五ヵ年計画とソヴェトの芸術

宮本百合子




        短い前書

 ソヴェト同盟の生産面における五ヵ年計画というものは、今度はじめて試みられたものではなかった。誰でも知る通り、ソヴェト同盟の全生産は国家計画部と最高経済会議とが中心となって生産組合、職業組合との共力のもとに、年々計画的に行われて来ている。計画生産である。記念すべき一九一七年からソヴェト同盟は年々当面の生産計画とともに常に先へ先へ五ヵ年位ずつ一まとめにした生産拡大計画をもって進んで来た。一九二八―九年の経済年度から今回の五ヵ年計画が着手された時、資本主義国の「通」は先ず云った。「何だ! 別に珍しいことじゃないよ。ソヴェトではこれまでだって五ヵ年計画でやって来たんだ。」それから、続けて云った。「ところで、この五ヵ年計画なるものだが、どうだ、この途方もない生産拡大予算は! 愈々共産主義の非確実性を露出しはじめたぞ。」ドイツやアメリカのブルジョア学者はそれを学理的にうらづけた。が、其等は資本主義国の生産事情にとっては、まことに誇大妄想的拡大であるかもしれないが、ソヴェト同盟にとっては全然実現可能の必要欠くべからざる生産拡張計画であると同時に、今度の五ヵ年計画はその社会的意味に於てこれまでのものとは非常に違うことを、五ヵ年計画二年間に実証した。
 レーニンはソヴェト同盟が重工業を振興させ、労働の生産力・技術を増大させることによって、実力的にヨーロッパ資本主義国を追いぬかなければならないという点に、絶えず全ソヴェトのプロレタリアートの注意を引きつけて来た。五ヵ年計画の基礎はこの線の上にある。五ヵ年計画はソヴェトの重工業=生産手段の生産を三三〇パーセント拡大する。新設される四十二の発電所は二百二十億キロワット時の電力を生産各部門に供給するだろう。大きな西日が鋤をひっぱる馬の背とケシの花とを越えて静かに彼方の地平線に沈もうとする曠野に、耕作機械トラクターが響き出す。うねくる個人耕作の細い畦が消えて、そこに赤旗をかかげた農業機械ステーションを中心とする集団農場が現われた。
 重工業の発展はソヴェトの尨大な野を統制ある農業生産場、工業原料の生産場とかえつつある。農村の活溌な社会主義的発達はとりもなおさず都会の重軽工業を敏活に運転させる調帯だ。都会から農村へ、農村から都会へ。――СССРの地図は、搾取すべき殖民地をこの地球のどの隅にも持っていないという点だけで一九一七年以来既に一つの輝きであった。今そこは、豊富な天然資源を百パーセント社会主義生産に活用して、世界唯一つの社会主義国家の威力を資本主義に対して確立しようとしているのである。
 だから自覚あるソヴェトの勤労者は勿論、十一歳のピオニェールさえ知っている。五ヵ年計画の達成は、ただ彼等の財布へ七一パーセント増した賃銀をもち来すに止まらないことを。それは現在四千万人近いプロレタリアートを失業につき落して餓えさせている世界資本主義に対する共産主義の断然たる勝利を意味するのであることを。ソヴェト同盟の歴史にとって、いや、人類の全体の歴史にとって画時代的なこの五ヵ年計画完成のために、ソヴェトでは一九二九年来日常生活の愉快な実際的立てなおしがいろいろ行われた。
 第一、暦を組みかえた。聖書をもって派遣された魂の仲買人である僧侶たちに麻酔をかけられる教会・神を批判したソヴェト・プロレタリアートに「日曜日」は何を意味するであろう。要するに、七日目に一度廻ってくる休養日ではないか? では、例えばソヴェトじゅうの工場と役所とが日曜日だというと一斉に休業して、用のある者はしまったガラス戸越しに机と電話、磨かれた機械は見るが、そこで呼びかけるべき人間の影も無いという状態は、果して能率増進的であろうか? 心理学の実験は、人間が七日間同じ精神の緊張度と活溌な神経活動では働き通せないという事実を示している。五日に一遍休暇日をとって、二交代の工場は三交代に、「間断なき週間」として働こうではないか。「間断なき週間制」は一九二九年の秋から実施された。
 暦を組みなおして、各職場にわり当てられた五ヵ年計画第一年第一期の生産経済計画プロフィンプラン完成に着手したが、職場全体の気はそう単純に理想的には揃わない。五ヵ年計画の革命的意味を理解する精力的なプロレタリアートは各々の職場で能率増進の篤志労働団「突撃隊ウダールニク」を組織した。コムソモールは生産部門の全線に自分たちを動員して、党外勤労者と集団的結束をかためた。然し勤労者の中には「十月オクチャーブリ」以後ソヴェト同盟で生産は生産のために行われているという羨むべき事実を理解しない「棒杭ぼうぐい奴」もある。資本主義生産に奴隷として使われた時代の悪夢、工場とは出来るだけわが身をいたわって働いて金をとるだけの場所と思っている者も幾分ある。積極的に五ヵ年計画、生産の社会主義的拡大に対して不賛成な反革命的分子もある。彼等は職場で、機械の歯車のかげで熱心な「ウダールニク」の努力を邪魔した。そして、鳥打帽の庇をふてくされた手つきでぐいと引き下げて、地べたへ唾をはいた。
「ヘン! うまいようなこと言ってら! その手はくわないよ。俺あ党員じゃねえんだからね。正直に、手前の背骨を痛くして耕してた百姓から牛までとっちまって、日傭いになり下がらせる社会主義ってのは分らねえんだ」
 集団農場コルホーズ組織に対しては都会の労働者の間にさえそういう無理解が一部のこされた。当時ソヴェト同盟の遠い隅々で集団農場組織に派遣された技術家とコムソモール、それを支持する貧中農群は富農クラーク、昔から村にいて革命を憎んでいる僧侶、籠絡された村ソヴェト員の一隊と、実に必死な階級闘争をつづけつつあった。農村都会プロレタリアートの社会主義建設へ向うこの複雑で多難な歴史的瞬間、新たな集団的心理の発生と日常生活の根本的な社会主義的躍進を、ではソヴェトの芸術はどう反映しているか? 階級の芸術としてのソヴェトのプロレタリア芸術がどんな社会的役割をその芸術活動を通して演じつつあるか。ソヴェト芸術の五ヵ年計画は、先ずその自己批判をもって発足したのであった。

