運命のSOS

牧逸馬





 生と死は紙一枚の差だ。天と地の間にこれ以上怪奇な事実はあるまい。
 そしてその怪奇な事実を時として最も端的に示すものに、海洋ほど不遠慮な存在はないのだ。この意味で、海こそは一番の怪奇を包蔵すると云い得る。
 タイタニック号―― The Titanic ――の難船実話である。
 モザイク風に、凡ゆる角度から、出来るだけ忠実に詳細に記述して行きたい。

 橄欖オリイブ色の皮膚をした仏蘭西人の赤ん坊が二人、船室備付の洗濯籠に入れられ、大きなドアに乗って波の上を漂っている処を奇蹟的に救助された。名前を訊くと、覚束ない舌で一人は Louis 他は Lolo と答えるだけで、姓は判らない。日本の迷い児が交番で正雄ちゃんだの、みいちゃんだのと申立てるようなもので、これは正に国際的な、そして泪ぐましい海の迷い児である。ルイにロロ――二人とも可愛い男の子で兄弟だった。
 生存者の間を色いろ訊いてみても、何うしても誰の子供かわからないので、欧米の各主要新聞に毎日このルイとロロの写真を掲載して広く心当りの人に名乗り出ることを求めた。すると一月程して南仏蘭西のニイスから、Navratil 夫人という二十一になる女が、確かに写真の兄弟は自分の子供であると言って現れた。良人が彼女を捨て、子供を伴れて、逃げてそちこち捜していたところだという。他に証人も出て来て、調べてみるとそれに違いない。ナヴラティル夫人は狂気のように紐育へ急行してルイとロロを受取った。船客名簿を照合してみると、逃げた良人というのが変名で船室を取って、二人を伴って亜米利加へ渡ろうとしたのだった。この良人は溺死して、兄弟の幼児だけ不思議に助かったのである。このナヴラティル夫人の物語は、数多い遭難哀話中のナンバア・ワンとして、タイタニックの名の記憶される限り残るであろう。
 後で、査問会や其の他到るところで、生き残った人々の間に凡ゆる醜い中傷讒誣が投げ交された。「あの男は斯うこういう非人道なことをして助かったのだ」とか、「あいつは悪魔のように暴れて女や子供を海へ抛り込んで、自分がボウトへ飛び乗った」とか、相当の人々が、あること無いことを言い合って、暫らく泥試合を続けたものだった。
「生存者の中の或る人々は、誰が企らんだともなく、社会の嘲笑の的にされてしまいました」レディ・ダフ・ゴルドンが後日語っている。「しかしこれは、船会社が一つの目的をもって計画的にやったことなのです。後に判りました。ああいう場合ですから何れも見て来たような、色んな臆説が生れますが、会社側の策士がそれを利用して、生存者を互いに突つかせて世間の注意をそっちへ向けようとしたのでした。救命艇が尠かったこと、船員の間に救助作業の組織的な訓練が出来ていなかったこと、これは会社として世界に顔向けの出来ない犯罪的な責任ですから、どさくさ紛れに他に世間の注意を外らして一時誤魔化そうとしたのです。それがために、非常に卑怯な行為があったように言われて、殆んど社会から葬られかけた名士などもありましたが、日が経つにつれて真相が判明して、それらの人々の汚名はそそがれました。が、はじめ会社の放った宣伝が効を奏して、根本の難船よりもその方が大きなセンセイションになったので一時注意を他へ外らすという目的は立派に達しられた訳です――」
 この十九年前の悲劇とその後日物語が世界の海運界に与えた教訓は、第一に、絶対に沈まない船などというものは、それこそ絶対にあり得ない。第二、社交室の椅子のクッションや上甲板のテニス・コウトよりも、何よりも完全な救命艇を充分備うべきである。第三に、貴婦人相手のダンスの礼儀も大事だが、先ず乗組員の短艇ボウト訓練をおろそかにしないこと。しかしこの千五百の生霊と夥しい財物を犠牲にして得た人類の教訓は、その後果して忘れられずに、航海という神秘的な事業に従事する人々の間に胆に銘じていると言えるだろうか。最早や既に「タイタニックの遭難」は、一つの色の褪せた伝説になっているのではなかろうか。

 当時或る左翼の新聞が、三等船客は全部ピストルで救命艇ライフ・ボート[#ルビの「ライフ・ボート」は底本では「ラフイ・ボート」]から遠ざけられ、一等船客中の大富豪とその家族にのみ第一の機会が与えられたと報道して大分問題になったことがあるが、これは斯ういう場合、恐らく事実ではあるまい。誰もが均一に直面しなければならない生死の境いである。食後のデミタスを片手に、長いホウルダアにベンソン・ヘッジスをくゆらして給仕を頤で使っていた紳士と、その給仕とが、ここに同じ人間として、各自じぶんの生命を、自分のそして自分だけの力で守り通さなければならない対等の立場に置かれたのだ。其処にはもう金力も社会的地位もない。あるのは只、各人の体力と勇敢さだけだ。この、厳重に守られて滑らかに動いているように見える社会制度上の区別――約束が、一瞬にして破壊され、顛倒して、皆がみな、自分一個の腕力と気力で自分と自分の愛する者を守らなければならない原始人に還元させられる――難船ということは、考えてみると、革命のように悲壮でもあり、しかし一方大いに痛快でもある。
 紳士階級は女の腰へ手を廻して舞踏室ボウル・ルウムの床を辷りながら、タキシイドの膝にちょっぴり落ちた葉巻の灰を気にしている。或いは赤い太い頚を甲板椅子の毛布に包んで、旅行秘書トラヴェリング・セクレタリイが刻々無電室から報告して来る株の上下によって大西洋上からウォウル街に売った買ったの指命を発している――。
 その時、「地獄ダウン・ビロウ」の釜前では、海の野獣と言われる火夫や石炭夫達が、筋肉を資本に、火の出るような激しい労働だ。彼らが甲板に現れて一等船客の眼にでも触れようものなら、女たちは眉をひそめ、紳士連は眼ざわりとして船長を難詰するだろう。これが謂わゆる社会生活の正規の常態なら、その規約は、いま完全に逆転されたのだ。Every body for himself ――こうなると、ライタアやゴルフ・クラブ――尤も当時まだライタアはなかったが――より他重い物一つ持ったことのない紳士連中と、四六時中生命を的の仕事をしている水火夫達と、何方が沈着に、どっちが英雄的に、そして何方が生き抜く力を有っていたか。若しここに冷静な女性があって、この場合の「紳士」と「野獣」を比較したなら、果して何方がより強く、より美しく、より頼母しく見えたことだろう。
 今まで自分の手足のように感じていたボウイや下級船員が急に圧倒的に優勢な存在となって、じぶんたちは彼らの下位に置かれ、彼らの指揮で動き、彼らの恩恵によってのみ自分の生命を完うする途が開かれる。しかも、この場になって自分を助けるものは金でも社会的名声でもなく、この真っ裸かになった自分一個の気力と腕力だけだと知ったときの、紳士達の愕ろきはさぞ大きかったろう。難船のおどろきよりも、この発見の驚きのほうが彼らを顛倒させたに相違ない。
 船員が多額の金を取って、救命艇を富豪の船客に売って先に逃がしたなどという噂は、事実あり得ないことだし、その浮説を逆証するに十分な有名な金持ちの船客が片端しから死んでいるのだ。
 ジョン・ジャコブ・アスタア氏―― Mr. John Jacob Astor は、そのアスタアという姓でも判る通りに、紐育一流の名家の一族で、百万長者ミリオネアを三十倍した程の同市の大富豪である。それから Mr. George O. Widener ――ジョウジ・オ・ワイドナア氏、これが一千九百万磅というから一磅十円として約一億九千万円の大分限者、Mr. Benjamin Guggenheim がこのワイドナアとざっと同列、次ぎに Washington Poebling と Isador Straus の両氏が八百万弗――この連中がみんなやられている。
 乗組員は上下を通じて、英国海員が伝統的に血に持つ沈着と機敏と勇敢さをもって一糸乱れずに行動したと言われている。彼らの間には何の恐慌もなかった。恐慌パニックが起ることを許さなかったというのだ。最後のボウトが本船を離れるまで、船員は各自努めて微笑を続けていた――ことになっているが、これも事実は、かなり泡を食って船客の信頼を失い、ために船客の恐怖が暴動化して一層救助作業の運行を困難ならしめた跡が多分に見られるのである。


