芽生

宮本百合子




     鴨

 青々した草原と葦の生えた沼をしたって男鴨は思わず玉子色の足をつまだてて羽ばたきをした。幾度来てもキット猫か犬に殺されるものときまった様な自分の女房は十日ほど前にまっくろな目ばかり光る魔の様な黒猫にのどをかみきられて一声も立てずに死んでしまった。たった一人ぼっちのやるせない体を楓の木の下にすえてこの頃メッキリ元気のなくなった鴨は自分の昔の事を悲しいつらい気持で思いかえした。
「己は若かった――ウン今思い出しても胸のおどる位元気よく若かった――そして羽根も自由に飛ぶ力をもって居た!」
 灰色のまぶたの下にどんよりした目をかくして尚思いつづけた。
「あの沼に居た頃は、マアどんなに嬉しい事ばかりだったか――己は、あのしおらしげな姿をして居た娘を、どれほど可愛がって居たんだか――あの娘も己を思って居て呉れたんだ。己達はいつも二人並んで歩いたり泳いだりして居たっけが人様よりも美くしい毛色をもった己はいつも仲間からうらやまれて居た。泳ぎ出しの姿がいいとほめたのもあの娘だったし、好い事があるときっと自分をよんだのもあの娘だった。別れてからこんなに時が立っても己には忘られないほどあの娘は私の心に喜びを与えて呉れたんだった。けれ共――あの娘は今どこに居るか、生きて居るか、死んで居るかという事さえ分らないじゃあないか……」
 男鴨は目をあいてかんしゃくを起した様に身ぶるいをした。あたりを見るのもものうい様に自分が目をあけると、見たもの一つ一つから悲しさが湧いて来る様で又いかにも弱々しく力なげに目をつぶった。
「一番始めの女房は……よく覚えて居る。声の馬鹿に太い、足の目立って短っかい女だった。そうだ……一度目の女房の来た時に、私の羽根は切られたんだ。育てば切られ切られして満足な時のない様に人間と云うものがして呉れたんだ。己に若し呪う力があるならば、一番先に人間を――その次にはあの白くいやに光るするどい爪と歯をもった動物、あれを己は呪う、この暗いみじめな生活に私をつっつき込んだのも人間と云うものの仕業だ。百姓のわなにかかってから私のこのなやましい生活は始められた。己は人間と云うものを末の末まで己達の子孫の力をかりて呪ってやる。己の可なり愛して居た女房を三人まで殺したのはあの爪のするどい動物の仕業だ。己はあれも呪ってやる。己の敵は己の四方どこにでも居るが……一人の味方さえ今の己はもって居ない――」
 男鴨はもうどうしていいか分らないほどイライラした気持になった。大儀そうに体をうごかしてあてどもなく歩き廻った。そして何の気もなしに三人目の女房がひやっこくなって居た茗荷畑の前に行った。
「…………」
 男鴨は息をつめて立ちどまった。
 頭の中にはあの時の様子がスルスルとひろがって行った。女鴨が死んだと云う事は知って居るけれ共まだ、そこに居る様に思われてならなかった。つきとばされる様に男鴨は畑の中にとびこんだ。中には何のかげさえもない、女房の体の長くなって居た所に自分も又体を横にした。
「これよりいやな思いをしない中に己は死ぬ事をねがって居る、……」
 男鴨は斯うつぶやいて死の使の動物の来るのを待った。女房の血のにじんで居る土の上で自分も死ぬと云う事は死んだあとにも好い事がありそうに幸福らしく思われた。
 ジーッと男がもは待って居た。けれども待って居るものは来なかった。
「己は死ぬ事さえ出来ないと見える」
 うらむ様に云って黒っぽい空を見あげた男がもは力も根もつきはてた様に羽番の間に首を入れた。「己は年をとったと云ってもまだ若い方だ」と思って十月に入ってから瑠璃色にかがやき出した、羽根の色を思った。人間が春と秋とをよろこぶ様に自分達には嬉しい冬が来るのに、たった一人ぽっつんと塀の中に、かこいの中に羽根をきられてこもって居ると云う事は身を切られるよりも辛く思われた。
「このまんま飛び出してしまいたい」
 男がもは稲妻の様に斯う思った、「けれ共――羽根は切られて居る、すぐたべるものにこまって来る」と思うと自分の体を地面にぶっつけてこなこなにしてしまいたいほどに思われた。
「アア、己は呪われて居る、――自分で自分の体をないものにする事はどうしても出来ない……それで居て己は殺してもらう事さえ出来ない。ヘトヘトに世の中のことにつかれはてた時にギラギラと太陽の笑う下にみにくい死骸をさらさなくっちゃあならないものに生れる前からきまって居るんだろうか……」
 鴨は白い目をして自分をむごくばかりとりあつかう天の神様と云うものを見きわめようと思って空を見、木の間を見、穴の中をのぞいた、けれども神様と云うものらしく思われるものは一寸も見えなかった。
「神さまは天に居ると云う、又自分に宿って居るとも云う、天にいらっしゃるなら今見上げた時に見えそうなものだが――見えなかったと云う事はたしかだ。自分に宿って(一字不明)いるとしたらあんまりむごい事ばっかりする神様だ――己は左う思いたくない、そうすると神様は死んでしまいなすったものかナ、――神様――妙なものだ、考えても分らない、神さまなんてそんなに有難いものかナア、何にでも幸福を(ママ)けて下さるものとしたら己だけままっに(ママ)なったのだが――」
 はかなげな溜息をついた。そして茗荷畑からゴソゴソとおき出した。その茗荷畑のすぐ後に城壁の様に青く光ってそびえて居る人間の作った壁と云うものをいかにも根性の悪いような絶えずおびやかされて居る様な気で見上げた。
 なにげなくした羽ばたきの音は先が切られてあるんでポツリとした音であった。その音を、不思議な様な様子をしてきいた男がもはしみじみと涙のにじみ出る気持になって又そのまんまそこに座ってしまった。
「ア――」
 腹の底からしみ出す様に悲しい心は、口からとび出して斯ういう声になった。
「アア、己は運命と云うものの前にひざまずいて思うままにされなくっちゃあならない体になってしまった。己は、自分から運命を開拓して行く事は出来ない。ほんとうに己は呪われたあわれな一つの動物なんだ――」
 あきらめきれないのを無理にあきらめて、男鴨はヨチヨチと立ち上った。同じ庭に養われて居る鶏までこの可哀そうなたった一人ぼっちの鴨をいじめるという事はなしにいじめ、いつもまっ正面からシゲシゲとかおをのぞき込んだあげくにくるりと後をむいてパッと砂をけあびせる様な事をして居た。
 かわいいひよっこのする事さえ気弱なウジウジした男がもにはツンツンと体中にこたえた。
「どうしても、だれか殺して呉れるかひとりでに命のなくなるまではどうしても生きて居なくっちゃあならない」
と云う事は、女房をなくしてから、たださえ陰気なのが一層陰気になった男鴨にはたまらなく苦しい事だった。白い目をして天をにらんでは呪われた様な自分の弱い力を思ってイライラして居た。その次の日もその次の日も男鴨は一日も早く自分の生の終るのをまった。
 死――斯ういう言葉がこの上なくたのしいなつかしいものに思われるまで「生」という事にあきて来た。毎日毎日あの白い牙をもった動物の自分の生を絶ちに来て呉れるのをまって茗荷畑に朝から日の落ちて小屋にしまわれるまで座って居る。けれ共目ばかりが光った動物は影さえも見せなかった。
 今日も男鴨は茗荷畑に座って居る。何にも来ない青く光る(一字不明)を見あげては自分がまだ生きて居るという事をなさけなく思って居る。ひとりでに命の絶える時が近づいた様に男がもの首はほそくなって居る。

     この頃

 私はこの頃こんな事を思ってます。大した事ではもとよりなく何にも新しい事でもありゃあしませんが、この頃になって私の心に起った事というだけなんです。
 私のまだほんとうの小っぽけな頃はマアどんなに自分が女だという事を情なく思って居た事でしょう。本を一つよめば女だということがうらめしく思われるし、話一つきいたって女というものに生れたのをどんなに情なく思ったでしょう。男でありたい、あの鉄で張りつめた様な強い胸をもった……斯う思って私は髪を切っちまおうとさえ思ったほどですもの。
 男でありたい――斯う思ってマアどれ位私は苦しいいやな思いをしたか――
 私は自分が女に生れたという不平さに訳もなく女というものをいやに思って悪しざまに云って、自分の女というのを忘れたいとして居ました。そういう時は随分長い間つづいて居ました。女がいやだと云ったって年は立ちますもの。私の指の先には段々ふくらみが出来、うでの白さがまして行きました。そして私は今の年になったんです。今の私の年になってから急にまるであべこべに私は自分が女だった事を割合に感謝する様になりました。何故って――私達とおない年頃の男の子を御らんなさい。妙にがさがさな声を出したりいやに光る眼をもって居たり、あれを見ると私はむかつく様になってしまいます。ほんとうに何ていやな見っともない事なんでしょう。それが女はどうでしょう。
 皮膚はうるおいが出て来て、くびがきれいに見える様になりましょう。それで声だってまるであべこべで丸アるいふくらみのある音に響くじゃありませんか。肩の柔かさ、指先の丸み――。女の美くしさはますばっかりですもの。
 あれとこれ――あれとこれ――とくらべて私は自分の女だって事を此頃はよろこんで居るんです。いろんな大きな事は男の方が幸福な事でしょうけど、一日中の暮し方でさえ出来るだけ美しいものにしたいと思ってる私みたいなものは、たった一度でもあのみっともない時代をすごす事は考えるだけでも辛い事ですもの。私の手の形なんかは、いかにも女らしいふくらみをもって育って行って呉れます。そして私の声のおないどしの男の子よりも倍も倍も柔いということも知ってます。
 縮緬のシットリした肌ざわり、しっとりとした着物の振りをそろえる時の心地、うすいしなやかな着物のあまったれる様にからまる感じ、なりふりにあんまりかまわない私でさえこれは世の中の皆の男の人に一度はさせてあげたいと思うほどですもの――自分の心の輝きをそっくり色と模様に出した着物を着られますもの、その下には胸毛なんかの一寸もない胸としまったうでとをもってますもの。
 そして又私は何のことにでもこまっかくオパアルの様にいろいろに輝いて見て呉れる心をもってますもの。そいで男にまけないだけの事を出来ると思ってますもの。
 私はこんな事を思って肌のなめらかな女だって云う事を喜ぶ様になりました。
 何にも、今までにない事を見つけ出して自分の女だって云う事をよろこぶんでもなければ只肌の柔いからと云うだけでもないんです。
 私は自分の肌の柔さ、色、きめ、そんなものから思いもよらない事を想像させられます。私は自分の声に自分の声以外の何かがあるという事を思わされます。そんな事は男の人にも有るにきまってます。けれ共男が女の人を見て思うのよりも女が男の人を見て思うよりももっとこまっかい色とかおりをもって居る事を私は知ってます。
 私は、自分の心の底の底までをさらけ出して居る様で、人に今まで一寸も気のつかれた事のない心をもってます。だから私は世の中の謎? 悪く云えばはっきりしないろくでなしの心かも知れません。けれ共とにかく男よりはもっと細っかい心をもった女に生れたのを嬉しく思ってます。
 この頃の私はそう思ってます。気まぐれな御天気やの私の心はまたどう変わるか分りゃしませんが、まるであべこになった自分の心を自分でも不思議の様に思われてこんな事も書いて見たんです。