        二つのスローガン

 ――「大衆の中へ!」
 一九二八年の末から一九二九年にかけて、ソヴェトの芸術は、「大衆の中へ!」というスローガンをかかげていた。
 だが、人々は質問するだろう。現代のソヴェト・ロシアの芸術は元来、革命とともに民衆の中から生れたものではないか。何故今更「民衆の中へ!」というようなスローガンが必要であるのか? と。
 ソヴェト同盟は革命後社会主義社会建設の第十二年目に入っていた。一般労働者、勤労者の日常生活に於ては生産・政治・文化芸術の三つが次第に理想的な割合で持たれはじめていた。
 ソヴェト同盟には一九二七年にさえ既に三千七百以上の労働者倶楽部があり、百三十万人余のクラブ員を擁していた。小図書館の数は殆ど八千四百。勤労者は、それ等のクラブまたは工場、役所内の研究会で、政治教程ポリトグラーモタとともに大抵音楽とか、劇、または文学を、めいめいの好みに従って研究している。
 ソヴェト同盟内の作家の作品はもとより、外国のプロレタリア作家の代表作まで、『小説新聞』に印刷され、十五カペイキで手に入る。国立出版所はロシア及びヨーロッパ各国文学古典の価値あるものから現代の作品までを廉価版にして出した。詩の朗読会、作品朗読会はモスクワなどでは一週間に一度ぐらいずつの割合できっとどこかのクラブで催されている。
 職場の壁新聞・工場新聞は、三十万人の労働通信員、農村通信員に意見発表の機会を与えているばかりではない。やっと二年前に文字を書くことを覚えた六十の婆さんに向っても、開放されている。工場内には、はじめ、極く日常の出来事に関する感想を壁新聞に投書しているうち、ふと文学研究会へ出席するようになり、今では正規の労働通信員であると同時に、短篇小説や小評論をも書き出しているような若い男女が沢山ある。
 婦人部の機関紙『労働婦人と農婦』に掲載される読物の多くは、女流作家によって書かれたものだ。
若い親衛軍マロダーヤ・グワルディア』『赤い処女地クラースヌイ・ノーヴィ』などという雑誌に、或る工場内の文学研究会から推薦された労働者の小さい作品が発表されることもある。
 いきなりそこから、完成した芸術作品の生れることを期待するのは無理であるけれども、同時代の専門家によって作られる作品を、自分の階級の芸術として一般のプロレタリアートが鑑賞し、再吟味し、果して自分達の生活を再現している芸術かどうかについて、少くとも批判するだけの下地と余裕とは、もう充分つくられて来ているのだ。同時に、未来の作家は、まだ工場学校生徒、共産党青年部員として、そういう芸術的啓蒙をうけつつ、クラブの研究会で育っている。
 ところで、作家の側では、ソヴェト同盟の社会的生活がじっくり腰を据えた建設時代に入るにつれ、プロレタリア芸術の発展のために必然な、種々な困難にぶつかりはじめた。
 一九一七―二一年。
 この四年間は、生れてそのときまでものなんぞ書いたこともない人間に、思わず鉛筆を握らせるような時代であった。激しい、飛躍的な、恐ろしい程豊富な時代であった。どんな平凡な一市民も、この時期には生涯の思い出となる経験を、朝から夜まで二十四時間の内とも思えぬくらい経験しつつあったのだ。
 書きつけて置きたいことは山ほどあり、しかも現実生活の展開は迅速で、革命に鉛筆を握らされた作家たちは、自分以上の力にもえたって仕事をした。書いた。革命の歴史的瞬間に全存在を引つかまれた作家たちは、自分が革命の情熱にとらわれた、そのとらわれかたについて周密な自己批判をしている暇なんかもっていなかった。グラトコフは「セメント」を書いた。ヤーコヴレフは「十月」を。イワノフは「装甲列車」を。リベディンスキーは「一週間」を。ピリニャークは代表的な「裸の年」を書いたのである。
 各作家めいめいが、めいめいの傾向のままにそれ等を書いたのであったが、十月革命は、その発展の日常具体的な過程によってあらゆる個人を集団へ、集団的行動の中へと召集した。どんな作家達でも、革命の実践が教えた集団の価値、行動のテンポを自分たちの作品の中へ反映させずにはいられなかった。それは、世界のプロレタリア文学にとって新鮮な、生気あふれる豊富な前進であった。
 当時ソヴェト同盟の民衆は、謂わば「俺等のあの時分の日記」でも読みかえして見るように、国内戦時代にかかれたそれらの作品を愛読した。作品としては下手に書かれたものでさえも、読者は、それを読んで思い出す自分達の経験の豊富さ、なまなましさで補ってくれたのである。
 やがて十年経った。そして十一年たった。
 ソヴェトの社会主義社会建設の道はプロレタリアートの党の指導の下にあらゆる困難を克服しつつ前進し、一般勤労者の興味はもう単純にあの時分の回想にとどまってはいなくなった。階級的自覚のある労働者たちが今や目前に見ているのは、たとえばこのソヴェト同盟の生産技術をどうして向上さすべきかという緊急問題である。
 ソヴェトの作家たちは、ボツボツこんな批評を一般読者からきくようになった。
「どうも大して面白い小説も出ないじゃないか」
「どれもこれも国内戦だな。おまけにそのことについてなら、一寸見ろ! この傷と一緒にどうも作家より俺の方がよく知ってるらしいぞ」
「何だか、型で押し出しみたいじゃないか、党員てばどいつも、こいつも英雄でさ」
 読者は文化的に高まるにつれ、文学作品を自分の経験とは独立して存在する芸術品として見るようになって来た。
 加うるに、十月革命のときにはやっと五つか六つであった子供等が、既に青年となって読者層に参加して来た。
 ソヴェトの若い新市民たちは、親、兄、姉のような自覚をもって、革命前後を経験しなかった。表現や描写の不完全な作品をよんでもそのすき間を補ってゆくような国内戦時代の自分達の経験、或る場合には感傷を持ち合せていない。だから若い読者は、容赦ない批評家として立ち現れたのである。新しいひろい社会性の上に立ち、集団生活の中で大きくなって来ている彼等は、或る時、作者よりはズッと正確な革命的・階級的観点で、当時の民衆の歴史的役割を観る力をもちはじめている。
 グラトコフのロマンチシズム、ピリニャークの傍観的な態度、それ等は、文学専門家の間で、クーズニッツァ(鍛冶屋派)及び同伴者パプツチキの芸術理論として検討されるだけではなくなった。工場のコムソモールが、図書部で作品集をかりて来て、それをよんで、生活的に育っている階級的感覚から、飾りなく、どうもこういう作品は俺たちのもんじゃないや! と云うようになって来たのであった。
 ――危険な時期が、ソヴェトの作家と読者との上にのしかかって来た。
 過去の所謂文学趣味に毒されていない、溌溂たる新興プロレタリアートは「十月」とともに輩出した作家たちの書くものに、無条件に満足してはいない。真にもっと新しいもの、ほんとうに自分たちの毎日の生活を再現したものを熱烈に要求している。だが、作家たちの生活は、果してその大衆的な要求を満すに適当な条件のもとに営まれているであろうか?
 そうでないことは、否定し難い事実であった。
 第一、革命の当時は、即ち彼等が第一作を書いたときは、彼等はまだほとんど作家ではなかった。或る者は農村で、或る者は都会で、何か生産的な集団の中に目立たぬ一員として参加し、革命の歩みとともに毎日歩いたり働いたりしていた。十一年目に、はっきりめいめいの職場がわかれた。彼はもう専門的な作家で、昔の農村委員会時代の書記ではない。従って彼がその周囲にもっている集団は昔日の大衆ではなく、主としてかぎられた文学的集団になって来ている。
 文学の主題としての、国内戦は、記録文学ドクメンタリーヌイの時代をすぎて既に革命の歴史的観点から、丸彫りにして再現さるべき時になっている。しかし、左翼作家のすべてがそのような大主題を、解放史の全局面から把握し、而も素晴らしい新手法で芸術品に仕上げる程の才能をもって生れているとは云えない。ファジェーエフの「壊滅」、ショーロホフの「静かなドン」などはよい作品だが、国内戦は局部的に扱われているのである。
 では、新しいコムソモールの生活を描くか。それは明かに要求されている。若い読者はすべて、そういう作品の現れるのを待っている。そして、またそれを作家は書くべきであった。しかしが、ここへも出て来てぶつかった。今十八歳のコムソモールの心持が帝政時代に十八歳であったものに、果して、わが心のように理解出来るであろうか? わかるばかりでなく、若い彼等のもっている曇らざる率直さ、科学への関心、健康な意志と、骨身について育っている集団性、国際感情などを、自分のものとして再現する実感が果して幾人の作家にあるだろうか?
 国内戦の時代にくらべれば、革命後十年を経た建設期の日常の事件は、今は地味なものとなった。ソヴェトの建設は一見平凡な工場生活、大した変化はないらしく見えるクラブの研究室、震撼的記事はない『プラウダ』の紙面のかげに、堅実にもりあがりつつある。革命とともに出発した作家たちは、一言で云えばありすぎる社会的課題に押されて、とりつき場を失った。左から、新しい大衆に「もっと俺たちの生活を書いてくれ!」とせめつけられた。右からは古いインテリゲンツィアの残りに、嘲笑された。
「ソヴェトになってから、いい芸術的作品なんぞ一つも出来ようはずがありませんよ。第一、今の作家はロシア語そのものの美しささえ知らないじゃないですか!」
 不安な、ソヴェト文学の無風状態が来た。作家の或るもの、例えばイワーノフなどは革命当時の活力と火花のようなテンポを失い、無気力でいやに念入りな、個人的な心理主義的作風に陥って行ったのである。
 これは危い時代であった。質のよい、若いプロレタリアートは自分等の階級の本当の芸術的表現者を発見するに困難した。
 学生や若い勤人中の所謂文学好きは、構成派の詩人たちの科学性に対する異国趣味にひきつけられた。さもなければ未来派系統の、芸術左翼戦線の、作家詩人の言葉の手品を興がった。そして、自分達も、文学研究会では、やたらに文学団体の各名称について通をふりまわし、作詩と称して実際生活から遊離した言葉をこねくりまわして、並べたり、千切ったりするようになった。
 当時は、技術的に一応出来上っていた同伴者作家パプツチキが、全露作家協会の指導勢力であった。トルストイ百年記念祭が一九二八年にモスクワの大劇場で行われたが、そのとき、外国からの客、ツワイグやケレルマンがそこに立って挨拶した演壇へ出て祝辞をよんだソヴェト作家代表はリベディンスキーでも、キルションでもなかった。ピリニャークであったのである。
 読者大衆を捕えるだけ強い魅力をもったプロレタリア作品の新しいものが出ないことは、ソヴェトの民衆の旺盛な読書慾の上に、一時的にではあったが別なバチルスをはびこらせる結果になった。例えば、若いコムソモールの全生活が、すぐれたプロレタリア作家の作品の中に再現されないうちに、パンテレイモン・ロマノフやグミリョフスキーのような怪しげな作家たちが、「犬横丁」(日本訳名、ソヴェト大学生の私生活)のような代物にまとめて売り出した。
「犬横丁」は全部が嘘を書いているとは云えないとしても、現れて来る何人かのコムソモールの生存重点を、彼等の性生活、而も病的に拡大された性関係の混乱にだけ置いていることに、作家は計らず自身の階級的立場を曝露している。
 パンテレイモン・ロマノフは、ソヴェト同盟内の自然発生的な日常の事件を題材として書いた。彼の書くものは、わかりやすくて読みいいと云って、多くの者によまれる。しかしロマノフは、題材を、ごく現象の局限されたあれこれの上において、通俗小説としてのヤマや泣かせや好奇心やで引っぱって行く。文章は卑俗で平板である。
 プロレタリア文学は、本質において、ブルジョア文学におけるように、芸術的小説と通俗小説との区別を持たない筈である。しかも、こういう作家たちが、全くブルジョア文学における通俗読物と等しい作物を革命後第十一年目のソヴェトの読者にうりつける隙間があったのである。
 ロシア・プロレタリア作家連盟は、左翼的作家団体の中心となってこれらの現実の状態につき猛烈な自己批判をはじめた。
 プロレタリア文学の発展のために、これまでも彼等は決して怠けていたわけではなかった。しかし、形式の探求、古典の研究、パプツチキとの理論闘争などの活溌さに比べて、直接大衆へよびかける作品そのものの生産は、目覚ましく行っているとはいえなかった。
 日に日に育ってゆく、プロレタリア・農民の現実生活からはなれたパプツチキの作品が無批判にもてはやされたり、卑俗小説がはびこり得るのは、とりも直さずプロレタリア作家の技術が一般的に未熟で、大衆を捕える力に欠けている証拠ではないか。
 また、その「形式探究の方法」に於て、何かの誤謬がなかったであろうか? プロレタリア作家が、本をつみ重ねた机の前にだけ坐りこんで、新らしい形式を見つけ出そうと頭を抱えているということは、果して真の新しい形式を発見する方法であろうか。
 大衆の中へ! 大衆に近く!
 ロシア・プロレタリア作家連盟は、プロレタリア・リアリズムの旗を高くかかげて無風帯の中から立ち上った。
 プロレタリア作家は、新たな関心で大衆に近づき、そこから階級的なわかり易い文章を書く技術を習得しなければならない。
 プロレタリア作家は、今まで充分党に近くあったであろうか?
 プロレタリア作家は、階級の心理をもっと把握せよ! 類型から脱け出して人間を描け!
 ソヴェト同盟の革命的労働者は、一九一七年以来、プロレタリアートの生産技術を向上させようとしてあらゆる努力をして来ている。旧時代のインテリゲンツィアの専門技術を利用することは、そのインテリゲンツィアたちがソヴェト政権を認め、プロレタリア社会主義の社会建設の過程に協力している範囲内でだけ可能である。しかし、旧いインテリ専門技術家は、いつも良心的だとは限っていない。技師が生産組織の内部で、反革命的策動をやる例は、一九二八年、国家保安部によって摘発されたドン炭坑区に於けるドイツ資本家と結托した大規模な反革命の陰謀を見てもわかる。ソヴェトの党・労働組合がプロレタリアートの中から優良な技術家を養成しようとして、あらゆる場所に工場学校、労働予備学校、専門技術学校を設置していることの革命的意義はここにある。
 芸術の領域で、プロレタリア作家たちが、そのスローガン「プロレタリアートの技術を高めろ!」という声に無関係であり得るということはないのだ。
 同時に、一九二八年から九年にかけての、このロシア・プロレタリア作家連盟の標語、大衆の中へ! は、非常に大きい歴史的背景の前にあった。
 この一九二九年こそ、ソヴェト同盟に生産拡張の五ヵ年計画が実行されはじめた年であった。その第一年目であった。工場、役所の内部では、新しい溌溂たる生産能率増進のために、官僚主義排撃が、盛に行われた。
 反革命的異分子の清掃が、あらゆる部門にわたって積極的に行われはじめた。
 間断なき週間制によって、五日週間を働くようになった一般勤労者は、職場職場で、生産能率増進のウダールニクを組織し、家へかえる道々には、例えばモスクワ市立銀行の屋根に、赤く翻るプラカートを見た。そこには大きい字で書いてある。
我等のところウナスでは、清掃チストカ行われているイディオット」と。
 これは、ひろい大衆に向ってなされた階級性の新たな自覚への召集であった。その銀行内に、内部の者の知らない反革命的分子がもぐりこんでいるかもしれない。諸君、それを知らせろ! そういう呼びかけである。
