ズラかった信吉

宮本百合子



    (※(ローマ数字「I」、1-13-21)[#「(I)」は縦中横]

        一

 東海道本線を三等寝台車が走るようになった。だがあれは、三段にもなっていて、狭く、窮屈で養鶏所の人工孵卵器ふらんきみたいだ。
 シベリア鉄道の三等は二段だ。広軌だから、通路をへだてたもう一方にも窓に沿って一人分の座席があって、全体たっぷりしてる。
 信吉は、そういう三等列車の上の段で腹んばいになり、腕に顎をのっけて下の方を眺めていた。下では三人の労働者風なロシア人が、カルタをやっているところだ。肩のところにひどいカギ裂きの出来た海老茶色えびちゃいろのルバーシカを着たの。鳥打帽をぞんざいに頭の後ろに引っかけたの。つよそうな灰色の髪の小鬢こびんへどういうわけか一束若白髪を生やしたの。三人ともまるで仕事みたいに気を入れてやってる。海老茶色ルバーシカの男は、真面目くさった顔つきで、ときどき横っ腹を着ているものごときながら、札をひろったり、捨てたりしている。
 信吉は、丸まっちい鼻へ薄すり膏汗あぶらあせをにじませたまま、暫く勝負を見ていたが、
「あーァ」
 起きあがって、伸びをした。
「そろそろめしか……」
 この三人は、きまって飯時分になるとカルタをやる。そして、互に負けを出し合い、停車場へ着くと物を買いこんで来てめしにするんだ。
 ところでここは、モスクワ行三等列車の棚の中だ。どっちを向いて何と云ったところが、信吉の独言をわかってくれるような者はありっこない。
 信吉はズボンのポケットから蟇口を出した。蟇口は打紐でバンドにくくりつけてある。下唇を突き出し、鼻の穴をふくらがして銭をかぞえた。モスクワまで、まだあと五日か、チェッ!
 一枚の紙を、信吉は胡坐あぐらをかいている膝の上へのばした。果しないシベリアを夜昼鋼鉄の長い列車は西へ! 西へ! 砂塵を巻いて突っ走る。信吉は棚の上で日に一度はきっとこの紙を出しかけた。所在なかったり、寂しくなったりすると読む。
 手紙だ。甥の卯太郎がよこした手紙だ。
しんあんちゃ。おかわりありませんか。うちではみんな丈夫ですから安心して下さい。けんど、村は不景気だヨ。山上ん田でも、佐田んげでも小作争ギおこった。源さや忠さや、碌さは警察さあげられて、まだ帰ってきねえ。村で新聞とっているのは田村さんげと(これは東吉の村で村長をやってる男だ)忠さげだけんなったど、忠さんは警察さあげられたから、新聞ことわるようにすっぺと婆さまが云っていた。碌さの家へ電気会社の人が来て線を切って行ったから夜はローソクをつけています。
 新井の伯母が裏の川さはまって死んだよ。ゴム工場があんまり熱くて目がくさって、うっかと川さ落ちて死んだそうです。東京新聞さそのことが出ていたそうです。おっちゃんが今朝土間で新井の伯母が川さはまって死んだそうだ。せえってたら玉子集めの六婆さがへって来て、んでも東京新聞さ出たちゅうでねえけ。東京新聞さ書かれたら伯母も成仏すっぺと云ったら、おっちゃんがおっかない顔してコケ! かえられるこつか! と怒りました。
 あんちゃとこの爺さま、きのう着物着てげんめん運動でみんなと町さ行ったよ。おら、地蔵でいきあったら婆さまもいっしょに歩いていた。信あんちゃさ手紙書くだ。せえったら、ばさまが気いつけてニンニクかめと云ってくれと云いました。
 信あんちゃ、エハガキもっとおくれよ。おらも行ってみてえな」
 へん! 生意気云ってらあ。真黒な裸足はだしで末っ子の糸坊を脊負わされて学校へ通っている卯太郎の顔が、ありあり目の前に見えて信吉は苦笑いした。町で、自転車屋に働いてた時分、信吉はよくこっそり卯太郎を自転車の後へのっけて村を一まわりしてやった。それで親類じゅうの誰よりなついて手紙までよこしたんだ。――どうかいいとこみてえに思ってやがる。……
 何一ついいことは知らしてない手紙でも故郷からだんだん遠くへ遠くへと行く信吉にとっては、懐しいたよりだ。信吉は鼻をほじくりながら、長いこと膝の上の雑記帳から引ぱいだ紙を眺めていた。

        二

 地図で見ると、日本は実に小さい国だ。小学校でつかう千八百万分の一地図で、樺太からふとの端から台湾までたった六寸五分だ。幅はと云えば一等ひろいところで五分だ。
 この上に現在ぎっしり詰って生きている九千万人の人間を彫り出せと云ったら、いかな豆彫の達人もちょっと閉口するだろう。
 東は太平洋だ。いろんな冒険家がアメリカとの間を横断飛行やろうとしているがまだ成功した者は一人もない。そんなに広い太平洋だ。
 西は日本海だ。狭い日本で急速に資本主義が発達した。儲けるすき間のなくなった資本家が、先ず朝鮮をしゃぶり抜いて満州や沿海州へ侵入し、ひと当てやろうとしていることは知らない者のない歴史的事実だ。
 大きいところでは南満州鉄道、北樺太石油、最近借区料問題でソヴェトとの間に大ごたごたをまき起し、さも日本の大衆に直接利害のあることみたいな体裁で騒ぎたてた露領漁業組合。――
 信吉が働いていた××林業株式会社というのも、たちはそれだった。木材をやすくアルハラの山奥から伐り出し、いかだで船まで流して内地へ製紙原料、製箱用材として売り込む。それが商売だ。
 去年の秋、××林業株式会社現場行人夫募集の広告を見たとき、自転車屋が潰れてあぶくれていた信吉は、気が動いた。
 村じゃ、あぶくれの三男坊なんかにっちもさっちも行くもんじゃなかった。十日に二日ぐらい日雇がある。日雇は三十銭から七十銭どまりだ。それで食うのはこっち持ちだ。
 分家も出来ないでふけた兄貴二人が、板の間の火の気のない炉ばたで、ときどき煙管きせるで炉縁をはたきながら額をつき合わしている。
 親父は裏の納屋の方でゴトゴトやってる。親父は小心で何かにつけて、兄貴たちをはばかっているんだ。
 信吉自身は、重苦しい空気を背中にこらえて、切戸の前へころがり、掌の中へかくして、半分吸いのこりのバットを、ふかしていた。
 徴兵のがれで嬉しいと思ったのなんか、こうなって見りゃあぬかよろこびだ。――
 ええ、行ってやれ!
 監獄部屋や蟹工船の話をきいている信吉には、××林業の現場とはどんなところか、不安でないこともなかった。だが、村を出るに贅沢云っちゃいられない。
 親分のハゲ小林という半ズボンに引率されて、アルハラの現場小舎へ着いたら、山また山の黒っぽいもみの葉にサラサラロシアの粉雪が降りだした。
 日本人が事務員を入れて三十人足らず。ほかにロシア人の労働者が五六十人稼ぎに来ている。日本人は日本人のバラック、ロシア人はロシア人のバラックと、山の斜面に四棟の小舎が建っていた。
 根元へ斧を入れられた樹は先ず頭から振れ出し、細かい雪煙をたてて四辺あたりの下枝を折りながら倒れる。それにたかって枝をおろす。それから雪の上、林の間を馬に引っぱらせてアムグーン川の上流まで運び出す。
 そこでは日本人夫の経験のあるのが、材木をドシドシ氷結したアムグーン川へころがし込んだ。春、解氷期になると、ロシアじゅうの川は気ぜわしく泡立ちながら氾濫する。今こうやって氷の上へぶちこまれている材木は、アムグーン川の氷がとけて水嵩みずかさがますと一緒に、河口までひとりでに押し出されるという寸法だ。
 人夫募集広告には、日魯林業株式会社直営現場となっていた。が、それは表面上のことで、内実は伐り出しから船渡しまでがいくらと、親分の請負だ。信吉のような平人夫は日給二円。一人前の仲仕が二円八十銭位とった。金は、いきなり事務所の会計では渡さず親分のハンコがいった。山でいるだけの小遣いは露貨で貰って、残りは日本の金で宅渡しだ。
 ××林業が現場を開いた年から毎年出稼ぎに来ているという源が、或る日バラックで腹掛のドンブリから受けとって来た金を出しながら、
「畜生、なめてやがんな。ルーブリをいつだって六十五銭よりやすかあ換算しやがらねえ。手前たちの税なんか、どんなルーブリで払ってやがるか知れやしねえのに……」
と云った。信吉には初耳だ。
「相場あ、違うのけ?」
「ルーブリはお前、国定相場と暗黒相場ってえのと二通りあるんだ。国定で行きゃあ一ルーブリは一円がちょいと足を出すのよ。ところが、国法で、ソヴェトはきんを国外へ持ち出すことを許さねえ。そこでチャンコロが密輸入で儲けたルーブリをみんなロシアの国境で投げ売りする。奴等あちゃんと人を使ってそいつを片っぱしから買わせてやがるんだ。ソヴェトへ払う税や、お前、労働者に払う金は、図々しくそういうルーブリでゴチャマカしてやがるから、会社あ肥るんだ。ソヴェト対手あいての利権会社あみんなその手をつかってるのよ」
「そうかい!」
 どうりで分った。ハゲ小林が、人夫への換算払出しには割方鷹揚なわけだ。人夫への換算率は六十五銭だが実は三十銭ぐらいで買ったルーブリだとすりゃ、もうそこで三十五銭は丸儲けだ。円で払うぶんが減りゃ減るほど奴等が得するんだ。
「ようし、畜生! じゃ俺あ帰るまで一文だって換えねえぞ!」
 信吉が例の丸まっちい鼻をいからかして力んだら、源が、
「雪のあるうちゃ誰しもそう思うのさ。今に見ろ。春んなってアムグーンが流れ出して見ろ。つい、そんなことを云っちゃいられねえようなときがあるんだ」
 だんだん会社のからくりがバレた。
 それでも、××林業の現場はソヴェトの領土にあるおかげで、労働条件が内地よりズットましだった。ここでは日本人経営の会社に対してもソヴェト労働法がものを云うんだ。山また山の雪の中だが日本人もロシア人なみに八時間労働制だ。時間外労働は二時間ずつ一区切りで割ましがついた。ここでだけは、病気、怪我で休んでも日給は一文もさっぴかれずにとれた。

        三

 信吉が現場へ来て二ヵ月ばかり経った一月の或る朝だ。ロシアの真冬、七時と云えばまだ暗い。壁の高みに吊ったカンテラの光をぼんやりうけながらストーブを中央に二十何人寝ているのが、ぼつぼつ起きだした。
「……こりゃ今朝はひでえぞウ……かけてる布団の襟がバリバリだあ」
 すると、二重硝子をはめた窓下に寝ていたのが、つづいて頓狂に叫んだ。
「ヤッ、こりゃえげねえ! もちっと知らずと寝てたら、ハアそれなりオダブツだぞウ」
 いつの間にか細かい雪が窓から入って来て、夜具の裾へ手で掬うほど吹きだまりをこしらえていた。
 みんな、厚いメリヤス・シャツのまんま寝る。信吉はその上へジャケツを着こみながら、窓んところへ額をおっつけて戸外を見た。何とも云えぬ艶をもって壮厳な碧黒い空が枝という枝の端まで真白く氷花に覆われた林の間から重く見える。
「ほんとにみらあ」
 信吉は、起きぬけの素足の指を布団の上で海老にした。
 ひどく凍ると空気は板みたいにこわばって、うまく吸いこめるもんじゃない。飯場へ行くまでにも髭は白くなるし、頬っぺたや口のまわりが針束で刺されるように痛んだ。
 ガヤガヤ云って汁かけ飯を食ってると、信吉なんか口も利いたことない若いのが、防寒帽をかぶって外から飛びこんで来るなり、
「おーい、二十七度だぞウ!」
と怒鳴った。
「ほんとけ?」
 嬉しそうな声がした。
「そうはなるめえ、こんでも……」
「見て来たんだぞ、わざわざ事務所へ行って! 二十七度強だアしかも」
「占めた!」
 ドスン。誰かが飯台をはった。
「今日は休みだぞウ」
 信吉は、キョトンとした顔で、わきの疣政えぼまさに訊いた。
「二十七度だと休みなんかね?」
「零下、二十五度より寒けりゃ働かしてなんねえっていう規則がソヴェト政府から出てるんだ」
 みんながゆっくり飯場にかまえこんでいるところへ、ハゲ小林が入って来た。
「出ねえのか?」
 すると、さっきの若いのが威勢のいい声で、
「今日は二十七度だ」
と云った。ハゲ小林は、それなりストーブの前へ行って暫くあたってたが黙ってまた出て行った。
 信吉は、何だか愉快でたまらなかった。今日はゾックリ自分たちの身丈が伸びて、ハゲ小林も事務所の奴等も目の下に見るようだ。寒暖計が下ってるうちは奴等あ、何としたって働かすことは出来ねえ。日給つきの休みだ!
 日が出きれないうちに吹雪ふぶきになった。
 昼すぎ、バラックから小便しに出た信吉は、ロシア人バラックに人がたかってるのを見つけた。
 喧嘩がはじまったか?
 休み気分でブラリと行って見たら、バラックの内では茶番みたいなことをやってる。
 ルバーシカを着て鳥打帽かぶった若い男が本を抱えて歩いて行く。すると、こっちから、空罐のデカイのを頭へのっけて、外套へあっちこっちに手を通した髯の長い奴が、チョコチョコ小刻みにやって来た。
 鳥打帽は、それを見るといそいで寝台のかげへかくれた。やりすごしといて、いきなり後から組つき、はりとばした。頭から空罐がスッ飛んでがんがららん。えらい騒ぎだ。ぶっこかされながら外套へあっちこっちに手を通した奴が、大きな声で何か云った。ワーッ。見物が笑う。
 鳥打帽はとうとうとりかえっこに、自分が空罐かぶって、髯長に本をもたせて、鳥打帽をかぶせちまった。そして素早くまたかくれた。
 今は鳥打をかぶらされ、ルバーシカだけになった髯長がヨタヨタ行きかけようとすると、またまた忍びよった者がある。棒をもってる。ルバーシカの胸にビールの口金をとって勲章につけている。
 こん畜生!
というような掛声もろとも、これは手荒い。さんざん棒でひっぱたいて、クタリとなった奴をひっかついで、勲章を撫で撫で引こんだ。かくれていた元の鳥打が、姿を現す。
 何とかかんとか、ウラーッ!
 ウラーアッ! バラックを揺がす大喝采だ。
 信吉にも、労働者らしい鳥打の方がよくて、ビールの口金を勲章にしたのや空罐をかぶったのは敵役だということだけは分る。伸びあがって笑いながら、山羊皮外套に防寒帽をかぶったまんまでつめかけてるロシア人に混って手を叩いていたら、
「――どうだい」
 声かけた者がある。朝、二十七度だぞウと怒鳴った若い男だった。