     浅草に行って

 その晩私は水色の様な麻の葉の銘仙に鶯茶の市松の羽織を着て匹田の赤い帯をしめて、髪はいつもの様に中央から二つに分けて耳んところでリボンをかけて居ました。紺色のカシミヤの手袋をはめて、白い大きな皮のえり巻をして行ったんでした。
 母とmとの間にはさまれて歩きました。
 安っぽい絵襖紙を見る様なギラギラした感じのする下びた町すじを母の手にすがりついて物なれない人の様に特別な感じをうけながら――。行きずりのでれついた男達は私の顔をチラッと見ては意味のわからない事を早口に云ったり相手を私の方につきとばしてよこしたりして行くんでした。その中にはまだ私と同い年の位の小供から大人になる境の丁度小供の蛙みたいなととのわないみっともない形と声をもって居る男も交って居ました。そんな男を見るたんびに私は下等なきたない事ばっかりを思い出して一々知らず知らずに眉をひそめて行きすぎたあと一間ばかりは早足に歩いて居ました。
「こんな所にたまにくると嗜味が低くなった様なうすっくらい様なところにひっぱりこまれる様な気持がしますネエ」
 私はこんな事も云いました。
 人と沢山沢山すれ違って漸く私達は目的にして居たクオ・バディスをして居る活動の前に立ちました。
 私は家を出るときから斯うした冬の夜に歩くという事や、始めて活動専門のああいうところに入って見るという好奇心やその映写されるものをうれしがる心等がごっちごっちになって訳のわからない気持になって居たんでしたのに、アア、私はもう一足も進みたくないほど不愉快な気持になってしまいました。
 入り口のすぐせっこい段々になって居るって云う事も案内女のいかにも浅草式な赤いかなきんの妙てこなものを着て白粉をコテコテぬって歩くのにみにくい私がはずかしくなる様な曲線をつくって居るのなんかは私の心を涙をこぼさせそうにしてしまいました。
 そいでも私達は目をつぶる様にして入りました。内はアノ玉乗なんかの様なきたならしい座布団をしいて座るところでした。三人はせまいところにキチンと座って、半ばから来てよくつづきの分らないフィルムの動き方を見ました。私の囲りはみんな若いやすっぽいかおっつきの男達ばっかりでした。
 いきなり座った私を間違った事をしたあとの様な妙なかおをして見て居ました。
 その中を私は女王の様なツンとした態度と気持をもって正面をジッと見たっきり囲りのものを私の下におしつけた様な、このフィルムを私一人のために動かさせて居ると云う様な気持になって居ました。
 いろいろ道々して居た希望なんかは九分通りまでぶちこわされましたけど、たった一つ最後の最も強い望は私の満足するだけ又それ以上なものになって私の前に展がって行って呉れました。
 白百合の様な姿とダイヤの様なかがやかしい貴い気持をもったリジヤ姫、男獅子よりも強い忠僕のウリセス、ラクダの様な猿の様な狐の様な鼻まがりの悪党のチロポンピヤ、ビニチュース、ネロ、ペテロ、そうした人達の間に生れて来る大きな尊い芸術的な悲劇の中に私の心は段々ととけこんでしまいました。
 自我の享楽のためにローマの古いいくたの歴史の生れた市を火にしてその(一字不明)に薪木からのぼる焔に巨大な頭をかがやかせ高楼の上に黄金の□□□□(四字分空白)の絃をかきならして大悲劇詩人の形をまねて焔の鬨の声とあわれな市民の叫喚の声とをききながら歌うネロの驕った紫の衣冠はどんなにかがやき、その心はうれしさにどんなにふるえただろう、私はそう思ってどうしていいか分らないほどの感じに足の先から頭の先まで波立って居ました。
 この上なく、一寸さわるとはちきれそうにしなった気持、純な感情のどれほど私の顔の上に表れて居るかって云う事は自分でさえ知る事が出来ました。
「あんまり何なら見ない方がいいよ」
 母はこんな事を云うほどでした。
 ざっと四時間ほどの間私は一寸もゆるみのない気持で見て居る事が出来ました。
 一番おしまいのフィルムを巻き終った時もそこを出て道を歩いて居る時も私の心は芸術的なととのった形になって今ここで一声うたい出したら死ぬまでつづけられそうな詩が出来そうな自分の心持の全体が一つものに結晶してしまった様なだれにもさわってもらいたくない気持になって居ました。
 母とmさんは御土産の相談をして居ました。
 母はかなり綺麗な女の居る店で、かわいらしいこんな時ににあわしいお菓子を買いました。
「お父さまにネ」
 こんな事を云って居るのもいかにも柔くやさしく私の心にひびいて来て居ました。
 うすっくらい悪い事の胞子がいっぱいとび散って居る様なまがりっかどの、かどに居る露店のおばあさんのところに先有楽座の美音会の時にあった様なとんだりはねたりや、紙人形やなんか私のすきらしいものばっかり並んで居るのを母は目ざとく見つけて呉れました。
 私はその前に後にそる様ななりをして立ちどまって調和のいい色をした小さいの二つともっとやすい大きな兎と蛙とお獅子のをふくろに入れてもらいました。
 それを二本の指でつまんで小供げな様子であの仲店の敷石の上を羽二重の裾を気軽らしくさばいて二人にかるい調子で話をしながら歩いてかなり混んだ電車にのりました。一番はじっこにむずかしい顔をして額を押えて居た四十位の商人は私の大きくくった袂をぎごっちなくひっぱって自分のわきのすき間に腰をかけさせてくれました。私はその男のかおを一寸見てすぐ、
「私を私の年以上の女だと思って居る」
 こんな事を知って悪がすこい笑いを心の中にうかべました。そうしてそのせまっこいところに座って窮屈な思いをしながらもまだすましたとりつくろった顔をして白いうすい紙を通してとんだりはねたりの色や形を思って居ました。
 二つほど停留場を行った時に一人間の悪そうなかおをしてのった十九許りの制服を着て居ながら学生らしくない書生が私の前に一つあいて居たつり革にぶらさがりました。私は今まで少しゆるんだ心を又キューとはって、前よりも一層つくろった憎らしいほどすました様子をしました。
 その男は油ぎった何とも云われないいや味な様子をして軽いカーブを廻る時、一寸止った時、そんな時わざわざよろける様にしては私のひざを小突まわすその意味が恐ろしいほど私に分りました。
 私はその男の心をすっかりよみつくしてしまった様な顔色をして正面を見つめた眼をうごかしませんでした。そうして一寸さわったり小突いたりするたんびに、それよりもつよく目立つほど私はママをうごかしてその男の私のそばによれない様にして居ました。
 こんな事のあるのも浅草だから――私はあきらめた様にこんな事を思って居ました。
 私が山下で降りるまでその男は私の前を動きませんでした。男の動かないと同じ様にそのどんづまりまで女王の様なツンとした態度をゆるませませんでした。
 電車を降りて車にのった時、私はその男に勝った様にあの男の時々したうだうだな様子を思ってうす笑いをしました。
 三年振りで行って見た浅草の町の空気の中から私はいろんな今までとまるで違った感じを得たんでした。
 私のほしいと思って居た浅草提灯はなく、三年前頃までのあすこの空気とまるで違った、前よりも一層なつかしみのない三年に一度位行く筈のところの様に思われて居ました。
 銀座の町のすきな私は、浅草の町に行ったと云う事が恋人の外の男としたしくしたのを女が悔いる様に私はよけい銀座の町にはげしいなつかしみをもってる様になったんでした。

     〔無題〕

 外には木枯しがおどろくほどの勢で吹きまくって居る。私は風を引きこんで出た少しの熱に頭中をかき廻される様に感じながら、わけもなく並んだ本の名前を順によんで行って見たり読む気もなくって一冊ずつ手にとったりして居た。
 ひがみ根性の様な耳なりはどんなにしてもまぎらせられないほどつきまとってシーンシーンとなって居た。
 だれにあたり様もない私は、いまいましそうに壁をにらんだり綿細工の狸をはじきとばしたりした。
「いやんなってしまう」
 私はわきの筆立にみっともない形をして立って居た面相をとって歯の間でそのこじれてかたまった穂をかんだ。恨んで居る様なゾリゾリと云う不愉快な音はあてつける様にほそい毛の間から起った。
 玩具のふくろうを間ぬけな目つきをしてポッポーと吹きならして見たり、とんだりはねたりもんどりうたして見たり、盛花の菊の弁をひっぱって見たりして、私はどれからも満足したふっくりした気分をうけとれないいまいましさに、いつものくせにピリッと眉をよせた。
 若し私のわきに私より小さな妹だの弟だのが居たら、訳もなくっても大きなこえで叱ったりつきとばしたりしたかもしれないほどムラムラして居た。
「せめてM子でも来ればいいのに……」
 この頃一寸もたよりをよこさないM子や、あとあしで砂をける様にしてそむいたK子の事等が身ぶるいの出るほど腹立たしく思われた。
「M子のたよりをよこさないのや、来ないのは、私は快く許してやるけれ共、Kのそむいたのがどうしてゆるしてやれるもんか……」
 わけをも云わずに毎日会う毎ににげて居る様な様子をするK子がたまらなくにくらしい。
「あの人と私は、どうせ違ったものになってしまうんだからかまうもんか……
 あの人は云いなり放だいに奥さんになって子供をポカリポカリと生んで旦那に怒られ怒られて死んでしまうんだ。それよりは私の方がまだ考え深い生活をして行かれるに違いない。
 マ、いいさ、どうせ人間同志のする事だ。たかがきまって居る」
 私はまけおしみの心でこんな事を考えた。
 私は一度妙な様子をされた人にこっちから頭をさげて「どうぞネ」なんかと云って又仲良くしてもらうんなんかって事はしたくない人間なんだから……
 独りぼっちにされたって、やっぱり何ともない様なかえって愉快そうな笑いがおをして暮す人間なんだから、私は友達なんかなくったっていいんだ、本さえあれば。友達に、しかも並々のより一寸仲よくした位の友達にそむかれたって、泣きっつらをするほどのいくじなしじゃあない。
 私はまけ惜しみづよい自分を不思議に思いながら、やっぱりまけおしみづよくこんな事を考えた。
「どうせ――どうせ」
 斯う思って居るうちにちゃっこい人を馬鹿にした様な涙が、ポロポロと意気地なくこぼれた。
「そいでもやっぱり涙をこぼすワ」
 私の一方の何でもをひやっこい目で見て居る心がささやいた。
「アア、アア」
 K子の心のそこにまでふき込んでやりたいと云う様に深い溜息をついた。
 目をつぶって手を組んで、私は出来るだけ頭をもちゃげて――丁度我ままに育てられた放蕩息子が、母をくだらない事でビリビリさせて居る様に私の心を何かとっぴょうしもない事をしでかすまいかしでかすまいかと案じさせるかんしゃくをおさえた。
 目をつぶった前にK子の笑いながら私の心を掠め奪って行った様子やHの丸い声や、M子の内気らしい肩つきなんかがうかんで来た。
 フイと目をあいた時、おそろしい力でとうてい私のおさえる事の出来ない勢でかんしゃくの虫があばれ出した。私は歯をくいしばったまんま、ツイと手をのばしてわきにたて廻してあるはりまぜの屏風のうらをひっかいた。浅黄色の裏は、
「ソーレ」
と云った様に白いはらわたをむき出した。
 千世子のどうしようもないかんしゃくを、嘲笑う様にあさぎのかみはヘラヘラヘラとひるがえってペッタリとはりつくかと思うと、パカンと口をあいて千世子の心をいじめぬいたあげくだらんと下ってそのまんま死んだ様に動かなくなった。
 私はそれを目をはなさず見て居た中にそのひるがえる毎にKのあのふくみごえの笑いごえが交って居る様に思えた。
「HさんとMさんと母さん」
 私はなげつける様にどなって、ひやっこいたたみの上につっぷした。
 こぼれ出る涙が畳の上に涙のうき島をつくって、そこの女王に私をしてくれる様に思ってうす笑いながら私はなきつづけた。

