ふしぎな岩

林芙美子




 夜になって、ふしぎな岩は、そっと動きはじめました。岩が動くってへんですね。
 あわいお星さまをすかして、霧のような山風が、ひくい谷間から、ごう、ごう、ごうと吹きあげています。どこかの森の方で、フクロウが鳴いています。岩は、どっこいしょと起きあがって、せいいっぱいにのびをしました。
「ああ、いい気候になったな……遠いところへ旅行をしてみたいな。」
と、ふしぎな岩は、むくり、むくりと少しばかり歩きました。すると、谷間の方から、ざわざわとササヤブをふみ鳴らして岩山の方へ何かが登って来るようなようすです。ふしぎな岩は、「おや、何だろう?」と、じいっと耳をすましてまわりをながめました。
 がさがさと音をたてて、やがて、一ぴきのオオカミのようなけだものが、いかにもつかれきったようなすがたでひょいと岩の前に登って来ました。岩はじいっと息をのんで、そのけだものを見ていました。
 じいっと見ていると、それは、いつもこの山みちを通る、山小屋の飼犬のタローでした。こんな真夜中をどうして、いまごろ、タローがひとりで歩いているのだろうと、岩はみょうなことだと思っておりました。タローはつかれてへとへとになっていたのか、岩のところへ来ると、そこへ腹ばいになって、ウオー、ウオーと谷底をながめながらほえたてています。
 ふしぎな岩は、あまり、タローがほえるので、何ごとがあるのかと、
「タロー君、いったい、この真夜中に、どうしたというンだい?」
と、声をかけました。
 タローはびっくりしたようすで、ふっと、ふしぎな岩をながめました。
「私はここのとんび岩だよ。わかるかね?」
と、たずねますと、タローは急にしっぽをきつく振りたてて、
「ああ、とんび岩のおじさんかね。私はまたテングさまが声をかけたのかと思ったよ。」
と、なつかしそうに、岩の方へよって来ました。
「どうして、ここへ来たのかね?」
と、もう一度、とんび岩がたずねました。
「月のいい晩はここから海が見えるンだよ。急にね、人間に飼われているのがいやになって逃げだしたくなったンだ。だから、夜になると脚をじょうぶにして、あの海の向こうの方へ逃げ出して行ってみたいと思って、今夜も森の方へ出て来てみたのさ……」
と、いいました。
「ああ、そんなことかね。おれもね、実は、ここに長いことこうしているのにあきあきしちまって、なんとかいいところへ行ってみたいものだと思っているのさ……」
とためいきまじりにいうのです。
「ほんとうにどうして、ぼくたちは自由に方々を、人間みたいに行きたいところへ行けないのだろう……。こうしているのがつまらなくなっちまった……」
と、タローは、ウオー、ウオーと、谷間へ向かってほえたてるのです。
「それでも、お前さんは、まだ、私より自由だもの、どこへでも走って行けるだけいいじゃアないか……この谷間の底には、夜になると、ああして美しいがついているが、あそこにはいったい何があるンだね? いっぺん、あそこへ行って、私もにぎやかなところで、せいせいしてくらしてみたいものだな。」
と、岩がいうのです。
「うん、そんなに、おじさんが、谷底の人間のところへ行きたいのなら、今夜のような風の日に、ころころと転がって行ってみるといいンだよ。」
と、いいました。そうして、タローは、岩のそばへ来て、
「そのかわり、谷間へ行ってしまったら、ここへもどって来るのはたいへんだよ。それでもよければ、一つ、ここから転んで行ってみるといいのさ。おもしろいこともないが、おじさんの心しだいだな。」
と、笑いながらいいます。岩はそういわれて考えてしまいました。一度、このまま谷底へ降りてしまったら、もう、二度とここへは登れないのだと思うと、やっぱり、ここにじいっとしているのがいいようにも思えました。
「そうさなア……遠いところへ行ってみたい気もあるけれど、考えてみれば、ここをはなれてしまうのもさびしいにはさびしいンだよ。」
 タローは、もう、とんび岩のぼそぼそとしたぐちを聞くのがいやになって、
「さア、これから、もう一度、谷間の村へ遊びに出かけて来るかな……。そうして、いまに海を歩いて遠いところへ行ったら、おじさんはきっと、ぼくをうらやましがるだろうな……」
といいました。そして、急に耳をつっ立てると、さも、海を渡って歩けるような意気ごみで、さアっと谷間の方へおりて行きました。岩はタローを見送って、なんとなくさびしくなり、自分も急について行ってみたくなり、タローの後を追って、ころ、ころ、ころッ、ころ、ころ、ころッとみちのないみちを静かに転んでゆくうちに、いつの間にか、重いからだの調子がとれなくなって、ごろ、ごろ、ごろ、ごろーンと方途もなくいきおいよく谷間の方へ転がってゆきました。眠っていた木や草が、きゃアッと悲鳴をあげて泣きさけびました。
