お女郎蜘蛛

宮本百合子




 若い娘の命をとる事もまっしろな張のある体をめちゃめちゃにする事でも平気なかおでやってのける力をもった刀でさえ錦の袋に入った大店の御娘子と云うなよやかな袋に包まれて末喜の様な心もその厚い地布のかげにはひそんで何十年の昔から死に変り生きかわりした美くしい男女の夢から生れた様なあでやかさばかりを輝かせて育った娘の名はお龍と云う。十五六の頃からチラッと心の底に怪しい光りもののあるのを親達は見つけた。その光りものの大きくなった時に起る事も親達は想像する事が出来た。娘の心の中にすむ光りもののささやかに物凄いキラメキを見るにつけて年とった二親は自分達の若い時の事を考えさせられた。母親は十八の時親にそむき家をすててしょうばいがたきのここの家の今の主人の前にその体をなげ出した。自分の生れた家の「時」と云う恐ろしい力づよいものにおさえつけられて段々とのれんのかたむくのを思う男の店の日にまし栄えて行くのと見くらべて白い歯を出して笑った事等が新しい事の様に目前にくりひろげられた。「私達はこれから仇うちをされるんだ」二人は老いて骨ばった手をにぎってこんな事を思った。
 お龍の心に住む光りもののひろがる毎にその美くしさはまして昔から話にある様な美くしさと気持を持って居るのを知ったのは二親きりではなかった。いきな模様の裾長い着物に好きでかつら下地にばかり結って居た様子はそのお白粉気のないすき通るほどの白さと重そうに好い髪とで店の若いものがせめてとなりの娘だったら附文位はされようものと云ったほどの、美くしさをもって居た。
 十六の時自分の名がお柳と書くのをいやがってどうでも「お龍」とかく様にしろとせびっていろいろ面倒な手つづきまでさせてお龍と書く様にしてもらった。しおらしくみどりの糸をたれる柳、まして三十三やなぎ間堂のお柳と同じ名で自分の心とはまるであべこべだと云っていやがったのだ。
「女は(ママ)しい名の方がどれだけいいんだか……
 私の若い頃は名のあんまりすごい女はいやがられたもんだ……」
 母親が娘の苦情をきいた半に斯う云った。
「ソウ、咲くかと思えばじきにしぼんで散ってしまう花――じきにとしよりになる様なお花なんて名がいいんでしょうか。でも、わたしゃお龍がすきなんだもの。龍があの黒雲にのって口をかっとひらいて火をふく所なんかはたまらなくいいけどもマアただの蛇がまっさおにうろこを光らして口から赤い舌をペロリペロリと出す事なんかもあたしゃだいすきさ、いいネエ……」
 そのすごく光る目をあこがれる様に見はってお龍は斯う云って母親が顔色を青くしたのをまっくろな目のすみから見て居た。細工ものの箱に役者の絵はがきに講談本のあるはずの室には、壁一っぱいに地獄の絵がはりつけてあり畳の上には古い虫ばんだ黄表紙だの美くしい新(一字不明)ものが散らばってまっかにぬった箱の中には勝れた羽色をもった蝶が針にさされて入って居た。
 そんな事も母親に何とはなしに涙ぐませるには十分な事だった。高等を卒ったっきりであとは店のものに気ままに教わって居たけれ共教える任にあたった若いものは娘のつめたい美くしさに自分の気の狂うのをおそれてなるたけはさけて居た。お龍は男が鉛筆をにぎって居る自分の横がおを見つめてポーッとかおを赤くしたり小さなため息をついたりして居るのを見ては、それが面白さに分るものをわざと間違えてかんしゃくを起したふりをして弱い男のオドオドしてただなさけなそうにうつむく様子を見ては満足のうす笑をして自分の部屋に入るのが常だった。