 ソヴェトの五ヵ年計画は、大衆の日常生活のプログラムを変化するとともに、次第次第に大衆の気分をもかえて来た。どんな小さい隅っこの職場に働いている労働者も、社会主義社会の建設のために自分が無関係ではないことを前にもまして自覚した。厳密な階級的批判が全同盟内で、新たな勢をもりかえした。
 ソヴェトの作家たちは、ロシア・プロレタリア作家連盟を中心として、彼等が社会主義の敵か味方かを決議しようとする大衆の前に立ったわけである。
「大衆の中へ!」というスローガンのかかげられていた時代に書かれた作品としてはマヤコフスキーの「南京虫」「風呂」。ベズィメンスキーの「射撃」「変人」。リベディンスキーの「英雄の誕生」等がある。
 これらは、工場内の官僚主義に対する諷刺、プロレタリア技術発展への翹望、小ブルジョア的感傷、淫酒、淫煙の排撃。工場内ウダールニクを組織しようとする若い労働者たちの歴史的使命など、それぞれに当時の段階を反映した社会的な内容をもっている。
 未組織の勤労者の、階級的良心を、正当な評価において見なおしたのが「変人」であった。
 労働者は、組合からの半額切符で、メイエルホリド座へ行った。そしてマヤコフスキーの「南京虫」を見物したが、作者の諷刺と演出者の誇張しすぎて表現派風なこりかたは、民衆によくわからなかった。
 リベディンスキーは、ロシア・プロレタリア作家の頭株の一人であるが、その長篇「英雄の誕生」は一般の注意を呼び起すと同時に、疑問をも引おこした。小説の主人公は、経歴あるボルシェヴィキだ。その男が、亡妻の妹の裸の胸を見て、煩悶しはじめる。それはあり得ることとして、その男がそれほどクドクドとこまかく、根ほり葉ほりその性的刺戟をめぐって心理穿鑿をやる。果してそれはボルシェヴィキらしい生活態度と云えようか。
 息子のピオニェールが父親に対して批判をもっている。だが、その描写の自然主義的なテンポは、現代の活きて、働いて、歩きつつ思索する彼等の生活力を表現しているであろうか?
「英雄の誕生」が、大衆によっていろいろに吟味されつつある間に、再びソヴェトでは春の種蒔時が迫って来た。一九三〇年だ。
『プラウダ』は「種」の準備、農業機械中央部トラクターツェントルへの注意、五ヵ年計画第二年目の蒔つけ地積拡大予定計画などを次々に発表した。
『文学新聞』(ソヴェト作家団体連盟の機関紙)は、作家の農村への見学団募集をしはじめた。芸術ウダールニクを組織する必要をその社説に発表した。
 ソヴェト市民は、映画のスクリーンの上に見た、まだ雪が真白にのこっている早春の曠野で、疎らな人かげが働いているのを。測量器をかついで深い雪をこぎ、新しい集団農場の下ごしらえのために働いているコムソモールを照らす太陽と、彼等の白い元気のいい息とを。
 ――「生産の場所へ!」――
 何台も連結された無蓋貨車に出来たてのトラクターがのせられた。数百露里のレールの上を、新しい集団農場に向って走ってゆく。
 そのレールを走るのは、重い貨車ばかりではなかった。三等列車も通る。
 一九三〇年の春の種蒔どきには、風変りな見かけの三等列車がソヴェト・ロシアのレールの上を運行した。三等列車の鋼鉄ではられた外側いっぱいに「五ヵ年計画を四年で!」というスローガンや、工場と農村の労働、その結合を主題にした絵、または一目見ても思わずふき出すような反宗教の漫画を描いた列車が、屋根に赤い旗をひるがえし、窓からつき出した元気な若者たちの髪の毛を早春のつよい風に吹きとばしながら、走った。
 それは「五ヵ年計画」の文化宣伝列車である。
 国内戦当時、コムソモールと政治部員はやっぱり絵で飾った三等列車や貨車にのって、あらゆる地方をまわった。
 一九三〇年、文化宣伝列車にのりこんで遠く農村へまで行ったのはコムソモールのウダールニクのほかに映画の撮影・映写隊、劇場からのウダールニク、ロシア・プロレタリア作家連盟からの若い作家達、音楽家と舞踊家、画家などであった。
 芸術ウダールニクは、広い同盟の四方へ出かけ、そこへ文化の光をふりまくと同時に、そこにはじまっている農村または新工場都市の全然これまでとはちがう新しい社会生活、生産労働の形態から発生する心理を、めいめいの芸術の新素材として吸収しようとしたのであった。
 五ヵ年計画が、巨大な困難と闘いながら進捗するにつれて、ソヴェトの芸術全線が、実際上の必要から、はっきり生産の場所へ結びつけられて来た。
 例えば、ゴーリキーの生れたニージュニ・ノヴゴロド市について見よう。一九二七年、このヴォルガ河に面した古い都会はどんな意味をソヴェトのプロレタリアートに対してもっていただろうか?
 ニージュニ・ノヴゴロド市には、夏になると、昔から有名な定期市ヤールマルカが立った。ペルシャの商人までそこに出て来て、何百万ルーブリという取引がある。ニージュニ・ノヴゴロド市の埠頭、嘗てゴーリキーが人足をしたことのある埠頭から、ヴォルガ航行の汽船が出る。母なるヴォルガ河、船唄で世界に知られているこの大河の航行は、実に心地のいい休養だ。ニージュニときくと、恐らく或る者は(来年あたり、有給一ヵ月休暇に一つヴォルガ下りをやりたいナ)そう思いもするだろう。
 いずれにせよ、ニージュニは、全ソヴェト勤労者の日常生活にとってそう密接な関係はなかった。
 ところが五ヵ年計画とともに、この古い都は新しい命をふきこまれ、ソヴェトの意識ある勤労者にとってニージュニ・ノヴゴロドという市は忘られない場所になった。
 ソヴェトは生産力増大のために全同盟の電化と自動車化に異常な努力をはらっている。ニージュニ・ノヴゴロド市には、ほかならぬソヴェト・フォードの自動車製造工場が出来たのである。
 それは、木造の門をもった大工場だ。その門から処女製作のソヴェト・フォード第一号が、歓呼の声に送られて動き出した時の光景は、ソヴキノの映画ニュースをとおして、モスクワの労働者の胸にまでつよく刻みこまれている。
 ニージュニに新しくソヴェト・フォード製作工場が出来たという事実は、ソヴェトのような社会主義社会においては、単に首府モスクワの往来を、より沢山のトラックが地響たてて疾走するようになったというだけには止らない。一つの新しい工場は、きっと新しい労働者クラブの設立を意味している。工場クラブはきっと、そこに組織される研究会クルジョークと、その指導者として動員されなければならぬ政治教程ポリトグラーモタの説明者(若い党員)、音楽、文学、ラジオ、科学、美術の各専門技術家を予想している。
 工場クラブ、労働者クラブは、大なり小なり講堂をもっている。講堂の壁には、絵が欲しいではないか。工場委員会の文化部は会議を開く。
「どうだね、一つここんところの壁へ何かかけた方がいいと思わないか?」
「異議なし」
「町ソヴェトの倉庫んなかに、元絹問屋の客間にあったっていう、でっかい絵があるぜ」
「ふーむ。どんな絵だい?」
「なんでも黒い髪をたらした女が踊ってるんだ、半分裸でよ。その女の前にある皿に、男の首がのっかってるんだ」
「俺等そんな絵にゃ用がないよ。ちょんぎられた首なんぞ! 欲しいのは、例えばだナ、うちの工場が盛に働いてるところを描いた絵や、ウダールニクだとか軽騎隊の活動だとかを描いたもん――つまり、われわれの社会主義的建設の記念となる絵がほしいじゃないか」
「異議なし!」
「賛成!」
 工場委員会文化部は、そこで、ニージュニ・ノヴゴロドのプロレタリア美術団に新しい講堂の壁画について交渉をはじめる。場合によってはモスクワへたのんで来る。そこで、画家は絵具箱をもって工場へと出かけて行く。
 だが、画家たちは、構図をきめるにしろ、先ずソヴェト・フォード工場の生産的活動とその革命的意義とを十分理解しなければならぬ。その工場でウダールニクはどんな階級闘争の歴史をもって組織され、成員はどんな連中であるかを知らないで、そこの労働者クラブを飾る壁画、見るものを鼓舞するような絵は描けない。
 芸術家と勤労者とは手にもっている道具の違うことについて新しい自覚をもたざるを得なくなった。画家は労働者と同じものを食べ、その職場で、率直な批判や要求の中にあって、製作する機会が非常に多くなって来た。
 このことは作家についても同じであった。例えば或る作家が同じニージュニ・ノヴゴロドのソヴェト・フォード工場へ、文学ウダールニクの一員としてやって来たとする。
 彼は、労働者の集会に列席し、職場大会に出席し、ときには大通りの「茶飲所チャイナヤ」やビヤホールの群集の中にまじりこんで、一般労働者の仲間の雑談をもきく。そして、彼の見聞を記録するとしても、その作家が、ソヴェト・フォード工場の建てられた社会的意義を、社会主義的生産拡大を決心したプロレタリアートの立場から理解していなかったとしたら、果してどんな報告文学が書けるであろう。
 一九二九年から三〇年へかけてソヴェトの芸術がこのようにして生産の場所へ進出し、それと連帯をもった経験は、プロレタリア芸術史の上に実に画期的影響を与えたのである。
 複雑な再建設期の社会主義的前進の意味を理解しない右翼「同伴者」作家群の或るものが大衆から批判されるようになったばかりではない。
 実際に職場のなかへ入って労働者の建設的な生活に混り、それを観察することによって、熱心なプロレタリア芸術家たちは、自分たちがまだ現実の複雑な姿をその根源にまで突入って形象化する弁証法的な手法を充分に獲得していないことをハッキリ自覚したのだ。
 プロレタリア・リアリズムの標語は、既に数年前から問題とされていた。プロレタリア芸術家たちは、マルクシズム・レーニズムの立場から制作を正統なリアリズムの骨格と肉づけとで組立てることに努力して来た。が、農業と工業との生産労働へ日夜接触して見ると、彼等は自身のリアリズムに多分の機械的マルクシズム、生産に対する知識階級的エキゾチシズムが混合していることを自覚して来たのであった。
 ロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)が右翼「同伴者パプツチキ」の反革命的要素と飽くまで闘争しながらも、自己の陣営内で、極左的傾向を注意ぶかく批判したわけがここにあるのである。
 プロレタリア詩人、ベズィメンスキーは、一九二九年、ラップが「大衆の中へ!」というスローガンをかかげていた頃「射撃」という詩劇を書いた。
 或る電車製作工場内におけるウダールニクの組織のための闘争とそのウダールニクの献身的な活動の歴史を描いたもので、ベズィメンスキーは、五ヵ年計画の第一年目、モスクワにウダールニクがまだたった十三しかなかったときに、この詩劇を書いたのであった。
 題材はソヴェトの現段階にとって生々しいものであった。彼がこの主題に着目したことには積極的な価値があった。けれどもこの主題の理解のしかた、扱いかたに問題があった。
 ベズィメンスキーは「射撃」の中に、社会主義的善玉・悪玉を簡単に対立させた。その電車製作工場内に、ウダールニクを組織したコムソモールを中心とする男女労働者は、階級的誤謬を犯したいと思っても犯せないような善玉。対立して描かれている工場内反革命分子は、徹頭徹尾の悪玉だ。
 劇の第一幕から終りまで、二つの型の対立的争闘が描かれてあるだけで、卓抜で精力的なコムソモールは、反動傾向の中にまじっている浮動的な分子を正しい建設に協力させ獲得するために組織的努力をすることも見落されているし、推移する工場内の情勢がおのずから反動派の内部に或る動揺や分裂を起させるという現実をも見ていない。
 党は、青年部にそういう消極的な戦術についての指令は、どんな時にでも与えたことはなかったというのが、第一の若い大衆からの批判であった。まして、社会主義的戦線の拡大と強化に熱中している一九二八年以来の実際に即して観察すれば、作家ベズィメンスキーのそういう理解は、明かに一つの非弁証主義的誤りであることが指摘されたのは当然であると思う。
 革命的なプロレタリアートの不屈な意志と細心な努力とが日常生活の実際を貫いて、意識のおくれた勤労者たちの階級的行動に日光が植物に作用するような影響を与えている。
 五ヵ年計画実現の或る政策、特に集団農場化のような場合、はじめはグズグズ疑りぶかく、反動的に小さい自分一身の利害の勘定ばっかりしていた貧農、中農が、やがて農民としての損得から云っても集団化された方が得であることを合点し、仲間の中からの活溌な自発性に刺戟され、おいおい、積極的な集団農場員となってゆく実例は、ほとんどすべての地方の集団農場にも見られた。
 工場内でも、それは同じであった。生産の場所でのウダールニクの価値は、はじめ何人かで組織したウダールニクによって行われる組織ある戦術が次第に一般勤労者の階級的自覚をたかめ、自発性を刺戟して、遂には工場全体をウダールニクに加入させてゆくことにこそある。宗派的に少数でかたまりきって、英雄主義に耽ることではない。ベズィメンスキーは「射撃」の中で、この大切な階級的心理の洞察をおとしているのであった。
 それ等の点について大衆とラップの内部から批判がおこったとき、ベズィメンスキーは云った。「自分は反心理主義だ。現実には肯定と否定との両極しかない。現代ではそれがはっきりしているし、そうなければならないんだ。」
 ベズィメンスキーの、こういう固定した対立の理論の柱は、理論家ベスパーロフのところからもって来られたものであった。ベスパーロフは、文学理論の大家ペレウェルゼフの弟子の一人である。ペレウェルゼフは、一九二九年十一月から三〇年の一月まで、コムアカデミー内文学言語部によって彼の哲学及び文学理論上の誤謬を指摘された。後、ベスパーロフは自己批判してラップに加盟したのであった。それにも拘らずベスパーロフの理論の中には、多分な機械主義があり、詩人ベズィメンスキーの極左主義と結びついた。
 大衆は、集団農場化の実践において、仕事が困難であるため特別に多かった極左的な誤謬を、党が、どんなに厳密に批判したかを、よく知っている。農業の社会主義化に関するブハーリンの右翼的誤謬といっしょに、極左的誤謬も、スターリンのステートメントによって屡々指摘批判された。
 プロレタリア文学の領域でも左右両翼への偏向がプロレタリアートによって正当な批判を受けたのであった。
 プロレタリア・リアリズムにむかっての具体的な出直しの試みとして、ソヴェトの文学は大胆に生産の場所からの生のままの報告を、領分の中にとりいれはじめた。
 ラップの機関紙『十月オクチャーブリ』をあけて見ると、生活記録とか、生活の道とかいう特別欄がある。そこに短篇風な作品がのせられているのだが、例えば「二週間」という題と筆者の名と更に「鉛筆で」とか「ブロックノートより」とか、「日記から」などと註が付されている。作者が、集団農場へ行って蒔つけ時の二週間を暮して、そこに行われる労働、農場員の性格、彼等の社会主義的達成などに関する見聞をまとめたものだ。
 素材はほんとに見たまま、聞いたままだ。文学的趣味で彩飾されたものではない。小説ではない。しかし、論文でもないし、ただの外面的な旅行記でもない。社会主義化されてゆく生産の場所とそこの人間との中からの事実的記録だ。
 ソヴェト同盟では、そういうプロレタリア文学の新形式にまだこれぞといってきまった名がつけられなかったうちに、ドイツ人が持ち前の学者気質で「報告文学」という名称を与えた。(その「報告文学」という名は更に忽ち日本につたわった。)
 同時に、若いコムソモール等が、職業的な作家としてではなく党員として麦穀買つけの実際に二年間も働いたときの経験を記録した「コサック村」などが出版紹介され、好評を博した。

