中で……
 九州へ行っている父さんさえこれでよくなったら、当分はお母さんの唄でないが、たったかたのただ。

 四月×日
 水の流れのような、薄いショールを街を歩く娘さん達がしている。一ツ欲しいな。洋品店の四月の窓飾りは、金と銀と桜の花だ。

空に拡った桜の枝に
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき

食えなくてボードビルに飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。

ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するする奇妙な糸がたぐって行きます。

花が咲きたいんじゃなく
強権者が花を咲かせるのです

貧しい娘さん達は
夜になると
果実のように唇を
大空へ投げてやるのですってさ

青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけなのですよ
そっぽをむいた
唇の跡なんですよ。

 ショールを買う金を貯める事を考えたら、ゼントリョウエンなので割引きの活動見に行く。フィルムは鉄路の白バラ。
 途中雨が降り出したので、活動から飛び出すと店に行く。
 お母さんは茣蓙をまるめていた。
 いつものように、二人で荷物を脊負って、駅へ行くと、花見帰えりの金魚のようなお嬢さんや、紳士達が、夜の駅にあふれて、藻のようにくねっていた。
 二人は人を押しわけて電車へ乗る。
 雨が土砂降りだ。いゝ気味だ。もっと降れもっと降れ。花がみんな散ってしまうといゝ。暗い窓に頬をよせて外を見ると、お母さんがしょんぼりと子供のように、フラフラしているのが写っている。
 電車の中まで意地悪がそろっているものだ。

 九州からの音信なし。

 四月×日
 雨にあたって、お母さんが風を引いたので一人で店を出しに行く。
 本屋には新らしい本がプンプン匂っている買いたいな。
 泥濘にて道悪し、道玄坂はアンコを流したような舗道だ。一日休むと、雨の続いた日が困るので、我慢して店を出す。
 色のベタベタにじんでいる街路に、私と護謨靴屋さんきりだ。
 女達が私の顔を見てクスクス笑って通る。頬紅が沢山ついているのか知ら、それとも髪がおかしいのか知ら、私は女達を睨み返えしてやった。
 女ほど同情のないものはない。
 ポカポカお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ屋さん店を出す。湯銭が弐銭上ったとこぼしていた。
 昼はうどん二杯たべるの――拾六銭也――

 学生が、一人で五ツも買って行ってくれた。今日は早くしまって芝へ仕入れに行って来よう。
 帰えり鯛焼きを拾銭買う。

「安さんがお前、電車にしかれて、あぶないちゅうが……。」
 帰えると、母は寝床の中から叫んだ。
 私は荷を脊負ったまゝ呆然としてしまった。
 昼過ぎ、安さんの家の者が知らせに来たと母は書きつけた病院の紙をさがしていた。

 夜芝の安さんの家へ行く。
 若いお上さんが、眼を泣き腫らして、病院から帰えって来た。
 少しばかり出来上っている品物をもらってお金を置いて帰える。
 世の中は、よくもよくもこんなにひゞだらけになるものだ。昨日まで、元気にミシンのペタルを押していた安さん夫婦を思い出す。春だと云うのに、梅が咲いたと云うのに、私は電車の窓に凭れて、赤坂のお濠の灯をいつまでも眺めていた。

 四月×日
 父より長い音信来る。
 長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の金を、お母さんが皆送ってくれと云う。明日は明日だ。
 安さんが死んでから、あんな軽便な猿股も出来なくなってしまった。
 もう疲れきった私達は、何もかもがメンドくさくなってしまった。
「死んだ方がましだ。」

 十参円九州へ送る。
「わし達ゃ三畳でよかけん、六畳ば誰ぞに貸さんかい。」
 かしまかしまかしま、私はとても嬉しくなって、子供のように書き散らすと、鳴子坂の通りへ張りに出た。

 寝ても覚めても、結局死んでしまいたい事に落ちるが、なにくそ! たまには米の五升も買いたいものだ。お母さんは近所の洗い張りでもしようかと云うし、私は女給と芸者の広告がめにつく。
 縁側に腰かけて、日向ぼっこしていると、黒い土から、モヤモヤ湯気がたっている。
 五月だ、私の生れた五月だ。歪んだガラス戸に洗った小切れをベタベタ張っていたお母さんは、フッと思い出した様に云った。
「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前も、お父さんも八方塞りじゃで……。」
 明日から、此八方塞りはどうしてゆくつもりか! 運勢もへったくれもあったものじゃない、次から次から悪運のつながりだ。
 腰巻きも買いたし。

 五月×日
 かしまはあんまり汚ない家なので、まだ誰も来ない。
 お母さんは八百屋が借してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見ると、フクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいな。
 がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼠のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。

 夜の風呂屋で、母が聞いて来たと云って、派出婦になったらと相談した。いゝかも知れない。だが生れつき野性の私である。金満家の家風にペコペコする事は、腹を切るより切ない事だ。だが、お母さんの佗し気な顔を見ていたら、涙がダボダボあふれた。
 腹がへってもひもじゅうないかぶりを振っている時じゃないんだ、明日から、今から飢えて行く私達なのだ。
 あゝあの拾参円はとゞいたか知ら、東京が厭になった。早くお父さんがゆとりをつけてくれるといゝ。九州もいゝな四国もいゝな。
 夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたよりを書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれる人はないかと思ったりした。

 五月×日
 朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
 いとしいお母さん!
 大久保百人町のゆりのやと云う派出婦会に行く。
 中年の女の人が二人店の間で縫いものをしていた。
 人がたりなかったので、そこの主人は、デンピョウのようなものと地図を私にくれた。行く先は、薬学生の助手だと云う。

 道を歩いている時が、一番ゆかいだ。五月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、真に天下タイヘイにござ候と旗をたてゝいるようだ。此街を見ていると、何も事件がないようだ。買いたいものがぶらさがっている。
 私は桃割の髪をかしげて、電車のガラス窓でなおした。
 本村町で降りると、邸町になった露路の奥にそのうちがあった。
「御めん下さい。」
 大きな家だな、こんなでかい家の助手になれるか知ら……、何度もかえろうかと思いながら、ぼんやり立ちつくした。
「貴女派出婦さん! 派出婦会から、何時に出たって電話がかゝって来たのに、おそいので、坊ちゃん怒ってらっしゃるわ。」
 私が通されたのは、洋風なせまい応接室。
 壁には、色の褪せたミレーの晩鐘の口絵のようなのが張ってあった。面白くもない部屋だ。腰掛けは得たいが知れない程ブクブクしていた。
「お待たせしました。」
 何でも此男の父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬の見本の整理で、わけのない事だった。
「でもそのうち、僕の方の仕事が急がしくなると、清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎の方へ研究に行くんですが来てくれますか。」
 此男は廿四五かな、私は若い男の年が、ちっとも判らないので、じっと脊の高いその人の顔を見ていた。
「いっそ派出婦の方を止して、毎日来ませんか。」
 私も、派出婦って、いかにも品物みたいな感じのするところよりその方がいゝと思ったので、一ヶ月三十五円で、約束してしまった。
 紅茶と、洋菓子が日曜の教会に行ったように少女の日を思い出させた。
「君はいくつですか?」
「廿一です。」
「もう肩上げをおろした方がいゝな。」
 私は顔が熱くなった。

 卅五円毎月つづくといゝな。だがこれも当分信じられはしない。
 母は、岡山の祖母がキトクだと云う電報を手にしていた。私にも母にも縁のない祖母さんだが、たった一人の義父のお母さんだし、これも田舎で、しょんぼりと、さなだ帯の工場に、通っている一人の祖母さんが、キトクだと云う。どんなにしても行かなくてはいけない。九州の父へは、四五日前に金を送ったばかりだし、今日行ったところへ金を借りに行くのも厚かましいし。
 私は母と一緒に、四月もためているのに家主のとこへ行く。
 拾円かりて来る。沢山利子をつけて返えそうと思う。
 残りの御飯を弁当にして風呂敷に包んだ。

 一人旅の夜汽車は佗しいものだ。まして年をとってるし、さゝくれた身なりのまゝで、父の国へやりたくはないが、二人共絶体絶命のどんづまり故、沈黙って汽車に乗るより仕方がない。
 岡山までの切符を買ってやる。
 薄い灯の下に、下ノ関行きの急行列車が沢山の見送り人を吸いつけていた。

「四五日内には、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして行っていらっしゃい。しょぼしょぼしたら馬鹿よ。」
 母はくッくッ涙をこぼしていた。
「馬鹿ね、汽車賃は、どんな事しても送りますからね。安心して、お祖母さんのお世話していらっしゃい。」
 汽車が出てしまうと、何でもなかった事が悲しく切なく、目がぐるぐるまいそうだった。省線を止めて東京駅の前に出る。

 長い事クリームを塗らないので、顔が、ヒリヒリする。涙が止度なく馬鹿みたいに流れる。
信ずる者よ来れ主のみもと……
 遠くで救世軍の楽隊が聞える。何が信ずるものでござんすかだ。自分の事が信じられなくて、たとえイエスであろうと、お釈迦さんであろうと、貧しい者は信じるヨユウがない、宗教なんて何だ。食う事に困らないものだから、街にジンタまで流している。
 信ずる者よ来れ……。まだ気のきいた春の唄がある。
 いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血へどを吐いて、××さんの自動車にでもしかれてやろうか。
 いとしいお母さん、今貴女は戸塚、藤沢あたり、三等車の隅っこで何を考えています、どの辺を通っています……。