 何んなことがあっても決して沈みはしないと皆信じ切っていた。世界第一の超客船タイタニック号が愈いよ沈みかけたと知った時、そして、全人員の半分――それも無理をして――をやっと脱出せしめるに足るだけのボウトしか備付けてない。つまり後の半分は本船に残って、船と運命をともにしなければならないということが――船長はこの恐ろしい事実を最後まで秘密にして置く為に何んなに苦心したことか!――船客の間にはっきり知れ渡った時、生物的な本能が船客を暴動に駆らずには置かなかった。しかも、船員の大部分は、救命艇の扱い方、下ろし方さえ知らないのだ。ボウトは、ボウト・デッキという最高層の甲板の両側に、作りつけの台に載って並んでいる。非常時には、これを綱で海面まで吊り下ろすのだが、普段練習ドリルなどの時でさえ、これには余程の熟練を要する。それに、一度本船を離れたが最後、何日も何十日も洋上に漂う覚悟がなくてはならないから、米塩、食糧品の類を人数に応じてボウトの包容し得る最大限度まで積み込まなければならない。船によっては、飲料水や簡単な缶詰などは平日からボウトの底に用意してある位いだ。いざという時には、そのまま甲板の上で人を乗せて、高い舷側から水面へ下ろすのである。想像しても解るように、これは甚だ危険な作業で、闇夜、船は刻々傾き、秒間を争う場合、只さえ引っくり返り易いボウトに平衡を失っている人間を満載して動揺の激しい海面へ下ろそうというのだから、余程落付いた船員が揃っていて上手にやらないと、吊り下ろす拍子に顛覆して人を海へ撒いて終うか、途中で鉄板の舷側に激突させてボウトを粉砕する。さもなければ、海へ着くと同時に本船の船体へ吸い寄せられて破壊するかだ。この厄介な作業に対して、タイタニック号の乗組員は、実に不覚にも訓練が届いていなかった。ことに、上を下へと逆上してやることだから、耐ったものではない。ボウトの底の水栓プラグを外した儘下ろす、水も食糧も積み込まないうちに綱を引く。途中でロウプの操り方を誤ってボウトはバランスを失って真っ逆さまに人を降らす――タイタニックの乗組員に、この肝心のボウト下ろし方の習練ドリルが出来ていないのを知った時、突如狂気のような暴動が全船客を捉えたのは無理もない。
 甲板上は露骨な争闘だ。生きんがための地獄を現出した。婦人と子供を真っ先にボウトに乗り移らせるのは、難船の場合の常識である。それを無視して、発狂したような男達が女を突き落す。子供を※[#「てへん+発」、213-上18]ね飛ばす。ボウトの傍には高級船員が拳銃ピストルを擬して立っていて、こういう者は射殺して構わないのだ。中には、自分の妻を先に出そうとして、他の女達を必死に押し退けるもの、良人に獅噛みついて離れまいとする妻、暗い甲板に取り落されて無我夢中の船客の群に踏み躙られる嬰児、子供たちの悲鳴と、もう、恥も外聞もない合唱のような婦人連の泣き声――その間もタイタニックは、船首を海中に突っ込んで、緩く大きく逆立ちの形に傾きつつある。断じて沈まないとされていたタイタニック号が、まるで襤褸貨物船フレイタアか何ぞのように他愛なく沈み出したのだ。全船に明あかと灯が点って、ジャズ・バンドはまだ奏楽を続けている。高調子ラグタイムのジャズ、ダンス音楽、いまこの大西洋の両岸で、倫敦と紐育が口笛に吹いている流行の威勢のいい曲が、数千哩を隔てた暗い寒い洋上に次ぎ次ぎに沸き起って、憐れにも華やかに鳴り響いていた。人心を落ちつかせるためにというスミス船長の命令で、音楽部員は必死だったのである。
 上甲板の無電室では、主任技師フィリップスが懸命にSOSを放っている。SOSは新しい信号でCQDから変って間もなくだった。
「そうです。そのSOSってやつを打つことです。出来立ての信号ですから使い古されていないで愉快です。これからもあんまりSOSを叩く機会はないでしょうから、この際大いにやりましょう」
 楽天家の無電助手ブライドが、こんな冗談を言って笑った。船長もそれを聞いて、
「そう度びたびSOSを打つ機会があってたまるもんか」
 と笑った。みんな声を合わせて笑った。好い加減浸水すれば傾斜が止まって、そう訳もなく沈むようなことはない筈だ。そのうちには、航行船の多い海路である、救助船の一隻や二隻は現れるだろうと、その場になっても、まだ戯談を言って笑う余裕が残っていたのだ。
 その時、助手の Bride が鳥渡無電室を出て帰ってみると、火夫の一人が救命帯ライフ・ベルトを盗みに忍んで来て、SOSを打ち続けている技師 Philips の背中から其の救命帯の紐を解きに掛っている。フィリップスも知ってはいるが、そんなことに構ってはいられない。救命帯を奪られるに任せて一心不乱に無電を叩いているのだ。何うしてその火夫にだけ救命帯が往き渡らなかったものか、混雑の場合だから失くしでもして、気違いのようになって探しに来たのだろうが、それを見たブライドは、前後を考える暇はなかった。傍らにあった鉄棒を取り上げて一撃の下に火夫の頭を打ち砕いた。フィリップスは血の飛沫を浴びながら、振り返りもせずにSOSを打電しつづけた。
 最後の救命艇が本船を離れようとしていた。各船室から甲板からまだ明るく灯が点っていた。二等運転士のハウオウスがイサドル・ストラウス夫人にボウトに乗り移るように奨めると、夫人は断乎として拒絶して、
「ストラウスの傍を離れるのは嫌です。ストラウスの行くところへ私も行きます」
 そして夫妻は、腕を組んで傾く甲板に立っていたが、半時間後には、しっかり抱き合って、海中深く捲き込まれ去った。
 ジョン・ジャコブ・アスタア氏は、十九歳の有名な美人との新婚旅行の途にあった。彼はその花嫁をボウトに助け乗せながら、
「さようなら、愛する妻よ。僕は船に残るが、君が助けられると同時に僕も助けられるだろう」
 と囁いたが、それが最後の言葉になることは、アスタアも知っていた。彼は助かろうとは思っていなかったのだ。
 船に居残った船客と船員は協力して、ひっきりなしに火箭ロケットを打ち揚げた。物凄い炸音が夜空を裂いて、遠く高く光の矢が走った。非常信号の一つである。流星のような光線が水に映えてその瞬間海上一帯は真昼のように明るかった。重油のような黒い水、その上を点々と遠ざかって行くボウト、ぎっしり詰った人々の影、そして巨大な船腹を天に聳やかしているタイタニック、傾ぎゆく甲板に押し並んだ死のように白い顔、顔、顔――蒼茫たる光野に一閃する海の地獄絵だ。が、このタイタニック号の狼煙のろしを認めた通行船はなかった。火影を認めた船はあっても、狼煙とは思わなかった。

 加奈陀の退役陸軍少佐でポウシェンという人が乗っていた。遭難と同時に船長が絶対の権威をもって役に立ちそうな男の船客に各受持ちを定めて命令を発したのだが、ポウシェン少佐は兵員陸揚げなどで経験があるというので、救命艇の一つを預かって避難者の積込み方を監督することになった。彼は船室へ駈け帰って何か一ぱいポケットへ押し込み、下ろしかけたボウトへ最後に跳び乗って、四時間半も休みなくオールを漕いだ。このボウトは発見されて、全員とともに少佐も救助された。それはいいが、気がついてみると、ポケットにオレンジが三個ごろごろしているだけで、少佐は無一文である。始めて気がついた。狂気のように船室へ取りに帰ったものは、金だったのだ。オレンジではなかった筈だ、その船室の卓子テエブルの上には四万六千ポンドの紙幣束が積み上げられ、トランクの中にも公債や何かで多額の財産があったのである。金を取りに帰ってオレンジを三つ掴んで飛び出したのだった。武人だけに金銭には恬淡なのだとも言えまい。非常時の狼狽あわて方にはよくこんなことがある。助かった少佐は口惜しさの余り当分失神したようになってしまった。
 生存者の一人、レディ・ダフ・ゴルドンは始終船橋ブリッジの傍を離れずに吹き曝しの甲板に立っていた。と、一つ上の甲板から、まるで幽霊に操られでもするように黒い小さなボウトが一隻音もなく揺れ下って来た。船長の非常用ボウトだった。レディ・ゴルドンが、
「乗っても宜しゅう御座いますか」
 と訊くと、ボウトの中から一等運転士のマアドック Mr. Murdock が答えた。
「さあ、何卒。お手貸ししましょう」
 どの記録で見ても、このマアドックという人が一番沈着だったとみえる。女のなかではレディ・ダフ・ゴルドンがしっかりしていた。後で新聞記者にした話しなどでも、この人のが最も整っていて信頼された。その時もマアドック運転士は、まるで劇場の前で貴婦人を自動車へ乗せるように、日常的な微笑と口調で手を差伸べてレディ・ゴルドンをボウトへ扶け入れている。二人の亜米利加人の男が続いて乗り込んだ。もう一人短艇ボウトが舷側に吊り下ってから、ボウトを飛び下りたが、これは外れて海中へ墜落した。
 船腹の半ばまで下った時、ワイヤ・ロウプの一本が軋んで動かなくなった。マアドック一等運転士が素早く切り離すと、ロウプはびゅんと唸って人々の頭上に挑ね返った。一人頚部を打たれて即死している。
「海面へ達してみると」レディ・ゴルドンの思出話しだ。
「ボウトは満員なんです。五、六人の水夫がオウルを取っています。私は秘書のミス・フランクとずっと一緒でした。漕ぎ手は一生懸命です。船が沈むと、大きな渦巻が起ってボウトを吸い込むというので――少し本船を離れると舷側が、途轍もなく高い黒い絶壁のように見えました。甲板や船窓の列なりに、幾段もの灯の線が上下に重なっています。まだ音楽が聞えていました。船首を先に一デッキずつ水に呑まれる毎に、上から順に、ゆっくりと灯の列が消えて行きます。電燈の点った窓が水に接する時は光を溶かした波が遠くまで繊細に揺れて、あの場合ですけれど、凄絶な美観でした。最初の恐しい爆発が起ったのはその時です。轟音と同時に一時に灯が消えて、真紅と金色の閃光が立ち昇りました。すると、その直ぐ後、そこらの海全体を覆い尽して人々の叫びです。呻きです。私はあんな恐しい人間の声を聞いたことがありません。暗い海一面に、高く、低く、細く、鋭く、何とも形容のできない人の声なのです。第二の爆破が続きました。それからまた海から湧き起る恐しい唸り声――随分長く聞えていました。今だに、あの大勢の声を想い出すと、地の底から足首を掴まれて引き込まれるような気がします」
 静かに、堂々と、タイタニックは沈んだ。沈みながら、厳粛な楽の音と甲板の上の人々の合唱が水面から響いていた。
「Nearer, My God, to thee.
Nearer to thee.
主よ、御許に近づかん――」


 Captain Ernest Smith ――アウネスト・スミス船長は、赤ら顔に白い三角髯の、年とった「海の頑固者」だった。沈没の瞬間まで船橋ブリッジに立っていた。海中に投げ出されて、ふと見るとすこし向うに赤ん坊が浮かんでいる。船長は泳ぎ寄って赤ん坊を差上げ、手近の救命艇へ急いで其の小さな遭難者をボウトの中へ入れた。
船長キャプテン!」ボウトの人は口ぐちに叫んだ。「このボウトへお上んなさい! まだ一人ぐらい大丈夫です」
 濡れた白髪を振って船長が答えた。
「いや、私はあの板の破片へ掴まろう」
 そして水を蹴って泳ぎ去った。これがタイタニック船長アウネスト・スミス氏の生きて見られた最後だった。

 まるで壜のコルク栓をばら撒いたように、溺死体が海面を埋めて漂っているのを、四月十五日の暁の光が淡く照らしはじめた。死者の或るものはボウトの縁をしっかり掴んで、死んでも放さなかった。爪が、塗料をたサイドの板にめり込んでいた。非常な力を宿した儘死んでいる指を一本ずつ開いて、屍骸を取り離すのが大変だった。
 数時間後に、最初の救助船カルパセア号が現場に到着した。「水平線にぽっちり灯りが見えたのです」レディ・ダフ・ゴルドンは語る。「ボウトは緑色のライトを点けた先頭の一隻に従って、何時の間にか一列縦隊を作っていました。水平線上に救助船が現れたことは、先のボウトから順々に歓声が伝わって来て判ったのでした。カルパセアも周章てていたのでしょうが、その救助の仕方は極めて荒っぽいものでした。海は静かでしたが、何しろ近くに氷山があるので非道い寒さですし、それに高い舷側から小さな板に綱をつけて下ろして、一人ずつそれに掴まって引っ張り上げられるのですから、私など恐怖と寒気と眩暈のために、引揚げの途中で死にそうでした」
 この救命艇からカルパセア号へ引き上げる時、四人の人が誤まって墜落溺死した。

