朕、今ゲータに死を賜えり。汝宜しくその理由を案出して罪案を起草すべし。と、声色共に※(はげ)しく、迅雷(じんらい)まさに来らんとして風雲大いに動くの概があった。これを聴いたパピニアーヌスは儼然(げんぜん)として容(かたち)を正した。
既に無辜(むこ)の人を殺してなお足れりとせず、更にこれに罪悪を誣(し)いんとす。これ実に第二の謀殺を行うもの。殺親罪を弁護するはこれを犯すより難し。陛下もし臣の筆をこの大悪に涜(けが)さしめんと欲し給わば、須(すべか)らくまず臣に死を賜わるべし。と答え終って、神色自若。満廷の群臣色を喪(うしな)い汗を握る暇もなく、皇帝震怒、万雷一時に激発した。
咄(とつ)、汝腐儒(ふじゅ)。朕汝が望を許さん。暴君の一令、秋霜烈日の如し。白刃一閃、絶世の高士身首その処を異にした。
“That it was easier to commit than to justify a parricide” was the glorious reply of Papinian, who did not hesitate between the loss of life and that of honour. Such intrepid virtue, which had escaped pure and unsullied from the intrigues of courts, the habits of business, and the arts of his profession, reflects more lustre on the memory of Papinian, than all his great employment, his numerous writings, and the superior reputation as a lawyer, which he has preserved through every age of the Roman jurisprudence.(Gibbon's the Decline and Fall of the Roman Empire.)[#改ページ]
サア、どうぞこの処を能(よ)く能(よ)く御考え下さいまし。否もう御熟考の時は已(すで)に過ぎ去っております。――私どもは決心せねばなりませぬ。――今の場合、私どものなすべきことはただ一つだけ、――しかも、それを今夜中に決行せねばなりませぬ。――もしこの機会を外したなら、それは、とても取り返しが附きませぬ。――サア、先生、ソクラテス先生、どうぞ私の勧告をお聴き入れ下さいまし。情には脆(もろ)く、心は激し易いクリトーンが、かくも熱誠を籠めて、その恩師に対(むか)って脱獄を勧めたのであった。ソクラテスは、その間、心静に、師を思う情の切なるこの門弟子(もんていし)の熱心なる勧誘の言葉に耳を傾けておったが、やがて徐(おもむろ)に口を開いて答えていうには、
親愛なるクリトーンよ、汝の熱心は、もしそれが正しいものならば、その価値は実に量(はか)るべからざるものである。が、しかし、それがもし不正なものであるならば、汝の熱心の大なるに随って、その危険もまた甚だ大なるものではあるまいか。それ故、余は先ず、汝の余に勧告する脱獄という事が、果して正しい事であるか、あるいはまた不正の事であるかを考える必要がある。余はこれまで、何時(いつ)も熟考の上に、自分でこれが最善だと思った道理以外のものには、何物にも従わなかったものであるが、それを今このような運命が俄(にわか)に我が身に振りかかって来たからと言って、自分のこれまで主張してきた道理を、今更投げ棄ててしまうことは決して出来るものではない。否、かえって余に取っては、これらの道理は恒(つね)に同一不易のものであるから、余の従前自ら主張し、尊重しておったことは、今もなお余の同じく主張し尊重するものであるのだ。と述べ、なお言葉をついで、
ただ生活するのみが貴いのではない。善良なる生活を営むのが貴いのである。他人が己れに危害を加えたからとて、我れもまた他人に危害を加えるなら、それは、悪をもって悪に報いるもので、決して正義とは言えない。して見れば、今汝がいうように、たといアテネの市民らが、余を不当に罰しようとも、我れは決してこれを報いるに害悪をもってすることは出来ないのである。と言い、また、
もし余がこの牢屋を脱走せんとする際、法律および国家が来って、余にソクラテスよ、汝は何をなさんとして居るか。汝が今脱獄を試みようとするのは、即ち汝がその力の及ぶ限り法律および全国家を破壊しようとするものではないか。凡そその国家の法律の裁判に何らの威力もなく、また私人がこれを侮蔑し、蹂躙するような国家が、しかもなおよく国家として存立し、滅亡を免れることが出来るものであると汝は考えるかと問うたならば、クリトーンよ、我らはこれに対して何と答うべきであるか。と言い、なおこれに次いで、国家および法律を擬人して問を設け、国法の重んずべきこと、また一私人の判断をもってこれに違背するは、即ち国家の基礎を覆さんとするものであるということを論じ、更にクリトーンに向って、
我らはこれに答えて、「しかれども国家は已(すで)に不正なる裁判をなして余を害したり」と答うべきか。と言い、クリトーンが、
勿論です。と言ったのに対して、
しからば、もし法律が、ソクラテスよ、これ果して我らと汝と契約したところのものであるか。汝との契約は、如何なる裁判といえども国家が一度これを宣告した以上は、必ずこれに服従すべしとの事ではなかったかと答えたならば如何に。と言い、更にまた、たとい悪(あ)しき法律にても、誤れる裁判にても、これを改めざる以上は、これに違反するは、徳義上不正である所以(ゆえん)の理を説破し、なお進んで、
凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子眷族(けんぞく)を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距(はな)れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻(はいれい)するものではないか。と言うて、縷々(るる)自己の所信を述べ、故にかかる契約を無視すれば、正義を如何にせん、天下後世の識者の嗤笑(ししょう)を如何にせん。もしクリトーンの勧言に従って脱獄するようなことがあれば、これ即ち悪例を後進者に遺すものであって、かえって彼は青年の思想を惑乱する者であるという誹毀者らの偽訴の真事であることを自ら進んで表白し、証明するようなものではないかといい、更に、
正義を忘れて子を思うことなかれ。正義を後にして生命を先にすることなかれ。正義を軽んじて何事をも重んずることなかれ。と説き、滔々(とうとう)数千言を費して、丁寧親切にクリトーンに対(むか)って、正義の重んずべきこと、法律の破るべからざることを語り、よりてもって脱獄の非を教え諭したので、さすがのクリトーンも終(つい)に辞(ことば)なくして、この大聖の清説に服してしまったのである。
クリトーンよ、余はアスクレーピオスから鶏を借りている。この負債を弁済することを忘れてはならぬ。(プラトーンの「ファイドーン」編第六十六章)嗚呼(ああ)これ実に大聖ソクラテスの最後の一言であって、こは実に「その義務を果せ」という実践訓を示したものである。
プラトーンの「ファイドーン」編の末尾に記していわく、「彼は実に古今を通じて至善、至賢、至正の人なり」と。[#改ページ]
此二三ヶ年以前より、たばこと云もの、南蛮船に来朝して、日本の上下専レ之、諸病為レ此平愈と云々。と見えているから、この頃には喫煙の風は既に広く上下に行われて、当時のはやり物となっていたようである。かの林羅山(はやしらざん)の如きも、既に煙癖があったと見えて、その文集の中に佗波古(たばこ)、希施婁(きせる)に関する文章が載っており、またその「莨※文(ろうとうぶん)」の中に、
拙者(せっしゃ)性癖有レ時吸レ之、若而人(じゃくじじん)欲レ停レ之未レ能、聊(いささか)因循至レ今、唯暫(しばらく)代レ酒当レ茶而已歟(のみか)。と記している。
七月、タバコ法度(はっと)之事、弥(いよいよ)被レ禁ト云々、火事其外ツイエアル故也。と見えているが、これが恐らくは喫烟禁止令の初めであろう。
一、たばこ吸事被二禁断一訖(きんだんせられおわんぬ)、然上は、商賣之者迄も、於レ有二見付輩一者(は)、双方之家財を可レ被レ下、若(もし)又於二路次一就二見付一者、たばこ並売主を其在所に押置可二言上一、則付たる馬荷物以下、改出すものに可レ被レ下事。この後ちも幕府はしばしば喫煙および煙草耕作の禁令を出したことは、拙著「五人組制度」の中にも記して置いた通りである。しかし、この類(たぐい)の禁令はとかくに行われにくいものと見えて、その頃の落首に、
附、於二何地一も、たばこ不レ可レ作事。
右之趣御領内江[#「江」はポイント小さく右寄せ]急度(きっと)可レ被二相触一候、此旨被二仰出一者也、仍如レ件(よってくだんのごとし)。
慶長十七年八月六日
きかぬもの、たばこ法度に銭法度、[#改ページ]
玉のみこゑにけんたくのいしや。
風俗常憂頽敗※ 人人左衽拍二其肩一それで、島津氏も厳令を下して喫煙を禁止しようとしたのである。「崎陽古今物語」という書に次の如き記事が見えている。
逸居飽食坐終日 飲二此無名野草煙一