     雨の日

 外はシトシトとけむる様な雨が降って居る。私とお敬ちゃんは、紫檀の机によっかかって二人ともおそろいの鳴海の浴衣に帯を貝の口にしめて居る。紺の着物の地から帯の桃色がういて居る。
「ほんとうにしずかだ事、去年もいつだったかこんな日があったっけ、覚えてる?」
 私はほんとうに好い気持で云った。お敬ちゃんは畳に散って居る五行本の字を見つめながら、
「ほんまにしずかな好い日や」
 こんな事を細い声で云った。
「そやなあ、塗下駄はいて大川端を歩いて見たいなも、どんなにいいやろ」
 私達はぶきっちょな口つきでこんな事を云いあって顔を見合わせて笑った。
 お敬ちゃんの桃割れにかけたつまみ細工のしんから出るかるいかおりにいい気持になりながら、
「紙びなさんつくって見ない?」
「して見ましょう、もう私なんか十年も前の事だワ、そんな事をしたのは」
 私は、千代紙と緋縮緬と糸と鋏と奉書を出しながら云った。器用な手つきをして紙を切ってさして居たかんざしの銀の足で、おけいちゃんはしわを作った。それに綿を入れてくくって唐人まげの根元に緋縮緬をかけてはでな色の着物をきせて、帯をむすんでおひなさんは出来上った。二人はそれをまん中に置いて目も鼻も口さえない、それでも女と云う感じがする不思議なこの御人形さんを見て居た。
「たまにフッとした出来心でこんなものをこしらえるのも今日みたいな日には悪かない」
 お敬ちゃんはこんな事を云って頭をなでて見たり、こまっかいひだをさすったりして居る。
「紙人形は首人形と同じ位、私の大好きなお人形さんだ。あたまのこまっかいひだの間なんかにはキットおばあさま、おかあさま、ばあやなんかの思い出がこもってる様でネエ」
 こんな事も云った。
「ネ、お敬ちゃん、お染とお七と――その気持の出る様なのを作って見ない」
 私がものずきにこんな事を云い出した。
 それから二人はまるではなればなれの気持になって、白い紙と糸と、幼い色をした千代紙で、自分の心にうつって居るお染なりお七なりを表わそうとつとめて一つ鋏を入れるのにでも気をつかった。
「出来て?」
 小さな声できくと、
「私、思う通りに出来ないんだもの」
 おけいちゃんは斯う云ってフンワリ丸味のあるかおに高島田に結って、紫の着物に赤い帯を猫じゃらしにむすんだ人形をポンとひざの上になげ出した。
「もうやめましょう」
 私達は一どにこう云って、細くて長い雨足をシックリ合った気持で見て居た。
 パタリとしとやかな音をたてて、お敬ちゃんのあたまから赤いつまみの櫛が落ちた。拾おうともしないでそっと見て居ると、すみの方の足に細い光る髪がキリキリと巻きついて居る。
 古い錦絵、紙人形、赤いつまみの櫛の歯の黒髪、これだけの間に切ってもきれないつながりがある様に――又その間からしおらしい物語りが湧いて来はしまいかと思われた。
 雨のささやきに酔った様にお敬ちゃんは、机につっぷしてかすかな息を吐いて夢を見て居る。スーッとかるく出したたぼ、びん、耳から肩にかけての若々しいかみ。
 私はどうしてまあ、今日はこんなにウットリする様な事ばっかりあるんだろうと思いながら、長い袖でお敬ちゃんの首をかかえた。そして自分も夢を見て居る様に身うごきもしないでジッとして居た。いつまでもいつまでもおけいちゃんは目をさまさなかった。フッと身ぶるいをしてかおをあげたお敬ちゃんは、いきなり私のかおを見るなりつっぷしてしまった。
「どうして? うなされたの?」私はうす赤くなったまぶたを見ながら云った。
「イイエ、今までこんなに長い間、私はねてたんでしょう、随分何だ事……」
 こんな事をひっかかる様な口調で云って、肩をこきざみにふるわして笑った。それから二人でわけもなく笑い合いながらお風呂場に行った。
「顔を洗うだけネ」
 廊下でこんな事を云ったのに、あの何とも云われないお湯の香り、おだやかな鏡の光り、こんなものにさそわれてとうとう入ってしまった。湯上りのポーッとした着物(ママ)をうすい着物につつんで、二人は鏡の前に座った。
「これからどうしましょうネ、なんかこんな時にふさわしい事がして見たい」
 私はうす赤な耳たぼをひっぱりながら云った。
「そんならお化粧すりゃあいいワ」
 雨の音にききほれてぽかんとした声で云った。お敬ちゃんはすぐに言葉をついで、
「お化粧のしっこをしましょうネ、それがいいワ、ネエ」
 こんな事を云って、あまったるい好い香りのするものや、ヒヤッとした肌ざわりの、それで居てたまらなく好い気持のものをぬられたりして変って行く自分のかおを目をつぶったまんま想像した。眉のあたりをソーッとなでて、
「これでいいんだワ、ごらんなさい」
 私はこわいものを見る様に、両手でかおをおさえて五本の指の間から鏡の中をのぞいた。
「マア」私はこう云わずには居られないほどきれいにあまったるい様なかおになって居る。
「何故こんなになったんでしょう。あんまり私らしくない――まるで年中着物の心配で暮して仕舞う娘の様な――」
 私が自分のかおを自分で批評して居るのを傍でおけいちゃんは目で笑って見て居る。
「こんどはお敬ちゃんの番」
 私はこう云って、このお敬ちゃんのかおを自分の思う通りにして見ようと思った。お白粉もそんなにはつけず、一寸の間にお敬ちゃんのかおはまるで違って鏡にうつった。
 二人は一つ鏡に並んで座って、笑い合って見て居た。
「もうあっちにきましょう」
 お敬ちゃんは前歯で帯どめをかみながら先に立った。小声で「己が姿を花と見てエ」ってあの歌をうたって居る。
 私はもう、何とも云われない、おだやかなボーッとなる様な気持で、こまっかいふし廻しの唄をきいて居る。
 私の頭ん中には、もうよっぽど前っから思って居た事が、今日現れたと云う様にこんなにうれしいしずかな一日を暮される事が涙のにじむほどうれしかった。
「こんな好い日を送られるのも私達が若いからだ」
 フッと思って私は自分の肌からにおって来るあまい香りを、いつまでもいつまでもしまっておきたかった。

     〔無題〕

 何となく斯うポーッとする様なお天気なんで、血の気の多い女は身内からうずかれる様な気持になった。
 ムッチリした指の先や白い足袋の爪先を見ながら、ひざの上にひろげてある『桜の園』のまだ買いたての白い紙をチョイチョイ見た。
 さあこの庭をなあ、借金の形にとられてしまうなんて云うのは……
 あら御覧、死んだお母さまが庭を行くよ……
 こんな字が意味もなくなって頭にうつって居る。
「アアアア」うんだ様なけったるい声を出して、男の事を思いがけない時に好いものをひろった時の様な表情をして考え始めた。何にもない宙に二つ目が笑ってうかみ出た。ツウツウ――眉が引ける、鼻が出る、白い、気持好く力のこもったひたいがうかんで口が出来てそれからうす赤い線がこのまばたくまにならんだ小っぽけなものをかこんで、その線の上にあるお米つぶほどのほくろさえそえて――男のかおが出来上った。
 そのうす笑いをしたかおを手の上ににぎって見たり、向うの方にほうりつけて見たり、髪の毛の間にたくし込んでしまったり、ややしばらく、いたずらっ子が猫をおもちゃにする様に自分もうす笑いをしながらたのしんで居た。今まで少したるんで居た心は、急にキューッとしまって頬やこめかみのところにかるいけいれんが起って――いかにも神経質らしく女はその丸っこい手をふってかたをゆすった。
「斯うやってポッカリと浮いた様な様子をして居られなくなっちゃった」
 なげつける様に云って、寝椅子からとび上って湯殿にかけ込んで、水道の下にかおを出してザアザア目をつぶって水をかけた。白いタオルでスーッとふいて四季の花をつけて、西洋白粉をはたいて、桜色の耳たぼとうるみのある眼を見つめた。女らしいやわらかさとかがやかしさを今見つけた様に、
「だから女がすきだって云うんだ!」
と鏡の中の自分に云った。一寸首をかしげてあまったれる様な様子をして笑って見た。白いよくそろった前歯は、まっかな唇の下に白い条を引いた様に光って出た。
 ソーッと頬を両手で押えて見たり、眉をかくして見たり、唇をつまんで見たりして居るうちに、たかぶりかけた感情は益々動いて、重っくるしい様なくすぐったい様な気になって目の中に涙がにじみ出て来た。
「行って来ようや、しようがりゃしない!」
 麻の葉の着物の衿をかき合わせて、羽織のひもを結びなおして髪をすいた。こんな事を出がけにはどんな時でも忘れずにするって云うのも女だからなんかと思いながら、上り口から低い赤と白の緒の並んですがった白木の下駄をつっかけて出た。
 うすっくらいほそい町を歩きながら、女は懐手をして小石をつまさきでけりながら、今にもうたをうたい出しそうな、男の姿が見えたらすぐとびついて抱えそうなはずんだ気持になって居た。
「夜という仮面をつけたりゃあこそ、さもなくば気恥しゅうて此の頬が紅の様に紅うなろう……」
 自分が始めて云い出す事の様にふくみ声で云って目をあげてうす笑をした。
 男の家の丸アルいくもりがらすの電燈が見え始めた。この頃道ぶしんで歩きにくく、わざとする様にまかれた砂石の道を人の居ないのを幸に足の先の方で走ってくぐりをあけるとすぐうたをうたう様な声をあげて、
「居らっしゃる?」
と声をかけてチューリップの模様の襖のかげから出て来る男の姿を描いた。
「お上り、随分思いがけない時……」
 男の声が思いがけなくほんとうに思いがけなく二階から頭の真上におっこって来た。
 妙にくねった形をした石の上に下駄を並べて階子をかけ上った。
 障子はすっかりあけはなされて、前の時にもって来たバラがまだ咲いて居てうす青な光線が一っぱいにさして散らかった紙の上に男の影がよろけてうつって居た。
「いそがしいの? 今日は来る筈じゃなかったけど例の気まぐれで――用事をしてらしったってかまわない」
 女はあんまり下らない言葉だと思いながらこんな事を云った。
「アア、そんなじゃないけどとにかくひまじゃないんだ」
 男はたるんだ声で云ったのがふくれきって居た女の心をひやっこくスーッとなぜて行った。女は急に影のさした様な気持になって、机のはじにチョンと腰をかけながら、濃い房々した男の髪を見ながら、
「あんた、今日どんな気持でらっしゃる? ふやけた様に――たるんでるんでしょう?」
 口元をゆるめないで女は云った。
「又始まった、だだっ子だなこの人は――」
 男は何でもない様に云って、ねりそこねたうどん粉の様な笑い方をした。
 男のする事や云う事は、女の心に入って行く時にはすきだらけの、みっともない下手なお化粧の様になって、ほんのちょっぴりうしろにむきかけた女の心を段々とあと押しをした。
 女がしまった心で居るのに、男の方ではすきだらけで何でもないただの人をもてあつかって居る時と何の変ったところもなく、「ほんとうにネ」「そうだ」「違うよ」と云う言葉を繰返し繰返しかんしゃくがこみあげて来て、くしゃみが出そうになるまで男は繰返した。
「アア、私来なきゃよかった」
 あきらめた様な口調に女が云った。
「マア、どうして?」
 男はフイにどやされた様な声で云った。
「貴女があんまりのんべら坊としてる――すきだけらで下手な話ばっかりして――
 一人ごとを云ってたっても、少しはしまった事が云える――」
「…………」
「もっと張りがある様にしましょうよ、そいで調子よくネ、考えなくっちゃあならない事、云わなくっちゃあならない事が山ほどあるんじゃあありませんか……」
 そう云って居るうちに、何とはなしに女はうっとりとする様なかるい悲しさにおそわれて来た。
 男はだまって廊下ごしに向うの森を見て居る、口の辺にはうす笑が満ちて居る。罪のない様なかおを横から女はしげしげと見入っていつの間にか自分までつりこまれてうす笑をした。
「いいあんばいだ。ようやっと少しは柔い気持になれる」
 斯う女は思って先にかがみの前でした様な様子を、器用に手早にさせて男の肩を両手でゆすぶった。
 二人は崩れた様に笑った。
「何さっきあんなけんけんした声を出した?」
 男は女の小指をひっぱりながら目を見て云った。
「何故って、かんしゃくが起っただけ――」
「馬鹿なこだよ、おこすわけもないじゃないか……」
「あんたが間の抜けた様子をするから悪いんだ!」
 女はさっきの気持とまるであべこべのふっくりした声と気持で云った。
 二人は窓ぎわに並んで座った。男の頭の回りをしとやかな秋の日和がうす赤にそめて居るのや、衿足のスーッと長いのが女にはやたらにうれしかった。
「私はうれしくなって来た」
 ことわる様に女は云って、いつもする様に手だの耳ったぼだの肩だのをひっぱった。
 男はしずかにしながら、小声で小学歌をうたって居る。のんびりした音律のフレンチのしなやかな音調のうたは感じやすい女の心から涙をにじませるには十分すぎて居た。男の肩に頭をおっつけて目をつぶって女は夢を見かけて居た。
「私達は人並じゃなくしましょうよ」
 女はフイとこんな事を云い出した。
「人並じゃなくとは?」
「ホラ、ネ、知ってるじゃありませんか。だれでもがある様に死ぬまで一緒に居られる様な時になるとたるんで来て、お互にあきあきしてしまってさ」
「私達にそんな事があるもんかネ」
「それをほんとうにネエ、なんて云うほど私の心はおぼこじゃありゃしない。だから私なんか死ぬまで別々の家に住んで、お互に暮し向の事なんか一寸も知りあわずに居た方がいいとも思ってる……」
「そいじゃ張合がないんじゃないか」
「だってしようがありゃしない、いやな事にぶつかってしかめっつらをして又あともどりするより、笑いながら始めっからぶつからない様にして居た方が好いと思うから」
「もうおやめ、これがすめば又かんしゃくを起すんだろう? おやめ、下らない、もっとおだやかな気持をいつでも持ってなくっちゃあならないよ」
「だって考えられるんだからしかたがない、ネ、そうじゃない? 『愛情の夫婦生活はそう長くつづくものではない、今さめたんだよ、これからは二人の間の忍耐力をためされる時が来たのだ、こらえろよ、ナ、こらえろよ』決闘ん中にあるじゃありませんか、斯う――
 私はこんな事を思う様に、又人から云われる様にはどうしてもなりたくないんだもの……」
「ほんとうにおやめ、今日はよっぽど亢奮して居るよ、もっとのんきな事を話し合ってたっていいんだから」
「エエ」
 女は気のない返事をして、男は一寸もこんな事を考える事はないのかしらんと思った。男の手を後から廻して自分の手をもちそえて頭を力いっぱいにしめつけた。そして神経的なまとまりのない高笑いをした。
 もう男にすれきった女のする様な大胆な凝視を、男の瞳の中になげ込んで男の心の奥の奥までを見ぬきたい様な、片手でつかまえて片手でつきとばしてやりたい様な気持になった。
「一寸の間しずかに落ついて何にも考えずにおいで、又今夜ねむられなくなってしまうからサ」
 男は不安心らしく小さい声で云って肩を押してまどの日かげに座らせた。女は音なしくされるままになって、よろこんで居ながら反抗する気持やフッと男のやたらにみっともないものに見える事のあるのやを、ふしぎな情ない事の様にも又何となくくすぐったい事の様にも思った。頬杖をついて目を細くしてジーッとして居るのにあきた女は、鼻の方にあくびをもらして男の腋を一寸小突いた。クルリッと見向いた男の目の中に、女はいかにもかけ引きをして居る様な損得ずくらしい様な光りを見つけた様に思って、
「何考えていらっしゃる?」
 いまいましそうな調子にとんがり声で男にきいた。
「何? 人間は考えなければならない様に作られてるんだから何かしら考えてるサ!」
「何を考えろって云う事は出来ない?」
「云ったって云わないだって同じ事じゃないか?」
「だって――まさかお金の勘定もしやしまいしするけど……」
「お金の勘定するのがいやなんかい?」
「外の女よりはきらい、私が自分でお金をとる様になったら部屋中机のナカ中にまきちらして置いたらと思ってるほどだから……」
「勝手な事を云う人だよ、それで世の中が今渡れたら乞食は居るまいがネ――」
 男は見下す様な気持で、口の先で云った。
「アア、今日はほんとうにすきだらけだったらありゃしない、まるですきあなからお互にのぞき見して居る様だ、またいつかこんなんならない様な日に来ましょうネ……」
「そんな事云わずに世間ばなしでもしておいでネ、一人で居る時には考えてばかり居るんじゃあないか――」
 女はそれには答えずに、
「来る時には随分満ちた気持で居たんだけど、今じゃもうはぬけの様になっちゃったんだもの……」
 やるせない様に云って右の肩を一寸あげた。
「そんなに私をいじめるもんじゃないよ」
と低い声で云う男の口元を見た時、女の心の中には今までの後向になった気持にこっちを向かせるほど力のある一種のうるんだうれしさと悲しさとがこみあげて、のどのところでホッカリとあったかいまあるいかたまりになった。唇をかるくかんで女は男のかおを見入った。大変おだやかなゆとりのあるかおに見えて居て、その両わきにある耳の大きさと鼻の高さが気になって気になって、どうにも斯うにもしようのないほどであった。目の前にあるかおをすぐに両手で抱えて、胸におしつけてしまいそうな気持と何となくものぐさいようなものたりない様な気持がのどの一っかたまりの中でもみ合って女のかおは段々赤く目に涙がにじみ出して来た。
「たまらなくうれしくってたまらなくいやで――もうたまりゃしない――私は帰るサ、変になっちゃったから……」
 ガサガサした声で自分から手をかたくにぎって、女は云いながら立ち上って、着物の上前をおはしょりのところで引っぱった。
「じゃおかえり、今夜は寝られなくなるかも知れないネエ、私もそこまで行こう」
 近頃にないほど感情の妙にたかぶって居る女を、別にとめようともしないで男は一緒に上り口から軽るそうなソフトを一寸のっけて年の割に背のひくい(ママ)の白い爪先を見ながら、ふところ手をして歩いた。
 二人はおうしにされた様におしだまって、頭の方を先に出してあかるい町の灯をよける様にして写真屋のかどまで来た。
「ここで買物して私はかえるよ」
 男は云いたくない事を無理に云う様な調子に云った。
「そう、家へいらっしゃいな、あの人達もまってるんだから……そうなさいネ」
 女は別に並の女のよくする様なおあいそうのある様子や目つきは一寸もしないであたりまいサと云った様に云った。
「そうさネ……だが今日はよそうよ、用もたまってるし書かなきゃならない事だってあるんだし」
 男は女に気がねする様にしずかに云うのをそっけなく、
「そう、じゃ左様なら、又いつか……」
と云い(ママ)えてかるく頭を下げて両手をふところに入れて、わき目もふらずに歩き出した女は、ふりっかえらない。でも男が写真屋の店さきに原造(ママ)の薬を出させながらまつひまに私の後姿を見て居るのだと云う事を知って居た。あかるい町をすぎて、フイと暗い町すじに来た時、女はわけなく自分の傍を見た。そうして今ここに一人ぼっち歩いて居るのは、ほんとうの自分でない様に今までの事を自分でして来た事じゃない様に思った。
「妙なもんサ」
 女の心はなげつけた様にこんな事をささやくと一緒に馬鹿にした様な涙がこぼれ出した。
 自分達のして居る事の不平やら不安やらが頭の中におしよせて来た。眉をピリピリッとさせてうなる様に、
「どうせ……どうせ」
ときれぎれに云って立ちどまって深い息を吐いた。
「パンをかじりながらキッスをしなくっちゃあならない世の中なんさ」
 女は暗の中にうごめいて居る見えない不安や不平にこう云いやって、手をおよぐ様にふっていきなりかけ出した。走りながら「どうせ……どうせ……」と女は思ってパッと見ひらいた目からとめどない涙をこぼした。