 手あたり次第に小説をあさってよんで居たお龍は末喜を書いた小本を見つけた。さし絵にはまばゆいほど宝石をちりばめた冠をかぶって、しなやかな体を楼の欄にもたせてまっかな血を流して生と死との間にもがき苦しんで居る男をつめたく笑って見て居るところが書かれてあった。さし絵のものすごさにつりこまれてお龍は熱心にそれによみふけった。一枚一枚と紙をまくって行くお龍の手はかすかにふるえて唇は火の様に赤くなった。そしてそのまっしろなかおは白蝋の様になった。一字一字とたどって居るうちに自分の気持とこの中にみちて居る気持とあんまりぴったり合うのにおどろいた心を底の方からうずく様な何とも云われない気持が雲の様に湧き上って来た、自分の心を自分で考える様にお龍はジーッとうつむいて居た。何事かをさとった様に、教えられた様に「私は特別に作られた女なんだ、死ぬまで男の血をすすって美くしくておられる力をもって居る」凄く光る眼に宙を見て形のない或るものに誓う様にお龍は云った。ホット息をついてポンとひざの(ママ)に本をなげた時にはもう障子の紙はうす黒くなって居た。午すぎすぐから今まで息もつかずによんで居た自分の真面目さと新らしい気持になったうれしさにはれやかな高笑をした。それと一緒にうすくらがりの部屋のわきからはじき出された様にヒラッと影をのこして体をかくしたもののあるのをお龍は見つけた。首すじの細さでその影の持主をさとった娘は何か心にひびいた事があるらしくそれよりももう一層高い笑い声をたてた。
 恐ろしくすんだ声はびっくりするほど遠くひびいた。自分の笑い声の消えて行くのをジッとききながらその声をきいて身ぶるいをする男のあるのを思って声はたてないうす笑をもらした。
 お龍は立ち上って着物を着更えた、今までよりは一層はでなはっきりした着物と帯をつけお化粧もした顔と姿とは倍も倍も美くしくなった。鏡の中にほほ笑んで居る自分の姿を一寸ふりかえってお龍はスルスルと廊下に出て足音もさせずにさきをすかしすかし店のそとの倉前に行った。つめたい石段に頭をかかえて深い深いうかむことのない海の底にひきこまれた様な重い気持で思い込んで居た若い男は自分の傍にお龍の立って居るのなんかは知るだけの余裕がなかった、「主人の娘だ、あんなひやっこい様子をして居るから何かしたらきっとおっぴらにしてしまうにきまってる、それにまだ年も若いんだし――」こんな事はお龍を気を狂いそうにまで思ってる若い男の心をなやました。
 男は自分がこんな苦しい思をして居るより、一思いにこの家を出てしまおうとも思った。あの美くしさを一目でも見ずにすごすと云う事はとうてい自分のこらえられそうにもない事であった。男の熱しきった心は、見すかすように高笑いされた事やら□□(二字不明)見て居た娘の燃えて居た事やらを思ってジッとして居られないほど大声で叫びたいほど波打って居た。
 頭は火の様にほてって体はブルブル身ぶるいの出るのをジッとこらえて男は立ち上る拍子にわきに何の音もさせずに立って居たお龍を見た。男は前よりも一層かおを赤くしすぐ死人よりも青いかおになってうるんでふるえる目でジッと娘のかおを見つめた。娘もその若い人にはたえられないほどのみ力をもった目をむけて男の瞳のそこをすかし見て居た。二人の間に時はきわめて早く立って行った、男は力のぬけた様にうつむいた。女はまだそのうつむいた瞳をおって行った。お龍はかちほこった様に眉をかるく動かしてダラリと下げて居る男の両手を自分のひやっこい雌へびの肌ざわりの様な手の中に入れた。男の体は急にふるえ出した。さわぎ立てる血が体中を走りまわるのや髪の毛までまっかになった様な姿を女はかお色一つかえず髪一本ゆるがせないで見る事が出来た。男はすじがぬけた様に手をもたれたまんまもとの石段にくずおれてしまった。
「御はなしなさって――」
 かすかなとぎれとぎれの男の声に耳もかさないで御龍はますます手をかたくにぎりしめた。男の目から涙のこぼれ出て居るのを見つけて、
「蛇に見こまれたと思ってればいい……」
 さえた低い声で女はささやいた。
「どうぞ――御なぶりなさらないで……」
 男は前よりも一層力のない声で(一字不明)った。
「はなさない、どんな事があっても、二人ともが骨ばっかりになった時でも――」
 お龍は斯う云ったまんま動こうとも手をはなそうともしなかった。