 卅五円が続くといゝな。
 お濠には、帝劇の灯がキラキラしている。私は汽車の走って行く線路を空想した。何もかも何もかもじっとしている。天下タイヘイで御座候か――。
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旅の古里



 六月×日
 海が見える。
 海が見える。
 五年振りに見る、旅の古里の海! 汽車が尾道の海へさしかゝると、煤けた小さい町の屋根が、提灯のように拡がって来る。
 赤い千光寺の塔が見える、山は若葉だ、海のむせた緑色の向うに、ドックの赤い船が、キリキリした帆柱を空に突きさしている。
 私は涙があふれた。

 借金だらけの私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時、町はずれに大きい火事があったが……。
「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに、火が燃えるのは、きっといゝ事がありますよ。」しょぼしょぼ隠れるようにしている親達を私は、こう言って慰めたが、東京でむかえに来てくれる者は、学校へ行っている、私の男一人であった。
 だが、あれから、あしかけ六年、私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしている。その男も、学校を出ると、私達を置きざりにして、尾道の向うの因の島へ帰えってしまった。
 気の弱い両親をかゝえた私は、当もなく昨日まで、あの雑音のはげしい東京を放浪していたが、あゝ今は旅の古里の海辺だ。海添いの遊女屋の行灯が、つばきのように白く点々と見える。
 見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった、海辺の朽ちた昔の家が、じっと息している。
 何もかも懐しい姿だ。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がする。
 尾道を去る時の私は、肩上げもあったが、今の私の姿は、銀杏返えし、何度も水をくゞった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないが、兎に角、もう汽車は尾道、肥料臭い匂いがする。

 午後五時
 船宿の時計が五時をさしている。待合所の二階から、町の灯を見ていると、妙に目頭が熱くなる。訪ずねて行こうと思えば、行ける家もあるが、それもメンドウクサイ、切符を買ってあと、五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出した。
 楽書きだらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、ヴォ! ヴォ! 汽笛の音、人の辷り降りの雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。
「因の島行きが出やんすで……。」ガクガクの梯子段を上って、客引きが知らせに来ると、花火のようにやけた、縞のはいった、こうもりと、小さい風呂敷包みをさげて、波止場へ降りて行った。
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
 物売りの声が、夕方の波止場の上を満たしている。
 紫色の波にゆれて、因の島行きのポッポ船が、ドッポンドッポン白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。
 あの町の灯の下で、ポオルヴィルジニイを読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰えったまゝの私は、
「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うちゃったりやんで……。」
と、キテンをきかしてお母さんが、佗し気にほめてくれた事があった。あの頃、町には城ヶ島の唄や、沈鐘の唄が流行っていた。
 ラムネを一本買う、残金四拾七銭也。

 夜。
「皆さん、はぶい着きやんしたで!」
 船員がロープをほぐしている。小さな舟着き場の横に、白い病院の灯が、海に散っていた。この島で長い事私を働かせて学校へいっていた男が、安々と息しているのだ。造船所で働いているのだ。
「此辺に安宿ありませんか。」
 運送屋のお上さんが、宿屋まで連れて来てくれた。
 糸のように細い町筋を古着屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に、風呂敷包をおくと、私は雨戸をくって海を見た。
 明日は尋ねて行こう。私は四十七銭也の財布を袂に入れると、ラムネ一本のすきばらのまゝ汐臭い蒲団に足を延ばした。
 どこか遠くの方で、蜂の巣の様にワンワン喚声があがっている。

 六月×日
 枕元をガリガリ水色の蟹が這って行く。町はストライキだ。
「会いに行きなさるゆうても、大変でごじゃんすで、それよりや、社宅の方へおいでんさった方が……。」
 私は心細くかまぼこを噛んだ。
 社員達は、全部書類を持って、倶楽部へ集っていると云う。
 私はぼんやりと外へ出た。万里の城のように、えんえんとコンクリートの壁をめぐらしたドックを山の上から見ると、菜っぱ服を旗に押したてゝ通用門みたいなとこに、黒蟻のような職工の群が、ワンワン唸っている。
 山の小道を、子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。六月の海は、銀の粉を吹いて、縺れた樹の色が、シンセンな匂いをクンクンさせていた。
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」
 髪をいっせいに、後に吹かせた若いお上さんが、ドックを見降した。××と職工のこぜりあい
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達のリンリとした肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、
しっかりやってつかアしゃア。」
「あんた娼妓さんかな。」私は沈黙ってコックリした。
御亭主ゴテイがあそこにおってんな、うちの人ア、こうなったら、もう死んでもえゝつもりでやる云いしよりやんした。」
 私はわけもなく涙があふれた。事務員をしたりして、つくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている。どうしても会って帰えらなければいけない。
「こゝから見てると、あんな門位、船につかう××××××を投げりゃ、すぐ崩れちゃうのに。」
「職工は正道でがんすけん、皆体で打つかって行きやんさアね。」
 門が崩れた。
 蜂が飛ぶように、黒点が散った。
 ツルツルした海の上を、小舟が無数に四散して行く。

潮鳴りの音を聞いたか!
茫漠と拡った海の叫喚を聞いたか!

煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散し
夕焼けた浜辺へ集った。

遠い潮鳴りの音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
こゝは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえって
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン ワアン
島いっぱいに吠えていた。

ド……ド……ド……
青いペンキ塗りの通用門が群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかゝえて
雪夜の狐のようにヒョイヒョイ
ランチへ飛び乗って行ってしまう。
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてゝいるではないか
逃げたランチは
投網のように拡がった○○の船に横切られてしまうと
さても
此小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。

歯を噛み額を地にすりつけても
空は――
昨日も今日も変りのない
平凡な雲の流れだ
そこで!
頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドックの破船の中に渦をまいて雪崩ていった。

潮鳴りの音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ

元気な若者達が
キンキラ光った肌をさらして
カラヽ カラヽ カラヽ
破れた赤い帆の帆縄を力いっぱい引きしぼると
海水止めの関を喰い破って
朱船は風の唸る海へ出た!

それ旗を振れッ
○○歌を唄えッ
朽ちてはいるが
元気に風をいっぱい孕んだ朱帆は
白いしぶきを蹴って海へ!
海の只中へ矢のように走って出た。

だが……
オーイ オーイ
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な喚叫に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなに脊のびして
空高く呼んでいるではないか!

遠い潮鳴りの音を聞いたか!
波の怒号するを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手を振っている女房子供の目の底には
火の粉のようにつっ走って行く
赤い帆がいつまでも写っていたよ。

 宿へ帰えったら、蒼ざめた男の顔が、ぼんやり天井を見ていた。
「宿の叔母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「………………」
 私は子供のように涙が湧いた。何の涙でもない、白々とした考えのない涙が、あとからあとから、あふれて、沈黙ってしきいの所に立って泣いた。夕方の空を時鳥がケンケン鳴いて行く。

「こゝへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけど、宿の叔母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ、それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」
 沈黙っている二人の耳に、ワアンワアン喚声が聞える。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸のぞいてみなくては……。」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そゝくさと町へ出てしまった。
 私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計を、そっと腕にはめてみた。涙がダボダボあふれた。
 東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルして、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。

 六月×日
 宿の娘と連れだって、浜を歩く、今日で一週間になる。
「くよくよおしんな。」私は何もかもメンドくさくなって、呆然としていると、宿の娘は心配してくれる。
 何も考えてやしない。何も考えようがない。
 昨日は東京のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手。私から何もかもむさぼり取った男なんだから、此位のコワガラセが何だろう。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹を打ちつけては、あの男の子供を産む事をおそれたが、今日はいじらしいお伽話だ。

 昨日の電報ガワセで、義父や母が一息ついてくれゝばいゝ、キラキラした浜辺を、洗い髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしている男の兄さんが、オーイオーイと後から呼びかけて来た。
 久し振りに見る兄さん、尾道の家に、木になった蜜柑や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのまゝで、笑いかけている。
「何も言わんもんじゃけん、苦労させやんした。」

 海が青く光っている。
 娘をかえして、二人で町はずれの男の親の家へ行く。
 海近くまで、田が青々して蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」
 海にやけた佗し気な顔して兄さんは口をつぐむ。

 家では七十になる老婆が、コトコト米をついていた。牛が一匹優さしい瞳をして私を見た。私は、どうしてもはいりたくなかった。
 何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなった、白い路のつづいている浜路を、私はあとしざりするように、宿へ急いだ。

 六月×日
 颯爽として朝風をあびて、私は島へハンカチを振った。
 どこへ行っても、どうにも仕様のない事だらけなんだ、東京へ帰えろう、私の財布は五六枚の拾円札でふくらんでいた。
 兄さんの家でもらった、デベラの青籠と風呂敷包みをかゝえて、ピヨピヨした板を渡って、船へ乗った。
「気をつけてのう……。」
「えゝ! 兄さんもうストライキはすんだんですか。」
「○○が仲へ入って三割かた職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」
 男は寝ぶそくな目をシパシパさせて、波止場へ降りて来た。
「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」
 船の中は露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。