     二階に居る時

 ヘリのないぞんざいな畳には、首人形がいっぱいささって夢(一字不明)の紙治、切られ与三、弁天小僧のあの細い線の中にふるいつきたい様ななつかしい気分をもって居る絵葉書は大切そうに並んで居る。京の舞子の紅の振、玉虫色の紅の思われる写真は白粉の香のただよいそうに一っぱいちらばって壁に豊まろの女、豊国の女房はそのなめらかな線を思いきりあらわしていっぱいはってある。すすけた天井からは、浅草提灯が二つ、新橋何とかとそめぬいた水色の手拭までさげてぶらさがって二つある。柱には紙で作ったひなが二つ、昔話しを思い出させる様に、はすっかいにとめてある。唐紙、カンバス、絵の具、なつかしい切り抜きの絵、文芸雑誌――そんなものがいっぱい散らかって漸く私達の座る事の出来る所だけすきのある様なせまい二階に二人は熱にうかされた様に話し合って居る。だらしないとりとめのないような部屋の中にもどことなしに私の心にピッタリとあう、なつかしさとにおいがただよって居る、髪を一寸ながくして内気なかおにかるい笑と力づよさをうかべて一生懸命に話す若い絵書きの前に、私は髪を一束につかねて、じみな色のネルを着てその人の絵絹の上に細筆を走らせる時の様に、かすかに動いて居る様な手を見ながらその話にききほれて居る。
「話し相手がないもんですからネ」こんな事を云ってその人は思ってる事――今まで話す人がなくってためて置いた事をあらいざらい云ってしまわなくっちゃあならない様に話して居る。
「いやんなっちまうんです、ほんとうに、(ママ)よりばっかりですもん、どうでも私の思ってる事なんか分るもんですか。それで居て勝手な事ばかり云って居るんだもの……私達が又今の親達位の年頃になれば子供にこんな事云われる様になるんだろうけれ共――」
「誰だってそんな事思うでしょう……我ままじゃなくしたってそうにきまってるんですもの……そいで又、親なんかになるとまるで自分の若い時は人間じゃなかった様に若々しかった気持、たえず震えて居た心なんかって事はまるで思いきったほど忘れてるんだから……」
「そうですよ、ほんとうに、エエほんとうにそうなんです。忘れるも忘れるもいじの悪いほどきれいに忘れて生れ落ちるとすぐっから世間を知って居た見たいにサ、私達にはしゃべってるんだから妙なもんですよ、頭なんて云うものは」
「まるで忘れてるって云うんでなくったって、新らしいゴムマアリの様に力強い若々しい嬉しい事、悲しい事のしみじみと思われた時代を気のぬけた風せんの様にクチャクチャになってしまった今日思い出すのはキット辛い事でしょう。だからわざと思い出すまい思い出すまいとしてるんでしょう。私はそんな風に思われます……それがあたってましょうキット……」
「私達みたいに若いもんでさえ、落椿を糸で通してよろこんで居た事を思い出すと寒い様な気んなりますもんねエ」
「……」私はフットさしてある首人形を見てお妙ちゃんを思い出してしまった。うつむいてかるく目をつぶって「忘れたい」と思ってた。あの時着て居た着物――あの時さして居たカンザシ――帯、はこせこ、こんな事がズラリと頭の中にならんでしまった。
「どうしたんです?」その人は私が急にだまりこんで考えてるんでビックリした様なつつぬけの声を出した。「何でもないんです。一寸首人形を見たら思い出した事があったんで……」こんな事を云って私はつくり笑をした。
「どんな事? 首人形を見て思い出すなんかって……いかにもやさしそうな事ですネ、話しませんか?」
「エエ、そりゃあやさしいってすけど……こんなとこでポイポイ云っちまうにはおしい話だから私がお話ししたくなった日に云いましょう」
「大抵は想像してるけど……京の舞子かなんかの話しでしょう、そいでなくってもキット京都にかかりあいがあるに違いないネ? そうでしょう?」
「それだけ分ったらもうだまってらっしゃい、それより余計な事をおっしゃるとキット私のいやな事になるから……」
「何だかおどす様な事云うんですネエ」その人は私のかおを見ながら、こんな事を云った。私は首人形を見つめながらだまって笑って居る。
「あの私がよく行く京橋の家に三階から『テッテケテ』なんかってうたいながら、二階の私の居る部屋にいつでも降りて来る女が居るんですよ、二十位でネ、いい様子じゃあないけれ共、自分をいい様子に見たがって一寸椅子に腰かけるにもまっすぐにはかけない人なんです。考えはなくっても口ではいろんな事をしゃべりますよ」
「ヘエ、それでも一つ位いいとこはありましょう、女ですもの……」
「まつげが思いきって長いんです、目つきは悪いけど……」
「私はまつげの長い人が大すきなんです、だからだからその人もすきんなるかも知れませんワ、会って見たら……男の人でもまつげの長い人はすきですもの……」
「エエそうですよ、まつげの長い人は下目をした時にきれいなもんです……」
「この頃、貴方の書きたいと思う様な人がありまして?」
「ありましたとも、大ありだったんですけど……ほんとうに思い出しても腹が立っちゃあうんですよ」
「逃げられたんでしょう」
「にげ様にもよるじゃあありませんか、マア、斯うなんですよ、私がネ、こないだ新橋に行った時、ステーションにですよ、その時あの玄関に二人女が立ってたんです。十七八の年頃で、同じ位の年でネ、どっちもきれいなんです。一人は、洗髪にうっすり御化粧をして、しぼりの着物に白い帯をしめて……も一人は大模様の浴衣がけで同じ帯をしめてたんですが、着物の色の顔にうつりのよかった事ったら、たまらないほどだったんで、とうとう我まんできずにその女のとこに行って、『書かして呉れませんか』ってたのんだんです、そうするとマア、思いがけなく『エエ、ようござんすとも、こんなおたふくで御気に入りゃあ』って云ったもんで家から、場所から――御丁寧に道順まできいたんです。新橋のネ、橋の一寸わきの芸者なんですよ、マア、その晩私がうれしかった事、一晩中ねられやしませんでしたよ、ほんとうに……」
「マア、それまででにげられるんなんかって……抱え主が苦情でも入れたんでしょう?」
「そうなんです、それから翌日、ホラ、あの二百十日前に荒れた事がありましたっけネエ、あの日に絹から筆から硯まで抱えて、新橋くんだりまで絹をぬらすまいぬらすまいとして出かけてその家に行ったら……始めは居ますって云って、あとから居ないって云うんでしょう、いつかえるったってあいまいの事ばっかり云ってらちがあかないんです。だからキット抱主が苦情があると思うからそれっきり行かないんですけど……あんな情ない腹の立った事はありゃしませんよ、ほんとうに、あんなものは二言目には金なんだから……」
「……」私は一寸何と云っていいか分らなかった。あたり前にお気の毒さまなんかって云うのがいやだったんでだまって居ると、「貴方モデルになって呉れませんか」こんな事を云い出した。
「なったってようござんすワ、だけど私が私の勝手でした風が貴方の気に入ったんならお書きなさりゃあいいわ、毎日でも……わざわざ私の気から出たんでもなくって、貴方の心のまんまの形を作るのはいや……」
「何故?」
「何故って……あれじゃあありませんか、貴方が今私に本を見ていらっしゃいって云ったからってその風をしたって、私の心の中にそんな気分がなければ、形と気分とはなれたものになっちゃあうじゃありませんか。だから私が心ん中から思ってした様子はいくたびしたってまるで気持と形のはなれきったものにはなりませんもの……」
「そいじゃああんた中々そう私の思う通りの風はしないでしょう?」
「そりゃあそうかもしれませんワ、私はどうしても心にない様子や事を云うのは大っきらいなんだからしようがりゃしません」
 私達はてんでんに別な方を見て斯んな事を云って居た。
「私ね、幾年も幾年も一つ家に暮して居たくないんですよ、毎日毎日どっか違ったとこにすまって、まるで違ったものを食って居たいんだが……」
「そうなさいな、いくらだって出来るじゃありませんか、女と違って男ですもの、そんな事は勝手じゃありませんか」
「でもやっぱりひとりじゃあないからそうも出来ないんですよ……」
「そんなら部屋の様子でも一日ごとにかえてたら少しはましでしょう」
「自分でするのが面倒だから……」
「そんなら面倒くさいからこうすりゃあ一番ようござんすワ、貴方のもってるもの、筆でも絵の具でも紙でも絹でも皆んなこの部屋の中にぶちまけちゃって、そんなのにもぐり込んで居れば手にあたるものがみんな違っていいでしょう」
「そうですネー、今もよっぽどそれに近くなってるから……そう云えばまるで違う話だけどこないだ一寸女んなったんですよ、学校の着物をかりてネ、紫の大振袖に緋の長襦袢を着て厚板の帯をお太鼓にしっ(ママ)て雨の降る日でした。マントを着て裾をはしょって頭はこのまんまで先生のうちに出かけたんです。門のとこにマントをかけて置いて、蛇の目を深くさして白足袋をはいて『御免下さいませ』ってやったところが、先生の奥さんが出て来て『いらっしゃいまし、どなたさまで』っておじぎをなすったんで傘をもったまんまポッカリ頭を下げると、先生が出て来られて『マア上り給え』と云って半分笑われ半分叱られて来ましたっけが……面白いもんですネー、又して見ようと思ってます」
 美術学校の人のよくする事だと思って私は笑いながらきいて居た。心の中でそうっと私も男にいつかばけて見ようと思って居た。ヒョイと見ると歌まろの絵のわきに細筆で書いたらしい様子に「あの女」と書いてある。私はそれをジーッと見つめて居ると「貴方、あの女ってのを見つけたんでしょう」ってその人が云う。「エー」私はそっちを向いたまんま返事をする。
「先にここに同じ級の書生が二人居た時に一人の男がフッとすれ違ったそんなにいい女でもないのがどうしても忘られないってしょっ中教えてたんでも一人が何だかここに歌みたいなひやかしを書いたのがまだ残って居たんです」こんな事を云って呉れた。ポツンと話のとぎれた私達はあの女と云う字をジーッと見つめて居たが、いつだったか長唄をならってるってきいたんでそれを思い出して、
「貴方三味線きかせて下さいナ、下に居るあのまっくろな猫もつれて来て……」と云った。
「いつきいたんです……エエひいてもようござんす。手がも少し白いといいんですが……」
 こんな事を云ってまっくろい猫と三味線を抱えて来た。まるで女の様な手の曲線を作って本調子で何だかこう、あまったれた様なやんわりした気持になるものを爪弾して居るそのうしろには豊国の絵の女がほほ笑んで、まっくろに光る毛なみとまっさおな目をもった猫は放った絵絹の上にねて居る――何となしに私の心持にピッタリあったものがある様でその器用にうごく手を見ながらほほ笑んだ。
 その人は小声になんかうたって居る。かえって文句のわからない方が私にはうれしい。まるで傍に人の居るのを忘れた様に自分の爪の先からかき出す音の行末を追う様に耳をかたむけて居る。私はそのしのび泣いて居る女の様な何とも云われないやさしみとつややかさをふくんでないて居る爪弾の音にいつも私がなる様に目の内があつくなって来た。私はかるく目をつぶりながら「あの黒い髪をちょんまげに結わせて――よろけじまのお召の着物を着せてその青白い細面てのかおにうつりいい手をして居たら……」こんな事を思った。
 斯うしたおだやかなうっとりした様な気持のさめないうちに、今の気持をソッとかかえて家に帰ろう、つづけて斯う思った。
 そして自分を忘れて細い糸からもれて来る音にたましいをうばわれて居るその人のまっくろな眉を見つめた。
 まどから見おろす庭の萩ショッキがうちきらしくうなだれてこまっかい樫の葉一枚一枚のふちが秋の日に黄金色にかがやいて居る。しずかだ。

     二つの心

 二つの人間はピッタリと並んで歩いて居る。その後に長く引いて居る影もその間にすきのないほどくっついて居る。
 女同志でおない年でおついの着物で――
 顔と髪の長さの違うばかりである。
 二人は御墓の間を歩いて居る。
 かたっ方の心は、
「何と云う御線香のにおいはいいんだろう、そして又この静かさといったら、こうやって歩くのにほんとうにふさわしい」斯う思って居る。「おおいやらしい、こんな所は早く通りすぎちゃわなくっては、あの沢山の墓の並んで居る様子といったら」
 も一つ心は斯う思ってるっていう事をだまったまんまでも一つの心が見ぬいて居る。
 二つの心のまるではなればなれな事を考えて居ながら、それで居ていかにも仲よさそうにして歩いて居る。こうした気持をもって居る一人は私、も一人はおけいちゃんである。
「私もうこんなとこいやだ、どっかもっとにぎやかなとこへ行かなくっちゃあ」
 おけいちゃんはそんな事を云い出した。
「ちっともそんな事はありゃあしない」
 私はお敬ちゃんの手をにぎって、細い道を縫って歩いて居る。二人の下駄の音の外には何にもきこえない、一言も口をきかずに手を夢中でにぎりあったまんま、まるで気の狂った様に歩いて行く。
「そんなにいじめずにサ、ネ、別んとこへ行きましょう。私もう我まんが出来ないんだもの」
 立ちどまっておけいちゃんはあべこべの方に私の手をひっぱりはじめた。私も一緒にたちどまっておどおどした様な子供子供した御敬ちゃんのかおを見つめる。思わずうす笑いが口のはたに浮ぶ。
「ほんとうになんだか気味が悪い人だこと、それに今日はいつもにもまして変な様子をして」
 私の見つめて居るのをさける様にわきを見ながら云って居る、フッと私の心ん中で「今日は私の一番仲の好いこの人をいじめて見よう」こんなむほん気が起った。
「私ここが大好きなんだもの、こんないいところってありゃしない」
「何故? 私こわくってしようがない」
「何故って分らないの、お墓は人間が限りない長い間、棲んで居なくっちゃならないうちじゃないの、人間が空気を吸ったり吐いたりして居た時よりも倍も倍も長い間ネ」
「貴方は墓すきなのネ、キット、だからこんなに私をいじめてよろこんでるんだ」
「好キだワ、そりゃあ、しゃべって働いて食べて居た時よりも石になるとその倍も倍もの意味があるから……」
「私そんなことはどうでもいいから、早くよそに行きましょうよサー」
「いや、日が暮れてもここに居るワ、私の帰りたくなるまで……だけど私、貴方がすきなんだからいい」
 私達はいつの間にか歩き出してこんな事を云いあって居る。お敬ちゃんはたまらなくこわそうに、私の手につかまって、下駄をひきずって歩いて居る。
「私達はもうじきに別れ別れになる時が来るんだ、キット、今日はその前兆に違いない様に思われる」
 お敬ちゃんは年をとった様な声で云った。
「エエ、別れ別れで居たものがこうやって一緒んなったんだから又別れ別れになる事はあるかも知れないがまだなかなか私の死ぬその時までは大丈夫だと思ってる。私お敬ちゃんがすきなんだから……エエ、そりゃあ大好キなんだから……」
 こんな事を云う間お敬ちゃんは淋しい目つきをして私を見て居た。
 私は私を真面目に見てて呉れる人をこんないたずらをしちゃあすまない、斯う思われて来た。かまわない今日一日は自分で自分の心がどうにもならないほどにいじめぬいてやる。私は自分の気持をジーッと見つめながら斯う云った。一寸たちどまって又歩き出した。
 二人は手をしっかりにぎりあって居る。その指先にはお互のかすかなふるえがつたわって居る。早足にトットッと歩いた。
 お敬ちゃんはもうどうなっても仕方がないと思い、私は只あるいてさえ居ればいい、斯う思って居る。いくつもいくつもの細い道を曲った。そのたんび二人はもと来た道をふり返りふり返りして居た。
 私の心ん中は妙にかちほこった様なこんじょの悪い力づよさがこもって居る。
 お敬ちゃんは私のためならどんな事でも、と云う様なすなおな「マア」と声を出したい様な様子をして居て呉れる。そんな様子を見た私は段々むなしい気もちになって来た。けれども「何! 何! 今日一日私の心をいじめてやるんじゃあないか」斯う思って奥歯と奥歯をしっかりとかみ合せた。そうして又歩きつづけた。
 一足毎に私の苦しさは段々と勝って来た。私は「何! 何!」斯う云いながら太い太い溜息をついてヒョット御けいちゃんのかおを見た。
「アッ」私はそう云ったまんま目をつぶらないわけには行かなかった。ガックリとあごのはずれた骨ばかりの顔がお敬ちゃんの胸にくっついて居た。どうしても私はそれが気のかげんだと云ってしまえないほどおびやかされた気持になった。そしてふるえた。いかにもおく病らしい声で斯う云った。
「今おけいちゃんのかおが骨ばっかりに見えた」
「何をマア、だから貴方今日はどうかしてるって云うんだ、その青いひやっこそうな顔はマア」
 思いがけなく今まで思いもよらなかった力づよい様子をして私の肩を叩いて居る。
 私とお敬ちゃんの気持はまるであべこべになって仕舞った。そして、苦しさにみちた私の心は、いまにもはりさけそうになって居る。ひたいがつめたくなって、気が遠くなりそうな気がする。
「そんなに苦しいんならもうゆるしてやるがいいさ」形のないものは私の頭に斯う指図をした。
「家へ帰りましょう、それから思いっきりにぎやかな所へ行きましょう」
 小さい声で云ってつまさきを見たまんま大急ぎで家の沢山ある通りに出た。
 そして、そのシトシトと秋の空気の中にひびいて居る人の足音、潮の様などよめき、そうしたものの中に私達二人はホッとしたように手をかたく握り合って立った。急に私の目から涙がこぼれて来た。それをかくそうともしないで私はお敬ちゃんの手をひっぱって、嵐の様な勢で家にたどりついた。そして私の部屋に二人で馳け込むやいなや、私はたまらなくなっておけいちゃんのひざにつっぷして仕舞った。
 御敬ちゃんは、
「貴方、あんまり何か考えすぎたんだ、キット、だけどもうすんで仕舞った事だから……」
 こんな事を云って私の頭を押えて居て呉れた。私が泣きやんでしまっても、二人は手をにぎりあったまんま、口もきかずにお互の胸の波うちを見つめて居た。

     彼の女

 日向ですかし見るオパアルの様な複雑した輝きと色とをもって居る彼の女は、他人の量り知る事の出来ない程いろんな事を考え、想像する力をもって居た。彼の女は、毎日の暮し方でも気質でも進んで行く方向でも、まるであべこべの事をして居る男でかなり仲の好いのをもって居た。女の心から出るいろんな光りは、男の様子をこの上なくきれいなものにして見せたり、又とないほど腹のたつほどいやなみっともないものにして見せた。笑いながら軽い口調でじょうだんを云いながら、女は男の心を目の前に並べて見て居ると云う事は、男がどんなにしても知る事の出来ない事だった。女の心はよく男の心とまるであべこべの方に走って行く事があった。それでも二人はにらみ合いもしないで会えばじょうだんも云い、下らない事で笑ったりして居た。女は自分の心の底の底までさらけ出して男に見せたくなかった。自分の思って居る事、考えて居る事を、男が味のない話でうちこわしにかかると女はいつでもフッと口をつぐんで、すき通る結晶体の様な様子をしてたかぶった目色をして男を見て居た。時には自分の予期して居る返事とまるであべこべの事を云われた時の辛い心を味いたくなさに「何々と云ってちょうだい」と口まねをしてもらう事さえあった。男は彼の女をよく我ままな人だと云って白い眼をする事もあった。けれ共どうした訳か二人は仲が悪くならなかった。女の一寸したそぶりが男の気にかかって、一晩中ねもしないで翌朝青いかおをして男が来た時も、女はすき通る様なうすいまぶたを合わせてね入って居たり、男が女の気むずかしいかおを気にするのを見向きもしないで、柱に体をぶっつけてふてる様な様子をしたり――はたの人から見ればきっとこの次会った時には、お互に知らんかおをして居るに違いないと思うだろうと思われる事をしながら二人の間に日が立ち月が流れて行った。女は心中しかねないほど自然を愛して居る。美しい葉の輝き、草の香り――そうしたものを見るとたましいのぬけた様にボーッとして居る事が多かった。限りない嬉しさに思わず土にひざまずいた時等にうっかり居合わせる男は気が気でないと云う様に女の様子を見つめてだまってその耳たぼのうす赤くすき通るのを見て居るのがあげくのはてには女の心をかたまらさせてしまって居た。美くしさ、快さの中に吸いこまれて居ると「何をぼんやりしてる?」なんかって声を男がかけた時女は「いやな人ったらありゃあしない、もう絶交さ……」こんな事を小声で云って男を息づまらせたりして居た。
 彼の女は恋をするなら人間ばなれのした、命がけの燃えさかって居るほのおの様な、お互に相手の名と姿と声と心と――そうしたものほか心の中にかつて居ないほどの恋がして見たかった。けれども女はいろいろに出る心をもって居た。片っ方のまっかな光が恋をしようとすれば、すぐその裏に光って居るまっさおな光がせせら笑いをしてちゃかしてしまうのが常だった。心の光が全体同じ色に光って呉れる時は、どこに行っても手を開いて抱き込んで呉れる自然に対した時ばっかりであった。
 赤い光が「彼の人を恋人にしてやろうか」とつぶやくと青い光は「フフフフフ」と笑って笑いも消える時には「恋人にしてやろうか」と云う光は消えてしまって居た。
「恋をするんならお七の様な恋をする。それでなけりゃあ歯ぬかりのする御(一字不明)みたいな恋はしたくない……」彼の女はよくこんな事をその男に云う事があった。
 春がすぎて夏になった。囲りにはまるで若武者の様な力づよさとなつかしさがみなぎり始めた。彼の女はもう男の事なんかすっかり忘れぬいた様になって、このまんま死んで行きゃしまいかと思われる様な草の香りや、自分の姿を消してしまいやしまいかと思われる青空の色やに気をうばわれて居た。其の男はぬけ出した彼の女の魂の又もどって来て自分を思い出して呉れるまではどうしてもしかたがない――とあきらめた様に女の様子を上目で見守って居た。男は彼の女があんまり思い切った様子をするのが見て居られなくって旅に出かけた。その時も女は一寸ふり返ったっきり又ふり返って「行ってらっしゃい」とも云わなかった。それでも男は旅に出た。彼の女は「恋人にすてられた人が苦しさを忘れ様と旅に出る様な様子をして居た事」と思ったっきりであった。夏の末、秋の初め――いろいろに美しくなる自然は段々彼の女に早足にせまって来た。女の目はキラキラとかがやいて唇の色はいつでももえる様にまっかになって居た。何でも自然の作ったものを見る彼の女の様子は初恋の女がその恋人を見る様に水々しくうれしそうでさわる時には、苦しいほどのよろこびとに体をふるわせて居た。彼の女はあけても暮れても自然の美くしさに笑い歌い又泣きもして居た。男の事は頭の中になかった。女は沢山歌を書き文を書き只自分が自然と云うものの中に自然に一番したしい芸術と云うものの中に生きて居るのを感じて居るばかりだった。
 秋の中頃旅を終えて男が帰って来た。その日も彼の女は青白く光る小石に優しいつぶやきをなげながら男には只「お帰んなさい、面白かったでしょう」と云ったばかりであった。そして原稿紙の一っぱいちらばって居る卓子に頬杖をつきながら小声にふとからからと湧いて来る歌を口ずさんで居た。男はそのわきに少し目の落ちた彼の女の青白い横がおを見つめて立って居た。男はどもる様にこんな事を云った。
「どうしてそんなひやっこい様子をして居るの、何か腹の立つ事があるの」
「腹の立つ事なんか一つもありゃしない、うれしくってうれしくってしようがないんだから……」
 彼の女は斯う云って又歌のつづきを云って居た。
「何がそんなにうれしいんだか話して御らんなさい」
「聞いてどうするの?……私には、貴方よりももっとすきな、そしてもっと好い恋人があるから……」
 彼の女は平気で髪一本ゆるがせないで云った。目は小石を見て居た。それでも男の顔の色が一寸変ったのを彼の女は知って居た。化石した様にだまって突立って居た男は、押し出される様に「じょうだんは云いっこなし……」男はどうぞこれより私を驚かせる事は云わないでネと云う様な目をして彼の女を見つめながら云った。
「ほんと、……何故そんなにびっくりするの?」
「ほんと? ほんと? 一体……どんな人なんだろう」
「どんな人でもない……自然……エエ、自然、マア、どんなに私を可愛がって呉れるんだか……」
 彼の女はかるくほほ笑んだまんま云った。男のかおには少し安心したらしい色が見えた。それでもまだかたくなっておどろいた様子をして、彼の女の萩のナヨナヨとした若芽で結んで居る髪を見つめた。
「私の居ない間に自然が貴方をとっちゃった……」
 男はこんな事を云った。彼の女の口元はキュッとしまった。そして、
「私はあんたのもんじゃあ始っからありません」
 裁判官の様に重くひやっこく女の声は云った。
「御免なさい」
 男は小さなふるえた声で云って原稿を机の上から取って読んで居た。女はさっきの事をもう忘れた様に歌を云って居る。
 沢山の歌の中に、男は彼の女の気持を見つけ出した。そして木々の葉ずれ、虫の声、そんなものに霊をうばわれて小さいため息を吐き、歌をよみ、涙をこぼして居る彼の女をソーッと見て、もうこの人のきっと死ぬまで自然を恋して居る人に違いない……と思った。
 それから二人は、歌をよみ合ったり、限りなく広い世の中を話し合ったり、会った時にはきっと真面目な考え深い時を送った。夜二時三時まで頬を赤くして亢奮した目つきで話し合ってその時男の云った事が合点が行かなくって一週間もつづけざまに一つ事を話し合った事もあった。彼の女の自然を愛する心は日毎に深くなって行った。男からはますます解らない謎のかたまりになって来た。けれ共云う事はお互によく分り合って居た。
「貴方は段々私に考えさせる様になって来る」
 男はあけくれ机に向い自然とぴったりあって嬉しさにおどって居るまだ若い彼の女を見て居た。彼の女の心のオパアルはより以上に複雑にこまっかくするどい光をはなして居る。