竜伯様(島津義久)惟新様(島津義弘)至二御代に一、日本国中、天下よりたばこ御禁制に被二仰渡一、御国許(くにもと)之儀は、弥(いよいよ)稠敷(きびしく)被二仰渡一候由候処に、令(せしめ)二違背一密々呑申者共有レ之、後には相知、皆死罪に為レ被二仰渡一由候云々。この如く違犯者を死刑に処するまでに厳重に禁制したのであったけれども、その効果は遂に見えなかったのである。同書、前掲の文の続きに、
執着深き者共は、やにをほそき竹きせるに詰(つめ)、紙帳を釣り、其内にて密々呑為申者共も、方々為有レ之由候。と有るのを見ても、因襲既に久しきがため、この風の牢乎(ろうこ)として抜き難かったことを知ることが出来よう。かくて、後年に至って薩摩煙草はかえって天下の名産たるに至ったのである。
右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党(くみ)して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事覚(あら)われて獄中に囚(とら)われていたが、乱平(たいら)ぎたる後ち、伊豆守はこれを赦して江戸に連れ帰り、吉利支丹の目明しとしてこれを用いた。右衛門作はよく油絵を学び巧に人物花卉(かき)を描いたが、彼が刑罰の図を作ることを命ぜられたのもそのためであった。後ち耶蘇教を人に勧めたために、獄に投ぜられて牢死したということである。[#改ページ]
暖簾も其儘にして常の通りに相心得、敬するに不レ及と令せられし事、大いに当たらざるか。刑は公法なり、科の次第を幟に記し、其科(とが)を喚(よばわ)る事、世に是を告て後来(こうらい)の戒とせんが為なれば、諸人慎んで之を承(うけたまわら)ん条、勿論なり。というている。法に対する尊敬は誠にかくあるべきものである。
衛覬奏、刑法、国家所レ重、而私議所レ軽、獄者人命所レ懸、而選用者所レ卑、諸置二律学博士一、相教授、遂施行。と見えて、律学博士なるものは、この衛覬(えいき)の建議によって始めて置かれたものであるという。
神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾(なんじ)らの実の母となすことなし。これは「コーラン」の一節である。何の事か、一寸意味を解し兼ねる文句であるが、セールの研究は、この難解の一句を解き得て、面白きアラビアの古俗を吾人に示している(Sales, The Koran, ch. xxxiii[#「xxxiii」は33を表すローマ数字の小文字]. The Confederates. p. 321.)。
当地には猫を飼養する者が多いから、被告出廷の途次、生命の危険がある。裁判所は、被告に適当の保護を与えんがために、猫の飼主に命じて開廷日には猫を戸外に出さないという保証状を出させてもらいたい。裁判所は大いに閉口した。召喚に際して適当の保護を与えるのは、固(もと)より当然のことであるから、その請求はこれを斥ける訳には行かない。さりとて、その請求の実行は非常な手数である。そこで、裁判は結局無期延期ということになった。
子のあたま、ぶった柱へ尻をやりという川柳があるが、この法の精神を説明し得たものといってもよかろう。
吉原開基の砌(みぎり)より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ太夫遊女三人宛(ずつ)、御給仕に上りし也。此事由緒故実も有る事にやと、或とき予が老父良鉄に尋ねとひしに、良鉄が申けるは、慥(たしか)に此故とは申難きことなれども、私(ひそか)に是を考へ思ふに、扨(さて)御奉行と申(もうす)は日々に諸方の公事訴訟を御裁判被レ成、御政務の御事繁く、平人と違ひ、年中に私の御暇有る事稀也、然ども遊女などの艶色を御覧の為にはあらざれ共、遊女はもと白拍子(しらびょうし)なり、されば御評定所の御会日の節、白拍子などを御給仕に御召あり、公事御裁許以後、一曲ひとかなでをも被二仰付一、 御慰に備へられん為に、上様より被二仰付一しものか云々。まさか「天下の政道を取捌(さば)く決断所での琴三味線」「自分のなぐさみ気ばらしをやらるる」重忠様もなかったであろう。
“Happy is the king who has a magistrate possessed of courage to execute the laws; and still more happy in having a son who will submit to the punishment inflicted for offending them.”しかるに、右の親王が位を継いでヘンリー五世となり、その後ち崩御された直ぐ後にサー・トマス・エリオット(Sir Thomas Elyot)の著わしたThe Governorという書には左の如くある。
“O merciful God, howe moche am I, above all other men, bounde to your infinite goodness, specially for that ye have gyven me a juge, who feareth not to minister justyce, and also a sonne, who can suffre semblably, and obey justyce!”右に掲げた話は同書中の記事に拠ったのである。
“He shakes his head, but there is nothing in it!”と叫んだ。これは素(もと)より「彼は頭を掉っているが、それには何も意味のある訳ではない」という意味であるが、また「彼は頭を掉っているが、しかしあの頭の中は無一物である」とも解せられる。前議員某氏は激怒の相を現わし、その禿頭より赤光を放射した。他の会員は思わず失笑する者もあり、顰蹙(ひんしゅく)する者もあった。痛烈骨を刺す皮肉、巧みは則ち巧みであるが、かかる場所柄、少しひど過ぎると、我輩はその時に思うた。
或時カランが陪審官に対(むか)ってその論旨を説明していると、裁判官が頻りにその頭を掉った。するとカランの言うには、「諸君、余は判事閣下の頭の動くのを見る。これを観る者は、あるいは閣下の御説が余輩の所説と異なっていることを示すものであると想うかも知れない。けれども、あれは偶然の事です。」これに依って観ると、我輩がさきにアメリカ式と思うたのは、実はアイルランド式であって、かの某弁護士は、あるいは我輩より数十年前に既にカラン伝を読んでおったのかも知れない。
“Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.”
処分可レ依二腕力一の六字を見るのみであった。衆僧これには大いに閉口し、まさかに掴(つか)み合いをする訳にも往かぬと、互に円い頭を悩しているとのことが、白河法皇の叡聞(えいぶん)に達し、遂に勅裁をもって分配法を定められたということである。
Johannes Jeremias, Moses und Hammurabi. 1903.
S. Orelli, Das Gesetz Hammurabis und die Thora Israels. 1903.
Dav. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Die Gesetze Hammurabis und ihr Verhaltniss[「a」はウムラウト(¨)付き] zur Mosaischen Gesetzgebung etc. 1903.
Hubert Grimme, Das Gesetz Chammurabis und Moses. 1903.
S. A. Cook, The Laws of Moses and the Code of Hammurabi. 1903.
中田薫博士「ハンムラビ法典とモーゼ法との比較研究」(『史学雑誌』第二四編第二号所載論文)
Scheil, Delegation en Perse. 1902.[#「Delegation」の2つの「e」はアクサン(`)付き]右に挙げた書名に依って見ても、一九〇三年に出来たものが最も多いことが分る。なおこの他にも諸国の学者の研究の結果がその後ち沢山公にせられたことであろうと思う。
H. Winckler, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
C. H. W. Johns, The Oldest Code of Laws in the World. 1903.
Georg Cohn, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
D. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Die Gesetze Hammurabis. 1903.
Robert Francis Harper, The Code of Hammurabi, King of Babylon. 1904.
D. H. Muller[「u」はウムラウト(¨)付き], Syrisch-Roemische Rechtsbuch und Hammurabi. 1905.
Chilperic Edwards, The Oldest Laws in the World. 1906.