 一週間程して、三つの屍骸を載せたボウトが発見された。その内一人は、鎖で足を座板に結び付けられていた。三人は飢えと渇きのために死んだのだ。一人は苦しさの余り海水を飲もうとしたか、或いは、発狂して海へ飛び込もうとして、他の二人が足を結びつけたものであろう。そういう危険を予知して、自分でしたのかも知れない。三人の口中に浮標ブイ用のコルクの断片や帆布の切れが噛み砕かれてあった。餓死の苦しみに際して手当り次第に口に入れたに相違ない。結婚指輪が二つ、ボウトの底に転がっていた。
 浮かんでいた屍体の中には、爪の跡や擦り傷を一ぱいに見せて、生きんがため如何に足掻いたかを語っているのも尠くなかったが、多くは、醜くない静かな死を死んでいて、一層泪を唆った。二つになる子供が顔を上に潮に乗って流れていた。これだけが救命帯を着けていない唯一の屍骸だった。
 この恐怖の夜の思い出は生存者が生きている限り如実に伝えられる。海難と言えば誰しも先ずタイタニック号事件を頭に上すのだ。富豪のジョン・ジャコブ・アスタアとM・T・ステッドの両氏は、沈没後暫らく筏に乗っているのを見たという者があるが、間もなく凍死して浪に呑まれたのだろう。死体は揚らなかった。

 一九一二年四月十四日午後十一時四十分、タイタニック号は大西洋で氷山に衝突した。二時間四十分後に沈んだ。
 白星会社ホワイト・スター・ラインが世界に誇った当時最大の、一番贅沢な客船だった。総噸数四万六千三百二十八噸、甲板の延長五哩、建造費百五十万磅。
 処女航海である。船客二千二百一人。この内救助されたもの僅かに七百十一人。救命艇はやっと七百七十八人を収容し得る隻数しか備え付けてなかった。四百十五人の婦人客のうち三百十六人救われ、百九人の子供の内五十二人溺死している。

 貴族、富豪、名士を満載していた。速力、安全、華美、確実、凡ゆる点で最優秀船、海運界の一大進歩、「断じて沈まない船」とされていたタイタニック号だ。それが皮肉な一撃で玉子の殻のように穴があいて海底へ急いだのだ。
「タイタニックは神様の悪戯だった」
 こんな言葉が流行った。
 その夜の海水の冷たかったことと言ったら、大概の人が水へ這入ると同時に心臓の鼓動が止まった位いである。溺死するより先に皆凍死していた。

 この運命を静かに受取った人もある。敢然として死に面した者も尠くなかった。が、多くは互いに争った。獣類のように争った。汽缶の爆破で一片の肉も止めずに飛散した人、下の救命艇へ跳び込もうとして、ボウトの縁へ打っつけたり、海へ落ちたりした者――中には女子供を押し退けて先にボウトへ乗ろうとして、射殺されたのもある。
 その何れも死ななくて宜かったのだ。皆助かる筈だった。救命艇さえ規定通りに充分積んでいたら――実にこのタイタニック号事件は、不注意と不熟練に因る大惨劇、世界の航海史に残した拭うことの出来ない大きな汚点だと言われている。平時に於て大洋で行われた最も愚鈍な椿事だった。

 暗い、寒い、静かな夜だ。
 クリスマス・トリーのように星が輝いて、空気に、凛烈な寒さが走っている。
 世界第一の巨船タイタニック号、百五十万磅の「浮かべる宮殿フロウテング・パラス」は、船首から船尾まで雛段のように灯りを連ねて、この寒星の下、亜米利加を指して大西洋の白波を蹴りつつある。
 食堂は例によってリッツ Ritz ――である。晩餐はすっかり済んで、多くの人々は寝台にいる。カアド室には、デナア・ジャケツの紳士達がポウカアに余念もない。電燈の薄暗い三等室には、トランシルヴァニア、モラヴィア、ヘルツェゴヴィア、ポドリア、シュワビア、カアランドなどという、聞いたこともない中世紀的な欧羅巴の隅々から、新大陸に憧憬れて亜米利加へ出稼ぎに行く移民の女達が、子供の寝顔を見守って物思いに耽っていた。まだ見ない紐育の夢――何んなに新しい、素晴らしい生活が自分たちの前に展がって往くことだろう。亜米利加は、殊に紐育は、黄金の街だと聞いている。亜米利加へ上陸さえすれば、この親代々の貧乏と縁が切れるのだ。この児たちも、米国の市民として、夫れぞれ幸福な生涯を開拓して行くであろう――。
 突如往手に、白い高いものが闇黒に浮く。直ぐ近いところである。氷山だ。船中の警戒のベルが鳴り響いて、命令の声々が慌しく飛び交す。機関の音が調子を低めた。船は急ぎ進路コースをかえて――と、その時、右舷の叱水線下に、ずずずずずんと重く鈍い、引っ掻くような衝激が伝わった。この一接触で、タイタニックは既に、横に長く船腹の鉄板を裂かれて致命傷を受けたのである。
 が、その瞬間の震動ショックは、決して激しいものではなかった。大部分の人は、知らずに眠っていた。眼を覚ました連中は、ドレッシング・ガウンを引っ掛けて甲板へ出て見た。船は停まっている。甲板では、皆わいわい冗談を言い合って、誰も何の恐怖も感じなかった。若しこの時早くも最悪の場合を予想し得た人があったとすれば、それはスミス船長と二、三の高級船員だけだったろう。
 甲板の廊下に水が見えて来た。
「救命帯をお着け下さい! 救命帯をお着け下さい! 大至急救命帯を着けて甲板の所定の場処へお集まり下さい!」
 船員たちが大声に呼ばわって駈け廻っている。人々の顔は一度に白くなった。顫える指でライフ・ベルトをつけて、各自定められた甲板の位置に並ぶ。
 船室にいた人は、ドレッシング・テイブルの上の物が辷り落ちたので、何時の間にか船が、意外な角度にまで傾斜し出したのを知った。救命艇は下ろされた。ここらまで、凡べては静粛に行なわれた――兎に角、そうは言われているのだが、或る生存者の談によると、理性を失った船客の群が最後のボウトに殺到して大乱闘になり、三人の伊太利人が射殺されたとある。しかしこの説に依ると、老船長アウネスト・スミス氏も船橋ブリッジで自殺したことになっているが、これは全然誤りである。