     或る人の一日

 何とはなし、どうしてもぬけないけだるさに植物園にスケッチに行くはずのをフイにして、食事がすむとすぐ相変らずのちらかった二階に上って、天井向いてゴロンとひっくる返った。ぞんざいな造りの天井をしさいに見て居ると、随分といろんなものがくっついて居る。それを検微鏡で見たらさぞ面白かろう、まのぬけた顔をしてこんな事を思った。まだ買って来て半年もたたない浅草提灯のひだのかん定を始めたが、どうしても中途まで来ると数が狂ってしまう。幾度くり返してもくり返しても同じなんで「人馬鹿にしてる」こんな事を浅草提灯に云ってムックリと起上った。机の前に座ったがどうも気が落つかない。こないだ注文してやった筆立の形も思う通りに出来るかと思って不安心だし、下絵の出来て居る絵の色の工夫も気にかかる。「第一うちに女竹がないからいけないんだ。黒猫ばっかりもらったって何にもなりゃしない」一人ごとを云って壁紙に女竹と黒猫を書いた下絵を見つめる。どうしてもあの三本目の竹の曲り工合が気に入らない。思いきって破いちまおうかと思わないでもないが、一週間つぶしたと思うと流石さすが未練がのこる。「マアいいさ、なる様にはなるにきまってる」いくじのない理屈をつけてヒョッと目にふれた三重吉の『女と赤い鳥』をとる、夢二の絵の中によく若い娘が壺を抱いて居るのがあったが、あれはこのパンドールの壺なんだキット、こう思って長い間のなぞもとけた様な気がした。「赤い鳥」をよんで居るうちにフッと自分がまだ十七八の時の事が思われた。
「彼の時分は若かった」斯う思うとほんとうに心がゾーッと寒くなる様な気がする。こないだあの人が来た時にそう云って居たのがやっぱりあたってる、と思われる。小さい時からきりょうよしだと云われて居た自分の目の大きい顔の白い、髪のまっくろでしなやかで形よく巻けて居た様子が、博多の帯をころがした時よりも早く悲しげな音をたてて頭の中にくりのべられた。朝起きぬけから日の落ちるまで絵具箱を肩にひっかけていろんなものをうれしくばかり見て暮して居たその時代が、とびつきたいほどなつかしく思われた。「あの時代は私一人の封じた壺をまだあけなかった時だった」小さい声で云ってきかせるようにさとす様にささやいた。「十八の時――十八の時」こうした言葉が悲しい調子を作って体中をとびまわって居る。ジイッと耳をかたむけると心臓の鼓動までそんな調子にうって居る様な気がしはじめる。
「何んだいくじなし、パンドールの壺にはまだ一つ幸にのこって居るものがあるじゃあないか」
 斯う云うと自分で自分を馬鹿にしたような高笑をした。そうしてその笑い声がパッと消えてしまうと前にもました淋しさがまわりからヒシヒシとまるで潮のよせる様によせて来て自分のこの小っぽけな体をひっさあらっていってしまいそうにする。「何んだい、何んだい」にがいかおをしながら机にしっかりよっかかった。けれどもともすればこの形のない力づよいものは、再びうき上られない深いところへ巻いてきそうにする。ジッとして居られない様になってこれまでに一番自分の気に入った絵の絹地の下にかばってもらう様に座った。はれやかな舞子の友禅の袂の下にはあんな力づよいものもよせて来られないと見えて気は段々かるく力が出て来た。哀れなみなし子がその救主を見上げる様なオロオロしたはずかしそうな目つきをして、若々しいまるい顔にこぼれる様なほほ笑みをうかべてウットリと見入って居る舞子の姿を見上げた。とろける様なうれしい気持になって一人手に、こわばった様になった口元がほどけてまるで若い娘がする様にうなだれて畳の目を見ながら肩を小さくふるわしてクスクス云って居た。その様子をヒョッと想像するとたまらないほどおかしくなって、今度はわだかまりのないカラッとあけっぱなしの気持で笑った。
「妙な奴だ」と思いながら、二階のユサユサするほど足に力を入れて歩き出した。下でおっかさんが「何だネエ、だだっこ見たいに、ねだがぬけちゃうワ」こんな事をいって居るのを小耳にはさんでクスリと肩を一ゆすりしてきりぬきのゴッチャゴチャになげ込んである襖のない戸棚の前に丸くなって座った。かたそうかとも思うけれ共めんどうくさくもあるし、と思って何か気に入ったのはあるまいかと思ってしわクチャになるのもかまわずあさったけどどうしても手ばなしたくない様なのが見あたらない、「いやんなっちゃあうなア」何ともなしにこんな事を云ってしまった。机のところにまたもどって、あの人がもってきて呉れた狸ばやしと胡蝶の曲を読み始める。この本とひっかえにもってった三味線掘りの手ざわりのいい表装がフイに見たくなったがマアマアとあきらめる。こんな退屈などうにもこうにもしようのない様な日に、あの人が来ればいいのにと思い出すともうきりがなくいろんな事が頭にうかんで来て、本の字なんか黒蟻の行列を見る様になってしまう。彼の人の気まぐれにもほんとうにあいそがつきる様だ。こないだは二日つづけて来たかと思うともう三週間位しらんかおをして居るし、ニコニコして居る時と馬鹿にムキムキした時とあるし――それでもマア私の思ってる事を大抵分って呉れるからいいけれども、こないだ着て居た着物の色と頭のうしろっつきがよかったっけが、今度はどんな風で来るんかしら、妙に着物の変るのがたのしみなもんだ。
 そうそうこないだ来た時に、エエようござんすともなんかってぞうさなくうけあって行った着物はほんとうにもって来て呉れる気なのかしらん、若しもって来たら私のあのソフトをかぶせてマントをはおらせて男にばけさせて見ようかしら。でも何だか又理屈をこねそうでもあるけれ共……。それからバックに縫をするから下絵を書いて呉れなんかと云って居たっけがどんなのがいいんかしら、それはマア、ものが来てからのはなしと……、この次までに綿人形とくくり猿を作って来て呉れる約束がしてある――
 こんなにデコデコに(一字不明)って来てヤレヤレよくマア、斯う考えられたもんだと自分でびっくりするほどだが、あの人はあんなに飾りっけのない気取らない調子で話をしたり考えたりして居るが――一体私をどう思ってるのかしらん。そうと空気ん中にとけ込んでさぐって見たい――
 すき見をされた様な気がしてせわしくあたりを見まわした。そして一寸自分のかかとを小指でひっかいた。そして又続きを考え始める。
 デモマア、彼の人が一番私の気持を知っても居、又私の考えに似た事を考えてる様だけれ共、私がよっぽど年上で居ながら心のそこをのぞかれて居る様な気がする事があるが――キットあの上眼で見つめるのが私の心に妙に感じるのかも知れない。キットでもマア、えたいの分らない妙な娘さ、何、たかが女だもの、そんなにビクビクする事はありゃあしないさ、こんな事をのべつまくなしに考えた。
 いつも無雑作にかみをつかねて気楽そうな様子をしてながら時々妙にジッと見て居り、深く深く心にさぐりを入れて居る様にだまって居て見たりするまだ年の若い娘の事が妙に気にかかる。「マ、どうでもいいさ、人なみに御飯をたべて居る人間なんだ」こんな事を云っておう来の見えるまどによっかかった。弁当をぶらさげた職人や御役人さまというみじめな名にとりこになって居る人間達が道に落ちてるゴミ一本でもためになればのがさずひろって行くという様な前っこごみのいやな風をして歩いて行くのが見える。つくづく自分ののんきさがうれしく思われる。
 親父にはどんな事があってもなりっこなしにするのさ――どじょうっぴげを気にしながら小供のお守をして居る親父殿を見るとすぐ斯う思われた。何かすぐ筆の下せる様な人が通ればいいがナアと根気よくまって居たが、来るどころか皆いやな様子のものばっかりが通る。何とはなしにかんしゃくが起る。かんしゃくが起ると自分の体をあつい鉄の板の上になげつけてやりたい様になるって云ってたっけが、一つここからとんでやろうかナ、立ち上ってフト――窓からは飛ばずに階子をかけ降りて三味線をつかんで又かけ上った。
 調子なんかかまわずにただ一寸はじいてもいい音がする。そのつながりのない一つ一つの音にも何となく思いをはらんで居る様なので撥のはじで一本一本丁寧にいろんな音を出してはじいて見る。
 その音の中から何か湧き出して来そうな気がする。撥をすてて爪弾をして居ると、何となくその音がこないだ見た紙治の科白の様にきこえる。どうしてあの時はあんな風に酔わされたのかしら、涙が出て――涙が出て恥かしいほどだったが、涙のこぼれる方がまだ好いんだ。三味線をほっぽり出して壁によっかかってあの時のうれしかった事を思い出す。あのなよなよとした肩っつき、頬かむりの下からのぞいた鬚の濃さ、物思わしげな声――それだけ思っても頬が熱くなって来る。
 あの通りの着物を作ってしっとりと着て見たらさぞうれしいだろうが――あの時はまるで自分が紙治になって居た、傍で見て居たら、キット一緒に首を動かしたりうなだれたりして居たんだろう。も一遍あんな気持になって見たいナ、若い娘がいい人の事を思い出した時みたいにトキントキンとどうきが高くなって眼がかすむ様になって居る。「いいなあ」我知らずこんな事を口走ってしまった。下でおっかさんが「お昼だよ」って云ってるけども行きたくなんかありゃあしない、ちっとも。こんないい気持でこんなおだやかな心でこのまんま死んじまいたい様だ。
 何を考えるともなく目をつぶってうっとりとして居た。何にもする事もなし、浜町にでも行って焼絵を書いてでも来ようか、と思い立ったんでスケッチブックをつっこんでフラリと飛び出すとおっかさんが何かしきりに云ってなさる。何かしらと思ってあともどりをして見ると、蟇口を忘れたんだった。「のんきな奴だ!」と云ってしまった。しばらく歩いて見たが電車にがたがたゆすぶられるのもと思ってお師匠さんのところへ行ってしまった。
「マア、随分この頃はお見限りでしたネ、貴方のこったからって云ってたんですけれ共」
 いきなりこんな事をあびせかけられた。稽古台はからっぽで縁側に三つ四つ友禅の帯が見えて居る。一番はじっこに居る娘のえり足が大変にきれいだ。お師匠さんにうたわしてひかして自分はだまって遠くから見て居ると、自分が手をもって教えてもらった人の様には思えない。一寸絵になりそうな様子の女だとこないだっから思ってる。
 金のいやにデコデコした指環のある手で器用にひきこなして居るのを見ると、若い時の事がフッと思われる。新橋の何とかと云うだったってきいた事があるが、今の年でこの位なら若い時にはキットさわがれて居たんだろうと思う。四人の娘達がかくれてばっかり居ていくらよんでも出て来ないんでいやな気持になったからプイと出て浅草の仲店に行って見る気になって電車にのる。沢山のって来る女の中でマアと思う様なのは一人もいやしない。芸者らしくない芸者を見たりみっともなく気取った女を見たりするとつくづく素足で何とも云われないほど粋な様子をして居た江戸時代の柳橋の芸者がなつかしくなる。仲店を幾度も幾度も行ったり来たりして三四枚スケッチと玩具の達磨と鳩ぽっぽとをふり分に袂に入れて向島の百花園に行って見る。割合にスケッチも出来なくってイラついて来たんで電車にのって山下まで行った。あのうすっくらいジメジメしたとこに帰るんだと思うとたまらなくなってしまったんで又九段の友達の家に行く。二人でやたらにシンミリと紙治の話をしこんでしまった。あれもほんとうによかったネ、私だってないたサ、あの着物そっくり着て見たいと思ってるんだ。私は紙治のまぼろしと心中してしちまいそうだなんて云ってたほどだから……たまらなくうれしかった。ここにも私の味方がある、こう思われた。そんな事でよけい家に帰りたくなくてとめてもらうよと思いきって云ってしまった。いいともさ、私だって帰したくなかったんだもの、とあれも云って居た。二人で手をにぎりあって十二時の時計をききながらもねようともしないで、「二十三だネ、もうお互に……」こんな事を云って、今朝なった様な恐ろしさに又おそわれてジッとあれによりかかって居た。「でも若いよ、まだ……」あれはこう云って丁度大病人に医者がまだ心臓がはっきりしていらっしゃいますからって云うような調子で云って私の髪を指の間でチャリチャリと云わせて居た。
 嬉しくってかなしい――夜は更けて行く。

     〔無題〕

 私達……私達ばかりじゃあなくたいていの人が、本の表紙などは一寸見てもうはなされないほどすきになるものや又もう二度と見たくない様な心持のする本もあると云うことを云う。そんなこと思うほうがほんとうか……おもわない方がほんとうか?

 インクの色もその人の年によってすきな都合が違うと云うことをこの頃になって知った。
 ようやくインクをつかいはじめた年頃から私達より一寸大きいころまでははっきりとしたブリューなんかがすきで、二十ぐらいになるともうじみな、書いたあとの黒くなる様なインクがすきになる。
 その色のすききらいのぐあいはその年頃によってこの気持によるものらしいと私は思う。
 私達は姿のととのわないものをすべて十五六と云って居る
 十五六の時の娘達や男の子のととのわない中ぶらりんの姿をたとえたものである。
 私は妙な子で自分の十五六なのを忘れて、十五六、十五六と云って居る。
 十五六って云う時ばかりよけいにとしとったようなきもちで見下すように「十五六ですもの、貴方」と云って居る。
 いそがしい時なんかに一日二日病気になって見たいと思う事がある、人間にありがちな気まぐれなものずきな心持で……

 この頃よく小さい大人を見ることが有る。何だか若い命を短くされたんじゃあないかと人ごとながら可哀そうに思われる。
 四十近くなる女の厚化粧と、庇がみのしんの出たのと歯の間にあかのたまって居るのはだれでもいやだと云う。
 なんでもつり合わないのは一寸妙なものに思われるに違いない。

 ゴチゴチにすみのくずのかたまった筆を見ると人間のミイラを見る時とそんなに違わないほど見せつけられる様なきがする。

 スイミツ桃のうす青な水たっぷりの実は、やわらかくてしない赤坊のように思われるが、天津桃の赤黒いデブデブした紫のつゆのたれそうなのは、二十五六のせっぴくのゲラゲラ笑うフトッチョのはのきたない女に似て居る。

 ○この頃の本の沢山出来る事と云ったらほんとうにマア何と云う事なんだろう。古い雑誌に出版物の統計が出て居たけれども、日本がいちばんたくさんである。そのくせ、そんなにありながら英訳し伊訳して立派な恥かしくないと思われるのは民間の金貨のようだと思われる。

     第二日

 鶏は女房孝行な内にもどっかつんとしたところがあるけれど、鴨はどこまでもいくじなしで鼻ったらしに見える。
 鶏はいつも牝鳥をかばってやって、人がいたずらをするとみの毛をさかだてておっかけるが鴨は置いてきぼりにして夢中になって自分からにげ出してしまう。

 梨の果はその育ち工合はなかなか貴とげなきっと人にたっとばれる実になりそうに思われる。ようやく白いあまい形をした花が散って子房がふとり出すと、もう一寸でもさわるとすぐ思いきりよくポロリと落ちてしまう。小さい、見えるか見えないかの小虫がついてもすぐ落ちてしまう。朝と夕方の清らかな露のうるおいとふるいにかけた様な空気とで育って行く様子はピリリッとした権しきのあるかしこい頭をもった女のようだとつくづく思われる。

 東京に沢山ある町のその一条毎にその特有のにおいが有る。それも気をつけてかぐ様にしてあるくのが私はすきでわり合に沢山の町の香いを知って居る。
 小石川の宮下町の近所は古い錦の布の虫ばんだ様な香がする。
 銀座の竹葉のわきの通りは、だいだいのような香がする。そして混血児を見るような感じがする。
 根津の神社のわきの坂は、青っくさいようなモルヒネのような香がする。
 巣鴨ステーションの近所はもちのこげたような香がする。そいであすこいらの小家がみんなかびたもちで目に見えない大きなさいばしがそれをあみの上にのせてあっちにやったりこっちにやったりして居るように思われる。
 根津のところから西片町にぬける奥井さんの細い通り露路はおばあさんのあたまのあぶらの様な香がする。
 林町の裏町の家の間のせまいつきあたりの様な町があるとこは、おせんこくさい様な香がする。それは、そこは小家が沢山ならんで居て大抵そこにおばあさんが多くすんで居る。それを知って居るんでおせんこくさい香がするように感じるのかも知れない。
 もとよりこんなことは人それぞれの感じでちがって居るから、あたって居るかどうだかわからないけれども。

 人が町によって色があると云うけれども私にははっきりこれがわからないけれども。
 浅草が豚の油でといた紅のような気のするのと、
 染井の墓地に行くまでの通りの、孔雀石をといてぬった青のような気がするのと、
 京橋のわきの岸が刺青のような色をして居るようなことだけは感じて居る。

 フランネルで作った犬の腰のぬけて、めだまのぬけたのは妙に可愛いもんで、首人形の髪の手がらの紅の少しあせたのと、奇麗なかおの少し黄がかったようなのはなつかしい古い錦をなでて居るような心持になる。

 新らしい本のかどかどをなでまわすのと、新らしい雑誌の紙をきるのとはたまらなく、新らしい着物のしつけをとるよりうれしい。

 この頃子供達、内ばかりの……の間に、「得意にやっちょる」と云うことばが流行はやって居る。
 兄弟が何かずにのってやって居るとはたで、
「得意にやっちょる!」
とはやしたてると、云われた子はまっかなかおしてやめる。
 世の中にも、
「得意にやっちょーるー」
とはやされそうな人は沢山居るにちがいない。

     第三日

 ダンテの像に黄色いきれで頬かぶりをさせたのと、百姓おやじに同じことをしたのと同じ位似合うのには一寸びっくりした。

 可愛がらなければならないはずのものが可愛くなくって、可愛がらなくってもいいものが可愛くてたまらないと云うことは、だれにでもある人情だと見える。

 黒毛の猫とあんまりやせた犬とはねらわれて居るようで、かべのくずれたのはいもりを、毛深い人は雲助を思い、まのぬけて大きい人を見ると東山の馬鹿むこを、そぐわないけばけばしいなりの人を見ると浅草の活動のかんばんを思い出す。