Bucheler[「u」はウムラウト(¨)付き] und Zitelmann, Das Recht von Gortyn.[#改ページ]
Baunack, Die Inschrift von Gortyn.
Lewy, Altes Stadtrecht von Gortyn.
Bernhoft[「o」はウムラウト(¨)付き], Die Inschrift von Gortyn.
Simon, Die Inschrift von Gortyn.
Dareste, La Loi de Gortyn.
此一部者(は)、伊達十三代稙宗朝臣所レ令レ録(ろくせしむるところ)、在判并(ならびに)家臣之連判、誠(まことに)可二重宝一之書、頃村田善兵衛藤原親重令二進上一之処、破壊之間、令下二畑中助三藤原経吉一新写上、加二奥書一也。とあるに依り、一旦塵芥に埋れたる反古の如きものであったから、後に至ってかく名附けたものであろうと言う人もあるが、それにしても、祖先の定めたる治国の宝典に、子孫または家臣がかくの如き題号をつけるとは、合点の行かぬことである。
于時延宝七年季冬朔日 伊達十九代左少将藤原朝臣綱村(花押)
於二先々成敗一者、不レ論二理非一、不レ及二改沙汰(あらためざた)一、至二自今以後一可レ守二此状一也。とあるに倣うて、その巻首に、
せん/\のせいはいにおゐてハ、りひをたゝすにをよハす、いまよりのちハ、この状をあひまもり、他事にましハるへからす、と記し、神社の事を冒頭に置き、また巻尾の起請文も貞永式目のと殆んど同一の文を用い、終りに数行の増補をなしたるのみなるに依りてこれを知ることが出来る。しかしその規定の内容に至っては、概(おおむ)ね創設に係り、貞永式目を踏襲した如く見えるものは少ないようである。ことに私法に関する規定は比較的に多く、売買、貸借、質入、土地境界、婚姻、損害賠償等の規定は頗る周密で、数十条に上っている。これらもまたこの律書の特色ということが出来ると思う。
一箇条宛致二合点一、急度(きっと)相守可レ申候、若此旨相背候はば、如何様(いかよう)の曲事(くせごと)にも可レ被二仰付一云々。というような誓詞を記し、名主、百姓代、組頭等これに捺印(なついん)したものである。
天保己亥(きがい)、春予以二所レ摂金穀之事一、奔二[#返り点の「二」の右横に縦棒あり]命於江都一、寓二龍口上邸中一、一日奉レ謁二[#改ページ]
君公一、啓二我所レ職封内民事一、乃
君公出二一小冊一、自手授レ之曰(いわく)、此県令山本大膳上梓(じょうし)所レ蔵五人組牒者、而農政之粋且精、未レ有二過レ之者一也、汝齎二[#返り点の「二」の右横に縦棒あり]帰佐倉一、示二諸同僚及属官一、可二以重珍一也、予拝伏捧持而退、既而帰二佐倉一、如二
君命一遂以二冊子一置二之官庁一、別手二[#返り点の「二」の右横に縦棒あり]写一通一置二坐右一、実我
公重二民事一之盛意、而可レ謂二臣僚不レ啻、封内民人大幸福一也、因記(よって)二其事於冊尾一云。
一、茲(ここ)ニ堂諭ヲ奉シ、支那字ヲ用テ、法国律語ノ音ヲ釈ス、其旨趣(しいしゅ)ハ、凡(およそ)原語ノ訳シ難キ者、及ビ之ヲ訳スルモ、竟(つい)ニ其義ヲ尽シ得ザル者ハ、皆仮リニ意訳ヲ下シ、別ニ漢字ヲ以テ、原字ノ音ヲ照綴(しょうてい)シ、更ニ之ヲ約併シテ、二字或ハ一字ニ帰納シ、其漢音ニ吻合(ふんごう)スルヲ以テ、洋音ヲ発シ、看者ノ之ヲ視ル、猶(なお)原語ヲ視ル如クナラシム、其漸次ニ約併セルハ、簡捷ヲ尚(とうと)ブ所以ナリ。今、一例を挙げて見ると、「a」頭の語から作った新字には、皆「※」冠が附けてある。例えば、
一、一字卜為セシ者、皆新様ニ似タレドモ、敢テ古人製字ノ法ヲ倣フニ非ズ、其旁画、動(やや)モスレバ疑似ニ渉ルヲ以テ、※※等ノ片爿ヲ加ヘ、故(ことさ)ラニ字形ヲ乱シ、以テ真字ト分別アルヲ示ス、且此字ニ音無ク義無シ、即原語ノ音ヲ縮メテ、此字ノ音卜為ス者ナリ。
一、新字ノ頭ニ、※アル者ハ、亜(ア)頭ノ語ナリ、他ノエ、イ、※、ユ、モ埃(エ)伊(イ)阿(オ)兪(ユ)頭ノ語ニシテ、‖アル者ハ、匐(べ)以下ノ単字頭ト知ルベシ。
Acte 亜克土(アクト) 行為、証書、 ※(アツ)また「e」頭の語から作った新字には「※」の篇が附けてある。
Action 亜克孫(アクシオン)[#ルビの「シ」の右上に小さな四角あり]、 株権、訴権、 ※(オン)
Adoption 亜陀不孫(アドプシオン)[#ルビの「シ」の右上に小さな四角あり]、遏噴(アプオン)、 養子、 ※(アオン)
Expropriation 埃※不※不略孫(エクスプロプリアシオン)[#ルビの「シ」の右上に小さな四角あり]、渥礬(ウーパン)、 引揚 ※(エアン)また「i」頭の字は皆「イ」篇が附けてある。例えば、
Epave 埃叭附(エパヴ)、 紛失物、 ※(アウ)
Exception 埃※色不孫(エクゼプシオン)[#ルビの「シ」の右上に小さな四角あり]、易損(エクスオン)、 例外、 ※(イウン)
Indivisibilite[#「e」はアクサン(´)付き] 因地微逝皮重太(インデイヴイジビリテ) 、維誓(ウエイヅエイ)、 不可分、 ※(イー)などのようである。「u」頭の字は「ユ」冠が附けてある。例えば、
Unilateral[#「e」はアクサン(´)付き] 愈尼剌太喇立(ユニラテ※ル)、揶他(ヤーター)、 偏単了、 ※(ユアー)などのようである。その他は悉(ことごと)く「※」篇が附けてある。例えば、
Bail 友揖(バイ)、 賃貸、 ※(バイ)などのようである。当時このような事が実行せられようと思うて、数年間多大の労力と費用とを費して、大きな餅を画いたのは、余程面白い現象といわねばならぬ。
Donation 陀納孫(ドナシオン)[#ルビの「シ」の右上に小さな四角あり]、 贈与、 ※(ドアン)
養子被レ改二御法一事、[#改ページ]
諸人養子事、養父存生之時、不レ達二上聞(じょうぶん)一仁者(は)、於二御当家一、為(たり)二先例之御定法一、至二養父歿後一者、縦兼約(たといけんやく)之次第自然雖レ令(せしむるといえども)二披露一、不レ被レ立二其養子一也、病死跡同前也、然間(しかるあいだ)雖レ為二討死勲功之跡一、以二此準拠一令(せしめ)二断絶一畢(おわんぬ)、(中略)
明応四年乙卯(いつぼう)八月 日沙 弥 奉 正 任
左衛門尉 同 武 明
蓋以人生受レ造、同得二一定之理一。己不レ得レ棄、人不レ得レ奪、乃自然而然。以保二生命及自主自立一者也。この書は、我文久年間に続刻せられて、長崎に伝来したものであるが、これを見た者は素(もと)より少数人であった。加藤弘之先生の直話に拠れば「自由」という訳字は、幕府の外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎という人が案出したのが最初であるという事であるが、文久二年初版慶応三年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎著)には、既に自由という訳字を用いている。しかるに、福沢諭吉先生が慶応二年に出版せられた「西洋事情」にも「自由」という訳字を用いられ、それより広く行わるるようになったが、古来一定の意義を有する通用語をかつて日本になかった思想に当てようとしたのであるから、先生もその説明によほど苦心されたことは次に引用する文章でも明らかに分ることである。
本文自主・任意・自由ノ字ハ、我儘放盪ニテ、国法ヲモ恐レズトノ義ニ非ラズ、総テ其国ニ居リ、人ト交テ、気兼ネ遠慮ナク、自分丈ケ存分ノコトヲナスベシトノ趣意ナリ、英語ニ之ヲ「フリードム」又ハ「リベルチ」ト云フ、未ダ的当(てきとう)ノ訳字アラズ。といい、またこの後ち明治三年に出版の「西洋事情」第二編の例言中に、
彼ノ常言モ、我耳ニ新シキコトアリテ、洋書ヲ翻訳スルニ臨ミ、或ハ妥当ノ訳字ナクシテ、訳者ノ困却スルコト、常ニ少カラズ。といい、特に「リベルチ」の訳語「自由」は、「原意ヲ尽スニ足ラズ」とて、その意義を邦人に説明せんと試みられた。
第一「リベルチ」トハ、自由ト云フ義ニテ、漢人ノ訳ニ、自主、自尊、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容等ノ字ヲ用ヒタレドモ、未ダ原語ノ意義ヲ尽スニ足ラズ。これに依りて観れば、支那においては、これより以前既に「自主」「自専」「自立」などの訳字があり、また我邦においても、加藤先生は慶応四年出版の「立憲政体略」には「自在」と訳し、「行事自在の権利」「思、言、書自在の権利」「信法自在の権利」などの語を用いられ、同年出版の津田真道先生の「泰西国法論」にも「自在」と訳し「行事自在の権」「思、言、書自在の権」などの語を用いられているが、福沢先生は不満足ながらこれより先き既に案出せられた自由なる訳語をその著「西洋事情」中に採用せられ、同書が広く世に行われたために、竟(つい)にこの語が一般に行われるようになり、随ってこの新思想が、我国に伝播するの媒となったのである。して見ると、我国においては、自由なる語、自由なる思想の開祖は、実に福沢先生であると言うてもよかろうと思われる。
