従軍紀事

正岡子規




緒言


 国あり新聞なかるべからず。戦あり新聞記者なかるべからず。軍中新聞記者を入るるは一、二新聞のためにあらずして天下国家のためなり兵卒将校のためなり。新聞記者にして已に国家を益し兵士を利す乃ちこれを待遇するにまた相当の礼を以てすべきや論を竢たず。而してこれを日清戦争の実際に徴するに待遇の厚薄は各軍師団各兵站部へいたんぶに依りて一々相異なり、甲は以てこれを将校に準じ乙は以てこれを下士に準じ丙は以てこれを兵卒に準ず。果して将校に準ずべきか。兵卒を以てこれを待つ者は礼を知らざるのはなはだしきなり。果して兵卒に準ずべきか。将校を以てこれを待つ者は法をみだるの甚だしきなり。もし各自の随意に待遇する者とせんか。これ国家に規律なき者にして立憲政体の本意にあらざるなり。もし大本営一定の命令を下して各軍師団各兵站部等これを奉ぜざる者とせんか。これ軍隊に規律なき者にしてかくの如き軍隊は戦争に適せざるなり。
 第一軍の兵士は高粱コウリャンを喰ひ第二軍の兵士は佳肉に飽く。これ地理のしからしむる所なり。第一軍附の新聞記者は粱稈りょうかんに坐し第二軍附の新聞記者は石牀せきしょうに眠る。これ事情の然らしむる所なり。地理事情の然らしむる所これを待遇の厚薄と言ふべからず。もし佳肉に飽かしむべくしてかへつてこれに高粱を与へ石牀に眠らしむべくしてかへつてこれを粱稈に居らしめんか。此の如きは冷遇の極度といはざるを得ず。しかれども有形上の事は当時の事実にさかのぼりて論ぜざるべからざるを以て一々これを探究するのいとまなかるべし。もしその某将校の言ふ所「新聞記者は泥棒と思へ」「新聞記者は兵卒同様なり」等の語をしてその胸臆きょうおくよりでたりとせんか。これ冷遇に止まらずして侮辱なり。彼らは新聞記者を以て犬猫同様に思ふが故にこの侮辱ぶじょくの語を吐きたるものならん。しかれども新聞記者は軍中にありてこれを争ふの権利なきなりたとひ権利ありとするもこれを争ふことの不利なるは論を俟たず新聞記者は軍中にある限りは新聞のために国家のためにその怒を押へその辱を忍ばざるべからざるなり
 いにしえは官吏尊くして庶民卑しかりき。これ事実の上において然りしのみならず理論の上においてまたか思へりしなり。今は理論の上において官民に等差を附せずしかも事実の上においてなほ官尊民卑の余風を存す。租税を納むる者が郡区役所の小役人に叱られしはまさに昔日せきじつの一夢ならんとす。軍功を記して天下に表彰する従軍記者が将校下士の前に頓首とんしゅして食を乞ひ茶を乞ひただその怒気に触れんことを恐るるが如き事実の明治の今日に存せんとは誰も予想外なりしなるべし。官自ら以て尊しとするか官の驕傲きょうごう憎むべし。民自ら以て卑しとするか民の意気地なき真に笑ふにへたり。同くこれ国家の糧食なりしかも士卒は以て己れの有の如く思ひ従軍記者は以て他人の家に寄食するが如く感ず同じくこれ日本の国民なりしかも軍人は規律の厳粛称呼の整正を以て自ら任ず而して新聞記者を呼で新聞屋新聞屋といふ新聞記者また唯々としてその前に拝伏す軍人は自ら主人の如く思ひ従軍記者は自ら厄介者の如く感ず。感ずる者か感ぜしむる者か。かく感ずる者是ならばかく感ぜしむる者また是なるべし。かく感ずる者非ならばかく感ぜしむる者また非なるべし。新聞記者を遇するよろしく此の如くなるべきか。
 余は新聞記者を待つに相当の礼あらざるべからざるを信ず。しかれども何を以て相当と為すかはここに論述するを好まず。今はただその待遇を一にしこれを発表せんことを政府に希望する者なり。余はその参考に資せんがためにここに自ら経歴する所を叙述せんとす。故にその事実の已に往事に属したるを嫌はず。ただ今後におもんぱかる所あるなり。
 外に責むる者は内にかえりみざるべからず。従軍記者たる者自ら心にやましき所なきか。泥棒と呼ばしめ新聞屋と笑はしむる者果してこれが素を為す者なきか。この点において新聞記者の猛省を乞はざるべからざる者また少からず。しかれども論旨ここにあらざればあえて記さず。
〔『日本附録週報』明治29・1・13 一〕

海城丸船中


 余は昨年四月十日近衛師団司令部と共に海城丸に乗り込み宇品うじなを出発したり。部屋は下等室のたなの上にて兵卒と同じさまにもてなされぬ。余ら新聞記者画師神官僧侶通訳官は一団となりて棚の中部を占め一方には下士数名あり他の方には上等兵数名ありて余ら一団と相接せり。写真師一行もここに加はるはずなりしかども彼らは終に来らざりき。十日はただ混雑の中に暮れていまだ心も落ちつかぬ内に一人の肥えたる曹長は棚の下に来りて「棚の上の者は皆なここへ下りて列を作れ、新聞記者も通訳官も皆な下れ、上等兵も早く下れ、上等兵からぐづぐづして居つてはいかん、早く早く」と叫びぬ。余ら皆軍律にれねば驚き恐れて棚を飛び下り一列を作りたり。曹長は人数をけみして十人づつに分ちこれを第何班と名づけぬ。これは食事の組合を定むるなり。余は第六班に入りぬ。しかも不本意にも余ら新聞記者の内三、四名は端の方に並び居たるがために上等兵と同じ班に加へられぬ。なるべくは同業者皆同班に居りたしと歎きしかども聴かれざりき。
 その夜も夢おだやかならず明けぬ。十一日の朝より食事は各班の内の一人づつ炊事場に行て持て来るなり。上等兵はさすがに物の心を得たれば先づ己れ自ら進みて飯櫃めしびつなど抱え来たりしかば余らは彼らと共に車坐をなしてその飯を喰ひ終りぬ。小石の如き飯はあり余れども三椀と喰ふに堪えず。菜は味噌、梅干、佃煮の如き者一種にてそれさへ十人の食に足らず。昼飯には牛肉少しばかりを得ることあれどもし飯時に少し後れて室に帰れば残る所の者はただ飯あるのみ。茶さへもやうやうしたたるばかりに飲み尽しぬ。茶碗とはしとは一つづつ借り受けたるのみにて洗ふ事もなく殊に食事のたびに茶を飲み得ぬ事多かれば茶碗も箸もきたなき物がりがりと附きて不愉快言はんかたなし。
 十一日の事なりけん。いと恐ろしき声にて「皆順に詰めて、向ふへ詰めて、こんなに広く場所を取つて居つてはいかん、早く詰めんか」といふ言葉の枕辺に響きぬ。何事ならんと頭をもたげて見れば前の肥えたる曹長にはあらでひげのむさくるしき一人の曹長が余ら一行の居場を縮めよと命ずるなり。その音声その語調は牛頭馬頭ごずめずの鬼どもが餓鬼を叱るもかくやらんとばかりに思はれてなかなかに前の肥えたる曹長をやさしくぼえ初めぬ。余らの一行はさなくとも一人前畳一枚より狭き場所なれば詰めんにもむつかしくつや余りに頭ごなしの命令なれば皆あつけに取られてしばしためらひ居るにぞ髯むしや曹長はいよいよたけりだしぬ。「外が皆狭いのにここばかり広くするわけがない、早く詰めんか、早く早く………詰める事が出来んやうならここを出て行け」と叱りつけぬ。余らは親にも主にもかくはげしく叱られしことなければ余りのばかばかしさと恐ろしさにかへつて身動きもせず息を殺してひそみ居りぬ。されどもこの命令のために更に居場所を狭められて大方の荷物は皆天井につるし肩掛革包かたかけかばんを枕とし手を縮め足をすぼめて海鼠なまこの如く伏し居るほどに余の隣に起臥きがする騎兵の上等兵は甲板より帰りぬ。彼は余に向ひて「う少し向ふへよつてくれ給へ、それでは僕の寐る処がないから」とおとなしく叱られぬ。昨夜以来無闇むやみにこはげ立つたる余はこの言葉に驚きてあわてて片方へ寄りぬ。「ああ宜しい、それで善いです、この線よりこちらへ出ねば善いのです」と彼はやさしく言ひぬ。余は無念に堪えざりき。騎兵はもとより情ありてかく言ひたるものならん。余もまたあながちに騎兵を憎しとは思はず。しかれども一人の上等兵に如何にも恩着せらるるが如くやさしく言はるるやうな位置に居るを思へば覚えずむつとして腹立たしくなりぬ。
 かくて眠らんとは企てたれど身体窮屈にして如何いかんともしがたし。右に向かんとすれば人と荷物とにささへられて少しも動けず。左に向かんとすればまた騎兵に叱られんことを恐る。右におもんぱかり左に慮りてろくろくに夢さへ結ばず。
〔『日本』明治29・1・19 二〕

 ここに不思議なるは我らの仲間に交り居たる神官僧侶のいつしかに居らずなりし事なり。ただ如何せしやと思ひ居るほどに上等室に行き見れば食卓の後、即ち船の最後部にあたりて少し高くなりて円く卓を並べたる処に彼六人の神官僧侶の起臥きがするを見たり。よくよく聞けばこれぞ管理部長殿の取はからひとぞ聞えし。
 我ら仲間の一人は或る将校のもとにて新聞記者の取扱上の不平を述べ立てたり、将校いふ「それは君がわるいのサ、あれは有名なお太鼓サ、我ら仲間で名をいふ者はなくて皆太鼓太鼓と呼ぶ位ぢや、坊さんなんぞはたたきやうがうまいから徳をしたのだ、君らは敲かぬからわるいのだ」と言ひながらからからと笑ひぬ。それより我ら仲間にても太鼓といふ言葉は流行し始めたり。
 出帆後四日目か五日目の事なりけん食事当番のおはちは我らに廻りぬ。「今度は君の番です」と兵卒は気の毒さうに言ひぬ。今までは兵卒殿のおかげで三度の飯を喰ひし代りには今日は我らが兵卒殿の飯をも取りに行くなり。直ちに曹長のもとに行きて「飯の切符を下さい」と言へば曹長は仏頂面ぶっちょうづらにて「飯の切符はきまりの時間に取りに来ねばいかん」と言ひつつしぶしぶ渡しぬ。大事の切符をもろふて甲板に上り炊事場に行けば兵卒はあたりに満ち満ちて近よるべくもあらざりけり。この炊事場といふは二坪にも足らぬ処にて両方の入口は二尺ばかりあるべし。手桶ておけ薬缶抔やかんなどげたる人だち我も我もと押し掛くる事故ことゆえ我ら如き弱虫は餓鬼道の競争に負けてただしりごみするのみなれば何時飯を得べくとも見えざるにぞ思ひかねて甲板の右舷より大廻りして他の口に行けばここも同じ事なり。ついに肝玉を据ゑて立ち尽す事二十分ばかり群衆ことごとく散じて後やうやう炊事場に行き切符と引換に飯櫃と菜を抱え己の室に行きこれを同班の人に渡せし後再び炊事場に行きて湯を請へば薬缶一個も残らずとてことわられぬ。強ひて何物か与へよと言ふにやうやうつるのなき薬缶に湯をみて与へたり。この湯といふは居風呂すえぶろにて沸かすものながらそれだに早や汲み尽せしと覚えて底を払ひたり。やがて食事終れば再び飯櫃を抱えこれを炊事場に戻し置くなり。
 総じて世の中は与ふる者威張いばり与へらるる者下るの定則と見えてさすがの兵卒殿も船の中に居て船の飯を喰ふ間は炊事場の男どもの機嫌を取る故にや飯焚めしたきの威張るつらの憎さにも浮世は現金なり。
 我らの仲間は頭を集むるたびに不平を並べぬ。不平はいつも曹長の取扱に始まりてしまひに食事の上に及びぬ。部屋は上等室なければ仕方なし。食事ばかりは神官らと共に上等室にて喰はせても善ささうなものだと言へば皆さなりと答へぬ。局外の人これを聞かば如何にも口いやしき連中なりとぞ思はん。
 されども万事不自由なる従軍には何よりよりただ食事のみぞ唯一のたのしみなる。「君、管理部長の処へ行け、飯だけ上等室で喰ふやうに談判しろ」「イヤ君を代表者に撰ぶよ」「オラいやだ君行け」ことごとく譲り合ひぬ。誰一人行くものなし。如何に取扱が不平なりとてまさかに飯の事を彼是かれこれと口ぎたなく言ひ得べきにもあらねばそれももっともなり。
 茶碗と箸とは飯粒のかたまりつきて胸悪くなりし頃船は大連だいれん湾に着きぬ。三尺の天井にぐくまりたる我らはただ上陸せんことをのみ望みたれどもたやすくは許されず。一日二日経て後やうやく金州行を許されたれどもそれも新聞記者一群を半分づつ一日代りとし如何にも恩を着せられし如く命ぜられぬ。
 ちなみにいふ。我らとほとんど同時に宇品を出発せし第四師団附の新聞記者もしきりにその冷遇を憤り居れり。されども飯櫃を抱えて船の飯焚に叱られるほどの待遇を受けしことはなかりきと。
〔『日本附録週報』明治29・1・27 三〕

金州城内

子規子

 十五日柳樹屯に上陸し直ちに金州に入る。第二軍司令部附新聞記者の宿舎に一泊す。同司令部の新聞記者を優待すること将校に異ならずしかも普通の将校に比すればかへつて多少の自由を有する所なきにあらず。これをわれらの一行が受くる待遇に比すれば天地霄壌しょうじょうもただならざるなり。
 十六日海城丸に帰り十九日小蒸汽船にて旅順へおもむけり。大総督府附新聞記者は今ままさに上陸せんとする処なり。すなわち共に同新聞記者宿所に入る。坐床の設けなきの一事不完全なりといへども総ての待遇またわれらの近衛師団における比にあらず。営口に航せんと企てしかど兵站部の許可なくしてみぬ。今はこの地に用なければ同行者を促して二十三日柳樹屯へ帰りぬ。われらの金州または旅順にあるはあたかも花嫁の養父入に出かけたるが如く従つて同地より我師団に帰るは再び姑のもとに帰るが如き心地す。されば人々は旅順に留まりて容易に帰るべくもあらぬをわれらは故ありてここに居ることを好まねば無理に諸人を催して終に柳樹屯に帰りしなり。
 柳樹屯に帰れば近衛師団は上陸して金州地方に舎営せりと聞こゆ。この夜金州に行きて神官僧侶等の宿所に入る。それより留守中の事聞きなどす。中にも驚きたるはこの宿所は神官僧侶新聞記者等のために特に近衛管理部より設けたるものにあらずしてある人の周旋によりて暫時ざんじこの行政部附の宿舎を借り居るなりとの事なり。されば管理部は終にわれら従軍者のために宿舎を与へざりしなり。宿舎を与へられざればむなく従軍者自ら周旋して宿舎を借りたるなり。されどもこの宿舎は二、三日の約束を以て借り受けしものにてその期限は已に満ちたるに管理部は更にわれらのために宿舎を周旋するの労を取らず。ただいつまでも今の処に尻を据ゑて居るべしと内命せしとか。われらはここにありて食物は管理部まで取りに行かざるべからず。幸ひに僧侶の従僕ありしかばわれらの分をも共に貰ひくれるやうに頼みたり。
 二十四日城内にある四師団附新聞記者の宿舎を訪ひ日暮家に帰れば皆荷物を片づけなどし見も知らぬ人の室内にありてこれもわれらの荷物を屋外まで持ち出だしなどす。何事にやと問へば今宿舎を転ずるなりといふ。さらばとわれも荷物を肩にかけて山東会館内管理部の隣に移れり。われら新聞記者一、二名先づ新宿舎に来り見れば一方には四、五畳ばかりの石牀あり。他の一方には土間に高粱コウリャンを敷きて臥床に当てたり。同業某先づ牀上に陣取らんといふ。われいなみて従はず終に高粱の上をわれらの居処と定めぬ。けだし石牀の上人をるること六、七人に過ぎず。而して我ら一行は十人に余れり。もしわれら先着の者五、六人牀上を占めなば後れて到る者ことごとく土間に居らざるべからず。これ不愉快のもとなりとて牀上を通訳官に譲りわれら一団は公平に土間を取りたり。金州にある新聞記者三団而して土間にある者はわれら一団のみ。されどもわれはそれほどにこれを苦とも思はず。余り多くの苦を経歴したればなるべし。
 宿舎を移したる後、団中の一人は我に向つて言へり。今日夕暮の事なり例の髯曹長は前の宿舎に来りて怒鳴り散らすやう「お前らはなぜ飯を定規の時間に取りに来ぬか時間に後れて取りに来ては困るぢやないかこの後時間におくれたら飯を渡さぬからそのつもりで居るやうに………その上に自分で飯を取りに来ずに人に取りに来させるとはどういふわけだ………」今まで黙つて聞いて居たる某はこらえずして「私ども自分で飯を取りに行く事は出来ません」と答へぬ。さらでも怒り居る曹長はこの抵抗に逢ふて怒気ますます激し来り「自分で飯を取りに来られぬやうなら飯を喰はんが善い馬鹿野郎め」とぞ叫びし。皆々余りの暴言にへそを据えかねてかにかくと争ひしかども固より理屈に屈するやうな曹長ならねば何の効もなし。終に管理部長に訴へたれど部長殿は善い加減な挨拶をしてお茶を濁し居たり云々と。語る者さも無念らしく語りぬ。これを聞きたるばかりにてわれは覚えず涙ぐみたり。しばらくは話とぎれて一本の蝋燭ろうそくは暗き室の内に気味悪き光を放ちぬ。
 その人更に語をぎて「さる騒ぎにまぎれ居る内、行政部附の人は来りて最早約束の期限も過ぎたれば只今この家を立ち退いてくれと言ふや否やわれらの荷物を外に運び出すなど一時は混雑を極めたるなり」とわれは怒気は最早頂上に達せり。「待ち給へ今夜何とかかたをつけるから」
〔『日本』明治29・1・31 四〕

子規子

 その時管理部長はわれらの室に来りて「どうだ皆移つたナこの部屋は君らの這入はいれるやうに前から明けてあつたのダ」「土間でない処はないのですか」「マアそれだけはこらえるのダ家がないのだから仕方がない」暫時話ありて部長殿は出で行かれぬ。われはその後より続きて出でたり。戸外に出づるや否や部長殿を呼び止めたり。部長は立ち止まりぬ。談話は烏羽玉うばたまやみの真中にて立ちながら始まりぬ。われ先づ口を開きて「只今お話をしたいのは外ぢやないのですが我々新聞記者に対する取扱の事に付いてです、我々の中では一般に近衛師団の我々に対する取扱に付いて不公平だとか何とか不平をいふものが多いのですが私もまたさう思ふのです、しかし私がここでいふのは宿舎が悪いとか飯が旨くないとかいふやうな事をいふのではないのです一体我々に対して礼を失して居ることが多いと思ふのです、第一船に居つた時も曹長が来て我々に向ひ、出て行けといふやうな言葉を使つたこともある、また今日も友達の話によればその曹長が来て色々な暴言を放つた末、馬鹿野郎などといふ言葉を言つたさうですが如何にも失敬な言葉ではありませんか、それも一度位の事ならば一時の激昂げっこうといふ事もあるからさう見て差支ないが二度三度に及びては一時の激昂と見る事は出来ん、たしかにこれは心から軽蔑の意味を含んだ者であつて我々は侮辱せられたものと思ふのですが………」「その事は先刻も外の人から聞いたのですそれだから善く言つて聞かして置いた、しかしそんな事をさう言つては困るぢやないかあんな者を相手にしなくても善いぢやないか」「あんな者と言つてもいづれ軍隊に属して居る者でしかも我々に向つて命令を伝へるとか何とか直に接する上はそれ相応の礼式を守つてもらはねばならぬと思ふ、しかしあなたの方でさういふ御考へなら致し方ない、それからまた不公平といつたのは外でないが船中の時なんぞのやうに神官僧侶を上等室に入れて我々新聞記者を下等室にいれるといふが如き不公平の取扱はどういふものでしやう、神官僧侶も新聞記者も同じく従軍者であつてその間に等差はない訳と思ふのですが」「ナニ神官僧侶は奏任官見たやうなものだ」「これはしからん神官僧侶がなぜ奏任官です」「なぜツてあの人らは教正とか何とか言つて先づ奏任官のやうなものだ君らは無位無官ぢやないか無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方がない」今までわれはなるべく情を押えて極めて温順に談話を試みたり。しかれども無位無官一兵卒等の語を聞きてはこらえかねたる怒気むらむらと心頭に上りぬ。口言はんと欲して言ふ所を知らずただ「一兵卒………一兵卒………一兵卒同様ですか」とばかり言へり「さうサ一兵卒同様サここに至りて最早談話を続ぐの余地なし。蹶然けつぜんたもとを振つてわれは室内に帰りぬ。
 この時われは帰国せんと決心せり。われはもとわが職務の上においてかつ一個の好奇心においてなるべく長く従軍せんことを欲せしなり。一般の人、ことに妻子などありてやや年取りたる人が金州の市街の不潔なると軍隊の糧食のうまからぬとに因りて皆帰思しきりなる時に際してわれは市街の不潔をも嫌はず食料の高野豆腐こうやどうふ凍菎蒻こおりごんにゃくのみなるをもいとはずなほ長く従軍せんことを欲せしなり。しかれども今やどうあつても帰国せざるべからずと決心せり、何となれば彼曹長の如きはわが職務を傷けたるものにして管理部長の如きはわが品格を保たしめざるものと信じたればなり。故に自分は如何に滞留したくともわが職務はわれをして滞留せしめざるなり。
 われは部長殿と談話の顛末てんまつ及び帰国を決心したる旨同行者に語れり。いずれも一兵卒の語を聞きて憤慨せざる者なし。その翌日なりけん参謀部に行きて帰国の許可を請ひあはせて概略に前日来の不平を説きぬ。吾人は有形上の待遇において不平を言はずしかれども無形上の待遇当を得ざるにおいては一刻もこれを忍ぶ能はざるなり。曹長のわれを軽蔑せしが如き即ちこれなり云々と。参謀黙然たり、暫らくあつていわく御帰りになつて不都合はありません。
 それより二、三日を経て後なりけんある話のついでに参謀曰く「先日もあのお話があつたから管理部長へその話はして置きましたけれど、それぞれ部属がきまつて居るのだからこちらから曹長をどうするといふわけにもいかんものですから………」と。参謀の言当れり。部下の曹長を取締まるは部長の任なり。部下の過失は部長これが責に任ぜざるべからず。しかれども部長また共に過失ある時は何人がこれを取締まるべきこの場合において司令部これが責に任ずるは当然の事なり。司令部あに一点のとがなからんや。ただ参謀諸氏は正当に管理部長を処置するの権を有せざるべし。而してこれを為し得べき者は参謀長一人のみ。参謀長磊落らいらく物にかかはらざるが如くわれらに向つて常に好意を表す。しかれどもいまだかつて管理部長を叱責せしことを聞かざるなり。これまたその磊落なるの致す所かた部長特にそのちょうを得たるか。われらはこの間の臆測を明言するにはばかるなり。
〔『日本附録週報』明治29・2・3 五〕

 帰国するに一人のつれはなきかと言へばわれも共に帰らん今二、三日がほど待てよといふは松枝某なり。さらばとてここにまた幾日をくらしつ。
 この間に見聞きし事どもいささか記さんに管理部長殿は戸外に出で上着を脱ぎ捨てて自ら正宗の瓶の箱をこぢ明けなどす。例の曹長は側に立ちて手持無沙汰てもちぶさたにこれを見つつあり。観る者まゆひそめて「かかることは曹長にても事足りなん箱をこぼつに少佐殿の手を労するはいと恐れ多し」とてこの頃より誰が言ひ初めけん少佐殿の事を曹長閣下とぞ呼びける。
 かくて二、三日経るほどに部長はいよいよ馴れ馴れしく言ひ寄りたまひぬ。時々は酒をたまはり缶詰を賜はりなどす。それさへ人には頼まで自ら持て来て自ら賜はりぬ。「これは大事のだよ大事に喰はんけりやいかんよ、これはあの何ださつきのだ君がうまいといふから持つて来た、まだ何でもほしいものがあれば取りにお出でなさい、何でもあげるから」とかうやうの言葉をも添へたまふこと常なり。その外にわかに有り難き事ども多し。此の如く前後の取扱に相違あること一はその人の性質に因り一は参謀と管理部の間に一応の掛合ありしに因り一は総督府内より参謀へ云々せしに因る等多少の原因ありと覚ゆれど風説はしばらく記さず。
 廿八、九日の大風雨には一歩も外へ出づべくあらぬにかてて加へて我室内を炊事場と為せしことなれば煙を避けんにも致し方なくただ室の隅に小さくなりて伏し居るに無遠慮なるけむりは眼ともいはず鼻ともいはず侵入し来るに堪へ難くて毛布打ち被り一分のすきもあらせじとするをなおもいづこよりか烟は顔をおそふて眼には涙の絶ゆるひまもなし。
 五月に入りてより松枝氏も我も帰らんといふに生憎あいにくに船便まれなりとてまた一日二日と打ち過ぎぬ。五月四日には宿舎を司令部の隣に移す。ここは石牀もありていとゆるやかに起き臥しすべし。この家ならばはじめよりありしものとか。この時より飯は一人の職工に命じて運ばしめらるるに至りぬ。先に船の中にて切符と引換に飯もらひしとは雲泥の差なり。参謀長参謀管理部長代る代る来りて慰問をかたじけのうす。
 室は枕を高くすべし。食は自ら労するに及ばず。師団の待遇ようやく優厚ならんとす。ここにおいてか同行者中少しはくつろぎたりとてやや帰思きしゆるうする者あり。然り而して待遇厚きを加ふるごとにわが帰思最も切なり。
 陣中にやごとなき君のいましけるが常にわれらに勧めて今暫らくここに留まるべし急ぎて故郷に帰ることかはとまたわりなくものたまふにあいなく袖をも払ひかねてとかくにこころよからぬ日を過ごしぬ。やがて条約交換の期日も近づきぬ。今はその左右をも聞かんとて終に九日になりぬ。媾和成れりとの報いたる。乃ち一行七、八人の連を得て大連湾に出づ。路に参謀長の旅順より還るに逢ふ。近衛師団附の新聞記者ほとんど皆去らんとするを見て呆然ぼうぜんたるものの如し。
〔『日本附録週報』明治29・2・10 六〕

大連湾


 一行八、九人大連湾の兵站部に到り宿舎を求む。部員先づわれに向つて眉をひそむ「あなたは少し待ておいでなさい」と。先づこの一語にておどかされたり。やがて部長に訊問じんもんせられたる後放免せられて宿舎にく。宿舎は倉庫中の一間にして狭き入口をはいれば二重にしきりあり。腰を屈めくびを縮めてそのしきりの内にはいれば四、五畳敷位と思はるる暗室、ここが八、九人の宿舎とはやや牢屋めきて興あり。されどこの地は人の出入多くして家屋少き処と聞けばそを咎むるの心にはあらず。もとより人夫を付けてくれるにはあらねばチヤン一人を雇ひ五、六町も隔たりたる炊事場に行きて飯を請ふ。自分が飯持て行かぬとて小言こごといはれぬだけが近衛よりはましならんか。十日の夜は重なりあひてぬ。
 十一日は当地の憲兵屯所より召されぬ。行きて見れば新聞記事につきて詰問せられたり。憲兵殿の言はるる処も無理ならず新聞の記事も憲兵殿が言はるる如き法螺ほらばかりにもあらざるべし。そこはお互ひに斟酌しんしゃくした処で先づわれらが叱られた位で適度の処ならんか。午後た同屯所より召されぬ。同じことにつきて同じことを叱られたるなり。
 この日また一行の中に二、三人を加へぬ。やはり同じ宿舎なり。これでは寐られたものに非ずとついに要港部の一室を借り受くることとなりぬ。海軍と陸軍とは固より事情を殊にし習慣を異にするもの同一に論ずべからずといへどもしかも海軍の款待かんたいの至れるわれらをして上天の想ひあらしめたり。有形上の待遇はここにも論ずるを用ゐず無形上の待遇冷温に至りては陸軍敢て弁解するに辞なかるべし
 十四日佐渡国丸といふ御用船に乗り込む。人皆梅干船といふとか聞きぬ。船中の不整頓なる待遇の行き届かざる乗客の不平は絶ゆることなし。かかる船にこそ監督将校必要なるべけれとつぶやく声聞えぬ。馬関ばかんに来り虎病患者死せし頃は船中の狼狽ろうばいたとへんにものなく乗組将校もわれらも船長事務長と言ひ争そひて果ては喧嘩けんかの如くなりぬ。「人夫なんどに水を呑ませては困るぢやありませんか」「船では水はやりません」「やりませんと言つても現にやつたのを見た者があるのですまた湯は始終わいてるわけでもないのです」「しかし水はたしかに呑まされんと命じてあるのです」争ひにはてしなければ終には炊事場に番兵を立たしむるに至りぬ。
 廿三日和田岬に来りて皆々放免せらる。その時上下数百の将士軍夫は拍手して万歳を唱へぬ。あたかも敵城を乗り取りたらんが如し。以て船中の如何に苦しかりしかを知るに足らん。

結尾


 近衛師団のわれらに対する待遇が初めに冷淡なりしは真に一、二の人の不心得より出でたるものにしてほとんど偶然の結果ともいふべきか。しかれどもある人はいふ「近衛師団は全国の精鋭を集めしかもまさに山海関さんかいかん方面に向はんとせりとの風説ありき。ここにおいてか新聞記者は四方より集まりて我も我もと従軍を希望してまず。かかる有様なればさらでも鼻の高き近衛師団はますます鼻を高くし敢て新聞屋に向つてその待遇を定めるなどといふことは気もつかずただ管理部長に任せて置け位の事なりしなるべし。(新聞記者と管理部と関係の密なりしこと近衛の如きは他に例なきが如し)加之しかのみならず近衛師団の広島に着せし時新聞記者は誰も来ぬとて司令部管理部などにては不興なりしが如きこれ皆な待遇の疎なりし原因なり云々」と。果して此の如きや否やわれこれを知らず。しかれどもこれ多くは事実なり。「赤帽だからナ」と参謀長の誇り居しはわれも聞く所なり。師団着広の時われらが直ちに伺候せざりしも事実なり。けだしわれらは何時往て善いやらどうして善いやら分らざりしなり。言はば皆ぼんやりとして気の利かざりしなり。殊に管理部と密接なる関係あることは従軍後まで分らざりしなり。しかし近衛の方から言へばややわれらを食客視したるかしからざれば部下の兵卒同様に師団の着広と共にわれらはその命のままになるものの如く思惟しいしたるなるべし。もしわれらを召さんとならば大本営に行きて聞き合せなば宿所姓名尽く知れ居るなり。しかるに彼は特にわれらを召さずしてかへつてわれらの来らざるを怒りわれらは特に伺候せずしてかへつて彼の召を待つ。この間互にいささかの悪意あるに非ず。これに因りて待遇に冷温を生ぜりとは余り受け取れぬ話なり。よしこれありともそは一箇人の上の事のみ。
 しかればすなわちわれらをして冷遇を受けしめし者は何ぞ。曰く半ば人為なりとするも半ば偶然のみ人為の不都合は自ら責任の帰する所あり。法律たとひこれを罰するを得ざるも道徳はこれを罰するを得べし。偶然の結果を来たせし者は何ぞ。曰く新聞記者の待遇一定せざるがためのみ新聞記者の待遇一定せざるがためのみ
附記。近衛師団は気の毒にも山海関に向はずして台湾に向ひ苦戦に日を送りしかども新聞記者はろくにこれを記さず世人はかへつて師団をそしるに至りぬ。かつや恐れ多けれども師団長殿下を始め奉り旅団長参謀佐官を失ふに至りては天の近衛にわざわいする所以ゆえんの者を怪まずんばあらず。その代りには生き残られたる人は幸多き中にも例の部長殿は功四級にまでならせたまひぬとや。あなめでたや。
〔『日本』明治29・2・19 七〕





底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
   2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
   1975(昭和50)年10月刊
初出:「日本附録週報」
   1896(明治29)年1月13日、1月27日、2月3日、2月10日
   「日本」
   1896(明治29)年1月19日、1月31日、2月19日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本では、表題の下に「台南生」と記載されています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年8月1日作成
2011年5月16日修正
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