ドン・バス炭坑区の「労働宮」

――ソヴェト同盟の労働者はどんな文化設備をもっているか――

宮本百合子




 世界の経済恐慌につれて、日本でも種々の生産(製糸、紡績、化学、運輸等)が低下し、それにつれて燃料原料となる石炭は二割七分の生産減を見た。北九州地方の炭坑労働者の生活などはこの頃以前にましてひどい有様になって来ている。(賃銀は一日平均十時間労働で一円五六十銭やっとだ。恐慌前から見ると二十銭以上引下げ)
 これは北九州の或る坑山で実際にあった話であるが、或る坑山が所謂事業不振で閉鎖されることになった。会社の方では儲がうすくなったから、これ以上損をすまいと勝手に閉めるのだが、その日から女房子供を抱えて路頭に迷わなければならない数百人の労働者達は、黙ってそうですかと引込んではおれない。かたまって事務所へ押しかけ、閉めるのは勝手だが、俺たちの命がつなげる方法を講じろと迫った。会社ではあわてて、一策を案じ出した。それは、失業させられた労働者中の希望者は県当局がいくらかと会社がいくらかと旅費を補助して「満州国」へ移住させるというのだ。
 会社の事務員は「満州国」へ行きさえすれば仕事は山ほどあり、物価はやすいし仕合わせずくめの話をする。ブル新聞では「新天地満州国」とか、日本の「大衆の幸福の鍵満州国」という風な太鼓をたたいているから、失業させられ、食う道を求めて焦っている労働者たちは到頭心を動かされた。僅かの旅費の補助を土台とし遠い満州国へ移住するのだからと家財道具をも売り払って、女房子供を引きつれ数百人が一団となって幸福を求め旅立って行った。
 長春は新京と名を改め、今は「満州国」の首府である。着いて見て、北九州の労働者達は拳を握って口惜しがった。会社と県当局とに、一杯くわされたことがわかった。「満州国」の役人は職業の世話をしてくれないばかりか、テンから邪魔者扱いである。「こっちにはお前らよりもっとやすい賃銀で働く中国の労働者がいくらでもいるから用はない」そう云って放り出された、とり合ってくれぬ。
「満州国」がわれわれ大衆の暮しをよくする役に立つというようなブルジョア・地主政府の云い草は嘘である。中国を植民地として、中国の労働者を一層やすい賃銀で搾り、ブルジョア・地主が大衆を抑圧する力を強めようとしているばかりである。そういう事実が労働者たちに分った。人間なみの生活を求めて行った「満州国」でも労働者が得たものは「飢餓」と失業とである。
 困り切った北九州の労働者の大部分は故郷へ又戻って来た。出立の時よりもっともっと無一文になり、殆ど乞食姿で戻った。「満州国」から帰る旅費はどこからも補助されなかったのである。
 この話をきいた時、私の心にきつく浮んだ一つの活々した絵がある。それはソヴェト同盟の炭坑労働者の生活の有様である。
 一九二八年の初秋(五ヵ年計画の始る前年であった)私はドン・バス炭坑区の中心ゴルロフカを見学した。五ヵ年計画によってウラル地方にも大きい炭坑区が出来たが、それまではドン・バス炭坑はソヴェト同盟最大の石炭宝庫であった。ソヴェト同盟では、諸君も知っているとおり、世界の労働者農民の見学団を心から歓迎している。石炭の町ゴルロフカにも、ドイツ、アメリカ、イギリスなどの工場や農村の職場大衆から選ばれて見学に来たもののために、また作家や技術家が見学や研究に来た時のために、特別な「訪問者の家」というのがある。
 このゴルロフカ炭坑の革命までの主人はフランスのブルジョアであった。が、今はソヴェト同盟の革命的なプロレタリアが主人で、社会主義の社会を建設するために日夜努力をしている。炭坑事務所の壁には赤い布に「工業化! 電化! プロレタリアの勝利はこれだ!」と白字で書いたプラカートが貼られ、一週間ずつの採炭高と生産計画とを対照した興味ある統計図がかかげられている。経営主任の責任ある位置にいるひとはやっと三十そこそこで、その辺にいる誰彼と一向違わない鳶色のルバーシカを着、元気に仕事をやっている。鞄を小脇に抱えた連中が盛に出入りする、青い技師の制帽をかぶったのも来る。主任は日本の女がモスクワから遠い炭坑を見学に来たのを珍しがって忙しいにもかかわらず、
「あなたはどうしてドン・バスを見学する気になったんですか?」
と私に向って訊いた。私はありのまま答えた。
「私は石炭について専門的なことはちっとも知らないのです。けれども、私はソヴェト同盟へ来てからいろいろな工場を見学して、社会主義の国の工場とはどういうものか、そこで労働者はどんなに生活しているかということを見た。成程、人間は社会の仕組みによってはこうも暮せるのだということが分った。日本はブルジョア国だから工場もひどいが、炭坑は話のほかです。危険の中で獣のように搾られている。ソヴェト同盟の炭坑の労働者の生活はどんなか、それが見たかったのです」と云った。すると、