 はげしく動く感情、涙をこらえるために情ないほどかたくしまった頬の筋、自分を恐れて手をもぎはなすほどの力さえない男の気持を、女はかがみの中にうつす様に自分の心にうつし見てまっしろに光る倉の扉にほほ笑みをなげた。
 赤坊があきのきたおもちゃをポンとほうり出す調子にお龍は自分の手から男の手をはなした。白い二本の手は又先の様にだらりと両わきに下った、男はうつむいた目を上げてチラッと女を見あげて又食入った様に下に向いた目を動かさなかった。お龍はジッとうす闇の中にうく男のかおを見た。白い細い指が顔をおさえて指と指とのすき間にかすかな悲しみの音のもれてくるのを見て女はするりとまぼろしの消える様に行ってしまった。男は荷物をもちあつかう様に石段の上に自分の体をなげて長い間ほんとうに長い間今のは夢ではあるまいか? いたずらをされたんじゃああるまいか? どうしてあんな気持になって呉れただろう? と思って、心も体もとけて行きそうなうれしさと限りない恐れとかなしみとよろこびにふるえて居た。
 それからうす明りの倉前に立つ二人の若い姿を見るものは着物をしまいに来た女中の一人二人ではなかった。傘の下に二つのかおが並んだ絵の倉の扉に爪で書いてあるのもお龍は知って居た。日毎に男の瞳はぬれてうるんで力がなくなって行った。かるいため息をつきながらフッと思い出してうす笑いをする男の様子を不思議に思わないものはなかった。
 三月ほどあとにいきなりこの店から男は追われる事になった。前の晩一晩倉前のつめたい石の上で泣き明した青白い面やせた力ない男を前に置いてお龍は父親に代ってと云って最後の命令をあたえた。男は涙をぽろりと一つひざにこぼしてうるんだ目に女を見あげて二三歩ヨロヨロと女に近づいたまんま一言も云わず何のそぶりもなくって再びこの店には姿を見せない様に出て行った。死に行く様な男の様子を見て女は美くしい歯の間から「フフフフ」と云う笑をもらした。家中この事をきき又見たものは主人にも可愛がられて居たのにと、気になる謎をときにかかったがどうしてもとく事の出来ない事だった。ただお龍と云う名をある力をもった特別の人の様に思った、そしてその美くしい姿が見えると人達はサッとはいた様にかたまり合ってまぼしい様な姿を眼尻の角からのぞき上げた。
 そんなウジウジした様子を見るにつけて御龍は自分の体の中に心の中に住んで居る光り物を可愛がった。
 まだ十六のかおにはもう男と云うものを知りぬいた女の様なさめたととのった影がさして居た。
 親達は、お龍を自分の娘だと思って見るのにはあんまりすごすぎた。なるたけ手をふれない様に、なるたけ光りものをよけいにひからさない様にと、火薬を抱えた様な気持で居た。逃げ様としてもにげられない因果だと二人は暗い気持になって一家の運命と云う言葉におびえて居た。この家をもう幾十年かの間つづかせると云う事はいくらのぞんでも出来ない事だと親達はあきらめた。力ない目で凄く凄くとなって行く娘をふるえながら見て居るよりほかにはなかった。十七の春、すぐ近所の小ぢんまりとした家に御気に入りの女中と地獄の絵と小説と着物と世帯道具をもって特別に作られた女はうつった。世なれた恥しげのうせた様子で銀杏返しにゆるく結って瀧縞御召に衿をかけたのを着て白博多をしめた様子は、その年に見る人はなく、その小さな国の女王としても又幾十人の子分をあごで動かす男達の姐御としても似合わしいものだった。
 壁の地獄の絵の中の火はもえて脱衣婆は白髪をさかだてて居る、不思議な部屋で歯のまっしろな唇の真赤な女は自分の力を信じてうす笑いをして居る事がよくあった。
 女の机の上にはいつでも短刀が置いてあった。虹をはく様なその色、そのかがやき、そのさきのほそさ、ひやっこさ、等がそれに似寄った心をもって居るお龍の気に入って居た。まじめにまじりっけのない気持でお龍のところに通って来るまだ若い男があった。お龍はいつもと同じ様にその男に自分の力をためしてはほほ笑んで居た。馬鹿にしたほほ笑みも男は嬉しく思って笑いかえして居た。男はごくまじめな正直な様子をしてお龍のところに来た。一(ママ)口をきくにでもお龍が上からあびせかけるのを下から持ちあげて返事をしお龍の見下して笑うのを男は見上げて笑い返して居た。