 一九一二年四月十日、水曜日の正午すこし廻った頃だった。
 サザンプトンの波止場は、時ならぬ人出で大混雑を呈している。山のような巨船が、デッキ一杯に人を満載して、今や徐々に揺るぎ出ようとしているのだ。見送人に下船を合図する銅羅が鳴り渡って、船と波止場を繋ぐ板梯子ギャングウエイは一つを残して凡べて引き下ろされた。漸て其の最後の一つが取り去られようとしている時、手荷物を肩に担いだ一団の男達が息せき切って波止場を駈けて来て、大声に呼ばわりながら船に乗り込もうとした。が、その外しかけた梯子を預かっていた見習運転士は、頑として彼らの乗船を拒み、さっさと梯子を降ろしてしまった。この連中は、新たに雇い入れた火夫である。遅れて来たのだ。こうして出帆真際まで姿を現さないので、船では至急に代りの者を乗り込ませて、彼らは既に地位を失っているのだ。もう乗船出来ないことになっている。そう聞かされて、遅れて来た火夫達も黙って引っ込まない。乗る乗せないで鳥渡争論になった。その間に、委細構わず最後の板梯子ギャングウエイは引き下ろされ、船と波止場との接続は断たれて、船は、静かに岸壁に沿って滑り出す。呑気過ぎて素晴らしい仕事口を棒に振った火夫達は、遠ざかり往く船を白眼んで口惜しがって地団駄を踏んだ。他の船なら先ず諦めるにしても、White Star Line 会社が巨万の金を掛けた、大きさから設備から世界第一の贅沢船、造船界の革命として大評判になっているタイタニック号が、以前から宣伝に宣伝を重ねてきて、今その紐育への処女航海に大西洋へ乗り出すところなのだから、船乗冥利に尽きる機会である。自分達の不注意からその好機を逸したのだ。取り残された火夫たちは呆然とタイタニックを見送って心から運命を呪った。
 併し、彼らの失望と後悔は、ほんの五日で運命への絶大な感謝に変らなければならなかった。乗り遅れたばっかりに命拾いをしたのだ。ここらが殆んど怪奇なほど、生と死は紙一重だという、運命的なところである。
 きらびやかな見送人の大群と、泣き顔の火夫を後に、タイタニックは帝王のように堂々と桟橋を離れて行く。この時ちょっと迷信家の船員達が気にするような出来事があった。岸壁の外れにニュウ・ヨウク号という相当大きな汽船が停泊していたが、タイタニックが其の舷側と平行のところへ進むと、巨船の裂く水勢に引かれて、ニュウ・ヨウク号の繋留索が見るみるぴいんと張り出したのだ。大木の幹ほど太いロウプである。それがまるで一本の毛髪のように弱々しく張り切って、綱の軋む音が宛然拳銃ピストルを乱射するように物凄く鳴り響いた。切れたロウプは、護謨糸を弾いたように空に唸って、桟橋の群集の頭上を刷く。タイタニックの航進によってその水路に吸引力が発生して、ニュウ・ヨウク号を吸い寄せたのだ。瞬間、衝突は避けられないように見えて、見守る人々は息を呑む。号令の声々が叫び交され、両船の船員が甲板を豆のように走り廻る。舷々相触れんとして、衝突隔蓆フリジョン・マットが慌しく吊り下ろされた。が、タイタニック号が急停船すると同時に、その進路の水流が醸していた吸引力が止まって、ニュウ・ヨウク号は索船によって元の碇位に戻され、ようやく事無きをえた。
 波止場の突端にテュウトニック号というのが繋がれていた。その傍を通過する時、又同じような騒ぎを繰り返している。タイタニックは最徐行デット・スロウしていたにも拘わらず、テュウトニック号はその強力に吸い寄せられて、繋維索は造作もなく伸び切り、船体は今にも水を潜りそうに傾いたのだ。が、結局、今度も何事もなく、タイタニックは其の儘サザンプトンの港外へ船首を向ける。
 処女航海の船出に、こうして二度までも冷やひやさせられたので、乗組員の中には、不吉な予感――と迄のものではなくても、何となく気を腐らせた者もあったが、由来船乗りは迷信家揃いである。船客としては、出帆後間もなく鳥渡冒険的な、面白い場面を見せられた位いのところで、却って上々機嫌だった。
 好晴である。紺碧の水と空。城郭のような巨船の処女航海だ。スピットヘッドの岬を交すと一望の大西洋。冬の終り、春の初めの爽かな微風が海面を撫でて来る。自信に満ちみちた機関の唸り、鴎の羽音――サザンプトン紐育間を一直線に結びつけて、従来の所要日数を短縮しようとするタイタニック号の初航海である。これだけでも素晴らしいセンセイションである。それにこの恵まれた天候――誰が今日この船に乗船し得た幸福を感謝しないものがあったろう。
 一体新しい船ほど愉快なものはちょっと類があるまい。おまけに何度も言う通り、世界最大の新造船、評判のタイタニック号である。船客は銘めい自分の船のような顔をして大得意で船内を見て廻る。
 万事興味と驚異の最新設備を集めて、調度、装飾、まことに善美を尽したものだ。世界に誇る英国造船技術の精粋クリーム――排水量六万噸と言うから、実際、当時に於てはずば抜けていた。因みにかのモレタニア号でさえ排水量は四万四千六百四十噸である。その他、このタイタニック号の全長は八百八十三呎、幅員九十二呎半、龍骨キイルから船橋までの高さ百四呎、八階の鋼鉄甲板、二重船底、動揺を修正し安定を保つ彎曲艙骨ビルジ・キイルの装置、上下の各甲板を貫いて一流ホテルや百貨店に見るような金色燦然たる昇降機が通じ、図書館、土耳古風呂、テニスコート、運動場、温室、菜園――優秀なエンジンと王宮のような壮麗さと到れり尽せりのサアヴィスと、加うるに処女航海というのが、弥が上にも船客一同をお祭気分に煽り立てて知るも識らぬも忽ち一大家族のように、歓談、遊戯、舞踏、様ざまの催し物――美食と美装の限りをつくした「推進プロペラする社交室」だ。
 シェルブル寄港。
 クインスタウン寄港。
 新たな顔が乗り込む。日和つづき、絨毯のような静かな海である。笑声と秩序を積んで、タイタニックは爽快に走る。
 木曜日の夕方、愛蘭土アイルランドの海岸が遙か背ろに溶け去って、靄のような暮色が波がしらに立つ。玉突台のような、皺一つない海面。船酔いなどは一人もない。が、猛烈な寒さで、とても甲板には長く出ていられなかった。で、人々は、暖房の往き届いた図書室、談話室に陣取って、読書する。雑談に耽る。手紙――それは漸て宛名へは届かずに凡べて海底へ配達されるべき運命の手紙だった。――をせっせっと書く。
 平穏な船中風景が続く。
 エンジンの調子は快適だ。速力も出そうと思えば出るのだが、老練なスミス船長は、処女航海のことだから少しの無理もしたくなかった。出来るだけ船をいたわって行く主義で次ぎの火曜日の夜には紐育へ着き得るのだが、先ずゆっくりみて、翌水曜日の払暁入港という段取りになろう。
 四月十四日、日曜日。
 朝から好いお天気である。午前十一時、船客中の有志が集まって礼拝を行う。洋上歴日無しだが、それでも日曜と言うと、何となく習慣的に、殊更らのんびりした気持ちにもなる。
 が、何しろ、非道い寒さだった。二、三日来急に気温が下ったのだが、特に今日は骨を抉るような寒気だ。
 多くの船客は、寒暖計の水銀が面白い程収縮して往くのには気がついても、この、こうして急激に酷寒が襲って来た理由を知っているのは、前に同じ季節に大西洋を渡った経験を有つ極く少数の人だった。
 ――何処か遠くないところに氷山が流れている。
 同日午後十一時三十分、タイタニック号の附近を航行しつつあった米国貨物船キャリフォルニアン号の唯一の無電技師セリル・エヴァンス―― Cyril Evans ――は、朝の七時から無電台に据わり切りなので疲労を感じ、掻なぐり捨てるように聴取器ヘッド・フォンを外して寝台に潜り込むと、直ぐ丸太のように前後不覚に熟睡し出した。

 これに先立って午後六時二十分頃である、そのキャリフォルニアン号の船橋ブリッジに立っていた当番ウオッチの二等運転士ジョナサン・ケリイは、海の白象の如く緩やかな歩調で近づいて来る一大氷山を認めて、早速無電技師エヴァンスに命じて他の通行船へ其の旨警報を発せしめた。
「前方近距離に氷山現る。警戒を要す」
 エヴァンスは懸命に、指先に火花を散らしてこの信号を打ち続けた。電波は、眼に見えない網のように空中に拡がって、直ちにタイタニック号の無電に感応している。
 丁度この時そのタイタニックの無電室では、主任技師のフィリップスが受信器を掛けて、何かニュウスを拾おうと、掃海事業のように無電の手をひろげ、耳を澄ましていた。
 其処へ突如、じ、じ、じっと、何処かで叩いている通信が引っ掛って、
「前方近距離に――」
 とフィリップスが聴き取り出した途端、船室給仕キャビン・スチスアートの一人があわただしく飛び込んで来て一枚の頼信紙を差し出した。
「局長、大至急これをお願いします」
 と言う。見ると、船客の電報である。レイス岬の無電局まで届かせて中継ぎすべきものだ。フィリップスは直ぐ機械に向ってその電文を送信しようとすると、再び、じ、じ、じい――しきりに何か通信して来る。
「前方近距離に――」
 真剣に受信する気のないフィリップスには、ただ発信の妨害になる許りである。
「何が『前方近距離』だ!」フィリップスは舌打ちした。
「五月蝿いやつだ!」
 が、何処か近くから、電波は執拗にまだ「前方近距離に――」を私語き続ける。
 邪魔になって船客の電報が打てない。
 肝癪を起したフィリップスは、強く電鍵キイを叩いた。無電で大喝したのだ。
「引っ込め! Keep out!」
 すぐ返電が来た。キャリフォルニアン号のエヴァンスも負けていない。同じく呶鳴り直した形だ。
「宜し! 勝手にしろ!―― All right, have it your own way!」
 喧嘩別れである。警告は伝わらなかった。


 こうしてこのキャリフォルニアン号の発した無電警報、「前方近距離に氷山現る。警戒を要す」は、タイタニック号の無電技師フィリップスが受信しようとする間際に、一船客の電報を打電すべく依頼されたために遂にタイタニック号には伝わらなかったのだ。
 これが午後六時二十分。そして五時間後の十一時三十分に、キャリフォルニアン号のセリル・エヴァンス技師は寝に就いた。タイタニック号が氷山との擦過で致命傷を受けたのはその十分後の十一時四十分である。間もなくタイタニック号からは、フィリップスの打ち続けるSOSが火のように放散される。それが、比較的傍を航行しているキャリフォルニアン号に感じない訳はない。事実、キャリフォルニアンの無電機は、直ちにそのタイタニックのSOSを感受して焦げつくような音を立て、火花を散らさん許りなのだが、この十分間に、技師エヴァンスはぐっすり眠りに落ちて、鼻先の受信機が懸命に囁くタイタニックのSOSを灯を慕って、迷い込んで来た羽虫の音ぐらいにしか聞いていなかった。
 エヴァンスさえもう十分起きていたら、タイタニックの人はみんな助かったのである。

 が、宵の口に彼は、タイタニック号のフィリップスと無電で喧嘩をしている。
「引っ込め! Keep out!」
「宜し! 勝手にしろ! All right, have it your own way!」
 折角親切に、近くに氷山が漂っていることを報せてやろうとするのに、皆まで聞かずに呶鳴りつけられたので、エヴァンスも癪に触っている。何でえ、勝手にしやがれとばかり、寝て終ったのだ。タイタニックの必死のSOSの電波が、音のない悲叫のように充満した無電室で、エヴァンスは朝まで好い気持ちに眠った。
 キャリフォルニアン号は、貨物船である。無電技師はエヴァンス一人きりで、彼が寝ている間、同船は聾なのである。

 春の初め、北極洋の氷帯に罅が入って、島のような大きな氷原が、その氷の大陸を離れて南へ泳ぎ出す。
 毎年のことである。
 峨々たる白氷の高山が、暖潮に乗って遠く、欧米二大陸を繋ぐ主要航路附近にまで南下して来るのだ。そして、南風に当たり、陽を溶かした水に削られて形の無くなるところまで、これらの氷山は巨大な群棲動物のような、或いは白亜の多島海のような偉観を呈して浮游する。中には周囲数十哩に達する宛然一大嶋嶼の如きものもあって、しかも、海面上に屹立している部分は左程大きくはなくても、多くは、水面下に想像に絶する広さと厚さを持っているのである。これが潮に押され、漸時に速力を集めて、一国の興廃を担った連合艦隊のような偉容をもって進出し、漂流するのだ。
 寒い日が続くと、驚く程南までやって来る。事実、この四月十四日日曜日の朝、タイタニック号の人々が急に低下した温度に気がついたのは、近くに氷山が在ることを示す自然の警告だった。
 が、普通氷山に衝突するなどということは、航海の常識から言って鳥渡考えられない。多くの場合、氷山は海面から高く聳えているものである。時として二百呎も水を抜いている。それに昼間や晴夜は勿論、すこし位い暗い晩でも、相当の距離から船橋の見張人に眼に這入らずにはいない白磑々たる色と雄大な形を備えているのだ。実際大西洋の真ん中で氷山に衝突する危険率は、そんなことを考えるだけでも滑稽だというので、保険会社の歩合は百万に対する一の仮定だった。で、早春大西洋を横断する船舶は、屡々氷山見ゆの警報を受信しても、船長は平気で、其の儘の速度で航行を続けるのが常だ。全く、大西洋は広い。船や氷山は――如何に氷山が大きいと言っても――大西洋の大きさに較べればピンの先の何万分の一である。この二つが広い大西洋のまん中で偶然触れ合うということは、それこそ百万に一のチャンスで、先ず無いと言っていい。船長は発着の時間に責任をもって船を預かっているのだ。その船の名誉と会社の信用は、船長に強要して、人力の及ぶ限り、時間表に忠実であることを第一の義務とする。故に船長は、斯ういう場合、その百万に一の危険を冒し、警報を無視してフル・スピイドで進航する。タイタニック号のスミス船長が、其の朝急に異常な寒気が襲来したことによって、経験から、氷山が近いことを感知したに拘わらず、何ら警戒の手段を講ぜずに依然として全速力で航続したのは、些さかも乱暴として叱責さる可き性質のものではなく、恐らく十人の船長のうち九人は、このスミス船長と同じ措置に出たことであろう。そして、その、万善の策を採って衝突を免れ、その為め入港を遅らせた十人に一人の船長があったとしたら、きっと彼は船客の時間を空費し会社の記録を傷つけたものとして非難の的となるに相違ない。と言って、それ程過重にタイム・テイブル厳守を船長に課する会社をも、責めることは出来ないのだ。会社の立場は明らかである。会社は競争によって立っている。言う迄もなく船客の生命財産が第一、次ぎに船の安全だが、この第一位は、需要供給の法則のために何時しか速力尊重の風潮に置き換えられていた。安全も大事だが、それよりも早く着くこと――公衆はスピイドを要求して止まない。公衆はここでも、その本質として飽くなき暴君である。大西洋を渡るのに一月費った時代から、それが半月、一週間――五日という驚異的記録にまでなっても、公衆はまだ満足しない。一日でも半日でも航海の短い船へ客が殺到するのだ。茲に於てか、自然、大西洋横断所要日数の短縮が、主な汽船会社の激烈な競争となりつつある矢先だった。今から思うと、早晩この種の椿事を約束する運命だったと言っていい。

