ボルネオ ダイヤ

林芙美子




 暗い水のほとりで蝋燭の燈が光つてゐる。ほんのさつき、最後の夕映が、遠く刷き消されていつたとおもふと、水の上を一日ぢゆう漂うてゐた布袋草イロンイロンも靜かに何處かの水邊で、今夜の宿りに停つてしまふに違ひない……。漕ぎ出てゐる小舟タンバガンの楫の音がいやにはつきりと聞える靜けさだ。ぴちやぴちやと水の音は聞いてゐる者のこゝろの芯にまで吸ひこまれるやうに、たまらない人戀しさと、淋しさを誘つて來る。時々、家のまはりの唸り木がざわざわとゆれてゐた。――球江は裸で白い蚊帳のなかに腹這つてゐた。長い枕のやうなダッチワイフに兩足をのせて、まるで蛙を引き伸ばしたやうなかつかうでジャワ人の女按摩に躯を揉んでもらつてゐた。女按摩は球江の躯ぢゆうに椰子油をぬるぬると塗りたくりながら、固い掌でゆるくのの字を書くやうなしぐさで、油で濡れてゐる背中を揉んでゐる。大判のタオルに顏を押しつけて、球江は手離した子供のことを考へてゐた。隨分遠いところへ來てしまつたものだと思つてゐる。もうこのまゝ内地へは復れないやうな氣さへしてくる。どんよりと重苦しいほど暑くて、それに、やかましく食用蛙が啼きたててゐるせゐか、考へることは少しもまとまつて瞼に浮きあがつてはこない。廣島の港を離れるときは雨が降つてゐたかしら……。四ヶ月前の、けなげな自分の旅のすがたがいまでは人のことのやうに思ひ出されるだけだつた。バリトの廣い河口へ船がはいつて來たのは夕方だつたかしら……。マングロープの茂つた土手沿ひに、赤く濁つた水の上を船はゆるく滑つてゐた。うつゝからうつゝへ、季節のまるでない妙な季節が、他愛もなく球江の思ひ出のなかに、獨樂のやうに毎日同じところをぐるぐるとまはつてゐるのだ。内地を發つてからまる四ヶ月は過ぎてしまつた。この南ボルネオのバンヂャルマシンといふ處へ來て、休みなく毎日毎日夕方には雨が降つた。それがまるで細引のやうな太い雨で、暑い處なので、雨は湯煙をたててゐるやうな激しさで四圍が乳色に染つてくる。このやうな處へ働きに來る女たちといふものは、内地で散々苦勞をした擧句の果てに來たと思はれるやうな者が多かつたけれども、球江だけは、もののはずみで、人に誘はれて、こんなところへ來てしまつたといつた風な女であつた。球江は髮結ひの娘であつた。兄は中國と戰爭が始まると同時に出征して、ウースン上陸で戰死してしまひ、次の兄は戰爭を怖ろしがつて、自分から進んで軍需會社へ勤め口をみつけて水戸の工場へ行つてしまつた。球江はそのころ女學生であつたけれども、これも學業はそつちのけで、毎日全生徒が學校から工場通ひをしなければならなくなつてくると、球江はつくづくそんな生活が厭になつてきて、あと一年で卒業だといふ時に、母親には默つて學校をやめてしまふと、上野驛の食堂へ給仕女の職をみつけた。こゝでコックのやうなことをしてゐた松谷と知りあひ、上野驛近くの宿屋で時時あひゞきをかさねてゐるうちに、球江はたうとう姙娠してしまつた。球江は六ヶ月近くまで自分が姙娠してゐるといふことは知らなかつた。松谷に變だと云はれて、始めて躯の調子がをかしいと思つたくらゐで、まだ十七だつた球江には、自分の躯の異状がそんなに氣にかゝつてはゐなかつた。家出をして松谷の下宿に一緒に住むやうになつてはじめて、球江は自分の運命といふものがだんだん正常でないことに氣づき、何となく物哀しい氣持ちになつてゐた。十八の春、球江は松葉町の小さい産院で女の子を生んだ。子供が生れると、松谷は球江に相談もしないで、まだ球江が産院にゐる間に子供を王子の方へくれてしまつた。球江はまだ若かつたので、子供へのみれんもあまりなかつたけれども、人の手に渡してしまふといふことは何となく不愍で仕方がなかつた。