「これあんたにあげましょう」
 人を馬鹿にした笑いを目の中にうかせて女は机の上の短刀をぬいた。
「エ、何にしに、……死ねと云うんかい……」
 男は瞳をパッとひろげて云った。
「フフフどうだか一度は死ぬ命ですワ、お互さまに……ねーえ」
 根生わるく男の目のさきでピラつかせながらこんな事を云った。美くしい眼をすえて刃わたりをすかし見ながら、
「あたし今何でも思う通りに出来るのよ。あたしは今お前の首を犬になげてやる事も出来れば空をとぶ鳥に放ってやる事も出来るのよ。犬がほってにげたら空の鳥が来てたべるだろうワ。……ねえ」
 すんだ声で女は云った。男は芝居の科白を云って居るとは思わなかった。
「何云ってるんだろう……気味の悪い人だ、そんなにおどかさずにおくれ」
「おどかしてあげる、――どこまでもあんたが弱ってへとへとになって死んでしまうまで」
「そんな美くしいかおをしてそんなこわらしい事を云うのは御よし……」
「およしだって、んたは私になんでも御よしと云う事は出来ないと思ってらっしゃい。エエそうだ私は世の中の男をおどしてビックリさせて頓死させるために生れて来たんですもの――」
「お前、恐ろしくはないんかい。マア、そんな事を云ってホンとうに娘らしくない」
「恐ろしい、世の中に恐ろしい事なんかはありゃあしませんわ」
「私は今までにないほどの男にかける呪を作ろうと思ってるんですもの、わら人形に針をうつ様なやにっこいんじゃあないのを……呪――好い響をもった言葉でいいかっこうの字だ事」
 男はおびえた眼色をしてこの話をきき女は勝利者の様な眼ざしをして話した。
「いやな事云うのはもうやめにしてどっかへ行こう、サ、私は後がひやっこい様な気がする――」
「そうでしょう、そのはずだ、あんたの後には短刀をにぎってかまえてるものがあるんですもの……」
「そんな事ばっかり云って居ずと、……サ、どっかに行こう」
 地獄の絵のかかって居るところ、短刀のあるところ、女の力の存分に振りまわされる所にたった一人男と云うまるで違った気持と体をもった自分が居ると云うことはキュッと一〆にくびられてしまいそうな、ほんとうに首をほうられそうな気がしてならなかった。自分も同じ男の沢山見えるところへ早く行きたいと思ってしきりにせめたてた。女はそのせかせかした男の瞳を見ては笑って居た。
 それから間もなく水色のお召のマントに赤い緒の雪駄、かつら下地に髪を結んで、何かの霊の様なお龍と男はにぎやかなアスファルトをしきつめた(一字不明)通りを歩いて居た。通る男も通る男も皆自分からお龍をはなしてもって行きたそうに思われた、そして又女も自分より外の会う男一人一人を知って何か目に見えない声で話し合って居る様に思われた。自分より二寸ほど低いところにある女の瞳を男はいかにも弱々しい目つきをしてながめた。男が見た前から女は男のキョトキョトした様子を見つめて居た。ジッとのぞき込んだ男の瞳と動かずにある女の瞳とはぶつかって男はふがいなく目をそらしてしまわなければならなかった。
「わたしゃもうあんたとあるくのがやになった――」
 お龍はフッと立ちどまって斯う云ってサッサッと向う側を一人でわき目もふらずに歩いた。女がこんな風をするのはただあたり前の女が半分あまったれでするのとは違って何となくおそろしいものの様な気がして男はすぐにも追って行って又ならんで歩きたかった。けれ共自分は男だと思うと女、たかが十七の女に自分の心を占領されて居ると云う事をさとられるのはあんまりだと思ってともすれば向く足をたちなおしたちなおしあべこべの道を行った。お龍とすれ違う男と云う男は皆引きつけられる様に行きすぎたあともあたりをはばかりながら振り返って居るのを男は見て、どうしても独りで歩いて居ることは出来なくなった。
「何だ! いくじなしにもほうずがあろうワイ、ハ! 馬鹿馬鹿しい――」
 自分で自分の心を男は罵って見たが却って女をふり返りふり返りして行く男達がねたましくなって「あの女は己のものだぞ」と男達に見せつけたい気がますばかりだった。口で云えない様な強い力をもった女と面と向って居るのがおそろしくて男と云う自分と同じ心と体をもったものに会いたさにわざわざ出かけて来たのに男の心には却って辛い思がますばかりであった。ひろい道を斜によぎって男はお龍のわきにぴったりとよりそって歩いた。
 女は笑いもしなければ頭も動かさないで女王が舌をきられたあわれなどれいを御ともにしてあるいて居る様な気高さと美くしさを見せて居た。男はどうにかしてそのいてついた様な女のかおの一条の筋肉でも自分の力で動かして見たかった。外套のかげから水色のマントのかげの象牙ぼりの様な女の手をさぐってにぎった。しらんかおをして居る女のよこがおを見ながらソッとにぎりしめるとひやっこいするどい頭の髄まですき通す様な痛さがあたえられた。男はハッと手をひいて一足わきによって女を見た。女のうす笑をする歯は青いほど白い。
 男の頭の中にはさっき見せられた短刀の事も毒薬を注射する針のするどさの事もおびやかさせる様に思い出された。心臓に重いものがかぶさった様な気がして来た。死にかかった人がする様な目つきをして手をのぞき込んだ、きずはついて居ない、ただ青い手の甲に咲いた様にルビーを置いた様にコロッとした血がほんの一っ(ママ)ぴりたまって居るのを見つけた。
 男はそれを見て急に痛のました様にチューチューとそこを吸って紙でふいて外套の中にしまった。何でどうしたんだかどうしても分らなかった。
「フフフフフフ」
 鼻の先でとび出した様に女はそれを見て笑った。その声をきいた男は腹だちながら考えながら、「ヒヒヒヒヒヒ」と笑い返さないわけには行かなかった。恐ろしさと又何とも云う事の出来ない様な感情におそわれて男は口をきく事が出来なかった。だまって女の傍にならんで歩いて居るといきなりよろけるほどに男はこづかれた。
 ビックリした目を女に向けると水色から生えた様に出して居る手の指先に何かが光って居る。歩く足をゆるめるとそれが紫の糸の通って居る絹針だと云う事とその先に一寸曇って血のついて居るのが分った。それと一緒に自分を射したものも分った。男はそれをとろうとすると女は(ママ)ばやく手をひっこめてどこか分らないところににぎってしまった。男は手を出したら又刺されそうに思われたんでそのまんま又歩き出した。男は、女の前ではどんなに気を張ってもうなだれる自分の心をいかにもはかないものに思った。
「別れっちまえ下らない、お龍ばかりが女じゃあありぁしない……」
 斯うも思ったけれ共、それはごくほんの一寸の出来心で世間知らずの娘が一寸したことで死にたい死にたいと云って居ながら死なないで居ると同じな事でやっぱりそれを実行するほどすんだ頭をもって居なかった。
 あてどもなく二人は歩き廻って夜が更けてから家に帰った、ポーッとあったかい部屋に入るとすぐ女はスルスルと着物をぬいで白縮緬に女郎ぐもが一っぱいに手をひろげて居る長襦袢一枚になって赤味の勝った友禅の座布団の上になげ座りに座った。浅黄の衿は白いくびにじゃれる蛇の様になよやかに巻きついて手は二の腕位まで香りを放ちそうに出て腰にまきついて居る緋縮緬のしごきが畳の上を這って居る。目をほそくして女はその前に音なしく座って居る男を見つめた。
「そんなに見つめるのは御よし、私しゃ生きて居る人間で鏡じゃあない」
「ほんとうにいかにも人間らしい男らしい方ですわ、男のだれでももって居る馬鹿な事をあんたはちゃんともってるんですもの――ねえ」
 女は笑いながらこんな事を云った。胸のフックリしたところにさっき自分をつっついて居た針の光ってるのを見つけて