自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、窮窟(キウクツ)ナル思ナキヲ云フ。古人ノ語ニ、一身ヲ自由ニシテ自ラ守ルハ、万人ニ具(ソナ)ハリタル天性ニシテ、人情ニ近ケレバ、家財富貴ヲ保ツヨリモ重キコトナリト。
又上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ差構(サシカマヒ)ナシト云フコトナリ。譬(たと)ヘバ、読書手習ヲ終リ、遊ビテモヨシト、親ヨリ子供ヘ許シ、公用終リ、役所ヨリ退キテモヨシト、上役ヨリ支配向ヘ許ス等、是ナリ。
又、御免(ゴメン)ノ場所、御免ノ勧化、殺生御免ナドイフ御免ノ字ニ当ル。
又好悪ノ出来ルト云フコトナリ、危キ事ヲモ犯シテ為サネバナラヌ、心ニ思ハヌ事ヲモ枉(ま)ゲテ行ハネバナラヌナドト、心苦シキコトノナキ趣意ナリ。
故ニ、政事ノ自由ト云ヘバ、其国ノ住人ヘ、天道自然ノ通義[#ここに「下ニ詳ナリ」という注意書きが入る]ヲ行ハシメテ、邪魔ヲセヌコトナリ。開版ノ自由ト云ヘバ、何等ノ書ニテモ、刊行勝手次第ニテ、書中ノ事柄ヲ咎(とが)メザルコトナリ。宗旨ノ自由トハ、何宗ニテモ、人々ノ信仰スル所ノ宗旨ニ帰依セシムルコトナリ。千七百七十年代、亜米利加騒乱ノ時ニ、亜人ハ自由ノ為メニ戦フト云ヒ、我ニ自由ヲ与フル歟(か)、否(しから)ザレバ死ヲ与ヘヨト唱ヘシモ、英国ノ暴政ニ苦シムノ余、民ヲ塗炭(とたん)ニ救ヒ、一国ヲ不覊独立ノ自由ニセント死ヲ以テ誓ヒシコトナリ。当時有名ノフランキリン[#「フランキリン」に傍線]ガ云ヘルニハ、我身ハ居ニ常処ナシ、自由ノ存スル所即チ我居ナリトノ語アリ。サレバ、此自由ノ字義ハ、初編巻之一、第七葉ノ割註ニモ云ヘル如ク、決シテ我儘放盪ノ趣意ニ非ズ。他ヲ害シテ私ヲ利スルノ義ニモ非ラズ、唯心身ノ働ヲ逞シテ、人々互ニ相妨ゲズ、以テ一身ノ幸福ヲ致スヲ云フナリ。自由ト我儘トハ、動モスレバ其義ヲ誤リ易シ。学者宜シクコレヲ審(つまびらか)ニスベシ。
於レ是国人相与畔。王出二奔※一。二相周召共理二国事一。曰二共和一者十四年(而王崩于※。)と見えているから、国王のない政体は、共和政治というが宜しいであろうといわれた。
我国は此事件に由りて「ペロレー」の非行を矯(た)め得たるも、同時に日本政府は今尚ほ斯(かか)る非行を公行する未開国たる事実を正式に世界に暴露したるの結果を来せり。而して現在には条約改正の大事業を控へ、将来には文明国の伍伴に列せんとする目的を有する我帝国に取りて、至大の打撃たるは明白なる所、我当路者は之が為に痛心したること尋常ならざりき。実に当時の我当局者の苦慮痛心は尋常一様ではなかったであろう。なお同書に拠れば、時の司法卿江藤新平氏は、このたびの事件におけるペルー政府の抗議に刺激せられたること最も痛切であって、人を責めんと欲せば自ら正しからざるべからずとなして、熱心に人身売買の禁止を主張せられた。また当時神奈川県令としてマリヤ・ルーヅ事件に関与した大江卓氏の如きも、江藤氏と同一の趣旨の建白をした。依って政府は、明治五年十月二日太政官布告第二百九十五号をもって左の如き禁止令を発布することとなった。
一、人身ヲ売買シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可為(たるべき)厳禁事。この法令の発布はマリヤ・ルーヅ事件発生後僅に三箇月である。そして右の法令の第一項に「古来制禁ノ処」と書いたのはマリヤ・ルーヅ事件の抗議に対して特に明言したのであるや否やは知らぬが、ちょっと意味ありげに聞こえる。
但双方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事。
一、平常ノ奉公人ハ一箇年宛タルヘシ尤奉公取続候者ハ証文可相改事。
一、娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付テノ賃借訴訟総テ不取上事。
右之通被定候条屹度(きっと)可相守事。
本月二日太政官第二百九十五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可心得事。勇断改法家なる江藤新平氏の面目は右の法令に躍如として現われている。
一、人身ヲ売買スルハ古来ノ制禁ノ処年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金ノ全額ヲ可取揚事。
一、同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事。
但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニアラス。
一、人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事。
この中にはアルメニアン教徒が這入っているのではないか。と言った。これ実に発覚の危機、間髪を入れない刹那であった。この時に当り、もしマリアの機智胆略がなかったなら、文明世界が国際法の発達を観ることなお数十年の後になったかも知れぬ。マリア夫人は声色共に自若、微笑を含んで、
さよう、アルメニアン教徒の書籍が這入っているのです。と答えた。それで兵卒らも終(つい)に蓋を開くことをせず、そのまま櫃を城門外に運び出した。
……Even in the days when hope is most flattering, he never took a bright view of the future; nor (let me here add) did he ever attempt to excite brilliant anticipations in the person whom he invited to share that future with him. With admirable sincerity, from the very first, he made her the confidant of his forebodings. Four years before his marriage, he concluded a letter thus; ――‘ ……and may God, above all, strengthen us to bear up under those privations and disappointments with which it is but too probable we are destined to contend !’The person to whom such language as this was addressed has, therefore, as little right as she has inclination to complain of a destiny distinctly put before her and deliberately accepted. Nor has she ever been able to imagine one so consonant to her ambition, or so gratifying to her pride, as that which rendered her the sharer in his honourable poverty.”また夫人が夫オースチンの遺書を出版するに至った次第を記した文章は、実に情義並び至っておって、一方においては婦女子の謙徳を現わし、他方においては凛乎(りんこ)たる貞烈の思想を示すものである。夫人は、夫オースチンが多年その心血を傾注した著作が、未だ完成するに至らずして世を去った事を悲み、先ずこれを公刊すべきや否やという問題について自己の胸中に生じ来った疑惑と煩悶とを叙述した。彼の丁寧周密、一些事(さじ)たりとも粗略にしなかった夫の気質を熟知している夫人の胸中には、次の如き思想が往来した。学者がその生前において未だ不完全なりとして公にしなかった草稿を、その妻が出版するということは、その夫に対する敬順の義務を破るものではあるまいか。自己の余生を亡き夫の遺業の完成のために委(ゆだ)ねるは、なお在(い)ます夫に事(つか)うる如き心地がして、この上もない楽しみではあるけれども、これはあるいは我慰安を求めて夫の遺志に違(たが)うものではあるまいか。かく煩悶した結果、夫人はいっそ夫の事業を我骨とともに永久に埋めて仕舞おうとまで決心したこともあったが、しかしながら、また翻って考えてみると、かくの如き偉人の事業を湮滅(いんめつ)せしめるのは、人類に対する義務にも反するものかと思われる。夫がなお不完全なりとして公刊しなかったのは、主としてその形式体裁の未だ整わなかったためであって、その学説については牢乎(ろうこ)たる確信を持っておった事は明らかであるから、もし夫の生前において未だ広く容れられなかった学説が、その妻たる自分の尽力に依って、夫の死後に至って認められ、また後進をも益するようになったならば、彼世における夫の満足は果して幾干(いくばく)であろうぞなど、かく考え直した結果、夫人は遂に故人の友人、門弟らの勧告に同意して、その遺稿を出版することに決意したのであった。