 五ヵ年計画によって、生産労働者の自発性イニシアチーブがたかまって来るにつれて彼等の文化的水準もメキメキ盛りあがって来た。
「ソヴェトのプロレタリアートは、もう芸術の消費者ではない。生産者となった」一九三〇年の初春に行われたラップの大会は、歓喜をもってこの事実を認めた。芸術を「生産の場所へ!」というスローガンは全くこの社会的現実を基礎としたものであった。
 一方では職業的作家たちが、書斎から出て社会主義社会建設の現実的根拠地である生産の中へ入って行く。それと同時に、芸術を生産の場所においても花咲かせよ! 種だけ生産の場所からとって行って、それを育てるのは作家の書斎の中で温室的にやるのではなく、職場にあふれているプロレタリア芸術の種を、職場で、職場の労働者自身の手で育てあげよう。作家はそのために技術的助力をすべきであるという要求が、一般勤労者の中から湧き上って来た。
 これは、文学の分野だけのことではなかった。例えば、工場内の素人劇団の数が最近夥しく殖えた。彼等は活溌に機会を捕え、その場合場合に適した題材で即興的に反宗教、反帝国主義戦争などの小芝居をやっている。が、その沢山の素人劇団の指導は、決して、理想的統一をもってされているとは云えない状態にある。
 七月の党大会後、ラップは、これまでラップが行って来た文学研究会指導方針に、大変革を企てた。
 ソヴェトのようなところでさえも、文学研究会は、いつしか文学青年の巣になる危険が顕著であった。研究会員は、勿論職場にある若い労働者が大多数を占めている。一日七時間働いている間、彼等はいい労働者であった。少くとも五ヵ年計画の生産経済計画プロフィンプランを忘れているものはない。ところが仕事が終って、さて手を洗って、文学研究会の椅子に尻をおちつけると、いつの間にか彼らは職場にいるときの彼らではなくなる。文学趣味に生きる若者に還元してしまう。さすがに今日のソヴェトで「月の樹かげのキューピッド」を主題とするロマンチストはいないにしろ、彼等は「働いている俺達」の豊富な生活面について具体的にうたわず、「建設される社会主義」とか「共産主義がそれを建てたトルクシブ!」とかいう観念的な、文学の美観と思われてるものにとびついてしまう傾向がある。
 個々の文学研究会は、狭いそこだけの興味にとらわれる傾向がつよく、例えばラップ全線が大衆とともにベズィメンスキーの「射撃」の批判で燃えていたとき、秩序をもってその問題を討究した研究会は、ほんの数えるしかなかった。この事実はラップを驚ろかした。
 文学研究会の任務は、先ず職場にいる研究会員の従来のような余技的な文学興味への引こもりをやめさせて、工場内の工場新聞、壁新聞と密接な結合を持つこと。一九三〇年の秋の新経済年度から、文学研究会は大衆の生産経済計画プロフィンプランに対する理解と、それを充実する熱心を、工場新聞、壁新聞をとおして、あらゆる文学的表現で鼓舞してゆくことにあると定義した。
 このラップの指導方針は、プロレタリア文学の新しい交代者を養成するためには、根本的な意義をもつ注意であった。
 折角新しい社会関係で労働に従事し、新しい生活で鍛えられつつある若者が、芸術と生産の間にブルジョア文化がもっていたような分裂へ逆転して、既成作家が揚棄しようとしている欠点を自分達の文学修業の出発点としたりするようなことがあれば、それはとりかえしのつかぬ誤りである。
 丁度、第十六回ロシア共産党大会が終ったばかりの時、『文学新聞』に注目すべき工場労働者の決議文が現れた。それは、ソヴェトで労働大衆とプロレタリア作家とがどんなに有機的に手を結び、社会主義社会の建設のために共同作業をやろうとしているか。労働大衆が、自分たちの文学としてのプロレタリア文学発展に対して、どんな積極的態度を示して来ているかということについても非常に興味ある一文であった。
 決議はモスクワの主要な金属工場、電気工場が主となって、作家の「師匠役」をつとめようというのだ。
 その決議文の中に、こういう大衆からの提議があった。
一、作家たちはもっと大衆にわかりやすい文学的言葉をつかってくれ。
二、作品の筋書、または未完成な下書きでもいい、作家はそれを工場クラブなどの一般集会で読んで、みんなの意見や忠告をきけ。
三、各文学団体の間に行われる理論上のいろいろな論争を工場でやれ。
四、われわれ革命的生産に従事する労働者は、作家の師匠役をする決心をした。ソヴェト作家団体連盟と赤色陸海軍作家同盟ロカフとは、その具体的なプランを示してくれ。
 更にラップは、文学の組織的生産の問題に向ってみんなの注意を喚起した。ソヴェトの全生産は、映画・出版のような文化生産をこめて生産経済計画によってされている。今日のあらゆる社会生活が文化的活動をこめて、この生産経済計画に支配されていることは誰にでも明らかである。即ち数字の上からだけではなく、計画的生産を基礎とする社会主義社会の建設の方向に爪先を向けている。第十六回党大会の席上、ラップの代表者ベズィメンスキーは、文学も生産経済計画以外のプランはもっていないと言った。別の言葉で云えば、社会主義の達成は同時に文学の課題であるということである。映画は毎年大体定められた生産計画によって生産されている。演劇は上演目録の計画的選定で上演されている。文学作品の生産ばかりは、個々の作家の勝手で行われて来た。めいめいの作家が、てんでの思いつきでつかまえた題材で書きたいときに書いていた。果して、それでいいものかどうか? ラップはこういう問題を提起したのであった。

        文学の組織的生産の問題

 五ヵ年計画第二年目にラップ内で提起されたこの問題は非常に一般の注意をひいた。
 ソヴェトでこのとき云われた文学の組織的生産という意味は、偶然に出来上った作品を発表するに当ってとられる一つの出版形式として提起されたのではなかった。プロレタリア・リアリズム確立のための一つの路ではあるまいかという考えがあったのだ。
 文学、演劇、絵画等における五ヵ年計画の目標は、プロレタリア・リアリズムの確立におかれている。
 ソヴェトの芸術家たちは、社会主義社会の建設に躍進する工場農村においての現実的経験に表現を与えることから、この芸術創造の方法の課題に答える実力を次第に獲得して来たらしかった。が、同時に、文学新聞や雑誌にこういうスローガンが見られるようになって来た。
「生産への異国趣味エクゾチシズムを排撃せよ!」
 労働者新聞に職場からの通信がのった。
「作家たちは、俺たちの職場へやって来る。彼等は見学する。俺たちの話をきく。手帳にいろいろと書きこむ。それは大いに結構だ。だが、作家たちはやって来て、創作のための材料を集めるだけで帰ってしまった。せっかく作家が来たのに俺たちの工場では、『文学の夕』さえ持たれなかった。作家たちが俺たちのところへ、どんな文化的な助力ものこして行かなかったことを実に残念に思う。――」
 作家たちが、鉛筆と手帳とをポケットに入れて工場へ出かける。集団農場へ行って、トラクターに乗って麦の蒔つけを見る。生産の場所での日常の闘争へ参加し、国内戦時代とは性質のちがう建設期のソヴェト・プロレタリアートの英雄的行動を観察し、記録し、活々とした芸術品にまとめようとする。けれども一九三〇年の春以来、ソヴェトの作家たちは、それを実現するにやや手当りばったりであった。
 国立出版所で組織したウラル地方の重工業生産地への見学団、ソヴェト作家団体総連合主催の工場、集団農場への文学ウダールニク。いずれの場合でも、ただ応募した作家たちが一まとめに派遣されただけで、各々の作家が、これまでどの産業に一番接近していたか、どんな社会的労働があるのか? それらの経験と行くさきの新興産業とはどんな関係にあるかというような詳細に亙って、作家と目的地との関係などは詮衡されなかった。
「生産への異国趣味を排撃せよ!」というスローガンが、自己批判として現れたのは、極めて自然な結果であった。
 今が今まで見たこともない製材工場へやって来て、巨大な、精緻な機械が、梁みたいに大きな木材を片はじからパンのように截って廻っているのを目撃したら、誰しも感歎する。
 やがて職業意識をとり戻し、彼は、わきに案内役をしている工場新聞発行所の文学衝撃隊員或は工場委員会文化部員に訊くだろう。
「君、これは何て機械です? フフーム。それで、アメリカ製ですか? そうではない? 成程! 素敵だね。われわれのソヴェトでもこんな機械が出来るのか!」
 ところで彼が書いて『十月』や『成長』に発表する「職場にて」を見ると、それは十分労働者の心持をつかんでいない。
 国内戦時代は赤衛軍の指揮官をやって、現在国際革命文学局の書記をしている作家タラソフ・ロディオーノフが、彼の指導するモスクワの大金属工場「鎌と鎚」の文学研究会リト・クルジョークで、丸い赤鼻を一層赤くして、こう批判したようなものが出来る。
「タワーリシチ! ここにも一つプロレタリア文学の誤った手本が出ている。この『職場にて』は、成程機械力が描かれている。機械の統制ある活動の美しさ、歓び、音響、一分間に何本の木材を切断するかという速力についても書かれている。しかし、これだけなら構成派の作家がもと盛に書いたよ。グングン働く機械を見て『アア神よ! 我々近代人を陶酔させる力はこれだ!』という工合にね。これは工場へ舞い込んでびっくりしているインテリゲンツィアの生産に対する異国趣味だ。労働者なら機械を見たとき、その機械に対するもっと異った注意や愛情、自分の道具としてそれを動かすプロレタリアートの社会的階級的な意志をはっきり感じるだろう。その機械を支配して、働いている自分達の世界的な目的を感じるだろう。この『職場にて』のどこにそういうわれわれの感情があるかね?」
 ほんの短い期間だけ、或る工場なり集団農場なりへ出かける作家たちにとっては、自分の見学、材料蒐集をやるだけで殆どいっぱいだ。そこの大衆のために何かあとまでのこって役に立つような文化的助力を与えるということは、時間的に困難なばかりではない。作家たちはそこの大衆がもっている文化の発展過程を知っていない。よしんば工場委員会の文化部員や、工場新聞発行者たちに説明されたにしろ、急ごしらえに大衆の要求を発見し、それを現実にまとめて働きかけることはほとんど不可能事である。
 ではソヴェトのプロレタリア作家は、従来、そんなに生産場面と切りはなされて作家活動をやっていたかといえば決してそうではなかった。ラップの主な作家の一人、キルションについて見よう。
 キルションは、数年前有名な「レールは鳴る」という作品を書いた。或る汽罐車製造工場が労働者あがりの工場管理者によって管理されている。工場の技師、関係トラストの支配人、古参な職長一味が何とかして、ソヴェト権力の認めた労働者の工場管理権を、自分達の手で、ブルジョアへ奪還したいと思う。反革命的策動が組織された。労働者出の工場管理者を、いろいろなことで工場内の反革命分子がいじめる。管理者は自分の部署から退かぬ。彼にとって、工場管理者という自身の地位は、ブルジョア的な考えかたでの立身――成りあがってつかんだ地位ではない。プロレタリアートによって、そこを守れ! と命ぜられた、責任の重い生産における前線の部署である。いかに恥しめられようと、退かない。そこで、反革命分子がソヴェト法律を逆用して遂にその労働者出の工場管理者を国家保安部に捕縛させた。然し、工場内の革命的分子は、黙って見ていない。熱心な、階級的な彼等の努力が、最後に反革命分子の一人の心をうごかし自己批判をよびさました。そして、工場管理者のプロレタリア的正義は大衆の前に明かにされた。
 これは、モスクワの「エム・オー・エス・ペー・エス」劇場(モスクワ地方職業組合ソヴェトの劇場)に上演され、非常に大衆によろこばれた。
 ところで作家のキルションは、その後、その汽罐車製造工場と、どんな密接な関係を保って来ているであろうか? キルションのその後の作品はこれに対する答の材料をわれわれに与えない。その汽罐車製造工場とそこに働く労働者は「レールは鳴る」に現れたぎり、消えた。他のどの作家も、二度とそこをとりあげていない。
 しかしながら、ソヴェト五ヵ年計画は、全同盟内の運輸網一九二八年八万キロメートルであったのを、三三年には十万五千キロメートルにしようとしている。この数字は、云わずとも沢山の汽罐車が新しく造られなければならないことを示している。
 嘗て、キルションに観察され描かれた汽罐車製造工場内の大衆が、この燃え立つ社会主義達成の時期に「レールは鳴る」時代とはまた種類の違う形態と心持の内容とで、職場内の階級的闘争を経験していることに疑いはない。もし、キルションがずっと続けて、この工場と現実的な接触を保っているとしたら、彼は、この汽罐車工場における第二の革命、歴史的瞬間の諸相を見落しただろうか。
 作家キルションは、工場内の熟練労働者は勿論のこと、門番、のんだくれて同志裁判にかけられた労働者とまで知り合いなはずだ。生産の技術についても、ズブの素人以上の知識をもっているであろう。職場内の一般的気分、五ヵ年計画につれて発生し複雑に発展する様々の現象と心理とは、たった一ヵ月、或は二ヵ月その工場を見学した文学衝撃隊リト・ウダールニクの到底及ばない実感、正確さ、見とおしで描写される筈ではないだろうか。
 キルションは、こういう根気よい展望をもって汽罐車製造工場を見、それと結びついてはいなかった。キルションの場合にも見られるような生産場面に対する過去の作家のややその場かぎりの題材あさりの態度、及び、現在の作家と生産との結びつきの無統制から、作品活動は、その成果において十分プロレタリアの世界観に立ってのリアリズムにまで到達していない。
 そこで、文学作品の組織的生産という考えが一部の人々によってもち出されたのであった。
 主張の要点は大体次のようであった。
 作家は、一層労働者生活の現実に即し、文学におけるプロレタリア・リアリズムのために各産業別に組織されるべきだ、そして、一年に、どの産業では最少限何篇の小説、戯曲を、どの産業では散文、詩、各何篇という風に計画的に製作したらどうか。この場合重点は、ソヴェトの生産経済計画に従って、或る特定産業の上におかれる。
 五ヵ年計画に結びつけて具体的に見ると、大体の文学的重点は、五ヵ年計画がそれを基本としている通り重工業の電化、農村の集団化の主題におかれる。重工業の中でも、特に力を入れて生産拡大をされなければならない部門=鉄、石炭、石油産業が、文学の産業別上にも部門的な重点となる。或る年度に特別の注意をもって扱われなければならない生産部門に属す作家は、その年、特に量と質で沢山な文学活動を必要とされるというわけなのである。
 工場の文学ウダールニク、農村通信員、労働通信員などの間から、その「文学生産の合理化」の実現を要求する声が、あっちこっちの新聞雑誌の上に響いた。
 これに対してラップの指導部は討論を持続しながら、結語はなかなか与えなかった。いろいろの問題がそこに含まれているからである。
 第一、ソヴェトのプロレタリア作家たちが、一時的に農村や工場へ出かけて行って観察し、材料を集めて来るというような状態は、ソヴェトの芸術運動発展の方向から見て恒久的な性質をもつものであろうか?
 七月の党大会に、ラップ代表としてキルションが過去二年間のソヴェト・プロレタリア作家の業績について報告した中で、四十余名の作家の名と作品の名とを推薦した。その中に、コムソモール出身で、労農通信員だった新しい作家たちが少なからず紹介されている。
 コムソモール、労農通信員の中から、プロレタリア芸術運動の交代者が現れつつあるということは、もはや疑う余地のない事実である。
 党の文学に関するテーゼは一九二五年、既にこの点に注意を呼び起した。理論家ヴォロンスキーは最近妙な人道主義へ転落したが、昔、コムソモールや労農通信員の文学的創造性を尊重しなければならないと云った時は、完全に正しかった。その次代の交代者たるコムソモール、労農通信員たちの日常生活はどうであろうか? 彼等はめいめいの職場にあって、すっかり生産と結ばれて育って来ている。質のよい熟練工、技術家、専門家としてきっちりソヴェト生産の中軸的活動者となっている。或る産業に永年従事するものの特別な気持。階級闘争の現実的な経験。五ヵ年計画実現に関連して、或る産業に従事する労働者の独特な生活に起った独特な社会的変化などは、こういう現役兵=コムソモール出の労農通信員によって、最も自然に実感をもって把握され文学的作品の中に描写されつつある。
 これこそ、本然的な芸術における産業別ではないか。
「ラップ」の重大な責任は、社会的労働において既に産別に組織されているこういうコムソモール、労農通信員の創造力を正しく芸術活動へ導くことにある。人為的な作家の産業別わりあては、或る種のオッチョコチョイな作家が工場から工場へと鉛筆をもって飛びまわるという厄介を減らすかもしれない。然し優秀な、拡大力のある作家の芸術活動に題材の固定化を起させるという危険がある。
 さらに、芸術はその特殊性によって、石炭を掘り出すためにきめられた生産経済計画プロフィンプランに従って生産されるということだけでは決して、作品の価値を高め得るものではない。
 文学的作品は新聞記事ではない。主題の強化、題材の蓄積、整理、筋の組立て。それらのためには時間がいる。
 文学はその点で、特に小説は、絵画と非常に違う。現に五ヵ年計画第二年目の一九三〇年に見ても、絵画には既に相当五ヵ年計画がもりこまれている。戯曲も、農村の集団化と都会の工場労働者との結合を主題にしたものがいくつか現れた。然し、一九三〇年度に出版された小説では、工場農村からの報告以外に、まだ五ヵ年計画は十分主題としてこなされていない。出版され、好評のあった小説は多く五ヵ年計画以前に書かれたものであった。無名な若い作者の生産の場所における現実的な経験、日常の地みちな建設への争闘が描写されているという点にそれ等の作品の価値を見出し、そういう作品を求め、次々に出版した。出版におけるその選択ぶりにソヴェト五ヵ年計画以後の芸術方針が認められると思う。
 ソヴェトの文学的生産は、社会生活の全貌を変えた五ヵ年計画と結びついて、発展の道についた。しかしながら、その衝撃的テンポは自ら石油の生産経済計画遂行の衝撃的テンポと同一ではあり得ないのであった。
 一九三〇年の党大会後「ラップ」が自己批判して、工場、クラブ内の文学研究会指導方針を変更したことは前回に書いた。
 孤立的な余技的趣味への閉じこもりを排撃しろ。
 文学研究会員は大衆的に壁新聞、工場新聞へ動員され、活溌な文学活動を通して、勤労者の世界観と自発性とを高めろ。
 新しい方針で、ラップはいつの時代よりも積極的に生産現場にある男女の青年労働者、労農通信員の文学的創造力へ呼びかけている。その支持と、指導とをラップの任務と認めている。そして、健康なプロレタリアの世界観と社会的労働の経験の中にある若い労農通信員たちよ! ドシドシ文学活動へ参加して来い! そう呼びかけている。
 この方針の実践は、今日、プロレタリア作家の産業別組織的生産の問題を起した現実的な原因――生産労働と作家活動との間に生じた分裂を、最も自然なプロレタリア文学全線の向上を社会的要因として、近い将来に揚棄する可能性を示すものであると思う。
 ファジェーエフは早速「ラップ」の仕事として、ソヴェト同盟内の各地方から労農通信員の文学ウダールニクをモスクワへ召集した。労農文学衝撃隊員は一万人ばかりやって来た。赤いプラカートの張りまわされた労働組合会館の広間で活溌な討論が数日間行われた。
 若い労農文学衝撃隊員たちは、再建設期にあるソヴェト同盟の生産と芸術に対する新しい活動の計画をもって再びめいめいの職場へ戻った。
 同時に「ラップ」は成員を拡大した。これまで、ラップ加盟員は大体から云って、もう一人前のプロレタリア作家になっている者、または、なりかけ位のものが多かった。一九三〇年、その限界線を「ラップ」は大胆に拡げ、ラップによって指導されている工場の文学研究会員も、ラップの正式な資格ある加盟員とした。
 工場内の文学研究会指導の任務は、五ヵ年計画第三年目当初において、従来に倍する重要な意味をもって、プロレタリア作家の前に現れたのである。
 工場の文学研究会というところは、労働通信員を中心とする若いプロレタリア文学の交代者が、そこで文学的技術さえ習得すれば足りる場所ではない。文学研究会を指導することによって、既成作家たち自身が、生産の場所にあるソヴェト新社会人の意志、感情に接触する大切な場所である。作家にとっての活きた勉強場だ。
 文学研究会に対するこの理解は、党大会後参加して来た構成派の作家たちを、「ラップ」がすぐいろんな工場の文学研究会指導者として配置したことでもわかる。構成派の人々のまだその尾として引いている未来派的傾向、資本主義末期の小市民的な観念や社会主義社会に対する観念は、現実の力によってだけ、健康に洗われ、鍛えられ得るであろう。