 前夜十三日の真夜中から、タイタニックの航路に当って、即かず離れず一つの尨大な氷山が流れて来ていたのだ。群を離れた迷児の氷山だった。長さ七十哩、幅十二哩の長方形、途方もない氷の破片である。
 この、氷の離れ小島――と言うよりも移動する大陸が、前面に待ち構えているとも識らず、タイタニックは一ぱいにスチイムを上げて白波を裂いている。

 十四日の日曜は、終日全力を挙げてこの運命の目的地へ急いだ訳だ。午前は一等船客の礼拝、晩餐後、二等船客がサルンに集まって讃美歌を合唱する。
 皆聞き慣れた祈祷の文句と歌調を耳に宿して寝に就く。
 非道い寒さで、散歩に甲板へ出るどころではなかった。
 好奇と感嘆の眼を輝かして、暇に任せて船内隈なく見て廻った船客の誰もが気が付かなかった一つの欠点を、タイタニック号は有っていた。それは、これだけの船でたった二十の救命艇しか積んでいなかった一事である。しかも、そのうち最大のボウトでさえも、僅かに六十人を収容するに足る大きさだった。が、船客の中に、こんな瑣末なことに注意を払う者のないのに不思議はない。この、絶対に沈まない船タイタニック号こそはそれ自身、一つの巨大な救命艇ではないか。一同、文字通り親舟に乗った気でいる。非常時――そんな言葉は、何人の頭脳をも横切らなかった。尚保証の必要があるなら、タイタニックは二重船底ダブル・パタムである。防水区壁と分壁の設備は完全以上に完全だ。ほんとから言うと、救命艇など一隻も要らないのだが――実際このタイタニックが救命艇などというものを載んでいることだけで、一部の人の眼には、猫を笑わせるに足る莫迦ばかしいことに映った――タイタニックにボウトなんて不必要な用心、しかし、これも一つの習慣的儀装であろう。単に監督官庁である通商局の検査官を満足させるための、謂わばひとつの形式レッド・テイプに過ぎないのだ――そう思って、船の大きな割りにボウト積載数の尠いことなど誰も気に留めなかった。で、タイタニック号は二十隻の救命艇を積んでいた。その全収容能力約一千人である。そして、この処女――同時に最後の――航海の船客は千三百四十八人――一説には前記の如く二千二百一人、少し開きが大き過ぎるが、二つの権威ある記録にこの別べつの数字が載っている――乗組員八百六十人、一朝事あった場合には、この過半数が海底へ消える可く始めから決定されていたのだ。
 が、カアルトンやウホルドルフ・アストリアの最高級ホテルに泊って、誰が安心のために、火事の場合の非常設備などを一応調べてみたりする者があろう。タイタニックは「海のリッツ・カアルトン」である。救命艇のことなんか、船客も乗組員も、てんで念頭になかった。
 十二時二十分前である。前に言ったように、船客の大部分は夢路を辿っていたが、起きていた人々は鳥渡異常な動揺が全船を走ったのを感じた。瞬間エンジンが連動機ギヤを外れて飛び上ったような、空虚なショックだった。助かった船客の一人にビイズレイ―― Mr. Beesley ――という人があって、その手記に、「船内は消燈されて、廊下のあちこちに、薄ぼんやりした電燈が汚点一つない白い壁を照らしている。酒場から、ウイスキイ曹達を煽って大声に話す男たちの声が聞えているきりで、しいんとしていました」仲なか絵画的な描写である。「問題の瞬間はただ機関の輪転が一つ滑ったと言ったような、極く軽い上下動でした。私は、船室の鏡台の前でタキシイドを脱ぎかけた時でしたが、踏んでいるマットレスがぐいと持上って、よく船の震動に伴う微かなダンシング・モウションが伝わった丈けです」
 それさえ気が付いた人は尠かった。
 変だぞ――などと思った者はひとりもない。
 が、その時既にタイタニックは、右舷を氷山に触れて、船首から船尾まで一線に切り割かれていたのだ。見るに、他愛なく、まるで紙ナイフが新しい本の頁を撫で開くように――。
 甲板に居合せた船員の或る者は、白く光る高山が闇黒から浮かび出て、ほのぼのと闇黒に流れ去るのを見た――それは夢のような一瞥だった。


 氷山が近いので万一を慮り、機関を停めて静止していたキャリフォルニアン号の船橋ブリッジである。
 中当番として朝の四時まで、二等運転士のストウン Stone が見張りに立っていた。
 一人ではない。見習運転士のギブスンというのが助手格についている。若い連中である。寒さと眠気を撃退するために、矢鱈に船橋を歩き廻って饒舌り散らしていた。
「何だい、あれは船じゃないか」
 見つけたのはストウン二等運転士だった。遠く微かに船の形らしいものが浮かんで、檣頭燈とサイドの赤ランプと、それに甲板の灯が二つ三つ、水平線上の星に紛れて、ちいさくぼんやりと瞬いて見える。
「船です」見習アップのギブスンが答えた。「夕方から見えていました」
「動かないようだが、何してるんだろう、あんなところで」
「僕らと同じに氷山を遣りすごそうとしているらしいんです」
「そりゃあそうだろうが、それにしても、何だか様子が変だな」
 キャリフォルニアン号は、浪に乗って漂っている。卓子テエブルのように海の静かな晩で、船体は遊ぶように、大きくゆっくりと左右に揺れているだけだ。この、救助作業には持ってこいの天候にも拘わらず、あれだけの犠牲者を出したところに、タイタニック号事件の拭っても拭い切れない汚点が存する。
 ストウン二等運転士と見習アップギブスンは、キャリフォルニアン号の船橋に立って、タイタニック号の死の苦悶をそれと気付かずに終始眺めていたのだ。
 一時十分過ぎである。煙りのような真っ直ぐな白い火の棒が五本、続けざまに彼方むこうの船に立つのを見た。
花火信号ロケットのようだね」
「三分置き位いに打ち揚げています」
「何かの合図かも知れないが」ストウンは首を捻った。
「別に危険に遭遇しているようにも見えない。海はこんなに穏やかだし――」
「兎に角、本船の注意を惹こうとしているらしいですね」
 こんな会話が二人の間に交されたが、「注意を惹こうとしていた」どころか、その二時間と四十分のあいだ、タイタニック号は、襲い掛る死の影の下に悶え続けていたのだ。
 がキャリフォルニアン号の二人は、そんなに遠くないところから、そうとは気づかずにぼんやり眺めて、
「何をあんなに発火信号みたいなことをしているんだろう――?」
「念のため、船長に報告したら何うでしょう」
 となって、ストウン二等運転士が船長室のドアを叩く。船長は、暖い寝台を離れて甲板に来てみようとはしなかった。寝具シイツの間から眠そうな声で、
「乗組員が何か下らないことで合図でもしているに相違ない。うっちゃって置け」
 斯うしてこの時タイタニックは、救われれば救われた好機を永久に逸したのだ。
 しかし、船長にそう言われても、ストウンはまだ少し気になるので、信号燈を持出してモールスの手燈信号をしてみた。が、それは光力が不充分で向うの船まで届かないのか、その不思議な停止船からは何らの応答もなかった。
「全く、何だか様子が変ですね」見習ギブスンは心配そうに、「無線のエヴァンスを起しましょうか」
 エヴァンス技師さえ眼を覚ませば、即座にSOSを受信して、キャリフォルニアン号は全力を挙げてタイタニックに接近し、救助作業を開始して必ずや全人助かっていたことだろう。
 まだ遅くはないのだ。
 鳥渡考えていた二等運転士ストウンが、思い切ったように言った。
「そうだ。エヴァンス君を起こしてみ給え、何か無電が来ているだろうから――」
 返辞の代りに頷首いて、ギブスンは、急ぎ足に無線室のほうへ歩き出そうとした。
 と、ストウンが止めた。
「まあ、いいや、君、何うせ大したことではあるまいから、ぐっすり眠ってるやつを起すのも気の毒だ」
 再び救助の手がタイタニックに下ろうとして、思い返したように遠く離れ去った。
 矢庭にギブスンが大声を上げた。
「思い出しました。彼船あれはタイタニックです。先刻、前の見張りのグロウブスさんがそう言っていました。何でも、宵の口にエヴァンスが氷山の警告を出したら、タイタニックに、送電の邪魔になるって叱られたとか何とか――」
 ストウンは笑い出した。
「そんなことだろうと思ったよ」と日を繰って、「タイタニックなら、先週の水曜日にサザンプトンを出たんだから――そうだ、丁度この辺に来ている時分だ。何だ、タイタニックか。そんなら、俺達みたいな襤褸船なんか相手にしやぁしないよ」
 世界最大の新造船と渺たる貨物船と、注意を払ったところで、身分が釣合わないと言った風に感じたのだろう。それきり二人は、その問題の船の挙動に何らの興味も向けなくなった。それに、第一タイタニックなら例え発火信号をしていたところで、非常信号でなどある可き筈はない。タイタニック号は「絶対に沈まない船」だと言うではないか――。
 二時十分頃だった。ふと気が付くと、今まで下の方に瞬いていた向うの船の赤いサイド・ランプが、何時の間にか高く上って見える。後日、海事法廷で Stone と Gibson は証言して「その舷側の赤ランプが高い所に見えた様子が如何にも妙で unnatural なので、思わずはっとして凝視めた」と言っている。が、その時は、じっと見守っているうちに、サイド・ランプが上ったのではなくて船が遠ざかりつつあるのだろうと二人は結論した。全くそう思ってみると、タイタニック号は全速力で南西の方へ急ぎ去って行くように観察されたのだ。そして、同時に、二時十分から、仄かに眺められた灯が一つずつ消えて、再び海事裁判の際に彼等をして、「それは水平線のむこうに船が遠ざかって往く時の景色によく似ていました」と言わしている。丁度二時四十分に凡べての灯りが浪に呑まれた。ストウンとギブスンはこれを水平線の陰に呑まれて見えなくなったように解釈したがこの二時四十分にタイタニック号は沈んだのだ。二人は斯うして助けようと思えば充分助けることの出来る近距離にいながら、全然それと識らずに、タイタニック号の断末魔をぼんやり見物していたのである。

