檀一雄「リツ子・その死」

――創芸社刊――

原民喜




「リツ子・その愛」はまだ届かないので、先日お届け下さつた「その死」の方だけ只今、読み了へました。どうして、あなたは私にこの作品の感想を書かせようとなさるのでせう。私が七年前に妻を喪ひ、そのことを少しばかし作品に書いたりしてゐるからでせうか。それなら却つて、私のやうなものは、この書物を正しく解読できないのではないでせうか。私は最初の一頁から最後の二八六頁まで、絶えずこの懸念に纏ひつかれてゐました。それから、もう一つ私の念頭を離れなかつたのは、この作者にこの作品を書かせてゐる眼に見えぬ力のことです。これもあまり我流の考へ方かもしれませんが、しかし、一人の作家を燃焼させる女性といふものは、やはり大変なもののやうに思はれてなりません。このことをもつと詳しく知るためには、「その愛」の方も是非読んでみたいと思ひます。
 リツ子が腸結核で、あと三十日は持たないだらうといふこの書の三月六日の書きだしから、私は何かやりきれない気持で読みはじめました。「呼吸につれて時々リツ子の喉が笛のやうに細くヒウヒウ鳴る」こんな病床をめぐつての細々した記述も、私には思ひあたる節が多かつたのですが、四月四日、臨終の前、病人の口全体が乾燥してゐる姿に驚いて蜂蜜を塗つてやるところを読むと、(あ、あのとき蜂蜜を塗つてやればよかつたのか)と感に堪へないものがありました。けれども、……「何もかも済んで終つた。見ろ、おまへの白け果てた骨の上に、かうして、父と子が『味噌の骨』をのせて握り飯を食べてゐる」といふ最後のくだりまで読み了へて、この作品全体から受ける、不思議に、おほらかな、印象について、更めて私は考へさせられました。
 この小説の時期は敗戦翌年の春で、場所は福岡県の片田舎の疎開地、瀕死の病害と幼ない子供を抱へて、日ごと逼迫してゆく「私」の生活はどうみても暗澹としてゐる筈です。ところが、たまたま身上相談に来た青年にむかつて、こんなことを云つてゐます。
「僕は生きるよろこびといふものを、どんな嘘つぱちでもいいから、確立し是認したいね。悲哀をも享楽したいほどの、僕は快活な生き物でありたいね。サッパリと生みだされた通りに、サッパリと生きてゐたいね。」
「私はキリストを知りません。仏陀も知らない。然し、私を生んだ来源の、大きな楽しい力の息吹のやうなものを感じますね。生涯を徒労のことだとも思はない。みじめではありますが、自分の足取をどんなに快活な歩調にも導き得るでせう。とめどないといへば、とめどない。けれども、私はこの人生をむなしいこととは思ひません。既に生みだされてゐる以上、心を洗つて来源の声に、新しい快活の人生を積み上げたい。」――かうした「私」の態度はこの作品全体に一貫してゐるやうですが、リツ子の性格を作者は次のやうに説明してゐます。
「一概に迷信深いといふよりも、リツ子は何もかも有難がる性分だ。万物尊崇(?)とでもいふやうな一風変つた信仰を持つてゐる。万物の底に、絶えず働く神の加護を見る。甘くて優しい、生活の汎神論といつたふうだ。」
 だが、汎神論的色彩といつたものは、リツ子の夫の「私」にも多分に感じられ、万物尊崇でないまでも、万物生成といつたやうな、作家的願望が到る処にたぎつてゐるやうです。
「五月であつたか、六月であつたか。大陸の芹共は、のびのびと天を仰いでみな垂直に立ち、原全体を蔽つてゐた。人間の世界などとりとめない。が、あの芹共は五月になればまた確実に、野面一面に萌えだすにちがひなし。」と、大陸で灼きつけられた虚無感は瀕死の妻を眼前にして、優しい追憶をたぐりよせようとしても、ぽつかりと一輪浮んだ菫の花は、銃殺死体からあまり距ててゐないところに咲いてゐるのです。だから、「私」はリツ子の死後、すぐ生きてゐるあかしを得たいために静子を奪ひとつてしまつても、まだ足りないやうな憤怒に燃えたりします。だが、この作品で、最も美しく、最も自然な救ひになつてゐるのは子供との会話の部分でせう。
〈私は上衣とシャツを脱ぎ棄てた。裸になつてゲンゲンの花の上に跳び上つた。清々しいのである。
「タロもー。タロもー」
「よし」と太郎をまる裸にしてやつた。
「さあ、ピョンピョン。ピョンピョン」とをどらせた。
「ねえ、太郎。もう母はどこにも居るとよ。この花の中にも入つとるとよ。ほら、父のお手々の中に今入つた。ほら、太郎のお臍の上にも母がちよんと、とまるよ」
 太郎はわかるふうだつた。〉
 それから、この作品のなかにはモーリヤックを連想さすやうな情念の世界も展開してゐます。「千鶴は地下足袋を覆いてゐた。その低い足首から腰のあたり、柔軟な肉付が、歩行につれて顫へるやうに屈曲する。淋しい、受身の、それでゐてどこか投げやりな、不思議な炎がちろめくやうな足取りだ。穢土を堪へつくしてゐるが、然しその眼が、そつと天界を仰いでゐるやうな肉体だ。或ひは、触れてゆく男性に、熱狂的な宗教と信仰の世界を誘導してゆく、真正のマリヤかもわからなかつた。」――この千鶴といふ女をめぐつて、カトリック村落の父親と息子との一挿話はまことに印象的で、しかも、愛慾の影はあちらこちらに散見します。
 この書の「あとがき」では、「生きてゐるといふことは絶えず新しい伝説を創るといふことだ。」と云つてゐます。私も、この「リツ子・その死」を一つの伝説として受けとりたいのです。「小説といふ奴は、私の実人生から萌芽を借りて、とA・B・C・D……無際限の気候と乾湿と風速のなかに、新しい人生を実現してゆくだらう。勝手な運行を開始して、実人生の作者を誘惑する。」と、嘗て、この作者は誌してゐますが、「リツ子・その死」のなかには無数の草木虫魚が呼吸づきながら、ばらまかれてゐるやうです。





底本:「三田文學 第九十四巻 第一二二号 夏季号」三田文学会
   2015(平成27)年8月1日発行
初出:「人間」目黒書店
   1950(昭和25)年6月号
入力:竹井真
校正:持田和踏
2022年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード