土から手が

牧逸馬





 山のように材木を満載した貨物自動車の頂上に据わって、トニィ・フェルナンデは、キャリフォルニア州サンマテオ郡のソウヤー仮部落キャンプ街道を、仕事先から自宅を指して走らせていた。一九一九年、三月八日の午後である。
 毎日同じ道を往復しているので、其処らの樹木の多い、それでいて、殺風景な田舎の景色には飽きあきしていたが、その癖トニィは何時の間にかトラックの上から、道路の直ぐ傍に迫っている丘の裾、水が涸れて石ころの累々としている河床などに、何か些少な変化でもないものかと、観察的に見て過ぎる習慣となっていた。この時もそうで、トラックの荷物と一緒に揺られながら、退屈紛れに、あちこち眺めていた訳だが、そうして偶然、眼に留まったのだ。三十呎も離れていない河床の向う側に、人間の手が空に漂って、トニィ・フェルナンデを麾いているように見えた。ほんの一瞥である。自動車の速力が早いので、はっと思って振り返ったときはもう其の個処は可成り後方に流れ去って、草木の蔭に隠れてしまっていたが、白昼の幻影や何かとして片附ける可く、彼は「あの手」を余りに判然はっきりと見たのだった。しかし、人間の手が、ぽつんと空気に浮かんで――トニィは常識と闘いながら暫らく逡巡ためらった。
 河床は、二つの道路の間の、小さな渓谷の底に横たわっている。こっち側は、稀に貨物自動車でも通るだけの、私有のソウヤア仮部落キャンプ街道―― Sawyer Camp Road ――だが、向う側は相当人通りの多い半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイ―― Half Moon Bay Highway ――である。「手」の見えた河床の現場は、その半月湾国道の真下に、二十呎許りのところを、其処だけ鳥渡食い込んだように拡がっている個所で、直ぐ上の国道からは、余程身体を乗り出させて覗かなければ、見えないのだ。単なる通行人の眼には、決して這入らないのだった。その代り、此方のリウヤア仮部落街道からは、すこし高い所を平行している半月湾国道の下の河床が、対角線的によく見えて、斯うしてトニィ・フェルナンデが、あの「招く手」を発見したのだった。
「おい、ケェシィ! 停めろ。ちょっと返して呉れ」
 いきなり運転台の上から、トニィが呶鳴った。何事が起ったのか、と、運転手の Casey が狼狽てて制動機ブレイキを絞ると、トニィは突っ走るような声を弾ませて、
「手が見えたんだ。誰かの手だ。彼処の谷の底だよ。人は居ないのに、手だけ土中から生えてこっちを招いているんだ」
 勿論、ケェシィは相手にならない。
「だから、止せってえのに、あんな碌でもない酒をがぶ呑みするから悪いんだ。お前は酔っぱらっているんだよ」
 が、Tony Fernandez は狂人のように頑強に主張する。
「そうじゃない! そうじゃない! ほんとに手を見たんだ。あすこの籔の陰だ。すこし引っ返せば、見える」
 ケェシィはぶつぶつ言い乍ら、車を廻しにかかる。
 桑港サンフランシスコ警察司法主任ダンカン・マテスン氏――過去十五年間桑港の探偵捜査事務を統轄して目下同市収入役の現職に在る Mr. Duncan Matheson ――の卓上電話が消魂しく鳴り響いて、ここに計らずも近代の亜米利加に於ける最も有名な殺人事件の一つである「招く手の謎」が明るみへ繰り展げられることになった。顔色を変えたフェルナンデとケェシィの訴えに依って、聖マテオ郡 Mateo County の検察官兼警察医ポウル・シェリダン博士が現場に出張して、直ちに桑港の当局へ電話して来援を求めたのだ。半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイの山間の河床で発見された珍らしい美貌の婦人の屍体は、推定年齢二十五歳、一見して趣味の厳ましい、高価な、凝った服装をしている。着物は上等の紺サアジの上下、それに、青いリボンを巻いた印度頭巾タアバン風の、小さな洒落た帽子、安物でない毛皮の外套、黒い絹の靴下、踵の高い流行の靴、こういう場合、大概の女が死ぬと美人になることは西洋も同じだが、この女だけは正真正銘、稀に見る美人だった。
 あまりトニィの様子が真剣なので、後から冷やかしてやる心算で、ケェシィは自動車を返したのだったが、軈てトニィが狂的に指さす個処へ眼を遣ると、思わずケェシィは、身体が凍ったように停車して、ぽかんと口を開けてしまった。冗談でも、真昼の夢でもない。直ぐ向うの岩の重なった間から、白い裸かの腕が、真っすぐ空を指さすように突き出ていて、固くなった儘風に揺らいで、手招きしているように見えるのだ。観ようによっては、空に浮いているようにも、土から生えているようにも見えるのである。トニィ・フェルナンデは、この発見の時の観察を警官や新聞記者に述べて、斯う言っている。
“There was nobody there ―― just a hand, sticking out of the ground, waving at me!”
 偽らない、グロテスクな感想だ。不気味な予感に駆られて、二人は静かに自動車を降りる。谷を下って、水の乾いた河を横切って岩のかたまっているところへ近づいて行った。手だけが宙乗りしているのではない。全米の公衆にショックを与えるべき運命の、恐怖と秘密が其処に二人を待ち構えていたのだ。いや、屍体が手を上げて、その発見者を呼んだ、と言っていいのであろう。手――それは、若い美しい女の、真っ白な手だった。鳥渡した機みか、それとも天の配剤とでもいうのか、屍体は、岩の間に落ち込んでいて、少し離れると完全に見えなかったが、手は、まるで地面から生えたように、岩の上に突出していて、ああしてトニィの注意を捉え、それによってあのセンセイショナルな事件を呼び、引いては犯人の逮捕を見るに到ったのである。
 被害者の皮膚は、白くて、柔かい。顔も手も、手入れが往き届いていて、爪など、最近綺麗にマニキュアしてある。尠くとも中流以上の、室内的な静かな生活をしていたものであろう。シェリダン博士は、念入りに検屍を行ったが、其の結果は、上の半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイから二十呎の高さを墜落した際に受けたであろうと推測される数個の微小なる擦過傷が顔面に認められた丈けで、外傷としては、他に何ら死因と思為し得べきものを発見することは出来なかった。身許判明の手懸りになるような、財布、手提げ、指輪其の他の飾身具なども、屍体からも、再三の検証に係らず、何一つ現れない。こうなると、不思議ミステリイは多角的なものとなって、第一に、この女は何者か? 自殺か? 他殺か? 過失死か? その何れにせよ、何故死んだか、或いは、死ななければならなかったか。何うして――何処で――そして若し他殺なら、誰が殺したか? たった一つの「手」から、一度に沢山の問題が、警察と州民の前に投げ出された。が、あろうということは、初めから見当がついていたものの、ここに奇怪千万なことは、拳銃ピストル小刀ナイフのあとも、絞殺の痕跡も、凡そ何らの傷も外部には認められない事だった。前に言う通り、顔にちょっぴり引っ掻いたようなあとがある丈けなのだ。シェリダン博士と警官の一行は、一応屍体を最寄りの葬儀屋へ運んだ上で、より詳細に死因と身許の調査をしてみたが、肌着、下穿き等からは凡べて洗濯屋のマアクが切り取ってあるし、その他、特徴として身許の手掛りになるような物は一切剥脱してあるのである。実に、恐しい程の注意が、着衣の細部に亙って加えられているのだ。死因、適確な死の時間、それらを知る可く、必然的に解剖という段取りになる。検屍官W・A・ブルック立合い、聖マテオ駐在合衆国海兵隊軍医W・C・チャイデスタア少佐が翌朝執刀と決まった。
 すると、サンマテオのジョン・レノック巡査というのが、一つの報告を提げて現れて、捜査係官の注意を惹いた。屍体の発見されたのは、土曜日の午後だが、その十八時間前、金曜の夜のこと、巡廻の途にあったレノック巡査の後方から、一台の輝かしい高級自動車が追いついて、傍へ来ると徐行しながら、運転手が声を掛けた。
「何処かこの辺にホテルはないでしょうかね」
 レノック巡査が答えて、
「この道を行った処に、ホテル聖マテオというのが在ります」
「真っ直ぐですね?」
 訊き返した運転手へ頷首いて、レノック巡査が後部の座席を覗き込むと、男と女が疲れた態で腰掛けている。女は、何となく巡査の眼を避けて、低い、抑さえつけるような呻き声を上げているのだ。真夜中である。淋しい田舎道である。何んな瑣細なことでも、これは可怪しいと感じた以上看過しない警察官の第六感に従って、レノック巡査は運転手へ手を振って素早く自動車の踏み板ステッピングへ飛び乗っていた。
「そうだ。まっ直ぐやり給え、支配人が寝ているかも知れないから、一緒に行って起してやろう」
 ホテルへ行く途中、運転手は、エンジンの調子が面白くないから、朝出発する迄に直して置かなければならないと、問わず語りに巡査に話したりした。レノック巡査が先にホテルに這入って行って、支配人のロバート・マギを起す。女はホテルへ着いても非常な痛みを耐え忍んでいるかのように、歯を喰い縛って唸りつづけているのだ。男の隙を見て、巡査がそっと女の傍へ寄った。事情を訊いたり、また同伴つれの男が面白くない人物で何か訴えたいなら密かに其の機会を与えようとしたのだが、それでも女は、巡査を避けたい様子で、低声に叫んでいるだけだった。「B. Hoy 及び妻、サンノゼ市」と宿帳に署名して、男は女を連れて部屋へ上って行く。レノック巡査はもう用がないのでそれで帰って来たが、これが丁度午前三時だったという。この報告が捜査本部のサンマテオ署へ齎らされたのは、「招く手」の屍体が発見された翌土曜日の夜遅くのことで、その男こそ怪しいと本部は一時に色めき立った。レノック巡査の言う、顔を隠していた女の人品骨柄が、屍体とよく一致するのである。ホテル聖マテオへ駆けつけてマギ支配人について訊くと、その男女の泊った部屋は廊下を隔てて支配人の室の真向うだったが、女は朝の五時まで悲しげに泣き続けて、そのうちにぱったり止んで何の物音も聞えなくなったと思うと、もう出発した後で、支配人は、彼等が何時出たか知らなかったという。それきり帰らないとの話だ。


 この自動車の行衛を求めているうちに、翌朝解剖の結果が知れて、事件は、思わぬ方向を採るに到った。チャイデスタア軍医は、日曜日の午前九時に解剖を終ったが、それによって、この加州の歴史に類を見ない大捜査が一層白熱的なものとなって、聖マテオ郡は勿論、近接各市の警察を狂奔させる事になったと言うのは、女は、非合法手術の結果死んだというのである。しかも、老練な産婦人科医の手によるもので、手術後間もなく絶命したものに相違ないとある。手術を誤まったのが原因だが、その時直ちに大規模に応急手当をすれば、一命を助けることは容易だった筈だと軍医は明言した。
「手術の際の鳥渡した医者の手違いで死んだのだ。しかし、其の手違いは、最も老巧な医師でさえ時として避け得ない性質のものである。手違いというよりも過失と言ったほうがいいかも知れないが、それだけ被手術者の女に与えた驚愕と苦痛は大きかったことだろう。疑いもなくそのために死んだのである。が、助けようと思えば、簡単に助けることが出来たのだ。ところが、それには病院へ担ぎ込まなければならない。その医師も、そのことはよく知っていたにきまっているが、彼は曝露の危険を冒して患者の命を救おうとするよりは、むしろ抛擲して死に到らしめたのである」
 何という非人間的な、何という人命への無関心――公衆の恐怖と怒りは新たに白熱化して、同時に、其の筋は、この智的な犯罪者に対して倍の活溌さをもって捜査を開始し出した。
 チャイデスタア軍医の鑑定によれば、死後三十六時間を経過しているとある。そうすると、金曜日の夜に死んだものと考えることが出来る。三月七日、金曜日、夜。
 手術の際麻酔剤を用いた痕跡があった。それは、腸の内部が洗ったように綺麗だったことと女の下腹部内臓に加えられた創傷は、薬物による昏睡状態に在るのでなければ、何人も決して耐え忍ぶことの出来ない程度の非道いものだったからである。この、麻酔剤を使ったということをよく記憶して置かなければならない。これが後で一つの重大な点になったのである。
 最後に、チャイデスタア軍医は結論して、
「屍体は、手術の現場から二、三哩運んだに過ぎない。内臓内に凝結した血の量と状況でこう推断し得る」
 身体捜査という第一の難関にぶつかって、聖マテオ郡当局は桑港警察の積極的援助を求めたものだった。そこで、警察部長ホワイト氏とマテスン司法主任とが相談して、ホワイト氏自身選抜きの刑事数名を引率してサン・マテオ郡へ出張する。新聞は既に事件の各方面からスポットライトを集中して、探訪記者は報道の破片を掴んで右往左往する。関係のある人物、場所物品などはすべて写真に撮られて大々的に掲載される。こういう騒ぎの好きな亜米利加の公衆は爪立ちして進展を凝視している情態だった。まだ女が何処の何者とも知れないのが、この場合、興味センセイションを煽った最大の原因だったと言える。解剖後の屍体に、発見当時の通りに着物を着せて、それを写真にとった。新聞社の画家が、その乾板に修正を加え、生きている時の感じを与えて連日紙上に発表して、心当りのものを求めている。一方、着衣、所持品等の詳細な記述も、それに伴って毎日紙面に現れた。
 帽子――印度頭巾タアバンのような黒い麦藁。青い打紐ブレイドのリボンが巻いてある。多色の貝細工飾りピン。
 外套――紺色ポリヴィア地の裾長きもの。ラグラン袖、ゆるやかな仕立てにて、同じ材料の帯。背後に、布を被せたる扣鈕が二列。青い仏蘭西絹の裏。
 着物――上衣と洋袴スカアトに別れたる高級の紺サアジ。スカアトは下が朝顔形に開いて、上着の両傍に各一個のポケット。襟は藤色フェルトのカラアで飾られ、前と背ろに襞が取ってあって、胸元は長い二列の扣鈕で止めてある。低い襟。総体にゆったりした作りで、下めに帯を廻し、前面に黒い大きな留金バックルが附いている。
 身体及び人相――身長、五呎四吋。体重、百二十封度。推定年齢二十五歳。明碧色の眼、薄き鳶いろの毛髪。繊細にして手入れの往き届きたる手。
 特徴――別に無し。強いて言えば、この頗る形好き、美しき手ならんか。
 土から生えて、トニィ・フェルナンデを招き寄せ、斯うして事件を社会の脚下燈へ引き出したのが、此の「頗る形よき美しき手」だったのだ。ちょいと因縁話になる。