親のところを逃げ出したまゝだつたので、配給のない球江は、松谷から食べものの工面をしてもらつて生きてゐるやうな始末であつた。松谷が勤めに出た間は、一日部屋にこもつてごろごろしてゐることが、球江には退屈だつたので、或日近くの桂庵を頼つてゆき、熱海の旅館の主人だといふ女にあつて、窮屈な内地の生活のなかであくせくしてゐるよりは、一つ南へ進出して働いてみてはどうかとうまいことを云はれて、球江は急にそんな氣になり、支度料としてその女主人から二千五百圓の金を貰つた。千圓を母親へ送り、あとの千圓を松谷の下宿へ殘しておいて、誰にも默つて、球江は自分と同じやうな仲間の女達五人ばかりと廣島へと發つて行つたのだつた。
 五人の女達は、みなそれぞれかはつた身の上話を持つてゐた。廣島を出て三週間近い船旅では、毎日、五人の女たちから球江は同じ話を何度もくりかへして聞かなければならなかつた。五人のうちでは球江が一番若くて、年長者には、三十をすこし越した女もゐた。一行は女主人の福井と、球江のやうな女達五人と、ボルネオから迎へに來たといふ黒眼鏡をかけた酒田といふ男との八人であつた。――海の上がだんだん暑くなり、毎日單調な船艙生活が女たちにはたまらなかつた。段々旅愁のやうなものに誘はれてゐた。船は表面上は病院船といふことになつてゐたので、一緒に乘つてゐる澤山の兵隊は勿論、球江たちも、晝間は船艙でぢつとしてゐなければならなかつた。デッキにある便所へ出掛けてゆく時は、汚れてどろどろになつた白衣を肩にはおつて行くことになつてゐた。夜になると、船の横腹に赤十字のイルミネーションがとぼつた。女たちも兵隊も、終日船底でごろごろしてゐる。球江は薄汚い毛布に寢ころんだまゝ兵隊の持つてゐる雜誌を借りて來ては讀んでゐた。それにも飽きると袋から何かとり出してはむしやむしや食べる。それにもまた飽きてくると、球江は眼をつぶつて、貰はれていつた子供のことや、松谷のことなぞを考へてみる。松谷が自分を探してゐる姿が浮んで來ると、ふつと涙がつきあげてきた。もう一度東京へ戻りたいとも思つた。ボルネオは二年といふ約束だけれども、二年ぶりに戻つて行つて、松谷をたづねて行つたら松谷はどうして迎へてくれるだらう……。近いうちに兵隊にとられやしないかと心配ばかりしてゐて、もしも兵隊に行くやうなことがあつたら、脱走してやるのだと云つてゐたけれど、話が配給のことになつてくると、松谷は、「全く、俺たちのやうなものは」あまが下に住むところなしだなと苦笑するのだつた。
 四ヶ月の間のことが朦朧としてゐて、球江は、もう内地のことは遠い昔の夢のやうにしか思へないのだ。ボルネオへ着いて、球江は始めの二三日は耐へられないやうな自責を感じてゐた。東京での約束とは何も彼も違つてゐて、ここでは躯を犧牲にするといふことだつた。どの部屋にも粗末な疊が敷かれてゐて、塗りの荒い卓子が置いてあつた。外地から來る上官の爲には床の間のある部屋もつくつてあつた。床の間には富士山の軸がさがつてゐたし、唐獅子のやうな妙な置物も置いてあつた。畸形的な日本の部屋のかつかうが、かへつて熱帶地では貧弱に見えた。
 ジャワ人の女按摩がかへつてゆくと、球江は起きてマンデー場に行き、何杯も水を浴びた。朝も夜もないやうな家のなかには、いつも將校や兵隊や軍屬が詰めかけてゐた。下男が球江を何度となく呼びに來た。こんなことで二年も勤めるのではたまらないとぷりぷり腹をたてながら、それでも鏡の前に坐つて球江は化粧を始める。一緒の部屋にゐる澄子といふ女は一週間も商賣を休んで寢てゐた。躯が惡いのだといつて、部屋に閉ぢこもつたまゝ客席には出なかつた。椰子でつくつた扇子キツパスでゆるく蚊を追ひながら、さつきから暗いヴェランダで何か考へごとをしてゐる樣子だつたけれど、球江が鏡の前に坐ると、やつと澄子は部屋のなかへ這入つて來て、「あんた、タンバガンへ乘つて涼んで來ない?」