 あゝ何か馬鹿になったような淋しさで、私は口笛を吹きながら、遠く走る島の港を見かえった。二人の黒点が消えると、静かなドックの上に、ガアン ガアンと鉄を打つ音がひゞいていた。
 尾道についたら、半分東京へ送ってやろうかな、東京へかえったら、氷屋もいゝな、せめて暑い日盛りを義父さんが、ウロウロ商売をさがして歩かないように、此暮は楽に暮らしたいものだ。
 私は体を延ばして、走る船の上から波に手をつけてみた。
 手を押しやるようにして波が白くはじける、五本の指に藻がもつれた糸のようにからまって、しおしおとしている。
「こんどのストライキは、えれ短かゝったなあ――。」
「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」
 船員達が、ガラス窓を拭きながら、話している。
 私はも一度、青い海の向うにポツンとした島を見た。
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淫売婦と飯屋



 十二月×日
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
 雪のシラシラ降っている夕方、私は此啄木の歌をふっと思い浮べながら、郷愁かなしさを感じた。便所の窓を明けると門灯がポカリとついて、むかあし山国で見たしゃくなげの紅い花のようで、とても美しかった。

「姉やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ!」
 奥さんの声がする。
 あゝあの百合子と云う子供は私に苦手にがてだ。よく泣くし先生に似て、シンケイが細々として、全く火の玉を脊負っているような感じだ。
 せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。
 ――バナヽ、鰻、トンカツ、蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。
 気持が大変貧しくなると、落書したくなる気持ち、トンカツにバナナ私は指で壁に書いてみた。

 夕飯の仕度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たり。
 秋江氏の家へ来て一週間あまり、さきのメドもなさそうだ。
 こゝの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたり、まるで廿日鼠はつかねずみだ。あのシンケイにはやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
 私の肩を覗いては、先生は安心したようにじんじんばしょりして二階へ上って行く。私は廊下の本箱から、今日はチェホフを引っぱり出して読む。チェホフは心の古里だ。
 チェホフの吐息は、姿は、みな生きて、たそがれの私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。
 匂おわしい手ざわり、こゝの先生の小説を読んでいると、もう一度チェホフを読んでもいゝのになあと思う。京都のお女郎の事なんか、私には縁遠いねばねばした世界だ。

 夜。
 家政婦のお菊さんが、美味おいしそうなゴモク寿司をこしらえているのを見て、嬉しくなった。
 赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時だ。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなんだが、不思議な事に、赤ん坊が私の脊におぶさると、すぐウトウト眠ってしまって、家の人達が珍らしがっていた。
 お蔭で本が読めること――。
 年を取って子供が出来ると、仕事も手につかない程心配なのかも知れない。反感いやみがおきる程、先生は赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するもんじゃないと思った。
 うまごやしにだって可憐な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら……。
 奥さんは野育ちな人だけに、眠った様な女だったが、この家では一番好きだった。

 十二月×日
 ひまが出る。
 行くところなし。
 大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に乗った陸橋の上で貰らった紙をひらいてみたら、たった弐円はいっていた。二週間あまりいて、金弐円也、足の先から血があがるような思いだった。

 ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、ザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなった。間代も払って、やれやれと住み込むと、二週間でお払いばこだ。
 蒼い瓦葺きの文化住宅の貸家があった。庭が広ろくて、ガラス窓が二月の風にキラキラ光っていた。休んでやろうかな。
 勝手口をあけると、さびた鑵詰のかんからがゴロゴロして、座敷の畳がザクザク砂で汚れていた。
 昼間の空家あきやは淋しい、薄い人の影があそこにもこゝにもたゝずんでいるようで、寒さがビンビンこたえて来る。
 どこへ行こうかしら、弐円ではどうにもならないし、はばかりから出て来ると、荒れた縁側のそばへ、狐のような目のクリクリした犬がじっと私を見ている。
「何でもないんだよ、何でもありゃしないんだよ。」
 言いきかせるつもりで、私は屹とつったっていた。
 どうしようかなあ……。

 夜。
 新宿の旭町の木賃宿へ泊る。
 石垣の下の、雪どけで、道がこねこねしている通りの、旅人宿に、一泊参拾銭で私は泥のような体を横たえた。
 三畳の部屋に、豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしない部屋の中に、明日の日の約束されてない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いた。

みんな嘘っぱちばかりの世界だ!
甲州行きの終列車が頭の上を突きさした
百貨店マーケットの屋上のように寥々とした
全生活を振り捨てゝ私は
木賃宿の蒲団に静脈を延ばした
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめて
真夜中煤けた障子をいっぱい明けると
こんなところにも月がおどけていた。

みんなさよなら
私は歪んだサイコロになって逆もどり
こゝは木賃宿街の屋根裏
私は堆積された信念をつかんで
ビョウ ビョウと風に吹かれていた。

 夜中になっても人がドタドタ出はいりしている。
「済みませんが……。」
 ガクガクの障子をあけて、銀杏返えしに結った女が、そう言ったきり、薄い私の蒲団にもぐり込んで来た。
 ドタドタと大きい足音がすると、帽子もかぶらないうす汚れた男が細めに障子をあけて声をかけた。
「オイ! おきろ!」
 女が、一言二言つぶやきながら、廊下へ出ると、パチンと頬を打つ音が続けざまに聞えて、無意味な、汚水のような寞々とした静かさが続いて、女の乱して行った空気が、仲々しずまらなかった。

「今まで何をしていたのだ、原籍は、どこへ行く、年は、両親は……。」
 あのうす汚れた男が、鉛筆をなめ乍ら、私の枕元に立っている。
 どうにでもなれッ。
「あの女と知りあいか?」
「え、三分間ばかり……。」
 クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがゝりは持たなかっただろう。刑事が去ると、私は伸々と手足を延ばして枕の下に入れてある財布をさわってみた。壱円六拾五銭残っている。
 日がビュウビュウ風に吹かれているのが、歪んだ高い窓から見える。ピエロは高いところから飛びおりる事は上手だが、上って見せる芸当は容易じゃない。
 だが何とかなるだろう。――。

 三月×日
 青梅街道の入口の飯屋へ行く。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が馳け込むように這入って来て、
「姉さん! 拾銭で何か食わしてくんないかな、拾銭玉一ツきりしかないんだよ。」
 大声で正直に立っていると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいゝですか。」
 労働者は急にニコニコしてバンコへ腰かけた。そして大きな丼の飯と、葱のはいった肉豆腐と汁碗を前にして、天真にたべている。
 一食拾銭よりと書いてあるのに、十銭玉一ツきりの此労働者は、スナオに正直に、入口から念を押している。
 涙ぐましい気持ちだった。
 御飯の盛りが私のヨリ多いような気がしたけれど、あれで足りるかしら、足りなかったら出してあげてもいゝけど、でも労働者はいたって朗らかだった。
 私の前には、御飯にごった煮にお新香、まことに貧しき山海の珍味。合計拾弐銭也、のれんを出ると――どうもありがとう――お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつをかわして、拾弐銭、どんづまりの世界は、光明と紙ひとえで、真に朗らかだ。
 だが、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、拾銭玉一ツで、失望、どんぞこ、堕落との紙ひとえだ――。

 お母さんだけでも東京へ来てくれゝば、何とか働きようもあるんだけど……沈むだけ沈んだ私は難破船、飛沫がかゝるどころではない、ザンブザンブ潮水を呑んで、結局私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。
 あの女は卅すぎていたかも知れない。私が男だったら、あのまゝ一直線にあの夜に溺れて今朝はあの女と、もう死ぬ話でもしていたか知れない。荷物を宿にあずけて、神田の職業紹介所に行く。
 何と云う冷たいこうまんちきな女だろう、私は、どこへ行っても砂っ原のように亮々とした思いがするので、厭になってしまった。
 お前さんに使ってもらうんじゃないんだよ。
 おたんちん!
 馬鹿野郎!
 ひょっとこ!
 そうくり返えしている間に、私の番が来た。桃色の吸取紙みたいなカードを渡すと、月給参拾位い……受付女史はこうつぶやくと、私の体を見て、まずせゝら笑って云った。
「女中じゃいけないの? 事務員なんて、学校出がウヨウヨいるんだから……女中なら沢山あってよ。」
 後から後から美しい女の花束、真にごもっともさまで私の敵ではない。疲れた彼女達の中にも、冬らしい仄かな香水の匂いがする。
 得るところなし。
 紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢。伊大利大使館の女中。
 ふところには、もう九拾銭あまりしかない、夕方宿へ帰えると、街に働きに出る芸人達が、縁側の植木鉢みたいに並んで、キンキンした鼠色のお白粉を塗りたくっている。
昨夜ゆうべは二分しかうれなかった。」
「やぶにらみじゃ買い手がねえや!」
「これだって好きだって人があるんだからね。」
「はい御苦労様か……。」
 十四五の少女むすめ同志のはなし。

 十二月×日
 ワッハ ワッハ ワッハ 井戸つるべ、狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって眉ずみをつける。

 午前十時。
 麹町三年町の伊大利大使館へ行く。
 笑って暮らしましょう。
 顔がゆがみまする。
 黒人の子が馬に乗って出て来た。門のそばにこわれた門番の小屋みたいなのがあって、白と蒼と青との風景、砂利が遠くまでつゞいて、所詮は私のような者の来るところでもなさそうだ。
 地図のある、赤いジュウタンの広い室に通されると、白と黒のコスチウム、異人の妻君って美しい、遠くで見るとなお美しい。さっき馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰えって来た。
 男の異人さんも出て来たが、大使ではなく、書記官だとかって事だ。夫婦共脊が高くてアッパクを感じる。
 その白と黒のコスチウムをつけた夫人に、コック部屋を見せてもらう。コンクリートの箱の中に玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二ツ置いてあった。此七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきするのだと云う。まるで廃屋のような女中部屋、黒いよろい戸がおりていて、石鹸のような外国の臭いがする。