        四

 これがきっかけで信吉は松太と、だんだん親しく話をするようになった。
 ちょうど、二十七度休みがあった十日ばかり後の宵のくちだ。ロシア労働者たちが、星空の下に白く凍った雪を絶えず、キ、キ、と鳴らしながら林の間を三号バラックの方へ集ってゆく姿が見えた。
 この間の茶番以来、信吉はロシアバラックの生活ぶりに好奇心を抱いている。いい加減集りきった頃をはかって、自分も行って覗きこんだ。
 へえ。……今日はまた、やに真面目なんだね。演説だ。バラックの奥ではランプの明りで赤い髪を火のように光らせながら、一人の若い男が立って喋ってる。ときどきつっかえる。そうかと思うとタワーリシチー! レーニン何とかかんとか※(感嘆符二つ、1-8-75) 大きな声で叫んで拳固を上から下へ振りまわす。
 その男がすむと、眼っかちの、無精髭をはやした小男だ。唾をとばしながら何か云っちゃあ、裾のひきずるほどだぶだぶな自分の山羊皮外套を、片手にひっ掴んだ防寒帽でもってバサッ、バサッとしばく。
 信吉は、丸まっちい鼻をおかしそうにひくつかせて、のり出した。こいつ! 見覚があるぞ。山で馬を追うときまるだしの恰好で喋ってやがる――。
 だが、みんな何をいきまいて演説してるんだろう?
 袖を通さず羽織った外套の襟を押えてちょっと前へ出ようとしたときだ。誰かが後から肩を押えた。ロシア人だろうと思って振向くと、ハゲ小林だ。
「来い」
 信吉には訳がわからない。
「出ろ。聞えねえのか」
 体をよじってロシア人の間をバラックの外へ出ると、
「何していた」
 歩きながら、ハゲ小林が低いドス声で訊問した。
「何って……見てただけだ」
「うろつくんじゃねえ。変な真似して見ろ、敦賀へ上るなり引っくくらせるぞ!」
 ハゲ小林が事務所の方へ行ってしまうと、信吉はチェッ! 雪の上へ唾をした。演説を見物したからって一々引っくくられて堪るけ!
 翌日、昼休みの後で、松太が、
昨夜よんべ、どした」
 信吉の働いてるわきへよって来た。
「……いたのか? お前も」
「…………」
「何の演説だったんだろ」
「レーニンの死んだ日よ、昨日は」
「ふーん――ハゲの奴、ちょいちょい三号バラックなんぞさ行くのか?」
「見張ってやがんのよ」
「なして! バカバカしい。一つとこで働いてるロシア人にも近よっちゃいけねのか?」
「だって、お前」
 松太は、ゆっくりした口調で云った。
「日本人夫がみんなソヴェト労働者のやり振りを知った日にゃ、このまんまじゃ〔五字伏字〕」
 橇へつけて出す材木へ二人して符牒を入れているところだ。
「会社は日本人夫をあっちさ近づけめえ、近づけめえとしているんだ」
「…………」
「ロシア人夫あ、お前、俺等みてえにてんでんバラバラに狩りあつめられて来たんじゃねえ。自分の組合もってて、政府の職業紹介所から団体契約で来てるんだ。そんだから、××林業にとっちゃ日本人夫なんぞ一人や二人どうしようとこわくねえ。奴等の都合で難癖つけて今日んでもボイこくれるが、ロシア人夫にそりゃ出来ねえんだ」
「なしてだい」
「組合の規則でよ!」
 太い声を松太が出した。
「ソヴェトじゃ、組合の規則で労働者がてんでの権利ってものをちゃんときめているんだ。賃銀のたかも、解雇するにも組合の規則でやらなくちゃなんねえ。工場なんかじゃ、お前、一年に一ヵ月も有給休暇があって、労働者が休みに行く家まで政府からわり当てられているんだとよ」
 また別なとき、松太がこんなことを云った。
「こんな山ん中じゃわかんねえが、なんでもモスクワは今大した景気でおっつけアメリカ追いこすぐれえだとよ。どこもかしこも人増しで、引っぱり凧だとよ。日本の不景気た大ちげえだ!」
 信吉は、だんだん自分が来ている土地について考えるようになった。
 山から上って、バラックでみんな寝ころがってボヤボヤしているようなとき、信吉は急に、こうしちゃいられね! という気になって坐り直した。とってもおかしいじゃねえか。ここは世界のどこにもまだ無い労働者の国なんだ。ソヴェトだ。××林業の日本人足のバラックだけが、わざとしびらされて何にも知らずボーとしてるが、つい山の外じゃ、もっと、もっと何か素晴らしいことがあるに違えねんだ! そうじゃねえか? ここの地べたに生えてる木を伐ってるだけで、八時間労働に有給休日という、内地じゃめぐり会えねえ思いをしているんだ。
 信吉は、目立たないようにハゲ小林からルーブリをひき出した。
 春になった。アムグーン川が流れだした。日本人夫は、トビ口をかついで、春の泥濘ぬかるみにすべりながら低い川岸に散らばった。
 村に近い番屋で働くようになると、人夫の金使いが荒くなった。
 山から吹く風は冷たいが、太陽は汗ばむぐらいにぬくんで濁って水嵩のましたアムグーンの面や、そこを浮いて行く材木を照らした。川岸の腐った落葉の下から白い小さい雪割草の花が開いている。
 源がジャケツに腹がけ姿でトビ口にもたれながら或るとき、
「この川っぷちとも今年でおさらばか……」
と云った。わきにしゃがんで、草の芽生えを眺めてた信吉は、顔をあげて訊いた。
「……なしてだい」
「この会社も、もう来年までやっちゃいかれめえよ。何せソヴェトじゃ労働者が主人で労働法がガン張ってるから、内地みてえにいろんな口実つけちゃ労働者をキッキと搾れねえ。内地の景気あガタ落ちでも、ここで材木一本伐り出す費用にゃかわりがねえんだ。それに、なんだってえもの、この頃は逆にこっちの景気がよくって、今に日当が三四割がた上るって話だもん、お前、会社あたまらねえや」
 源は、手洟てばなをかんだ。〔十七字伏字〕が土台から違うんだ。
 いよいよ、××林業の現場引あげが目の前に迫ると、若い信吉の心は苦しくなった。
 半年、大きくゆったりしたロシアの山の中で働いた後、喜久地村のいじけた希望のない暮しへは何としても戻る気になれない。この折をのがしたら、もう二度と日本は出られない。手をのばしさえしたら、途方もない幸福がありそうなこのソヴェトというところへは来れないんだ。今、この折をのがしたら。――
 ロシアの春の夜の濃い闇の中で、信吉は幾晩も長いこと寝がえりうった。この機会をのがしたら、今はずしたら、いつ、うだつの上るときが来べ?――
 信吉はとうとう、明日××林業株式会社事務所出張所へ総集合という前の晩、谷間の六号番屋をズラかった。

        五

 だから、モスクワ行三等列車の棚の上で、卯太郎の手紙を眺める信吉の心は、しんみりしている。
 のぼり列車がジマーというところで停ったときのことだ。みんながらがら汽車を出て行く。信吉も、カラーなしの縞シャツの上から黒い上衣をひっかけて、片手にヤカンをぶらさげ、群集にまじって熱湯配給所へ出かけた。
 もう、ずらっと男女の列だ。昔から、ロシアの停車場にはこういうところがついていて、旅客はただで湯をとり、自分の坐席で茶を入れて飲む習慣だ。
 熱湯配給所の小舎のわき、棚の前へ土地の物売りが並んでいる。
 ゴムの尻当てみたいな輪パンがあるナ。いくらだ? 四十五カペイキ? たけえ!
 樺の木の皮へつつんだバタを売ってる女がある。
 次は――玉子。
 バケツに塩漬胡瓜きゅうりを入れて足元においている婆さんから信吉はそれを三本買った。ナイフで薄くきってパンにのせて食うんだ。
 焼豚の脂肉あぶらみ――
 鶏の丸焼もあるが、ヤカンを下げた連中は値をきくだけで通りすぎちまう。
 やっぱり気をつけて金をつかってるんだ。
 柵が終ろうとするところに、桃色の布をかぶった十五六のぼってりしたロシア娘が、可愛らしい口に細かい黄色い花の小枝を咬えながら、牛乳を売っている。
 信吉は何しろ財布があやしいから胡瓜やオーブラ(干魚)で幾日もしのいで来ている。不意と濃い牛乳を流しこんで見たくなった。
「なんぼ?」
 四合瓶に一杯つめたのを指して訊いた。
「五十カペイキ」
 しめ、しめ! 確にそうきいたと思い、信吉は牛乳瓶をとって、娘の手へ五十カペイキわたした。
 すると、どうしたこった! 娘はいきなり口から花の枝をほき出すなり大きな声で何か叫んだ。信吉の手元へとびついて来て、持ってる牛乳瓶をひったくろうとする。冗談か? そうじゃない。何すんだ! 不意をくらった信吉が思わず肱で娘をよけようとした拍子に、ヤカンからちょんびり湯がこぼれた。娘の足にそれがかかった。娘は大業な悲鳴をあげた。
 瞬間の出来ごとだった。が、忽ちまわりに人がたかって来た。
 何だい。
 どうしたんだ。
 支那人じゃないか?
 すると娘は、涙も出ていないのに甲高なすすりあげるような早口で、何か訴える。何を云うのかわかりゃしない。
 信吉は面倒だから、人の間をぬけて出てしまおうとした。どっこい! いつの間にか、四十がらみの黒ルバーシカを着た大きい男が信吉の肱を軟かく、しかし要領よく掴んでいる。
買ったんだよクピール! 買ったんだよクピール! うるせえ奴だナ」
 それをおっかぶせて、娘がまた啜りあげるような早口でまくしたてる。――
 途方にくれた信吉が、そのときオヤという顔をして人だかりのあっちを見た。視線を追って、数人がそっちを見た。
 何だ?
 ――日本人だ。
 いいなりをしているんで、尊敬をふくんだ云いかただ。
 話しながらブラリ、ブラリこっちへやって来ていた二人の日本人は、その声でヒョイと顔を向けた。そして、立ちどまった。
「何です?」
 年とった方が奇麗に剃った顎をあげて、上気のぼせた穢い顔をしている信吉の方を見た。
「――朝鮮人だよ!」
「へえ……」
 そのまんま、またブラリブラリ……。
 ムラムラっとして信吉は、息が早くなった。どいてくれ! 近くの一人へ体あたりにぶつかった。何だと思ってやがるんだ。どけったら!
国家保安部ゲーペーウーはいないのか」
 ピーッ。誰かが口笛を鳴らした。信吉の、若々しい生毛のある唇からは血の気が引いている。やけくそに、もう一遍つっかかって行こうとしたとき、
「どしたんだ?」
 おお。日本語だ! 新しくもない鳥打をかぶって、縁無眼鏡をかけた男が直ぐ、達者なロシア語で牛乳売の娘に何か云った。それから信吉に、
「君、いくら払ったんだ?」
「五十カペイキだ」
「この女は、一ルーブリ五十カペイキと云ったって云ってるんだ」
 二人の問答がはじまると、群集はやわらいでガヤつきだした。
「この女の足へ、湯ぶっかけて逃げようとしたって、そうか?」
「冗談じゃねえ! そいつがとびつきやがった拍子に、ちっとぱっかこぼれたんです」
 縁無眼鏡が、ロシア娘にうまいこと一本参らしたと見えて、群集は機嫌よくドッと笑った。さすがにテレて娘は桃色の布の端をひっぱりながら、外方そっぽを向いてる。――
 一ルーブリ五十カペイキもする牛乳なんぞ、誰が買うか!

        六

「どうもありがとうござんした」
 やっと人垣をぬけ出た信吉は洋服の袖で顔を拭いた。
「いきなりまくしたてられて、ドマついちゃった!」
 また顔を拭いた。
 少しはなれて、一緒に停ってる汽車の方へ戻りながら、縁無眼鏡が、
「どこまで行くんです」
ときいた。
「モスクワへ行くつもりなんですが……」
「誰かいるのかね」
「いいや」
「働く口があるんですか」
「そうじゃねんです」
 信吉は、人なつこい気になってチラリと相手の男を見た。風采は上らないが、自分より学問している人間なことが感じられた。
 汽車の下まで来たとき、その男は腕時計を見た。
「まだ二分ある」
 ――さっきから耳につくのはどこの訛りなんだろ。信吉は何心なく、
「あんた、どっからけ?」
ときいた。
「……朝鮮です。――ずっと北の雄基ゆうきの先だ……じゃ、また」
 スタスタ自分の乗っている車の方へ行ってしまった。
「ヤ」
 遅ればせに声を出したっぱなしで、汽車が動き出しても信吉は、ボンヤリしていた。――鮮人かい!……内地で鮮人と云えば、土方か飴売りしかないもんと思ってる。自分はそれよりひどい暮しをしている内地人だって、〔十四字伏字〕。
 震災××のとき、何でえ、〔八字伏字〕! 〔四字伏字〕! ハッハッハと新井の伯父は裏の藪で竹槍××の先を油の中で煮ていた。〔十九字伏字〕。だが、大した罰をくったこともきかなかった。
 その鮮人に計らず信吉は自分の難儀を助けられたんだ。
 次の朝、建物の前へ赤い横旗を張りわたした小さいステーションへとまったとき、あっちからやって来る縁無眼鏡の姿を見ると、信吉は何だか気がさした。
 けれども、対手は一向頓着ない風だ。
「やあ」
とむこうから声をかけた。
「きのうは、ありがとうござんした」
「いや」
 手にもっていた新聞をひろげながら、
「今日はノボシビリスクだね、シベリアもあと半分だ」
 信吉の気がほぐれた。ぶっきら棒に、
「日本語うめえね。俺、ホントに日本人かと思った」
「……日本人じゃないか!」
 縁無眼鏡は皮肉に薄笑いした。
「どこで言葉覚えたのけ? 東京かね?」
「ああ」
「勉強したのかね」
「うん」
「大学か?」
 その男は黙って煙草ふかしていたが、低い声で、
「旅券もってるか?」
と信吉にきいた。信吉はドキッとした。こいつ――知ってやがんだべか、ズラかって来たのを。――
「……お前は持ってるのか」
「…………」
 今度はその男が黙っていた。
 日本人夫の旅券は一まとめにハゲ小林が持っていて勝手にさせないんだ。
「どっからだ?」
 しばらくして対手が訊いた。
「――アルハラの奥だ」
「鉱山か?」
「林業だ」
 パッと力を入れて吸殻をプラットホームの土へ投げつけ、縁無眼鏡は靴でそれを丹念に踏みけした。
 縁無眼鏡の名は李と云った。
「じゃあ〔四字伏字〕と親類ぶんだハハハハ」
 汽車が動いてる間でも、信吉の場席へブラリと李がやって来るようになった。
「ホ。ホ。これだけの石油がウラルから来るようになったんだなア」
 引こみ線に止っているタンク型の石油運搬貨車を見て李がひとりで感服することがある。そうかと思うと信吉が窓から日本の十九倍もあるシベリアの広い耕地の果を指して、
「あれ、あげえな機械が動いてる、何だべ」
と叫んだ。
「どれ?」
「ほれ、近眼で駄目か?」
「ああ、トラクターだ。耕作機械だ。近頃ソヴェトじゃあれで耕して蒔くようになったんだ」
「ふーむ。何しろでけえ土地だもんなあ……」
 シベリア黒土地方の春を突っきって走る浦塩うらじおモスクワ直通列車の、万国寝台車では、ジェネワの国際連盟へ出かける二人の日本人とカナダのソヴェト農業視察団がめいめいの車室でウイスキーをなめている。三等車の板の棚の上では、どういう目的でモスクワへ行くのかはっきりわからない知識的な朝鮮人と、漠然プロレタリアートの幸運にあこがれている日本の若者信吉とが、黒パンの屑をねてポツポツ喋りながら、揺られておった。

    (※(ローマ数字「II」、1-13-22)[#「(II)」は縦中横]

        一

 ひとり。
 ふたり。
 さんにん。
 よにん――
 十から十三四ぐらいまでの男の子が鉄柵の前へ並び、小さい木の磨台をおっぴらいた両脚の間へ置いて靴磨きをやってる。
「小父さん、磨かせな、よ!」
「黒靴みがき! 黒靴みがき、十カペイキ!」
 トントン、パタパタ、
 トン、パタパタ。
 商売道具の細長い刷毛はけで赫っ毛のチビが台をたたいてる。後は日の照りつけるクレムリンの壁だ。鉄柵との間に狭い公園があって、青草が茂っている。
 信吉は、大通りのこっち側で、煉瓦砕きをやっている。教会の取こわしで、屋根はブッコぬけて、壁だけがまだ残っている。壁に細かい薄色煉瓦をはめこんで、天使だの、獅子だのの模様がついていた。信吉が、左手はミットみたいに先の四角な帆布の袋へつっこんで、せっせと砕いている煉瓦屑の表にも、そういう模様がついている。
 モスクワへついて十五日目の、天気のいい昼まえだ。
 ――……だがどうもわからねえ。
 モスクワへ着くなり、西も東もわからない信吉はすっかり李の厄介になっちゃった。住居権のことから、職業紹介所、住むとこのことまでして貰った。そして三日目にもう職にありついて、いい塩梅にこうやって働いてるんだが――わからねえ。
 ソヴェトは労働者の国だ。働くものの天下だ。アルハラの山奥で松太がそう云ったし、信吉もバラックのロシア労働者ののんびりした自信ありげな様子で、それを感じた。
 ところがモスクワへ来て見ると、そのソヴェトでも、決してみんな一様に暮してるんではねえ。
 現に信吉はここで八時間一ルーブリ六十カペイキの煉瓦砕きをやっている。案外暮しは楽じゃねえ。
 その信吉の目の前を立派な赤条入りの自動車にのった男が通って行く。しかし、下もあって、たとえば、あっち側の大きなパン店のところを見ろ。きっといつだって乞食の一人や二人ブルブルしながら立っているんだ。
 なるほど、特別いい装をした男や女ってものはモスクワじゃ見当らない。シベリアを汽車で来る間に見ていたような男や女が、いそがしそうに一日じゅう踵を鳴らして歩いてる。
 全国の職業紹介所は連絡していて、十日目ずつに労働省へ報告を出し、政府じゃ、どの産業に何人労働者が不足しているか、またあまってるかってことを、いつもハッキリ知って、ドシドシわりあてて行く。
 ソヴェトでは、産業を他の資本主義国みたいに箇人箇人の儲け専一にやってくんではねえ。ソヴェトには人間が一億六千万いるんだそうだ。その人間が食って、働いて、休んで勉強するには、一年これこれのものがいる。だんだんいいものを沢山拵えなければなんねえから、その元手がなんぼいる。その勘定を土台にして全同盟の産業をやって行くんだそうだ。
「そこが、社会主義の世の中のうちだ」
 李がいつか汽車んなかで、松の実を食いながら信吉に話してきかせた。
「だから、ソヴェトじゃ、だんだん工場がいい機械もっているだけのものを廉く沢山こさえられるようになるにつれて、労働者の働く時間が短くなって来てるんだ。今はざっと八時間だが、二三年するとたった六時間と少し働けばすむようになるんだ」
 そして、これを見たことあるか、と李は一つの図をあけた。なんだね、この両手ポケットさつっこんで眼玉ばっか引んむいてるのは。――ははん。資本家だナ。こいつが一九一三年に原料と機械に三十八億四千万ルーブリ出した。
 盛に働いてるなあ労働者二百五十万人か。そして三十八億なにがしから、五十六億二千万ルーブリ稼いだ。儲がつまり十七億八千万ルーブリ! でけえもんだなあ。
 そこでと、何だって? 労働者の賃銀はそのでけえ儲の中から八億二千万ルーブリ? あと九億六千万ルーブリってものは誰が分けて奪っちまうんだ。筆頭が企業家=資本家だね。なるほど。そいから実業家、政府の役人、地主。――ふうむ。奴等のおこぼれで食ってるのは何だ?
「これが宗教家さ、次が淫売婦、ペンがついてるのが御用学者に新聞雑誌記者、政治家、役者だ」
 この時計は何だね。労働者が資本家に稼ぎ出してやった十七億八千万ルーブリを、労働時間に換算して見た図だ。
 これだけの金は、一人の労働者が一日十一時間ずつ働き通して、年六百六十ルーブリ稼いだことになる。しかし、本当に労働者が貰う賃銀は全体で八億なんぼで、それを一人宛の労働時間に割ると、たった五時間分だ。後の六時間というものを、そっくり資本家の腹をこやすために労働者が搾られているわけなんだ。
「ドウでえ!」
 信吉は思わずその図の上を叩いた。
「ドイツの学者は、こういうことまで調べているんだ。現在ドイツにあるだけの機械をちゃんと労働者のために使えば、ドイツじゅうの労働者が一生のうちにたった八年間、それも一年に一月近い休暇をとって、一日八時間ずつ働けば、本当の必要は充分みたせるんだそうだ。――だがドイツの労働者がソヴェトみたいに資本家ボイコくらないうちゃ、夢物語だ……」
 李の話がまんざら嘘でないことは信吉にもわかる。
 だがその理屈が毎日の暮しの中にはそんなに手にとるように現れてはいねえ。やっぱり社会の段々というものは目に見えるところにあって、信吉はモスクワで、自分がそのてっぺんにいる身分だとは思えないんだ。……
 トントン、パタパタ、
 トン、パタパタ。
 呑気のんきにかまえてた靴磨きのチビ連が、俄に台をひっさらって、鉄柵の前からとび退いた。
 どいた! どいた! 水撒きだ。
 長靴ばきの道路人夫が、木の輪のついた長いゴムホースを、角の反宗教書籍出版所の壁についてる水道栓から引っぱって、ザアザア歩道を洗いだした。
 絶え間ない通行人はおとなしく車道へあふれて通った。
 四つ角で、巡査が赤く塗った一尺五寸ばかりの棒を、
 トマレ! ススメ!
 鼻の先へ上げたり、下したりして交通整理をやってる。遠くの板囲から起重機の先が晴れた空へつん出ていた。タタタタタタ、鋲打ちの響がする。
 仲間の一人が屑煉瓦の中から往来へ電気時計を見に行った。
「――おう、子供等茶の時刻だゾ」
 信吉は、ゆっくり伸びをしながら立ち上り、帆布手袋をぬいで鎚といっしょにそれを砕いた煉瓦の間へ隠した。――どれ、一時まじゃあ休み、と。――

