原民喜




 飛行機を眺めてゐたら朝子の頬にぬらりと掌のやうな風が来て撫でた。ふと、そこには臭ひがあって、彼女の神経は窓に何か着いてゐるのではないかと探った。とどかないところにあって彼女を嘲弄してゐるのは何だらう、銀翼も今朝は一寸も気分を軽くはしてくれない。その時天井の板がピンと自然にはじける音をたてた。人気のない家にゐるのが意識されて、視るとやはりゐた。蟻がもう這ひ出す季節なのだった。季節と云ふ厭な聯想を抹殺するために朝子は掌にしてゐる雑巾で蟻を潰した。
 それから不図思ひ出したやうに机の上を拭き出すと、机の汚斑しみが気にかかり出した。雑巾の裂目が厭になった[#「厭になった」は底本では「厭になっだ」]。さうなると、もう彼女は自分が厭な感覚に愚弄されてゐるのを[#「愚弄されてゐるのを」は底本では「愚弄さてゐるのを」]はっきり自覚した。そして次々に増加し、増長して来る無数の陰影どもは、ぶつぶつと何か彼女に囁く。しんしんと募り行く焦慮は彼女の全身を針攻めにする。どこにそんな針があるのか、朝子は自分自身の背中が見たい。実際左の肩の三角筋がぼうと熱をもって疼く。
 それに彼女は台所が気にかかって耐らない。使用もしないのに瓦斯メートルがふと勝手にずんずん廻り出したらどうしよう。鼠が葱を噛って、葱の根に蛞蝓なめくじらでも這ってはゐないか。水道の水がボトボト鼻血を流し、柱の火災除けのお守りがかっと口をあけて、焔を吐き出したら。――朝子は台所が急に怖くなって、気になるばかりで、行くことが出来ない。朝子はつまらない魔術に引掛ってしまった自分に立腹する。その額に浮んだ青筋が鏡に映る。
 その青筋だよ――と見えないところで夫の冷かす声がする。
 しかし、この脅迫は何処から来るのだらう。それがただ一時の不安定な感覚の所為だけかしら。……彼女はカチリと或る核心に触れて悶絶したくなる。……信じてはゐても、縋らうとはしてゐても、夫の心はあてにならぬ。薄弱な、利己的な、制限のある男心。それから彼女は夫の苦境に降り注ぐ、世間の悪意を数へる。それらを勇敢に撥かへしもしないで、とかく内攻して鬱ぐ一方のおめでたい意気地なし。これからさきどうなるのかと嘆じても、僕にもわからぬと突放す。……結婚と云ふものはこんなものだったのかしら。彼女は自分が手足を縛られて極極の谷間に投げ捨てられてゐるやうに想へる。ふと、眼をやると、白熊がゐる。何だって肉屋の呉れたカレンダーに熊がゐるのだらう。
 憎い肉屋、知らないったら新聞屋、困ったわ米屋――駄洒落まじりの憤りが、ふと心の一角で擡頭すると、その癖が夫の模倣であったのに気がついて朝子は再びむっとする。
 ――勇ったら、勇、勇ったら、こいつ
 その時近所のおかみの子供を叱る例の怒号が始まり出すと[#「始まり出すと」は底本では「殆まり出すと」]、朝子はふと一種の共鳴を覚えた。





底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日
入力:蒋龍
校正:小林繁雄
2009年6月18日作成
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