と球江を誘つた。河口のバリトの支流が、丁度、このバンヂャルの町を三角洲のやうにして、マルタプウラの河が町の中央を流れてゐた。河畔へ行けばいつも小舟がもやつてゐて、まるでひところの圓タクのやうに、何時いかなる時間でも氣輕に河の上を流してくれた。「河風にでも吹かれてくればさつぱりするかもしれないわ」「だつて、また叱られるわよ。戰地へ來てゐるンだから、勝手な眞似をしちやアいけないつてね」「かまふことあないわよ。さう云つてゐる人達がみんな勝手な眞似をしてるぢやないの……」澄子はサロンを卷いて、ボイルのブラウスを着てゐた。唇がいやに腫れぼつたく色が惡くて、暗い灯のせゐか浮かぬ顏色をしてゐた。眉と眼が濡れたやうにはつきりとしてゐる。球江はシュミイズ一枚でべつたりとアンペラ茣蓙の上に坐つて、煙草を一服つけた。化粧をした顏が浮き浮きした心の彈みかたをみせてゐる。球江にはそのころ好きな男が出來てゐたせゐもあつたけれども、化粧の仕方も、身のこなし工合も一人前に、そんな女達のやうにちやんとわきまへるやうな經驗を積んだせゐか、年齡よりは一つ二つ老けてもみえた。女中バブウに市場で買つて來さしたブンガ・スンピンといふ匂ひのいゝ白い花を髮に飾つて、球江がボイルの黒い服を着こむと、ひとかどの女になつたやうな氣取つた氣持ちになつてきて、鏡のなかをのぞきこんでゐた。「ねえ、このひまに、一寸、河へ行つて來ない? 暗いのだもの、わかりやアしないわよ」「どうしようかなア。まアちやんが來るには來るンだけど……」「待つててくれるわよ。わたし、一人ぢや淋しいの、一寸ばかりつきあひなさい。死ねばもろともの旅を一緒にしたンぢやアないか……」「はいはい、承知いたしました」二人は革のサンダルをつゝかけて、ヴェランダから芝生へ降りて行つた。暗い空の上に、黒い旅人椰子のそゝり立つてゐるのが、如何にも遠い地へ來てゐる感じであつた。河岸へ來ると、もう滿潮時で、道の上にまで泥水が押しよせてゐた。二人は小高くなつた草むらのなかを歩いた。「タンバガアン……」澄子が舟を呼んだ。岸へつき出た黒い樹の下蔭からにぶい聲で船頭が「やあ」と返事をして、軈て楫の音をさせて、二人の足もと近く舟を寄せてきた。二人が舟へ飛び乘ると、屋根つきの細長い船はしばらくハンモックのやうに左右にゆれ動いた。水の上はひつそりとした夜氣が逼り、暗い岸邊が茫んやりと夜霧の彼方に遠く離れてゆく。澄子が急に「あゝ、わたし、内地へ復りたい。復りたくなつたなア」と、いつた。突然だつたので球江は返事も出來なかつたけれども、何となく澄子のさうした心持ちは迫つてゐるやうな氣がした。河の中心へ舟がくると、船頭は心得て楫をやすめて舟を水の流れに任せた。兩岸の水の上の家々には椰子油の灯が螢の光といつしよに明滅してゐる。球江は茣蓙の上に寢轉んでゐた。白いスンピンの花の匂ひが軟風にのつて甘い香氣をたゞよはせてゐる。「ねえ、パントウンニヤニつてよ」球江がたはむれて船頭へ聲をかけると、船頭ははにかんだやうな聲で笑つてゐたけど、案外若い聲で四行詩を唄ひ出した。河の面に木靈して、さびのあるいゝ聲だ。――「何もなくつてもいゝから内地へ復りたいわねえ、どうせ内地へ復れば、またボルネオが戀しくなるンだらうけれど、一度だけ東京へ復つてみたいわ」球江はさういひながらも、ほんたうは、そんなに復りたいわけでもない。「わたしは違ふ、わたしは泳いででも復りたいのよ。どうしてこんなところへ來たかと殘念なの。お神さんは神經衰弱だよつていつてるけど、さうぢやアないわ。わたし、デングでわづらつて寢てる時だつて、こんなところで死にたくはないつて思つたものねえ、戰爭さへなけりやア早く戻れるンだらうにねえ」「あんた、あのひとが死んだから、それで急にがつかりしてるンぢやないの」澄子は客のなかで好きな兵隊がゐたのだけれど、一ヶ月ほど前に、奧地のモロンプダックの油田作業場で怪我をして死んでしまつた。――いつの間にか船頭の唄聲は消えてゐる。そしてまた楫の音がしてゐた。球江は涼しい舟の上で一夜を明かしたい氣持ちだつた。のびのびと誰にもさまたげられないで眠りたかつた。
 二人が部屋へ戻つてきたのは九時ごろであつたらうか。球江が座敷へ出てゆくと、いつものやうに、酒に亂れた連中が幾組も軍歌をうたつたり、議論をしたりしてゐた。澄子はかうした部屋には出て來なかつた。球江は強いブランデーを二三杯飮まされると、もういつものやうに陽氣な性分を取戻してゐた。何も考へることはない。金色燦然としたものが躯からエーテルのやうににじみ出てゐる。そして、どんな場所にも怖れることなく、力いつぱいの情熱をこめて坐りこんでをられる。四ヶ月の彼女の歴史などは須臾のやうに消えていつてしまふのだ。自然に、何も彼も自分といふものが毀れてしまつたと安心してしまへば、どんなところにも平然と坐りこんでゐられた。辱かしいといふこともなくなつた。どの男も自分の前にはひざまづいてくる自信があつた。いまの生活が球江にとつて面白くないはずはない。――夜遲く、眞鍋がマルタプウラのダイヤモンド鑛區から自動車で逢ひにきた。狹い部屋で二人きりになると、球江はシュミイズ一枚になつて扇風機の前に立つた。子供のやうに兩手をひろげて醉つてしやべつてゐる。眞鍋も卓子の上に防暑服をぬいで蚊帳のなかに滑りこんでゐた。廊下ではいつものやうに女を取りあふ小汚ない言葉が飛んでゐた。球江はいつまでも動力の弱い扇風機の前に立つてゐた。色の白いふつくりした躯つきを、わざとみせびらかしてゐるやうな幼いしぐさで、球江はとりとめもない歌を小聲でうたつてゐる。「何故、こゝへ來ないのかい?」「暑いのよ」「扇風機にあたつたあとはもつと暑く感じるンだぜ。こゝへお出で……」球江は素直に扇風機を蚊帳の方へ向けて眞鍋のベッドへ行つた。そして癖のやうに球江は眞鍋の胸のあたりに頭をさしよせて、眞鍋の右の指を噛んだ。二人は幾たびかかうしてよりそつては眠つてゐたけれども、まだ一度も躯の關係はなかつたのだ。激しい戰ひをしながらも、眞鍋は球江の躯を抱きしめてゐるだけで、朝になると、何ともいへないすがすがしい氣持ちでお互ひの顏を見合すことが出來てゐた。「あんたはわたしを好きぢやないのよ、わたしさう思つてゐるの。あんたは人間のこゝろなんか持つてはゐないのね」「そんなことはないよ。俺はね、君が好きだから來るのさ。不自然だと思ふだらうけど、こんなところで君と逢へたことが因果だと思つてゐるくらゐなンだよ。皆の眼が光つてゐなかつたら、そして、戰爭でなかつたら、君と結婚したいと考へてゐるンだけど、どうにもならないぢやアないか。妙なことがあつてごらん、二人は離れ離れにされてこゝから追放だよ」「正々堂々と結婚式をすればいゝぢやアないの?」「うん、だけどこゝは戰場で、軍隊がゐるんだぜ。俺だつて軍屬でもなかつたら簡單なんだけど、どうにもならないぢやないか……」「えゝ、えゝさうなのね。まアちやんには奧さんも子供もあるンだし……不義はいけないといふわけだから……」眞鍋は默つてゐた。軈てポケットから小さい藥包みのやうなものを出すと、「俺が掘りあてたダイヤモンドだけどね、内地へ戻ることがあつたら、あんたの指輪にしなさい」黄いろく光つた原石のダイヤモンドを一粒、球江の汗ばんだ掌にのせた。ダイヤモンドは濡れたやうに光つてゐた。明るい窓から見える芝生の旅人椰子が寢て見るせゐか眞鍋には明るい壁畫のやうに擴がつてみえる。濕地帶の朝の空氣は何も彼もが夜露で濡れてべとついてゐる感じだ。球江はダイヤモンドを手にして、暫くその光にみとれてゐた。ダイヤモンドといふものが案外つまらないもののやうに見える。「ボルネオのダイヤモンドは質のいゝものぢやアないけど、君の指輪になら丁度いゝだらう」「これ、どの位に賣れるものなの?」――内地の手近な工場の入口に立つてゐれば、球江のやうな平凡な顏はいくつも見られるだらう。何處といつてとりたてて云ふほどもない平板な顏に、どうやら異彩を放つてゐるのは、小さい唇と、一皮目の柔和な眼であつた。見たやうな顏、誰もがさう思ふほどのなじみやすい顏である。その球江が、いつの場合も現實的で、ダイヤモンドをいくら位で賣れるものなのかときかれると、眞鍋は一寸ばかり興ざめた氣持ちになり、「さうだねえ、五六千圓には賣れるだらう」と球江を驚かせる心算で云つた。「まア、こんな石が、そんなに高いものなの、吃驚したわア、それぢやア、わたしにとつては財産になるわよ。ほんとにそんなにするの?」球江はいつそう熱心にダイヤモンドを視つめてゐる。眞鍋が放心したやうに窓のそとを眺めてゐると、球江は眞鍋の首に抱きついて、汗ばんだ頬を何度も接吻した。――帝大の採鑛冶金を出て、N殖産會社から、南ボルネオ占領と同時に、軍屬として足掛二年もマルタプウラの小さい官舍に住んでゐる眞鍋は、民政部の招宴の席で球江に始めて逢つたのだ。球江はすぐ眞鍋を好きになり、或日、インドネシアの女に化けて、四キロの道を歩いて眞鍋の官舍に遊びに行つたりしたこともある。眞鍋も始めはものずきな女だと思つてゐたけれども、球江の激しい熱情には段々惹かされてゆくものがあつた。そのくせ、最後のところまでにはどうしても降りきれない潔癖さを眞鍋はもてあましてゐる。球江の躯を一夜の慰みものとすることは、禪で云ふところの、念と無念との究畢平等を意味することで、一瞬の情火がさつと過ぎてゆけば、また明日の朝は平和な世界が、眞鍋を悠々と落ちつかせることが出來た。たま/\一念迷ひ初め、自ら凡夫となるゆゑに、三毒五欲の情起り、殺生偸盜邪婬、慾惡口兩舌綺語妄語、いかはらだち愚癡我慢、貪り惜みて嫉み妬みだつた……。眞鍋は學生のころ讀んだ、夢窓國師の三等の弟子の遺誡を、心に銘じてゐた。猛烈に諸縁を放下して專一に己事を究明することを上等となし、修業純ならず、駁雜にして學を好む、これを中等となし、自ら己靈の光輝をくらまして、たゞ佛祖の涎唾を嗜む、これを下等といつた。たとひこゝが戰場だからといつて、球江を金で自由にすることは、潔癖な眞鍋にはそこまでつきつめてはゆけない。といつて、現在の眞鍋のかうした遊びといふものが正しいのかとじつくり自問自答をしてみれば、これもやはり己靈の光輝をくらましてゐることに變りはないのである。何となく、こゝは戰場といふところに氣兼もあつた。無數の日本人の眼も怖ろしい。それにまた官學生の眞鍋には將來の「名譽」といふものも眼のさきにぶらさがつてゐる。そのくせ、異郷での淋しい夜々、自分一人にだけさゝやいてもらへる異性の甘く優しい言葉は、眞鍋にとつて何と快いものであつたらうか。同じ官舍にゐる男で、毎日新妻に日記がはりの手紙を書いてゐるものもゐたけれど、眞鍋はかうした若い男の清純な旅愁も羨ましいと思つてゐた。――軍隊といふものは、一つの土地を占領するまでは勇ましく突き進んで何も考へるひまもないのだけれど、一つの土地を占領して、そこへ落ちついてしまふと、名譽のある軍隊の規律は、平和的なものに臆病になり、落ちつきがなくなつてくる。四圍が平穩になればなるほど、軍隊の規律は亂れはじめてくる。濁つてくるのだ。眞鍋の場合もさうであつた。占領地の鑛區を整備して走りまはつてゐるうちは、生命を賭ける程の思ひではあつたのだけれども、ぼつぼつ結果が現はれ始めてくると、眞鍋はもう退屈でやりきれない思ひに苦しめられてゐる。