 三月十二日に、屍体は桑港の変死人収容所へ移されて、身許判明の手懸りにもと一般人に公示することになった。捜査の根底を確立する意味で、これが唯一の望みだったのである。聖マテオでも心当りの者に屍骸を見せたのだが、桑港では数千人が、屍体置場へ押し寄せる騒ぎになった。大評判になっている若い女の屍体である。好奇な人間がわいわい詰め掛けて、一日中引きも切らず野次馬の河が屍体の前を流れた。巡査が出張って厳重に警戒し、群集を整理している。大変な混雑。
 新聞は盛んに書き立てる。「手の美しい女の秘密ミステリイ」というのが、ジャアナリズムがこの事件に与えた命名で、実際この「手」だけでも、女を識っている人が見たら一眼で何処の誰と判りそうなものだというのだ。
 まるで支那の女のような指をしていたと言われている。支那の女の指というのは、何んなのか知らないが、兎に角、先の次第に細い、恐しく長い、作り物のような綺麗な指だった。爪だけ見るとさながら子供の手のように小さくて、指先は工芸品か何ぞのように実に見事に整っているのである。小指など普通の鉛筆よりもずっと細く、殊に小指の爪は象牙細工と言ってもよかった。皮膚は白く、柔かで、勿論念入りに掃爪術マニキュアを施している。強烈な塗磨剤ポリッシュのあとが、未だ爪に残っていた。
 その間にも、桑港の当局は、聖マテオ警察及び州検事局と協力し、ホワイト部長、司法主任ダンカン・マテスン氏等を捜査本部の主脳に据えて、被害者の女の身許を突き留めることと、犯人――これが非合法手術を施行した産科医であろうと言うのだ――の検挙に全能力を動かして狂奔している。
 刑事の総動員。キャリフォルニア並びに隣接諸州に於ける年齢の該当する家出女の調査。徒らに日が経って行く。
 半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイの現場を中心に、附近数哩の原野、密林を、何か証拠になるようなものを落して行っていないかと、文字通り草を分け石を起して探査したが、一の手懸りも得られない。女のボリヴィアの外套は、百弗から三百弗する鳥渡高価なもので、そうざらに誰もが着ている物ではないから、それなら、売った者が記憶えているだろう。それに、田舎の店には無い品で桑港でも一、二流の商店以外には扱っていないから探り易いというので、そのボリヴィアの外套を持って刑事達が、桑港オウクランド市などの名ある婦人洋服店を廻り歩いたものである。一方では、屍体の歯のX光線写真を撮った。その歯科医療の状態と入れ歯の特徴を詳細にラジオで放送し、各紙に掲載して、こういう患者を手がけた覚えのある歯科医の名乗り出るのを待っている。レノック巡査によって語られ、ホテル支配人ロバアト・マギが確認した、深夜の聖マテオ・ホテルに現れたという一対の怪しい男女が、取り敢えずこの大捜査の対象となっていることは、言うまでもない。彼等がホテルを出た時刻と、被害者の女の絶命した推定時間とが、大体一致するのである。桑港警察から、ホワイト氏の部下フランク・マコネル、チャアルス・ギアリヴァン、ミクル・ミシェル、ジャック・フロイド、この四人の刑事が出動して、専心この方面に当っているのだが――すると、ホテル聖マテオへ出掛けて行って、その、始終呻いていた女と、挙動不振の男の同伴者とが、真夜中に来て二、三時間休んだという部屋を検分している時、鏡箪笥ビュロウの抽斗の奥に突っ込んであるのをフランク・マコネル刑事が見つけ出したのだ。血だらけの安楽椅子のクッション覆いカバアと、同じく血に染んだ敷布シイツとである。もうこれで、一組の男女が、間違いなく被、加害者と決ったようなもので――苦痛に唸っている若い女――血――何者とも知れない男――午前三時――崖下の屍体――と斯う並べて来ると、事件の連鎖がくっきり浮き立ってきて、新聞はこの、「夜の同伴者」の男と其の自動車へ一斉に公衆の注意を向ける。レノック巡査、マギ支配人、その他ホテルの使用人達の口から、何んな男だったか、どういう自動車に乗っていたかは、大略判っているから、それを根拠に、刑事の一隊は、ガレイジと給油所サアヴィス・ステイションを問い歩いて必死に自動車の男の行衛を求めている。ところが、その時ホテルを出たきり、糸が切れたように曉闇のなかにふっつり消息が絶えているのだが、何うやら桑港のほうへ向けて疾駆し去ったらしいというのである。マギ支配人もレノック巡査も、自動車の種類は解っていない。ただ、「高価な大型のリモジン」という丈けだ。リモジン車というのは運転台と後部の車室とが完全に別れた、或いは其の間に劃壁パアテションのある、純都会シティ用、社交用の、第一公式的な高級車だ。趣味の八釜しい上流の人か、老人の乗る車である。そこで、問題の紳士の人相は、と言うと、背が高く、面長で大きな、がっしりした立派な顔をしていたとある。服装などもちゃんとしていて、黒のソフト帽を被り、黒い長い外套を着ていた。これだけ聞いたところでも、如何にもリモジンを乗り廻しそうな人物なのである。ホテルへ行く前でも、ホテルを出てからでもいい。このリモジンの行動を掴まえなくてはと、刑事隊が、半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイに沿う民家の一つひとつに即いて訊いて歩いた末、やっと拾い上げた唯一のレポウトというのは国道をホテルと反対の方向にすこし下ったところに、アンクル・タムス・キャビンという看板を掲げた郊外料理店ロウド・ハウスがある。兇行の夜の十二時過ぎに、それと覚しき一台のリモジンが前を通るのを見たというのだ。車室燈ルウム・ランプは暗かったが、確かに男と女が乗っていたと言う。勿論その自動車に相違ないが、これだけでは何の役にも立たない。
 発見の日から、もう六日というものが経過している。
 桑港の屍体公示所では、毎日数百の人――この大部分は女だった――が、一方の入口から出口へと、順々に死人の顔を覗いては、調べ革のように流れ動いている。
 この首実検にも徒らに閑人が押し掛けるばかりで、何ら目的とする身許判明の手懸りは得られそうもないので、もう屍体公示を打ち切ろうということになっていたのだが、すると六日目の三月十四日、金曜日の朝のことである。桑港中央警察署セントラル・ステイションのクレアランス・ボウマス刑事というのが、友人ニコラス・オグリフと伴れ立って其の屍体見物の列に加わっていた。彼らの番が来て、その、硝子ガラスの寝棺に納まった女の屍体の前に立った時、オグリフは棺の上に蹲踞み込んで暫らく死人の顔を眺めていたが、軈てそっとボウマス刑事の袖を引いて、静かに言った。
「そうだ。これはあの女だ。あの女に相違ない。が、念のために、女の弟を呼んで来て見せましょう」


 低声だったから、周囲の誰にも聞えず、群集は気が付かなかったが、この時始めて、此の有名な殺人事件の上に、既に解決の曙光が見えて来たのだった。
 間もなくクレアランス・ボウマス刑事とニコラス・オグリフは、その女の弟というのを伴れて屍体公示所へ引き返して来た。弟は、一般公示に混って屍骸を見せられたのだが、その場では、人の眼に付く程の驚愕の風は示さなかった。が、直ちに、屍体監理官のジョン・ケネディ博士に面会を求めて、
「これは確かに私の姉です。斯うしてわいわい見物人が詰め掛けて曝しものにされているのは耐りません。今すぐこの公示所を閉めて下さい。そして、屍体を私にげて下さい。葬儀会社の手へ移して早速葬式の準備をしたいと思います」
 午後二時に、群集は追い出されて公示所のドアが締められ、大きな掲示が張り出された。――
“No entrance. The body has been identitied.”