 結局ようりょうを得ないで門を出る。ゴウソウな三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹き上げる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラ暮れ近かく瞳にしみた。
 人種が違っては人情も判りかねる。どこか他を探して見様かしら。
 電車に乗らないで濠ばたを歩いていると、国へ帰りたくなった。目当めあてもないのにウロウロ東京で放浪したところで、結局どうにもならない。電車を見ていると死ぬる事を考える。

 本郷の前の家へ行く。叔母さんつめたし。
 近松氏から郵便来ている。出る時に、十二社の吉井勇さんのところに女中がいるから、ひょっとしたら、あんたを世話してあげると云う、先生の言葉だったが、薄ずみで書いた断り状だった。

 夕方新宿の街を歩いていると、妙に男の人にすがりたくなった。
 誰か助けてくれる人はないかなア……新宿駅の陸橋に紫色のシグナルがチカチカゆれているのを見ると、涙で瞼がふくらんで、子供のようにしゃっくりが出た。

 当ってくだけてみよう――。
 宿の叔母さんに正直に話しする。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていゝと云ってくれた。
「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いゝのになると七拾円位いはいるそうだが……。」
 どこかでハタハタでも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七拾円もはいれば素的だ。ブラさがるところをこしらえなくては……。十燭の電気のついた帳場の炬燵にあたって、お母アさんへ手紙を書く。
 ――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。

 此間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来る。
「おとついはひどいめに会った! お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」

 電気の下で見ると、もう四十位の女で、バクレン者らしい崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを梟と云って、色んな男を夜中に連れこんで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃないんですよ。お父つぁん油しぼられて、プンプン怒ってますよ。」
 人の好さそうな老いたお上さんは、茶を入れながら、あの女をのゝしっていた。

 夜うどんをたべる。
 明日はこゝの叔父さんの口ぞえで青バスの車庫へ試験うけに行ってみよう……。

 電線が鳴っている。
 木賃宿街ホテルガイの片隅に、此小さな女は汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある、大黒さんの顔を見ながら雲の上の御殿のような空想をする。
 国へかえってお嫁さんにでも行こうかしら。――

 ――放浪記を愛読して下さいます方へ! 私の放浪記が一冊にまとまって、改造社から近刊されます。一人でも沢山の方が読んで下さいましたら、うれしゅうございます。これは筆者からのお願い。――
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雷雨



 七月×日
 胸の凍るような佗しさだ。
 夕方、頭の禿げた男の云う事に、「俺はこれから女郎買いに行くのだが、でもお前さんが好きになったよ、どう……。」私は白いエプロンをクシャクシャにまるめて、涙を口にくゝむんだ。
「お母アさん! お母アさん!」
 何もかも厭になって、二階の女給部屋の隅に寝ころぶ。鼠が群をなして這っている。
 暗らさが瞳に沈むと、雑然ごろ/\と風呂敷包みが墓場の石塊のように転がって、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れている。
 煮えくり返えるような階下の雑音の上に、おばけでも出て来そうに、シンと女給部屋は淋しい。
 ドクドク流れ落ちる涙が、ガスのようにシュウシュウ抜けて行く。悲しみの氾濫、何か正しい生活にありつきたい。
 何か落ちついて本が読みたい。

しゅうねん強く
家の貧苦・酒の癖・遊怠の癖
みなそれだ
ああ、ああ、ああ、

切りつけろそれらに
とんでのけろ、はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くように芸術を吐き出して狂人のように踊りよろこぼう。

 槐多はかくも叫びつゞけている。こんなうらぶれた思いの日、チェホフよ、アルツイバァセフよ、シニツラァ、私の心の古里を読みたい。働くと云う事を辛いと思った事はないが、今日ほど、今こそ字がなつかしい。だが今は皆お伽話の人だ。
 薄暗がりの風呂敷の中に、私は直哉の和解を思い出した。
 こんなカフェーの雑音おとに巻かれると、日記をつける事さえ、おっくうになって来る。
 まず雀が鳴いているところ、朗らかな朝陽がウラウラ光っているところ、陽にあたって青葉の音が色が、雨のように薫じているところ……槐多ではないが、狂人のように、一人居の住居が、イマ! イマ! 慾しくなった。
 十方空しく御座候だ! 暗いので、只じっと瞳をとじている。
「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい!」階下でお上さんが呼んでいる。
「ゆみちゃん居るの……お上さんが呼んでゝよ。」

「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」
 八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない、痛い痛い気持ちが、ふくらがって、いっそ死んでしもうたならと唄い出したくなる。
 メフィストフェレスがそろそろ踊り出したぞ! 昔おえらいルナチャルスキイとなん申します方が、云ってござる。
 ――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや! 生ける有機体とは何ぞや! 落ちたるマグダラのマリヤ! ワッハ ワッハ。
 死ぬんだ!
 死ぬんだ!
 自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると、死ぬる空想をした。毒薬を呑む空想をした。
「お女郎買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく朗らかな事であろう――。

 どうせ故郷もない私だ、だが一人のお母さんの事を思うと、切なくなる。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男達の顔が熱い瞼に押して来る。
「オイ! ゆみちゃん、女給が足りない事よく知ってんだろう。少々位は我慢して階下へ降りとくれよ。」お上さんは声をとがらして、梯子段を上って来る。
 あゝ何もかも、一切合財が煙だ。砂だ、泥だ。私はエプロンの紐を締めなおすと、陽気に唄をくゝみながら、海底のような階下の雑音おとへ流れて行った。

 七月×日
 朝から雨。
 造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、蛾のように女は他の足留りへ行ってしまった。
「あんた人がいゝのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」
 八重ちゃんが、白いくるぶしを掻きながら私を嘲笑っている。
「ヘエ! そんな言葉あれがあったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘パラソルでも盗んでドロンしちゃおうかなア。」
 私がこう言うと、寝ころんでいた、由ちゃんが、「世の中が泥棒ばかりだったら痛快だわ……。」
 由ちゃんは十九、サガレンで生れたのだと云って白い肌が自慢だった。八重ちゃんが肌を抜いでいるかば色の地に、窓ガラスの青い雨の影が、キラキラ写っている。煙草のけむり、女の呆然けむり
「人間ってつまらないわね。」
「でも木の方がよっぽどつまらない。」
「火事が来たって、大水が来たって逃げられないから……」
「馬鹿ね!」
「ホッホッ誰だって馬鹿じゃないの。」
 女達のおしゃべりは夏の青空、あゝ私も鳥か何かに生れて来るとよかった。
 電気をつけて阿弥陀を引く。
 私は四銭。女達はアスパラガスのように、ドロドロ白粉をつけたまゝ皆ゾロリと寝そべって、蜜豆を食べる。
 雨がカラリと晴れて、窓に涼しい風が吹いている。
「ゆみちゃん! あんたいゝ人があるんじゃない! 私そう睨んだわ。」
「あったんだけど遠くへ行っちゃったのよ。」
「素的ね。」
「あら、なぜ?」
「私別れたくっても、別れてくんないんですもの。」
 八重ちゃんは空になったスプーンを嘗めながら、今の男と別れたいわと云う。どんな男と一緒になっても同じ事だと私が云うと、
「そんな筈ないわ、石鹸だって、拾銭のと五拾銭のじゃ、随分品が違ってよ。」

 夜。
 酒を呑む。
 酒に溺れる。
 もらい――弐円四拾銭、アリガタヤ、カタジケナヤ。

 七月×日
 心が留守になると、つまずきが多い。ざんざ降りの雨の中を、私を乗せた自動車くるまは八王子街道を走っている。
 もっと早く!
 もっと早く!
 たまに自動車になんて乗れば、女王様のようにいゝ気持ち。町にパッパッと灯がつきそめる。
「どこへ行く?」
「どこだっていゝわ、ガソリンが切れるまで走ってよ。」
 運転台の松さんの頭が少し禿げかけている。若禿げかな。

 午後からの公休日を所在なく消していると、自分で自動車を持っている運転手の松さんが、自動車に乗せてくれると云う。
 たなしまで来ると、赤土へ自動車くるまがこね上って、雨のざんざ降りの漠々とした櫟の小道に、自動車くるまはピッタリ止ってしまった。遠くの眉程な山裾に、キラキラ灯がついているきりで、ざんざ降りの雨に、ゴロゴロ地鳴りのように雷が光りだした。雷が鳴るとせいせいしていゝ気持ちだが、シボレーの古自動車なので、雨がガラス窓に叩かれるたび、霧のようなしぶきが車室にはいる。
 その、たそがれの櫟の小道、自転車が一台通ったきりで、雨の怒号と、雷のネオン、サインだ。
「こんな雨じァ道へ出る事も出来ないわね。」
 松つぁんは沈黙って煙草を吸っている。
 だが、こんな善良そうな男に、こんな芝居よりもうまうまとしたコンタンはあり得ない。
 スイスイとしたいゝ気持だった。
 雷も雨も、破れるように響いてくれ。
 自動車は雨に打たれたまゝ夜の櫟林に転がってしまった。
 私は男の息苦るしさを感じた。機械油くさい葉っぱ服に押されると、私はおかしくもない笑いがこみ上げて来た。
 十七八の娘でもあるまいし、私は逃げる道を上手に心得ておりまする。私が男の首に手を巻いて言った事は、
「あんたは、まだ私を愛してるとも何とも言わないじゃないの……暴力で来る愛情なんて、私大嫌いさ、私が可愛かったら、もっとおとなしくなくちゃ厭だよだ。」
 私は男の腕に女狼のような歯形くちを当てた。
 私は胸が迫った。男の弱点よわみと、女の弱点よわみの闘争だ。
 雷と雨……夜がしらみかけた頃、男は汚れたまゝの顔で眠っている。ふゝんハイボクの兵士か!