「針を御すて早く、あぶない」
と男は不安そうに云った。
「あんたがこわいから? ほんとにさっきは面白かった、先にどくでも塗ってありゃあなお面白いんですわ」
「それで私が段々紫色になって死ねばサ、そうだろう」
「エエ、わたしゃ人間の死骸と蛇と女郎ぐもとくさった柿がすき」
「そんないやらしい事ばっかり云わないもんだよ、私は段々お前がこわくなって行く。逃げ出したいと思ってるだけど私はどうしたものか手足を思う様に動かす事が出来ない。私しゃ心から御前に惚れてるんだろうか、それでなけりゃあいつでも私はにげられるはずだ」
「そんな事どうだってようござんすわ、私の体からしみだすあまったるいどくにあんたはよっぱらって身うごきが出来ないんです。あんたが逃げたって(ママ)して逃げおおせないと云う事を私は知ってますわ……」
「私がもしにげおおせたらどうする?」
「それじゃ今日っから蛇に見込まれた蛙がうまくにげ失うせるか見込んだ蛇の根がつきるか根くらべをして見ようかしら。
 見込んだ蛇は死んでも蛙をのむと云う事は昔からきまってる……」
 女は前よりも一層ひやっこい眼色をして云った。
「そんなことするにはまだ私はあんまり若い、やめようもう、あんまり先が見えすいて居ていやだから……」
 男はかるく震えながらこんな事を云った。
 女はいかにも心からの様に笑って立ち上った。その襦袢の上にお召のどてらを着て伊達をグルグル巻にして机の上に頬杖をついたお龍の様子をその背景になって居る地獄の絵と見くらべて男はそばに居るのが恐ろしいほど美くしいと思って見た。御龍のなめらかなひやっこいきめの間から段々自分の命を短くする毒気が立って居るらしく思われそのまっくらな森の様な気のする髪の中には蛇が沢山住んで居やしまいかと男は思った。
「私は御前を知らない方がきっと幸福だったろうネ又お前だってそうだったかも知れない……」
「幸福だの不幸だのってそんな事わたしゃ考えてませんわ。私は天からこうときまって生れて来たんだと思ってますもの、私は自分の力を信じてるんですもの……」
「アアほんとうにお前はけしの花の様な女だ」
「私自身でもそう生れついて来たのをよろこんでますわ」
 女は男の心の中に自分の毒を吹き込む様にホッと深い息を吐いた。
 二人の間に長い沈黙がつづいた。二人の心ははなればなれに手ん手に勝手なことを考えて居た。
「私はもう帰る」
 男は思い出した様に立ち上ってうわんまえをひっぱった。
「そう――」
 女は別にとめる様子もせず玄関まで男の後について行った。
「又今度」
 小さな声で男が云ったのに女はただ青白い笑を投げただけだった。
 その笑が男には忘られないものの一つだった。しずかな中に女は体を存分にされないで男を自由にすることの出来る自分の力に謝してうす笑をした。いざりよって丸い手鏡をとって自分のかおをのぞいた。ふっくらした丸みをもった頬と特別な美くしさと輝きをもった眼、まっかな唇に通った鼻、顔全体にみなぎって居る何とも云えないうすら寒い気持――そう云うものを女は女自身に感じて、
「私は若い――そして人より以上の力を神から授かって居る。私は男をどんな身分の高い人でも何でも、男ならば自分のどれいにする力を持って居る」
 手かがみをひざにふせながらよろこびにふるえる声で斯うささやいた。
「私は若いんだ――」くりかえして又つぶやいて手をのばしてあかりをけしてしまった。日の高くなるまで女はすき通る様なかおをしてねて居た。目ざめるとすぐ枕元の地獄の絵を見て女はねむたげな様子もなくさえた笑声を家中にひびかせた。
 日暮方、男は又御龍の玄関の前に立った。せまい一つぼのたたきの上には見なれない男下駄がぬぎっぱなしになって居た。男はフッと自分がこの上なくいやに思って居る事を連想してプッとつばを吐いてあともどりをした。
「もう来るもんか、ウン女があやまって涙をこぼしたって来るもんか、売女奴! きっと来ないぞ、己も男だ」