        農民作家の任務

 さて、ソヴェトの農民作家団はこの緊張した五ヵ年計画着手後の情勢の中で、どのような活躍をしているだろうか。このことは、特別にとりあげて調べられる必要がある。何故ならソヴェト生産拡張五ヵ年計画の核心は、都会では重工業生産の増大であり、農村では農業の社会主義化以外にない。ソヴェト同盟の人口の過半数は農民によって占められている。農業における社会主義生産が高められ工業との階級的結合が行われなければ、全体として生産経済の運転の社会主義化は実現されない。
 光輝ある「十月」ソヴェト政権の確立とともに、ロシアの農民ははじめて土地を自分のものとした。
   ┌───────┐
   │土地を農民へ!│
   └───────┘
 この歴史的なスローガンは、一九一七年の二月革命の当時、ケレンスキーの臨時政府も一応はかかげた。ともかく、それによって革命的な農民の支持を得なければ政府は一日の安きをも得ない情勢であった。が、ケレンスキーのブルジョア民主主義者らしい日和見戦術で、半封建的であると共に資本主義の土地関係を根本から建て直しが敢行され得るかのように想像したのが間違いであった。臨時政府はツァーの絶対制を立憲政治へこぎつけるまでがせいぜいで、失業と飢との間から、労働者、農民は、真に彼等の生きようとする要求を理解し、組織し、実践する党はどこにあるか。それを理解しはじめた。
 ブルジョア民主主義者に苦々しい背負投げをくわされたロシアの大衆は、今度は臨時政府を投げ倒し、プロレタリア階級の党、ロシア共産党(ボルシェヴィキ)と力を揃えて「十月」を遂行したのだ。
 一九一七―二一年の困難な国内戦の期間、農民がうけもった革命的役割は「赤のパルチザン」の功績にハッキリと現れている。
 ソヴェト同盟の第一騎兵隊ペールヴァヤ・コンナヤと云えば、革命第十三年の今日、なおソヴェトの農民の誇りだ。
 第一騎兵隊は、ウランゲルの反革命軍を追っぱらった。第一騎兵隊はデニキンをやっつけた。第一騎兵隊はチェッコ・スロヴァキアの侵入軍をめちゃめちゃにした。――ソヴェトの地図は、第一騎兵隊の偉業をぬきに説明することは出来ない。その光栄ある第一騎兵隊は誰が、どのようにして組織したものだろうか? ペトログラード士官学校の急進的卒業生によって組織されたのだろうか? そうではなかった。グラトコフの「セメント」でわれわれがよんだように、工場の赤衛兵の発達したものであったろうか? そうでもない。ブジョンヌイという一人の農民出身で、戦術にかけては天才的な騎兵が中心となってこしらえたものだ。自分の厩で飼い馴れた馬にとびのり「白」に向って突撃した農民の集団であった。南露に分散していた「赤のパルチザン」は、ブジョンヌイの第一騎兵隊の噂をきき、猟銃をかつぎ黒パンを入れた袋をかついで次から次へと集って来た。
 広大なソヴェト同盟内の各地方ソヴェトは、南方でも、シベリアでも勇敢な農民パルチザンと赤衛軍との血でうちたてられたのであった。
 一九一七年、一八年、そして一九年。
 国内戦はまだ鎮まらない。然しソヴェトは革命の翌日から着々土地法を制定した。
第一条 ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国領域内ニオケル土地、地中埋蔵物、水域、森林オヨビ生ケル自然力ニ対スル私有権ハ永久ニ之ヲ廃止ス。
第二条 土地ハ一切ノ(公然タル若クハ隠蔽サレタル)賠償ナクシテ今日限リ全労働大衆ノ使用ニ帰スルモノトス。
 ツァー、貴族、教会、地主、富農の土地は没収された。面積一億デシャチン、価格百三十億金ルーブリの耕地が「十月」によって確実に農民の手にわたった。
 ところが、戦後共産主義の毎日が始って見ると農村にはいろいろな困難が起って来た。
 農民の間の反動的分子は密造酒を飲みながらゴネだした。
「ヘエ、俺らコンムニストにだまされたんだ。奴等あ何て云った? 土地は農民へ! って云っといて、命をまとにソヴェト権力を守らした。――フー! 何が農民の土地だね! 昔あ地主に作物をとられた。今じゃ政府だ。その間に何の違いがあるかね? 昔あ年貢が不足すりゃ鞭打ちですんだ。コンムニストは鞭の代りに書付を出しくさる! そして監獄だ! フーッ!」
 土地を農民へ。ということを階級的意識の低い、農民のあるものは、本質を全く反対に考えていた。土地を皆に分け取りにして、取った土地で稼げば稼いだだけ自分の身上を肥やしてゆけるようになるのだとカン違いしていた。社会化した土地の利用ということの代りに、今度は自分達が地主となって元の地主からとった土地を分け合えるものと、旧い私有財産制に毒された理解に執していた。このため一九二一年までの単一経済組織における農産品の現物税徴収では、ソヴェト政府と都会のプロレタリアートとが大難儀を経験した。
 工場に働く労働者とまるで伝統が違い感情もちがう多数の富農・中農民は、永年に亙る非人間的生活にうちのめされ、個人的な打算以外の考えかたを持ち合わせていない。「十月」を自己流に考えて得だと思ったから、革命的な貧農と共に、のり越えた。が、いざとなるとプロレタリアートが建設しようと努力する社会主義社会での土地関係の必然性は農民の多数、特に富農には把握されなかった。
 強制徴発をされては間尺ましゃくに合わないと家族の食うだけの麦しか蒔かない、やっと食うだけのジャガイモしか植えない。麻なぞ作って骨折るだけ損だと麻畑は荒廃にまかされた。
 ソヴェトの工業はどこから必要な四七パーセントの国内的原料をとって来たらいいのか? 工場は完全に革命的労働者に管理されながら原料が足りない。軽工業生産品が出来ないから、したがって農民の買わなければならない消耗品が欠乏する。こんな不自由はいよいよ馬鹿らしいと、農民は、益々播種面をちぢめ、耕地に草は伸び放題。ソヴェト生産の鋏は、順当な交互作用を失って開きっぱなしという危機に立ち到ったのであった。
 一九二一年の果敢な新経済政策ネップは、この生産関係の調整のために敢行された。新経済政策は、農民には場合によって八時間以上の労働と、土地の貸借、他人の労力の雇傭、生産品の自由売買其他を許した。反動的な農民は、当時ソレ見ろとばかり心で手を打った。富農は土地の賃貸ちんがしをはじめ――再び富農に搾取される小作人がソヴェトの耕地に現れた。小麦、バター、麻、羊毛あらゆる農業生産品の買占人が跳梁しはじめた。
 こうして二年三年経つうちには、富農は反ソヴェト的な利害をもった農村の階級として、意外に深い根をおろした。一九二八年の秋を見るなら、我々は立ちどころに彼等の擾乱作用を理解するであろう。ソヴェトはその播種面をヨーロッパ戦前の九五パーセントまで回復していたのに、前年より一億プードも少い麦を、而も強制買付けで辛うじて買い上げている。
 この年ヨーロッパへ麦を輸出することが出来なかった。それどころか、アメリカから買い込んだメリケン粉袋が埠頭に積んであるというデマさえ飛んだ。
 これは、富農と買占人の奸策が成功した結果であった。
 前の年から、ソヴェト政府が累進税で富農の私有財産制への実際上の復帰を統制しはじめた。その復讐だ。
 ソヴェト生産拡張五ヵ年計画は、複雑な農村社会主義化の実践へ根強い組織力で迫って来た。
 先ず、耕作用トラクター七万台が進出した。
「トラクター中央」を囲むいくつかの集団農場が、生産手段の工業化につれて、労働の種別基本賃銀による共同労働、共同食堂、共同住宅、クラブ、託児所をもって、これまでと全然違う集団的労働と休息をもつようになって来た。
 集団農場では農業生産物の取引も、個人個人がやるのではない。工場が、生産組合との間に行う取引と同じような社会主義的な形態で行われることになった。本当の農業の計画的生産がはじまった。各集団農場が面積、労働力、生産手段に応じて生産予定額を生産組合との間に協定して取引する。組合員は、もう去年のように、仲買人にだまされることを心配しないでいい。集団農場が負担する税はひどく低率だ。優良種子、耕地整理、農業技師の派遣等は、生産組合が、責任を負ってやって呉れる。
 集団農場化は、大局から見て、都会の工業に対する農村のこれまでの植民地関係を止揚するばかりではない。一人一人の貧農・中農の直接の利害から云って集団農場に加入する方がずっと割がいいことを明らかにした。
 五ヵ年計画で、ソヴェト農民の一人宛収入が、六五パーセント以上八〇パーセントもあがるという事実は、既に集団農場化の第一年に認められた。農村の電化の素晴らしい勢! 真実、農村の「十月」は五ヵ年計画とともに始まった。
 富農クラークと貧農・中農との間の鋭い階級的対立のない村は、一九二九年の秋、どこにも見当らなかった。或る村では、集団農場化に精力的活動をする貧農とコムソモールが行方不明になった。十日も経って、沼から彼等の長靴があがり、やっと死体が発見された。或る村では、都会から派遣された集団農場の組織者が、窓越しに鉄砲を射たれて死んだ。せっかく村へよこされたトラクターが深夜何者かによって破壊されたという例は一再ならず我々の耳目にさえふれたのである。
   ┌─────────────────┐
   │工場と農村の結合スムイチカへ!       │
   └─────────────────┘
 都会の工場から農村の集団農場の手助けに労働者のウダールニクが数十万動員された。
 富農撲滅と富農と結托する僧侶排撃の精力的な活動と集団農場での文化向上のための文化・芸術ウダールニクが、元気のいいつむのように彼方から此方の村へと飛んだ。
 一九二九年には、ソヴェト全農戸の五〇パーセントが集団農場化し、農民の心理は急速に変化しはじめた。生産手段の工業化とともに視野はひろがった。馬鋤を押して行きつ戻りつする個人耕作の畦が消えたといっしょに、社会主義的な方法で農業生産に従事する労働者の心持が次第に農民の感情に近いものとなって来た。
 ソヴェトの土は、初めて、富農のどんよくな手から労働者農民の土地らしい生産的活躍をはじめた。
 党とそれを支持する労働者農民が、五ヵ年計画第一年から農村集団農場化の実践によって経験した国内の反動・右翼日和見との闘争、極左主義、前衛主義の克服等は、光彩ある歴史の中でも、画期的な価うちをもつものであると思う。
 全露農民作家協会の作家たちは、この波瀾に富んだソヴェト農村の数年の生活を、どんな芸術活動に反映させているだろうか?
 ソヴェトにおいて農民作家団は、十月革命から今日までの情勢の具体的基礎の上に立ち、都会のプロレタリアートの生活と農民の生活とは、その具体性において、或る相異をもっているという客観的な理由によって結成されたものであった。
 農業労働のテンポ、そこから来る生活感情そのものが、工場労働者の日常にとけ込んでいるものとは違う。毎日の関心事、その心持がまた違う。例えば、モスクワの金属工場に働く労働者が、飴牛の姙娠と出産とに、どんな熱情をもつことが出来るであろう。
 党も、同伴者パプツチキ作家団を認めたと同じ友誼的指導的な態度で、全露農民作家協会に対して来た。一九二五年の文学に関するテーゼは、その組織に対する支持と、農民に影響するために必要な農民文学の独特な形象を保護することなどを明言した。
 成程、ロシアの農民は「十月」と村ソヴェトの成立と同時に、彼の草鞋(ラプチ)をぬぎすてはしなかった。密造酒をつくることも、仲介人なこうどが結納品のかけ合をやる婚礼もすぐには絶えなかった。
 昔からの民謡を、ピオニェールも謡うだろう。「ステンカ・ラージンの岩」は伝説をもって、やっぱりヴォルガ河の崖にある。
 農民作家たちは、いつの間にか、こういう細々した農村生活の外部的、或は内面の特別性を、固定したものとして扱い、過重評価しはじめた。
「ロシアの土」の偉大さを、社会主義社会建設のために、階級的方向にどう利用して行くべきかを作品の中で指示せず、逆に或る者は「ロシアの土の力」自体が、自然発生的に社会主義を決定するかのように考えた。
 このことは、農業機械に対する農民の感情の解剖などにもよく現れた。
 例えば、エセーニンは、所謂田園詩人らしい才能と欠点とを充分発揮して、短い生涯を終った詩人の一人であった。彼は、農村の往還に、懐しいロシアの耕地に、黒い鉄の手の出現することは、どうしても理解も我慢も出来なかった。詩を書くと、類の少ない「言葉の調律師」であった彼も、ソヴェト農業というものの本質についての理解のしかたは、昔のムジークそっくりであった。彼は「農業機械のきらいな農民」を客観的に歌うのではない。いきなり、直截に、自身の心をむき出して、そんなものはイヤだ、イヤだと絶叫した。
 全露農民作家団は、革命第十年目のソヴェト同盟に生活して、エセーニンがあったほど、そのように素朴ではない。
 党は彼等を支持しているけれども、それは農民のうちに社会主義的な生産方法によって行われる新しい農業、農村生活への理解を発育させ、明日の農村のあることを予見する農民のための芸術団体として価値を認めているわけである。
 そのことを知っている農民作家は、それ故、田舎娘の赤いエプロンと、ゆっくりした碧い瞳の動き、牛の鳴声、ポプラの若葉に光るガラス玉の頸飾ばかりを書いているのではない。村のコムソモールの生活も、トラクターも書く。しかし、年とった農民がそのトラクターを眺めて溜息をついて疑わしそうに否定的に頭を振れば、農民作家はそれをそれとしてその農民の枠内でだけ把握し描写し、一歩突き進んで、ロシアの歴代の農民はなぜツルゲーニェフやトルストイ時代、農業機械をきらって来たか、その同じ機械ぎらいが、ソヴェト権力の下でさえも猶農業機械に対して排他的であり、ガンコであることは、どういうことを意味するかという、階級的根源にまでは触れて行こうとしない。
 一八六一年の農奴解放で一杯くったロシアの貧農は、生存権を守るために「旦那」に対して全く懐疑的にならずにいられなかった。二十世紀初頭に、ロシアの地主は搾取の面から、おくれたロシアの農場の資本主義経営、労働の合理化を考えて、農場へドイツやイギリスの耕作機械を買いこんだ。
 農民たちは、脱いだ帽子を手にもって地主の前へ並び、農業機械を驚きの目で見つめた。指でさわって見た。或は暫く使って見た。が、元の鋤へ逆転してもうどうしてもその原始的な器具をはなさず、「復活」に描かれているように地主トルストイを歎息させたのは何故であったろうか?
 大地主とその支配人の首枷の下で、農民は、耕作機が彼等を幸福にする道具ではないことを、本能でかぎつけた。彼等は、それを、支配者が農民の観念の統帥としてあてがって置いた悪魔という文句で表現して、機械を地主へ返却したのであった。
 ソヴェト権力の下で、村ソヴェトをもちながら農民が機械に対しては懐疑的であるのは、或る種の農民作家が認めたようにそれが「農民の本質」なのではなくて、対地主との関係に癖づけられた感情の惰勢なのであった。
 自然の描写にしても、農民作家は、自然に働きかける新しい社会の意志をうけ入れない。人間ぬきの自然美を讚歎して描く。「農村にだけほんとのロシアがのこっている」という考えかたは、農民作家共通のものと云えた。
 一九三〇年の或る秋の日のことである。わたしは、ソヴェトのいろんな作家団、劇作家団が事務所をもっている「ゲルツェンの家」の食堂で、昼飯をたべていた。作家団体に属する者は、五ルーブリの切符を半額で買って、そこで品質のいい食事が出来るのであった。
 わたしの坐ったテーブルに、二人中年の男がいる。やっぱり切符組だ。ふとその一人と口をきくようになった。
 彼は、日本のプロレタリア文学運動の情勢などしきりに訊いた後、
「日本の農民作家団はどんな仕事をしているか」と云い出した。
 日本の農民作家団――わたしは、日本に特別そういう作家グループはないと答えた。農民を描く作家もプロレタリア文学運動の一つの分野に属すと云ったら、フフムという顔つきでその男が云った。
「われわれのところには、プロレタリア作家の団体とは別に、大きい農民作家の団体があります」
 その口調からおや、とわたしは思い、この男自身農民作家だと思った。だが、どうして、プロレタリア作家と自分等とをそんなに別々に対立するような口吻で区別するのだろう。
 続けて、相手が質問した。
「あなた、ロシアの田舎を知っていますか?」
「大してよく知ってはいないが、あっちこっち旅行はしました」
「どこです?」
 そう云いながら、ジーッとわたしの顔を見据えた。
「ドン地方、北コーカサス地方が主です」
「ふふむ――で、ヴォルガ沿岸地方は?」
「二八年にヴォルガを下って、その時分はニージュニ・ノヴゴロドに、まだソヴェト・フォード工場さえなかった」
「ぜひ、ヴォルガ沿岸へいらっしゃい!」
 まるで命令するようにその男は云った。
「私は農民作家で、ほんとの社会主義がどこにあるか、ソヴェトのほんとに新しいもの、ほんとの古いものが何処にあるか、知っている。それは、ヴォルガ地方だ。ヴォルガ地方がソヴェトの動力です。モスクワで、ソヴェトの生粋の人間なんかは見られない。モスクワには商人メシチャニンか、小ブルジョアしかいません!」
 思わずわたしは笑いだした。
 これは余り、農民作家的ではないか! この男は、世界革命はヴォルガ沿岸地方からだけ、というような口ぶりだ。一般的に、農民作家の地方偏重の傾向、都会への偏狭さが屡々批判されるが、この作家の言葉にもよくあらわれている。
 一九二九年の、激しい農村の階級闘争、富農征伐のとき、どちらかというと、右翼的誤謬をもち易い農民作家団の中に「工業化主義者の職場」という、左翼的スローガンをかかげた一団が現われた。
 一見このグループの立場は進歩的であり、発展の線に沿ったものらしく見えた。ところが、その内実が明らかになった時「ラップ」とソヴェト大衆とは、この階級的なスキャップ団の清掃のために少なからぬ時間と精力とを費した。彼等の工業化は、彼等の反革命的目的にかぶせた仮面であった。富農の勢力拡大と階級擁護のために、そのような名をかぶった一味がトラクターを富農の手に騙しとり、集団化を阻害しようとした。彼等がスローガンとした「工業化」の上へはもう一つ書かれぬ言葉、「反革命的」という文句があったのである。
 ところで「パルチザン」は国内戦当時におけるソヴェト農民大衆の革命的役割の見本であるが、農民作家は、では「赤いパルチザン」の業績を、芸術活動で、どう記録しているだろうか。ファジェーエフの「壊滅」、フセワロード・イワノフの「装甲列車」及「パルチザン」、フールマノフの「赤色親衛隊」などを凌駕する、どのような作品が農民作家によって呈出されたであろうか?
 ファジェーエフは「ラップ」の作家だ。イワノフは同伴者作家として、まだ新鮮な力のあった時分「装甲列車」を書いた。赤軍も、農民とは切りはなせない。なぜなら、赤軍は労働者農民の武力なのだから。しかし「騎兵隊」を書いたバーベリは同伴者作家団に属する。近頃「第一騎兵隊」を書いて、上演されている作家ウィシニェフスキーは農民作家だろうか、ちがう。「ラップ」の若いコムソモールの出身の作家である。
 現に、一九三〇年七月の第十六回ロシア共産党大会で、最近二年間の傑作として紹介された農村を主題とする文学作品、ショーロホフの「静かなドン」にしろ、ゴルブーノフの「解氷期」にしろ、「村娘」「農村通信員の手記」「貧農組合」「コサック村」、すべて「ラップ」の若手作家、主としてコムソモール出身の作家によって書かれた。
 農民作家が、厳しく自己批判すべき時が来た。
 ソヴェト農村の社会主義的な集団化は、農民の現実を大きく変化させ、急テンポで農民作家の階級的認識を追い越しつつある。
 五ヵ年計画は、農民作家に重大な任務を授けた。それは、昔の封建的で個人主義的農民気質と生活の型が、あらゆる農村生活の特殊性等が社会主義建設の現実にあっては、より高い階級的自発性イニシアチーブへの可変的要素であることを、複雑な新しいものと古いものの錯綜のうちに芸術化するという課題である。

        ソヴェトの農民は文学をどう噛みこなすか

 ソヴェト同盟内の労働者大衆が、次々に発表される小説、戯曲などに対して、どのような感想批評をもつか。それは比較的はやく、はっきり反映して来る。
 彼等の批評は『文学新聞』への投書となる。『キノと生活』へ工場の労働通信員の寸評となって出て来る。工場内の文学研究会でまとめられた批判は「ラップ」の初歩的機関紙『成長ロスト』などへも載せられる。芝居のプログラムのうしろには、その時上演されている戯曲についての大衆的反響が印刷されているほどである。
 ところが、農村に於ける農民大衆=一生モスクワというところを自分の目で見る機会がないような辺鄙なロシアの田舎で「十月」を経験し、国内戦を闘い、そして今は五ヵ年計画による集団農場建設のために努力しているソヴェトの農民大衆の芸術に対する反響は、どの程度に集められて参考にされているかというと、これには余り積極的な返事は与えられなかった。
 一九一七年以来、ソヴェト同盟の農村は、どんな山奥でも農村通信員というものを持っている。主として年長のピオニェールや、コムソモール、または党外の活動的な分子によって組織される農村通信員は、特におくれた文化の農村生活の中で実に多くの文化的役割を果しつつある。ソヴェト労農通信員の強みは、日常の政治・文化戦線における彼等の建設的実践力だ。単に書くより先に行うところに彼等の異常な文化建設力がある。
 五ヵ年計画がはじまってからの彼等の活動は目覚ましいものがある。一九二九年の秋から三〇年の種蒔時にかけて敢行された富農撲滅、農村の「十月」が、ソヴェトの社会主義社会建設史の頁に輝く時、その陰にかくれた農村通信員の革命的功績は決して只忘られるものではない。
 活動的な農村通信員達は、村の図書館について、「民衆の家」の文学研究会について、いろんな報告を送ってよこす。
 だが、それは大抵、農村通信員各個人個人の意見で書かれたものである。例えば、俺の村の「民衆の家」は折角「赤い隅」をもっていながら、今年の前四分の一半期には一冊も新しい本を買わなかった。国立出版所は、新刊書の配布網についてもっと研究するべきだ。そういうことは書いて来る。しかし、村の人々はどういう小説を読みたがっているか、またどの小説に対してどういう風に大衆的に批評したかというような綜合的な報告は概してすくない。自分は何々を読んだ。だが、作者は果して村の生活をよく知ってるのだろうか? 云々。そういうのはよく見かける。けれども、五人なり十人なりの農民が集団的に与えた作品評というものは、これまで殆ど見当らなかった。
 ところが、一九三〇年一つの興味ある本が国立出版所から出た。それは、アー・エム・トポーロフという男の仕事である。
 モスクワから五千キロメートル離れたシベリアのコシヒ・バルナウーリスキー地方に「五月の朝」という共産農場コンムーナがある。そういう農場では、生産、利潤の分配すべてを共有に、共産主義的にやって行く農場経営の形だ。
 そのコンムーナに小学校がある。数本の白樺と檜の樹にかこまれた丸太づくりの小さい学校だ。が、そこに一人の精力的な教師が働いている。一九一七年までその教師は近所の村の教区学校の教師をしていた。コンムーナが出来るとそこの学校で教えはじめた。ガッチリした四十がらみの男で、ツルの曲った粗末な眼鏡をかけ、時によると、校舎の外の草っ原へ机と腰かけをもち出し、コンムーナ員の誰かをつかまえ、何かをきいてはそれを紙きれに書きつけている姿が見える。「五月の朝」の人々は、だんだんそういう光景を見ることに馴れた。更に一つの、事実にも馴れた。それはコンムーナの一日の仕事が終ると、殆ど毎晩小さい丸太小舎の小学校で文学朗読会があるということだ。
 工場の文学研究会みたいに、みんなが家で小説をよんで来て、意見を話し合うというのではない。七つ八つの子供から七十近い爺さん婆さんまで、
「そろそろまた本読みさ行くか」
と、やって来る人々に向って、いつも一人の人間、つるの曲った眼鏡の先生が、あきもせず、いろんな詩、小説、戯曲をよんできかせてやる。
 みんなは唸ったり、退屈だと無遠慮に欠伸あくびしたり、時には亢奮して涙をこぼしたりしながら、読んで呉れる作品をきき幾晩かかかってすっかりそれが終ると、
「さアてネ」
と、てんでに印象を述べだす。他人はいない。コンムーナの者ばっかりだ。何遠慮すべえとめいめいのふだんつかっている言葉で、ふだんの心持から、実際の経験からわり出した標準で批評をする。八年前から、この不思議に熱烈なロシアの田舎教師は、そういう夜々の飾りないみんなの批評を書きつけはじめた。この粘りづよいソヴェトの田舎教師がトポーロフである。国内戦のときにトポーロフはパルチザンを組織し、コルチャック軍と闘った。「五月の朝」が出来るときには本気になってその組織のために働いた。そういう仕事がすむと教区学校以来二十年の経験をかさねた小学校教師として、コンムーナの文化向上を終身の職務としてやっている。
 はじめはたった十六ルーブリの月給で、それから十九ルーブリに、一九二七年にはコンムーナの生産経済の成長とともにやっと三十二ルーブリの月給を貰うようになったトポーロフが、何を目当てに余分な精力をつかい、八年間も、冬の夜、夏の夜を農民のために文学作品を読みつづけたのだろう。
 トポーロフ自身が農民の出だ。
 二十年間、農村の小学校で働いている。革命まで、農村の小学校教師がどんな惨めな生活をしたかということは、チェホフが生きていた時分、屡々公憤をもって人にも話し、書きもした通りである。ロシアの農村での文化活動というものは、ツァーの下では無視され、或るときには意識的に低下させられていた。まして、ロシアの農村で、文学的作品がどう理解されるかなどということは、問題ではなかった。フランス語を喋るロシア人は「農民の芸術に対する野蛮性」をテンからきめてかかっていた。
 十月革命は、社会制度の根本的な建て直しとともに、文学をロシアの労農大衆にとってこれまでとまるで違う関係においた。それにも拘らず、農村で文化活動に従事しているトポーロフから見れば、専門のソヴェト文学批評は、少くとも五ヵ年計画が着手されるまで一つの誤謬を犯していた。
 先ず、誰にでもわかって、しかも労働者農民的な文学批評というものは、ソヴェトでさえもそうは見つからなかった。文学批評と云えば、術語が並んで、むずかしい文句で、小説ならばよめる労働者でも理屈の方はマアと後へまわすようなものが多い。
 その上、批評の専門家はこれまで、農民の文学に対する理解力を認めなさすぎた。やっと文盲撲滅が行われて十一二年目のソヴェトの農民が、やさしい、啓蒙的な小説を欲しがるだろうということは知っているが、農民がシェークスピアでもわかり、またわかったらそれをなかなか独特の味いかたで深く噛みこなし、その理解や批評のしかたが、ソヴェトのプロレタリア文学発達のために一つの大切な参考となるだろうというようなことは考えなかったわけだ。(一九二九年から「ラップ」の作家が多勢文学ウダールニクをつくって農村へ出かけるようになった。これは確に、従来の欠点を補う有力な方法だ。が、それもまだ試みとしては新しく、まとまった農村からの批評集というものは出来ていない)
 農民の側になって見ると、少し小説をよむような知識慾の盛な農民も、都会のインテリのように、新聞や雑誌に出る作品評をよんでから、その小説を読んで見るというような例はごく少い。大抵村のソヴェトに働いている者だとか、教師だとか、本屋の売子だとか、そういう人々が面白いぞ、とか、いいぞとか云うものを、そのまま読む癖がある。
 トポーロフが注意ぶかく観察すると、そういう村の知識分子は決していつも正しい文学批評の根底をもっているとは云えない。時にはずいぶんインチキな本を流布させる。
 ソヴェト同盟は今こそ人間の歴史がこれまで知らなかった新しい社会の建設の途中にある。農村の新しい生産方法は新しい生活様式と文化を育て、プロレタリアートと農民とは社会主義社会というものについて生々として新しい世界観をもって、新しい階級人として互に結合しつつ生れかわりつつある。
 よく選ばれた文学は、長ったらしい数字だらけの演説より勤労階級の心をつかまえる。いい一冊のプロレタリア小説は社会主義社会の建設に向って鼓舞するつよい力となる。トポーロフは、経験によって農民が文学に対してなかなか独立的な批判力をもっていることを知った。都会の或る種のプロレタリアートや学生なら、例えば或る作家の作品をよんでいろいろ不平が出ても、
「だが諸君。これはゴーリキーがとても褒めてるんだぜ」
というと、或るものは、ゴーリキーまかせにしてしまうような場合がないとは云えない。所謂専門家に対して押しがよわいところがある。農民はこの点ちがう。村の連中は、
「ふーむ」
とうなった。
「じゃ勝手に褒めさせとけ。でも、俺らゴーリキーはすきだがプリシヴィンはすかねえよ……」
 トポーロフは、ソヴェトの初等教育者というものはただ子供相手だけで納っているべきではないと考えるようになった。特に農村では大衆の文化初等教育が、広汎に要求されている。
 大衆の初等教育というのは、文盲打破にはじまって、彼等を楽しませながら教育する文学作品に対する活溌な受容力と批判力の養成を含むものではないであろうか。恐らく生れつき彼自身がひどく文学を愛しているに違いないトポーロフは、そこで、農民のための作品朗読会をもちはじめた。更にその批判を、ソヴェトの作家及出版者たちの参考にするために根気よく記録し整理しはじめた。
 トポーロフはボルシェヴィキ的耐久性で八年それをやった。
「五月の朝」の人々は、その八年の間にどんな文化的収穫を得たか?
 木綿更紗の布を三角に頭へかぶった婆さんが、ハイネを知っている。イプセンを知っている。モーパッサンをも読んで貰ったし、ロシアのものなら古典の代表作と現代の主なものは知っているという結果になった。そして、いい年をした貧農出の農場員は自分でコンムーナの生活記録を書いて見る気になった。モスクワから五千キロメートルへだたった田舎の片隅で、文化の光がそこまでひろがった。
 トポーロフの研究によるとソヴェト農民読者(この場合実際ではききてだが)は、何より先に作品の文章、言葉の面白さを追う。内容はそれから後の問題だ。
 そういう意味でコンムーナ員たちが素晴らしい作品だと決定した各国のいろんな作品の中に、ホーマーの「オデッセイ」が入っているのは非常に面白い。ゴーリキーの小説をよんでもわかるようにロシアの農民は昔から、詩の形で書かれた長い物語を口づたえにして誦して来た。その伝統がハッキリここに現われていると思う。
 現代のものでは、ニェヴェーロフの「パンの町・タシュケント」、カターエフの「使いこみした男」、ポドヤッチェフの「労働者の中」、セイフリナ「プラボナルーシチェリ」、リベディンスキー「一週間」その他。
 詩人ではエセーニン、ウヤートキン、ベズィメンスキー等があげられている。
 いくつかの作品に対してされた農民の批評の詳細が実例として示されているなかにパンフョーロフの「貧農組合」がある。
「貧農組合」は一九三〇年のロシア共産党大会のとき「ラップ」の代表キルションによって報告された四十何篇かのプロレタリア作品として優秀なものの一つに数えられている。日本でも翻訳が内外社から出版された。これは、ヴォルガ河の沿岸にあるシロコイエ村の貧農たちが、荒れきったブルスキーという土地を貰ってそこで村の富農の侮蔑や陰険なずるさと戦いながら集団農場を組織する経路を書いた長篇である。上巻だけで日本訳は六百頁余もある。英訳もある。
 トポーロフはこの長篇を十二回にわけて、農民たちに読んできかせた。十六人ばかりの農民が、この長篇小説に対してごく遠慮のないごく具体的な批評をやっている。
 真先に口をきったのはザイツェフという男であった。
 ザイツェフは、とって五十三歳の中農出のコンムーナ員だ。日露戦争へ出たことがあるし、ヨーロッパ大戦のときには独逸ドイツの国境へやられた。革命前、既に上ジリンスキー村の宗教反対運動の指導者であった。農民の言葉での所謂「物しり」である。今はコンムーナ「五月の朝」の夜番をつとめ、なかなかの美術や文学ずきで、自分流にそういうものを愛している。
 パンフョーロフの「貧農組合」はこのコンムーナの夜番ザイツェフにどんな印象を与えただろうか。
「短く云っちまえば、総体として、この小説はためになるもんだネ」
 ザイツェフは云い出した。
「文句も大衆にわかりいい。だが、思想はチラバラだ。俺は、あの小説からまとまったものは何も感じなかった。何だか、こう散らばって、ブン撒かれている。頭ん中にいろんな切れぱしが残った。だが、小説を毎日少しずつ区切って読んで貰ったからじゃない。分るだろう? 特別豪勢な場面や、ハッキリした印象ってもんがちっともないんだ。小説ん中へ出て来るどの人物にしろ、何か事件を始めてそれをしまいまでやっつけるって云うことがない。小説は集団生活を書いたものだのに、実際は集団生活なんぞ、書かれてはいない。俺達は百姓が二度集団的に擲り合ったのと集団的に魚スープ(ウハー)煮たのと、そういう集団を見ただけだ。どんな集団耕作だか、びっくらするヨ。一人トラクターで耕してるぎりで残りの組合員どもは何にもしねえ、わきで魚スープを煮てる! 共同耕作の始りに何もすることがなかったって云うわけだろうか? 俺等のコンムーナはかれこれもう九年目だが、誰だって、いつだって、暇な時なんぞってものはありゃしない。たった一つシロコイエの連中はいい仕事をした。そりゃ堤防をつくったこった」
「……さて人物だが、初めのうちはカラシュークがなかなか面白いぞと思った。見てろ、と思ったね。こいつぁ本物になるぞと。ところがこいつがいつの間にか小説から消えちまった。カラシュークが富農クラークどもをやっつけたってのは、本当じゃない。富農らはカラシュークの味方だ。村で誰が味方かということをカラシュークの一味はチャンと知っている。カラシュークは自分につく者を圧迫するこたしないんだ。それから、地方委員書記のジャールコフ。これが問題だ。思うに、作者はジャールコフを出してソヴェトの役人てものを皮肉ってるだね。村の階級闘争を、パンフョーロフは眠ったく、不明瞭に、ボンヤリ書いてる。シュレンカは、のらくら者の見本だよ。うまく書いてある。あとの貧農の人物を作者は説明していない。富農連が却ってスッカリ書かれてるでねえか。アグニェフがどうやら中農らしいが、ただ一人のシュレンカをぬきにして、小説ん中に本物の中農・貧農は書かれていない」
「村のいろんなゴタゴタが、よく分らない。何が何だか示されてねえ。何で村の者が集団農場はじめるようになったか――そいつを作者は描いてねえ。つまりシロコイエ村の経済状態てものが分らないんだ。農民魂は正しく観察されてる。ただ、この小説に出て来るような阿呆は、実際にゃいねえね。バカバカしい話だ!……」
「どういう塩梅に、共同耕作が組織されたか――何も分らん。どんな工合に発達したか――こいつも分らねえ。トラクター以外にゃ何も経営的なもんが説明されてねえんだ」
 ザイツェフには、集団農場生活の活々した描写の代りに作者が余分に恋愛を書いてるのも気に入らなかった。
「この本で読む者はトラクターや堤防やらを見る。ところが次に来るもんはてえと? 途方もない血みどろの擲り合だ。そんで共同耕作は終っちまってる。集団農場へ入りたがってる農民のところへ行って、この小説を読んできかして見な。入ることは考えちまうぞ。反対に、集団農場をけなしつける者はほざくにきまってる『へ、碌でなしの牝の子め! お互同士でやってけつかる、柄相応だ!』」
「この小説へ出て来る人物のあらかたは何でもない引っかかりで、大した役割は演じてはいない。これに比べて、リベディンスキーの『一週間』の人物はどうかよ! 例えば、リザ・グラチェヴァ――なんと変った人物ではねえか? それでいて、いつだってほんとに生きてるようだ」
 ザイツェフは、村へ襲って来たカラシュークが真先に共産党員を狩立てずに、馬の尻尾へ富農を結びつけたのも不自然だと主張している。
「こりゃ、拵え事だ。作者はきっと富農クラークを皮肉ってやりたかったんだべえが、うまく行かなかったネ。俺にゃ、それに何故チュフリャノフが共産党反対の組織へ加わるのを拒絶したかも分らん。チュフリャノフは二心のある奴って訳だべか――そうも思われない。富農の奴が詩篇を読む――そんなことがあるかね! ところがパンフョーロフの小説じゃ、読むこと、読むこと、まるで何かの書付け読むように読みくさる。マルケル・ブイコフが『憲法』って言葉をつかう。ズブの無学文盲の農民は、この作者が喋らしているような喋りかたはしねえもんだ。『神聖な処女の噺』は、ありゃ新聞からとって来たもんだね。俺等の村じゃああいう、『神聖なもの』はどんな馬鹿な奴だって引きつけやしねえ」
 この農民批評家はなかなか手厳しい。ザイツェフは、繰返し繰返し「貧農組合」には印象に残るような情景が書かれていないと云っている。そして、声を立てて笑い出した。
「シュレンカが夜ふけてトラクターを動かしている。作者がそこで云ってるには、彼の眼は輝いた! とさ。シュレンカの眼は、狼の眼かね? 作者はうまい思いつきを書きたかったんだろうが、夜にゃ、向かねえ」
「この『貧農組合』についちゃまだこうも云い度いよ。こりゃ読む者が、その中から小銭を見つけ出さなけりゃならない塵塚だ、とね。誰かがそいつを見つけるかも知れん。だが、見つけられねえかもしれん。小説はまるで芝居で最後の幕がしまるように終ってる。作者の言葉は、重っ苦しい。大衆の会話は――長談議だ。聞いてると、まるで泥濘ぬかるみさはまって足を抜けねえような塩梅式だ」
「思うに、無駄ばっかりだ」
 四十男の働き者のブリーノフが続いて云い出した。
「俺の好みがそうなのかも知れねえが、こういうことは二章で書けたと思うね、それをパンフョーロフは十章にしている。八章の間俺達あ歯くいしばって坐っていた。集団農場の生活を書いた小説だが、俺は、集団農場員として、この小説ん中のことは本気に出来ねえ。思って見な。『ブルスキー』へはやっと前の年からトラクターが動き出した。すると忽ち女連が肥って、脂がのりはじめた……きまりきってるサ、嘘だ! 俺達はあらかた九年コンムーナで暮してる。それでも女連の中で一人だってまだ肥えた者なんぞいねえヨ。それどころかコンムーナへ新規に入って来る者なんぞは一月に二三キロも目方が減るぐれえなもんだ。これでよく分る、『ブルスキー』へどんな連中がより集まったか。なまけもんだ! 天からマンナが降るのを待ってるみてえだ。ブルスキーの連中は自分で云っている。トラクターで楽しようって。馬鹿のより合いだ。共同耕作の暮しなんて……信じられねえ。
 自分のところの例で見てもよ、俺達んところにも共有地のことでごたごたがあったが、ああいうもんじゃなかった。成程、揉めた。ポリトフがやって来て地方委員会書記なんぞぬきに、皆をドナリつけた。誰も彼もコンムーナへ地面をだすことに同意した。みんな沸き立って喋ったけんど擲り合なんぞはなかったんだ」
 革命までブリーノフは上ルジェンスキー村の中農で村では口ききだった。ヨーロッパ大戦当時は、運転手をつとめた。コンムーナ「五月の朝」の組織者の一人で、トラクター管理をまかされている。彼は「貧農組合ブルスキーの中に、今集団農場のことが出て来るか、今出て来るかと、そればっかり期待して聞いていた。ところがすっかり当がはずれた。ブリーノフはもう九年コンムーナで暮し、それがどういうものだかよく知っている。
「けれども、そういうとこで暮したことのねえ者は『ブルスキー』を読んできかせて見な、ドマついちまうよ。一体どんな集団農場だね? バカと荒地だ」
「パンフョーロフは、謎ばっかかけるけれど、その終りが、ありゃしない」
 細い、確かりした眼付でブリーノフはつづけた。
「シロコイエ村に、階級闘争が起らなくちゃ成らなかったべえか。俺にゃ分らん。村のあらかたが富農だ。たった一人の貧農シュレンカは懶けもんだ。そこにどんな闘争があるかね」
 人物が活々描かれていない点がブリーノフにとっても不満足だ。まるで村を通って、百姓に出会ったはいいが、挨拶して、そのまんまわきを通りぬけちまったような工合だ。言葉が持ってまわっている。ほんとに農民らしい、一言きいて多くのことが分るような上手い言葉なんてものは、一つもこの小説の中にはない。自然の景色が目に見えない。作者は森のことを云ってるが、何処に、どんな森があるのか、ハッキリしない。
「『貧農組合』は集団農場の建設を励まさねえ。がっかりさせちまう」
 ザイツェフが合槌を打った。すると、
「いらない本だヨ」
と、ゆっくりした調子で切り出したのは、貧農で、家族がうんとあって、コンムーナへ入ってからやっと凌げるようになったスチェカチョフだ。
「集団農場へ気をひくためにゃ、これんばっかりも役にゃ立たねえネ」
 自分の横っ腹のところを指さして、
「ここんところを、逆にひっぱられるみてえだ。俺はこれまで本読みに中坐したことはなかったが『貧農組合』にゃ半分頃で出ちまった。眠たくなってなア。本の中には滑稽なところもあるが、気持のよくねえ滑稽だ。俺は笑わねえ。集団農場の仕事で一等心をつかまえることを、作者は書いていねえ。集団農場の建設の事業はソヴェトで、もう十年もやられて来てる。もちっと親切に書くこったって出来たべえに……。小説ん中に富農の襲撃がある。けんど、集団農場建設をすける意味で、政府から何の助力も与えられていねえネ。アグニェフを半殺しにした。それっきりだ。民警さえいねえ。訊問もなければ、宣伝もねえ。俺等んとこじゃどうだったね? このコンムーナへ徒党が押しよせたってことが伝わった時、四十露里あっちから赤軍分遣隊がやって来て呉れた」
「えれエ小面倒な名前だよウ」
 そう云ったのは五十九のティトフだ。
 ブリーノフが云った。「パンフョーロフは集団農場のことを聞いてはいるらしいが、そばで暮したことはねえらしい」
「こうだべよ」
 ザイツェフが云った。
「作者は村を旅行したのよ、手帳に書えたのヨ――ホーレ、それがこの小説だ」
「たまらねえ程無駄だらけだ」
「よこ道さそれてる」
「本のどこにも、集団化がねえ!」
「思うに『貧農組合』は貧農をまっとうに書いていねえ。何故この小説に、本当のたちのいい貧農は出て来ねえんだ? 貧農はどれでもシュレンカみたよなノラクラ者ばかりじゃねえんだ!」
「この世の中に『貧農組合』みてな組合はねえヨ」
等々。遂に、彼等の結論はこういうことになった。
(一)農村にはいらない本だ。
(二)実際の仕事に関係あることは殆ど書かれていない。ちょいちょい区切って、ところどころ読んで行く分には読める。退屈ではない。然し、農村の集団化とは結びついてはいない。
(三)「貧農組合」は農村における集団農場化のために少なからぬ害を与えるが、ためになるところはない。この小説には成っていない集団農場が書かれている。
(四)農村というものが、不充分に、ボンヤリ拵えものに書かれている。
           ――○――
 ソヴェトの農民が、ソヴェトの農民小説に加えた批評だからと云って、それがいつも絶対に正しいものばかりだとはきまらない。
 この「五月の朝」コンムーナの連中は、例えばエセーニンの詩にはコロリと参っている。エセーニンの詩集は村にいる本だ。素敵なもんだと「母への手紙」というエセーニンの詩がよまれた時に衆議一決している。だが、果して詩人エセーニンは、このコンムーナの一同が武器を揃えて、パンフョーロフが正しく描写しなかったとして攻撃している農村の集団化について、社会主義的な見方を持っていただろうか?
 エセーニンは、根本的に反対な見解をもっていた。エセーニンは、集団農場化の第一歩である農業の機械化にさえ先ず命がけで反対した詩人である。
 ソヴェトのプロレタリア文学、農民文学にとって農民の批評が参考になるのは、彼等の批評そのものの中に現れて来ている正当な判断が作家を益するばかりではない。時にはこの「五月の朝」の連中の或る言葉のように間違ったものにしろ、その間違いが暗示している歴史的な階級的な現実の影響を作家が洞察することに深い意味が在るのである。