 額部に古い、微かな傷のあるのは、幼い時鞦韆ブランコから落ちた痕だと言う。頸にも、少女の頃に鳥渡した腫物を切ったあとが残っていて、ニコラス・オグリフと弟の証言は疑いもないのだ。
 女の身許は、判明した。アイネ・エリザベス・リィド Inez Elizabeth Reed といって、赤十字の看護婦である。
 平和克復の直後だ。世界大戦の昂奮は、まだ真っ赤な余燼として燃え残っている。燃え盛っている。街頭は、海の向うからの帰還兵ドウ・ボウイで一ぱいだ。帰って来た兵士等を待っていたものは、空虚なる名誉と、光栄ある失業だけである。出征の時のウイルスン大統領の保証は、こうではなかった。言質は何処へ行った? 約束が違う!――というので、合衆国各地の主要都市に於て毎日、仏蘭西の戦線を持越したような帰還兵の暴動が繰り返されている最中だ。この時、この美しい被害者が、大戦と生なましい関係のある、政府の病院班に現務中の赤十字看護婦だという意外な展開は、公衆パブリックの関心を倍加させ、弥が上にセンセイションを唆るに充分だった。報道価値ニュース・ヴァリウ百パセントあって、新聞は一層騒ぎ立てる。雑談はこのアイネ・リィド殺しで持切りだ。凡ゆる人が色んな素人考えやら、叱咤鞭韃やら聞込みやらを、御参考にまでと警察へ持込んで来る。制度の上でも一般の観念でも、そして、好い意味へも、悪い方面へも、民衆警察として徹底している亜米利加のことだ。日本とは大分考え方が違っていて、警察は怖いところではない。都会生活者の共同出資による番犬位いにしか心得ていないのだから、皆この警察の激励、忠告ということをやる。手紙、電話、電報、訪問。これが引きも切らない有様で、ホワイト部長とマテスン主任は、応接に暇もなく、すっかり悩まされてしまう。が、そのうちに、アイネ・リィドに関する各方面の材料が続々揃って、彼女の過去は、完全に近く捜査本部の知識となったが、それに依ると――。
 ミス・アイネ・リィド――二十八歳。加州コントラ・コスタ郡アンチョウク町の生れ。Antiok, Contra Costa County, California. 姉と弟が二人あったが、母が早く死に、父は男の子を育てるのに手一杯だったので、アイネは、加州オウクランドのフレッド・フィンチ孤児院に入れられて其処で成長した。十八の時、そのオウクランド市のメリット病院へ看護婦見習に住み込んだが、静かな愛らしい性格で、服装なども何時も気が利いていて趣味も好く、人を惹きつける茶褐色の大きな眼をしていた。みんなに可愛がられて、院内の人気者だった。賞与まで取って試験を通り、一人前の看護婦に資格づけられたのだった。合衆国が大戦に参加すると、従姉と一緒に志願して、一九一八年一月二十三日に赤十字へ編入され、四月十日に、桑港の陸軍附属レタマン・ジェネラル病院勤務を命じられたが、同年秋、例の西班牙風邪が亜米利加中西部を席捲した時、アイネは抜擢されてキャンザス州フォウト・ライリィ Fort Riley, Kansas の陸軍根拠地病院に転勤することとなり、仏蘭西の戦線へ一足でも近いというので彼女は勇躍して、十月十三日に任地に着いた。それからずっと同病院に働いて来て、一九一九年の二月十九日に、四、五日休暇で附近の、キャンザス市へ遊びに行くと言って出掛けたきり、爾来行衛不明になっていたものである。
 そこで、そのフォウト・ライリィの陸軍病院を出てからのアイネ・リィドの足取りを拾ってみる。
 オウクランドに、看護婦修業時代の友人でアグネス・ワットというのが居て、このアグネスの許へ、遊びに行きたいから金を送って呉れとアイネから言って来たので、アグネスが、病院が休暇になる前に送金してやると、其の金でアイネは、二月二十二日にこのオウクランドのアグネス・ワットの家へやって来たのだった。つまり彼女は、郊外の病院から一度キャンザス市へ出たのだが、其処にいた訳ではなく、斯うして直ぐ西部へ旅行に発ったのである。そして、オウクランドからフォウト・ライリィの病院へ打電して、二週間の追加休暇を願い出て許可を得ている。
 オウクランドでアイネは、親類や友達を訪ねて休暇を送っていたが、三月三日に、二、三日聖マテオにいる知人を訪問して来ると言って出発したのだ。その三月三日の夕方、サンマテオ行きの汽車へ乗るすこし前に、アイネは桑港へ出て、結婚している弟フランク・リィドの家で晩飯を緒にしている。その席でも、アイネはしきりに、「これから半島へ下るのだ」と言っていたが、この「半島へ下る」という言葉は、此の辺では「聖マテオへ行く」を意味する。弟フランク・リィドの妻エリザベス・リィドは、其の時のことをダンカン・マテスン氏に話して、
「義姉が最後に宅を訪れましたのは、一週前の月曜日、三月三日で御座いました。一緒に食事を致しましたが、今夜半島の友達のところへ行くので此の週の終りまで会えないけれど、三月八日の土曜日には必ず帰って来るから、もう一度いっしょに御飯を食べようと約束しました。
 三週間程前から、休暇でオウクランドへ来ていて、この桑港へも始終やってきましたが、何ですか、身体の工合いが面白くないから病院の方は、無理をしても休めるだけ休む心算だと申しておりました。何か仔細わけがありそうでしたけれど、義姉は何時も私には詳しいことは言いませんし、私も訊かないようにしていました。良人たくも、姉の様子が変だ、何か心配事があるとみえていつものように元気がないと言っていましたが、私達夫婦は別に、それ以上気に掛けませんでした。
 この月曜日にフォウト・ライリィへ出発する筈だったので御座います。休暇期間の最後の日が迫っておりますので、その日にオウクランドを出て、やっと間に合うとの話しで御座いました。
 ところが、食事の約束をした土曜日の夕暮れになっても顔を見せません、で私はこれはてっきり急に旅程を更えて真っ直ぐフォウト・ライリィへ帰ったのだろう。聖マテオ滞在が予定以上に長引いて、桑港へ寄るひまがなかったに相違ない。いずれそのうちフォウト・ライリィから手紙で何とか言って来るであろうと、それきり自然に義姉アイネのことは、私の頭から去っていたので御座います。
 すると、アイネがフォウト・ライリィへ帰る筈の日だったこの月曜日です。エギザミナア紙を見ますと、半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイの恐しい事件の記事がています。服装や人相が似ていますので気に掛って耐りませんでしたが、良人たくが、姉の身の上にそんな変事が起るはずはないから別人に決っていると申しますので、其の儘気に留めないようにしておりましたけれど、私の疑念は日増しに進んで、金曜日には思い切って自分で屍体公示所へ出掛けて行って見て来る心算でおりました。ところが、金曜日の朝、その事で私と良人とが相談しておりますと、矢張り新聞記事を見て気になってならないと言って、オウクランドに住んでいる知りあいのニコラス・オグリフさんが、お見えになりました。そこで、オグリフさんに頼んで、お友達の刑事の方と一緒に下見に行って戴いたのです。確かに姉ということが判って、お二人が迎いに引っ返して来られたので、良人と直ぐ駈けつけた訳でした」
 美しき手の持主アイネ・エリザベス・リィドの身許は、斯うして鑑別アイデンテツアイされたのだった。
 戦時中、亜米利加の警察には、主として外国人の犯罪を扱い、及び憲兵隊と呼応して敵国の密偵に備えるために、特捜課とでも謂う可き一部門が出来ていた。差当った仕事はなくても先ず遊撃といった役割りで、これが此の事件に力を藉して活躍することになったのだが、その他、被害者が赤十字の看護婦と判って、憲兵隊も乗り出して来る。パアカア憲兵大佐がオウクランド市のレタマン陸軍病院時代のアイネ・リィドの性行、知人関係等を詳細に調査してジョン・F・モリスン少将に報告することになる。少将は、桑港、オウクランド、聖マテオ附近一帯の第九連隊区長官だった。
 捜査本部、特捜課、憲兵隊、この三つが秘密裡に協力して、キャンザス州フォウト・ライリィへもアイネの平常に就いて探査の手が伸びている。桑港警察部長ホワイト氏が此の時声明書を発して、
「若し必要とあらば、部員の全部を挙げてこのリィド事件に投ずるをも辞せない覚悟である。非合法手術を誤まり、助けんとの意思さえあらば助くることを得たに係らず何ら応急の処置を講ぜず、苦悶裡に放置してみすみす死に到らしめたる本事件の如きは、その人命の軽視と言い、犯人が職業的専門家なる点よりするも、実に州の歴史に比類を見ざる最も非人道にして憎む可き犯罪であると言わねばならぬ。本官は凡ゆる努力を払って被害者の死に復仇せんことを誓うものである」
 さて、捜査本部の意見は、二つに分れていた。第一は直接法とでも謂う可き往き方で、アイネ・リィドに問題の非合法手術を施し、その結果悶死するのを冷然と眺めて、犯跡を隠すために屍体を潅木と岩の谷間へ投げ落して逃亡したのは、誰か? 何処の何という医師?――かと直ちにこの犯人を求めようとするものと、もう一つは、究極の目的は同じだが、間接法であって、先ず、未婚の彼女を妊娠させた情夫を突き留め、男を通して責任者の医師を捜し出そうというのだ。が、自然この方の調査が進捗して来ると、アイネと交渉のあった病院の軍医達や、入院していた士官などが、痛くない腹を探られることになったり、飛んでもない評判の的にされたりして、中には、思わぬ迷惑を蒙むる者も出て来た。レタマンとフォウト・ライリィで十幾人の若い軍医や将校が其の私行を洗われたが、妙な副産物がとび出して苦笑するなど、大分みな頭を掻いたものだった。その一例はフォウト・ライリィ勤務のスミス少佐である。オウクランドの親戚の家に残してあったアイネの所持品を審べてみると、少佐の住所氏名を書きつけた紙片が出て来たので、フォウト・ライリィの少佐の所属部隊司令官に打電して少佐の素行調査を依頼する一方、オウクランドの郵便局に就いて、休暇中のアイネと少佐の間に電報、書留その他に依る重要な通信の交換があったか何うかと記録をめくってみたところが――スミス少佐がアイネへ打ったこんな電報が出て来た。
 Camp Funston, Kansas, March 2nd, 1919. To Miss Inez Elizabeth Reed, Oakland California.
 Amount wired you noon to-day. Advise train you arrive on. Smith.
「金、言って来ただけ今日正午電報為替で送った。乗って来る汽車を知らせよ」というのだ。
 この事実は、新聞が拾い上げて直ぐ一般の騒ぎになった。妻子のある将校と赤十字看護婦の情事。妊娠。堕胎、軍紀の頽廃――と言う訳で、すんでのことでスミス少佐は、アイネの恋人に、引いては其の死の共犯的責任者にされるところだった。金は、七十五弗送ったので、その書類なども新聞記者が郵便局から探し出して来て大きな写真にして掲載したりしたが、これは月給の前借りだったとも言うし、少佐が保管していたアイネの貯金の一部だともいわれている。しかし、そんな説明は新聞にとってはちっとも面白くない。ここは何うあっても少佐が怪しいことになって貰わなくてはと、各紙筆を揃えてじゃんじゃん書き立てたから、弱ったのは少佐殿だ。そんなことはないでありますなんかと、赤くなって弁解したって、公衆の激昂の声に消されて聞えやしない。いや、躍気になればなる程変になって、上官からは審べられる。斯うなると何処も同じことで、細君は子供を伴れて実家へ逃げる。往生した。


「チャアリイ、僕は昨夜晩く迄役所に残って、このリィド事件の心臓ハートを掴もうと努めてみたのだ――」
 桑港の探偵局である。主任ダンカン・マテスン氏を中心に、捜査会議だ。現在桑港の交通部長として令名ある Charles Goff 警部が、当時まだマテスン氏部下の一介の刑事としてこの席に列している。
 マテスン氏は此のガフ刑事に向って、
「凡ゆる報告を継ぎ合わせて、その中に一つの大道を発見しようと考えてみたのだ。何うも僕は、憲兵隊をはじめ陸軍の連中は何時の間にか傍路へ外れているような気がしてならない。いいか、チャアリイ、事件を単純化して分解すると、この三つになる。第一聖マテオ市から遠くない半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイの崖下で、屍体が発見された。第二は、解剖の結果に依ると、堕胎手術を誤まった為め殺したもので、屍体は、比較的近い場処から運んで遺棄したのだと言う。第三、アイネは桑港を出る時に、『半島へ行って二、三日友達を訪問して来る』と弟夫婦に話している――この立場から、君は何という結論を引き出すかね」
「私の観るところは、あなたの観るところと同じです。からくりはサンマテオ市に潜んでいる。聖マテオ市から着手す可きです」
「そうだ。ガフ。聖マテオ市こそは、この事件の中心なので、早い話しが、その町の何処かにアイネ・リィドが非合法の無茶な手術を受けた家がなければならない。そして、其の家には、何か動かない証拠があるに相違ない。眼ざす医者は、そこに隠れている! 看護婦も居るかも知れない――」
 しかし、聖マテオで新たに捜査を起すとして、その手懸りは何か? 静かな住宅街の自宅で紹介だけで患者を診ているような高級の開業医か。裏町のアパアトメントの一室に眼に付かない看板を出している貧民相手の小さな医者か。企業的な大規模の病院か。下町の診療所か。施療院か。養生所サニテリアムか。
 ガフ刑事が、顔を上げた。
「私に鳥渡考えがあるんですが――」
 が、マテスン主任は続けて、
「それから、斯ういう事実を考慮に入れることを忘れてはならない。アイネは、弟の家から真っ直ぐにサン・マテオへ発ったのだ。しかも、夜汽車で行っている。これで見ると、その時既にアイネは其の医者と約束が出来ていたのだ。恐らく、誰か駅へ迎えに出ているぐらいの申合わせは付いていたかも知れない。ところが、今度休暇を取って西部へ来てから、それまでアイネは一度も聖マテオへ行ってはいないのだ。ということは、ガフ君、何を意味していると思う?」
「最後にサン・マテオへ発つ以前に、在桑港の医者を通じて、すっかり話しが出来ていたものと解釈されますね」
「その通り! が、それは二人の別な医者であってもいいと同じに、一人のおなじ医者であることも、妨げない訳だ。兎に角、桑港の医者で、聖マテオに住んでいるか、分院のようなものでも持っているか、養生院を経営しているか、それとも、患者を紹介し合う程の共営的な友人関係の他の医者がサンマテオにいるか――つまり、桑港の医者で、何か聖マテオに関係のある者を洗い出すことが急所なのだ」
 ところが、桑港の医師で聖マテオから通っている人だけでも、尠くないのである。そこで、マテスン氏とガフ刑事は、桑港とサン・マテオと二手に分れて、両方から当ってみることにした。即ち、ガフ刑事は聖マテオへ出掛けて、病院や施療所を泳ぎ廻る。社会的に信用のある医師について、同市に於て何かの意味で余り評判の好くない医者の総表を作り上げる。その間、マテスン氏は桑港を受持って、全市の如何わしい医師の中から、何らかの点で聖マテオとつながりのある者を掘り返して往く。斯うして両方の調査を照らし合わせば、其処から必ず何か出て来そうだと言うのである。まだ誰も手を付けていない角度だけに、事実それは唯一の有望な方法に相違ないのだ。
 新聞記者は勿論、捜査本部内にも厳秘のうちに早速着手する。
 このチャアルス・ガフ刑事の精力と、忍耐は信頼に値いするものとされている。桑港の支那街に起ったムウネイ事件をあっさり片附けて名を売ったのも、この人だった。果して、聖マテオに於けるガフの活躍は眼覚ましかったと言っていい。乗り込むと直ぐ、地方検事総長スワアート氏に会って、郡医師会の役員をしている同市の開業医H・ストックマン博士への紹介状を得た。が、博士のところへ駈けつける前に、ガフは、聖マテオの職業別電話帳を借り受けて聖マテオ市内外の他の医師の住処氏名を全部書き取っている。この表をストックマン博士の許へ持って行って、一人ひとりに就いて其の人格、風評等を話して貰う。そして、公私とも立派な医者として博士が折紙をつけた五人へ印を打ち、反対に、さあ、この人は何うもと首を捻ったのへも鉛筆でしるしを附けて置いて、次ぎにガフは、その善玉の五人を順に訪問して個々の悪玉の評判を訊いて歩いた。斯うして五人の独立した意見を参照して、悪玉の中から悪玉を選び最後に最も印しの重なった二、三人へ眼をつけようというのだ。ところで、その五人の善玉の三人目に、マッキントン博士というのがあった。午後の三時頃、ガフがこのマッキントン博士の診察室に現れて、来意を告げた後、例の医師表を拡げて何人かの悪玉の個別評を聞き出そうとしていると、マッキントン博士は急に思い出したように、
「実は、鳥渡変な話しを聞いています。お役に立つか、何うか、とにかくおはなししましょう。この聖マテオのハイランドアヴェニウに、私の妻の妹が住んでいます。それが、四、五日前遊びに来て言いますには――」
 そのハイランド街を妹の家から一町程下った一軒の建物に、この頃、白い制服を着た看護婦の姿が見える。妹はよく其の前を通るのだが、急にちょいちょい看護婦を見かけるようになって、妙に感じたという訳は、その家は所有主が変ったらしく、最近空家になった許りなのである。新たに其処に療養所でも開かれたのかしら――マッキントン博士の妹は、そう思ったと言う。
 博士の話しはそれ丈けだったが、これが、新聞記者や刑事の所謂第六感というやつだろう。何かしらぴいんと来るものを感じたガフは、直ぐその足で問題のハイランド・アヴェニウの家へタクシを乗りつける。番地は、マッキントン博士が知っていた。615 Highland Avenue.
 二階建ての、相当大きな住宅だ。階下の窓は、すっかり陽除けが引いてある。見たところ、何うも人の住んでいそうな様子はないのだ。呼鈴ベルを押して案内を乞うたが、何の返事もない。そこで、隣家の六二一番を叩いて訊いてみると、主婦のL・C・シュワイツア夫人という人が出て来て、この三月一日までボウン Mr. Born なる人が住んでいたが、一日の早朝何処かへ引っ越して行った。すると、その日の午後、四時頃に、二人の婦人がボウンを訪ねて来た。暫らく家の周囲を歩いて、あちこちドアや窓を叩いていたが、何処も鍵が掛っていて開かないので、その二人伴れの女は最後にシュワイツア夫人の許へ来て梯子を貸して呉れと言ったという。がシュワイツア夫人が、貸していいものか何うかと迷っているうちに、一人の婦人が、階下の浴室の窓が錠が下りていないのを発見して、二人で其処から這い込んで行ったというのだ。斯う聞いてみると穏かでないが、その時シュワイツア夫人の受けた印象は、その二人の女は何かの手違いで自分の家から締め出しを食わされた様子で、這入れないので困りながら噪気ぎ切っている。むしろ面白がって大騒ぎをしている風だったから、シュワイツア夫人も深く気に留めなかったのだった。その後一週間程のあいだ、引き続いて隣りの六一五番に人の気配がするのをシュワイツア夫人は時どき認めたと言っている。が、近処との交際など真平御免といったように階下は、窓も窓掛けも始終閉ざし切りで、僅かに二階の窓が開いているので依然人の住んで居るらしいことを知る丈けだった。シュワイツア夫人は、これ以外隣家については、何も知らないのである。ただ、何うも此の六一五番という家が臭い――チャアルス・ガフ刑事は、しきりにそんな気がして、再び其の玄関へ引っ返して扉の工合いなどを調べていると、ふと眼に留まったのだ。
 石段の上の入口敷物ドア・マットの下に、瓦斯会社の請求書が挟めてある。集金人が留守に来て、其処へ押し込んで行ったのだろう、引き出して見ると、F・フランシス夫人―― Mrs. F. Frances ――という人に対して瓦斯ガス料金の支払を求めているのだ。勇躍したガフ刑事は、其の場から直ちに瓦斯会社へ飛んで、成程三月三日附けをもってハイランド街六一五番のF・フランシス夫人なる人から、中二日置いた三月六日から瓦斯の供給を受け度い旨の申込が出ていることを発見した。
 会社の外線係ラインマンH・W・ジョンソンに会う。彼は確かに、三月五日、七日の両日に、そのハイランド街六一五番の家へ、休止してある瓦斯管を開きに行ったと語った。そして其の二度目、七日に行った時には、看護婦の白衣を着た女が取次ぎに出て、しかも、家中に強い麻酔剤のにおいがしていて、ジョンソンは尠からず変に思ったというのだ。“Like a hospital”――病院のような臭気だったと彼はガフ刑事に話した。
 有望だ。この糸は、もうすこし手繰ってみる価値がある。そう感じたガフは、「フランシス夫人」の署名のある瓦斯会社の申込書を借り受けて、その足で、直ぐ今度は水道会社へ出掛けて行った。
 今まで明いていた家へ移って来て、閉鎖してある瓦斯の開栓を申し込む位いなら、当然給水も受けなければならない。水道会社――亜米利加は水道も私営である――のほうは何うなっているだろうというのだ。
 水道会社では、桑港探偵局の刑事と聞いて、給水係監督フォアマン Al Bader が応接に出る。


 そのアル・ベェダアの話しでは、ハイランド街六一五の家には三月五日から水を供給したとある。矢張り申込書が来ていて、それには「F・デェヴィス夫人」―― Mrs. F. Davis ――と署名してあるのだ。前の瓦斯の分には「F・フランシス夫人」――この二つを比較してみると誰が見ても全く同一人の手蹟なのである。右に倒れた、細い、神経質らしい女の字。
 斯うなると、捜査の網は、刻一刻狭まって往く。
 アイネ殺しのすこし前に家が塞がって、事件後間もなく再び空家に返っている。病院のような薬品のにおい、白い服装の看護婦。F・フランシス夫人とF・デェヴィス夫人と、二つ名の女。
 ガフ刑事の報告で、ダンカン・マテスン主任と鑑識課長アドルフ・ジュエル氏とが聖マテオへ急行する。三人は窓を毀して其のハイランド街六一五の家へ這入り込んだ。
 第一印象として、大急ぎで家を明けたらしい形跡が、何処にでも見られることである。何もかも乱雑に散らかっていて、大分狼狽した様子が窺われるのだ。居間の煖炉に、灰と焼け残りの襤褸や書類様のものが堆高く積もって、引っ越す前に証拠物件を焼却したらしいあとも見られる。その中から、血を吸って重い脱脂綿の塊が、半焼けの儘出て来て、これがこの家の壁が沈黙の裡に目撃した事実を最も雄弁に、如実に物語っていると思われた。
 家中、何の部屋にも、到るところに煙草の吸殻が転がっている。赤封印レッドシール―― Red Seal という巻煙草だ。煙草盆、皿、ペン置き、コップ、床からストウヴの中まで、どこから何処までこの煙草だらけである。数百本の吸い殻だった。その他、机の端や窓枠や、絨毯の上などに、火のついたシガレットを置き放したり落したりした真新しい焼け跡が、彼処にも此処にも点々として残っている。近く何者かがこの家で、神経的な、焦慮と不安に駆られた時間を持ったに相違ないのだ。台所へ通ずる廊下の隅に、女の靴が一足置きざりになっていた。
 ジュエル鑑識課長は、家具、ドアの把手など、室内の凡ゆる滑面に指紋を求めたが、多少は現れても、写真にする程形の完全な、明瞭なものは出なかった。二階の寝室を調べると、一対の寝台の一つが、無くなっている。これは、問題の非合法手術が其の上で行われたであろうから、この、二つ揃っているべき筈のが紛失している寝台は、この際、「血のベッド」として異常な重大性を帯びて来るのだ。が、訳なく地下室で発見された。フレイムだけにして、壁に立て掛けてあった。他の物は塵埃だらけなのに、このベッド・フレイムばかりは、最近念入りに洗ったらしく綺麗になっている。それに、余り奥の方へ押し込んであるので却って注意を惹いて、明るいところへ担ぎ出して検べてみると、内側に、少しだが、赤黒い斑点を指摘し得た。ジェリィのような、新しい血の凝結である。もうこれで、此家が手術の、この場合では犯罪の、現場であることは疑う可くもないのだが、真実ほんとうの大仕事はそれからだというのは、未だ、一時この家を借りた医師が何者であるか、それがさっぱり見当が付いていない――マテスン氏とジュエル鑑識課長は其の儘桑港へ引き返してふたたびサンマテオに於けるガフ刑事の活動に移る。
 そして、前にも鳥渡出て来た地方検事長 Franklin K. Swart 氏が、ガフを助ける。
 加州大審院の判決例に依れば、堕胎手術の結果婦女を死に到らしめたる医師は、第二級の殺人に問う――法律上から観ると変な訳文だが、常識的に言って――とある。刑事はこの医者を単なる殺人犯として狩り出せばいいのだ。
 F・フランシス夫人とF・デェヴィス夫人と、二つの女の署名を考えてみる。明らかに同一人の筆である。ところで、多くの変名を有つ犯罪者は、得て同じ呼称を使う癖があるものだ。ジム・ブラック――ジム・ブラウン――ジム・スミス――そして実は、「ジム」が彼のほんとうの名前である場合が尠くない。理由は簡単だ。呼び名は概して一般的なものである以上、慣れた名を使って置くほうが便宜でもあり、曝露の危険もすくないからである。ところで、この二つの女の姓名を対照する。両方とも「夫人」であり、「F」で始まっている。おまけに、一つの姓は「フランシス」だ。すると、この Frances が姓ではなく、呼称であるとは仮装[#「仮装」はママ]出来ないだろうか。「フランシス某夫人」――この第一頭字のFを取って、二つの名に「F・フランシス夫人――F・デェヴィス夫人」と突嗟に思い付いて書いたものと考えることは果して遠いであろうか。兎に角、看護婦は凡べて州別名簿に登記してある。その中から探して往くと、「フランシス何なに夫人」というのが三人載っている。この三人の看護婦の写真を手に入れて、問題の家の隣家の主婦、ハイランド街六二一のシュワイツア夫人に見せると苦もなく、其のうちの一人を指して隣りの六一五番に見掛けた女であると言明した。その看護婦の名は、フランシス・メイスン夫人。Mrs. Frances Masen.