        二

 焼きたてのパンの熱気と押し合う人いきれで、三方棚に囲まれたパン販売店の中はムンムンしている。
 信吉は煉瓦埃りのくっついたままのズボンで列の後にくっついて、辛棒づよく一歩ずつ動き、先ず勘定台で十二カペイキ払って受取の札を貰い、今度はパンをうけとるために続いてる列に立った。
 のろのろ前進しながらむこうの往来を眺めると、石油販売店の前から、ズット歩道の角まで列がある。
 よくよくものが足りねえんだなア。
 まさかモスクワがこんなじゃあるまいと思ったが、ひどい有様だ。こんなに列に立って買うパンが而も制限されている。めいめい住宅管理部から手帖をわたされて、その一コマが一人一日分だ。
 肉も、石鹸も、布地も、砂糖から茶までそれぞれ日づけがきまっていて、その手帖から切ったコマできまった分量だけ買うんだ。
 金があったって、手帖なしには買えないんだ。
 信吉のズッと前にいる婆さんは何枚コマを持ってるのか、白い上っぱりを着た女売子が両手で白パンをかかえては籠の中へ入れてやってる。ホイ、もう一本か。そう慾ばるない。
 次は、派手な緑色の帽子をかぶって折鞄をもった役人みたいな男だ。見ていると、白パンと黒パンをまぜて一斤半しか渡さない。コマの色が信吉のと違う。茶色だ。
 誰でも二斤貰ってるんだろうと思っていた信吉は、それから注意して見ると、労働者らしくない体恰好の男女だけ、一斤半だ。ソヴェトだナ。体を使う者とそうでないものとは、ちゃんと区別してきめられているのだった。
 窮屈なりに、考えてら。
 信吉は、ちょっとわるくない心持になって、パンを食い食いブラリと先のコムナール(消費組合販売所)へよって見た。モスクワ市中で食糧品は野菜から魚肉類まで大抵コムナールで買うようになっているんだ。
 ところがこの頃ときたら、コムナールにはジャガいも、玉ネギ、鰊ぐらいがあるっきりだ。
 見物がてらブラついていたんだが、信吉は急にパンをかむのをやめて一つの硝子箱へ鼻をおしつけた。
 米だぜ、こりゃ……!
「おい、ちょっと」
 順を待ち切れずに信吉は、若い男の売子を呼んだ。
「この米、なんぼ?」
「半キロ一ルーブリ三十五カペイキ――子供の手帖もってるかね?」
「子供の手帖?」
 バカにすんねえ。憚りながら一人前の大人だよ。信吉は威勢よく、
「これだ!」
と、ポケットからまだ新しい手帖を出して見せた。
「それじゃ駄目だ」
 どうして※(疑問符感嘆符、1-8-77) すると、売子に砂糖をはからしていた若い女が愛嬌いい眼付で、笑いながら、
「米は、子供の手帖でだけ分けてくれるんだよ。それでなけりゃ、こういう手帖でなけりゃ駄目なのさ」
 そう云って自分の赤い色の手帖を見せてくれた。
 勢が挫けた信吉はおとなしく、
「それ、何の手帖だね」
ときいた。
「消費組合員の手帖さ……」
 そして、いかにも気軽い調子でその女は信吉に云った。
「お前さんもお買いなね……どうして買わないの? 働いてるんだろ? じゃ何でもありゃしない。――あの窓口へ行ってそうお云い……ホラ、あの窓……」
 年かさの女にすすめられ、信吉は断りきれなくなって、空箱をつみ上げた横の窓口へ行った。振向いて見ると、世話好きな女はちゃんとまだこっちを見ていて、
「そこ、そこ!」
 指さして、首をふってる。
 その様子を見て耳飾りを下げた若い窓口の娘が声をかけた。
「お前さん、なに用?」
 モスクワじゃ役所でも店でも、どっちを向いても女が多勢働いている。信吉は、頭を掻いちまった。
 娘は、おかしそうに、小脇にパンを抱えたなり云うことが解らないでいる信吉の恰好を見ていたが、
「若しお前さんが組合員になりたいなら、はじめ一ルーブリだけ、出しゃいいんですよ。それから後は、毎月お前さんがいくら稼ぐか、それによって、割合で払うの」
と、ゆっくり、言葉を区切って説明した。
「――俺、今金ないんだ」
「それがどうなのさ! じゃ、またあるときにお出でな」
 わかんねえことがまた一つ出来た。組合へ入っていない者だって労働者という点では同じだ。ソヴェトが労働者の国って立て前で、一応手帖で金の威光を封じてるように見せてるが事実金だして買った別の手帖もってれば、食物でも何でも余分に貰える。そうとすりゃ、同じこっちゃねえのかしら? やっぱし、金のある者が金のねえもんより沢山取ることんなるんじゃねえか?――
 その金をどうしてとるかと云えば働いてとる。社会を運転して行くために必要な労働なら、仕事に上下はないと李が云ったのを思い出し、一層わけが分らなくなった。
 信吉が煉瓦砕きしてとってる金は、決して、折鞄抱えてあるいてる技師の月給と同じじゃない。労働者の権利が平等な筈のソヴェトで、何故賃銀の違いが在るんだろうか。
 二百三十万近い人間のいるモスクワで、信吉がこんなことをきける者が五人いる。第一が李だ。それから劉と女房のロシア女アンナ。次がその劉の室へカーテンで仕切りをこさえて一緒に住んでる若い靴職のミチキンと、女房のアグーシャだ。
 アグーシャは、劉、アンナと同じ絹織工場の型つけ職工だが、区の代議員ていうのをやっている。女でも演説が出来るんだ。
 信吉が訊けば、きっと話してくれるんだろうが、不自由なもんだなあ、言葉がダメだ。
 李なら、いいんだが、この頃、滅多に会えなくなっちゃった。どっかへ行って、まるで信吉の分んない仕事を忙がしくやってるんだ。――

        三

 或る夕方のことだ。
 ぶるッと身震いして、信吉は目を覚した。いつの間に眠ったのか、靠れていた窓の外で庭がすっかり暗くなってる。菩提樹ぼだいじゅの下にいつも夜じゅう出しっぱなされている一台の荷馬車のながえが、下の窓から庭へさす電燈の光で、白く浮上っている。ブーウ……隣の室で石油焜炉の燃える音がする。
 おや、親爺今日は休みか……思う間もなく、クッシャン。くさめが出た。またクッシャン。つづけ様に嚔をした信吉があわててしっとり冷えたシャツの上へ上衣をひっかけていると、
「いいかね」
 宿主の大坊主グリーゼルがのっそりと現れた。
 やっぱり信吉ぐみで、シャツはカラなしだ。コーカサス製の上靴をひっかけてる。血管の浮出たギロリとした眼で信吉を見据えながら、
「ソラ、お前さんへだ!」
 横柄に手紙みたいな書付をつき出した。
 実のところ、信吉にとってこの親爺は苦手だ。というのは、こいつには、何だかほかのロシア人と違うようなところがある。親しみ難くて、この親爺の剃った頭とドロンとして大きい眼を見ると、腹ん中では何を考えているのかわからないという気がいつもするんだ。
 信吉は、疑りぶかく手を出して手紙をうけとった。手紙なんて……一体、どっから来るんだ。――
 親爺は、信吉があけてそれを見るのを突立って待っていて、
「何だね?」
と云った。信吉はムカついた。親爺はちゃんと自分で知ってるのにわざと訊いてるような調子だ。
「知らね、らよめねえよ」
 口惜しかったが、仕方がない。
「何だい」
 ジロリと信吉を見て紙を受とり、親爺はそれを開いて、
「……こりゃ裁判所の呼び出しだ」
 信吉に紙をかえした。
 ――裁判所?……冗談じゃねえ。何を俺がしたんだ。――ムキになりかけた。が、……畜生! 信吉は、その手を食うもんか! と手紙をいそいで畳んで上衣の内ポケットへ入れ、鳥打帽をつかんで室を出た。
 アグーシャは、この親爺がどんな奴だかよく知らなかったんだ。ただ、この古い木造の家全体を管理している女が、絹織工場でアグーシャと一緒だもんで、信吉をここへ世話してくれた。
 モスクワは古い町なのに、革命からこっち政府が引越して来たんで、住民は殖える一方だがとても住居が足りない。政府は補助金をどっさり出し、職業組合の共同住宅はドシドシ建つがまだそれでも足りない。
 だから靴職ミチキンや信吉みたいな二重の間借人が出来る。信吉は入道のもってる七尺に九尺ばかりのところを一月五ルーブリの約束で借りてる。親爺は、信吉に、
「この室は、音楽家が」
 ヴァイオリンを弾く真似をして見せて、
「二十ルーブリで住んでたんだ」
と云った。住居は、ソヴェトでは殆ど全部が国有だ。借りては、自分の収入に応じて、家賃を払う仕組みなんだ。ふむ。そうなけりゃなんねえ!
 だが、古いこの木造の家に幾世帯も住んでるのは工場へ出ている労働者より、馬車引きや、信吉んとこの親爺のように許可露天商人みたいな稼業のものが多い。
 この親爺は信吉が字がよめないもんだから、この前も、何だかスタンプ押した紙を見せて警察がどうとかだから一ルーブリ五十カペイキ出せと云った。
 警察ミリチア警察ミリチアって云って紙を押しつけ、手の平をつきつけた。警察にビクつく癖のついてる信吉は、あやうく一ルーブリ五十カペイキ出しかけたが、銭の惜しさが先立って、その紙を劉のところへ持ってって見せた。
 そしたら親爺め! 信吉の住居届けを倍にふっかけようとしていたじゃねえか。大方、今度もそんなこったべ。
 若葉の並木道はアーク燈に照らされ、歩いてゆく左右に高く青々した梢が見えた。ベンチはどれにも人がいるが静かで、アーク燈の下をブラブラ歩いてる者の声高の話だけが、しっとりした夜気に響く。
 信吉は、いつもみたいに、わざと男と女とかけているベンチのあっち側を歩くような悪戯もせず、トット劉の住居へ向って歩いた。
 革命まで一流のホテルだったという建物は大きくて、町の表通りや横通りにも入口がある。各階の踊り場に色硝子をはめた大窓なんかがあるが、エレベータアはこわれていて動かない。
 信吉は一段トバシに五階まで強行し、劉の住んでる戸を叩いた。
 返事がない。
 ドン、ドンドン。
 ひっそり閑としている。チェッ! 誰もいやがらねえのかしら。
 ――どうとも仕様がない。もとの並木道を、三人の赤襟飾のピオニェールにくっついて歩いて来た信吉は、不意と微かに顔色を変えた。
 若しや……。まさかそんなこたあるめ。国柄が違うもん。なんぼ、俺がズラかって来たからって……
 だが裁判所。法律。というと、日本のプロレタリアの信吉には頭がモヤモヤとなって先へ監獄しか見えない。
 貧乏人に法律は、実際おっかないんだ。〔四字伏字〕ぐらいになれば何万という金をちょろまかしたって、〔三字伏字〕がいい塩梅にやってくれて、「今日こそ晴天白日の身」と新聞にまで出せるが、全くの貧乏人は、困って困ってただの十円どうかしたって懲役だ。ひでえもんなんだ。
 信吉は心配で、それなり家へは帰れなくなった。そんなところから呼び出しを食う覚えねえだけ、薄っ気味わるい。
 信吉は、暫く待って、もう一遍劉のところへ行って見ることにした。アーク燈のすぐ下にベンチが空いている。そこへ腰かけた。一服しようとポケットをさぐったら、あわくって飛び出して来たんで、生憎あいにく、煙草もマッチもない。
 信吉は内ポケットからさっきの紙をとり出し、踏んばった両膝へ肱をつき、パンとひろげて眺めたが――。
 我知らずロシア人のするように肩をすくめ、信吉は悲しそうに紙をもったなり両腕を拡げた。
 いけねえ。……字を知らねえじゃいけねえ。
 しっとり黒い夜の梢の下で白い紙は、寒そうにアーク燈の光を浴びた。

        四

 ビショビショ雨降りだ。
 モスクワの雨樋はちょっとよそのとかわってる。一番下の、雨水を吐くところがまるで大ラッパの口みたいに、いきなり人道へ向ってあいている。だから、ウッカリその傍なんか歩くと、グワワワワワと、四階五階のてっぺんから溢れて来る雨水で容赦なく足をぬらされる。
 信吉は、現にズボンの裾を濡らしてる。靴も幾分ジクついてるのだが、そんなことには気をとめず、熱心に四辺あたりの様子を見まわしていた。
 へえ……ソヴェトの人民裁判所ってのは、こういうもんなのか。
 第一、裁判所と云ったって、普通の家と同じ建物だ。ただ玄関の上のところに一つ横看板がついている。それにソヴェトの国標、槌と鎌とのブッ違えを麦束で囲んだ標とソコリニチェスキー区第二人民裁判所という字が書いてある。
 入った直ぐのところに、巡査がタッタ一人ブラブラ後手をくんで歩いていただけだ。
 濡れた靴と襟を立てたレインコートのまんまで入って来る男連は、穢れた廊下の左右にいくつもある室のどれかへさっさと姿を消す。
 信吉が、巡査に紙を見せて教えられた一つの室では、ちょうど休憩だ。
 開けっぱなしたドアのまわりで多勢が喋りながら煙草をのんでる。室内の幾側にも並んだベンチ半数ばかりに男女がかけて、或る者は前と後とで頻りに話ししている。
 信吉自身、今日はもう心配していない。宿の親爺グリーゼルが女から訴えられた。その証人に立てばいいんだそうだ。
 けれど、こう見まわしたところ、みんな実にゆったりとしている。
 尤も、ソヴェトの人民裁判所というのは、人殺しや放火犯は扱わない。つまり刑事裁判所ではない。民事裁判所なんだ。
 前から五側目のベンチの端に信吉は腰をおろした。
 すぐ隣に、薄い毛のショールを頭からかぶった労働者の女房風な婆さんがいる。偶然隣りあわせになったらしい若い男をつかまえくどくど云ってる。
「……それでね、お前さん、その乳牛を売った二百ルーブリの金を盗んだ子供はどこにかくれてたと思いなさる? 住宅監理者の室だよ!……この頃の子供なんて、ほんとに……大人よりおっかない奴らさ」若いおとなしそうな近眼の男は、幾分迷惑そうに脱いで膝の間へ持ってるレインコートの紐をいじりながら、
「……われわれのところじゃ、まだ大人がほんとに子供の育てかたを知らないんだよ、お婆さん。ホントニ社会主義的な教育ってのはどんなもんだか――思うにお婆さんだって知らないだろ?」
「そりゃそうともさ――無学だもん」
「もう十年も待ってて見な。ソヴェトはよくなるよ」
「……大方、今は十六で赤坊を生む娘が十三で生むようにでもなるんだろう……」それっきり二人ともつぎ穂なく黙りこんでしまった。
 古びた窓ガラスは雨の滴に濡れ、外の樹の緑が濃くとけてその面に映っている。
 小声だが絶え間ない話し声と煙草の煙が室へ流れこんで、信吉はだんだん裁判所のベンチの上で落付いた気持になって来た。
 ――それにしても、入道奴、まだ来ねえんだろか。図々しいなア、相変らず。
 ちょいちょい信吉は人の多勢いるドアの方を見た。それらしい姿が見えないうちに休憩が終って、みんなガタガタ室へ入って来た。
 ベンチは一杯だ。窓のところへよっかかって立っている数人の男女もある。
 つき当りのドアがあいた。書類を抱えたキチンとした身装の二十三四の男が現れ、赤い布をかけた一段高い大机に向って腰かけた。続いてもう一人。――
 ははあ、あれが劉の云った陪審官てんだな。
 信吉は、鳥打帽を握って頸をのばし、一心にそっちを眺めた。
 女の書記が着席した。
 いよいよ裁判官の番だ。が、同じドアから軽い靴音を立てて入って来た裁判官を見ると、信吉はホホウと目を大きくした。女だ。四十三四の、細そりした落着のある女の裁判官だ。
 ソヴェト同盟へ来てから信吉はいろいろ新しいことを見た。が、女の裁判官たア……。室は水をうったように鎮まった。
 深く卓子テーブルの上へ両腕をのせ、書類をひらく質素な白ブラウズの女裁判官の様子はいかにも物馴れてる。一言、一言ハッキリ語尾の響く声で何か読み上げはじめた。
 それがすむと、重ねてある書類の一つをとり出して、
「ナデージュダ・コンスタンチーノヴァ・ミチコヴァ」
 呼びあげながら、一わたり室内の群集をゆっくり端から端へと見渡した。信吉の一側前のベンチから、紺色の服を着た若い女がいそいで立って、壇の前へ出た。
 信吉は、顎をツン出して女裁判官の方を見ながら、今に自分の名が呼ばれるかと気を張った。ちがった。別の名だ。
「ワルワーラ・アンドリェヴナ・リャーシュコ」
 ――誰も出て来ない。
 女裁判官は、練れた声を少し高めてもう一遍呼んだ。
「いないんですか?」
 みんな、ザワめいた。赤い布で頭を包んだ女がベンチから立ち上りながら、
「さっき、ここにいたのに」
と、廊下の方へさがしに行った。
 すると、
「同志裁判官……」紺ルバーシカを着た猫背の薄禿げの男が前列のベンチから立ち上って、妙に押しつけがましい口調で女裁判官に云った。
「私は……ワルワーラ・アンドリェヴナの良人です……彼女は頭痛がして来たもんでちょっと……私が質問に答えたいと思います……」
「それには及びません」
 女裁判官は見透したように微笑んで云った。
「きっと急に工合がわるくなって来たんでしょう……私共は待てますよ」
 相手が出て来ないもんでポツネンと頼りなさそうに壇の下に立っている若い女に、質問をはじめた。
 水上救護協会書記の妻ワルワーラが同じ借室の、裁縫女ナデージュダに絹ブラウズを縫わせた。ところが出来がわるいと云って金を払わず、請求するたんびにひどい悪態をついて辱しめる。その訴訟だ。「証人、グラフィーラ・イリンスカヤ」