        赤色陸海軍文学協会ロカフの結成

 着々と躍進するソヴェト同盟の生産拡張五ヵ年計画とともに、プロレタリア作家たちは、この五ヵ年計画の三年間において、重大な階級的な発展をとげて来た。
 作品活動をこめての一般的なプロレタリア文化・文学活動の実践の領域でソヴェト文化運動と文壇の指導権を確立したばかりではない。全同盟内の生産の場所における文学研究会、労農通信員たちへの正しい階級的指導は、あとから、あとから一つは一つよりよい作品を発表する前途洋々たる若い党員作家を輩出させている。文学活動の分野は、五ヵ年計画とともに拡大された。プロレタリア作家の質そのものも変って来つつあるのである。
 一九三〇年に入るや否や、ソヴェトのプロレタリア作家たちは、更に新しい一つの階級的課題にぶつかった。
 資本主義列国の反ソヴェト同盟カンパニアに対して作家はどう戦うべきか。この問題である。
 これはソヴェト同盟にとって謂わば歴史的な課題といえる。今日にはじまったことではない。一九一七年十月、革命の第一の銃声が轟いた、その瞬間から、今日まで持続している問題だ。その頃は、コルニーロフの反革命軍や、チェッコ・スロヴァキアの反革命軍が、南方ロシアを掠めようとした。アメリカと日本とがシベリアで帝国主義の利益のための火事場どろぼうをやろうとした。ソヴェト同盟の勤労階級は西から東からおそいかかって来る反革命軍を追っぱらった。
 が、列国の陰謀は、これではすまなかった。
 一九二一年に起ったクロンシュタットの赤色海軍兵の局部的な暴動は、ソヴェト同盟国内戦後の饑饉救援という名目でアメリカから、妙な連中が入り込んだ。アメリカ毛布、アメリカ製ビスケットにかこつけたからくりが、この暴動の種であったということを今日知らぬ労働者はない。
 五ヵ年計画まではソヴェト唯一の炭坑区だったドンバスで、一九二八年大陰謀が発覚した。一九三五年になるとドンバスからは一塊の石炭さえ産出しないように技術的な破壊が企てられていた。それは誰の仕業であったろうか? ドンバスに外国資本が投資されていた帝政時代から働いていたドンバスのドイツ人技師が中心であった。
 一九二九年八月、東支鉄道の問題で、中国の帝国主義者たちを突ついたのはどの国だ? フランスと結托している反動的なポーランドがワルソーのソヴェト大使館爆破をやりかけたのは、どういう云いがかりをつけるためであったろうか。ソヴェト同盟の大衆は時に応じ、事情に従い、階級的な国際関係についての経験をかさねながら、それらと闘争しつづけて来たのであった。
 大衆はその組織をハッキリ理解している。プロレタリアの国ソヴェト同盟の根本的な外交方針は、平和であり、それぞれの国の大衆を犠牲とする戦争に決して自分から立ち入ったり、挑発したりしないということを。戦争で、ムザムザ若い命を大砲、毒ガスの餌じきにされるのは誰だろうか?
 世界平和を守るという不動の方針と展望の上に腰を据え、平和のための実力を充実させるためにソヴェトのプロレタリア・農民は五ヵ年計画の達成に精を出している。どう難癖をつけようとも、失業はなくなる。勤労者の賃銀は上る。労働時間は七時間から六時間何分というところまで縮小された。そして全生産は重工業をふくめて資本主義国の一九二九年来の経済恐慌とは反対に、ジリジリジリジリせりあがりつつある。
 右からは二千五百万人の失業者を含む勤労階級の攻勢に押され、左に彼等の敵として聳えるソヴェト同盟に圧され各国のブルジョア支配者たちは、死物狂いになって来た。
 中国をケシかけ、ポーランドを操るだけでは我慢出来なくなった列国は、一九三〇年の初めローマ法王を先頭にして、反ソヴェト十字軍を起してドッと攻めかけようとした。その口実はこうだった。「ソヴェト同盟で宗教の自由が奪われているのは人類の正義にそむく、ボルシェヴィキの手から哀れなソヴェトの人民を解放してやらなければならない」と。
 この噂が伝わったとき、ソヴェト同盟の勤労大衆はみんな思わず笑った。資本主義国の支配者たちが俺達をどう解放しようと云うのか? もしほんとにソヴェトの人民を解放しようとするなら、先ず何よりいま自分たちがやっている反ソ・カンパニアをやめさえすればいいんだ。が、段々笑いごとではなくなって来た。
 雪のあるモスクワの辻々に大砲を指揮する法王の絵入りポスターが貼られた。
 ソヴェト同盟を守れ!
 同じポスターは、映画館の壁の上にある。
 ソヴェト同盟を守れ!
 銀行のベンチから見える赤いプラカートの上に。ワロフスキー通りの作家クラブのひろい階段の上に同じポスターがあった。
『プラウダ』や『イズヴェスチア』は勿論であった。『労働者新聞』にもピオニェールのための『ピオニェールスカヤ・プラウダ』にも、この反ソヴェト・カンパニアに対する批判がのった。プロレタリア詩人たちは、種々様々な詩で。作家たちは諷刺的短篇や論文でソヴェトの守りのために動員された。
 文学新聞が、多勢のソヴェト作家にあてて、反ソヴェト・カンパニアに対する感想を求めた時、みんなは殆んど異口同音に答えた。
「われわれは今ペンをとって、世界のプロレタリア文学建設のために闘っている。だが、若し必要な時が来れば、階級のために、いつでもこのペンを銃と持ちかえよう!」
 一九三〇年三月二十四日、七十五万人の勤労者がモスクワでローマ旧教運動反対デモをやった。プロレタリア作家もこの示威に参加し、作家クラブではこの問題についての特別講演会が持たれた。プロレタリア作家たちは、この問題を段々科学的に考えはじめた。
 プロレタリア作家は階級文化の前衛としてもとより、いざという時はペンを銃と持ちかえることを拒みはしないであろう。
 彼等はペンの間に鋤やトラクターのハンドルを、電気モータアのスウイッチを把った。一九一七年――二一年の間に、銃をとってソヴェト権力を守ったその階級的経験から作家となった人々が沢山いるのだ。けれども、プロレタリア作家の階級的任務というものは、工場からの労働者、農村からの農業労働者と全く同じように、ただ赤軍に投じ、いろいろな軍事教育を受けるだけで満されるものであろうか?
 プロレタリア作家はただペンを銃ともちかえるのではなくて、あるとき銃をもつにしても、それとともにあくまでペンを手ばなさないところに独特な役割があるのである。
 階級闘争としての戦争=帝国主義の侵略に対して、社会主義を防衛する戦争においては、軍事司令部だけが働くのではない。党の政治部は、例えば、「チャパーエフ」(日本訳、赤色親衛隊)を読んでもよくわかるように、闘争の重大な理論的指導の任務を帯びる。
 ソヴェトのプロレタリア作家は、自然発生的な階級的情熱で剣を執り、自然発生的な感銘で塹壕の記録をとるだけでは足りない。赤軍の活動についても、プロレタリア作家は政治的に、文化的に、独自の分担を理解して結びつかなければならない。
 具体的に問題を調べて来て見ると、プロレタリア作家たちは、これまでの活動方法の上にいくつかの欠点を発見した。
 例えば一九二九年の夏、東支鉄道の問題が決裂して、ソ同盟と中国との国境で軍事行動が行われた時、ソヴェト同盟は極東特派軍を送った。この階級的軍隊は中国の村落を占領すると、先ずそこで何をやったであろうか。住民の逃げた後の民家を掠奪から保護した。掠奪する中国人を捕え、品物を出させ、それをステーションの貨物倉庫へ番兵つきで保管した。追い追い村へ戻って来た中国村民がそれを見て、びっくりした。そればかりではなかった。村道は清潔に整理されている。屋根に赤旗の翻る一軒の民家には村ソヴェトが組織されていた。これまでとはまるで違う毎日の生活がはじまった。中国の村民は、生れて初めて活動写真というものを見物した。赤軍兵の芝居を見た。音楽がきかれる。或る場所では小学校さえ、赤軍に占領されたおかげで開設されるようになった。数ヵ月後その村から、赤軍が引きあげる時、村民は心から別れをおしみ、子供は泣きさえした。彼等は赤旗を立て、列をつくって、ソヴェト赤軍万歳! どうかまた来て呉れ! とステーションまで送った。――
 このような、社会主義国の軍隊独特の文化活動について、プロレタリア作家はどんな芸術記録をつくっているだろうか?
 ソヴキノが、赤軍文化教育部と連絡をもって「極東特派軍」という興味ふかい記録映画をこしらえた。
 工場から、戦地慰問に特派された男女労働者の代表は、新聞に短い労働者通信をのせた。然しプロレタリア作家団体はどんな組織的活動もしなかった。赤軍文化教育部と、プロレタリア作家団体とはきっちり結び合っていなかった。工場がしたように、代表を送ることさえしなかった。
 また、一九一七年の「十月」に赤色海軍が演じた英雄的役割は、ソヴェト映画の傑作「戦艦ポチョムキン」に、永久的足跡をのこしている。
 今日における赤色海軍のもっている役割について書かれたどんなプロレタリア小説があるだろうか?――
 五ヵ年計画に着手されるとともに、ソヴェトのプロレタリア作家たちは、プロレタリア文学から未来派風な或は機械主義的マルキシズムをなくすること、唯物弁証法的な創作方法への進展を、闘いとった。
 仮りに、今日の事態が、世界平和と社会主義防衛のためにソヴェトの赤色陸海軍が動員されなければならないことになったとする。プロレタリア作家は彼の武器と、鉛筆と手帳とをもって、防衛に立つであろう。
 彼等は勇敢に行動するだろう。彼等は勇敢に記録するだろう。しかし、果して彼等は赤軍の編成についてどれだけの知識をもっているだろうか。どの程度の階級的な軍事知識があるか。同時に、軍事的行動の間に要求される広汎で敏捷な文化活動の任務をテキパキ処理して行く程ふだんから赤軍の兵士たちの生活に親しく接しているかどうかという問題になると、現在のところ否と答えざるを得ない。
 ソヴェトのプロレタリア作家達は反ソヴェト・カンパニアというモメントから、ボルシェヴィキらしく、階級的発展に役立つものをとりあげた。ゴーリキー。デミヤン・ベードヌイ。セラフィモーヴィッチ。ファジェーエフ。バトラーク。プリボイ。グラトコフ。イズバフ。ベズィメンスキーなどとバルチック艦隊文学研究会員、赤軍機関誌編輯者、赤軍劇場管理者などが集り、赤色陸海軍文学協会ロカフ中央評議会を結成した。一九三〇年初秋のことである。
 ロカフ中央評議会の決議は左のようなものであった。
一、ロカフは芸術活動によって、赤色陸海軍の平和的・軍事的社会主義建設を活溌に再現するように努力すること。
一、赤色陸海軍を主題とした作品の出版を支持すること。
一、赤色陸海軍内の文学研究会を鼓舞し、絶えず指導すること。
一、赤色陸海軍の機関誌、壁新聞、クラブ集会、文学の夕べ等にロカフは常に作品を送り、講演者を送って援助すること。
一、プロレタリアの技術の一半として、正確な軍事知識を獲得し、普及すること。
一、軍事活動に作家も参加すること、等。
 十月初旬から中旬にかけて、モスクワ地方赤軍の演習があった。ロカフは演習へ参加するために積極的にプロレタリア作家を召集した。二十数名参加した。若い作家ばかりとは限らなかった。六十七歳のセラフィモーヴィッチが出かけた。「ツシマ」の作者ノヴィコフ・プリボイも出かけた。プロボイは日露戦争にバルチック艦隊の水兵として召集され、捕虜となって熊本にいたことがある。そして、バルチック海軍兵士の革命的組織に関係し、のち亡命して長くイギリスで海員生活をした。彼は殆どこれまで唯一のソヴェト海洋作家である。婦人の作家――もとは小学校の女教師で党員作家であるアンナ・カラヴァーエヴァも出かけた。
 彼等は、赤軍兵が張ってくれた後方のテントの中で、手帳をひねくりまわしてはいなかった。突撃に加わり、一緒に泥をほじり、夜の歩哨にも伴れ立った。司令部とともに、視察した。前線での文学の夕べを組織し、即興芝居への台本を提供した。壁新聞を手伝った。
 その演習後文学新聞に赤軍指導者の面白い批判が掲載された。
 今度の経験によってもロカフの組織は、プロレタリア作家の階級的発展に必須な一分野であることが明らかにされた。一般赤軍兵は満足をもって、プロレタリア作家の進出を迎えた。赤軍は労働者、農民以外の何者でもない。工場・農村のプロレタリアートに密接に結びついて、その文化的自発性イニシアチーブを助け指導するプロレタリア作家の赤色陸海軍への結びつきは当然のものである。演習中、作家たちはわれわれ赤軍にいろいろのことを教えた。同時に作家たちも多くのことを学んだのは確かだが……率直に云うと、作家たちはまだどうも白手套をはめている。――つまり、まだお客で幾分儀式ばってる。そういう批評であった。
 ロカフは益々真面目な活動の分野をひろげ、各地方に支部を組織した(ロカフの組織は、ラップとどの点でも対立したものではない。ラップに属する作家が、または全露農民作家協会ヴオクプに所属する作家が、同時にロカフに加入している)。
 一九三一年に入って、ロカフは「モスクワ・ロカフ」「レンバルトロカフ(レーニングラード・バルチック・ロカフ)」の他「タトロカフ(タタール共和国のロカフ)」「セヴカウロカフ(北コーカサス・ロカフ)」「スレダズ・ロカフ(中央アジア・ロカフ)」その他まで拡張した。
「ロカフ」が組織されて一年近く経った。
 今のところロカフに属する作家たちの書く作品の題材は、主として国内戦時代、歴史的な過去の事件からとられている。今日のわれわれの赤軍について、その社会主義建設の役割についてジックリ書かれた作品というのは極く少い。今日の、平和時代の赤軍はまだ充分紹介されないのである。
 モスロカフ(モスクワ・ロカフ)は、それより前、夏期の野営ラーゲリを組織し、そこでロカフの作家たちが軍事知識の吸収と文学活動をやるようにした。
 レンバルトロカフも五月に入るとロカフ主催の軍事講習会を催した。十四回の講義で、「軍事問題におけるマルクス・レーニン主義の根本原理」「軍事の出版問題について」の説明をやる。六十二名の作家が動員された。
 この講習の期間に作家聴講生は、二つの壁新聞を発行し、ほかに有益な軍事遊戯を思いついた。軍時に、ソヴェト軍隊と、交戦中の敵国住民大衆にアッピールするものと仮定したパンフレット、それにはクラブ用の小脚本、レヴュー台本、プラカート用の詩、スローガンなどを盛りこんだパンフレットの発行である。
 軍事状態の中にあって各自の文学的政治的軍事的知識を活用し、敏捷に明快に文学活動をやる稽古だから、ゆっくり構えていては何にもならない。規則をきめると、或る作家たちは一枚の封筒を渡された。中に、めいめいが書くべき主題・形式、長さを命令した紙が入っている。翌朝十時までに必要に応じた詩・論文・スローガン・ビラなどを芸術的作品にまとめて出さなければならないというわけである。
 規定通り、作品は集った。これらの作品が研究された。討論会が持たれた。どの作品も仮定された軍事行動の階級的本質については正しく認識していた。
 だが、その基礎的な正しさにも拘らず、少なからず部分的な誤りや知識の不完全さを示した。先ず多くの作品は、軍事行動の間における党の役割というものを具体的に把握していない。党の任務について或る作品はまるで触れていない。或る作品は出来合いの党のスローガンをひっぱって来て間に合わせをやっている。帝国主義の侵略戦争を世界のプロレタリアートの党は全力をもってその国のプロレタリア解放のために有利に展開させなければならない。が、この作品競技でその事業の具体的な困難さを理解しているものはまるで少なかったのである。
 ファシストの手先となった社会民主主義、第二インターナショナルがどんな階級的裏切りを行っているか。それとの闘争も形象化されていない。
 ただ一つ総てを貫き流れていた力強いものは、ソヴェトのプロレタリア作家たちが、大衆とともにこの階級的作家活動の新分野に対し真心をもって自分達の成長を決心していることである。
『文学新聞』は「成功的な発端」としてこの経験を報道している。
 各地方ロカフの激励によって「文学と戦争叢書」が続々刊行されはじめた。その一部として、アダム・ドミトリエフの『よし! 船をひけ』。別に、国内戦時代赤軍で働き有名な脚本「ラズローム(破滅)」を書いたボリス・ラヴレーニェフの『斯うして防衛する』というバルチック艦隊の演習を記録した本が出版された。

        槌よ、高く鳴れ!