 猟場は縮まって行く。獲物は案外手近いところに潜んでいるらしい。
 すると茲に、聖マテオ 94 North First Street Paceecho という牛乳売りの少年が住んでいる。六一五番の台所に転がっていた牛乳の空壜から、ガフ刑事がこの少年を手繰り出して訊ねて行って、万が一にもという心持ちから、被害者アイネ・リィドの写真を見せたところが、エデイ・パセコが言うには、「この女」なら確かに「あの家」にいて、自分は「この女」に牛乳を売ったのだという。しかし、それも二日限りで、三日目に裏口の何時もの場処へ置いて来た壜は、何日経ってもその儘だったとある。思わぬ確証を得て雀躍りしたガフ刑事は、次ぎに六一五番に這入っていた荒物屋を突き留めて、アイネとフランシス・メイスン夫人と二人の写真を持って行って示すと、そこでは、はっきりとは記憶ていなかったが、何うやら、先頃一寸あの家に居た二人の女と一人の男の、「其の二人の女」らしいと言う。ここへ初めてひとりの医師の名が出て来たというのは、
「男は、君達の識らない人でしたか」
 大した期待も持たずにガフが訊くと、
「いえ、男のほうは、医者のノウスカットさん―― Doctor Northcott ――でした」
 斯ういう返辞である。
 意外な好転に勢いを得て、桑港のマテスン氏の部下の中から、フレッド・ラットセイ、ウイリアム・ミリキャンの二刑事と、女巡査キャザリン・オコナアの三人がガフの応援にサン・マテオへ急行する。
 ノウスカット医師の専門的技術、信用程度、素行、婦人関係等に就いての調査報告も、本人が御存知ないうちに、立ちどころに一通りは揃う。早速ノウスカットにはミリキャン刑事、看護婦フランシス・メイスンには婦人巡査キャザリン・オコナアと、昼夜の別なく厳重な尾行がついている。捜査がここまで解れて来ると、鈍重な亜米利加の警察も、事務的には仲なか速いことをやる。
 医師ノウスカット。一八九四年、ミシガン大学医科卒業。一九一五年まで、キャリフォルニア州オウクランド市で開業し、傍ら同州カルファックス Calfax に独力療養所を経営す。失敗して、後プレイサア郡に移り、また間もなく桑港に出てホイットカム・ホテルの一室にて診療に従事す。程なく聖マテオ市 Santa. Inez Avenue に住み、同市の西部製糖会社ウエスタン・シュガア・リファイナリイの嘱託医をも兼ねている。二度結婚して、逮捕の時、妻はホイットカム・ホテルに残されていた。
 以前からちょくちょく非合法手術を手がけていて、昔オウクランド時代にもアンダスンなる女を矢張り堕胎を縮尻って殺した事実などが、嘗てノウスカットに雇われたことのあるエレン・フレイザアという看護婦の口から洩れて、これが直接の証拠になる。同時に桑港の医者でジャクスンという人が、アイネ・リィドの状態に就いてノウスカットから相談を受け、手術に立会いを求められて拒絶したことも判って、もうノウスカットの運命は決まった。
 今までは野放しにしてよそながら白眼んでいたのだが、何時迄も容赦はならない。
 聖マテオのウイスカッチル料理店で食事中のところを、ガフ、ラットセイ、ミリキャンの三刑事が踏み込んで、食卓から引っ立てて来る。
 秘密のうちに捜査を進めて来たので、世間は何時しか迷宮入りの一つとして早くも忘れ掛けていた時、不意にこの犯人捕縛である。周章てたのは新聞記者だ。暴動のようにマテスン氏の主任室へ雪崩れ込む。鉛筆の包囲、カメラの襲撃、その時出た新聞の特別版エキストラの見出しの一つに「赤十字美人看護婦の復讐成るビュウティフル・レッド・クロス・ガアル・アヴコンジド」などと、でかでかとやって自分とこで掴まえたように大見得を切っているのがある。何んな騒ぎだったか、そして又、協力的に、実は競争的に手を着けて、いま完全に警察に鼻を明かされた憲兵隊や軍部が、如何に口惜しがったか、想像が付こう。
 色の黒い、大柄なノウスカット。身長五呎七吋。体重百七十封度。綺麗に剃った、鋭い顔。写真で見ると、亜米利加人によくある容貌だ。大分着古した黒のトウィイドに黒いソフトを深く被って、眼が、酔漢のように赤い。多くの世間的経験と少しの良心を覗かせている血走った眼である。賭博者、智能犯、競馬狂などに見るどんよりと冷たい眼なのだ。何処かに羅典ラテンか、亜米利加土人の血がうっすらと混っていることを想わせる感じ。
 この、写真を撮ろうとして写真班の一隊が殺到すると、ノウスカットは、鳥渡英雄的に手を上げて制しながら、
「待ち給え。今頭髪を撫でつける」と、内隠しからポケット櫛を取り出して悠々と髪を分け直して、「後に残るものだからな、出来る丈け好い男に撮って呉れ」
 かちりと、カメラが鳴った。
「その写真代は何処で払うんです」
 ノウスカットは、洋袴ズボンのポケットへ手を突っ込んで、金を出す真似をして笑った。
代金ベイ現金係キャシュヤへ願います」写真班の一人が応酬した。
「いずれ裁判長の決める刑罰の形でね」
 これがノウスカットという人間だ。
 これより先、看護婦フランシス・メイスン夫人の告白で、ノウスカットの罪はすっかり判っていた。妊娠五個月のアイネ・リィドに非合法手術を依頼されたのである。引き受けたが、桑港では眼に付くというので、一時聖マテオのハイランド街にある家を借りて、フランシス・メイスンを雇って準備している。約束の日にアイネが来る。ところが、手術し損なって、アイネは大声に悲鳴を上げる。近処に聞えては大変だから、病院へ伴れて行くと騙して深夜自動車に乗せて、出鱈目に走り廻った。アイネは、耐ったものではない。余り苦しむので途中ちょっとホテル・聖マテオに立ち寄って休んだが、その時またいじくってみて、とても手に負えないと知るや、翌朝暗いうちにホテルを出て身許判明の手懸りになりそうな一切の所持品を奪い、下着のマアクまで注意深く切り取った後、半月湾国道ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイから谷間へ突き落したというのだ。飛んでもない医者があったもので、それで帰って来て、大至急後始末をし、血だらけの寝具やベッドを片附け、焼く物は焼いて証拠を堙滅すると、即座にこっそり家を空けてけろりとしていたものだ。桑港とサン・マテオに半々に隠れていた。
 葉巻を噛んでマテスン氏の前に据わる。と思うと、突然椅子を起って、室内を歩きまわっている。幾らか神経質になっているようでもあるが、大体保険会社の勧誘員が加入をすすめているように、平気どころか、大得意の態度だ。
 マテスン氏と一問一答をやっている。
「聖マテオの家は何うしたのです。何しにあんなところへ家を借りました」
「あの家を借りたのは確かに私です。御存じの通り、桑港では警察が五月蝿いですからねえ―― The police make it too hot for me in San Francisco, you know ――しかし、問題のアイネ殺しに就いては、否定もしません。肯定もしません。どうぞ沈黙を守らして下さい。終りまで沈黙を守る丈けです」
「告白書は私のほうに用意が出来ています。簡単に署名なすった方がお利益ためですよ、ノウスカットさん」
「そんなことをしようものなら、弁護士に叱られてしまう。私は法の権利の上に立っているのです。言う事があれば、弁護士がいいます」
「何か陳述することは――?」
「何とでも御自由に書いて置いて下さい。いずれ公判で弁護士から意見が出ることでしょう」
 フランシス・メイスンと対質して、ノウスカットの罪は一層動かないものになる。明白なる第二級殺人とあって、San Quentin 刑務所に十五年の懲役。
 刑が決定すると、彼はスワアト検事に他意ない微笑を送って、
「よく解っています。あなたは只正当な自分の務めを果したに過ぎない。私はあなたに対して些っとも怒ってなんかいません。誤解なさらないで下さい。二人は永遠に好印象の友達であり得るのです」
 サン・ケンティン服役中、牢死した。
 アイネと情関係のあった男は誰だったか、判っていない。





底本:「世界怪奇実話※()」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
※次の表記の混在は底本通りです。「ポリヴィア」「ボリヴィア」
入力:A子
校正:林 幸雄
2010年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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