“One of them, who spoke with the authority of a life-long friendship, said, after looking over a mass of detached and half-legible papers, ‘It will be a great and difficult labour; but if you do not do it, it will never be done.’ This decided me.”夫人はいよいよこの大事業に当る決心をしてからこう思うた。この事業は勿論非常な困難な事である。しかし四十年間最も親愛なる生涯を共にし、常に夫の心より光明と真理とを得たることあたかも活ける泉を汲むが如くあった自分であるから、その心を充たしておった思想を辿る事の出来ないはずはない。情愛の心をもってこれを考うれば、不明の文字もその意の解せられぬことはあるまい。情愛の眼をもってこれを見れば、他人の読めない文字も読めないはずはあるまい。思えば長いこの年月の間、足らわぬ我身の心尽しの助力をも受けて下さったのみならず、法学上の問題などについては、常に話もし文章を読み聞かせもして下さったのである。またこれらの問題は皆常に彼君の心を充たしておった事柄であるから、聴く自分に取っても真に無限の興味があったのである。かような次第で遂に自ら心を励ましてその事に当るに至ったのであると夫人は記している。
“I have gathered some courage from the thought that forty years of the most intimate communion could not have left me entirely without the means of following trains of thought which constantly occupied the mind whence my own drew light and truth, as from a living fountain; of guessing at half-expressed meanings, or of deciphering words illegible to others. During all these years he had condescended to accept such small assistance as I could render; and even to read and talk to me on the subjects which engrossed his mind, and which were, for the reason, profoundly interesting to me.”[#「for the reason」はイタリック体]学者の妻にして、この文を読み、同情の涙に咽(むせ)ばぬ者があろうか。
Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerei, und Medicin,
Und, leider! auch Theologie,
Durchaus studiert, mit heissem Bemuhn[「u」はウムラウト(¨)付き].
はてさて、己は哲学もとあるように、哲学・理学・医学・神学・数学・法学など、当時いやしくも一科をなしていた学問は、何一つとしてその蘊奥(うんのう)を極めないものはなく、英王ウィリアム三世は氏を渾名(あだな)して「歩行辞書」(Walking Dictionary)といい、ドイツ、イギリス、ロシヤなどの王室は、終身年金を贈っていずれもこの碩学を優遇した。
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
(ゲーテ作 森鴎外訳『ファウスト』岩波文庫、上、二三頁)
余は上帝の冥助(めいじょ)に依り、古今各国の法律を蒐集し、その法規を対照類別して、法律全図(Theatrun legale)を描き出さんことを異日に期す。と。後世歴史法学の始祖といえばサヴィニー、比較法学の始祖といえばモンテスキューと誰しも言うが、この二学派の開祖たる名誉は、当(まさ)にライブニッツに冠せしむべきではあるまいか。
Hail, noble Mansfield, chief among the just,起し得て妙なりと手を拍って自ら喜び、更に二の句を次ごうと試みたが、どうしても出ない。出ないはずである。起句が余りに荘厳であるから、如何なる名句をもってこれに次ぐも、到底竜頭蛇尾たるを免れないのである。千思万考、推敲(すいこう)百遍、竟(つい)に一辞をも見出す能わずしてその筆を投じてしまった。
The bad man's terror, and the good man's trust.
余は先生の講義が正しいかどうか考えておった。何の暇あってこれを筆記することが出来ようか。「蛇は寸にしてその気を現わす」、「考えておった」の一言は、ベンサムの曠世の碩学(せきがく)たる未来を語ったものである。他日Fragment on Governmentを著し、ブラックストーンの陳腐説を打破して英国の法理学を一新し、出藍(しゅつらん)の誉を後世に残したベンサムは、実にこの筆記せざる聴講生その人であった。
“It was not Bentham, by his own writings, it was Bentham through the minds. and pens which those writings fed, through the men in more direct contact with the world, into whom his spirit passed.”――Mill, Dissertations and Discussions.法制上においては、刑法の改正、獄制の改良、流刑の廃止、訴訟税の廃止、負債者禁錮の廃止、救貧院の設置、郵便税の減少、郵便為替の設定、地方裁判所の設立、議員選挙法の改正、公訴官の設置、出産結婚および死亡登記法、海員登記法、海上法の制定、利息制限法の廃止、証拠法の大改良などがあり、法理上においては、国際法(International Law)なる名称の創始、主法・助法(Substantive and Adjective Law)の区別、動権事実(Dispositive Facts)の類別など、枚挙するに遑(いとま)がない。なおまた彼の所論中、まさに行われんとしつつあるものは、刑法成典の編纂であって、その未だ全く行わるべき運命に到着しないものは、法典編纂論を始めとして、なお多々存している。そのうち、将来に実行を見るものも、決して少なくはないことであろう。
外臣ジェレミー・ベンサム謹んで書を皇帝陛下に上り、立法事業に関して、陛下に奏請するところあらんとす。臣年既に六十六歳、その中五十有余年は潜心して専ら法制事業を攻究せり。今や齢已(すで)に高し。もし陛下の統治し給う大帝国の立法事業改良のために、臣の残躯を用い、臣をして敢えて法典編纂のために微力を尽すを得しめ給わば、臣が畢生(ひっせい)の望はこれを充たすになお余りありというべし。(中略)しかるに翌年の四月アレキサンドル帝はオーストリヤのヴィーン市より手簡をベンサムに贈ってその厚意を謝し、且つ「朕はさきに任じたる法典編纂委員に対して、もし疑義あらばこれを先生の高識に質すべき事を命ずべし云々」と言い、併せてその厚意を謝する記念として高価なる指輪を贈与せられた。ベンサムは再び長文の書を上(たてまつ)って、いやしくも金銭上の価格を有する恩賜は自分の受くるを欲せぬところであるといってこれを返戻し、且つ委員らは必ず氏の意見を聴くことを屑(いさぎよ)しとせざるが故に、帝の命令はただ氏に対する礼遇たるに止まるべきことを予言し、更にまた詳細に法典編纂の主義手続などを説明して、再びその任に当りたいということを奏請したけれども、遂に露帝の容るるところとならずして止んでしまった。