 遠くで青空レイメイをつげる鶏の声がする。朗らかな夏の朝、昨夜の情熱なんかケロリとして、風が絹のようにしゅうしゅう流れている。
 此男があの人だったら……コッケイな男の顔を自動車に振り捨てたまゝ私は泥んこの道に降りた。
 紙一重の昨夜のつかれに、腫れぼったい瞳を風に吹かせて、久し振りに晴々と故郷のような路を歩いた。

 芙美子はケイベツすべき女で厶います!

 荒みきった私は、つッと櫟林を抜けると、松さんが、いじらしくなった。疲れて子供のように自動車に寝ている男の事を思うと、走ってかえって起してやろうかしら……でも恥ずかしがるかも知れないな、私は松さんが落ちついて、運転台で煙草を吸っていた事を思うと、やっぱり厭な男に思えた。
 誰か、私をいとしがってくれる人はないか、七月の空に流離の雲が流れている、私の姿だ。野花を摘み摘みプロヴァンスの唄を唄った。

 八月×日
 女給達に手紙を書いてやる。秋田から来たばかりの、おみきさんが鉛筆を甞めながら眠りこけている。
 酒場ではお上さんが、一本のキング、オヴ、キングを清水で七本に利殖している。埃と、むし暑さ、氷を沢山呑むと、髪の毛が沢山抜けると云って氷を呑まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、パリパリ噛んでいる。
「一寸! ラブレターって、どんな書き出しがいゝの……。」
 八重ちゃんが真黒な瞳をクルクルさせて、赤い唇を鳴らす。
 秋田とサガレンと、鹿児島と千葉の呆然けむりのような女達が、カフェーのテーブルを囲んで遠い古里に手紙を書いている。

 街に出てメリンスの帯一本買う。壱円弐拾銭(八尺)
 何か落ちつける職業はないかと、新聞の案内欄を見る。いつもの医専の群、ハツラツとした男の体臭が汐のように部屋に流れて、学生好きの、八重ちゃんは、書きかけのラブレターをしまって、両手で乳房をおさえて品をつくる。

 二階では由ちゃんが、サガレン時代の業だと云って、私に見られた羞かしさに、プンプン匂う薬をしまってゴロリと寝ころんだ。
「面白くないね。」
「ちっとも。」
 私はお由さんの白い肌を見ると、妙に悩やましかった。
「私これで子供二人生んだのよ。」
 お由さんはハルピンのホテルの地下室で生れたのを振り出しに、色んな所を歩いて来たらしい。子供は朝鮮のお母さんのとこにあずけて、子供のでない男と東京へ流れて来ると、お由さんはおきまりの男を養うためのカフェー生活。
「着物が一二枚出来たら、銀座へ乗り出そうかと思っているの。」
「いつまでもやる仕事じゃないわね。」
 春夫の車窓残月の記を読んでいると、何だか、何もかも夢のようにと一言瞳を射た優さしい柔い言葉があった。
 何もかも夢のように……落ちついて小説や詩が書きたい。
 キハツで紫の衿をふきながら、
「ゆみちゃん! どこへ行っても音信たより頂戴よ。」
 由ちゃんが涙っぽく私へ――えゝ何でもかでも夢の様に――ね。
「そんなほん面白い?」
「うん、ちっとも。」
「私、高橋おでん好きだわ。」
「こんなほん読むと、生きる事が憂鬱さびしくなるきりよ。」

 八月×日
 他のカフェーでもさがそうかな。
 まるでアヘンでも吸っているように、ずるずると此仕事に溺れて行く事が悲しい。
 毎日雨が降る。

 午後二時。
 ボンヤリして、カウンターのそばの鏡で、髪をなでつけていると、立ちうりの万年筆のテキヤが、二人飛び込んで来る。
「あゝ俺アびっくりしたぜ、クリヤマ(巡査)カマ(来る)からゴイ(逃げる)ろて、梅の野郎が云うんで、お前をつゝいたんだよ。」
 二人は泥のついた万年筆を風呂敷にしまいながら、
「姉さん! 支那そば並のを二丁くんな。」
 鏡にすかして、雨が針のようにふっている。私は九州の長崎の思い出に、唐津物を売っていた頃、よく父が巡査になぐられたのを思い出した。

 ――こゝに吾等は芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間がいかなる道によって進むか、夢想! 美の小さなオアシスの探求の道によってか、それとも能動的な創造の道によってかは、勿論、一部分理想の高さに関係する。理想が低ければ低いほど、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵が彼にはより少なく絶望的に思われる。けれども主として、それは人間の力の分量に、エネルギイの蓄積に、彼の有機体が処理しつゝある営養の緊張力に関係する。
 緊張せる生活はその自然的な補いとして創造、争闘の緊張、翹望を持つ――。女達が風呂に出はらった後の夕暮れの女給部屋で、ルナチャルスキイの、実証美学の基礎を読んでいると、こんな事が書いてあった。
 科学的に処理してある言葉を見ると、どうにも動きのとれない今の生活と、感情のルンペンさが、まざまざと這い出て私は暗くなる。勉強したいと思う、あとからあとから、とてつもなくだらしのない不道徳な野性が、私の体中を馳りまわる。
 見極めのつかない生活、死ぬか生きるかの二ツの真蒼な道……。

 夜になれば、白人国に買われたニグロのような淋しさで、埒もない唄をうたう。

 メリンスの着物は、汗で裾にまきつくと、すぐピリッと破けてしまう。実もフタもない此あつさでは、涼しくなるまで、何もかもおあずけで、カツ一丁上ったよッ! か――。
 何の条件もなく、一ヶ月卅円もくれる人があったら、私は満々としたいゝ詩をかいてみたい、いゝ小説を書いてみたい。
 バカヤロ、バカヤロ、お芙美さん!
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海の祭



 七月×日
 ちっとも気がつかない内に、かっけになってしまって、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事も此二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。
 薬も買えないし少し悲惨な気がする。

 店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそえて、客を呼ぶのだそうな――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。
 レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼんの泡のように白いものずくめ、薄いものずくめだ。
 閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八拾銭の私は売り子の人形、だが人形にしては汚なすぎるし、腹が減りすぎる。
「あんたのように、そう本ばかり読んでも困る、お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」
 酔っぱいものを食べた後のように歯がじんと浮いた。
 本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない、硝子のピカピカ光っている面を一寸覗いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿……。
 顔は女給風で、それも海近い田舎から出て来たあぶらのギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たコロコロした姿、そんな野性な一本の木が、胸にレースを波たゝせた水色の事務服を着ているのです。
 ドミエの漫画! 何とコッケイな、何とちぐはぐなにわとりの姿!
 マダム・レースや、ミスター・ワイシャツや、マドモアゼル・ハンカチの衆愚に、こんな姿をさらすのが厭なのです。
 それに、サーヴィスが下手だとおっしゃる貴方の目が、いつ私をくびきるかも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。
 あまりに長いニンタイは、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されて来たのです。
 あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。
 あの女は、貴女はいつまでもルンペンでいけないと云うのです。
 そして、勇カンに戦かっているべき、彼も彼女も……。
 彼いっこの白き手のインテリゲンチャ!
 彼女いっこのブルジョワ夫人!
 仲間同志で嫉妬に燃えています。

 彼や彼女達が、プロレタリヤを食い物にして、強権者になる日の事を考えると、宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。
 歴史は常に新らしく生きる――。そこで磨れば燃えるマッチがうらやましくなった。

 夜――九時。
 省線を降りると、道が暗いので、ハーモニカを吹き吹き帰える。
 詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけど音楽はいゝナ。

 七月×日
 青山の貿易店も高架線のかなた。二週間の労働賃金拾壱円也、東京での生活線なんてよく切れたがるものだなア。
 隣りのシンガーミシンの生徒? さんが、歯をきざむように、ギイギイ……しっきりなしにミシンのペタルを押している。
 毎日の生活断片をよく寝言にうったえる秋田の娘さん。
 古里から拾五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼いでいる、縁遠そうな娘さん、いゝ人だ。
 彼に紹介状もらって、××女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落はげた、おそろしく頭でっかちな三階建の下宿屋の軒に、蛍程な社名が出ていた。

 まるで心天ところてんを流すよりも安々と女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキも最早何でもなく思った。
 昼。
 下宿の中食をもらって舌つゞみ打つと、女記者になって二三時間もたゝない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。
 四畳半に厖大な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた社長と、××女性新聞発行人の社員が一人、私を入れて三人の××女性新聞。チャチなものだ。又、生活線が切れるんじゃないかと思ったが、兎に角私は街に出た。

 訪問先きは秋田雨雀氏のところ――。
 此頃の御感想は……私は此言葉を胸にくりかえしながら、雑司ヶ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがす。