 赤色陸海軍文学協会ロカフの結成されたのは一九三〇年九月、七月の全同盟共産党十六回大会二ヵ月後のことだ。
 が、十月にソヴェト同盟の芝居季節がはじまると同時に、大衆は、ははア、成程な! と思った。ソヴェト同盟の劇場の上演目録が、一九三〇年の秋という特殊な情勢をハッキリ反映していることが誰の目にもわかった。
 工場内の集会、労働者クラブの講演会『プラウダ』『労働者新聞』などが、帝国主義国の反ソヴェト・カンパニアに対する闘争についてソヴェト同盟の革命的大衆の自覚によびかけているばかりではない。
 芝居が、楽しませながら、笑わせながら、帝国主義侵略絶対反対、ファシズム排撃を、大衆の心にうち込む役を積極的に買って出た。
 抑々そもそも、ソヴェト同盟の演劇や映画は、これまでだって唯の一度も、資本主義国の商業主義が企業として利潤のために、金のあるもののための享楽道具としてつかわれたことはなかった。
 経営は国家管理の下にされている。芝居の上演目録は詮衡機関にかけられて、本当にその脚本はソヴェト同盟の社会主義的建設に対して価値あるものかどうかを決定してから、各劇場が上演する。劇場は、だからプロレタリアート農民の文化的生活の切りはなせない一部分として、いつも座席の何割かは前もって産別労働組合を通じ無代で勤労者のために保留している。
 工場の労働者、集団農場員、学生はときどきこういうタダ切符を組合から貰って芝居見物が出来る。まるっきりタダでなくても、労働組合員はどんないい劇場でも半額で切符を買う権利をもっている。
「十月」以来、ソヴェト同盟の劇場は、大衆の階級的文化向上のためにいろんな脚本を上演して来た。シルレル、オストロフスキー、ゴーゴリ、トルストイ、チェホフ、ゴーリキーなどの古典的な、或は半古典的な戯曲。
 労働者・農民の革命的建設を主題とするグラトコフの「セメント」、キルションの「レールは鳴る」、グレーボフの「権力」、イワーノフの「装甲列車」。
 無数のエピソードと階級的献身によって豊富なロシア革命史の中からはスハーノフの「一九一七年」、ムスティスラフスキーの「血」、キルションの「風の町」等がある。
 ソヴェト同盟の興味ある日常生活の中から日常的な事件をとりあげ、それを階級的に批判したものとしては「書類鞄を持つ男」「四角」「嫉妬」。
 植民地の問題を、芸術的にとりあつかって大衆に強烈な印象を与えたのは「吼えろ、支那!」「サラシチヤ」「カウチューク」だ。
 映画の製作者を見ると、ソヴェト同盟で、映画がどんなに大切な文化的役割をもっているか驚くばかりだ。芝居より映画の方が移動にも便利だし、現実をそのままカメラに掴みこんで、而も強い芸術的効果があげられるため、ソヴェト映画の主題は、実にひろい。「十月」から「みなさん、歯を磨きなさい!」というところまで拡っている。
 映画はソヴェト同盟内各共和国の直営だ。鉄、石油、農業用トラクター、パン、等が年々計画生産で行われている通り映画製作も計画生産だ。一九二八――二九年の例をとって見るとソヴキノでは、
芸術映画   五三
同 喜劇    八
児童用     九
文化啓蒙   九〇
という数にのぼっている。どんな芝居、どんな映画にしろ、それがソヴェト権力確立後につくられたものならいつも其等を貫いて流れる一つの強い切れない階級的主張が籠っていた。
 社会主義社会建設の現実を描き、その発展の意味をしらせる要素は、何かの形でどの作品の中にもこめられている。特に労働、集団農場クラブ用の小戯曲、啓蒙フィルムなどは、活溌に時々の情勢に応じながら百パーセントにその役目を果して来たのだ。
 さて、愈々五ヵ年計画がはじまった。五日週間が実行される。工場、役所、農村で階級的能率増進のためのウダールニクが組織される。党、生産組織、あらゆる場所で反革命分子の清掃が行われる。――革命的なソヴェト同盟のプロレタリアート、農民が社会主義社会建設のため、一がん張りがん張り出して見ると、今更ながら革命後までも根を張って、コソコソ策動していた階級の敵の存在が後から後からばれて来る。
 ばれない奴等はここを先途とあらゆる組織にもぐり込み、労働者、農民の決定的な勝利を妨げようとする。
 農村の集団化の過程で農村における富農とそれにくい下る旧勢力がどんな悪意に満ちた中・貧農の敵であるかを大衆の面前に曝露した。集団農場についての文学的報告でこれに関する恐ろしい事実を記録しないものはなくなった。
 モスクワ地方労働組合ソヴェトの名によって劇場で上演され大好評だった「憤怒」。ワフタンゴフ劇場で出した「前衛」。どれもこれも、農村の集団化に際しての労働者農民の結合的活動とともに、旧勢力の罪悪を被うところなく摘発している。
 映画「大地」(ドブジェンコ)は勝れたカメラの技術にかかわらずいろいろ批判さるべき要素をもっている。が、その一つとして、宗教の悪影響、階級的敵としての影響力がフィルムの上で過少評価されているという事実があげられたくらいだ。
 一九三〇年に入ると、ソヴェト同盟の大衆は、国際的な事実としてローマ法王ピオ十三世が世界外交のかげにもっている役割は何であるかを見せつけられた。
 三位一体は大資本、法王、軍閥で、祝福の代りに大衆の疲弊と流血があるだけだ。
 一九三〇年、革命劇場上演の「第一騎兵隊」は、一九一七年――一九二〇年の国内戦の歴史、第一騎兵隊の功績を芸術化するばかりではない。帝政時代のロシア兵営内の生活の愚劣野蛮な絶対主義を遺憾なく示している。
「セメント」を上演した写実劇場(元はモスクワ芸術座第三スタジオと呼ばれていた)は新しく「勇敢な兵士シュヴェイクの冒険」を脚色上演しはじめた。
 これは、元オーストリア軍隊内の野蛮な腐敗とを諷刺的に描き出したチェッコ・スロヴァキアの作品である。
 多くの移動劇団、或は「生きた新聞」は身振狂言で帝国主義とファシズムに対する攻撃を始めたが、ここで一つ際立つ芸術上の現象がある。それは諷刺的要素の増大ということだ。
 芸術上、諷刺性格が二通りある。一つは手投弾のように迅速な、的確に敵をバクロ、攻撃する役に立つ性格。他の一つは、自己批判の表現としての諷刺がある。
 或るもの、或る事を見て、笑う。もうそこに一種の批判がある。ソヴェト同盟の芸術家、特に映画、演劇、絵画の作者たちは随分これまで上手に諷刺を生かして来た。
『鰐』というソヴェト諷刺雑誌がある。それを買って頁をめくると、五ヵ年計画の達成のために、ソヴェト同盟の大衆がどんな社会的・階級的自己批判をやっているか。その自己批判の焦点が発展的に移って来ている過程までわかる。
 ファシスト、ブルジョアジー、官僚・軍閥、懶けて飲んだくれな非階級的労働者、官僚主義で形式主義で能なしの党員、社会ファシストとなった民主主義者などは、ソヴェト同盟の或る種の芸術の中ではもう漫画的に様式化されてさえいる。
 ソラ出た! ハッハッハッ。実に分りが早い。一目そういう者の姿を見ると、ソヴェト同盟の大衆が謂わば階級的に用意している哄笑、嘲笑が火花のようにとび散るのだ。
 成程、人形芝居をやったり、身振狂言をやったり、漫画の或る場合なんかは、こうなっていれば手っ取りばやい。一応直ぐわかる。だが、二応、三応と、実際の客観的事情に照らし合わせて考えて見た場合、こういう風に様式化したまんまの人物を無制限につかって、どの程度のリアリスティックな芸術の感銘を与えることが出来るかという点は、疑問になって来る。
 何故なら、ソヴェト同盟で諷刺的に様式化されたブルジョアジーは、いつでも燕尾服にシルク・ハットで、太い金鎖りをデブ腹の上にたらし、小指にダイアモンドをキラつかして、葉巻をふかしている。
 しかし実際に、どんな場合でも、ブルジョアジーはそんなきまりきった風体しかしていないだろうか? どうして! 彼等は自身の利益を守る必要に応じて、技師にもなれば、教師にもなり、ソヴェト同盟では、現に階級の闘士ボルシェヴィキらしい見せかけをした反革命分子さえ発見しているではないか。
 ソヴェト同盟の舞台の上、絵の上にきまった形でブルジョアジーが登場する。大衆が笑殺する。それで根っきり葉っきり済んでしまう程、現実の階級闘争は単純でない。事実が単純でない以上、大衆がいつの間にかあの憎むべき変通自在性を過少評価するような固定した形にだけ様式化して扱うのは危険だ。――
 この事は、あらゆる芸術の分野に亙って再吟味された。
 文学の領域では、既に一九二九年プロレタリア・リアリズム、進んで唯物弁証法的創作方法の問題が探求された当時、類型化に対する注意の一つとして批判された。
 主として漫画、喜劇における登場人物の様式化が問題になった前後、戯曲作家ブルガーコフが「赤紫島バグローブィエオーストロ」という喜劇風オペレットを書いた。
 同じブルガーコフが数年前「トゥルビーノフ家の数日」という国内戦時代の動揺、変転する中流家庭生活を主題とした脚本を書いた。モスクワ芸術座が一九二八年から九年の春頃まで上演し一部からひどく受けた。大衆的にも或る程度まで受け入れられたが、段々批判が起って、五ヵ年計画着手とともに、上演目録から削られた。理由は、脚本が中流の家庭生活というものをちっとも革命的歴史の進行の角度から批判せず、ただ現象的に描写している。根本的な社会変革につれて起る現象の必然性を、社会主義社会建設の総体との関係において発展的にとらえず、消極的にブルジョア文学が一つの社会的破局を扱ったような悲劇、または破局というように表現している。
「赤紫島」は、劇中劇で「赤紫島」の革命を織り込み、ソヴェト同盟の劇場の内幕を諷刺したりしている。カーメルヌイ劇場で、タイーロフが未来派じみた極めて派手で綺麗な舞台装置で上演した。
 この劇中劇ではソヴェト同盟の劇場でも、小道具なんかに凝りすぎ、ウンと金をかけてしまったのを、管理局からやって来た役人へは胡魔化して報告する場面その他、見物が笑い出すところは相当ある。
 空想的な扮装したレヴューの土人みたいな「赤紫島」の住民が何かのキッカケで、至極安直に革命を遂行し、ツァーの追っ払いをやり、目出度し目出度しとなるのだが、ソヴェト同盟のルバーシカを着た観衆はゾロゾロ、カーメルヌイ劇場から出て来ながら、この劇全体から受けた何だかいやな印象について議論した。
 ブルガーコフが諷刺しているのはソヴェトの舞台裏ばかりじゃない。彼は、革命という事業をも「赤紫島」で諷刺している。真面目にとり扱っているような風ではあるが、そこには狡猾にひやかしがぜられている。劇中劇などと逃げを打って、イヤに比喩めかして、あり得べからざる安易さで革命をこねあげて見せている。
 科白せりふでは、ソヴェト赤紫島万歳! と呼ぶ。だが、その「万歳」は本気にうけとれない。君等の考えている革命[#「革命」に「××」の注記、底本の親本「河出書房 宮本百合子全集」で伏字を起こした個所]なんてのはこんなところだろう、と云われているような工合だ。そう考えると「赤紫島」という題も妙にこっている。
 だって、赤は、赤でいい。われわれに分る意味においての赤だ。然し、紫というのは何だろう? ヨーロッパの伝統的な色の言葉で権威、王位、威厳、信仰を意味する。ナポレオンが帝位につくとき背中にひきずった裳は紫ではなかったか。現在でも紫という色は、同じような意味をもっている。「赤紫島」というのを別な表現で書くと「赤の信仰ででっち上げられた島」または「赤が王の島」となりかねない。
 ソヴェト同盟の大衆にとって、こういう種類の諷刺が、ほんとの諷刺としてうけとれず、そこにブルガーコフの傍観主義や底意地のわるい嘲弄を感じたのは、むしろ自然であった。
 大体、文学をこめてのプロレタリア芸術一般にとって、諷刺的手法が正しい効果をもつ場合は、諷刺そのものがただ題材の或る矛盾面の抉出だけに終らず、積極的な建設的な教唆、暗示、明示等を含んでいる時に限られる。プロレタリア芸術の諷刺とブルジョア芸術の諷刺との相違は明かに此処にある。
 ブルジョア漫画家も失業でやけになって酔っ払った労働者の酔態を描くだろう。ブルジョア漫画家は丁度ブルジョア政治家がそうである通り、それをそれとして現象的に描写する。諷刺したという自己満足に止っている。失業でやけになって酔っ払った労働者は、酔っ払わずに、本当はどうすべきであったかという方面、階級全体としての闘争へ向って突き動すような努力は漫画のどこにもされない。
 プロレタリア漫画家だけが、それをやるのだ。またやらなければならない。ソヴェト同盟の漫画家たちの苦心はここにある。社会主義的生産の意味を理解せず懶ける労働者も、ソヴェト同盟の階級的自己批判として描かれなければならない。然し、画板一杯に懶けている労働者だけ精出して描写したってそれは弁証法的でもなければ、従ってプロレタリア的でもない。その漫画を見たものが積極的な側を、理解するように扱われなければならないのだ。
 文学における諷刺も同様なのは云うをまたない。諷刺が諷刺で自己満足してその基礎が「赤紫島」におけるように間違った理解の上に立てられている時、どっちから見たって、正当な意味で、プロレタリアの諷刺でないのは知れている。つまりブルガーコフは才能はあるけれどもソヴェト同盟の社会主義社会の建設と世界の労働階級解放運動に対して同情的でない態度をもつものだということを否めない。
 上演目録詮衡委員会は、一つの自己批判の表現としてこの戯曲の上演を許可したが、ソヴェト同盟の勤労大衆はだまっていなくなった。カーメルヌイ劇場は一月余上演して「赤紫島」はひっこめた。
 一九三〇年の秋から帝国主義国のファッショ化に対しソヴェト演劇上の帝国主義侵略戦争反対、宗教排撃の主題は目立ってふえた。だが、諷刺的に扱うにしろこの点に深い注意を払われている。世界の帝国主義者、ファシストの組織、侵略戦争をあばきっぱなしでは足りない。
 ソヴェト同盟及世界の勤労大衆はそれに対して何を支持し守らねばならないのか。「ソヴェト同盟、ソヴェト中国を守れ!」強く、全面的にこの大切な点が会得されなければ甲斐がない。芸術的効果をそこまで持って行くために、ソヴェト同盟のプロレタリア芸術家たちは大童おおわらわだ。
 ところで、問題は展開する。
 この帝国主義の侵略の危機、及びファッシズムとの闘争は、果してソヴェト同盟の大衆、彼等の文化の前衛としてのプロレタリア芸術家たちだけに限られた必要、或は負うべき任務だろうか?
 断然そうではない。
 各国の帝国主義者たちが、それぞれの方角と方法でソヴェト同盟破壊のためのカンパニアを精力的に起さずにはいられないほど、それぞれの国内での情勢が切迫して来ている。
 資本主義国内の勤労大衆、革命的労働者、芸術家は一様に、多くの犠牲に堪えつつ勇敢にプロレタリア・農民の解放と階級的文化確立のために闘っている。
 何故われわれは世界の同志として互に手を握り、現実的な組織によって共同の敵と闘わないのか? ソヴェト同盟モスクワにある革命文学国際局がこう考えた。
 ドイツへ、チェッコ・スロヴァキアへ、イギリスへ、ハンガリーへ、日本へ! 世界革命文学の第二回国際会議への召集状は発せられた。
 第十三回革命記念日の数日前、一九三〇年十一月一日の朝、モスクワの白露バルチック線停車場は鳴り響く音楽と数百の人々が熱心に歌うインターナショナルの歌声で震えた。各国からの代表、歓び勇んでやって来たプロレタリア作家たちの到着だ。みんなは、みんなの母国語で歌った。が、モスクワの初冬の空気をツン裂いて、
「ああインターナショナル」
と歌われたとき、あらゆる国語の差別は消え全く一団の燃える声となって八方に響き渡った。
 第二回革命作家国際会議がモスクワでもたれず、ハリコフ市で行われたのも、五ヵ年計画第三年目のはじめの記念的な出来ごとにふさわしい。ハリコフ市はウクライナ共和国の首府だ。十一月の氷雨がちのモスクワ市よりこの時節にはハリコフ市の方が気候がいいばかりではない。ドンバス炭坑区を近くに持ち、大国営農場、機械工場をもち五ヵ年計画とともにソヴェト同盟の南方地域では屈指の重工業、農業の生産中心地となった。
 ハリコフ市を中心とするウクライナはソヴェト同盟のプロレタリア文学とも縁が深い。ショーロホフの「静かなドン」はドン地方のコサックの階級闘争史だ。フールマノフの「赤色親衛隊」もウクライナ地方が背景だ。映画「大地」はウクライナの豊饒な自然なしには創られなかった。
 美術の方面でもウクライナは多勢の優秀なソヴェト木版画家を出している。一九三〇年の春はウィーンその他でウクライナ美術展覧会をやった。
 このウクライナ地方が革命までどんな扱いをうけていたかと云えば、大ロシアの支配者たちによって半植民地とされていた。ウクライナ地方の自国語で書くことは許されず、軍隊の中でさえ「ハホール」と呼んで侮辱的扱いをうけた。
 社会主義の社会で民族は真の意味で自立し、新しい生産と文化とが結びつきながら高揚し、調和しあうものとして動きはじめている。ハリコフ市はそういう点から一つの新しい民族首都である。ここを選んで国際的な革命作家の会議が行われたことは輝かしい。
 会議は十一月六日から十五日まで続いた。二十二人の資本主義国、植民地、半植民地から革命的作家が集った。
 代表によって各国におけるプロレタリア文学運動についての詳細な報告がされ、批判された。そして、革命的作家は益々切迫するブルジョア経済の行き詰りとともにファッショ化する権力の文化抑圧と如何に闘うべきか。これも亦各国の事情を参照して決議された。日本からは、松山、永田という二人の同志が出席した。
(ハリコフ会議における日本についての決議は『ナップ』一九三一年二月号を見ても分るし、近々作家同盟から出版されるプロトコールを見てもわかる)
 革命文学国際局はこの会議を機会として組織がえを行った。国際革命作家同盟モルプとなった。これまでよりは一層緊密な国際的規模で各国のプロレタリア文学活動が出来るようになった。
 国際的にこうやって組織の網めをひろげつつ、一方ロシア・プロレタリア作家同盟(ラップ)は、ソヴェト同盟の国内的文学活動をも一歩一歩と押しすすめた。
 一九三〇年の末から三一年にかけて、ラップのかかげたスローガンは、
「ウダールニクを描け!」
である。五ヵ年計画とともに、ラップの作家たちは「大衆の中へ」次いで「生産の場所へ」と進出した。
 作家団自身、生産の場所へはいりこみ、そこでどんな風に新しいソヴェト同盟の誕生が行われているかを目撃して、芸術作品を創って行っただけではない。工場、集団農場の中へドシドシ実践的な指導方針による文学サークルをこしらえて行った。労農通信員の文学的活動を熱烈に鼓舞した。
 一九二九年から、全同盟の生産と文化の戦線で、最も階級的に、積極的に働いているのは誰か? 自主的に労働者、農民のイニシアチーブによって組織されたウダールニクだ。
 工場の職場で槌をふるい、社会主義的な生産を高めつつあるソヴェト同盟の勤労大衆が突撃隊なら、その歴史的意味を彼等とともに理解し、画時代的な功績を記録しようとして出かけて行くラップの作家たちも、プロレタリア文学のウダールニクだ。
 現実、生産の場所を描いて、そこの動力である階級的建設の闘士男女の突撃隊員を描かないということはあり得ない。「五ヵ年計画の英雄」を描けということは、ソヴェト同盟の社会的現実に即したプロレタリア文学の当然な推進なのだ。
「ラップ」は一九三〇年の春、益々豊富に大衆の中に芽生えて来る文学的萌芽の肥料として、初歩的な文学雑誌『成長』を刊行しはじめた。一九三一年には、文学サークルのために『文学突撃隊』という文学新聞を出しはじめた。プロレタリア文学における新幹部の養成は、技師、熟練工の養成と同様、重大な関心事となっている。
 一九三〇年の七月、全同盟共産党第十六回大会の会場で「ラップ」代表キルションが行った報告中には、既に全然新しい層から生れて来た作家=労農通信員、コムソモール出身=が何人か数えあげられた。
 ソヴェト同盟の生産とともに高められたプロレタリア文化から生れた新しい作家こそ、ドシドシと出なければならない。新しい世界観、実践、階級的教育で鍛えられ、生粋に社会主義建設時代を代表する作品が送り出されなければならない。
 各地方支部ラップが、生産の場所における労農通信員を中心とする文学サークルの活動を過去一年間正しい方針で熱心にやって来た結果、昨今極めて興味深い本がポツ、ポツ出版されるようになって来た。
 例えば、或る工場内の文学突撃隊リト・ウダールニクが中心となって、自分の工場で社会主義建設はどんなにして行われているか。その生産における一般的関係、その工場だけの独特な条件、それを掌握する革命的ウダールニクの活動とその間に起るさまざまな插話等を、共力して芸術的記録にまとめ上げてゆく仕事だ。これはねうちがある。こういう文学的共働は、例えば「ラップ」の作家たちが時々やる労働者との合作とは又ちがって深い実践的な階級的基礎をもっている。
 彼等は文学活動の必要のためだけに集ったのではない。ある一つの工場が五ヵ年計画を基本とした自身の生産プランを大衆的に受け入れた瞬間から今日まで、そこの仲間は機械によって結ばれ、ベルトの唸りで互に繋がれ、企業内の妨害分子と闘いつつ、高く、高くと、プロレタリアの生産と文化を引きあげて来た連中だ。
 ここには世界の全人民解放の日まで生産に文化に夜となく昼となくうち鳴らす階級の鍛冶屋、われら闘う人民の若々しい槌の音が、町から村へ、国から国へと鳴り響いていようというものだ!

 附記
「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」は昨年の一月から書きはじめられ、二回休んだが殆どまる一年続いた。
 誰かが、ナカナカつづくね。書いてるうちに五ヵ年計画がすんじまうよ、と云ったが、この冗談は真実を云い当てている。何故なら、五ヵ年計画が進捗するにつれてソヴェト同盟の芸術運動の展開は著しく、去年より今年、今年より来年と、建設の新しい客観的情勢の動きにつれて、プロレタリア文学も育ちのいい赤坊のようにのび太って来る。書くべきことにはきりがない。それこそマルクシズム・レーニズムの旗の下にすすむプロレタリア芸術のつきない創造性というものだ。
 然し、わたしは一先ずここで、この記録はうち切りたいと思う。後から後からの愉快なニュースは、別にニュースとして報告しつづけて行こう。(特にこの号に湯浅芳子が発表しているソヴェト文壇ニュースは、面白いものだ。大いに参考になる。必ずあわせ読まれたい)
 この中に、書きもらされている部分の或る点は、内外社出版の『綜合プロレタリア芸術講座』第一巻にある。ないもの、足りない部分はこれからそれぞれにわけてとりあげて行こうと思う。
〔一九三一年一月―一九三二年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「ナップ」
   1931(昭和6)年1、2、4〜8、10月号
   「プロレタリア文学」
   1932(昭和7)年1月創刊号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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