        五

 声に応じて出て来たのは、体がしぼんでしぼんで、どんなにタクシ上げても裾が引きずるというような恰好をした七十余の婆さんだ。
 婆さんは、赤い布をかけた机の下へ行きつくと、旧知の人にでも会ったように首をさしのばして、
「今日は。――女市民さん」
と愛嬌よく女裁判官に挨拶した。
 思わず室の半分ばかりがふき出した。
「――私の訊くことだけに答えて下さい。よござんすか」
 女裁判官が澄んだ瞳に笑を泛べしずかに云った。
「はいはい、わかりますよ。可愛いお方。私はもうこの年で、どうして嘘なんぞを吐きますべ。人の罪はわが罪でございますよ。――神よ、護り給え!」
 婆さんは胸の前でいくつも十字をきりながら裁判官の後の壁にかかってる大きいレーニンの肖像へ向って恭々うやうやしく辞儀した。
 滑稽にハメをはずしながら、婆さんはワルワーラがナデージュダに唾をしっかけたことまで証言した。
「同志裁判官! 御免なさい、一言」
 チェッ! 信吉は小鼻の横を指でこすった。裁判官が女だもんで、こいつは何とかごまかそうとかかってるんだ。
「妻に代って一言――」
「市民! あなたおわかりでしょう。ソヴェト権力は男と女とを平等な権利で認めているんです。あなたの妻に関係したことにあなたが口をはさむことは許されません」
「同志裁判官! そりゃ官僚主義です」
 猫背の男は、演説をするように片手を前へのばして叫んだ。
「妻は病気になったんです。それにも拘らず」
 裁判官は、穏やかに、キッパリそれを制した。
「ちっとも官僚主義じゃありません。私共は明後日でも、あなたの妻の体がなおるまで、いつまででも待ちます。彼女が出廷出来るまで事件は保留です。そう伝えて下さい」
 そしてナデージュダと婆さんに、
「おかけなさい」
 場内に満足のざわめきが起った。
 左右の若い陪審員も、やっぱりこの女裁判官を尊敬し好いていることは、ちょっとした動作――例えば鉛筆をとってやったりするときのそぶりにだって現れている。
 信吉は、感服して、こわい、だが道理のわかる小母さんみたいな女裁判官を眺めた。ソヴェトみたいな国になると、へ、女までこんなに違うんだべか!
 ゆっくり厚紙の表紙をめくりながら、
「チホーン・アルフィモヴィッチ・グリーゼル」
 ソラ来た!
 信吉はびんとなって、ベンチからのり出した。いよいよ親父の番だゾ。
 返事がないんで、女裁判官がもう一度、
「チホン……」
と云いかけたとき、
「ここです」
 思いがけず、赤い布をかけたテーブルの直ぐわきに立ってる一かたまりの群集を肩でわけて、グリーゼルが剛腹そうな坊主頭で現れた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナ・パタキン」
 布団にくるんだ乳呑児を両手で抱えた弱そうな若い女が、グリーゼルと並んで立った。図体の大きいグリーゼルのわきで、女は彼の娘ぐらいの小ささに見えた。
「本事件はエレーナ・アレークサンドロヴナ・パタキンによって、チホーン・アルフィモヴィッチ・グリーゼルに対して提起された養育費アリメント請求に関する訴訟です」
 爺め! 信吉は変な気になった。
 だって、この見栄えのしない小さな女とは一つ建物に棲んでいて、朝晩見かける。グリーゼルと、内庭のベンチに並んで腰かけたりしているのを見たこともある。
 そんなときでも親父は、パイプをくわえて、相変らず意地わるいドロリとした眼付で物も云わずかけている。女は、赤坊をかかえて、チョコンとその横にいる。信吉は、女を今日までグリーゼルの親類、姪かなんか、と思ってた。年だってその位違うんだ。
 身分調べがすむと、女裁判官は、エレーナに訊いた。
「あなたは、どういう機会でグリーゼルと知り合いになったんですか?」
 女は、フイとうつむいて、赤坊をつつんだ布団をいじくりながら黙った。
「……きまりわるがることはないんですよ」
 励ますように女裁判官が説明してきかせた。
「すっかり事情がわからなければ、私共はあなたを助けたげることが出来ないわけです」
「私、仕事がほしかったんです」
「――それで?」
「私工場へ働きに出たことはないし、どうしようと思ってたら、チホーン・アルフィモヴィッチが、ソヴェトに知っている者がいるから、野菜の許可露天商人に世話してやるって云ったんです」
「それが今の職業ですね」
「ええ」
「どうして真直職業紹介所へ行かなかったんですか?」
「……うまく行くだろうと思ったんです」
 咳きばらいをしながら、カサカサした声で女は話した。身持ちになったときグリーゼルは、俺には貯金が五百ルーブリもあるんだから、養育費を出してやると云った。それだのに赤坊が生れて十ヵ月経つのに一文もよこさないと云うわけだ。
「ソヴェトの法律は、女が自分に赤坊を生ませた男から、月給の三分の一までの養育費をその子が十八歳になるまで要求する権利を与えています。然し、それはただの口約束では駄目なんですよ。裁判できめなければ駄目です。――知らなかったんですか?」
「知りませんでした」
 そう云ってエレーナは微に顔を赤くした。
 ふーん。……じゃソヴェトじゃうっかり女に悪戯なんぞ出来ねんだな。
「証人、シンキーチ……」
 女裁判官はよみ難そうに顔を書類に近づけて呼んだ。
「シンキーチ、セリサーワ」
 立ってベンチを出てゆく信吉の後で、物珍しそうな囁きがあっちこっちで聞えた。
 だれ? あの男――
 知らないヨ。
 支那人だろう。
 ――静にしろ!
 女裁判官は、赤い布をかけた机ごしに信吉にきいた。
「いくつです?」
「二十二」
「職業は?」
「煉瓦を、こうやって槌でこわす」
 信吉は仕方をやって見せた。
「それが仕事です」
「よろしい。……あなた、この女を知っていますか?」
 子供の時分、学校の教壇のまえへよび出されたときみたいな心持に信吉はなった。全くソヴェトにはまだ新しいものと古いものがゴッタかえしてる。女裁判官は、そのゴタゴタに新しい社会の定規を当ててハッキリしたけじめをつけてやってるようなもんだ。
「知っています」
 いろいろの質問に知ってるだけ答えた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナとグリーゼルが一緒にいるのを見たことがありますか」
「え。庭で」
「そうじゃない。室で……寝床で」
 信吉は、横に並んでる二人の方をジロリと見た。エレーナは細い娘っぽいボンノクボに力をいれてがんこに下を向いてる。
 が、いい年をしたグリーゼルは、女裁判官ぐるみソヴェト裁判そのものをてんからなめてる風でヌーと立ってやがる。
「俺、朝働きに出る」
 信吉は答えた。
「夕方、かえる。グリーゼルは一日家にいる。何をやってるか――悪魔が知ってら!」

 この事件のほかにもう一つ、母親が息子に扶助費請求の聴取を終って、女裁判官はドアの奥へ引こんだ。書類をまとめて、二人の陪審員もついてった。
 休憩なのはこっちの室だけだ。ドアのむこうでは、その間に判決を審議しているんだ。
 四十分ばかりして、女裁判官と陪審員が再び現れ、グリーゼルは月十五ルーブリずつの養育費支払いを宣告された。

    (※(ローマ数字「III」、1-13-23)[#「(III)」は縦中横]

        一

 内地で自転車屋に奉公していたことが、計らず信吉の仕合せとなるときが来た。
 ソヴェト同盟では、一九二八年十月から生産拡張の五ヵ年計画という素晴らしい大事業にとりかかってい、五年間に、つまり一九二八年から一九三三年の秋までに、同同盟の
  (一)[#「(一)」は縦中横] 工業生産額を百八十三億ルーブリから四百三十二億に
  (二)[#「(二)」は縦中横] 農業生産額を百六十六億から二百五十八億に
  (三)[#「(三)」は縦中横] 電力を二十一億キロワット時から二百二十億キロワット時に
高めようという大計画だ。一年一年予算を立てて着々とやっている。
 まだアルハラの山奥で××林業の現場に信吉が働いてた頃、松太がこういうこと云った。
「なんでもモスクワは今大した景気で、おっつけアメリカ追い越すぐれえだとよ」
 豪勢なもんだナ。ボンヤリそう思っただけで、そのときの信吉にはもちろんそれが実際にはどういうことだか、見当もつかなかった。
 アメリカに追いつくと云ったって、そう手っとり早く、いかに勤勉なソヴェトの労働者にだって出来るこっちゃない。
 五ヵ年計画は、ソヴェト同盟の農業や工業発達の基礎となる生産手段=機械力をウンと高めるのが第一目的だ。五ヵ年計画では、その生産力で一年に三割ずつソヴェト同盟の全生産があがってゆく。
 その割で十八年経つと、ソヴェトの生産は今大威張な工業国アメリカより五倍も多くなるわけなんだ。
 今になって見れば、あんな山ん中にも、みんなが一生懸命になっている五ヵ年計画の噂はひろがってたことが信吉にわかる。
 それに労働者の日当が三四割がた高まるから××林業は潰れるべと云った源も、案外的に当ったことを云った。
 ソヴェト同盟じゃ、労働者が精出して働き国の富をませば、それを間で〔七字伏字〕って者がないから、みんな一人一人の労働者の毎日の暮しん中へ直に戻って来る。
 賃銀が一年で二割ぐらいずつ全体あがった。アグーシャや劉夫婦なんぞ、絹の形つけ工だが六十二ルーブリだったのが、今じゃ七十五ルーブリ以上だ。
 五ヵ年計画がはじまって、どの工場でも事業拡張だ。
 或る日、区職業紹介所から信吉に呼び出しが来た。
 窓口へ行って見ると、麻ルバーシカの男が、
「お前、自転車工場で働いてたことがあるんだな」
と云った。
「工場たって――小さい、田舎んだ」
「どっちだっていいサ。今、『鋤』で第三交代の旋盤工がいるんだ。行って見ろ」
「鋤? 何だね鋤って――」
「工場だ――農具をこさえる工場で、大きい工場だ」そして「お前が日本で働いてた、田舎の、小ちゃいんじゃないよ」剽軽に、信吉の訛ったロシア語を真似して笑った。
「体格検査をうけて、通ったら見習一週間。給料つき。それから本雇の給料は、工場委員会の技術詮衡委員がきめてくれる。――わかったか? サア、これがところ書だ」
 モスクワ、ヤロスラフスコエ街道。――
 モスクワも北端れだ。長く続いた工場の煉瓦塀の外に青草が生え、白い山羊が遊んでいる。貨車の引こみ線らしいものが表通りからも見えた。
 工場クラブの横に診療所があって、信吉といっしょに健康診断をうける男がほかに三十人ばかりある。
 信吉はズボンだけの裸んなって、腋毛を見せながら、白い上っぱりを着た中年の医者の前へ立った。
「さて……見たところ達者そうだね」
 信吉に舌を出させながら、
「お父さんとお母さんは丈夫かね」
「親父は丈夫です。お母は死んだ」
「何で?」
「知らない」
「肺病か、それとも――気違いじゃないか」
 医者は人さし指をコメカミのところでクルクルまわして見せた。
「そうじゃないです」
「――子供のとき、ひどい病気はしなかったかね?――……餓えたこたァないかね?」
 単純な恐ろしく真実な質問は信吉を深く感動させた。
 体格検査をうけたのはこれで二度目だ。内地で徴兵検査のときと、――市役所で、陸軍の将校が来て、猿又までぬがした。〔九字伏字〕ときみたいな調べかたをしたが、餓えたことはないかとは、訊いてくれなかった。
 信吉は丁寧に、どうにか食えてたと答えた。
「梅毒や淋病は患ってないか?」
 つづけて医者がきいた。
 旋盤の第三交代は、初め四日間、夜十二時から翌朝の七時まで働くと、まる一日休みで、次の四日間は朝八時から四時までにまわる。もう一度休みを挾んで、四時から十二時までの出番になって、その順でグルグルまわるんだ。

        二

 白っぽい樺板の羽目に赤いプラカートや、手描きのポスターが貼ってある。
 この頃また建てましをやった「鋤」の食堂だ。果汁液クワスだの一杯二カペイキの茶、スイローク(牛乳製品)なんぞを売ってる売店の上んところに、ラジオ拡声器がつき出ている。
 昼休みの労働者のための音楽放送だ。ところが今日はオーケストラそっちのけで、一つの長テーブルのまわりへ大勢がかたまってる。テーブルへ腰かけて、のぞきこんでる者もある。
「何ごとだい?」
 信吉なんだ。本雇んなって三日目の信吉が、弁当つかってたら偶然みんながいろんな質問をはじめて、こんなにかたまっちゃったんだ。
 水色と黒のダンダラ縞の運動シャツを着た若いのが、信吉のとなりで頻りに本をよみながら、ソーセージとパンをくってた。何心なく見ると、その本には機械の図解があって、むずかしそうな方程式が書いてある。
 ……職工でこれがわかるんだろか……。なお眺めていたら、その若いのがヒョイと顔をあげて、信吉を見た。毛色の違いにすぐ気がついた風だ。両方ともちょっとバツがわるいように見あったが、運動シャツの方が、
「お前ここに働いてるのか?」
と口をきった。
「ああ」
 信吉は、本を指さした。
「それ、わかるのかい? お前に」
「これか?」
 却って質問が合点いかないように運動シャツは本を持ちあげて信吉の顔を見ていたが、
「ああ、お前今度第三交代で入って来たんだろ」
と云った。
「俺は実習生なんだよ、工業学校からの……お前旋盤か?」
 それから、その実習生がきき出した。日本に共産党×××があるか? 労働者の賃銀はどの位だ? そこへ、別のテーブルの連中もそろそろやって来た。
「……話わかるのか?」
「通じるよ」
 すると、鞣の前垂れをした四十がらみの骨組みのがっしりした労働者が、
「お前、何てんだ?」
ときいた。
「シンキチだ」
「よし、よし。じゃあシンキーチ、きかしてくれ。お前ん国なんだね、〔四字伏字〕か?」
 テーブルへ肱をついて信吉の方を見ていたカーキ色シャツの青年共産主義同盟員コムソモーレツらしいのが、それをくだいて、
「〔九字伏字〕? まだ。それとも〔三字伏字〕か?」
と云った。
「〔八字伏字〕」
 ガヤガヤみんな一時に口をきいた。
 〔四字伏字〕なんだ。
 そうじゃない。日本には〔十七字伏字〕、〔四字伏字〕だよ、今は。
「まあ、いいや。……それで、赤色職業組合なんかあるか?……メーデーにデモンストレーションやるんか?」
「ああ。トラックで一杯〔六字伏字〕」
 ドッと愉快そうにみんなが互に顔を見合わせながら笑った。鞣の前垂れかけたのが、信吉の肩をたたきながら、
「ナーニいいさ? 今に見てろ。〔十六字伏字〕」
 ギューッと曲げて力瘤の出た二の腕を、ドスンドスンと叩いて見せた。
「わかるだろ? そして、〔十三字伏字〕。そのとき、こっちじゃ五ヵ年計画を三つも四つもやっといて、飛行機で〔十二字伏字〕!」
 菜っ葉服にオガッ屑をつけ、鳥打帽をかぶった鼻の赤い木工らしいのが、
「おめ、おめえんとこに、飛、飛行機あるかね?」
と吃りながらきいた。
「勿論あるさ!」
 信吉は力をいれて答えた。
 コムソモーレツらしいのが口を入れた。
「日本の〔四字伏字〕工業技術は進んでるんだ。水力電気も発達してるんだぜ」
 暫く、みんな黙ってたが、木工が、
「おおお前の方じゃ、ど、どうだね、大体食糧なんざ、た、たんとあるかね?」
 忽ちすべての目が信吉に向ってシーンと引きしまった。飾りのないとこ、これは今のみんなが注意ぶかくきかずにゃいられないことなんだ。信吉にはソヴェト労働者のその心持も、事情も親身に察しられる。信吉自身だって、アルハラの山奥から、いいことずくめを想像してモスクワへ来たときにゃ食糧難で実はびっくりしたんだ。
「日本に食糧はうんとあるんだ。だが、どうにも銭がねえ。……わかるか、俺のいうこと」
 信吉はグルリとみんなを見まわし、
「――これが、ねえんだ」
 指で円く形をして見せた。
「……失業が多いのかい?」
「ひでえ。ソヴェトじゃ、食糧の切符でも、とにかく労働者が第一列だ。〔四字伏字〕、〔六字伏字〕。……わかるか? 俺の云うこと」
「わかる!」
 誰かが言下に答えた。
「わかるよ」
 わきへよってそれ等の問答をききながら鞣前垂が紙巻き煙草をこさえていたが、真面目などっか心配そうな眉つきになって信吉にきいた。
「お前、ソヴェトが今どういう時だか知ってるか?……五ヵ年計画って何だか知ってるか?」
「知ってる……よくは知らないが、知ってる」
「ふむ、そりゃいい。今何より大事なことなんだ、われわれんところじゃな。いいこともわるいこともみんなそっから来てる」
 ……こいつ、党員かしら。――信吉は鞣前垂にきいた。
「お前、党員かい?」
「そうじゃない」
 手巻きタバコをくわえ、それにマッチをつけながら、
「党員の方がよかったか? ハッハッハ」
 いかにも、こだわりない声で笑った。みんな笑った。
「党員だけがいい労働者にゃ限らねえ」
 すると、わきの若い一人が、親指でその鞣前垂の広い胸をつっつきながら、
「これは、一九一七年の英雄だよ。この工場が『白』に占領されそうんなったとき、こいつは涙ポタポタこぼしながら樽のかげからつづけざまに『白』の〔十字伏字〕」
 鞣前垂のゆったりした全身にはどっか際だって心持のいいとこがあった。
 ジッと、潮やけみたいにやけた鼻柱と碧っぽい落付いた眼を見あげながら、信吉は、
「お前、何てんだ?」
と、きいた。
「俺?――ドミトロフだ。……わかったか? ドーミートーローフ。鍛冶部だ。二十年働いてる。お前が知り合いになった男が、『飛び野郎』じゃねえことだけは確かだよ」
 五ヵ年計画で、あっちこっちへ工場が建ち、特に熟練工はソヴェト同盟じゃどこでもひっぱり足りない。
 そこで、一部の労働者が、一つの地方から一つの地方へ、三ルーブリでも賃銀の高い方へ「飛んで」行く。職業組合はそのために予定が狂って、ひどく迷惑してるんだ。

        三

 鉄片の先のトンがった方を電気やすりへかまして、モーターを入れると、ツイーッ!
 忽ち深い螺旋がついちまう。
 ホラ来た。もう片方! ツイーッ!
 軽い、規則正しいツイーッ! ツイーッ! という響と鉄が強いマサツで放つ熱っぽい活溌な匂いとがいくつも並んだ台を囲んで仕事場じゅうに満ちてる。
 信吉は、コンクリの床から鉄片をとりあげちゃ鑢にかけ、調子よくやっていた。
「鋤」で働くようになってっから、信吉は満足だ。
 ソヴェトの労働者といったって、道ばたで煉瓦砕きをやってる連中とここの連中とじゃ、違う。先は、顔ぶれが日によって変ったし、第一みんな臨時にこんな仕事やってるんだという腹があったから、仲間同志も、仕事っぷりもどっか冷淡だった。従ってモスクワの張り切った生活をも道ばたから眺めてるような工合だった。
「鋤」じゃ全く違う。
 信吉が日に二百本余の締金を電気鑢でこさえることは、八百人からの労働者のいる「鋤」農具製作工場全体の仕事と抜きさしならず結びついてる。余分な人間は職場には一人もいねえ。――
 ヒョイと跼んだ拍子に見ると、明るくカラリとした仕事場のむこうの入口からピオニェールが二人来る。
 仕事台と仕事台との間の広々した、鉄の匂いのする通路を、赤い襟飾が初夏らしくチラチラした。
 間もなく信吉のところへも来て、
「お前、もうこれへ書きこんだ?」
 鉛筆で罫をひっぱった大判の紙を見せた。
 信吉は片手に鉄片をブラ下げたなり、
「何だね?」
「五ヵ年計画公債を買う人はここへ名を書くんだよ」
 仕事台で並んでるグルズスキーが、撫で肩の上から粘りっこい目つきでチラリとこっちを見たなり、黙って仕事をつづけてる。
 信吉は、ピオニェールの出してる紙をゆっくりとりあげた。
「なんぼなんだ?」
「一枚五ルーブリさ。毎月払いこみゃいいんだヨ。うちの工場、フトムスキー工場と社会主義競争をやってるんだ」
 名と予約金高が書いてあるんだが、どれも二十ルーブリ、二十五ルーブリ、多いのんなると四十ルーブリなんてのがあって、五ルーブリなんぞと書いてあるのはない。
「――お前、なんなんだ?」
「俺?」
 金髪を額へたらして、女の子みたいにふっくりした頬っぺたのピオニェールは、クルッとした眼で信吉を見あげた。
「工場学校の、『五ヵ年計画公債突撃隊』だヨ」
「鋤」附属の工場学校では、四年制の小学を出た男の子や女の子が三十人ばかり技術養成をうけている。
「……お前いくらって書く? 二十ルーブリ?」
「やめとこう」
 信吉は紙をピオニェールにかえした。
「なぜだい?」
 びっくりした様子で、信吉を見た。
「みんな書いたんだヨ」
「俺あ、ここへ来てまだ二週間ぐれえにしかならね。新米だ。もういろんなのに書いた。だから、いいんだ」
 つい三四日前のことだ。職場のコムソモーレツ、ヤーシャがやって来て、オイ、国防飛行化学協会オソアビアヒムの会員になりな、と云った。工場の者は大抵会員になってるって云ったから信吉も入ることにした。会費五十カペイキ出した。
 きのうは食堂で国際赤色救援会モプルの委員だっていう若い女につかまって、そこへも加盟させられた。一月五十カペイキだ。一週間のうちに、こういうのをもって来るからね、と、その女は自分の膨らんだ胸へくっつけてる徽章を見せた。鉄格子から手が出て赤い布を振っているところだ。世界じゅうの〔約五十字伏字〕。
 こう続けざまじゃ、やり切れねえ。
 信吉は思った。古くッからいる者だけが書きゃいいんだ。年の小さいピオニェールは、信吉にことわられて困った顔をしていたが、
「冗談じゃなくサア」
と云った。
「書くだろ? いくら?」
 しつっこい。そう思った拍子に、
「俺らロシア人じゃねえ!」
 ※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 小さいピオニェールは、瞬間平手うちをくったような顔になって信吉を見てたが、ハッキリ一言、
「――お前、プロレタリアートじゃないってのか?」
 ちょいと肩をゆすり、一人前の労働者みたいな大股な歩きつきで、行っちまった。
 チェッ! 低い舌うちをして、信吉はやけに頭をかいた。何だか負けた感じだ。
 なんだ! つい横じゃ、信吉の台から廻す締金の先へ手鑢をかけてるオーリャまで、こっち見て奇麗な白い歯だして笑ってる。
 信吉はムッツリして働き出した。
 暫くすると、
「気にするこたねえ」
 グルズスキーが顔は仕事台へ正面向けたまんま小声で慰めるように云った。
「食堂にかかってるひょうへみんなが好きで名を書きこんだか?――決してそうじゃねえ。スターリンは、公債を買う買わないは自由意志だって新聞で云ってるが、工場委員会の連中が、見張ってやがるんだ。……それにこの工場じゃ、もう一まわりすんでるんだ」
 コソコソ声で、グルズスキーがそんなこと云うんで信吉はなお気が腐った。
 ボーが鳴った。
 工場へ入って初めていやにはずまない気分で信吉が仕事場を出かけたらオーリャが、
「ちょいと! シンキーチ!」
 後からおっかけて来た。工場学校をすまして信吉と前後して職場へ入って来たばかりの婦人旋盤工だ。
「見たよ」
 人さし指を立てて信吉を脅かすようなふりをしながら、ハハハと笑った。
「…………」
 苦笑いして信吉はそっぽ向いた。
「お前、クラブへ行った?」
「いいや」
「じゃ来ない? いいもん見せてやるわ」
 木工部の横をぬけ、トロの線路を越して、花壇の方からクラブへ入ってった。
 昼休みは、若い連中で賑やかだ。
 運動部の室からフットボールを抱えて出て行く。開けっぱなしにした戸からチャラチャラ、幾挺ものマンドリンが練習している音がする。
 赤い布をかけた高い台にレーニンの胸像が飾ってある入口の広間へ来ると、
「ほら! 見た?」
 壁新聞の前へオーリャは信吉をひっぱってった。
「こりゃ、誰れ?」
 へえ……。仕事台の前へ立った信吉の写真が壁新聞に出てる。
「おきき。読んだげるから。
われわれの工場の旋盤部へ、はじめて一人日本の若者が入って来た。セリサワ・シンキチ。二十二歳だ。貧農の三番息子だ。アルハラの××林業で働いていたが、そこでソヴェト同盟の労働者がどんなに暮しているかという話をきいた。モスクワへ逃げて来た。旅券なしだった。
モスクワではじめ煉瓦砕きをした。それから『鋤』の旋盤第三交代へ働くようになった。
彼は、まだロシア語を読書きは出来ない。だが、もうオソアビアヒムと、モプルの会員となった。
労働通信員 グーロフ」
「ふーむ」
「間違わずに書いてある?」
「ああ」
「この写真、誰がとったのかしらん」
 オーリャは、紺の上被りの結びめが可愛くつったってるオカッパの背中をかがめて、シゲシゲ写真を見た。並んで信吉も、ひとの写真を見るようにそれを眺めながら、
「グーロフだ」
「……似てるわ」
 クラブを出て、花壇を歩きながら、オーリャが、
「お前、家族ないんだろ?」
と云った。
「ない」
「私知ってるよ、今、お前自分で自分に満足してやしないんだ」
「…………」
 そりゃ本当だ。
 カンナの花のわきで、オーリャがぴたりと立ちどまった。
「お前、お書き。……そうすりゃすっかりよくなるよ。……書くだろう?」
 太陽はキラキラ照りつけて、工場の三本の煙突も、カンナの大きい花も、オーリャのすらりとした素脚も、青空といっしょに燃えるようだ。
「書く?」
「うん!」
「そうしなくっちゃいけないさ。〔十三字伏字〕、〔四字伏字〕区別なんぞないんだ。そうだろ?」
「俺は……」
「わかってるよ。ブルジュアの魔法さ」
 オーリャは、信吉の顔の前で、艶々した唇をトンがらかして呪文をとなえる真似をした。そして笑い出した。
「さ、握手しよう!」
 信吉[#「信吉」は底本では「信者」と誤植]はしっかり、細い、だが力のあるオーリャの手を握った。
「さきへ行って、食堂んとこで待っといで。いい? 私、コーリャよんで来てやるから。あの子、がっかりしてたよ、さっきは――」
 信吉は、元気に手をふって花壇を足早に工場学校の方へ行くオーリャの後姿を長いこと立って見送ってから、食堂へ行った。

        四

 シッ!
 シッ!
 ひろいモスクワ河を、ボートがゆっくり溯っている。
 上流に鉄橋だ。
 右岸は空地で電車終点だ。西日で燦めきにくるまれた空に遠い建築場の足場が黒く浮立ち、更に遠方で教会の円屋根が金色に閃いてる。
 ボートを借りて来た職業組合ボート繋留場の赤紙の下では、後から来た一団の男女が、手前へかきよせられるボートを見てる。立ってる一人一人の姿が小さく、ハッキリ中流から見えた。
 左手はひろい「文化と休み公園」だ。
 水泳の高い飛び込み台がある。水をはねかしたり、泳いだりする頭、肩、腕がゴチャゴチャ台の下にある。女の貫くような、嬉しそうな叫び声。笑いながら若い男がよく響く声で何か云ってる。バシャ、バシャ水を掻く音。
 公園から音楽が聴えて来る。
 ミチキンは黙ったまんま、休み日の愉しさを一漕ぎごとに味ってるように、力を入れて漕いでる。
 今日はミチキンにとって特別な日だ。命名日だ。その上、個人営業をやめて靴工場で働くようになってからはじめての休みだ。信吉、アンナ、アグーシャはミチキンのお祝によばれてモスクワ河へ遊びに来ているというわけなんだ。
 公園をはずれると、景色がかわった。
 楊柳が濃い枝を水へつけ、水ぎわのベンチに年とった夫婦が腰かけて日没のモスクワ河を眺めてる。
 オールをあげて浮いているボートがあっちこっちにあった。どのボートにも男女の上にも、いっぱいの西日だ。
 河の上の西日は大して暑くない。――
「なに?」
 アグーシャが、アンナの目交ぜにききかえし、訝しそうに自分の膝の下で寝ころがってる信吉の顔を見下した。が、彼女の口元もアンナと同じようにだんだん微笑でゆるんだ。
「……わるくないじゃないか――」
 ひょっくり信吉が頭をもちゃげた。
「何がよ……」
 アグーシャとアンナは声を揃えて笑った。アグーシャが信吉の肩を力のある手の平でポンと叩いた。
「今お前の頭へのっかってた娘は何て名?」
「バカ!」
 信吉は赧い顔した。
「どうして? 結構じゃないの? お前だってもうおふくろの裾へつかまって歩く坊やじゃないんだもの」
 ミチキンがあっち向いて漕ぎながら真面目な声できいた。
「職場にいい娘いるか?」
「いる」
 信吉は、オーリャはここへ来たかしらとボンヤリ考えてたところだったのだ。
 鉄橋の下まで行って戻って来たら、公園の下のところは、集って来たボートでオールとオールとがぶつかるぐらいだ。
 遠く鳩羽毛に霞んだモスクワ市のあっちで、チラ、チラ、涼しい小粒な金色の輝きが現れたと思うと、パッと公園の河岸で一斉にアーク燈がついた。
 コンクリートの散歩道、そこを歩いてる群集。そういうものがにわかに鉄の欄干の上で際立って、水の上は暗くなった。音楽の響が一層高まった。
「さ、行こうよ、早く」
 アンナが、浮々してせき立てた。
「芝居がはじまるよ、直ぐ」
「七時半からだよ」
「――だって……もう直ぐだよ」
 河岸の水泳場のそばに一隻の水雷艇が碇泊している。真白い服をつけ真白い靴をはいた赤衛海軍士官。帽子のリボンを河風にヒラヒラさせている水兵。新鮮な子供の描いた絵みたいな景色だ。彼等は無料で希望者に艇内を観せ説明をしてやってる。
 むこうの丘の上には、政治教程の講堂と図書室。科学発明相談所がある。
 曲馬がかかってる。
 托児所は、千人を収容する大食堂のわき、花園と噴水のかげだ。
 ガラス屋根の絵画展覧会。午後十時まで。
 活動写真館。
 アンナがわいわい云う芝居というのは「農村と都会の結合」広場のわきに、自然の傾斜を利用してこしらえた露天劇場だ。
 ベンチはとうに一杯で、信吉たちが行きついたときは、遠くの芝草へ足をなげ出して、明るい舞台の上で人間の動くのだけを満足そうに見下してる男女も幾組かある。
「これじゃ仕様がないや」
 アグーシャは先に立ってブラブラ行ったが、急に勢よく振りかえっておいでおいでした。
「いいもんが始るヨ! はやくウ」

        五

 数百人の輪だ。
 中央に高い台があって、運動シャツ姿の若い女がアーク燈の光を浴びながらその上に立ってる。テントの方から労働者音楽団が活溌な円舞曲を奏し出すといっしょに、
 ソラ、右へ、右へ、
 一 二 三 四!
 一 二 三 四!
 かえって。
 左へ
 一二 三 四!
 足踏をして!
 一二 三 四!
 ウォウ――!
 合図につれて数百人の男女が笑いながら声を揃えてウォーオ……!
 サア
 手を振って
 高く! 高く!
 一二 三四!
 見ず知らずの者だが仲よく手をつなぎ合って、前へ進んだり、ぐるりと廻ったり、調子をそろえ、信吉たちは汗の出るまで二かえしも陽気な大衆遊戯をやった。
 やっぱり見ず知らずの若い者多勢と、今度は別な砂っぽい広場で「誰が鬼?」をやった。
 一人が目をつぶって片方の肱から手の平を出してる。グルリとかこんだ者の中から誰か、しっかりその手の平に平手打ちをくわして、素早く引こむ。サッとみんなが同じように指一本鼻の先へおっ立てる。中から、誰が鬼か当てる遊びだ。
 ハンケチで顔を拭き拭き、わきから眺めてるうちに、信吉は興にのって、鬼に当った男の手の平をピッシャリやってヒョイと指を立てた。
「お前だ!」
 アグーシャをさした。
「違う」
「そうじゃないよ!」
「さァ、さァ、もう一遍だ」
 ピシャリ!
「そら、今度こそ当った! お前だよ」
 アンナをさした。誰かがキーキー声で、
「お前、どうしてきっと女が自分を打たなきゃならんもんときめてるんだ! 変な奴!」
「――騙すなよ、おい」
 れらしいのが、大笑いしながら、
「本当に、お前が当てないんだから仕様がないよ、サァ、目をつぶったり、つぶったり」
 計らず信吉はその鬼から煙草一本せしめた。信吉の手が小さくて、そのノッポーで感の悪い労働者には、男だと思えなかったんだ。
 金がかからない楽しみでだんだん活気づき、信吉たちは、いい加減くたくたになるまで公園中を歩きまわった。赤い果汁液クワスを二本ずつも飲んだ。ベンチに長いこと両脚をつき出して休んだ。
「さ、引きあげようか」
 河岸をブラブラ公園の出口に向った。
 信吉はとっくに鳥打帽をズボンのポケットへつっこんでしまってる。黒い髪をいい気持に河の夜風がいた。
 不図ふと、何かにけつまずいて信吉は、もちっとでコケかけた。靴の紐がとけてる。
 河岸の欄干側へ群集をよけ、屈んで編みあげかけたら、紐が中途で切れてしまった。
 畜生! やっと結んで、信吉はいそぎ三人を追いかけた。
 ところが、大して行くわけがないのに、見当らない。信吉は、注意して通行する群集、日本の縞の単衣みたいな形の服を着てお釜帽をかぶった、トルクメン人までをのぞきながら逆行して来た。見えない。――
 フフム! 信吉は閉ってる新聞売店の屋体の前までさり気ない風でブラブラ行って、急に裏へ曲って見た。紙屑があるだけだ。
 あんなちょっとの間にハグレたんだろうか。半信半疑だ。
 信吉は、河を見晴すベンチの一つへ腰をおろした。
 もう水泳場は閉められて、飛込台の頂上にポツリと赤い燈がついてる。むこう岸の職業組合ボート繋留所の屋根には青色ランプだ。後を絶間なく喋ったり歌ったりして人が通るが、気がしずまって来ると河のさざなみがコンクリートにあたる静かな音もきこえる。
「誰が鬼」で貰った煙草をポケットからひっぱり出し、隣の男に火をもらって、信吉はうまそうに吸った。
 何か後で云ってる女の声にきき覚えがある。振向こうとした拍子に、目かくしをされた。
 アグーシャ!……だが――、本能的に自分の目を抑えた女の手頸を握りながら信吉は考えた。太さが違う。そう云えば目の上にのってる両方の手だって、いやに小さい。
――若しか、……信吉は危く、
 オーリャ!
と叫びそうにした。そのとき擽ったく唇を耳のそばへもって来て柔かい息と一緒に、
「――当てて御覧。だあれ?」
「ああ、お前か!」
 信吉はがッかりして大きな声を出した。女はなお手で信吉の眼を抑えたまんま甘えて足踏みするような調子で、
「だれさ」
「わかってるよ」
「だからさ、誰だってのに」
「ええーと、アクリーナ」
 パラリと手をといて、ベンチをまわって来、信吉へぴったりくっついて腰かけた。
「――煙草もってない?」
 信吉は煙草を出してやった。紅をぬった唇をまるめてフーと煙草の煙をはいてる。アクリーナのしなしなした体つきやっと人を見る眼つきには、いやに抓りたいような焦々した気を起させるところがある。「鋤」工場の職場仲間だ。オーリャなんかと工場学校から来た婦人旋盤工だ。
 ジロリ、ジロリ見ながら信吉が訊いた。
「ひとりか?」
「――みんな先へ行っちゃった!」
 火のついたまんまの吸殻を河へほうり、アクリーナは、
「ああくたびれた」
 肩を信吉の胸へもたせかけるようにして、小さい白粉入れをとり出した。蓋についた鏡をのぞきこんで脱脂綿の切れっぱじで鼻の白粉を直しながら、
「……お前の国にもこんな大きい河ある!」
「ある」
「公園あるかい?」
「あるさ」
「フーム。……ね、きかしとくれ」
 パチンと白粉入れをフタしながら急に勢こんでアクリーナがきいた。
「お前の国の女、奇麗かい?」
「奇麗なのも、きれいでないのもいらあ」
「……お前、何足絹の靴下もって来た?」
「絹の靴下?」
 ルバーシカ一枚の胸へぴったり若い女の体をくっつけられ少なからず堅くなりながら正面向いて返事していた信吉は、アクリーナの顔を見直した。
「何だね……絹靴下って……わかんねえよ俺にゃ」
「狡い奴!」
 クスリと笑って横目で睨みながら肩で信吉の胸を小突いた。
「支那の男みんな真珠の頸飾だの靴下だの持ち込んでるじゃないのサ」
「そりゃ支那人のこった。俺ら知らねえよ。俺ら日本から来たんだ」
「どっちだっておんなじさ。――お前んところに勿論あるのさ……フフフ」
 素早くのび上って、アクリーナは、信吉の顎のところへキッスした。そして一層しなしなした熱い体を信吉にすりよせた。
「どう? ある?」
 信吉が返事する間もないうちに、アクリーナは両手で信吉の両手をつらまえ、
「さ」
とベンチから立ち上った。
「行こうよ」
「……どこへだ?」
 捉まえた信吉の両手ごと自分の胸の間へたくし込んで囁いた。
「あっちへ……森へ――」
 アーク燈に数多い葉の表を照らされ菩提樹の下は暗い。落葉や小枝をピシピシ靴の下で踏みながらアクリーナが先へ立って茂みの奥へ奥へと行く。信吉の気分がそうやって歩いてるうちにハッキリとして来た。それと同時に遠方のクラリオネットの音が耳について来た。
「おい」
 アクリーナはサッサ歩いてく。
「おい」
「何さ」
「どこへ行くんだよ……俺行かねよ」
 アクリーナが立ちどまった。信吉は楽な気分になって、からかう気で、
「絹の靴下ねえから、行かないよ」
 妙な顔して、アクリーナがすたすたまた小枝を踏みつけながら戻って来た。ぴったり信吉と向いあい、首をかしげるようにして、
「……嘘云うもんじゃないよ」
 ――あんまり本気な調子だ。思わず信吉はアクリーナの顔を見つめた。森へ行こうと云った本心がわかった。絹靴下が欲しかったんだ。信吉は額に皺をこさえて頭を掻いた。
「……行かないの?」
「ああ。……養育料払う金もねえもん」
「……木槌野郎!」
 ツと信吉の前を抜けアクリーナは、片手で灌木の枝を押しわけ明るい道へ出てしまった。

        六

 信吉はズボンの皮帯を締めながら、クシャクシャな髪をして、隣の室へ出て行った。
 朝日が室へ射してる。
 寝台の上では、長年グリーゼルの大きな図体の下に敷かれて藁のはみ出した布団が捲り上げられたっぱなしだ。埃をかぶったまんま引っぱり出されてる藤づる大籠。カギのこわれた黄色いトランク。得体の知れないボール箱だの新聞包み。
 取り散らされた家財の横で床板がめくられてる。
 信吉はゆっくりそこまで行って、トントンと踵で嵌めこもうとした。
 嵌らない。
 窓前の油布のかかったテーブルに、グリーゼルがその上で食物を拵えてた石油焜炉とコップが置いてある。
 いつもは、通り抜けてばかりいたグリーゼルの室を、そっちこっち歩きまわって見た。
 昨夜信吉が「文化と休み公園」から帰って来たのは十一時過だった。
 果汁液クワスを飲みすぎたか、腹の工合が変なんで便所へ入って居睡りこきかけてたら、階段をドタドタ数人が一時に登って来る跫音がした。
 便所の傍を通って、信吉が出て来たグリーゼルの借室の戸をあける音がする。跫音は沢山なのに話声がしない。
 出て来て見て、信吉は一時に睡気を払い落された。
 室の入口に突立ってるのは当のグリーゼルだ。
 若い男が二人、寝台の下から乱暴にトランクを引っぱり出したり、寝台のフトンをめくったりしている。
 卓子からちょっと離れたところに、脊広を着た中年の男と絹織工場の女工で住宅監理者のヴィクトーリア・ゲンリボヴナとが立って凝っとその様子を見ている。
 信吉は閾のところで立ち止った。財産差押えに来たんだナ。そう思った。
 ところが、若い二人の男はトランクを開けて中を検べるとそれをパタンとフタしてわきへどけ、封印なんかしない。
 藤づる籠の古着の下から三本ブランデーの瓶が出て来た。それを中年の男が受けとって卓子の上へキチンと並べた。
 いつの間にやら信吉のまわりは、同じ廊下の幾つもの借室から出て来た男女で一杯だ。
「何だい?」
 次々にヒソヒソ信吉に訊いた。
「知らない」
 しまいには、返事するのをやめた。
 床板がめくられると下から、素焼の、妙な藁に包んだいろんな形の酒瓶が五本も現れた。戸口につめかけてる群集の中から刺すような甲高い子供の声がした。
「アレ! 父っちゃん。何さ? あの瓶? 何サ?」
「……黙ってろ」
 グリーゼルと都合八本の酒瓶と三人の男は、無愛想に人だかりを分け階段を下りて再び行ってしまった。
 忽ち、ヴィクトーリア・ゲンリボヴナが居住人に包囲された。
「みなさん、どうぞ静かに休んで下さい。グリーゼルは強い酒の密売で拘引されたんです。……知ってなさる通り、ソヴェトは勤労者の規律のために強い酒を売るのを禁じているんですから」
 階段を下りかけて、彼女は、
「ああ、ちょっと」
と信吉を呼んだ。
「お前さんの室主は若しかしたら数ヵ月帰って来まいから、室代は直接住宅管理部へ払って下さい」
「――一本の歯になりゃその一本でソヴェトに噛みつこうとしやがる」
 憎々しげに、隣に住んでるブリキ屋が室へかえりながら呟いた。グリーゼルは工場主で、革命まではこの大きい建物を全部自分で持って貸していたんだそうだ。
「土曜日だろう? 今夜は。……ソーレ見な。だから云うのさ、ニキータの婆さんだって今に見な、『軽騎隊』にひっかかるから」
 ソヴェト同盟では、禁酒運動が盛だ。土曜、日曜に、モスクワの購買組合では一切酒類を売らない。ピオニェールや青年共産主義同盟員コムソモーレツが、官僚主義の排撃や禁酒運動のために活動する。その団体が「軽騎隊」なんだ。
 暫くして、
「おい! いい加減にして来ねえか!」
 横になってる信吉のところまで、怒ったブリキヤの声で廊下の女房を呼ぶのが聞えた。
 今朝は、然し何も彼もいつもどおりだ。
 内庭で信吉は建物の別な翼から出て来るエレーナに行き会った。
 腕に買物籠をひっかけたエレーナは、信吉を見ると、後れ毛をかきあげるような風をして持ち前のカサカサ声で挨拶した。養育料請求のとき証人になってやってから、エレーナは信吉と口を利くようになったんだ。
「――知ってるか? グリーゼルが昨夜引っぱられたよ」
「知ってるよ」
 二人は並んで古い木の門を出た。
「……お前困りゃしないのか? 金はどうするんだい?」
 エレーナは、俯いて歩いてはいるが穏やかな悄気しょげてない調子で、
「私は安心してるよ」
と云った。
「お金は、労働矯正所の方からチャンと送ってくれるんだってもの……あすこにはいい紡績工場があって、出て来れば工場へ入れるようにしてくれるんだヨ」
「ふーん」
「お前知らないだろ?」
 熱心な口調でエレーナが云った。
「あすこには、学校も劇場もあるんだってさ。……私は安心してるよ。大抵よくなるんだもの、帰って来ると」
「グリーゼル、前にも行ったのか?」
「あの男は初めてだろう。……でも私知ってるんだもの……」
 ソヴェトでは、監獄というものが資本主義国とはまるで別な考えかたで建てられてる。エレーナの不充分な言葉にこもっている信頼から、信吉はそれをつよく感じた。
「……私の死んだお父つぁんがね、行ったことがあるんだよ。それは工場で、みんなに渡す作業服の買入れをごまかしたからなんだけれど。――本を読むようになって帰って来たもの……そして、それからいい労働者になった……」
 電車通りへ向ってごろた石を敷きつめた早朝の通りは、働きに出る男女の洪水だ。こっちからむこうへ行く者ばっかりだ。
 人波の中から、
「カアーチャ……」
 いかにも調子よくひっぱった若い女の呼び声が起って両側の建物に反響した。ヒラリと三階の一つの窓から若い女が上半身のぞけた。
「今すぐゥ!」
 そして、消えた。
「可愛い小母ちゃん
 早くしてくれ
 お粥がこぼれるよゥ」
 まだ暑くない朝日を受けて陽気に揶揄からかって笑う男たちの声が絶間ない跫音の間にする。
 信吉は群集に混って同じ方向に歩いている瘠せたエレーナに訊いた。
「……お前どこまで行くんだい」
「今は店へ行って、それから赤坊を托児所へつれてくんだよ」
「ふーむ。……この頃は預けてるのか?」
「――ここらの人みんな頼んでるもの……私せん、おっかなかったんだよ、――だって、政府に世話して貰うなんて……」
 この女がこんな微笑みを洩すこともあるかと思う清らかな微笑みをエレーナは唇に浮べた。そして云った。
「――ねえ……何故人間って知らないことは何でも、いいことでもおっかながるもんなんだろう……」

    (※(ローマ数字「IV」、1-13-24)[#「(IV)」は縦中横]

        一

 暑い真昼だ。
「鋤」の旋盤第三交代の連中が、食堂の北側の日かげに転ってる古ボイラーのまわりで喋くってる。だんだん討論みたいな形になって行った。
 職場のコムソモーレツ、ヤーシャの妹が煙草工場へ出てる。昨日その煙草工場見学にどっかの外国人が三人やって来た。ちょうど今みたいに昼休みで、食堂や図書室に婦人労働者連がガヤガヤしていた。すると、その中のニーナという女が、やっとロシア語の少しわかるその外国人をつらまえて、お前さん方、私共ソヴェトで社会主義がどんなにうまく行ってるか見に来たんだろ? サア、よく見て行っておくれ、私共が何を食って五ヵ年計画のために働いてるか。私達は餓えてるんだ! と喚き出した。
「工場委員会の文化宣伝部員の女が案内していたんだそうだ。ひどく泡くって、ニーナに怒りつけ、外国人を急いでそこから連れてっちまったんだとよ」
 ボイラーの下へ片肘ついて横んなりながら草をひきぬいて噛んでた赫毛のボリスが、軋んだような声で呻った。
「――何だってまた、大衆の口へフタをしたんだね? そのスカート穿いた工場委員は?」
「判りきってるヨ。だって、そりゃ……判りきってる!」
 ボイラーに腰かけ足をブラくってるちびのアーニャがせき込んだ。
「外国人て、どうせブルジュアか社会民主主義者じゃないか、恥だわ。階級の敵だよそんな女!」
「――奴等あ、それに、とても素敵な写真機械をもってるんだ。歩きながら写しちまうんだ。パチリ! すんじまう。……俺あ見たことがあるんだ」
 驚歎と憎悪とを半々に浮べた眼付でノーソフが云った。
「そして、新聞へ出すんだ。例えば、ソヴェトの哀れな労働者は社会主義国に暮しながら、毎朝こんな混み合う電車にのって、工場へ通わなければならない。そう書いて出すんだ。……国防飛行化学協会オソアビアヒムのクラブ図書室へ行って見な、あるぜ。そのイギリスの新聞が」
 みんな黙った。暫くすると、キャラメルの唾を吸いこみ吸いこみ、
「フン!」
とアーニャが顎をつき出した。
「じゃ大方イギリスの資本家は、さんざっぱら合理化してチョンビリ残した労働者を一人一人馬車へでものっけて運んでるんだろ!」
 ワハハハハハハ。
「でかした小母ちゃん!」
「ついでに一つ英語でやってくれ!」
「――同志タワーリシチ!」
 鼻の頭へヨード絆創膏の黒い小さいきれをはりつけた男が叫んだ。
「俺あ云うね、その煙草工場での経験は、『労働者新聞』の大衆自己批判へ投書しなくっちゃならねえと。その女は、ただニーナというだけじゃなく、何の誰それニーナと書かれて、プロレタリアとして云うべきことと云うべき場所ってものがあるのを知らされなくっちゃならねえ!」
「――事実はどうするヨ」
 グルズスキーがねちねち口を挾んだ。
「購買組合の棚は空だっていう事実は、どうするよ。……お前ら空の小鳥に、家持ちの気持は分らねえんだ」
 膝を抱え、ボイラーによっかかって熱心にきいている信吉からは見えないところで別の太い声がした。
事実は大事だ。そりゃ、レーニンも云った。だが、そりゃ事実でなくちゃならねえ。――われわれが餓えてる? 一九二〇年のソヴェトじゃ事実だった。今日の事実じゃねえ。食い物は確につめてる。その代り工業生産はわれわれんところ、ソヴェトで一年に二八パーセントも殖えてる。これがわれわれの事実だ!」
「異議なし!」
 アーニャが手を挙げた。
「どっち道、その女工場委員はホントのボルシェビキじゃなかったんだ。何故逃げたんだ? 外国人つれて。――云わしゃいいんだ。大衆の口をふさぐことは許されてねえ。事実で証明すりゃいいんだ」
 信吉は、全力をつくしてみんなの言葉を理解しようとし、オーリャが今に何とか云うかと待った。がオーリャは始めっからしまいまで黙ってボイラーに腰かけ、上被のほころびを繕ってた。

 四日ばかりして、こんなことがあった。
 昼のボーが鳴って、洗面所の水道栓が一時に盛にジャージャー使われるので冷たい滴をいっぱいつけた。
 それから信吉が食堂へ行って見たら、売店のガラス棚の中には、胡瓜がエナメル皿にのっかってるぎりでカランとしてる。蠅とラジオの音楽とがある。
 肩幅のある鍛冶部の連中が所持品棚から手付コップをもってやって来た。ソヴェト同盟では、高熱作業や有害ガスの立つ作業をやる労働者は、組合の労働保護費で毎日牛乳を支給されてるんだ。
 手に手にコップつき出して台の前へ列になった。
「そーら、お母ちゃん、牛乳おくれ!」
 白い上被を着て白い布で頭を包んだ係りの女が、
「今日は、半コップだよ」
 牛乳罐から杓子で、こぼさないようにコップへ分けた。
「――何故ね」
「牛乳組合で足りなかったんだヨ」
「……豪気なことんなりゃがったね!」
 みんなは、渡される手付コップの中に半分だけ入ってる牛乳を眺めちょっとゆすぶって見、それからそこに立ったまんま、或はベンチにかけて、ユッくり注意ぶかく飲んだ。
 飲むと、手の甲で口の端を拭き、
「ドレ……」
 立ってった。
 互同士の間でも、連中は牛乳の足りないことについちゃ、悪態もつかなかったし愚痴もこぼさない。ただいつもより喋らなかっただけだ。
 ジッと見ていて、信吉は思わず自分もシッカリ立ち上った。
 裏の広っぱではギラギラ光る碧い空へ向って起重機の黒い動かない腕が突出てる。
 高く飛行機が飛んでる。
 下で、裸の肩へ赤ネクタイを翻す工場学校のピオニェール達。タッタ今食堂で半コップぎりの牛乳を支給されて来た鍛冶部の連中。古ボイラーのまわりへタカったり、金屑の山をこじったり賑やかに蟻みたいに働いてる。
 今日は「鋤」の「廃物利用突撃デー」だ。
 ソヴェト同盟は五ヵ年計画で、役に立つものなら古桶のたがでもこねかえして機械にしてしまうという意気込みなんだ。
 信吉も一生懸命ホジっちゃ地べたへ古鋲や変な古金物の端をはじき出してるところへ、ブラリと煙草をまきながらグルズスキーがやって来た。
「……今日は鍛冶部へ牛乳が半コップだけしか渡んなかった……知ってるか?」
「それがどうしたよ」
 信吉は、額の汗を払いながら太い声出した。
「……見ろ。初めてだぜこの工場で。……農民は、だんだん労働者に食わせねえようになって来たんだ。奴等、怒ってるんだ。……二〇年の饑饉だってそこから起ったんだ」
 こいつ何故、俺をつらまえちゃこういうことを云うんだ? 信吉の腹ん中には、さっき自分の眼で見た鍛冶部の連中の態度がうちこまれてる。彼等はこういう風には、そのことを扱ってない。――「おいトッちゃん」
 信吉は立ち上ってグルズスキーの肩を両手で持ちクルリとあっちを向けた。そして指さした。
「あの人にそういうことァ云ってくれ!」
「……どの人よ」
「あの人ヨ」
 信吉はもうしゃがんで掘じくりながら笑ってる。
「……畜生!」
 グルズスキーはプーッと地べたへ唾して行っちまった。信吉は笑ってる。
 信吉が指さした広っぱの端れには、荷馬車からはなされた馬がいる。馬は糞をしてる。
 燦く碧空で、屑の中から有用なものを掘り出してる無数の人間の上で、飛行機のプロペラが唸ってる。――

