仙台の師団に居らしッた西田若子さんの
御兄いさんが、今度戦地へ行らッしゃるので、新宿の停車場を
御通過りなさるから、私も若子さんと
御同伴に
御見送に行って見ました。
寒い寒い朝、耳朶が
千断れそうで、靴の裏が
路上に凍着くのでした。此寒い寒い朝だのに、停車場はもう一杯の人でした。こんな多勢の人達が
悉皆出征なさる方に縁故のある人、
別離を惜しみに此処に集ってお居でなさるのかと思ったら、私は胸が一杯になりましたの。
『若子さん、中へは這入れそうもないことよ。』
各箇かの団体の、いろいろの彩布の大旗小旗の、それが朝風に飜って居る勇しさに、
凝乎と
見恍れてお居でなさった若子さんは、色の黒い眼の
可怖い学生らしい方に押されながら、私の方を見返って、
『なに大丈夫よ。私前に行くからね、
美子さん
尾いてらッしゃいよ。』
『押されるわ。』
私は若子さんの後に尾いて、停車場の内へ這入ろうとした時、其処に物思わしげな顔をしながら、きょろきょろ
四辺を見廻して居た女の人を見ました。唯一目見たばかりですが、何だか可哀相で可哀相でならない気が
為たのでした。
そうねえ、年は、二十二三でもありましょうか。そぼうな
扮装の、髪はぼうぼうと脂気の無い、その癖、眉の美しい、
悧発そうな眼付の、何処にも憎い処の無い人でした。それに生れて
辛っと五月ばかしの赤子さんを、
懐裏に確と抱締めて御居でなのでした。
此様女の人は、多勢の中ですもの、幾人もあったでしょうが、其
赤さんを
懐いて御居での方が、妙に私の心を動かしたのでした。
『美子さん、早く
入ッしゃいよ。あら、はぐれるわ。』
若子さんに呼ばれて、私ははッと思って、若子さんの方へ行こうとすると、二人の間を
先刻の学生に隔てられて居るのでした。
『あらッ若子さん。』
『美子さん、此処よ。』
若子さんが白い美しい手を、私の方へお伸しでしたから、私も其手につかまって、二人一緒に抱合う様にして、
辛と放れないで待合室の傍まで行ったのでした。此処も一杯で、私達は
迚も這入れそうもありませんでした。
『若子さん、大層な人ですこと。貴女の御兄さんが御着きなさっても、御目に掛れるでしょうか知ら。』
『私
何したッても、
何様酷い目に会っても、兄さんに御目に掛ってよ。』
『私もそうよ。久振りで御目に掛るんですもの。』
『あらいやだ。』
若子さんは頓興に大きな声で、斯うお云いでしたから、何かと思うと、また学生がつい其処に立って居るのでした。
『何だか
可厭な人だわ。』
『そうねえ。』
『彼方へ行った方が可いね。』
若子さんが人と人との間を潜る様にして、
急歩いでお行でですから、私も其後に尾いて行きながら、振返って見ますと、今度は学生も尾いて来ませんでした。
『若子さん、あの学生の方は何したって云うんでしょう。』
『何だか知らないけれど、可厭な人ですねえ……あらッ、
彼方を御覧なさいよ、
可怖いわ。』
若子さんが眼で教えて下さったので、其方を見ましたら、容色の美しい、花月巻に
羽衣肩掛の方が可怖い眼をして何処を見るともなく睨んで居らしッたの。それは可怖い目、見る物を何でも呪って居らッしゃるんじゃないかと思う位でした。
私も覚えず、『可怖い方だわねえ。』
若子さんは可怖い物見たさと云った様な風をなすって、口も利かないで、
其方を見て居らしッたのでした。
すると、其方が私達の方へ歩んで御居ででした。途端に其処に通掛った近衛の将校の方があったのです――
凛々しい顔をなすった
戦争に強そうな方でしたがねえ、其将校の何処が気に入らなかったのか、其
可怖眼をした女の方が、
下墨む様な笑みを浮べて、
屹度お見でしたの。
『彼人達は死ぬのが可いのよ。死ぬのが商売の軍人さんじゃないか。何も人の子まで連れてって、無理に殺さないだって可いわ。何の為か知らないけれども、能くマア殺しに行くわねえ。』と、頬には冷かな笑みがまた見えるのでした。
