淡雪

原民喜




 潔が亡くなってから彼是一年になる。露子は彼から感染うつされて居た病気がこの頃可也進んで行った。早くから澄川病院に入院する様に父母を始めみんな勧めたが、潔のもと居た病院ではあるし、露子は気が進まなかった。そんな風に病勢をずるずる引伸して行くうちに、寒に入って凍てつくやうな日々が続いた。
 ある日、露子は到頭喀血した。血の色を視ると、急に彼女は周章て出した。居ても立っても居られなく、母に縋りついて、さめざめと泣いた。その日、父は早速郊外の松田病院へ出掛けて入院の交渉をして来た。父は珍しく菓子折を提げて帰った。
「なあに、お前は潔とは違って、晴やかな人間だ。陽気な人間なら、この病気は病気の方から今に降参して来るよ。」と父は云ったが、さう云ひながらも、彼女が菓子を欲しがらうともしない有様を見ると、一寸口に出せない別の感じを抱くのであった。

 夜になってから露子は睡つかれなかった。今日一日の経過が夢のやうに頭の裡に浮んで来る。これから先の不安と云っては、只住み慣れない病室に行かねばならぬと云ふこと位であった。それも潔の室で大体想像のつくことであった。だのに、どうも彼女はこれから大きな船に乗って出かけて行くやうな気持がした。ほんとに、船の汽笛がポーと鳴る音を耳にするやうであった。波がキラキラ輝いてゐる夏の午後、彼女はうっとりと甲板の上に水着の儘寝転んでゐる、と船と自分とが一心同体になって水の上を進んで行く。――かうした気持が暫くしてゐたかと思へば、また今朝ほど吐いた血の色が目に映った。紅い血の塊りが波の上に浮いて行く。彼女は何時の間にか、自分が吐いた血の色に見惚れてゐるのである。「これはをかしい」と彼女は呟いた。あれ程彼女を驚かせた血塊が、今は美しいと感じられるとはどうしたものだらう。何だか彼女は少女の頃の感傷にかへって居た。私はどうせ波の上に漾ふ一片の花瓣のやうなものです、さう小声で私るやうに[#「私るやうに」はママ]胸のなかで囁くと、思はず閉ぢてゐた目に涙が滲んだ。
 朝になる頃、彼女は変な夢をみた。潔が彼女の手を執って、唇に押しあてるので、彼女は片方の指で自分の唇を示すと、潔は首を振る。「何故?」と尋ねると、「今にわかります。」と潔の声は慄へてゐる。「何故? 何故?」と彼女は潔に甘えかかって、到頭彼の首に手を廻す、さうして接吻を了ってしまふと、やはり何でもなかったので彼女は晴やかに笑ひこける、潔も淋しさうに笑ひ出す。
 夢が覚めてから少許はただ爽やかな気持で居たが、ふと彼女はこの夢が気になり出した、さうして終にはこの夢が恐しくなって来た。
 露子が松田病院に入院してから一ヶ月は経過した。彼女はすっかり瘠せ衰へて、病人らしくなった顔に、淋しい笑みを浮べるのであった。入院して却って悪くなるとは、と見舞に来る人は首を捩った。医者もこの問ひに対しては答へやうがなかった。彼女は医者の命ずる事なら何でもよく諾いてゐた。病室の空気にも彼女はすっかり馴れてゐるらしかった。消毒剤の匂ひも、注射器も、体温表も、何から何まで以前潔の室で見て識ってゐた通りであった。
 時とすると、彼女はベットの上に寝転びながら、その隣りにもう一つ潔のベットがあるやうな心地がした。肺病める夫婦、そんな風な想像から彼女は好んで悩しい甘美な感情を味った。
 ある日も彼女は隣りのベットに対ってかう呼びかけた。
 ――潔さん、あなたは嘗て私に恋の喜びを与へて下さいました。そして間もなくあなたは私を置き去りにして逝ってしまひました。どうもあなたは態と逝ってしまはれた様な気がします。あなたは私がいとしくなかったのですか。どうかよくなって下さいと私が熱心に云っても、あなたはただぼんやりと淋しげに微笑みなされました。私はあなたのその頃の気持が、何と云っていいのか解りませんでした。ただ、私はあなたを亡くしたことを恨みました。
 しかし、潔さん、この頃私はやっと当時のあなたの気持が解って来たのです。潔さん、あなたの病気が今は私のものとなった様に、あなたの気持も今は私のものとなりました。ええ、あなたは病気を娯しんでゐらっしゃった。あなたは病気を弄んでゐられた、あなたは自分の力を信じられないので、ただ熱が出て頭が冴えて来れば、それを面白がってゐられたのでせう。あなたの淋しい霊魂には、肉体が刻々と蝕まれて行くことが、却って不思議な美しい誘惑ではなかったのでせうか。さうして、この誘惑を到頭あなたは私にもお頒ちになりました。ああ、何と云ふ恐しい誘惑でせう。しかも私はもう動けないのです。あなたは優しく、優しく手を伸べて私を抱かうとするのですか。(彼女はぢっと天井を視凝めて居たが、ふと急に怕くなった。)いいえ、あなたは、あなたは、あなたなんか居はしない。
 さう呟きながら窓の方へ寝返りをした。窓の外には何時の間にか淡雪がちらついてゐた。彼女は嘗て潔の病室を訪れたとき、やはり淡雪が降ってゐたことを憶ひ出した。今日は誰か見舞に来て呉れさうな日だと思はれた。ぢっと、廊下の方の足音に注意しながら、何時までも何時までも窓の雪を視凝めてゐた。彼女は誰がやって来るだらうかと一心に想像し出した。と、急にドアをひらいて潔が現れて来るやうな気持がするのであった。





底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード