父に連れられて高松から宇治への帰航の途中だった。号一は一人で甲板をよちよち歩き廻って、誰もゐない船尾へ来ると、舵へ噛みつく波のまっ白なしぶきを珍しがって眺めてゐた。それは白熊のやうな恰好になったり、時には巨人の貌になった。あたりの海は凡て穏かに煙ってゐたのに、号一が視凝めてゐる部分だけが怒り狂ってゐた。号一はその渦のなかに巻込まれさうな恐怖を感じた。と、渦のなかには既にさっきから何か黒い塊りが動いてゐるやうであった。突然、渦から二三間も隔ったところに男の顔が現れた。
男は号一を認めると、何か叫ばうとしたが、叫べないので、眼に必死の哀願を湛へた。号一はただ、ぽかんとしてその男の顔を何時までも眺めてゐた。そのうちに男の顔は断末魔の怒りに物凄く変って来た。
号一は慄へながら船室に戻った。「風邪でも引いたのかな」と父は号一を膝の上に抱へたが、号一は何も云はなかった。
映画がハネて人波がどっと舗道へ溢れた時だった。号一の家の方角に火の手が見えた。群衆は俄かに活気づいて、殆どその儘火事場の方へ押寄せて行った。近づくに随って、「森」「森の家だ」と喚く声が号一の耳にも聴きとれた。
人垣が密になって、もう一歩も進めないところまで号一は来た。それでも号一は後から押され間されて、何時の間にか繩のところまで来てゐた。パッと明るい世界が眼の前で躍った。号一は片方の手を懐に入れながら、自分の家が焼けるのに見とれてゐた。荒れ狂ふ火焔が映画のつづきでも見てゐるやうな感じであった。
「森!」と誰かが耳許で呼んだ。振返ると中学の教師が何か興奮しきって、彼を手招いてゐるのであった。
それからまた数年後のある夏の午後であった。号一は渋谷の食堂でカレイライスを註文した。彼のテーブルのすぐ隣りにはよく肥えた顔の厳しい紳士が腰を下してゐた。号一の前にはナプキンに包んだスプーンだけが直ぐに運ばれて来た。見識らぬ紳士もカレイライスを
号一は手に弄んでゐたスプーンを咄嗟に、彼の方へ差出さうかと思った。すると相手の男は横眼でヂロッと彼の方を視た。号一ははっと気がついたやうに手にしたスプーンを引込めると、急にそっぽを向いて知らぬ顔をした。