日本人によく似たダイヤ族の、バブウ下女の歩く姿に茫然とみとれてゐたり、鑛區で砂を洗つてゐる馬來人やジャワ人の女たちの中から、美しいかたちを何となく求めてゐる卑しさに赤面することもあつた。――軍からの要求どほりのダイヤモンドを掘るといふことは、朝夕もないやうな忙しさではあつたけれども、ダイヤモンドの「石」自體が持つてゐる光澤は、いつも、柔い女の肌を空想させずにはゐられなかつた。色んな機械に利用されるダイヤモンドの效果よりも、美しい女の裝飾品としての聯想が眞鍋にはずつと愉しいものであつた。黄色、すみれ色、紫、コバルト、ピンク、さまざまのダイヤモンドが、何萬といふ人夫を使つて天上の星の如く少しづつ砂の中から現はれて來る。その、ほんの少しづつ現はれて來るダイヤモンドは、内地の軍需工場であへなく消化されて、「石」自體のロマンティックな光澤の美は、鑛區を離れてゆくと同時に、流星が石に化してしまふが如く、はかなくその美を雲散霧消して、戰場の露となつてしまふのだ。――眞鍋は、大粒な最も素晴しいコバルトダイヤを妻へ送つてやつた。妻からは、送つていたゞいたダイヤモンドは數日ならずして政府へ供出してしまひました。そして、何となく愛國的な氣持ちになり、あなたのお氣持ちを無にしなかつたことを讃めて下さいといふ見當違ひの手紙がとゞいた。自分の鑛區では二度とそのやうな美しい石は求められないだらうと思つたほどの逸品だつたので、眞鍋は妻の鈍感さに腹を立てて口惜しがつてゐた。まるで、印刷機械にかける無數の活字のやうにしか考へられてゐない妻の寶石感が不愍でもあつた。日本の女は、本當の寶石の美や、その世界的な價値を知らないのだ。日々を多忙に追ひまくられてゐる荒びた女の指には、あまりに美しすぎるダイヤモンドの美は怖ろしいのかもしれない。流血の果てに得た一つの土地が、無智な侵略者の爲に壓制を敷き、民衆を烏合とあなどり、失政を氣づかないおろかさといふものは、ダイヤモンドの價値を知らない日本の女のこゝろと何か通じあつてゐるやうに考へられ、停滯しきつてゐるこのごろの軍政に眞鍋はそれを感じるのであつた。いくらぐらゐのものなのかと、率直に球江にたづねられたことが、いまではかへつて、眞鍋には氣持ちのいゝことである。
 球江は下女バブウに市場から、辛子つきの燒鷄サツテを二十本ばかり買はせてきて、眞鍋と二人で蚊帳のなかで食べた。今日も暑い。からりとした南國特有のコバルト色の空が、眼のなかにこまかい針をさしこむやうにまばゆく見える。自動車か自轉車以外には、庶民的な交通機關のないバンヂャルの乾いた町は、朝から晩までひつそり閑としてゐるけれども、一歩河筋へはいつてゆくと、泥で濁つた河の上はおもちや箱を引つくりかへしたやうな小舟の賑ひで騷々しかつた。楫をつかつてゐる手が、ほんの一寸見える程の、椀状の大笠が水の上を花を流したやうに流れてゆく。その賑やかな小舟の間をものすごい大群の布袋草イロンイロンがきしみあつて河筋を潮に押しあげられてゆくのだ。水もみえないほどの水草の流れは、暫く眺めてゐると、自分がレールの上を滑つて動いてゐるやうな錯覺にとらはれてくる。こゝでは地球が動いてゐる感じなのだ。兩岸の家々は水に向つて店を開いてゐる。呉服屋の前にも舟を停めて買ひ物が出來る。米屋も雜貨屋も水ぎはであきなひが出來るのだ。小舟自身もコオヒイをあきなつてゐたり、タバコを並べて楫をゆるく漕いでまはつてゐるのもある。布袋草イロンイロンの根をかきわけて眞裸の子供が泳いでゐる。人間と自然とが、この河筋だけは戰爭とはおかまひなしにたはむれあひ、犬ころのやうにふざけあつて如何にも愛らしい自然の國を創つてゐるのだ。ボルネオの人達にとつては、戰爭ぐらゐ迷惑なものはないであらう。
 こゝでは天水を利用してゐるので、誰もが齒をみがくことを億劫がつてゐた。眞鍋も煙草で染つた黄いろい齒をしてゐた。「ねえ、澄子さんねえ、東京へ泳いで復りたいンですつて……あなたはどう?」「君こそいつたいどうなの? お母さんに逢ひたいだらう?」「えゝ、そりやアねえ、時時夢に見るけど、でも、こゝまで來てしまつたンだもの仕方がないでせう……。澄子さんねえ、狂人になるンぢやないかと思ふのよ。何だか變なの、兵隊が死んでから、まるつきり駄目になつちやつたのよ、あのひとあんなに思ひつめられるものかしらねえ……。わたし、バンヂャルの氣候のせゐだと思ふわ。暑くつて、頭を冷すつて時がないんですもの……」球江は不行儀に眞鍋の胴の上に兩脚を凭れさして、頭をベッドからずりおちさうなアクロバチックなかつかうで煙草を吸つてゐる。一晩ぢゆうかけつぱなしの扇風機が動力が弱いせゐか空罐を引きずるやうな音をたてて鈍くまはつてゐた。「あのひとは少しやつれたね。何だか淋しさうな樣子になつたなア」「さうでせう。でも、何だかこのごろの方が鋭くなつて綺麗よ。二十七ですつて……」「もう、そんなのかねえ」「えゝ、神戸で生れて、女給さんをしたり、藝者をしたり、まア、いろんなことをしてきたひとなんですつてよ」「へえ、そんな風には見えないなア」「あのね、昨夜、二人で、タンバガンに乘つたの。澄子さんてば泣くのよ内地へ復りたいつて……」澄子が泣いたときいて、眞鍋は氣の毒に思つた。誰だつて、かうした暑い處ではどうしやうもないのだ。何といつても兎に角暑い。眞鍋は思ひきつて球江の躯を押しのけると蚊帳から出ていつた。鏡を見ると、一夜にして髯が生えてゐる。油ぎつた顏が茶色に濁つてゐた。べとついた防暑服を着て、「ぢやア、また來るよ。元氣でね」さう云つて、白い蚊帳ごしに球江の額に接吻した。酢つぱい香水の匂ひがした。球江は寢たまゝの姿で、眞鍋を見送つてゐた。軈てしばらくして、遠くの方で古ぼけたエンヂンの音がして、自動車がラッパを鳴らしながら行つてしまつた。球江は枕の下からダイヤモンドの包みを出して、もう一度明るいところで、ダイヤモンドをしみじみと眺めた。ふつと、何の關聯もないのに、別れた子供の顏が眼に浮んで來た。黄色をおびた石の色が冷く光つてゐる。ダイヤモンドを手にするといふことは、生れて始めての經驗で、球江にとつては微妙な氣持ちだつた。指にあててみると、笑くぼのある寸のつまつた指には一寸淋しい石の色だ。心のなかで、わたし、ルビーの紅いのがよかつたンだけどと球江は正直のところさう思つてゐた。こんな石がそんなに高いものなのかしら、價値の高い割には魅力がないけど、お神さんはよく寶石屋を呼びとめてはダイヤモンドの品さだめをしてゐたけれども、このダイヤモンドをお神さんに賣りつけてやらうかしらとも球江は思つてゐる。――「球江さん、大變なのよツ」窓からまさきがあわてたやうに顏を出した。「あのねえ、澄子さんがたうとうやつちやつたのよツ」「えゝ? 何さ、何をやつたのよツ?」球江はすぐダイヤモンドの包みを持つてベッドから滑り降りた。「これよ」まさきが舌を出して兩手をぶらんとさげた。「まア、いつなの? いつのことなのよツ?」そのまゝの姿でサンダルをつゝかけて、まさきと自分達の部屋へ走つて行つた。軍醫と二三人の陸戰隊の兵隊が來てゐた。球江は部屋のなかにはいつて、暫くむざんな姿を眺めてゐた。死人を見てゐると、生命への煮えたぎるやうな感覺が、素肌の肩さきに、腕に、ふくらはぎに、電氣のやうに熱くしびれて感じられる。「今朝がたなンだつてよ」「マンデー場のところでやつたンだつて」他の女達もお神さんを圍んでがやがやと騷ぎたててゐた。軍醫や兵隊が去つてゆくと、酒田が下男ジヨンゴスを指※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、161-下-13]して、澄子の哀れにしぼんだやうな遺骸を敷布で卷いて部屋の隅に置いた。