 本郷の混々ごみごみした所から此辺に来ると、何故か落ちついた気がする。二三年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあったが……。

 秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみかみ出ていらっした。
 まるで少年のようにキラキラした瞳、非常にエキゾチックな感じの人だ。お嬢さんは千代子さんとか云って、初めて行った私を拾年のお友達かのように話して下すった。
 厚いアルバムが出ると、一枚一枚繰って説明をして下さる。此役者は誰、此女優は誰、その中には別れた男のプロフィルもあった。
「女優ってどんなのが好きですか、日本では……。」
「私判らないけど、夏川静江なんか好きだわ。」
 私はいまだかつて、私をこんなに優さしく遇してくれた女の人を知らない。
 二階の秋田さんの部屋には黒い牛の置物があった。高村さんの作で、有島さんが持っていらっしたとか、部屋は実に雑然と、古本屋の観があった。
 談話取りが、談話がとれなくて、油汗を流していると、秋田さんは二三枚すらすらと手を入れて下すった。
 お寿司を戴く。来客数人あり。
 暮れたのでおくって戴く。
 赤い月が墓地に出ていた。灯の湧いた街ではシュッシュッ氷を削る音がする。
「僕は散歩が好きです。」
 秋田氏は楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。
「あそこがすゞらん!」
 舞台の様なカフェー、変ったマダムだって誰かに聞いた。
 秋田氏は銀座へ。
 私は何か書きたい興奮で、沈黙って江戸川の方へ歩いて行った。

 七月×日
 階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階へ後の事を頼みに今朝上って来たのに、社から帰えってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を襖の裂けめから招いた。
「あのね一寸!」
 向うから底声なので、私もそっといざりよると、
「随分ひどいのよ、下の奥さん外の男と酒呑んでるのよ……。」
「いゝじぁないの、お客さんかも知れないじゃないんですか。」
「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒呑めるか知ら……。」

 帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたゝんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。
 昔の恋人かも知れない。
 只うらやましい丈で、ミシンの娘さんのような興味はない。
 夜。
 御飯を焚くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山拾銭のバナヽを買って来る。
 女一人は気楽だなアー。
 糊の抜けた三畳の木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してヤーマを読む。
 したゝか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる、厖大な本だ、頭がつかれる。

「一寸起きてますか?」
 もう拾時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰えって来たらしい。
「えゝまだねむれないでいます。」
「一寸! 大変よ!」
「どうしたんです。」
「呑気ねッ、下じゃあの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠ってゝよ。」
 シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、瞳をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。
 いつもミシンの唄に明け暮れする彼女が、私の部屋になんか、めったにはいって来ない行儀のいゝ彼女が、断りもしないで私の蚊帳へもぐり込むと、大きい息をついて、畳に耳をつけた。
「随分人をなめているわね、旦那さんかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませているわね……。」
 ガードを省線が、滝のような音をたてゝ通る。

 一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬ねたみがましい息づかいで、まるで夢遊病者のような狂体を演じようとしている。
「兄さんかも知れなくってよ。」
「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」
 何か淋しい血のようなものが胸に込み上げて来た。
「瞳が痛いから電気消しますよ。」
 彼女はフンゼンとして沈黙って出て行くと、やがて梯子段をトントン降りて行った。
「私達は貴方を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていゝのですか!」
 切れ切れに、こんな言葉が耳にはいる。
 一度も結婚しないと云う事は、あんなににも強く云えるものか……私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼をとじた。

 七月×日
 ――ビヤウキスグカヘレタノム
 母よりの電報。
 本当かも知れないが、嘘かも知れない。だが嘘の云えるような母ではない。出社前なので、急いで旅仕度をすると、旅費を借りに社へ行く。

 社長に電報みせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶体に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば拾五円位ある筈だ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になった、大事な時間を、借りる! と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云う。
 これは、こんなところでみきわめをつけた方がいゝかも知れない。
「じゃ借りません! 其代り止めますから今迄の報酬を戴きます。」
「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に務めて下すっての報酬であって、まだ十二三日しかならないじゃありませんか!」

 黄にやけたバスケットをさげて、私は又、二階裏へかえった。
 ミシン嬢は、あれから、下の妻君と気持が凍って、引っ越しするつもりでいたらしかったが、帰えって見ると、どこかみつかったらしく、荷物を運び出していた。
 彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不格恰な姿で、荷車の上に乗っかっていた。
 全てはあゝ空しである――。

 七月×日
 駅には、山や海の旅行者が、白い服装で、涼し気だった。
 下の妻君に五円借りる。
 尾道まで七円くらい、やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折った。
 ――何度目の帰郷だろうか!

露草つゆくさの茎
粗壁かべに乱れる
万里の城
 何かうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩のアタマを思い出した。

 何もかも厭になってしまうが、さりとて、ニヒルの世界は道いまだ遠し。
 此生ぐさニヒリストは、腹がなおると、じき腹がへるし、いゝ風景を見ると、呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと、涙を感じるし――。
 バスケットから、新青年の古いのを出して読む。
 面白き笑話ひとつあり――。
――囚人曰く、「あの壁のはりつけの男は誰ですか?」
――宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」
囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。
――囚人、「あれは誰のです?」
――医師、「イエスの父なり。」
囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――
――囚人、「あの女は誰だね。」
――淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」
 そこで囚人は歎じて曰く、子供は監獄に父親は病院に、お母さんは淫売宿にあゝ――。
 私はクツクツ笑い出してしまった。急行でもない閑散な夜汽車に乗って退屈しているとこんなにユカイなコントがめっかった。
 眠る。

 七月×日
 久し振りで見る旅の古里の家。
 暑くなると、妙に気持ちが焦々して、シュンと気が小さくなるよ。どこともなく老いて憔悴している母が、第一番に言った言葉は、
「待っちょったけん! わしも気がこもうなって……。」
 キラキラ涙ぐんでいた。

 今夜は海の祭、おしょうろ流しの夜だ。
 夕方東の窓を指さして、母が私を呼ぶ。
「可哀そうだのう、むごかのう……。」
 二十号大に区切った窓の風景の中に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯雲がむくむくしている波止場の上に、ドカンと突き揚った黒い起重機! その頂点には一匹の朝鮮牛が、四足をつっぱって、ヴァウ! ヴァウ唸っていた。
あいば見ると、食べられんのう……。」
 雲の上にぶらさがってあの牛は、二三日の内に屠殺されて、紫の印を押される事を考えているのか知ら……それとも故郷の事を、友達の事を……。
 視野を下に降ろすと、古綿のような牛の群が、甲板の檻の中で唸っている。

 鰯雲が、かたくりのように筋を引くと、牛の群も去り起重機も腕を降ろして夕べの月仄かな海の上に、もう二ツ三ツおしょうろ船が流れていた。
 火を燃やしながら、美し紙船が、涯木を離れて沖へ出た。
 港には古風な伝馬が密集している。火の紙船が、月の様に流れ行く。
「牛を食ったり、おしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……。」
 古里はいゝナ――
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寝床のない女



 二月×日
 黄水仙の花には、何か思い出がある。
 窓をあけると、隣の家の座敷に灯がついて、黒い卓子テーブルの上に黄水仙が猫のように見えた。
 階下の台所から、夕方の美味うまそうな匂いと音がする。
 二日も飯を食えないジンジンする体を、三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃っぽく悲しくなる。生※[#「さんずい+垂」、U+6DB6、235-7]が煙になって、みんな胃のふへ逆もどりだ。
 ところで呆然ぼんやりとしたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酢っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感! が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて、私の胃のふは、旅愁にくれてしまった。
 外へ出る。
 町には魚の匂いが流れている。
 公園に出ると、夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。
 固い飯だって関いはしないのに、荒れてザラザラした唇には、公園の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって、涙が出る。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。
 耳も鼻も頬も桃のように紅くした子供の群が、束子たわしでこするように、キュウキュウ厭な音をたてゝ、氷の上をすべっている。

 一縷の望みを抱いて百瀬さんの家へ行く。
 留守。
 知った家へ来て、寒い風に当る事は、余計腹がへって苦しい。留守居の爺さんに断わって、家へ入れて貰う。古呆て妖怪じみた長火鉢の中には、突きさした煙草の吸殻が、しぶきのように見えた。
 壁に積んである、沢山の本を見ていると、なぜか、舌に※[#「さんずい+垂」、U+6DB6、236-7]が湧いて、此書籍の堆積が妙に私をゆうわくしてしまった。
 どれを見ても、カクテール製法の本ばかり、一冊売ったらどの位になるかしら、支那蕎麦に、てん丼に、ごもく寿司、盗んで、すいている腹を満たす事は、悪い事ではないように思えた。
 火のない長火鉢に、両手をかざしていると、その本の群立が、大きい目玉をグリグリさせて、私を笑っているように見える。障子の破れが奇妙な風の唄をうたった。

 あゝ結局は、硝子一重さきのものだ。果てしもなく砂に溺れた私の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転ろがるより仕ようがない。
 へゝッ! 兎に角、二々が四だ。弐銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメン鶏にでも生れかわってくれないかぎり、私の胃のふは永遠の地獄だ。

