南風

宮本百合子


 昨夜、ドッドと降って居た雨が朝になってすっかり上った。
 白っぽい被のかかって居た木の葉も土も皆、美くしくうるおおされて、松だの槇だのの葉は針の様に、椿や樫の葉はテラテラに輝いて居る。
 きめの細かくなった土面から、ホヤホヤと湯気が立って、ひどい雨にながされて出来た軽い泥の襞が、工合よくあちこちに波打って居る。
 小石は、新鮮な光りを出して居るし、丁樹の香りが一層高い。
 もう真黄に熟れて居る金柑が、如何にも美味しそうに見える。
 私が七つか八つの時分、金柑が大好きで、その頃向島に居た祖母のところへ宿りに行くときっと浅草につれて行ってもらって、金柑の糸の袋に入ったのを買ってもらった。
 狭い帯を矢の字にして、赤い手袋をした小さい手に金柑の袋を下げて満足して居た私が、金柑の実の中に笑って居る。
 水気の多い南風がかるく吹いて、この間種ねを下した麦だの、その他の草花の青い芽が、スイスイと一晩の中に萌え出て仕舞って居る。
 私のきらいなあの紅い椿も、今日は、うるんだ色に見えて居るし、高々と、空の中に咲いて居る白木蓮の花が、まぶしい。
 私の体のまわりに一時きに春が迫った様な感じがする。
 洗った髪を肩に下げて、一枚着物をうすくした体をあっちこっちと運んで、急に変った庭の様子を見て歩いて居る。
 丁度今朝抱いて居た雛がかえって、母親の茶色のムクムクな羽交の中で、時に、チチチチとつつしみ深い声を出して居る。
 麦の芽が萌えた様に、雛も萌えたと云う様な、のどかな気になる。
 幾羽かえったかまだ分らないけれ共、うす黄な、妙に足が後についた雛に早く会いたい。
 何か薬がとれると云う、細い幹に藤の様に下った白い小さい、リリーオフ・バレーの様な花が、静かな風にゆれて、折々かすかに、カサカサカサカサと云って居る。





底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1915(大正4)年4月4日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
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