        二

 全露共産党中央委員会書記が「プラウダ」に報告を書いた。
 何故ソヴェト同盟には食糧困難があるか? なるほどソヴェト農民が昔は食わずに売っていたバタや肉・卵を自分のところでも食うようになって来た。だが、農村のそういう生活向上は、解放されたプロレタリアート国家として非難すべきことだろうか? 否。実によろこぶべき事実だ。
 ソヴェト全同盟の労働者農民の営養はもっともっと高められなければならない。
 五ヵ年計画はこの領域にも手をのばし、農産物の増加と価格の低下で、現在一人当り四九・一キログラムの肉類の消費を六二・七キログラムに、九〇・七個ずつ食われる卵の数は一五五個に。二一八キログラムの牛乳製品は三三九キログラムに、それぞれ高めようとしているのだ。
 現在の肉類の欠乏は、五ヵ年計画のはじめ、集団農場化が行われるとき、階級的意識の低い中農や反革命的な富農が、家畜の共有を嫌がって非常に多くの牛、馬、豚を屠殺した。それを補うために、国営、集団農場で行われた牧畜は僅か一パーセント増しているに過ぎない。その結果肉類の欠乏が来ているのだ。
 ソヴェト同盟内の集団農場の集団牧畜を急テンポに振興する努力だけが、この状態を根本的に救済するんだ。
 野菜類は、決して実質的に不足は告げていない。どこにも旱魃かんばつで悩まされた地方というのはなかった。ところで現在、農村に集団農場、箇人耕作をする中農、及富農と並存している過渡的情勢で、一番、野菜類穀物類を売り出す可能をもっているのはどの部分か。富農だ。
 中農の箇人耕作は消極的性質で行われている。農業の社会化は五ヵ年計画の第一年でプログラムの二倍以上行われた。然し、それにしても、まだ建設期だ。特に野菜類を豊富に大衆へ行き亙らす程度にどの集団農場も発達しているとは云えない。
 最も市場に売り出せる余分の農産品をもっている富農は、ソヴェト権力が益々社会主義的前進をし、急速に資本主義的要素を排撃するのに反抗し、あらゆる方法で、ソヴェト経済を乱そうとしている。富農の売却サボタージュが、野菜その他の欠乏に重大な役割を演じているのだ。
 〔三字伏字〕大衆と党との協力による力強い農業の集団化、機械化によってだけ、プロレタリア経済に必要な農産物の供給は、富農の力を借りる必要なく行われるようになるのだ。
 全ソヴェト同盟の大建設事業に伴ってこの夏は、運輸が従来にない重大な意義をもっているにかかわらず、各所に貨物の渋滞、延着が訴えられている。或る駅ではキャベジ一貨車を腐らした。この事実は、プロレタリアートの建設事業の血管を管理している運輸労働者の大衆的自己批判を求めている。
 同時に、この際消費組合内部機構の批判も活溌に行われなければならない。ソヴェトの消費組合の社会的任務は、商品取引の過程から出来る限り資本主義的仲介人を追っぱらい、それを社会化し、国内市場を組織することにある。国営工業からはその生産品を出来るだけ安く、早く、便利に農村へ送るように。労働大衆が最も有利に賃銀を実質化すことを助けること。農業生産物を集め、それを合理的に都市の使用者まで持って来ること。これが消費組合の任務だ。
 党を支持し、〔二字伏字〕ある社会主義社会の達成に向って進むプロレタリア大衆は、益々広汎に消費組合の隊列に参加し、その正当な運用と活動を監督鼓舞しなければならない。

 みんな、いろんな恰好で、シーンと聞いてる。
 モスクワは暑く、かわいてる。市の鉄道切符売場の前の歩道では毎日朝から、有給休暇で「休みの家」へ旅立つ勤労者たちが切符を受とろうとして列をつくっている。
 まけず劣らずの列がパン配給店や、消費組合売店の角にある。暑いためもあって、そういう列の中で、男も女も怒りっぽかった。ひどく互同志で列の順をやかましく云った。
 胡瓜車だけが目立った。
「鋤」の中でもいつかしらみんなが食糧の問題を盛に喋くるようになった。
 口数の少いオーリャまでが云った。
「『金属』の休みの家では、でも、まだまだよく食べさせるってさ。野菜でも肉でもフンダンだってさ」
 ヤーシャが読んじまっても、みんな暫く黙ってる。
 頻りと爪をかんでたノーソフが不意に、
「ね、おい!」
 例のヤブ睨みになりかけたような眼つきで云った。
「……区の消費組合監督委員たちは一体何してるんだネ」
「……知らないよ。知るのは容易なこっちゃないよ」
 アーニャがプンと答えた。
「――大方、マカロニと石鹸とくっつけて置いちゃ、匂いがついて食えませんよって監督してるんだろ」
 信吉はヤーシャから新聞をうけとり、膝の上へひろげてウンサ、ウンサ一行二行と綴字を辿って、読まれた論文のよみ直しをやってる。
 区の「コムソモールの家」に文盲撲滅の講習会が開かれている。信吉は一晩おきに欠かさず通い、どうやら読めるようになったところだ。
 新しい世界が信吉の前へ一層深くひらきかけてる。
 オーリャの声だ。
「われわれんところじゃ、随分『機能清掃』がやられてるけれど、まだ消費組合の内じゃ、バタの大きい塊りが頭の黒い鼠にひかれたりするんだ」
 信吉は、昨日アグーシャから聞いた話を思い出して云った。
「――『赤いローザ』じゃ工場ん中の女代議員が、消費組合監督の突撃隊をこしらえたそうだぜ」
「……あすこはドダイ女が多いんだ」
「ちょっと!」
 オーリャが、のり出して強い美しい目で皆をグルリと見た。
「そういう問題に男と女の区別がある? まして、直接大衆の食糧問題と結びついてるとき、男と女の区別がある?」
「異議なァし! タワーリシチ!」
 ヤーシャが半分冗談みたいに、陽気に叫んだ。
「これは、階級的な問題だ。オカミさんだけの問題じゃない。ソヴェト経済の社会化に結びついたプロレタリアート大衆の問題だ――」
 が、そこまで云うと急にヤーシャはピタリと口をつぐみ、顔つきをかえた。真面目な声になって相談するように云った。
「だが――何故『鋤』工場でも、食糧配給監督の突撃隊をこしらえちゃいけないんだ?」
「ヤーシャ! いいこと思いついた! ほんとに、何故われわれんとこで、食糧配給監督をやることに思いつかなかったんだろう!」
 キラキラ輝く顔になって、オーリャが手を叩いた。
「ヤーシャ! いいわ。ステキだよ、やろう! え? やろう! どう? みんな?」
「ふむ」
 ノーソフが、ゆっくり頭を掻きながら満足げに呻った。
「こりゃ、プロレタリアートの自発性だ」
「そうだとも! われわれは積極的にやらなくっちゃ。直ぐみんなにこのこと話そう!」
「待ちな」
 ヤーシャが、半袖シャツからつき出ているガン丈な腕を曲げて金網をかぶせた時計を見た。
「これからじゃ間に合わない。帰りにしよう。所持品棚のところへはどうせみんな来るんだ」
「そいでさ、交代の連中だって一緒に聞くもん、なおいいや」
 勢づいたアーニャが信吉の髪の毛をひっぱった。
「こんなに真黒な毛生やしてても、為になることも覚えてるんだね」
「俺ら直ぐアジプロ部へ行って来る」
 ヤーシャは、はじめ歩いていたが見ているうちにだんだん大股になり、とうとう駆け出した。駆けて作業場の建物の角を事務所の方へ曲った。

        三

 コムソモーレツ、ヤーシャが大きな紙に赤インキで書いたビラを両手でもってやって来た。仕事場の横の、生産予定表だの、小さい壁新聞だのの張ってある壁にそいつを貼ろうとしてのび上った。
 一人じゃうまく行かない。
 それと見て、オーリャが手鑢にかけてた締金を放り出し、可愛く紐の結び目のおったった紺の上被りの端で手を拭いて、貼るのを手伝ってやった。
 モーターは唸ってる。
 真夏の午過の炎暑の中へ更に熱っぽい鉄の匂いがある。
  ツウィーッ!
  ツウィーッ!
 ビラにはこう書いてある。

  仕事がスンだら所持品棚のところへ集れ!
  三十分を惜しむな!
  食糧問題の自主的、階級的解決は俺達の任務だ!
  ボルシェビキ的積極性で、ヤッテ来イ※(感嘆符二つ、1-8-75)
職場アジプロ委員

 全体赤い字のところへ、「食糧問題」とだけ黒だ。パッと目をひくように、うまく書かれている。
「何だい?」
「何ヲ考え出したんだネ、暑いのにヨウ」
 わざわざ仕事台から離れてビラを壁のところまで読みに行く者もある。
 読んじまっても、みんな、すぐには行っちまわない。党員で、職長のペトロフまでゆっくり奥から出て来て、ビラの前へ立った。
「こりゃ、いい思いつきだ」
 もう一遍よみかえして見て、
「――ほかの職場連中知ってるのかネ?」
 アーニャがゴシゴシ手鑢をつかいながら、暑気を震わすような甲高い自信のある声で返事してる。
「グーロフがかけずりまわってるヨ」
 確にビラは金的を射た。みんなの注意をひきつけた。
 丸まっちい鼻の頭から下瞼の辺にかけて粒々汗をかきながら赤いムッツリした顔して信吉は働いてる。が、ビラによって起った職場のみんなの心持の反応は、信吉に一つ一つハッキリ感じられる。
 実のところ、信吉は人に知れない初めて経験する一種の亢奮につかまれているのだ。
 ソヴェト消費組合の活動に向って大衆を招集し、監督鼓舞すべき任務を示した論文が「プラウダ」に出た。それを昼休みにヤーシャがみんなに読んできかせたからではあるが、「赤いローザ」に消費組合監督の突撃隊が出来たことを話したのは信吉だ。
 それが直接のキッカケで、ヤーシャがアジプロ部へかけ出し、このビラとなった。だからビラはひとが書いたものだという気がしない。
 信吉にとって、第一これは、タッタ一度だって味ったことのない気持だ。ビラから、これから持たれようとする集会から、ひとのものではない気がするんだ。
 職場の連中は、どんな塩梅式にもって行くだろう?
 気が揃ってるとばかりは云えない。例えばグルズスキーみたよに、年じゅうブツクサ愚痴ってる家持ちもいる。そうかと思えばアクリーナみたいに、色っぽい体ばかりくねらせて、五ヵ年計画なんぞ、ビーイだと云った風の女もいる。――
 ツウィーッ!
 ツウィーッ!
 ひょいと気がついて見ると、足許にもういい加減オーリャへまわす分の締金がたまってる。
 信吉は、モーターを切り、首をねじむけてオーリャを呼ぼうとした。が、オーリャはオーリャで、また頻りに何か考えながら働いてる様子だ。
 オカッパの髪を包んだ赤い布の片方の端を上被りの肩へ垂らし、鑢へ調子つけてかかりながら、心持眉をよせるようにして軽く唇を噛んでる。何か考えるときオーリャの癖だ。
 ドッコイショ。信吉は自分で二十本ばかりの鉄片を抱えこみ、オーリャの仕事台まで運んで、ガシャンと幾分ひどい音を立ててコンクリの上へおいた。
 オーリャが顔をもちあげた。信吉を見てニッコリした。頬っぺたから髪を払おうとするように頭を一振りし、
「よめた? あのビラ――」
 やっぱり、同じこと考えてたのか!
 信吉は嬉しくなって、熱心に、
「読んだとも!」
と答えた。
「よく書けてる」
「――集会へ出るだろ?」
「出る」
「じゃいいワ。――終り!」
 失敬するようにサッと片手を信吉に向って振り、オーリャはまた仕事にかかる。信吉も自分の台へ戻った。

        四

「おーい、誰か鉛筆もってないか?」
 幾重もの人垣の中に脚のガタついたテーブルが軋んでる。労働通信員グーロフが襟あきシャツのポケットじゅうを探りながら怒鳴ってる。
「おい、鉛筆……」
「ホラよ」
 テーブルの前へ突立っていたヤーシャが、金網をかぶせた腕時計を覗いた。ちょっと爪立つような恰好でテーブルへ手をかけ、
「タワーリシチ!」
 喋りはじめた。
「シッ!」
「シッ!」
「――静かにしねかってば!」
 バッタン! 誰かが後で脚立きゃたつをひっくりかえした。
 入口からは、肩へ長い手拭いをひっかけ、その端で頸ねっこを拭きながら、まだ濡れた髪の束を額の前へたらしたのが、ゆっくり靴をひきずってやって来る。
 ヤーシャは、はじめ遠くそっちの方を、だんだん、人垣の真中ごろへ目をつけながら喋り出した。
「タワーリシチ! 昨今われわれソヴェト同盟で、一般的な食糧困難が起っている。モスクワでさえ、もう何ヵ月も肉類、野菜が足りない。現に鍛冶部では牛乳配給にさえ差支えた程だ。こりゃ、一体何故だ?」
 涼しい窓枠のところへ背中をこごめて数人が腰かけてる。中から、
「そいつが知りてえところだ!」
「シーッ!」
「今日の『プラウダ』をみんな読んだか?」
 次第に確信に充ちた親しみ深い調子でヤーシャが続けた。
「いい論文が党中央委員書記によって書かれている。――ハッキリ、食糧困難の原因が示されてる。われわれは、社会主義建設に従うプロレタリアートとしてこのことを理解しなけりゃならねえ。現在ソヴェト同盟にある食糧困難は……食糧困難は、偶然の現象……つまり雨が降りすぎて、どっかの畑でキャベジが腐ったというようなもんじゃない。五ヵ年計画によって階級闘争が激化された。その結果だ。問題の本質は、ジャガいもには無え。富農とその手先の計画的奸策にあるんだ」
 蹲んで所持品棚の樺の戸へよっかかっているのが、下を向いて煙草を巻きはじめた。
 瞬間、同じようにきき飽きた、熱している喋りてとハグれた気分がスーッとみんなの間に流れるのが、信吉に感じられた。
 ヤーシャは、それに拘泥せず巧に「プラウダ」の文句を引用しながらみんなに、富農が作物を出し渋ってること、運輸状態が円滑に行われていないこと等を説明した。
「タワーリシチ、兄弟! われわれは一九二八年の官僚主義撲滅のとき、どんな光輝ある活動をしたか! 覚えてるか? みんな! チョビ髯の工場委員会書記が、どんなザマしてオッ払われたか、覚えてるか?」
 笑いが、あっちこっちに起った。みんなは、そのときのことを思い出したんだ。
「ソヴェトのプロレタリアートが、階級的自発性で動き出すときが、今またわれわれの前に来ている。空の籠下げて、無気力な婆さんみたいに列に立ってばかりいるときじゃない。闘わなくちゃならねえ! 大衆的に、ボリシェビキ的に置かれてる情勢を批判しなけりゃならないときなんだ!」
「そうだ!」
「その通り!」
「タワーリシチ!」
 肩で人垣をわけながら、大きな髭をもった男がテーブルのわきへ出て来た。
「俺は、第二交代だ。ひと言云わしてくれ」
 手の甲で口の端を一ふきし、変に顔を外方へ向けるような反抗的な姿勢で云い出した。
「兄弟! 俺はこういう疑問をもってるんだ。長いこともってるんだ。われわれ生産に従事する労働者に食糧が足りねえとき、何故国家保安部の消費組合だけはフンダンに物をもってるのか?
 何故外国人だけ、特別の切符でしこたまものを食うことが許されてるのか?――俺はこれに答えて貰いてんだ!」
 労働通信員グーロフは、額のとこへ太い青筋を浮き上らし、盛に左の手の爪をかみながらテーブルへ腹を押しつけ紙切に何か書きつけてる。
 アクリーナが、窓枠へ腰かけ両手をつっぱったまま叫んだ。
「私は労働婦人として云うんだけれど、全くこの頃の消費組合ったらなっちゃいやしない! きのう塩漬キャベジを百グラム買うのに、何分列に立たせられたと思う? レーニンは女を台所から解放しろと云った。レーニンが死んで何年立つ? 列は長くなるばっかりで、そこに立ってるのはいつだって女なんだ!」
 キラキラする黒い眼をせわしく瞬いて一気に云い終ると、アクリーナは、フンと云うように細い肩をもち上げた。そして、並んでかけてる男からタバコを貰って吸い出した。
 ヤーシャが落着きはらってるのに、信吉は、びっくりした。心持頭をかしげ、ジッと注意ぶかくそれぞれの言葉をきき分けている。
「あのゥ……私も云わして貰えるかしら」
 箒をわきに立てかけて、四十がらみの掃除女だ。
「……職場のもんじゃないんだけれど――」
 いち早く、
「やれ、やれ!」
「お前の箒はお馴染なじみだヨ! 遠慮するな!」
「……じゃあ……私は」
 神経質に咳ばらいをして、掃除女はギゴチなく田舎訛ではじめた。
「はあ十五年労働婦人として働いてます。労働組合員で、区の女代議員ですが、こねえだ消費組合売店で、こういうことがあった。
 私は茶うけに塩漬鰊を一キロ三分の一買った。塩漬鰊はキロ四十七カペイキだ。それに三分の一だから、六十二カペイキ半になるわけだ。……そうだねえ?」
「その通り!」
「――そこの売子が私に渡した勘定札には六十一カペイキと書いてある。そいつは間違えたのサ」
 掃除女は、喋るのに馴れてだんだん大胆にみんなを見廻しながら長い肱を動かした。
「そこで私がそいつに云った。お前さん、これじゃ勘定が違うよ。すると、どうしたね、お神さん? 私が云うのさ。お前さ、少なく書きすぎてるよ。すると、その売子が云うことには、そんなら文句はないじゃねえか、そいだけあお前さんの儲け分だヨ!」
 ドッと、みんなが笑った。掃除女の眼に新しい腹立たしそうな光が閃いた。
「――お前さん達は笑ってる! けんど、私は思ったね、消費組合は誰のもんだ! 一カペイキ半は僅かな銭だ。そう云って、みんながちょろまかしたら、消費組合はどうなるだろうか。……プロレタリアのものをプロレタリアがちょろまかす――そりゃボリシェビキのすることじゃない。私はそう思った。勘定書を書き直して貰った。売子はさんざっパラ悪態ついたよ、邪魔くさいって――」
 ちょっとまごついて黙ってから掃除女は、
「話はこれだけです。――私は、われわれんところで消費組合はいつもキッチリ働いてるとは限らないってことを云いたかったんです」
 聴衆の中がガヤついて根の深いところから揺れ出した。
「管理がうまく行ってねえんだ!」
「政府だって、うまく管理してるとは云えねえ」
「タワーリシチ!」
 信吉は、思わず目と耳とをひったてた。オーリャだ!
「タワーリシチ。マルーシャは確にわれわれに一つのいい実例を話してくれた。けれども、われわれ〔三字伏字〕プロレタリアートはそれですぐ、今誰かが呻ったように、政府の管理がどうこうっていうことは云えないと思うんです。何故富農やその手先が、作物の活溌な流通を妨げるのか? 奴等の利益のために農村と都会の労働者との一致を妨げ、イガミ合いをさせようとしてるんです。奴等は、ソヴェトを狙う資本主義国のブルジュアどもと同じだ! 自分たちのブルジュア根性で、ソヴェト政府とソヴェト大衆との関係を考える! 食糧配給を混乱させれば、ソヴェト大衆は不平をもちはじめ、ブルジュア国で労働者が搾取者に〔二字伏字〕する通りに、自分のソヴェト権力に向って反抗するだろうと、それを待ってるんです!
 五ヵ年計画を、万ガ[#「ガ」は下付き小文字]一にも投げちゃうかも知れない。そう思って待ってるんです。われわれは、奴等の期待に添うだろうか?
 いいや! 絶対に※(感嘆符二つ、1-8-75)
 われわれは『十月』をひとのためにしたんじゃない! ソヴェト権力はわれわれのものなんです!」
 轟く拍手が湧き起った。
 熱誠をこめたオーリャの言葉は、時間を忘れさせた。
「タワーリシチ! どうしてわれわれが自身の政府を助けるのをイヤがるようなことがあるでしょう※(疑問符感嘆符、1-8-77) 政府がわれわれを助けるんじゃない。われわれがソヴェト政府を助けるんです。プロレタリアートのあらゆる智慧と忍耐と、何より大切な階級的自発性で、レーニンの党、われわれの〔四字伏字〕共産党を助け社会主義を達成させなけりゃならないんです! ソヴェト同盟の成功を待ち望んでいる〔十一字伏字〕のためにそうしなければならないんです!」
 まじり気ない、灼きつく歓喜の拍手に送られて、オーリャは信吉が突立っている隅へ引こんで来た。
 オーリャは信吉がそこにいることに気づかない。然し、信吉は見た。オーリャの細そりした、力のある指がハンケチをからめて顔の汗を拭きながら亢奮のために微に震えているのを。

