一
私には暗い/\日



貴方は世の中の嘲罵を浴びて被入るでせうね。堕胎女の情夫はあれだと。貴方はぢき其れが
二
裁判官は人類の滅亡も人道の破壊も考へない虚無党以上の犯罪だと云つて卓を叩いて怒りましたの。私が裁判官の
「では何所迄も悪いとは思はないのか」
と云ふ問ひに答へて
「悪かつたと思ひます。ほんとうに。然しそれは私が今迄姙娠した経験がなかつた為に其方に不注意だつたと云ふ事に対してなのです。私が凡ての点に於て未だ独り前の母になる丈けの力がないのを承知し
と云つた時にですの。私は裁判官が朱の様に怒つたので驚きました。丁度私は俯いて答へてゐましたのに卓を打つ音に
「人命をみだりに亡ぼす事を考へないか」
と怒鳴りましたの。私も少し皮肉でしたけど
「女は月々沢山な卵細胞を捨てゝゐます。受胎したと云ふ丈けではまだ生命も人格も感じ得ません。全く母体の小さな附属物としか思はれないのですから。本能的な愛などは
と云ひましたの。貴方は又皮肉やがとお笑ひになるでせう。私はまたをかしい事を云ひましたの。だつて実際滑稽な質問でせう?
「同棲したら子供が出来ると云ふ事を知らなかつたか」
と云んですもの。
「知つてゐました」
と云つたら
「親となる資格がなければ何ぜ同棲した」
貴方は怎んな気がして? 私はほんとにをかしかつたんですよ。人間の微妙な本能や感じ迄も数学的に割り出せと云つたつて其法官に出来ても私にや出来ないんですもの。そりや自分の責任の持ち切れない事を不用意として了つたと云ふ事はほんとうに私達の落度だつたし、思慮の足りない事だつたのですけど、だからさうなつて了つた私として一番いゝ方法を取つたのぢやありませんか。自分の思慮が足りなかつたと云つて成行きに任せて置いて一層思慮の足りない結果に落す事が恐ろしいからそれを避けたのぢやありませんか。
私は法官の問ひが余りをかしかつたので遂大きな声で笑ひましたの。そして
「それを若し御存知なくてお聞きになりたいとなら私より造物主の方が知つてゐます」
と云つて了ひましたの。私は今考へてもをかしくて仕方がありません。恁

「何故胎児が附属物だ」
と云ふのに答へて私は
「腕は切り離しても単独に何の用も
と一寸語を切ると大急ぎで此処を逃かしてはと様に切込んで来様としますから私も
「後に生命を持ち得るからこそ
斯う云つて私は決して軽卒や自分勝手でない事も説きましたの。私は貴方とも口を聞かずに幾日も幾日も考へて居ましたでせう。それを皆話しましたの。
「兎に角自分が不用意の為に斯うなつたのだから、姙娠して了つたのだから、私の出来る丈けの努力を生れる子に尽さう。それで足りない処は仕外のない事だから我慢して貰ふ。兎に角私は私の出来る丈けの力を産れる児に向ければいゝのだ」
私が姙娠を知つた始めに斯う思つた事も話しましたの。すると法官はそれが正しいと云はぬ許りに幾度も幾度も