 岩は転がってゆきながら、「ああ、しまった、ああ、しまったぞッ!」とかなしくなりましたが、平たいところへ、どおんとからだを落ちつけるまで、自分の重たいからだをどうすることもできなかったのです。地ひびきをたてて岩は畑のところへ落ちて行きました。
 山の上はあんなに、ながめがよかったのに、なんだか、あなぐらへでも落ちこんだように、まわりが暗くて、じめじめしています。岩は泣き出してしまいました。あんなやけをおこさなければよかったと思いました。
 あくる朝になりますと、岩のそばには小さい流れがあって、ももの花が小川のそばに咲いていました。お百姓がおおぜいやって来ました。
「とんび岩が落ちて来たぞ。こりゃア、どうしたことかい、何か悪いことでもあるのじゃないかな……。山小屋のタローも、がけの上から落ちて死んでいたし、みょうなことがあるものだわい……」
と、岩をとりまいて話しあっています。なんの見はらしもない畑のなかで、とんび岩は、うんうんうなっていました。「ああ、タローも死んでしまったそうだが、分にはずれたことを考えたばっかりに、あんなに平和だったいままでが台なしになってしまった。」と、とんび岩は、心から、さびしくなって、山の上がなつかしくてしかたがありませんでした。
 いったい、どうしたらいいかわけがわからないのです。見上げるような高い山の上には、いままでみんなから、とんび岩だ、とんび岩だと見られていた、自分のすがたがもう、そこにはないのです。山の上では、たくさんの仲間がじいっと心配そうに、とんび岩を見ているような気がしました。
 何日いても、海も山も見えないせまい景色なのです。――ある夜、岩は、思いきって、少しずつでも山へ登って行こうと思いました。夜中に起きて、少しずつ歩いてみましたけれど、からだが重くてなかなか登りの道へ歩き出すことができません。とんび岩は、神さまにいのってみました。神さまは、いくらおいのりしてもなんともおっしゃってはくださらないのです。
 もう、こんなふうではしかたがないと思い、とんび岩は、来る日も、来る日も、朝から晩まで、じいっと神さまにいのりつづけました。すると、ある夜ふけ、急にからだが風船のようにかるがると浮き上って、まるでやわらかい風のように、とんび岩は空の上に舞いあがっていました。
 とんび岩はみょうなことだと思いました。
 からだの下を、ごう、ごう、ごう、とすごい風が吹いています。とんび岩はなんだか急におそろしくなってしまって、ああ、おれはもう、神さまにおすがりするより道はないのだと、いっそうねっしんに、神さまへおすがりしていました。
 眼がまわって、長い間、とんび岩は暗い暗い空中にただようていました。
 しばらくすると、水のようなものが、ざあざあと音をたててからだじゅうに降りかかつて来ました。とんび岩はああ冷たいと思って眼を開きました。まわりが水と霧のうずのようになり、どこにどうしているのかさっぱりわけがわからなくなりました。
 すると、また、その霧が少しずつあわくとけて、風の中に吹きながれて行きます。雨が降ってもいるようなのです。とんび岩はむくりと身ぶるいしました。すると、その雨もやがてまた谷間の底の方へさアーと音をたてて逃げて行ったと思うと、はるかな向こうの方に、さあっとが登りはじめ、海のような光がとんび岩のからだの下に見えました。
 静かに朝が立ちそめて、小鳥がチクチク鳴きはじめました。ふっと気がつくと、とんび岩は、いままでのように、山の頂きにちゃんとすわっているのです。とんび岩はあッと喜びの声をあげました。
「ああ、前のところにいる。前のところにちゃんといるぞ……これはどうしたことじゃ。みようなことだぞ……」
と、まわりを見ました。とんび岩は夢をみたのです。とんび岩はむくむくとこおどりして、
「ああ、神さま! 神さま、ありがとうございます。」といいました。自分の場所くらい、いいところはないのです。見はらしのいい海の上に、いくつも船がはいって来ています。畑ではけしつぶほどのお百姓が時々、とんび岩をみあげては土をたがやしていて、平和な平和な朝でした。





底本:「日本児童文学大系 第二四巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「こども朝日」朝日新聞社
   1948(昭和23)年3月1日
初出:「こども朝日」朝日新聞社
   1948(昭和23)年3月1日
入力:神宮さち
校正:noriko saito
2014年12月15日作成
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