裸足の足がいやに平べつたく大きく見えた。酒田が、胸の上に佛の兩手を組ませようとしたけれども、もうその手は自由にはならなかつた。枕もとには、澄子の浴衣がぶらさがつてゐる。「昨夜のまゝだわ」白いボイルのブラウスに、サラサのサロンを卷いた澄子の薄眼をあけて舌を出してゐる姿は正視するに耐へなかつた。――急に、球江たちには一日の休暇が出た。女たちは辨當をつくつてもらつて、タキソンの濱邊へドライヴしに行つた。自動車は民政部のを借りたもので、馬來人の運轉手までついてゐる。運轉手が椰子煙草を吸つて臭い煙を吐かないならば、まことにこゝろよいドライヴであつたのだけれども。球江は重たい氣持ちであつた。昨夜、最後に別れるまで、澄子の死ぬほどな惱みを考へられなかつた自分の淺はかさが自分で苦しかつた。澄子が死んでも、別に誰もとりみだして泣いてゐるものもない。不思議なことには、儲けやだといふお神さんだけが少しばかりハンカチを眼にあてて泣いてゐた。「おかみさん泣いてたわね……」まさきが自動車の中で思ひ出したやうに云つた。「きまぐれだからさ……」黒子とあだなのある色の黒い大柄な靜子が薄情なことを云つた。――タキソンの濱邊の小高いところにあるパサングラハン(官營旅館)に着いたのは晝ごろであつた。たとひ赤茶けた泥色にもせよ、廣々とした海の景色を前にすると、みんなもうはしやぎきつて、勝手なおしやべりを始めてゐる。海といふものは青いものだと思つてゐた女達の眼には、このタキソンの赤い海の色は、何とも落魄の思ひを深めるばかりであつた。球江は茹で卵をむいて食べた。澄子の悲慘な表情が浮んでくる。わたしは惡い女なのかしら……球江は、何も彼も虚空の彼方に忘れがちになつてゐる自分のこのごろの感情を呆れて眺めてゐた。古ぼけて、いまにも朽ちてしまひさうなバンガロ風の板敷の廣間で、女達は辨當をひらいた。管理人のヅスン族の男がぬるいコオヒーを淹れて來た。「靜かねえ、戰爭なんて何處のことかと思ふ位ね」着物をきたかつかうが、淺草あたりの小料理屋の姐さんにみえる年増のまさきが、一服つけながら、海を眺めてゐる。「澄子さん、隨分、内地へ復りたがつてゐたのよ。昨夜、いつしよにタンバガンに乘つたンだけど、それが最後だつたのねえ、――何も死ななくてもよささうなものだわ」「うゝん、球江さんは子供だから知りやアしないのさ、澄さんの好きな兵隊が、何故モロンプダックにやらされたかつていふのは知らないだらう? 何ていふのかね、重營倉つていふのかねえ、あんなの食つて行つちやつたのさ、みんな、澄さんの爲なのさ、二人で逃げて土人に化けちやはうなんて考へてた位に思ひつめてたンだから、下手をすると、その兵隊は死刑よ、ねえ、思ひつめてたひとが死んでしまつたのだもの、澄さんだつて、こんな旅空で面白くもないやね、まだ歩いてゆけるところにゐると思へば氣が濟むなんて云つてたンだもの……それに躯も胸の方が大分惡かつたし、あんなになる運命だつたのよ澄さんてひとは」靜子が説明してゐる。雨氣をふくんだ叩きつけるやうな重たい風が吹きはじめた。杳か下の方の熱帶樹の蔭に自動車が風をよけてゐる。村の子供達が砂地を走りながら自動車を見物に來てゐるのが小さく見えた。風にさからひながら、子供の走るかつかうが海老のやうに見える。





底本:「林芙美子全集 第六巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:しんじ
校正:阿部哲也
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」    161-下-13


●図書カード