 男はかおをあかくして目をさました子供の様なたわいもない事を自分では真面目に考えて肩を怒らせて居た。
 七日ほどの間男は女の家の前さえ通らなかった。けれ共、それ丈の間の日は(ママ)して愉快な日ではなかった、すきのある様な男の心の前にはすぐこないだの夜の女の笑がおがういた。知らんぷりをされて居るのも気にかかった。
「ほんとうにそうだそうだ。己は蛇に見こまれた蛙なんだ、あの女の前には男の力なんかはない己なんだ、阿片をのみ始めたが自分の命の短かくなるのを知って居てもやめられないのと同じ事だ!」
 特別に作られた女の、刺げきの多い言葉、様子、目ざしになれた男がたった一人ぽつんとして居ることはとても出来る事ではなかった。わけの分らない悶える心を抱えてこないだよりはずっと衰えた力のない青いかおをして女の家の格子をあけた。格子に手をかけてヒョッと見るといつもの笑をかお一っぱいにして女が立って居た。男は一寸手を引いたけれ共思いきった様にあけてたたきに立った。女はだまったまんま自分の部屋自分の城壁の中に入った。男もそのあとから入って後手に障子をしめながら片ひざはもう畳について居た。がっかりした様な男の様子を見てお龍はひやっこい声で、
「とうとうかえってきたのねえ、あんたは、家出をして又舞いもどった恋猫の様な風をしてサ」
と云って一寸男をこづいた。
 それをどうのこうのと云うほど男には落ついた心がなかった。手の先をふるわせながら、
「一体マアお前は幾人男を勝手きままにして居るんだい?」
 息づまる様な声で男は云った。
「幾人? 世の中の男はみんな私が勝手きままに出来るもんですわ、私は特別に生れた女です……」
 お龍は平気なむしろおごそかな調子で云った。女のバサリと肩になげかけた髪から紫の糸遊が立ってその体を包んで居る様に男には見えた。
「ああほんとうに私は見こまれた蛙だ!」
 男はいかにも力のない声でこう云った。女の目は勝利の嬉しさに夜の闇の中に光って居るダイヤモンドの様にキラメイて居た。
 それから又男は一日に一度はキッと女の家の格子をあけた。一日中居る事も夜更けてかえる事もあった。けれ共女が男にさわる事をゆるしたのはそのつめたくて美くしい手の先だけであった。
 若い男の血を目に見えない形に表れないところから吸いとって美くしさはますます女の体にまして来た。女のそばに近よる男は自分の体のやつれたのは知らないで段々美くしくなりまさる女を仰ぎ見て居た。
 女は二十になった。
 男は、
「私は、この頃まるで病んだ様になってしまった。大変やせた、自分でも気のつくほどだもの、私は日ましにやせながら日ましにお前のわきをはなれて居られなくなった」
 うるんだ目つきをして斯う云って居た。
「私達の一番美くしい心ばかりを集めて私達の一番立派な血ばかりを集めてお前は日ましに美くしくなって行くんだネエ」
 こんな事も云った。
「私はお前に一番好いところを捧げつくしてしまったんだから、キッともうじきに死んでし舞うだろう。私は心から御前を思ってたけれ共お前は私を自分の美くしくなる肥料につかったっきりなんだものネエ、見こまれたと知ってにげられなかったんだもの。私はお前の美くしいと云う事をあんまり見すぎてしまった、それで又私はあんまりお前からくらべると正直だったもの」
 やせてめっきり衰えたまだ若い男は毎日毎日来ては女の手につかまって居た。
「私はもうじき近い内に死ぬと云う事を知って居る」
と云った。女はどんな時でもひややかに笑いながら男には手先だけほかゆるさないでつっついたり、小突いたりして居た。お龍はその時お女郎ぐもの、大きなのをかって居た。いつでも自分の指の間に巣を作らせたりくびのまわりを這わせたりして居た。その時もお龍は自分のひざの上を歩るかせて自分ではその来手来手をふさいではからかって居た。こっちに行こうとすると手にぶつかり後にもどろうとするとさえぎられるのでくもはヒラリととんで男の首に這った。それからスルスルと行くさきざきにむずかゆい感じを起させながら胸を這って袖口から出た。それを女がつかまえて自分のひざにのせた。