 主任は、
「それは結構だ! すっかり見て下さい。ドミトロフ君、君このひとを案内してあげてくれ給え」
 そう云ったが、急に私の方を振りかえり、
「ああ君、坑内へ入りますか?」
と云った。
「よかったら入れて下さい」
 念のために断っておくがソヴェト同盟では、婦人の地下労働は一切禁じている。ドン・バスに何千と婦人労働者がいるがそれは選炭その他みんな地面の上での仕事をやっているのだ。
 私は同志ドミトロフにつれられて、先ず大仕掛の動力室発電所へ入って行った。坑内の換気のため、エレベーターやトロを動すために、動力室では五人の熟練工が絶えず働いているが、感服したのはその安全装置である。唸って震えている、巨大なモーターの周囲は油さしやその他にごく必要な部分だけを露出して強い金網で覆ってある。調帯も、万一はずれた時下で働いている者に怪我させそうな場所は鉄板の覆いがかかっている。
 更衣所で、男の着る作業服に着かえ、足先を麻の布でくるんで膝までの長靴をはいた。すっぽり作業帽をかぶって待っていると、自分も作業服にかえてドミトロフ君がやって来た。そして、
「ホホー」
と思わず笑い出した。私も笑った。というのは私は日本の女の中でも体が小さく丸く五尺に足りない。それがソヴェト同盟の大きい男の作業服を着たのだから、手先はだぶだぶだし、靴はぶかぶかだし、子供の化物のような恰好なのだ。
「工合がわるくないですか?」
 ドミトロフ君は心配気だ。
「平気です。出かけましょうか」
「配燈室」へ入って行くと、丁度今交代で坑内へ下りようとする多勢の労働者が順々に安全燈をとりに来ている。我々一行もその列に並んで窓口から掛の婦人労働者に電気安全燈を貰った。
「配燈室」の入口の廊下から、みんなが列をつくっている場所の壁まで、うまく注意をひきつけるように傷害予防のポスターが貼りまわされている。
「注意! 注意! 命をすてるな」坑内へすてたタバコの吸殼からガス爆発をする絵が描いてある。
「注意! 同志たちよ、機械の力を理解して!」電気トロに油断すると、やっぱり命を失うぞ。不具になるぞと絵で示してある。安全燈をうけとる間に、毎日のことながら新しい注意をよび起すようにしてあるのだ。
「注意! アルコールはわれわれの敵だ!」酔って坑内へ下りようとし、エレベーターに挾まれて死ぬな。なかなか真に迫った絵が描かれている。
「注意! 骨を惜しむな!」小さい支柱の故障だと云って放って置くな。落盤はいつ起って君らを圧死さすかもしれぬ。
 ソヴェト同盟の炭坑では労働者がどんなに作業の危険を防ごうと互に注意しあっているかがありありと感じられた。このポスターを見ただけでも、会社が搾るために労働者をシキに追い込む炭坑と、労働者が自分らのために働いている炭坑との根本的な相違が現れている。(こういうみなのためになるポスターなどはソヴェトのプロレタリア美術家同盟の画家たちが描いているのだ)
 同じような注意は地下数百米の坑内にも及んでいる。見張所は応急救援所をかねている。
 二時間ばかり泥水と炭塵にまびれて上って来ると、ドミトロフ君は私を風呂へ案内した。よそから来たものだけを入れる体裁の風呂ではない。みんな一日七時間――八時間の労働をすますと、風呂で体を洗って家へ帰るように設備が出来ているのだ。
「訪問者の家」はすっかり家族的なやりかたである。寝室が別なだけで食事でもお茶でも来合わせている者が食堂へ集って談笑しながら賑やかにたべる。夕飯のときは、ソヴェト同盟における炭坑の経済状態研究のためにレーニングラードから来ている学者が面白い話をして皆をよろこばせた。学者と云っても、書斎にだけこびりついて青ざめている学者ではない。彼は十月革命の当時、レーニングラードの鋳鉄工場にバリケードを築き銃を執ってプロレタリア解放のために闘い、後赤軍にいたことのある闘士である。

 夕方七時頃、われわれは再び「訪問者の家」を出かけた。秋のことだから、四辺あたりはすっかり暗い。黄葉した樹の葉と枯れ始めた草の匂いがガス燈に照らされた道に漂っている道が原っぱのようなところにひらけた。先に立って歩いていたドミトロフ君が、
「鉄道線路があるから、つまずかないように!」と注意した。暫く行くと草に埋もれて、複線のレールが古びている。これは又何故か? 私は不思議に思った。すべてのものを役に立てるソヴェト同盟の労働者がどうしてレールを腐らしているのだろう?