無論大きな声ではなかったが、私達には能く聞えたから、覚えず若子さんと顔を見合せて居ました。
『……名誉も義務も軍人なればこそよ。軍人なきゃ何でもない。私の兄さんなんか、国の為に死ななきゃならない義理は無いわ、ほほ、死ぬのが名誉だッて。』
其方の声がぴたと止まったら、
何なすったかと思って見ると、彼の可厭な学生が其の顔を
凝乎と見て居るのでした。
『あらッ、また来てよ。』
若子さんと私が
異口同音に斯う云って、云合せた様に其処を去ろうとしますと、
先刻入口の処で見掛けた彼の可哀相な女の人が、其処に来合せたのでした。私は憎い人と可愛い人が、其処に集ってる様な気がして居ました。
『あらッ、プラットフォームに入れてよ。
彼様に人が入ってよ。美子さん早く入らッしゃい。』
若子さんも私も駆出してプラットフォームへ入ったのでした。此処とても直きに一杯の人になって了ったし、汽車がもう着くかもう着くかと、其方にばかし気を
奪られて、彼の二三人の人の事は拭った様に忘れて居ました。
万歳の声が
其那一体――プラットフォームからも、停車場の中からも盛んに起ると間もなく汽車が着いたのでした。其時の混雑と云ったら、とても私の口では云えない、況して私は若子さんと一緒に夢中になって、御兄さんの乗って居らッしゃる
列車を探したんですもの、人に
揉れ揉れて押除けられたり、突飛ばされたりしながら。
若子さんの御兄さんに御目に掛った時は、
何様に嬉しかったでしょう。今思い出しても胸が
動悸動悸しますの。況して若子さんの喜び様ッてありませんでした。御二人手を御取合で互に涙
含んでらッした御様子てッたら、私も戦地へお行でなさる兄さんが、急に欲しくなった位でした。
『美子さん、勉強なさいよ。勉強して女の偉い人になって下さい。若子を何時までも友達にして下さってね、私の母の処へも時々遊びに行って下さい。よいですか。』
私は唯胸が痛くなるばかりで、御返辞さえ出来ないのでした。
『兄さん、』と、若子さんは御呼掛でしたが、辛ッと私に聞こえる位の声で、『あのう、阿母さまも私も待って居てよ。』
『
生命があったらば。』と莞爾なすって。
私は若子さんの
意の
中を思遣って、見て居られなくなって横を向きました。
すると、直き傍で急に泣声が
発ったのです。見ますとね、先刻の
何人でも呪いそうな彼の可怖い眼の方が、隣の列車の窓につかまって泣いてらッしゃるのでした、多くの人目も羞じないで。鋭い声の、あれが泣
饒舌と云うのかも知れませんね。
『兄さん、貴方は死んで呉れちゃいやですよ。決して死ぬんじゃありませんよ。貴方は
普通の
兵士ですよ。
戦争の時、死ぬ為に、
平生から扶持を受けてる人達とは違ってよ。兄さん自分から好んで、』
強い咳払いを一つ、
態と三つまで続けて、其女の方の言葉を紛らそうとしたのは、其兄上らしい三十近い
兵士さんでした。それで、其兵士の顔には、他の人への羞しい様な色が溢れて、妹さんを見据えてお居での眼は、
何様に迷惑そうに見られたでしょう。
『もう可いから、彼方へ御行で……お前の云った事は、
既う充分解ってる。其処を退いたら可いだろう。邪魔だよ、何時までも一人で、其処を占領しているのは。御覧、皆さんが彼様に立って居らッしゃるじゃないか。』
其女の方の後には、
幾個かの人の垣を為た様に取巻いて、何人も呆れてお居での様でした。
『彼の女は僕の云う様な事を云っている。』
突如に斯う云った人があったのです。見返ると、あの
可厭々々学生が、何時か私達の傍近くに立って居たではありませんか。
若子さんの御兄さんは、じろりと彼の学生の顔を御覧でした。
若子さんは小さな声で、『兄さん、彼女の方は随分ですわねえ。』
『女だから可いさ。』と、御兄さんは気にも御止めなさらない様でした。