 複式ヴァルブ聴取器と遠距離電話が完成された今日の科学知識から観ると、この一九一二年当時の閃光伝達機とクリスタル検電器は、斯ういう非常時の役に立たない幼稚なものだったように考えられ易いが、決してそうではなく、この式で優良な機械は、千五百哩の送電能力を有っていて、現にいまでも、一、二流の大船客以外は、多くはこの様式の無電装置を備えて立派に使用している位いである。無線電信の方面から観たタイタニック号の惨劇は、機械の不完全から来たものではなく、実に無電技師の制度の不完全から招来した遺憾事だった。海の大ホテルタイタニックには、二人の無電技師が乗り込んで、昼夜片時も機械を離れない組織システムだったが、僅か六千噸の貨物船キャリフォルニアン号は、たった一人の技師しか乗せていなかった。おまけに、その船の聴神経ともいう可き唯ひとりの無電技師は、丁度其の時寝台で熟睡していたのだ。と言って、彼を責めることも出来ない。小さな船には一人だけ乗っていればいい、そして夜は寝ても差支えないという、再びいう、そういう制度システムだったのである。

 同日午後六時半、南下しつつある一大氷山群を望見すると同時に、キャリフォルニアン号は無線をもって附近を航海中の諸船に前記の警告を発しながら、自分は直ちに最徐行して氷山の間を縫うようにして進み、午後十時頃から全く停船状態だった。西北の水平線に白墨を浮かべたような氷山が点綴して、それ以上続航することは自殺的に危険だと認めたのである。それにも係らず、あの運命的な錯誤――一乗客の電報のためにキャリフォルニアン号の警報を受信しなかったタイタニックは、この時、殆んど二十二ノットの全速力で走っていたのだ。衝突は起る可くして起ったのだった。
 しかし、タイタニック号のスミス船長は、聞えた老練家である。四月のこの時候に、急激に温度が下ったことによって、近くに氷山が漂流している推測の付かない訳はない。識り乍ら接触の可能性を無視して航続した点が、後にマアセイ卿―― Lord Mersey ――が裁判長として臨んだ「タイタニック号海難査問法廷」での大問題となったのだったが、これは、前記の通り一般公衆がスピイドを要求する余り、自然会社間の所要時間短縮競争となり、何時しか安全よりもタイム・テイブルを尊重する風が助長されていたということだけで、結局、誰の責任にもならなかった。
 この会社間のスピイド競争は、大西洋でも太平洋でも、今日一層激甚を極めている。


 これより先、午後五時頃からキャリフォルニアン号の船橋に立った三等運転士グロウヴス―― Mr. Groves ――は、右舷の後方遙かに一抹の煙とも見える船影を認めて、その、氷山の危険区域に在ることを意識しないらしい行動に、他人ひと事ながらやきもきした事実がある。これがタイタニック号であったことは言う迄もないが、キャリフォルニアン号から視ると、タイタニックの船体が斜めになって進航して来ているために、実際よりは非常に小さく見えて、グロウヴスは、その、はらはらするほど我武者羅に近づきつつある船を、自船と同じ位いの大きさの、精々五、六千噸の貨物船だと思った。数時間後、タイタニックが沈没の際、サイド・ランプが高く持上ったのを、ストウンとギブスンは船が遠ざかって往くのだと視察したと同じように、大洋の気層は魔術的に働き、時として人の視覚に飛んでもない誤りを生ぜしめ易い。グロウヴスは其船それを有名なタイタニックとは知らず、只興をもって眺めているうちに、交替時間の少し前、十一時四十分――タイタニックが氷山と衝突した瞬間――鳥渡甲板の燈が消えたように思ったが、それを見ても彼は、単に当番ウオッチ以外の者が寝に就いたので消燈したのだろうと別に気に留めなかった。
 が、何という乱暴な、挙動不審な船だろう――グロウヴスの頭には、軽い意味でそんな疑問が沸いていたので、交替時間がきて、ストウンとギブスンに見張ポストを譲って船橋ブリッジを降りると同時に彼は、個人的な、心持ちから、其の「変な船」の正体アイデンテテイを調べてみる気になった。しかし、無電技師のエヴァンスは、十一時三十分に既に眠りについている。燈火信号モウルス・ランプには遠過ぎる――両船の距離は八乃至十哩だったろうと言われている――し、直接その船に訊き合わせるためには何うしてもエヴァンス技師を起して無電を発せしめるより他に方法はない。これが所謂虫の知らせというのか、グロウヴスは急に矢も楯も耐らなくなって、船橋を下りると直ぐ其の足で無電室へ駈け込んで行った。タイタニック号二千の人々の危急が自然に伝わって、彼をしてそうさせずには置かなかったのだろう。グロウヴスは自分でも不思議な位い興奮して、矢庭に、ぐっすり眠っているエヴァンスを叩き起した。
 この時は既う、タイタニック号のフィリップスの打つSOSが火のように伝わって来て、寝ているエヴァンスの傍の無電機械は間断なくその救助信号を感受して灼けつかん許りに熱している最中である。
「おい、局長!」寝呆け眼のエヴァンスの顔の上へ、何故ともなく周章てたグロウヴスの声が落ちた。「右舷の方に妙な船が居るぜ。今迄この氷山の中を滅茶苦茶に急いで来ていたようだが先刻から急に停船しているよ。何だか燈火ライトの様子が只事じゃないらしいんだ。君、寝る前に、あの船と無電の交換はなかったのか」
「五月蝿いなあ」エヴァンスは不平らしく、一そう深ぶかと掛布団を引っ張って壁の方を向き乍ら、「喧嘩したよ。生意気な船なんだ」
何国どこの船だ」グロウヴスは急き込んだ。「何という船だ」
「知らないよ。俺は今休みオフなんだ。邪魔しないで寝かして呉れ」
 その儘エヴァンスは、グロウヴスが何と訊いても、返辞の代りに鼾を聞かせて再び寝入って終った。
 グロウヴスは、諦めた。全く、考えてみると、休む可く権利づけられている時間に休んでいるエヴァンスを、そんなに大騒ぎして起すようなものは始めからないのである。
「おい、おい、若いの。何を一人で魔誤付いているんだ」
 グロウヴスは、そう自分を嘲って苦笑しなければならなかった。
 この通り、彼は確かに一度エヴァンスを起したのだが、起し方が足らなかった。斯うして、又もやそれ程近く迄伸びて来掛った救いの手が外れて、タイタニック号の人々は、よくよく其の夜の冷たい水に溺死す可き運命に決められていたのだろう。
 だが、それでもグロウヴスは、何となく心残りでならなかった。で、無電室を出がけに、現実に、其処に投げ出してあったエヴァンスの聴取器ヘッド・フォンを取って耳に当てがってみたのだが、彼は素人だけに、その機械は、傍らの磁気有線検電機マグネテック・ワイア・デテクタア――これは時計式の旋弾仕掛けになっている――を巻かなければ聞えないのであることを識らなかった。
 何も聞えないから、グロウヴスはやっと安心して立ち去る。間もなく自分の船室へ帰って寝台に潜り込み、朝迄何事も知らずに眠った。運命のSOSはキャリフォルニアン号に届こうとして、遂に届かなかった。矢張りそういう運命だったのだ。
 只、このグロウヴスが起した時に、エヴァンスがもう少し確固しっかり眼を覚まして、そして聴取器を掛け、検電機デテクタアの捻じを廻していたら――それは、ほんの片手を動かす丈けの、訳のない動作である――そうしたら、全船忽ち戦時のように緊張して、八哩や十哩は苦もなく近づける。キャリフォルニアン号は六隻の大きな救命艇を有っていた。現に勇壮な海上救助作業が開始されて、硝子板のように平穏な海だ。タイタニック号は一人の死者をも出さなかったであろうことは言うまでもない。いや、それよりも、前に述べたように、このエヴァンス技師――彼は職業柄 Sparks という綽名で通っていた快男子風の一種変った人物だった――が、もう十分間起きて無電機に向っていたら、いの一番にタイタニックのSOSを把握キャッチして、何の事はなかったのである。

 ナイフが乾酪チイズを切るように、氷山はタイタニックの船底を裂いたのだ。一蝕で六区画の防水壁が三百呎の長さに口を開いた。これでは耐ったものではない。それから沈む迄二時間と四十分のあいだ、タイタニックの甲板上ではこのキャリフォルニアン号の注意を捉えて救助を求む可く凡ゆる術策が講じられた。フィリップスのSOSには可成り多くの船から返電があったが、皆遠過ぎて頼みにならない。船員達は全力を挙げて、向うに微かに灯を見せているキャリフォルニアン号に呼び掛けようと必死の努力を続けたのだった。
 二等運転士のライトラア―― Lightoller ――この人は生存者の一人だが、氷山とぶつかった時は、当番を済まして船室に寝ていた。何処かで臼を碾くような鈍い音がすると共に、軽く下から持上げられたような感じがしたが、ライトラアは初め何ら気に留めず眠りに落ちようとしていた。
 三十分程した頃、四等運転士の J. G. Boxall が、煙草を喫みに、ライトラアの船室へ呑気な顔を現した。
 ライトラアは後で言っている。
「ボクソウルはぶらりと這入って来て、今氷山に衝突しましたと静かに言いました。そうだね、何かに衝突したらしいことは僕も知っていたよと、私が笑いますと、ボクソウルは続けてF甲板デッキまで水が来て、郵便室メイル・ルウムは大洪水だ。郵便物の嚢がぷかぷか浮かんでいると、それでも平気でにこにこしているのです。それを聞くと私は、毛布を※[#「てへん+発」、231-下16]ね退けて飛び起きていました」
 このボクソウルも、こんな風に妙に、糞度胸のある人間だけに見事に助かっている。
 救命艇を降ろしている最中に、遠くにキャリフォルニアンの灯を認めたのはライトラアだ。遠くに、とは言っても、灯が見えている位いだからそう遠い筈はない。ライトラアの眼は、約五哩の距離――これは実際よりも遙かに短い観察だったが――と測定して、それからボクソウルとともに、このキャリフォルニアン号を対象に、死に物狂いの発火信号を続けたのだった。ボクソウルは、タイタニック号でこそ四等運転士だったが、主席舵手として最長年の海上生活の経験を有する実際家上りの腕っこきだった。その時キャリフォルニアンは、潮の具合いでタイタニックの左舷船首の前方に廻って、二本マストの檣頭燈と緑と赤のサイド・ランプが星の瞬きのように仄かに見えていた。ボクソウルは一応スミス船長に報告して、直ちに狼煙ロケットの打揚げ方に掛ったのだが、キャリフォルニアンからは何の応答こたえもないが、気のせいか段だん近づいて来るようにも思える。それに、向うの船の船橋に、モウルスの手燈信号の閃めきが見えるようでもあるのだ。
「何だか灯りを振ってるようだぜ」
 傍で双眼鏡を手にしているライトラアがそう言うので、ボクソウルもモウルスランプを持出して求援の意味の閃火フラッシュを送った。しかし、依然として彼方の船には反応が現れない。が、其の時キャリフォルニアン号では、あのストウンとギブスンが不審を抱いて、懸命にモウルス・ランプで信号していたのである。
 勿論、正確なことは断定出来ないが、その夜の空気は、肉眼に映った程それほど澄明ではなかったのだろう。星の凍るほど寒い、静かな晴夜だった。あのスティヴンスンの好んで書いた“a wonderful night of stars”である。北大西洋には附き物の大きな畝りどころか、小皺一つ無い海面だ。尤も、斯うした早春の静夜には有り勝ちの、水に近く、一めんに浅霧ヘイズが立ち罩めていたのかも知れない。それが、断続的なモウルス燈のダットダッシュを消して、両船の間に信号を交換させなかったのだろうと解釈されている。
 このタイタニックとキャリフォルニアンと、二つの船の乗組員達が、互いの船の檣頭燈や、赤と緑のサイド・ランプは肉眼ではっきり見てながら、望遠鏡で探し合ったモウルス信号の灯だけ何うしても発見することの出来なかったのは、永久に説明されない神秘でなければならない。


「絶対に沈まない船」として人類が豪語したタイタニック号だ。それを沈む可く挑戦した海の悪魔が、ひそかに眼に見えない手を伸ばして両船のモウルス信号を遮ったに相違ない。迷信に生きる海の人々はそう言い合った。兎に角、瀕死のタイタニックから僅かに八哩を隔てて、立派に救助能力のあるキャリフォルニアンが、何事も知らずに浮かんでいる。タイタニックの無電技師フィリップスは、二千人の生命をSOSに託して狂気のように打ち続けても、キャリフォルニアン号では肝心のエヴァンスが熟睡していて、耳の傍の機械の無言の囁きを聞く由もなかった。宵の口に「Keep out! 引っ込んでいろ!」と一喝を食って、エヴァンスは其の通りに、相手のフィリップスが死んだずっと後迄も、正に「引っ込んでキイプアウト」いたのである。

 Phillips はゴダルミング Godalming 町の生れ。最後まで無電機に獅噛み付いてSOSを叩き続けた、この若い無電技師の物語は今だにゴダルミング市民の誇りになっている。
 フィリップスの助手でハロルド・ブライド―― Harold Bride ――この人は、今にも結氷しそうな冷水に一時間半も漬かった後、運好く助かった。
 その日曜日の晩、ブライドは八時からフィリップスに代って貰って休んでいたが、衝突と同時に無電室に駈け上って行くと間もなく船長室から電話が来て、スミス船長の声だ。経度と緯度で的確な船の在所を知らして寄越して、直ぐSOSを放電するようにと言うのである。其の瞬間からフィリップスもブライドも殆んど秒時も無電の傍を離れない。軈て続々直ちに救助に赴く旨航行中の各船から返電があったが、最初の手応えはカルパセア号―― The Carpathia ――で、五十八哩離れている。全速力で来ても四時間は掛るのだ。実際カルパセア号はSOSを受取ると同時に十七ノット半という驚異的な速力で突進して来たが、氷山区域へ這入ってからは止むなく徐行しなければならない。現場に行き着く迄に可成りの時間を取って終った。
 広い海上である。SOSは、返電があってから、本船の位置を確報して救助船に無駄な動きをさせずに一刻も早く誘き寄せるのが大変な仕事なのだ。先方も正規の航路コースを離れる訳だから遭難船の無線だけを唯一の頼りに、遮二無二急いで来る。まして此の場合のように到る処に氷山が出没しているとすれば、無電技師の働きは誠に重大且つ困難を極めたものだった事は想像に余りある。
 午前二時二十分前だ。船長が無電室へ飛び込んで来て、既に万策尽きて船は沈みかけている。フィリップスとブライドに直ちに無電室を出て最後の救命艇に乗り移るように命じたが、船長が立ち去ると同時に、フィリップスは再び聴取器を掛けて又SOSを打ち始めた。ブライドも動かなかった。足を洗う水の中で、フィリップスの傍に立ってしっきりなしに応答して来る救助船の位置の記録を取っていた。フィリップスは血走った眼に機械を白眼んで刻々近寄って来るカルパセア号の無電技師コタム―― A. Jennings Cottam ――と友達同志のような言葉で無電を遣り取りしていた。このコタムの通信録に依ると、
「おい、先生、大至急やって来いよ。機関室は釜まで水で一杯だ―― Hallow, Come as quickly as possible, old man; The engine room is filling up to the boilers.」
 と言うのが、タイタニック号から明瞭に聞えた最後の無電になっている。其の後もフィリップスは機械に噛り付いていたのだが、送信器の電力が断え勝ちで、信号はぼやけて意味を成さなかったのだ。と、二時十七分、タイタニックが船首を先に海底へ突入した三分前に、フィリップスは最後の打信盤キイを叩いて、
「S――O――!」
 それ限りだった。急な沈黙がタイタニックを捉えた。ダイナモが水に漬かって、完全に無電能力を奪ったのである。

 終始このタイタニック号の無電室に、薄い影のようにぼんやり坐っていた女の姿があった。三等から来た婦人客だった。彼女はショウルで肩を包んで、子供のように歔り上げながら、SOSを打つフィリップスの指先を、泪で曇った眼で凝視め続けた。何国どこの人間か、どんな女だったか、フィリップスもブライドも二時間の余もそうして同じ部屋に居て振り返る暇さえなかった。死んだか助かったかそれも判らない。只、坂のように傾斜する無電室、その一隅の椅子にじっと腰掛けて泣いている一人の女を古い映画の閃過フラッシュのように見た丈けだ。
 フィリップスとブライドが無電室を跳び出して見ると、船首から船体の半ばまで水に突っ込んで、最上層のボウト甲板デッキさえ浪に洗われている。二人は上甲板の高級船員室の屋根に這い上がって、沈没と同時にブライドは其処から一度海に呑まれた。其の時、フィリップスは未だ屋根に掴まっていたが、ブライドは顛覆した救命艇と一緒に海中に捲き込まれて、幸運にも其のボウトに掴まって直ぐ浮かび上った。そして仮死の状態で救助船を待つうちに、午前四時過ぎになって最初に遭難現場に到着したカルパセア号によって拾い上げられた。

 このタイタニック号事件は、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話と教訓に富む点に於て、近世海難史の首位を占めると言われている。タイタニックの遭難に教えられて、海上の無線電信は機械の上にも人の制度にも急速の発達を遂げ、又、全員を収容するに充分な救命艇を積載していなければ船の出港を許さないことになり、氷山に対する具体的な警戒としては、亜米利加の手に依って北大西洋氷山見張船隊―― North Atlantic Ice Patrol ――が新たに生れることになった。これは今だに行われて、北大西洋を航行する船籍国の各政府が費用を分担する事になっているし、海上安全期成同盟会コンヴェンション・フォア・ゼ・セイフティ・アット・シイという団体も、此のタイタニック号難船の産物で、其の後引続いて種々国際的な仕事をしている。あの一九一二年四月十五日の早暁、北大西洋の氷山に囲まれて冷たい死を死んだ約二千の生霊は、この航海史上の躍進的機運の犠牲となったものとして、全人類の為めに決して無駄死ではなかったと、せめてこれで諦めなくてはなるまい。

 擦過した氷山は、船橋塔フォアキャッスルより遙かに高かったと言われている。巨大な海の動物のように、闇黒の中から現れて闇黒へ流れ去ったのだ。

 始めエンジンが止まった時、何か鳥渡ぶつかったので損害を受けたか何うか調べるために停船したのだろうと思って、みんな平気だった。
「氷山に衝突したんだそうだ」
「そりゃあ飛んだことだ、氷山の方にね」
 寒い甲板で、人々はこんな冗談を言い合って笑った。
「塗り立ての舷側のペンキが剥げたんで、船長泣いてるだろう」
 酒場でウイスキイ曹達を煽っている一団から、誰かが高く酒杯を差上げて、
「何? 氷山だって! 有難い。おい、給仕スチュワート、一っ破片かけらぶっかいて来て呉れ。此酒こいつへ入れるんだ」
 わあっと歓声が上がった。皆タイタニックを信じ切っていてあんな事になろうとは一人として想像もしなかった。
 が、船橋ブリッジ上の高級船員の間には、戯談ジョウクも幻想もない。衝突の際に加えられた力は、一呎当り百万噸と測定されている。意外に浸水が早かった。狼狽していい理由を、幹部達オフィサーだけは知り抜いていたのだ。
 まだ船客が何も報らされずに楽観している時だった。四、五人の石炭夫が狂気のように周章てて甲板へ飛び上って来た。大声に喚き散らしている。それが船客の耳に這入れば、一度に不安に駆られて騒擾を醸すに決まっている。その石炭夫達は、上級船員が拳銃の先で直ちに炭庫バンカアへ追い下ろしたが、その内の一人は船の危険を看破して急に反抗の態度を示し、一説には其の場で射殺されたとある。
「All passengers on deck with lifebelts on!」
 この叫び声が船室の列なる廊下廊下を物ものしく走り廻る。大洋を航海した経験のある人は想像した許りで余り好い気持ちはしないであろう。
 この時になってもまだ非常時の実感がぴんと来ないで、暖い寝床バンクを捨てて甲板へ出る必要はないと言い張って何うしても船室に閉じ籠っている連中も尠くなかった。滑稽なのは、ボウイが知らせに来て起したのが癪に触ると言って、手を振り廻した拍子にランプスタンドを落して壊した人がいる。ボウイがまたそれを憤慨して、会社として損害賠償を要求するなどと喧嘩を始めたものだ。ランプ一つの損害賠償どころか、それから二時間して、自分達の生命も船そのものも無くなって終った。