三
私は斯う云ひましたの。
「始めはさう決心したのですけど、もう一歩考を進めた時、それは私には都合がいゝが産れて来るものには何にも関係のない事だと気が付きました。親は始めから自分の継承者を世に出すなんて事は少しも意識しないうちに子供を産みます。少くも私はさうでした。そして勿論子供から産んで呉れと頼まれた事もありません。そんな無意識のうちに不用意のうちに、尊い一箇の生命を無から有に提供すると云ふ事は、然も其責任をまだ当然持ち得ないと自覚して居たとしたら、此れ程世の中に恐ろしい事があるでせうか。これが生命を単独に形造つて胎外に出て了つてからならば、務めても出来ない不満は涙を呑んでも我慢しなければならないでせうが、まだ其処まで単独のものでなく母胎の命の中の一物であるうちに母が胎児の幸福と信ずる信念通りにこれを左右する事は母の権内にあつていゝ事と思ひます。母が死ねば当然胎児も死ぬ運命ですし、猶母の命を助ける為に胎児を殺す事は公に許されてる事の様に承知して居ました。私は母の為に児を捨てたのではなく、児の為に児を捨てたのでした。自分一己の事なら間違つたら遣り直す事も出来ます。粉砕され様と干死なりとそれは自分の事ですが、
私はこんな意味の事を云ひましたの。一生懸命でね。判つて貰はなくともいゝから云ふ丈けは云はうと思ひましてね。云つて了つたら私の目から又無暗に涙が流れました。貴方にお話した時も私は矢鱈と泣きましたね。自分の口へまだ出て来ない言葉に先から感激して涙の方が先に出て来た様な風にね。今度もさうなんです。私は語を切ると涙がはら/\と落ちましたの。悲しい涙でも口惜しい涙でもそんな意味のある涙ではないのです。私の声の一ツ/\の響が涙管を震はして涙の玉を振り落す様に只々はら/\こぼれるんですの。其時私は
「実に怖ろしいツ」
と云ふ法官の声を聞きました。
私は一日中変化と云つては殆ど三度の食事を運ばれる時丈けです。あとは終日灰色の世界でこの時間と次ぎの時間の区別のつかない時の中にゐます。其

私達は私達の今出来る丈けの働きをして居ますのね。二人はほんとに働く事が休息の様に働ける丈け働いて居ますはね。それでも私達はよく食べる物がなくなりました。一日に一度外切餅が食べられない日もありました。暑くなつても薄い着物がなくて仕方がないので貴方が一日裸体で
法官は虚無党以上の危険思想だと云ひました。
「実に恐ろしい。実に危険だ。罪悪以上だ」
と云ひました。私の身は怎うなるか分りません。法官は「人類の滅亡だ」と云ふ事を繰返しました。そして「其

「人の事は人の事です。人類があつてから私があるのではありません」
と打突ける様に云ひましたの。そしたら
「それでは何処までも犯罪だと云ふ事を知らないで行つたと云ふのか」
斯んな愚にも付かない尋問をするのです。私は「刑法と善悪とは別問題です。然し刑法に触れゝば罪人だと云ふ事は知つて居ました。そして私の行為が刑法に触れてる事も知つて居ました」
と答へましたの。すると何故自首しなかつたと云ふのでせう?
「罪を認めて居るものは法律で私ではなかつたからです」
と云ひますとね、法官もゑらい事を云ひましてよ、此言葉丈けには感心しました。
「法官が知らなくとも法律に触れてる事実を怎うする?」
と云ふのです。実際さうです。知つても知らなくとも事実は事実ですものね。其時私は
「それは法官の御手腕に任せます。私には只だ法律より私の信念の方が確かなのですから私自身では私の信念に動く外仕方がありません。然し今度は法律が私の方へ働きかけて来る時、事はそちらのお話になります」
と云ひましたの。
私の判決は怎うなるか分りません。怎うなるか……けれど私の信念には少しも動揺がないのですから。それに私の行つた事実にも変りはないのですから。貴方は何にも悲しまないで下さるでせう? そして一生懸命お仕事をして下さい。私の分も。
四
今日は頻りに宅の部屋の様子が目に見えます。私が居なくなつた日から貴方は部屋を掃いた事がないでせうね。床も敷きつぱなしでせうね。あの古くなつた掛布団はまたもう綿がはみ出したでせうね。縫ふとは切れ縫ふとは切れしてましたもの。貴方は今に綿丈けになつた布団は掛けなければならなくなるでせう
何だか私は今頃貴方が冷い御飯に水をかけてお塩をかけて、埃りだらけの布団の隅に
又くどく云ふ様ですけど私の事をお考へになつたらお仕事丈けをして頂戴ね。二人が葬られて了ふ様な事があつたら私はそれこそお恨みしますから。それが私には心配で/\堪らないんですの。どうかすると貴方が絶望してこの暗い世界へ飛び込んで被入りはしないかともう恐ろしくて堪らない事があるのです。私の知らない間に貴方も此処へ来て被入る様な気さへする事がありますの。どうぞね無駄にならない様にしませうね。
あ、今ね貴方の下駄が片方踏み石の下へ引繰り返へつてるのが見えます。一つは格子の側の処へ飛んで貼り柾がむけて来ましたね。