其時、私は不図あの可哀相な――私が何となくそう思った――乳呑子を懐いた女の人を見出したのです。それはつい、泣饒舌をして居た方から、二つ先の窓の処でした。そして、窓の中から見下して居た若い兵士の、黒い黒い顔の、それでも優しいそうな其眼に、一杯涙が見えて居ました。
『……鶴さん、
些っとも未練残さねえで、えれえ働きをしてね、人に笑われねえで下せえよ。』
と、眼には涙がほろほろと溢れてお居ででしたが、『お前さんが
戦死さッしゃッても、日本中の人の為だと思って私諦めるだからね、お前さんも其気で……ええかね。』と、赤さんを抱いてお居での方は袖に顔を押当てお了いでした。
涙を拭いたのは、其方の良人の兵士さんと私ばかりではありません。其周囲に居合せた人で、一人だッて涙を浮べない者はありませんでした。
『……兄さん、
何様事があったッて、死んじゃいやですよ。お国には、』と、また泣饒舌をなさる声が聞えたのです。
『もう可い、何も云わない方が可い、お前には実に困る。彼方へ行ってお呉れ。』
『余り醇いわ、兄さんは。』
『私は軍人だよ。』
『だけども、徴兵で
為方がなしになった軍人よ。月給を貰って妻子を養ってる、軍人とは違うんでしょう。貴方は家の相続人ですわ。お国には阿母さんが
唯ッた一人、兄さんを楽しみにして待ってらッしゃるでしょう。仙台は仙台で、三歳になる子まである嫂さんがあるでしょう。それだのに、兄さんが万一、』
『ええ、聞く耳が無い。』と、其の兄さんはつと体を
退いて、向側の窓の方に腰を卸してお了いでした。
『兄さん兄さん。』と、窓につかまって伸上り伸上りして、『国の為ッ国の為ッて、親も子も妻も餓死んでも、兄さんは兄さんは兄さんは……無理に殺しに連れてかれる人もないわ。阿母さんや嫂さんの事を思って頂戴よ。えッえッえッ。』
『此所にも軍人はいくらも居るよ』
窓の近くに居た兵士の一人が、大きな声で叱る様に斯うお云いでしたの。私可怖かったわ、あの呪う様な眼で、凝乎と其兵士をお睨みでした顔と云ったら。
『決して後の事心配しなさるでねえよ。私
何様思いをしても、阿母や此児に
餓じい目を見せる事でねえから、安心して行きなさるが可えよ。』
良人の其人も目は泣きながら、嬉しそうに
首肯かれたのでした。『
乃公はもう何んにも思い置く事はねえよ。村に帰ったら、皆さんへ宜敷く云って呉れるがいい。』
『ああ、能う御座えますよ。』
二人はもう何も云う事がなくなった様に、互に顔を見てお居ででしたが、女の人は急に思出した様に、抱いて居た赤さんの顔を夫へお見せでして、『此子はお前さんの顔を覚えられねえけんど、お前さんは此子の顔を能く覚えて、
戦死しても忘れねえで下せえよ。それが此子への……。』
親御の二人よりかも、傍の一同が泣いて了いました。
途端にもう汽車は出るのでした。直ぐ出ました。
看々うちに遠くなって、後は万歳の声ばかり。
私も悲しかったの若子さんに劣らなかったでしょう。二人とも唯だ夢心地に佇んで居ました。
『心にもない事を云うわね、彼女は。』
子を抱いた女の彼の可哀相な人が
悄然として、お帰りの後から斯う声を掛けて、彼女の方がまた睨んで御居ででした。
『あの、貴方。』と、うッて変った優しい御声は、洋服を召した気高い貴婦人が其処に来掛って、あの可哀相な女の人をお呼止めになったのでした。
『あなた、御寒う御座いますから、失礼ですが、其御子に掛けてあげて下さい。』
貴婦人は見事な肩掛を、赤さんへお掛けなすって、急いで出口の方へ行ってお了いでした。其御様子が何様にお美しく見上げられたでしょう。
『僞善よ。ほほ。』と、また可怖い眼で見送りでしたの。
『僕も主義を改めて、あの百姓のお神さんに同情するさ。』
彼可厭と思った学生の声でしたから、私達は急いで停車場を出て、待たせて置いた
宅の俥に乗って帰ったのでした。
私は
彼女の方は、日本の人か知ら、他国の人じゃないかと思いました。ですけれども、顔だけは
何見ても日本の人!
(一九〇五年)