 くもに這われて居る間男は又とないだろうと思われるほどの快い気持になって居た。
 だまって目をつぶってクモに這われて居る男を見て女は笛の様な音をたてて笑った。
 その日男はたまらないほどあまったるい気持になって家に帰った。そしてたたみの上にコロリと横になってニッコリといかにも嬉しそうに笑って眠に入った。
 翌朝になっても男は笑ったまんまねて居たけれ共もうあったか味もない口もきかない小ばなの妙にそげたひやっこい肉のかたまりになって居た。「あの人が一番さきに私を美くしくするこやしになったんだ!」女はこう云っただけだった。
 それからあとも男は幾人も幾人も格子を開けては特別に作られた女のそばによって居た。
 男達の心を取り血をしぼって女は若やかにますますその肌は白く髪は黒く目はかがやいて来た。特別に作られた女を美くしく(ママ)るために純な心を持った男は笑いながら幾人も幾人も死んで行った。男が一人死ぬ毎に女の美は一段進んで男の命と云う貴いものでつくりあげられた美くしさは銀の光りで月をつなぎ合わせた様なかがやかしさと気のボーッとなるほどのかぐわしい香りをもって居た。
 美くしくなりながら女は年をとって行った。
 長い間数知れないほどの男を気ままにもちあつかって居たけれども女はまだ処女であった、処女で居られる力を特別に作られた女はもって居た。
 うす暗いローソクの下で地獄の絵にせなかを向けて或る晩女は自分の体のすっかりうつる鏡に立って居た。頬は丸い唇も赤くて髪も黒いけれども女は目のまわりにあるうす黒いかげと頬にたった一つ茶色のシミの出来たのを見つけた。
「私の美くしさの下り坂になったしるしだ」
 すぐ女は斯う思った。もう今から四五年あとには自分もあたり前の女がする様な事をしなくっちゃあなるまいと思った。
 自分で特別に作られた女だと信じて居る御龍はあたり前の女のする事をしなければならないと云う事は死ぬよりもいやな事だった。
 も一度鏡の面をジッと見つめた。黒いかげ茶色のしみはたしかにあった。
 自分のためにぎせいになった男を見る時にもらす様な落ついたつめたい笑を歯の間からもらした。スルスルと帯をとき着衣をぬぎお女郎ぐもの一っぱいに手をひろげた長襦袢一枚になった。鏡を台からはずして畳に置いた。女は笑いながらその上に座った。座った足、手、頭はみんな下のかがみにそのまんまうつって居る。かがみにうつる自分の目を女は見つめて物狂おしい高笑いをした。そして右の手をツとふところに入れてまっしろなやわらかい胸の中ににぎって居たお女郎ぐもをはなした。
 女は目をパッとひらいてまっさおな笑をもらして鏡の中の自分を見つめた。胸の中の御女郎ぐもはクルクルクルとすばしっこく這い廻った。胸の御女郎ぐもがジッとしたかと思うと特別に作られた女の体は笑ったまんま見つめたまんまコトリと音をたてて鏡の上にのめった。笑ったまんま女は鏡の中の自分の瞳を見つめて居る。ローソクはケラケラケラと笑いながら黄色な焔をあげて居る。
 お女郎グモはソロソロと胸から首をつたわって女の目に上った。そしてパッと見ひらいたまつげとまつげとの間に銀の様な糸をはり始めた。キラキラとひかるこまかいあみの中から瑪瑙の様な目は鏡の中のあみの中にある目と見合わせて口辺にはまっさおの笑をたたえて居る。特別に作られた女の不思議な姿を朝の光はいっぱいにさして居た。
 目の辺に黒いかげはなく頬に茶色のしみもない特別に作られた女はローソクのたわむれを知る事は出来なかった。





底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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