今や戦闘の妖雲は全欧を蔽えり。陛下もし臣に賜うに数行の詔勅をもってし給わば、臣は直ちに治平の最大事業に着手すべし。陛下もし幸いにこの大事業を臣に命じ給わば、その重任を負うの栄誉と、これに伴う満足とは、これ陛下が臣に賜うところの無二の賞典なり。臣豈(あ)に敢えて他に求むるところあらんや。(下略)
「改進主義を抱持する総べての国民に対する法典編纂の提議」(Codification Proposal addressed by Jeremy Bentham to All Nations professing Liberal Opinion.)と題する一書を著して、文明諸国に対(むか)って法典編纂を勧告し、且つ外国人を法典草案の起草者となすの利を説いて、「外国人立案の法典は公平なり、何となれば内国人の如く党派もしくは種族などに関する偏見なければなり。外国人立案の法典は精完なり、何となれば衆目の検鑿(けんさく)甚だ厳なればなり。ただ外国人はその国情に明らかならず、その民俗に通ぜざるの弊ありといえども、法典の組織は各国大抵その基礎を同じうするものなるをもって、敢てこれをもって欠点となすに足らず。いわんやその細則に至りては、これを内国の法律家に謀(はか)るを得るをや」と言い、終りに臨んで、博(ひろ)くその委嘱に応ずべき由を公言した。
「汝今こそ鉄面皮に大言を吐けども、元来理髪師の子ではないか。」罵(ののし)り得たりと彼は肩を聳(そびや)かしたが、忽ち静かなる反問を請けた。
「汝は如何。」昂然として答えて曰く、
「余は法律家の子なり。」テンタルデンは冷かに笑った。
「汝は法律家の子なりしが故に法律家となり得たのであるか。幸福なることよ。もし汝をして吾輩の如く理髪師の子ならしめば、今頃は客の頤(あご)に石鹸を塗っているところであったろうに。」[#改ページ]
爰(ここ)に籠屋(ろうや)の奉行をば石出帯刀と申す。しきりに猛火もえきたり、すでに籠屋に近付しかば、帯刀すなはち科人(とがにん)どもに申さるるは、なんぢら今はやき殺されん事うたがひなし。まことにふびんの事なり。爰にて殺さんこともむざんなれば、しばらくゆるしはなつべし。足にまかせていづかたへも逃れ行き、ずいぶん命をたすかり、火も鎮りたらば、一人も残らず下谷(したや)のれんけいじへ来るべし。此義理をたがへず参りたらば、わが身に替へてもなんぢらが命を申たすくべし。若又此約束を違へて参らざる者は、雲の原までもさがし出し、其身の事は申に及ばず、一門までも成敗すべしと有て、すなはち籠の戸をひらき、数百の科人を免(ゆる)し出して放されけり。科人どもは手をあはせ涕(なみだ)を流し、かかる御めぐみこそ有がたけれとて、おもひ/\に逃行けるが、火しづまりて後、約束のごとく皆下谷にあつまりけり。帯刀大きに喜び、汝等まことに義あり、たとひ重罪なればとて、義を守るものをば、いかでか殺すべきやとて、此おもむきを御家老がたへ申上て、科人をゆるし給ひけり。この語は、唐の太宗が貞観六年親(みずか)ら罪人を訊問し、罪死に当る大辟囚(だいへきしゅう)らを憐愍(れんびん)して、翌年の秋刑を行う時、(支那にては秋季に限りて刑を執行す、故に裁判官を秋官ともいう、)自ら帰り来って死に就くべきことを約束させた上、三百九十人の囚人を縦(はな)って家に帰らしめた。ところが、その約束の期日に一人も残らず帰って来たので、太宗は彼らが義を守ることの篤いのを感歎して、ことごとくこれを放免してやったという「資治通鑑(しじつがん)」に載せてある記事に酷似しているけれども、今仔細に両者を比較するときは、大いにその趣を異にしていることが分るのである。
鄭(てい)の君がその臣蔡仲(さいちゅう)の専横を憎んで、蔡仲の聟(むこ)に命じて彼を殺害させようとした時に、蔡仲の娘がそれと知って、もしこの事を父に告げると、夫が父のために殺されるし、もしまた告げないと父が夫のために殺されるということを思い悩んだ末、終に母に向って、父と夫と何れが重親なるかと問うたところが、母がそれに答えて、「人尽夫也、父一而已」といった。という記事と、更にまた「論語」子路篇の、
葉公語二孔子一曰、吾党有二直レ躬者一、其父攘レ羊而子証レ之、孔子曰、吾党直者異レ於レ是、父為レ子隠、子為レ父隠、直在二其中一矣。という本文などを立論の根拠として、父の悪事を訴えた者は死罪に処すべきであるという断案を下した。
君父夫の三綱は、人倫の常においては何れも尊きものであって、その間に差などはないものである。しかしながら、人倫の変に当り、その間に軽重を設けてその一に適従する必要を生じた場合には、一の標準を発見してこれに拠らなければならない。本件は父と夫との中果して何れが重親であって、随ってこれに従うべきものであるかという問題を決定しようとするものであるが、余は今シナの喪服制を標準として、これを定めようと思うのである。即ち「儀礼(ぎらい)」に、女子が既に許嫁してなお未だその室にいる間に父が死亡した時には斬衰(ザンサイ)三年(斬衰は五種の喪服中最高等の喪服であって、その縫方など万事粗略で、布も下等の品を用うるのである、即ち悲哀の最大なることを示している)、既に嫁した後に父が死亡した時には、斉衰(シサイ)不杖期に服し(斉衰は第二等喪服であって、斬衰の場合よりは布の地も良く、縫方なども較々(やや)丁寧になっており、即ち悲哀の較々小なることを示しているのである。不杖期というのは、悲しみがあまり大でないから、杖を要しないことをいうので、喪の期間は一年である)、そして妻は夫のためには斬衰三年の喪に服するのであるからして、既に嫁した後は、夫の方が父よりも重いのである。即ち女子は父の家にいる間は父を天とし、既に嫁した後ちは夫を天とするものであって、父が自分の夫を殺害するが如き人倫の変に際しては、たとい父に背いても夫には背くべきものではないのである。いわんや、この場合の如く、下手人の何人なるかを知らずに告発し、後ちに至って自分の父を告発しているような結果になった如きに至っては、罪なきは勿論のことで、たとい自分の父が下手人なることを知っていて告訴したのであっても、罪ありとすべきでないのである。その女(むすめ)が、告発後自殺するならば、夫に対しては義を守り、父兄に対しては孝悌の道を尽す者であるということが出来るけれども、これは備(そなわ)らんことを人に責めるものであって、普通人には無理な註文である。いわんや林大学頭が引証した「左伝」の語は、左氏が不義を戒める趣意で書いたものであって、決して論拠となすことは出来ない。白石はなおこの他にも広く古典および支那の歴史などを引用して詳論するところがあったので、遂にその意見が採用せられることとなって、秋元但馬守は、甚五兵衛および四郎兵衛を下手人として死刑に処し、訴人「むす」は尼になるように宣告した。その判決文は左の通りである。
右両人之者、聟(むこ)伊兵衛を父子申合しめ殺候由致二白状一候に付、解死人(げしにん)として死罪申付者也。
む す
右は夫伊兵衛川中に死し有之を見出し、訴出候処、父甚五兵衛兄四郎兵衛両人にて殺候儀致二露顕一、親兄共に解死人として死罪に罷成(まかりなり)候、夫殺され親兄死罪に罷成候上は、其身も尼に致させ、鎌倉松ヶ岡東慶寺へ差遣候。
卯十月二十七日秋元但馬守
第百四条 生命の危険に迫りたる者は、何人より食を受くるも、罪に因りて汚されざること、あたかも大空が泥土のために汚されざるが如し。と記してある。これに依って観ると、当時は宗教、法律共に自保のためには他人を殺してこれを食うことを公許しておったものと思われる。
第百五条 アジガルタ(Ajigarta)はその子を殺してこれを食わんことを企てしも、彼は餓死を免れんとしたるに過ぎざりしをもって、これがために罪に因りて汚さるることなかりき。
刑は随分寛く軽きがよきなり。但し生けおきてはたえず世の害をなすべき者などは、殺すもよきなり。扨(さて)一人にても人を殺すは、甚重き事にて、大抵の事なれば死刑には行はれぬ定りなるは、誠に有がたき御事なり。然るに、近来は決して殺すまじき者をも、其事の吟味のむづかしき筋などあれば、毒薬などを用ひて、病死として其吟味を済す事なども、世には有とか承る、いとも/\有まじき事なり。また盗賊火付などを吟味する時、覚えなき者も拷問せられて、苦痛の甚しきに得堪へずして、偽りて我なりと白状する事あるを、白状だにすれば真偽をばさのみたゞさず、其者を犯人として刑に行ふ様の類もあるとか、是又甚有るまじき事なり。刑法の定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よく/\慎むべし。たとひ少々法にはづるゝ事ありとも、兎も角情実をよく勘(かんが)へて軽むる方は難なかるべし。扨又、異国にては、怒にまかせてはみだりに死刑に行ひ、貴人といへども、会釈もなく厳刑に行ふ習俗(ならひ)なるに、本朝にては、重き人はそれだけに刑をもゆるく当らるゝは、是れ又有がたき御事なり。[#改ページ]
信長卿ハ清水寺ニ在々(ましまし)ケルガ、於二洛中洛外一上下ミダリガハシキ輩アラバ一銭切リト御定有ツテ、則柴田修理亮、坂井右近将監、森三左衛門尉、蜂屋兵庫頭、彼等四人被仰付ケレバ、則制札ヲゾ出シケル云々。と見えているが、同書に拠れば、これは永禄十一年十月のことである。また「清正記」に載せてある天文二十年正月に豊臣秀吉の下した掟の中にも、
一、軍勢於二味方地一乱妨狼籍(ろうぜき)輩可レ為(たるべき)二一銭切一事。と見えており、また「安斎随筆」に引いてある「房総志科」に拠れば、望陀郡真里公村なる天寧山真如寺の門前の禁※(きんぼう)の文にも、
門前百姓、於二非法有一レ之者、可レ為二一銭切一事。と記してあったということである。
貞丈按(あんずるに)、一銭切と云(いう)は、犯人に過料銭を出さしむる事ならん。切の字は限なるべし。其過料を責取るに、役人を差遣(さしつかわ)し、其犯人の貯へ持たる銭を有り限り取上る。譬(たとえ)ば僅に一銭持たるとも、其一銭限り不レ残取上るを一銭切と云なるべし、捜し取る事と見ゆ。次に新井白石は、一銭を盗めるものをも死刑に処することであるとして、「読史余論」の中に次の如くに述べている。
此人(豊臣秀吉)軍法に因て一銭切といふ事を始めらる。たとへば一銭を盗めるにも死刑にあつ。しかしながら第一の貞丈の説はあるいは曲解ではあるまいか。殊に軍陣の刑罰に財産刑を用いるというのは、少々受取りにくい次第である。やはり「切」は「斬」であって、事一銭に関する如き微罪といえども、斬罪の厳刑をもってこれを処分し、毫も仮借することなきぞとの意を示した威嚇的法文と見るのが穏当と思われる。
「各人の家は彼の城なり」(Every man's house is his castle.)という法諺(ほうげん)も存したほどである。朝鮮では、最近まで家の所有権はあって土地の所有権はなかったとのことであるが、我国の「屋敷」なる語も、土地をもって家屋の附属物とする観念に基づくものかとも思われる。要するに、国法の原始状態において、国際法の領土に比すべきものは、土地ではなくして家屋であったのである。
一 新法典ハ倫常ヲ壊乱ス。この宣戦書に対して、明治法律学校派の岸本辰雄(たつお)、熊野敏三(としぞう)、磯部四郎、本野一郎の諸博士を始め、宮城浩蔵君、杉村虎一(とらかず)君、城数馬(じょうかずま)君等が発表した「法典実施断行意見」と題するものの論旨および文字は、一層激烈であった。この意見書も延期意見書の如く題目を立てて左の如く言うておる。
一 新法典ハ憲法上ノ命令権ヲ減縮ス。
一 新法典ハ予算ノ原理ニ違フ。
一 新法典ハ国家思想ヲ欠ク。
一 新法典ハ社会ノ経済ヲ攪乱ス。
一 新法典ハ税法ノ根原ヲ変動ス。
一 新法典ハ威力ヲ以テ学理ヲ強行ス。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ秩序ヲ紊乱(びんらん)スルモノナリ。この題目を一瞥(べつ)して見てもその内容を想像することが出来る。延期論者を呼んで「痴人ナリ」「狂人ナリ」また「国家ヲ賊害スルモノ」といい、その結末に至って、「特(ひと)リ怪ム、是(この)時ニ当リテ敢テ法典ノ実施ニ反抗セントスル者アルヲ、此輩畢竟不法不理ナル慣習ノ下ニ於テ其奸邪曲策ヲ弄セントスル者ノミ、咄(とつ)何等ノ猾徒(かっと)ゾ」と言うておるが如きは、頗る振っている。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ倫理ノ破頽ヲ来スモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ主権ヲ害シ独立国ノ実ヲ失ハシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ憲法ノ実施ヲ害スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ立法権ヲ抛棄シ之ヲ裁判官ニ委スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ノ権利ヲシテ全ク保護ヲ受クル能ハザラシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ争訟紛乱ヲシテ叢起セシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ヲシテ安心立命ノ途ヲ失ハシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ経済ヲ攪乱スルモノナリ。
明治二十三年三月法律第二十八号民法財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編、同年三月法律第三十二号商法、同年八月法律第五十九号商法施行条例、同年十月法律第九十七号法例及第九十八号民法財産取得編、人事編ハ其修正ヲ行フカ為メ明治二十九年十二月三十一日マテ其施行ヲ延期ス。というので、これに関する討議は、同月二十六、二十七、二十八日の三日間にわたって行われ、賛否両方の論争頗る激烈であったが、就中二十七日午後の討議においては、議論沸騰して議場喧噪を極め、遂に議長蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)侯は号鈴を鳴らして議場の整理を行うという有様であった。原案に反対した人々の中には箕作麟祥博士、鳥尾小弥太子らがあり、原案を賛成した人々の中には加藤弘之博士、富井政章博士、村田保君等の諸君があった。第二読会において延期派の小沢武雄君の発議により、前記の原案に「但シ修正ヲ終リタルモノハ本文期限内ト雖モ之ヲ施行スルコトヲ得」という但書を追加せられ、結局本案に付き採決の結果は、延期を可とする者百二十三、断行を可とする者六十一で、延期派の大勝利に帰した。
Ignorantia juris non excusat.しかしこれら第一種の法諺は通常法律書にも載っており、その重(おも)なるものは皆な法律家のよく知っているところであるから、ここにはただ一、二を例示するに止めて置く。
法の不識は免(ゆる)さず。
Abus n'est pas coutume.
悪弊は慣習に非ず。
Gesetz muss Gesetz brechen.
法律を破るは法律を要す。
The king never dies.
国王は死せず。
For the upright there are no laws.(ドイツ)
正直者に法なし。
Strict law is often great injustice.
(Summum jus, summa injuria.)(キケロの語)
最厳正の法は最不正の法なり。
本邦「理の高じたるは非の一倍」に近し。
Like king, like law; like law, like people.(ポルトガル)
君が君なら法も法、法が法なら民も民。
Laws are not made for the good.(ソクラテースの語)
法は善人のために作られたるものに非ず。
Laws were made for the rogue.(イタリア)
法は悪人のために作られたるものなり。
Nothing is law that is not reason.(判事パウェル〔Powell〕の語)
理に非ざるものは法に非ず。
Better no law than law not enforced.(デンマルク)
行われざる法あるは法なきに如かず。
He who makes a law should keep it.(イスパニア)
法を作る者は法を守らざるべからず。
New laws, new roguery.(ドイツ)
新法定って新罪生ず。
The more laws, the more offenders.(ドイツ)
法多ければ賊多し。
When law ends, tyranny begins.(イギリス)
法の終るところ、虐政の始まるところ。
The law has a nose of wax; one can twist it as the will.(ドイツ)
法は臘細工の鼻を持つ、故に勝手に曲げることが出来る。
The law helps those who help themselves.(ドイツ)
法は自ら助くる者を助く。
Law cannot persuade where it cannot punish.(イギリス)
罰することの出来ぬ法は勧めることも出来ぬ。
Justice is never angry.(ベン・ジョンソン)
正義は怒ることなし。
A person ought not to be a judge in his own cause.(イギリス)
自己の訴訟に裁判官たること勿(なか)れ。
No one is a good judge in his own cause.