「婦人客と子供だけ救命艇へ!」
 この命令が来て、ボウトは甲板と平行のところに下げられ、積み込み方が開始されたが、初めは如何に奨めても、誰もボウトへ乗り移ろうとはしなかった。舷側に倚って覗くと、眼の眩むような下に静かな水が拡がって明るい灯を映している。タイタニックはこんなに大きく、こんなに頑丈に、こんなに疑う可くもなく安全なのだ。この親舟を捨てて、押せば引っ繰り返りそうなボウトに乗り込むなどと――第一、タイタニックの様子は何事もなさそうではないか。只気の故か、船尾から船首へかけて鳥渡傾き出しているようではあるが――。
 若し現実に危険が迫っているなら、船長から何とか公式にステイトメントが発表される筈だ――最後まで船客にこの公表をしなかったと言うので、スミス船長は未だに些か非難されている。


 船が何ういう状態にあるか。一時間後二時間後のうちに如何なる事になるか――それを正直に船客に告げることを求めるのは、この場合船長に酷である。
 老船長は知っている。
 識り抜いている。
 間もなくタイタニックは沈むであろうことを。こんなに一同が信頼し切っているタイタニックだ、それが訳もなく沈まなければならないと解っていて、しかも船長は、一言船客を慰めることも出来ず、救助の希望を与える言葉も発見し得ない。しかも、全乗員の半分は早晩海中に抛り出されなければならない。単に救命艇が不充分で其の余地が無いからである。何という手落ちだったろう。アウネスト・スミス氏は、傾く船長室の卓子テエブルに白髪の頭を抱えて、沈思した。苦悶した。懊悩の底に自問自答した。
 知らした方が好いか。
 報せないほうがいいか。
 閉め切った室内を夢中で歩き廻って、彼は二千の人の命を預かるものとして王者のような苦しみを苦しんだ。
 漸て解決が来た。
 知らせない事にしよう! 不安は常に驚愕より優っている。不明瞭な苦痛は、明瞭な苦痛より未だ増しだ。今真実を公表することは、死刑の宣告をするようなものである。それよりは、何も識らせずに、銘めいをして其の時どきの成行きに善処させよう――固く結んだ船長の口元に、歪んだ微笑が上った。
 この理由以外に、もう一つ彼は考えた事があるに相違ない。
 船客は其の時迄平穏だった。一、二等は主として英米人。他の大西洋汽船と同じに、三等は殆んど全部南部及び東南欧羅巴からの移民、波蘭土人、露西亜人、伊太利人、ルウマニア人――でこれらが皆、真実を知った後も平静に行動すると保証出来るだろうか。彼らの半ばは死ななければならないと言渡されて、果して船員の命令を守って順調に救助作業を運ばせるであろうか――問題は此処である。これが船長の恐れる最大の懸念だ。既に三等船客の間には盛んに流言蜚語が飛んで、たった今も一部は暴動化して乗組員が銃口を並べてやっと鎮定した許りではないか。事実それから間もなく、降ろし掛けた短艇ボウトに一団の伊太利人が襲いかかって、船員は仕方なく発砲して追い散らしている。その他、野獣のように本能的になった下層の移民達が到る所の物陰に隠れて、女子供に先んじてボウトに飛び乗ろうと機会を狙っているのだ。低下中の救命艇に制限なく跳び込まれては、ボウトは忽ち顛覆して助かる者まで殺して終う。その自制を失った人間の姿は、浅間しいと言えば浅間しい限りだが、斯ういう場合、同情して考えて無理もない気もするのである。狂的な擾乱は制御出来ない。抗する力のない暴動が、野火のような速さでタイタニックを包み去りはしなかったか。そんな事は断じてなかったと何の記録にも否定されているが、口の綺麗な英吉利人のことだ。これは全然信用出来ない。
 押し退けられ、※[#「てへん+発」、237-上14]ね飛ばされる婦人客、踏み殺される子供、積み過ぎてあわやと言う間に底を見せる短艇、最も露骨な弱肉強食の場面――この地獄の現出を避けて、船長は遂に真相を発表せずに最後の瞬間を待ったのだと、いわれているが、何うも怪しい。往生際の悪い西洋人だから、地獄振りの限りを尽したといった方が正直でもあり、自然である。
 如何に船長初め高級船員がひた隠しにしても、事実は何時の間にか洩れて、船客一同の間に暴風雨あらしのように拡まる。不気味な機関の沈黙、見るみるはっきりと度を増して来る傾斜、作られた微笑の下に懸命に救命艇を下ろす乗組員、これらは、真実を語るに充分な証拠だ。初めて真剣な恐怖が人々の上に来た。

 右舷の甲板に、乗組みの交響楽団員が集まって、あの、タイタニックの難船で一層有名になった讃美歌の葬曲、「主よ、御許に近づかん」を奏している。船に残った人が取り巻いて、星を仰いで合唱する。
 浪が足を舐めるまで、この奏楽と歌声が続いた。

 沈むとしても、その前に救助船が来ることを確信して、救命艇に乗る事を拒絶した者も尠くない。最初の数隻のボウトは殆んど過半の空席を残して本船を離れた。中には、最悪の場合を予想し、後で海面に漂う人を拾い上げる余地を見て、態とそれ以上乗せずに短艇ボウトを降ろしたのだという説明もあるが、若しこれが事実とすれば、この名案は何の役にも立たず、プランは終に実行されなかった。一刻を急ぐ場合である。それに、一度水面に達すると、一時でも早く本船を離れたいのが人情だ。ボウトの漕ぎ手は多くの給仕や水火夫の下級船員で、権威をもって指揮する者の少なかったことも、手筈の違った一原因であろう。水に着くが早いか、ボウトは皆競争のように後をも見ずに漕ぎ去ったのだ。沈没と同時に生ずるであろう一大渦紋に吸い込まれる事を怖れたからでもあった。
 灯の山のようなタイタニックから二十隻のボウトが散らばって往く光景は、斯ういう場合ではあるけれど、生存者の忘れることの出来ない壮観だった。空気が凝結したような、物の影の鋭角的にくっきりした美しい夜である。信じられない程滑らかな海、頭上に近く、千古の伝説のように明るく輝く星――そして甲板一杯に部屋部屋の電燈を見せて大きく傾ぐ城のようなタイタニック。真っ黒に集まる船客の群、走り廻る船員、器物が辷ってぶつかる音、水を撫でる「主よ、御許へ――」の歌声。
 沈んだのは二時十五分だったという記述もある。
 一直線に水中に突き刺さって、暫らく空と海との間に懸かって見えた。その儘十五分間じっとしていた。取り付けた機械類等が急湍のように船の長さを船首まで走って、其の物音が轟然と遠くまで耳を聾した。

 投げ出された人々の助けを呼ぶ声――その、聞いても何うすることも出来ない悲叫を聞くまいとして、遠ざかって行くボウトでは歌を唱った。耳を塞いで、大声を張り上げて歌った。

 不思議な命拾いをしたのはライトラアだった。船と一緒に底へ急ぐ途中、何かの爆発に噴き上げられて抛られるように海面へ浮かんだのだ。水夫の一人に、奇抜な男があった。普段から仕様のない呑んべえだったが、愈いよ沈むと判った時、既う無政府状態に開放された一等船客の酒場バーへ這入り込んで悠々と腰を据え、一期の思い出と許りに手当り次第に喇叭飲みを遣った。おかげで、沈没した時もへべれけで何も知らなかったのみか、アルコホルの熱気で好い気持ちに冷水に漬かっていたに相違ない。酔覚めの水が欲しくて気が付いた時は、救助船カルパセア号の暖い寝台に居たと言うのだ。これは正に大出来だった。

 タイタニックが浪間へ没した後の海は、嘘のように穏やかだ。もう救いを求める声も消えて、星だけが元の儘である。ボウトは一線になって漕ぎ乍ら救助船を待っている。氷山は其処にも此処にも頭を見せて、その冷気が突き刺すように犇ひしと感じられる。この氷の間を擦り抜けて、救助船は近づき得るだろうか――良人を失った妻や父母と別れた子供が時どき思い出したように涕り泣く他、誰も一言も口も利く者はない。
 タイタニックのSOSを感受したのは地中海行きのカルパセア号が最初で五十八哩の距離、次ぎは独逸船 Frankfurt で百四十哩の彼方、これは問題にならない。タイタニックの姉妹船 Olympic 号からも応電があったが、五百六十哩も離れていては何うする事も出来ない。直ぐ傍にキャリフォルニアン号が居たのだが、皮肉にも前述の如くつんぼで盲目で、何の助けにもならなかった。
 第一の救助船カルパセア号が非常な危険を冒して水平線上に現れたのが午後三時半、救助を開始したのは四時少し過ぎだった。衝突から助けられる迄四時間のあいだの出来事だが、生存者には一生涯の夢のように長かったことだろう。
 別の記録には、タイタニックの犠牲者――船客八百十五人、乗組員六百八十八人。
 救助された者――船客五百四人、船員二百一人、とある。名士の死者は、本篇の冒頭に挙げた富豪連の他に、有名な作家でジャアナリストの Mr. W. T. Stead 大幹鉄道グランド・トランク社長ヘイズ氏―― Mr. C. M. Hays, the President of the Grand Trunk Railways ――其の他。
 最初倫敦と紐育に達した報知は区々まちまちで、且つ正反対の電報が同時に這入ったりして大いに魔誤付かせた。タイタニックは大西洋で氷山に衝突したが、船も人も全部無事だと言って来るかと思うと、直ぐ後から一人残らず死んだなどとも報告されて、火曜日の朝まで確かな事が判らなかった。その為め船客の親族や友人達が狂気のように白星汽船会社ホワイト・スター・ラインの事務所に押し掛けて大混乱を呈し、これが大部分種々あらぬ臆説を生む動機になったのだった。査問会は、英吉利では通商局が当ってマアセイ卿を裁判長に、亜米利加では上院議員スミス氏を委員長に上院委員会コミティ・オブ・セネイトが開かれて、長いあいだ世間の視聴を集めた。





底本:「世界怪奇実話※()」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
入力:A子
校正:林 幸雄
2010年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「てへん+発」    213-上18、231-下16、237-上14


●図書カード