        五

 三十分はとっくに経ってる。
 が、第三交代の連中がユサリともしないばかりか、今は第二交代のものたちも所持品置場の窓の外にまでたかって聞いている。
 分ったり、分らないだりするいろんな言葉。拍手。鋭い口笛の混った笑声。あっち、こっちへ揉まれながら、信吉はだんだん隠しきれないおどろきを汗かいた顔に表わした。
 次から次へドシドシ不平は不平としてブチまけさせながら、而も気がついて見るといつの間にやらその不平さえそっくりそのまま、大衆がよろこんで消費組合監督突撃隊を支持するような方向に、向けられて行ってるんだ。
 特別ヤーシャ一人が凄腕なわけでもない。オーリャだけがうけたからというわけでもないらしい。赧っ毛のボリスが一こと云う。次の機会に眇目すがめになりかけのノーソフが少し喋る。ポツリ、ポツリ、職長、党員のペトロフが目立たない言葉を挾んだ。――みんなが上手く喋るどころか! ノーソフの奴、勢こんで、
「タワーリシチ!」
と、とび出したはいいが、いきなり次の言葉につっかえて、
「どうした蓄音器! こわれたか!」
 彌次られて真赤になったぐらいのもんだ。
 それでも、みんなの切れ切れな言葉には、底に決して千切れない、強靱な、明瞭なものが流れていて、黒い力が溢れそうになるとひとりでそこへ行って堤になる。ズリ落ちそうになると、引き上げる。
 口で云えない伸縮自在な、共通な力をもっている。その力を感じると、例えば信吉自身だ。人前に出せるロシア語じゃないのだが、それをも忘れ、何か云いたい、何とか云いたいものがグイグイ腹ん中から湧き上って来るみたいな頼もしい心持になるのだ。
(こないだ、鍛冶部の連中が、不平を鳴らさず半コップの牛乳を飲み干した時の様子からも、信吉は無言の、この力を感じた。)
 次から次へと、そういう心持が呼び醒まされ、現にどうだ。
 最後のしめくくりにヤーシャが、一言一言、ききて全体の心へ打ちこむように、消費組合監督突撃隊組織とその〔三字伏字〕任務について話してる今、所持品置場の内外に溢れたいろんな髪色の頭は、てんでに別なことでも考えてるか?
 いや、いや。
 信吉は自分をもこめて、みんなが見えない力に引きまとめられ故障なくコムソモーレツ、ヤーシャの提議を理解しているのを感じた。
「だから、タワーリシチ! 実によく分ったと思うんだ。現在ソヴェト同盟にある食糧困難が、五ヵ年計画さえやっちまえばひとりでに消えるもんだろうぐらいに考えて放っておくのは、まるで非階級的な日和見主義だということが、よく分ったと思うんだ。
 一旦、ソヴェト権力確立のために必要となれば、われわれは悦んで餓えにだって耐えて見せる! 国内戦の時代、それをやって来たんだ。
 だが、われわれ、〔三字伏字〕プロレタリアートから一片のパンだって、階級の×が奪おうとして見ろ。許さねえ! 闘わなくちゃならん! ただパンのためじゃねえ。――階級のために、ボリシェビキは闘おうと云うんだ!」
 ウラーアアアア……
 ウラーアアアア
 煙草の煙と西日とに梳かれた暑い空気がみんなの頭の上で一斉に耀かがやき、震えた。
「さア、タワーリシチ! ところで誰が突撃隊になるか? 手上げて見てくれ!」
 やがてみんな一緒に笑い出しながら、信吉も自分の手を下した。
 そのときまで、手なんぞ上げそうにもなかったアクリーナまで、力んだ顔して窓枠の上から右手を突出してやがる! ハッハッハ!
「そうみんないっときんなっちゃ、職場が困らァ」
 みんなは、とうから考えてた計画が計らず実現したというような気の入れかたで、相談はじめた。
「鋤」工場の、消費組合監督突撃隊へは、全職場総動員。――異議なし!
 各部一交代から大体十人ぐらいずつ一組に分け、一ヵ月で交代すること。
 当面の任務は、区の消費組合委員と協力して消費組合の内部、運輸状態、生産組合と線を辿って、生産品配給を研究、統制すること。及、突撃隊の一部は他の工場へ出かけ、そこの自発性を刺戟し、そこで消費組合監督突撃隊を組織させ、連絡をもって益々大衆的に活動すること。
 消費組合加入勧誘。
 壁新聞、工場新聞を、積極的にこの問題に利用すること。
 旋盤第三交代からはヤーシャ、ボリス、グーロフ、アーニャ、その他が指名され、グルズスキーの名が出たとき、信吉は、なるほどナと思った。陰でブツクサ云ってるようなものは、表へ出して、働かして見ればいいんだ。知らなかったことも知るようになるんだ。ボリシェビキ教育だ。
 が、アーニャが、
「私は特別に、シンキーチを、第一の組へ入れたいと思います」
とみんなの前で云ったには、面くらって、
「俺あ……」
 タジタジとした。
「シンキーチは、われわれの自発性に貢献したんです。『赤いローザ』に女代議員の消費組合監督突撃隊が出来たのを話したのは彼です……」
 アーニャは、そこで信吉の方へいかにも晴れ晴れした奇麗な笑顔を振りむけながら、諧謔的に、
「尤もシンキーチ自身、自分の言葉のネウチは知らないかもしれないんです。そうなら、どう? タワーリシチ、それを知らしてやるのはわるくないでしょう?」
 異議なアし!
 ウラアー……
 信吉は、うれしさとバツ悪さで思わず赧くなりながら、頭を掻いた。
 その様子をおかしがって、手を叩く。笑う。信吉は、シャツのボタンをかけずに拡げた若々しい胸板のところまで上気のぼせた。

        六

 モスクワは夏の終りが早く来る。
 その夏は、モスクワばかりでなく、イワノヴォ・ヴォズネセンスクにもロストフの工場にも消費組合監督の突撃隊が出来た。どれも、なかなか活動した。「コムソモーリスカヤ・プラウダ」や「労働者新聞」に、あっちこっちで自発的に組織されるそういう突撃隊員の集団写真がよくのった。
「鋤」の突撃隊がはじめてトラックにのっかって、ヤロスラフスキー停車場の引込線の上で腐りかけてるトマトを一貨車、区の消費組合へ運んで来たときの写真も「鋤」労働通信員の記事といっしょに「労働者新聞」に出た。
 信吉の室の壁に、それが截りぬいてピンでとめてある。勿論、各職場の壁新聞に、それを貼りつけられた。
 そのほか、種々な産業の工場から各地方の集団農場へ、取りいれ手伝いの突撃隊が毎日のように出発する。
 工場見学団の男女が、樺の木胴籠にスポーツシャツといういでたちで汽車につまれて出て行った。ソヴェト同盟の社会主義建設の中、バクーの大油田へ! ウラルの新鉱区へ! スターリングラードのトラクター工場へと。
 地方からモスクワ見物にもウンとやって来た。
 広いアスファルト道路にするんで、西瓜車のガタガタ通るモスクワの古い石敷路は、精力的に横丁までも掘じくりかえされている。
 北緯五十五度の炎天へアスファルトの黒煙がムンムンのぼる。
 普請場の大板囲いに沿って、一段高い板張歩道が出来ている。赤旗は高く家々の燦く屋根の上にある。
 大勢の人間が、有給休暇でモスクワから去っても、あらゆる場所にそれよりもっと大勢の人々が熱心に書き、働き、演説をし、モスクワは一刻もゆるまず前進している。――
 信吉は「鋤」の突撃隊に入ってから、また知らなかったモスクワを発見した。
 モスクワにあるのは、部分的な景気なんぞじゃない。いつかどかんと下るかも知れない景気なんてものじゃない。ハッキリ方針があって、そこへ極めて計画的にジリ・ジリと社会全体がのしあがって行ってるんだ。
 トラックへのったり、てくったりして、「鋤」の突撃隊はいろんな工場や、生産組合事務所や区ソヴェトへ接触した。
 信吉は、吸いよせられるような注意で、大きな机に向って書類をひっくりかえす元労働者の工場長を観察した。
 運輸課の連中の種々雑多な声といろんな紙片とを見た。
 廻送されなかった送り状とか、二日前に打たれてた筈の電報がまだアルミニュームの籠の底にへばりついていたり、いろんな事務の渋滞がある。討論がおっぱじまる。
 突撃隊の腰のつよさに、信吉はびっくりした。根気のいい押問答や、説服の末、最後に勝利を得るんだが、事情がこんがらかったとき、突撃隊の連中に勝味を与えるのは、いつも例の、柔軟な、どんなに曲げても、ヒッぱたいても千切れっこない共通の力と、見通しだ。
 ヤーシャが、自分より倍も年長な、堂々楔髯をつけ女秘書をつれた生産組合部長に悠々、うわてにさえ出る。その自信をヤーシャに与えるのは、何か?
 工場から帰って来ると、信吉は自分の室の寝台に仰向にころがって、よくその日の出来事、些細な言葉とか心にのこってる印象などを考える癖がついた。
 後で、ひとりでに思い出せるような際だった事柄をたどって見ると、キット、どんづまりは、光みたいに力づよく漲って、みんなを引っぱっているものにぶつかる。
 これこそ、〔四字伏字〕プロレタリアートの階級の力だ。が、その力もいわれなしには来ない。力となる科学的な理論があるからだ。ストライキ。〔二字伏字〕。〔三字伏字〕。現在の目醒ましい社会主義建設と水火をくぐって、〔十一字伏字〕のものと極めのついた指導理論を、みんなが腹にいれてるからこそ、ジリリ、ジリリとブルジュアどもを地球の上から押しのけ出したんだ。
 この頃んなって、信吉は、〔八字伏字〕というものについて、自分がどんなウソ八百をきかされ、おどかされていたか、つくづく知った。
 ブルジュアは、〔五字伏字〕がホントに〔九字伏字〕するもんだと知ってるからこそ、その運動を搾め殺そうとするんだ。

 太陽は八月の太陽だが、空に秋らしい小さい白雲が浮いてる。楡の枝が、横に張った古い板塀越しにサヤサヤ揺れてる。大きい楡の葉はもう黄色くなりかけている。
 日本だったら、カナカナの盛に鳴く刻限、蝉もいないモスクワの中庭で、信吉はテーブルによっかかって、ペーチャの手許を眺めている。
 ペーチャの親父は荷馬車ひきだ。おふくろはチブスで死んでいない。ピオニェールだ。ペーチャは赤い大判の紙をテーブル一杯にひろげ、そこへ鉛筆で作図しちゃ、鋏で切りぬきをやっている。
「……どうだったい? 魚とれたかね?」
 信吉がきいた。
「余りいやしなかったんだよ、その河には。……でも一遍魚スープをこさえたよ」
 モスクワ各区がそれぞれピオニェールの夏の野営地をもっている。ペーチャはソコーリスキー区の野営に一月行って、つい二三日前帰って来たばっかりだ。
「何匹とった」
「二匹」
「どんな奴?」
「……この位だ」
 すっかり日にやけた雀斑そばかすのある手で、テーブルにころがってる鉛筆を示した。
「それを何人で喰ったのさ」
「十人ぐらいいたヨ」
 信吉は思わずふき出した。
「どうしサ、みんなたっぷり汁をのんだよ!」
 顔もあげず、ペーチャは赤い紙をきりぬきつづけてる。だんだん人間の横顔らしいものがハッキリして来た。
「――レーニンだね」
「うん」
 襟のところでレーニンの顔と向い合わせの一つづきに、もう一つ別の顔をきりはじめた。――マルクスにしちゃ髯がない。
「そっちは誰だい?」
「リープクネヒトさ!――九月第一日曜の国際青年デーに、僕たちの級じゃ、とても素敵な、特輯壁新聞出すんだヨ。『鋤』じゃ何仕度してる?」
「鋤」でも、国際青年デーの大衆的デモに持ち出す音楽の稽古で、昼休みのクラブときたら、騒ぎだ。
 今日も広間じゅうを這いまわって、男女のコムソモーレツたちがプラカートへと云うスローガンを書いてた。
 色つやのいい唇をキット引しめ、気をつけてカール・リープクネヒトの秀でた額際をきりぬくと、ペーチャは、二つつづきの指導者たちの像を、ちょっと顔から遠くへはなして眺めた。
 満足そうにところどころ仕上げの鋏を入れながら、ふと信吉に云った。
「――お前何故コムソモーレツにならないのサ」
 ――テーブルによっかかったまんま、信吉の顔は目立たない程赧くなった。――そう云われて、する返事が信吉のとこにはない。
「……いろんなことを知らなくっちゃなれないだろ?」
 寧ろきくように、暫くして信吉が云った。
「どうして!」
 ペーチャは、大切に肖像を鋏のおもしで傍へのけ、丁寧に赤い紙の切屑を揃えはじめた。
「みんな始めは何にも知りゃしないよ」
 道具をあつめて、ペーチャは、間もなく窓に蛙入りの瓶が置いてある自分の家へ入ってしまった。
 テーブルのわきの、掃かれた黒い地面に、ポッツリ赤い紙切れが一枚散っている。
 信吉は、落ちて来た楡の葉の軸を我知らず噛みながら考えつづけた。――ほんとに、何故俺はコムソモーレツにならないんだろう……。
 地面の赤い円い紙キレは、初秋の日光を吸いよせてそこにいつまでも光った。





底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
   1931(昭和6)年7〜9月号
※底本の親本(河出書房版「宮本百合子全集))校訂者によって復元された初出の伏せ字は、底本では当該箇所に「×」を傍記して示してある。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年5月4日作成
2003年7月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について