自己の訴訟に善い裁判官となれる者はない。
Don't hear one and judge two.
一方を聴いて双方を裁判するな。
(「片口聴いて公事(くじ)をわくるな」に同じ)
Judges should have two ears both alike.(ドイツ)
裁判官は左右同じ耳を持たねばならぬ。
(「両方聞いて下知をなせ」に近し。「史記」に「凡聴レ訟者必須二両辞一可三以定二是非一、偏信二一言一折レ獄者、乃吏職之短才也」とあり)
Well to judge depends on well to hear.(イタリア)
善い裁判は善い審問による。
You cannot judge of the wine by the barrel.(イギリス)
樽で酒を判断してはならぬ。
Justice oft leans to the side where the purse hangs.(デンマルク)
正義の秤は財布の乗った方へ傾きやすい。
Law's delay.(シェークスペーア)
法の遅滞。
(「公事三年」に同じ)
No man may be both accuser and judge.(プルータルク)
何人(なんぴと)も訴人と判官とを兼ぬる能わず。
Possession is nine points of the law.(イギリス)
占有には九分の勝味あり。
Possession is as good as a title.(イギリス)
占有は権証に等し。
By lawsuit no one has become rich.(ドイツ)
訴訟に依って富める者なし。
Fond of lawsuits, little wealth; fond of doctors little health.(イギリス)
訴を好む者は財産少なく、医を好む者は健康少なし。
Lawsuits make the parties lean, the lawyers fat.(ドイツ)
訴訟は原被告を瘠(や)せさせ、弁護士を肥らせる。
(「公事訴訟は代言肥やし」に同じ)
Better ten guilty escape than one innocent suffer.(イギリス)
一人の冤罪者あらんよりは十人の逃罪者あらしめよ。
(「与三其殺二不辜一、寧失二不経一」に同じ)
Little thieves have iron chains, great thieves gold ones.(オランダ)
小盗は鉄鎖、大盗は金鎖。
(「窃レ財者盗、窃レ国者王」に同じ)
Petty crimes are punished, great, rewarded.(ベン・ジョンソン)
小罪は罰せられ、大罪は賞せらる。
(「窃レ鉤者誅、窃レ国者為二諸侯一」に同じ)
Successful crime is called virtue.(セネカ)
成功せる犯罪は徳義と称せらる。
Opportunity makes the thief.(イギリス)
機会は盗を作る。
The hole invites the thief.(イギリス)
穴は賊を招く。
Set a thief to catch a thief.(イギリス)
賊を捕うるに賊をもってす。
Show me a liar and I will show you a thief.(イギリス)
嘘つきを出せ、泥棒を見せてやろう。
All are not thieves whom the dogs bark at.(ドイツ)
犬に吠えられる者は必らず泥棒と極ってはおらぬ。
A thief thinks every man steals.(デンマルク)
泥棒は誰れでも盗みをするものじゃと思うている。
He that steals can hide.(イギリス)
盗む者は隠すことが出来る。
You are a fool to steal, if you can't conceal.(イギリス)
隠すことを知らずして盗む者は愚人なり。
No receiver, no thief.(イギリス)
受贓者なければ盗賊なし。
Lawyers are men who hire out their words and anger.(マーシャル)
弁護士とは言語と憤怒とを賃貸する人をいう。
A good lawyer is a bad neighbour.(イギリス)
善き法律家は悪しき隣人なり。
The more lawyers, the more processes.(イギリス)
弁護士多ければ訴訟多し。
Fools and obstinate men make lawyers rich.(イギリス)
馬鹿と剛情者が弁護士を富ます。
Lawyers' houses are built of fools' heads.(イギリス)
弁護士の家は馬鹿の頭で建てられる。
He who is his own lawyer has a fool for his client.(イギリス)
自分で弁護する訴訟の本人は馬鹿者である。
閣下、余は今(い)ま自己の訴訟を自ら弁護せんとするに当り、あるいは彼の“He who acts as his own counsel has a fool for his client.”なる諺の適例を示さんことを恐れるのであります……裁判長ロールド・リンダルスト(Lord Lyndhurst)は彼を遮(さえぎ)って、
クリーヴ君、御心配には及びません。あの諺は、あなた方弁護士諸君が作られたのであります。[#改ページ]
●表記について
・一、二、三、レ、上、下は返り点。
・本文中の「/\」は、二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)。
・本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
諤々(がくがく)たる※議(とうぎ)、 直言※議(ちょくげんとうぎ)、 |
![]() 第4水準2-88-84 |
声色共に※(はげ)しく、 ※王が無道の政を行って、 |
![]() 第3水準1-14-84 |
鼎※(ていかく)脅(おびや)かす |
![]() 第3水準1-93-41 |
王璽を※(きん)せしめようとした。 勅赦状に※したる後(の)ち、 手ずからこれを赦書に※して |
![]() 第3水準1-93-5 |
法隆寺の僧善※(ぜんがい)なる者 |
![]() 第3水準1-84-59 |
※刑(げっけい)を受けた者の用いる履物のことで、 |
![]() 第4水準2-3-23 |
「莨※文(ろうとうぶん)」 |
![]() 第3水準1-91-3 |
風俗常憂頽敗※ |
![]() 第4水準2-89-92 |
他家に再※(さいしょう)するのは面白くない |
![]() 第4水準2-90-41 |
※※風発(たくれいふうはつ)、説き来り説き去って、 |
![]() ![]() 第4水準2-89-35、第3水準1-14-84 |
※※等ノ片爿ヲ加ヘ、 |
![]() ![]() |
※アル者ハ、 皆「※」冠が附けてある。 |
![]() |
他ノエ、イ、※、ユ、 その他は悉(ことごと)く「※」篇が附けてある。 |
![]() |
行為、証書、 ※(アツ) |
![]() |
株権、訴権、 ※(オン) |
![]() |
養子、 ※(アオン) |
![]() |
「e」頭の語から作った新字には「※」の篇が附けてある。 |
![]() |
埃※不※不略孫(エクスプロプリアシオン) |
![]() ![]() 該当なし、第3水準1-15-31 |
引揚 ※(エアン) |
![]() |
紛失物、 ※(アウ) |
![]() |
埃※色不孫(エクゼプシオン) |
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例外、 ※(イウン) |
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不可分、 ※(イー) |
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愈尼剌太喇立(ユニラテ※ル) |
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偏単了、 ※(ユアー) |
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賃貸、 ※(バイ) |
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贈与、 ※(ドアン) |
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米人丁※良(ウィリヤム・マーチン)(William Martin) 丁※良の「万国公法」を 初め支那において丁※良が 丁※良が光緒三年(明治十年)に 丁※良氏、西氏らの書行われて、 丁※良(ウィリヤム・マーチン)の漢訳した「万国公法」の中に |
![]() 第4水準2-92-15 |
その臣李※(りかい)に命じて、 李※は、その法典全部に通ずる例則を総括して、 |
![]() 第3水準1-84-49 |
※※※(スタチスチク)という漢字を |
![]() ![]() ![]() |
「※※※」などの名称が存在したにもかかわらず、 |
![]() ![]() ![]() |
王出二奔※一。 曰二共和一者十四年(而王崩于※。) |
![]() 第3水準1-84-28 |
門前の禁※(きんぼう)の文にも、 |
![]() 第4水準2-80-16 |