 歩いて、池の端から千駄木町に行く。恭ちゃんの家に寄る。
 がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。
 這うような気持ちで、御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優さしい言葉をかけてくれた。
 何か、胸がズンと突き上げる気持ち、口の飯が古綿のように拡がって、火のように涙が噴きこぼれた。
 塩っぽい涙をくゝみながら、わんわん泣き笑いすると、凸坊が驚いて、玩具をほうり出して一緒に泣き出してしまった。
「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないで、もっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」
 恭ちゃんがキラキラした瞳で凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流して来る、じんたのクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声あげた。
 私の胸には、おかしく温いものが流れた。

「時ちゃんて娘どうして……。」
「月始めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう……。」
「若いから貧乏に負けっちまうのよ。」
 赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚節ちゃんに上げよう、白々とした肌が寒気だった。
 寝転ろんで、天井を睨んでいた恭ちゃんが、此頃つくった詩だと云って、それを大きい声で朗読してくれた。
 激しい飛び散るような、その詩を聞いていると、私一人が飢えるとか飢えないとかの問題が、まるで子供の一文菓子のようにロマンチックで、感傷的センチメンタルで、私は私の食慾を嘲笑したくなった。
 正しく盗む事も不道徳ではないと思えた。
 帰えって今夜はいゝものを書こう。コオフンしながら、楽しみに夜風のリンリンした町へ出た。

星がラッパを吹いている
突きさしたら血が吹きこぼれそうだ
破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に
私はまるで淫売婦のような姿体で
無数の星の冷たさを愛している
朝になれば
あんな空の花ほしは消えてしまうじゃないか
誰でもいゝ!
思想も哲学もけいべつしてしまった
白いベンチの女の上に
臭い接吻でも浴びせてくれ
一つの現実は
しばし飢えを満たしてくれますからね。

 家に帰える事が、むしょうに厭になった。
 人間の春秋くらしとは、かくまでも佗しいものか! ベンチに下駄をぶらさげたまゝ転がると、星があんまりまともに見えすぎる。
 星になった女!
 星から生れた女!
 頭がはっきりする事は、風が筒抜けで、馬鹿のように悲しくなる。
 夜更け。馬に追われた夢を見る。
 隣室の××頭痛し。

 二月×日
 朝から雪混りの雨。
 寝床で当にもならない原稿を書いていると、十子遊びに来る。
「私どこへも行く所なくなったのよ、二三日泊めてくれない?」
 羽根のもげたこおろぎのような彼女の姿体から、押花のような匂いをかいだ。
「お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」
「カフェーの客って、みんなジユウね、××と鼻ばかり赤かくしていて、真実なんて爪の垢ほどもありゃアしないんだから……。」
「カフェーの客でなくたって、いま時は、物々交換でなくちゃ……せち辛いのよ。」
「あんなとこで働くの、体より神経の方が先に参いっちゃうわね。」
十子は、帯を昆布巻きのようにクルクル巻くと、枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして蒲団へもぐり込んで来た。
「あゝ極楽! 極楽!」
 すべすべと柔い十子のふくらっはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、クツクツおかしそうに笑った。
 寒い夜気に当って、硝子窓がピンピン音をたてゝいる。
 家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ている。私はたまらなくなって、飛びおきると、火鉢にドンドン新聞をまるめて焚いた。
「どう? 少しは暖い!」
「大丈夫よ……。」
 十子は蒲団を頬迄しずり上げると、虫の様に泣き出してしまった。
 午前一時。
 二人で支那そばを食べる。
 朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になるような気がした。
 炬燵がなくとも、二人でさしあって蒲団にはいっていると、平和な気持ちになる。いゝものを根限り書こう――。

 二月八日
 朝六枚ばかりの短編を書きあげる。
 此六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわる事は憂鬱になって来た。十子食パンを一斤買って来る。
 古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹とした気持ちになって、一切合切が、うたかたの泡より儚なく、めんどくさく思えて来る。
「私つくづく家でも持って落ちつきたくなったわ、風呂敷一ツさげてあっちこっち、カフェーや、バーをめがけて歩くの心細くなって来たの……。」
「私なんか、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。此まゝ煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといゝ。」
「つまらないわね。」
「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになれば、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいゝのにね。」

 階下より部屋代をさいそくされる。
 カフェー時代に、私に安ものゝ、ヴァニティケースをくれた男があったが、あの男にでも金をかりようかしら……。
「あゝあの人! あの人ならいゝわ、ゆみちゃんに参ってたんだから……。」
 ハガキを出す。

 神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。

 二月×日
 思いあまって、夜、森川町の秋声氏のお宅に行く。
 国へ帰えると嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事は、あんまりはずかしい気がするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤くかくかく燃えて、部屋の中は、私の心と五百里位は離れている。
 犀の同人で、若い青年がはいって来た、名前を紹介されたが、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。
 金の話も結局駄目になって、後で這入て来た順子さんの華やかな笑声に押されて、青年と私と、秋声氏と順子さんと四人は外に出た。
「ね、先生! おしる粉でも食べましょうよ。」
 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私は鎖につながれた犬の感じがしないでもなかったが、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾は、あさましく犬の感じにまでおちてしまった。
 誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがすかな。四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園と云う、待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしその実を噛むと、あゝ腹いっぱい茶づけが食べてみたいなと思った。

 しる粉屋を出ると、青年と別れて、私達三人は、小石川の紅梅亭に行く。賀々寿々の新内と、三好の酔っぱらいに一寸涙ぐましくなって、いゝ気持ちであった。
 少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来る。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽話のような空想を抱いていると誰が思うだろうか!
 順子さんは、よせも退屈したと云う、三人は雨のそぼ降る肴町の裏通りを歩いた。
「ね、先生! 私こんどの××の小説の題なんてつけましょう、考えてみて頂戴な、流れるまゝには少しチンプだったから……。」
 順子さんの薄い扇が、コウモリのように見えた。
 団子坂のエビスで紅茶を呑むと、順子さんは、寒いから、何か寄せ鍋でもつゝきたいと云う。
「どこが美味うまいか知ってらっしゃる?」
 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、「そうね……。」私はお二人に別れようと思った。
 二人に別れて、小糠雨を十ちゃんの羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で、原稿用紙を一帖買ってかえる。――八銭也――
 ワァッ! と体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だと私は私を大声あげて嘲笑ってやった。

 帰えったら、部屋の火鉢に、パチパチ切り炭が弾けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡をふいていた。
 見知らない赤いメリンスの風呂敷が部屋の隅に転がって、新らしい蛇の目の傘がしっとり濡れたまゝ縁側に立てかけてあった。
 隣室では又今夜も秋刀魚か、十ちゃんの羽織を壁にかけているとクツクツ十ちゃんが笑いながら梯子段を上って来る。
「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人で風呂へ行ったの。」皆カフェーの友達、此女は英百合子に似ていて、肌の美しい女だった。
「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日程泊めて下さいね。」まるで綿でも詰ってるかの様に大きいまげなしをセルロイドの櫛でときつけながら、
「女ばかりもいゝものね……時ちゃん此間あってよ。どうも思わしくないから、又カフェーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」
 お芳さんが米も、煮えているカレーも炭も買ってくれたんだと云って十子がかいがいしく茶ブ台に茶碗をそろえていた。
 久し振りに明るい気持ちになる。
 敷蒲団がせまいので、昼夜帯をそばに敷て、私が真中、三人並んで寝る事にした。何処か三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。
 高いところからおっこちるような夢ばかり見る。

 三月×日
 新聞社に原稿あずけて帰えって来ると、ハガキが一枚来ていた。
 今夜来ると云う、あの男からの速達だ。
 十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。
 あんな男に金を借してくれなんて言えたもんではないじゃないか。十ちゃんに相談してみようかしら……。
 妙に胸がさわがしくなる。
 あのヴァニティケースだって、ほてい屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引きかのものなのなんだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものゝ、別にあっちからも、こっちからも路傍の人以外に、何でもありはしない。
 あんなハガキ一本で来ると云う速達、それにあっちの人はもうかなりな年だし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。
 夜――。霰まじりの雪が降りだした。
 女達はまだ帰えって来ない。
 雪を浴びた林檎の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は沈黙って両手を火鉢にかざしていた。
「いゝ部屋にいるんだね。」
 此男は、まるで妾の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、
「そんなに困っているの……。」と云う。
「拾円位ならいつでも借してあげるよ。」
 暗いガラス戸をかすめて雪がちらしのように通って行く。
 私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云った。
「私は淫売婦じゃないんですよ。食えないから、お金だけが借してほしかったのです。」
 隣室で、妻君のクスクス笑う声が聞こえる。
「誰です笑っているのは! 笑らいたければ私の前で笑って下さい! 蔭でなぞ笑うのは止して下さい!」
 男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のようにほうり投げてやった。
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女アパッシュ



 二月×日
 あゝ何もかも犬に食われてしまえ!
 寝転ろんで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女むすめのように見えて、体中が妙にねつっぽくなって来る。
 こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。

――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉えがたくあらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど此世は寂し。

 チョコレート色のアトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと口ずさみたくなってくる、まことに頼みがいなき人の世かな。
 三階の窓から見降ろしていると、モデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜ひだまりでは、ルパシカの紐の長い画学生達が、之は又野方図のほうずもなく長閑なすもうの遊び。
 上から口笛をプイプイ吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げる。さあその土俵の上に此三階の女は飛び降りて行きますよッて吐鳴ったら、皆喜こんで拍手してくれるだろう――。
 川端画塾横の石屋のアパートに越して来てもう十日あまり、寒空に毎日チョコレート色のストオヴの煙を眺めて、私は二十通あまりも履歴書を書いた。
 原籍を鹿児島県、東桜島、古里、温泉場だなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用してくれないんです、だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽るくて、説明も入らない。
「オーイ」
 障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶてのように投げてくれる。そのキャラメルの美味うまかったこと……。