 用いふるした金ペンと小さい鉛筆をためるのと、髪の毛の数を想像し、草の生えて居るところを四角に切って元禄にとって行くのは馬鹿げたことでたのしみなことである。

 ひまっつぶしにはくもとにらめっこをするのがいい、いつまでたってもあきることがない。人形になる、天狗になる、蛇になる、天馬になる、スヒンクスになる、宮殿になる、様々に変ってやがて馬鹿にしたようにプッととんでってしまうから。

     第四日

 人間が無念無想になる時は、一日の中に可成沢山有る。私の一日中に無念無想になる時には、
 朝起きてかおを洗う時……手拭に水をためて顔にあてた切那、
 あくびをする時、あついお湯にしずむ時、だるくってそ□□□(三字不明)けんになった時、ハッと思った時、
 こんな時になる。
 又、一番下らない事をしみじみ考えるときは、
 ひざを抱いて柱によっかかった時、
 団扇の模様を見て居る時、
 人のものをたべるのをはたで見て居る時、

 障子の棧を算えて居ると妙に気が落つく、又蠅の糸の様な足を二本合せておがんだり、三本合わせておがんだりして居るのを見るといやに面白い中にせわしないイライラな気持になる。

 人のかおが可愛いなんかって云うのは、赤坊のかおを標準にして居ると或る人が云ったけれ共、なんだか若し大人が赤坊のかお通りならずいぶんまのぬけたものだろうと思われる。

 のんきは――一寸のんきさがますと馬鹿に近くなってしまう。

 人にはどんな人にでも多少惨こくな心持が有るにちがいない。たとえばここに下らない人の書いた地獄の絵と、名人のかいた山水とならんであるとすると、山水は一寸いいかげん見て置いて地獄の針の山に追い上げられる亡者や、火の池をおよぎそこねるものなんぞを「ずいぶんいやな絵ですネー」と云いながら前よりも長い間そこに立ちどまって見る。

 私が何かものずきに雅号をつける。
 それが雑誌かなんかで同じ名が見えると、自分の領分に足をふんごまれたような馬鹿にされたような気持になるので、そのたんびにとりかえる。くせの一つかもしれない。

     第五日

 小供なんかって云うものは妙なもので、頭が単純なせいか、一つはなしを幾度きいてもあきないで笑ったりなんかしてよろこんで居る。

 かおがそんなに奇麗でなくっても、声のきれいなのはそれよりもまして可愛い心持のするもので、みにくいかおの女がなめらかな京言葉をつかって居るのは、ずいぶんと似合わしくないもので、きれいなかおの人が椋鳥式のズーズーでやって居られるとなさけない、いきなりポカリと喰わされた様な気がするもんだ。

 西の女は砂糖づけかあめのようで、東の女達はさんしょの様なすっきりとしたピンとしたところが有る、とは昔からきまった相場であるけれ共、この頃は江戸っ子と椋鳥とごっちゃになって九州のはての人と北海道の人とごっちゃになってしまったので東京にすんで居る人でも、随分ごっちまぜになって居る。毎日乗る電車の内にも見てほんとうの江戸っ子を見ることは一寸ない。往復の電車に一人も見えない時などには随分と心細く、キリリシャンとした角帯がなつかしい気になるが、京橋辺で思いがけない江戸っ子の女になんかあうとめっぽう心太くなってしまう。

 私はもう十五にもなって居て……昔なら御手玉もって御嫁に行った年だのに、まだ大人の着物を引きずって着るのと戸棚の中に入って下を見下して居るのとが妙にすきで、鉛筆の先のまあるいのが大きらいでいそがしい時鉛筆がふとくなると涙がこぼれそうになる。イライラするとじきに涙が出そうになるかわりに、ふだんはそんなになき虫じゃあない。

「女は泣かなくちゃならないもので、男は働かなくちゃあならないものだ」と何かに云って有ったけれ共、この頃は女もないて許りいちゃあたまらないようになって来た。「涙もろい……一寸したことになく女と、中々なかないいじっぱりの女とどっちが御すき?」と男の人にきくとやっぱりけんかしてもいじっぱりの人の方がいい、と云う。

 思いきり自惚うぬぼれて居て、ひょっとあてのはずれた時の人ほどみじめなものはないと思う。自慢なんかする人は天からのんきでなくっちゃあ出来まいと思われる。なぜってば自慢って云うものは「御自分さまって云う御方は御えらい御方だ、御姿はよし御声ならよし、学問なら、遊芸なら何でもござれで……さてさてマア」と自分で足駄はいて首ったけになって居るのが即ち自惚れである。そんな人がひょっと人から自分のわるい評判をきいたり、笑われたのをきいたりしようものなら、にが虫を百疋かみつぶしながら蜂にさされて泥をぶつけられたようなかおして悲観してしまう。自惚のつよい人ほど悲かんの程度が強い人だろうと私は思う。
 斯う云うものの自ぼれて居られる人はたしかに幸福な人だと思う。何故ならば多少の自信をもって居ても自ぼれなければいつでもイライラする気持になるから。

 ひろい海の前に立って自分も大きな人間になった様な気のする人と、
 いかにも自分の小さいものに思われる人とある。
 始めのように思う人は多少自信のある人のなる心持で、あとの方はまだ自分の心のはっきりわからない、不安心な人がなる心持である。
 私は後者に属して居る。

 人間の作った字と云うものを長く見て居ると、こんなまがりくねった線を集めたんで、どうして意味が有るのかと妙に思われると一緒に作った人間と云うものが不思議に思われる様になってしまう。

 体の妙に細い角々しい曲線の手先もうでも太さの同じな、かおのほね立った動く時に埃及エジプト模様の中の人間のようになる人がある。
 埃及模様なセセッション全盛のこの頃、そんな人も全盛かと思うとそうでもないから妙なものだ。

 妙なもんで兵児帯のはばをうんとひろくまきつけて居る人は田舎もんの相場師か金貨の様に見えてしかたがない、とはどう云うわけだか自分にも分らない。
 同じ形をした同じ枝の葉でも(一字不明)でも、その一角でも赤か黄にそまって居ると人は目につける。それが死ぬ間ぎわの色でも……人間も木の葉とそんなに変らなく一寸色が変って居ると目立つものだ。

 田舎に育った娘は、しずかなチラット白眼をつかってかんだぐるようなことが多く、都に育った娘は、人なつこい中にかならず幾分かのかざった、いつわったところが多いと思われる。

 仕事をしなくてはいけない、仕事をしない人間は生き甲斐のない人間だと云うこの言葉だけは知って居るけれ共、何故仕事をしなければならないか? と云う問題になるとはっきり分らないものだ。

 この頃は天才がふえた。ことに雑誌なんかの上で大人が一二度小才のきいた文章が出してあるとすぐ「前途多望の天才」とかなんとか云う尊称がたてまつられる。そんな人にかぎってその投書の一年とつづいた事がなく、その次からの文がきっと前よりも劣って居る。「天才のねうちが下ったナア」と思われる。

 何故昔は男でも色のはでな模様のある着物を一般の人が着て居たのに、この頃は男の着物と云えば黒っぽいもののようにきまってしまったんだろうか? どんな深いわけが有るんだろうかと思われる。

 私は何だかもうずっとたったら男のと女のすれ違う時が来るんじゃないかと思われる。何と云うわけなしにただ……

 髪の毛のこわい人は人間もこわいとある人が云って居る事である。
 けれども私はこの間、私の知って居る人でかみの毛はごくこわいが、気のやさしい涙もろい人を見つけた。その日から、そのことばがうそのように思われて来た。うそと知れて居てもきもちのいい事もあるし、たしかにほんとうの事でも不快な事もある……

 一寸した事にふれて起った気分をどうにもこうにもしようがなくってそのまんまだんだんうすれて行くのをまってるのは随分となさけないもののように思われる。

 田舎の女にはよく二つ名前の有る人がある。家の二人の女中とも、
 キク、とよんで居る女は一名キイ、
 セキ、とよぶのはマサと云う。
 雷神さんでどうとかこうとかしたんだそうだが何だか妙なもんだ。

 活字でおしたまま、線の思いがけなくまがって居るのや、
 字のあべこべにつまって居たりなんかするのは、気まぐれなほほ笑まれるような気になる事だ。

 雄鳥にわトリの、雨が降ると今までピント中世紀の武士の頭かざりのような尾をダラリとたれてしまう。
 まるでおちぶれたおくげさんか、急に丸腰になった武士のような気がする。
 文章なんかをよくまねる人がある。私も覚えがある。自分で作る時よりもどれだけ努力し、それだけ力をつくすにはけっして「まねしてはいけない」とすげなく云いきるのは、きのどくな位である。私はそう思う、「同じまねるんなら前のよりもよくまねてほしい」と。だれでも思い、だれでも云うことだけれども私はつくづくそう思う。

 どんなに着かざった人を見ても、きれいに御化粧して居る人を見ても「人間だ!」と思うとなぜだか興がさめる。

 よくものを買うと景品がついて来る事がある。私は人間の世の中には買物でなくっても景品と云うものはある、と思う。

 気まぐれでフッと思い立った時に、急にもの事のしたくなるのは我ままの一つだけれども思いながらうっちゃりぱなしにして置いてしたものよりはたしかに結果がいいし興味もある。そうなると一部分の我ままはかまわないものじゃあないかとも思われる。

 何をするでも魚の魚ら□□(二字不明)になってはならない。

 私は本をつんで机の前に坐って、原稿紙のかおを見ると年だとか女だとか云う事から遠ざかってしまう。テーブルに向って箸をとると、年と女だって云う事がはっきりと心に浮ぶ。どう云う心理状態だかわからない。

 鴨の夫婦が俵に足をつけたような形をして、ヨチヨチとあるいて食物がありながらなおせわしそうにあさって居る様子を人間が見て滑稽だと云う。けれども人間は鴨よりもなお悪がしこい知恵もあり、きたない心もある。そして一つの小っぽけな光るものを得ようためにあざむかずとすむものをだましたり、めかくしをするように人の心をすかし見たりして居るのを人間より一段上のものが居て見たらば人間が鴨を見て笑うよりも倍も笑われるに違いないと思う。

 女って云うものは妙なもんだと自分で思う。
 生活でも何でも男よりは複雑で男の倍も細くくだいて一つ事をして居る。
 男よりこまかい事に気をくばって居ながら、そいで居てかんじんの一目見てわかるような大きなところに気がつかないから……

 女は男の謎の一つだと昔からきまって居たそうだ。それは女は自分のいやな時は遠慮したり辞退したり笑いにまぎらしたりしてしまってよういに思ってる事がわからない、化物のようだからと人が云った。だけどこの頃は女が馬鹿になって男が前よりも利口になったんだか何だかしれないけれども、女って云うものが段々あきらかになって来る。いやな事はいや、いい事はいい、そんな事をはっきり男がわかるように云ったりしたりするのはいいだろうけれども時によると心のそこのそこのどんぞこまでさらけ出してしまう女があるとはこの頃の男の人がよく云う、即ち妻の相場が下ったわけだろうけれども一方学問、女子の学問は段々進んで来て居ると云う事は、女の利口になったしるしだとして見ると、一寸そこがホコトンして居るように思われる。

 ヤソ教なんかもエスが即ち神だと云う人と、ヤソってものが人間からかけはなれて居る神と云うものを紹介した人だと云う人もある。
 ある人は昔、今よりも人間が無智と云う尊い名にとらわれて居た時には、エス様は天上なすって神に御なりなさったと云えば、ウンと合点したもんだけれども、この頃は人が一体に善いにも悪いにも智恵が出て来たんで、疑と云う一つのものを頭のすみっこに置いて、何物にもぶつかって行く。だからエス様が天上なすって神さまに御なりなすったと云うと疑が「一寸変だナ」とつぶやく。それが段々ひろがってそんな事は信じなくなってしまう。だから、神を紹介した人だとしてはなすのだ、と云う。又或る人はその偉大な霊が神になったんだと云うんだとも云ってきかせてくれる。
 まだいろんな事の万分の一も知らない私なんかは、そう云われると段々迷うばっかりになってしまう。その時代にでもどんな時代にでも、いろんな風に云いかえたり言葉をかざったりしないでも人に信じられるだけのもっと高い位置があってほしいと思われる。

 人間の一生は、千年あるわけのものじゃあないからと云う言葉は、人間にとてつもない偉い事もさせるし又そこぬけの悪党にもして仕舞う。





底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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