 隣りの女学生かえって来る。
「うまくやってるわ!」
 私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、
「ちょいと画描きさん、もっとほおってよ。も一人ふえたんだから……。」
「…………。」
 下から、遊びに行ってもいゝか? って云うサインを画学生達が投げると、此十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていゝし、駄目駄目って事だっていゝわ……。」
 此女学生は不良パパと二人きりで此アパートに間借りしていて、パパが帰えって来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私の父さん? さくらあらいこの社長よ。」
 だから私は石鹸よりも、このあらいこをもらう事が多い。
「ね、つまらないわね。私月謝がはらえないので、学校止してしまいたいのよ。」
 火鉢がないので、七輪に折り屑を燃やして炭をおこす。
階下したの七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいたら……。」
 彼女の呼名はいくつもあるので判らないんだが、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。
 何をやっているのか見当もつかないのだが、桜あらいこの空袋が沢山持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパあんなにいつもニコニコ笑ってるけど、とても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくんない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さん大嫌いよ。」
「だってうちのパパ一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだってさア。」
 三階建の此ガクガクのアパートが、火事にでもならないかしら。
 寝転ろんで新聞を見る。
 きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄だ。
「お姉さん! こんど常盤座へ行かない、三館共通で、朝から見られるわ、私歌劇女優になりたくて仕様がないのよ。」
 ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先きで唄っていた。

 夜
 松田さん遊びに来る。
 私は此人に拾円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しい。あのミシン屋の二階を引き払って、こんな貧乏アパートに越して来たのも一つは松田さんの親切から逃げたい為だった。
「貴女にバナヽを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
 此人の言う事は、一ツ一ツ何か思わせぶりな言いかたになる。
 本当はいゝ人なんだがけちしつこくて、小さい事が一番嫌いだった。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
 いつもこう言ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。
 さよなら! そう云って帰えって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っても、こうして会うと、シャツの目立って白いのなんかとてもしゃくだった。
「いつまでもお金かえせないで、本当にすまなく思っています。」
 松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷしてゴブゴブ涙の息をしていた。
 さくらあらいこの所へ行くの厭だけど、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛らくなったので、そっとドアのそばへ行く。
 あゝ拾円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その拾円がみんな、ミシン屋の叔母さんのふところへ、はいって私には素通して行っただけの拾円だった。
 セルロイド工場の事。
 自殺したお千代さんの事。
 ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。
 あゝみんなすぎてしまったのに、小さな男の涙姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
 松田さんのふところには、剃刀のようなものがキラキラ見えた。
「誰が悪るいんです! 変なまねは止めて下さい。」
 こんなところで、こんな好きでもない男に殺ろされる事はたまらないと思った。私は私を捨てゝ行った島の男の事が、急に思い出されると、こんなアパートの片隅で、私一人辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません。これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいゝつもりで話しに来たのです。」
 あゝ私はいつも、松田さんの優さしい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れても、いつ帰えってくるかも知れないひとがあるんです。それに私はとても変質者だから駄目ですの、お金も借りっぱなしでとても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……。」
 松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわたゞしく梯子を降りて行ってしまった。

 夜更け。
 島の男の古い手紙を出して読む。
 皆、之が嘘だったのかしら、アパートの頭のもげそうな風が吹く。
 栓ずれば仏ならねどみな寂しか……。

 三月×日
 菜の花の金色が、硝子窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、××産園とペンキの看板がかゝっていた。何度も思いあきらめて、結局産婆にでもなってしまおうと思って。たずねて来た千駄木町の××産園。
 歪んだ格子を開けると、玄関の三畳に三人許りも女が、炬燵にゴロゴロして居た。
「何なの……。」
「新聞を見て来たんですけど……助手見習生入用ってありましたでしょう。」
「こんなにせまいのに、あいつまだ助手を置くつもりかしら……。」

 二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当って居た。
「こゝは女ばかりですから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいゝんです。」
 このみすぼらしい××産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすゝめてくれた。下の女達が、あいつと言ったのが此女なのだろうか、高価な香水の匂いがクンクンして、二階の此四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。
「実はね、下にいる女達、皆素性が悪るくて、子供でもんでしまえばそれっきり逃げ出しそうなやつばかりなんですよ。だから今日からでも私の留守居して貰いたいんですが、御都合いかゞ?」
 あぶらのむちむちした白い柔い手を頬に当てゝ私を見ている此女の瞳には、何かキラキラした冷たさがあった。話はいかにも親しそうにしていて、瞳は遠くの方を見ている。
 そのはるかなものを見ている彼女の瞳には空もなければ山も海も、まして人生の旅愁なんて、支那人形の瞳のような、冷々と底知れない野心が光っていた。
「えゝ今日からお手助してもようございますわ。」

 昼
 黒いボアに頬を埋めて女主人出て行く。
 少女が台所で玉葱をジタジタ油でいためている。
「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」
「だって、これしか当がって行かねえんだもの……。」
「へん! まるで犬ころとまちがえてやがるよ。」

 ジロジロ睨みあっている瞳を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、
「助手さん! 寒いから汚ないでしょうけど、こゝへ来て当りませんか!」
 何か底知れない気うつさを感じながら、襖をあけると、雑然として前の玄関に、女が六人位もさしあって居た。
 こんなにどこから来たのかしら――

「助手さん! 貴方お国どこ?」
「東京ですの。」
「テヘッ! そうでございますの、一寸これゃごまめだよ。」
 女達は、ワッハワッハ笑いながら、何か話しあっていた。
 昼の膳の上。
 玉葱のいためたのに醤油をかけたの、京菜の漬物、薄い味噌汁。
 八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで箸を動かせる。
「子供××××××と言って、あいつ一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですか、奴淫売ドインバイのくせに!」
 女給が三人
 田舎芸者が一人
 女中が一人
 未亡人が一人
 女達が去ったあと、少女が六人の女の説明をしてくれた。
「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話だけでも大したものでしょう。」
 奴淫売ドインバイ! と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急に、フッと松田さんの顔が心に浮んだ。
 不運な職業にばかりあさりつく私、もう何も言わないで、あの人と一緒になろうかしら――。

 何でもないふうをよそおって、玄関へ出る。
「荷物を持って、もう帰るの……。」
 ××の写真を、まるで散しのように枕元に散乱させて居た女が、フッと起きあがって、それに座蒲団をかぶせると、
「ちょいと、先生がかえるまで帰えっちや[#「帰えっちや」はママ]駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」
 何と云う救いがたなき女達だろう、何がおかしいのか、皆目尻に冷嘲を含んで私が消えたら、一どきに哄笑しそうな様子だった。
 いつの間に誰か来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴が一足ぬいであった。
「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も取りゃしませんよ。」
「帰えっちゃ、やかましいよ。」女中風な女が、一番不快だった。
 腹が大きくなると、こんなにもひねくれて動物的になるものか、彼女等の瞳はまるで猿だ。

「困るのは勝手ですよ。」外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、始めて私は大きい息をついた。
 あゝ菜の花の古里。
 あの女達も、此菜の花の郷愁を知らないのかしら……だが、何年か、見きわめもつかない生活を東京で続けたら、私自身の姿があんな風になるかも知れない。
 街の菜の花!
 清純な気持ちで、生きたいものだ。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てゝ去った島の男が呪ろわしくさえ思えて、寒い三月の灯の街に、呆然と私はたちすくむ。
 玉葱としょっぺ汁。
 共同たんつぼのような悪臭、いったいあの女達は誰を呪っているのかしら――。

 三月×日
 朝、島の男より為替来る。母さんのハガキ一通。
 当にならない僕なんか当にしないで、いゝ縁があったら結婚して下さい、僕の生活は当分、親のすねかじり、自分で自分がわからない、君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生ゼツボウ状態だろう――。
 男の親達が、他国者の娘なんか許るさないと云ったのを思い出すと私は子供のように泣けて来た。
 さあ、此拾円を松田さんに返えそう、そしてせいせいしてしまいたい。

 せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。
 ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテヰナサイか!
 郵便局から帰えって来ると、お隣のベニの部屋に、刑事が二人も来ていた。
 窓をあけると、三月の陽を浴びて、画学生たちが、すもうを取ったり、壁に凭れたり、あんなにウラウラと暮らせたらゆかいだろう。
 私も絵は好きなんですよ、ホラ! ゴオギャンだの、ディフィだの好きです。
「アパートに空間ありませんか!」
 新鮮な朗らかな笑い声がはじけると、一せいに彼達の瞳が私を見上げる。
 その瞳には、空や山や海や――。
 私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。
 焦心、生きるは五十年

――改造社から続放浪記が出ます。よろしく、御愛読を乞う、筆者――





底本:「作家の自伝17 林芙美子」日本図書センター
   1994(平成6)年10月25日初版第1刷発行
底本の親本:「女人藝術」
   1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号
初出:「女人藝術」
   1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「憂欝」と「憂鬱」、「茣蓙」と「茣座」の混在は、底本通りです。
※編集部による〔〕内の注記、追加のルビは省略しました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2007年4月11日作成
2014年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「さんずい+垂」、U+6DB6    235-7、236-7


●図書カード