 ドミトロフ君のその時の答えは、今日も猶つよく私の心にのこっている。この二条のレールの走る地点こそ、ゴルロフカすべての労働者にとって忘られぬ記念の場所なのであった。一九一八年の国内戦のとき白軍が装甲列車をころがしてドン・バスを占領しようと攻撃して来た。ゴルロフカの革命的労働者は社会主義社会建設のためにこの豊富な炭坑区がどんなに大切な意味をもつものであるかということをはっきり知り命をもって守る決意をした。ここから三四マイル先の地点にかけて最後の激戦が行われ、百七十余人の前衛労働者の血が流された。そして遂に白軍を炭坑区から追い払った勝利を記念するレールなのであった。
 夜の原っぱを横切って、あっちからも、こっちからも三々五々男女の労働者がやって来る。彼方には夜目に白く堂々と巨大な丸天井をもった建物が浮び上っている。「労働宮」へ遊びや勉強にゆく労働者たちだ。
 白い石の正面大階段を登ると、どっしりした鉄の扉の片翼が開いている。入ったところはやはり白い滑らかな石をしきつめた大広間だ。天井から新式な大電燈が煌々と輝いて、今あんな原っぱの夜道を通って来たということが信じられぬような印象を与える。小ざっぱりした平常着姿で本をもったりギターをもったりしている男女労働者に交って廊下へ出ると、つき当りは大舞台の入口だ。
「――今日は生憎何もやっていませんが……」ゴルロフカの労働者とその家族が無料で見物するために映画や芝居、音楽会、講演会などがこの大舞台で行われるのだ。薄暗い内部を見わしたところ、二階まで坐席があってなかなか大きい。モスクワに鉄道従業員組合クラブがあり、そこの舞台は数多いソヴェト同盟の労働者クラブの中でも立派なものとされているが、そこより多数入れそうだ。私はぐるりと見まわしながら、
「何人ぐらい入れるのでしょう」
ときいた。
「六百人はゆっくりです」
 ドミトロフ君も満足そうに自分達労働者の力で建てた舞台を眺めていたが、やがてつけ加えて云った。
「この舞台は実に役に立ちますよ。われわれはここで映画や芝居を観てたのしむばかりではない。ソヴェト選挙もここでやるし、新経済年度の真面目な討論会も各坑の代表が集ってここでやる。楽しみの場所であり、真剣な仕事場でもある。――つまりわれわれの建設の両面がここにあるわけですね」
 もう半月ばかりすると、この演劇サークル上演の芝居が見られるのだそうだ。ドイツの新式な電気照明装置が舞台についている。
 元の廊下をゆくと、右や左にいくつもの室が並んでいる。真先に目につくのは「レーニン主義共産青年同盟」「地区委員会(赤色労働組合)」「全同盟共産党・ボルシェビキ」とそれぞれ高く入口に札をかかげた部屋部屋だ。その先に図書室がつづいている。ドミトロフ君が静にドアをあけたところから内部を見ると、中央の大テーブルをかこんでいろいろの雑誌を数人の男女が熱心に見ている。テーブルの程よいところに眼の衛生を重んじた緑色のカサの卓上電燈が配置されてある。別に独立した小テーブルがいくつかあって、そこではわきに手帖をひろげ、何か専門的な書籍で勉強している人々がある。レーニンの石膏像がこの落着いて知識を吸い込んでいるソヴェト同盟の労働者の姿を見下している。
 二十人ばかりの音楽サークルでは男女混声合唱の稽古最中だ。さっき入口で会ったギターをかかえた若い男が指導者で、
「ホラ、そこをもっと強く! つよく、早く、愉快に!」
とやっている。若々しく楽しい歌声はドアをしめても廊下へあふれてきこえる。その歌声をききながら、向い合いの室では「新聞」編輯だ。一人がルバーシカの襟をひらいて一生懸命モスクワ発行の『プラウダ』から何か論説をやさしく大衆向きに書き直している。鋏で切抜きをやっている若者がある。漫画の切抜きを集めたのを調べているのもある。
 諸君はこれまでもソヴェト同盟の労働者、農民、勤人、赤軍兵士すべてが、自分たちの工場、農場または職場の新聞を発行しているという話をきいたことがあるだろう。工場新聞は大抵印刷で大版四頁、六頁という本式のものだ。工場新聞では『プラウダ』をはじめ、労働組合の機関新聞などがソヴェト同盟全体の建設問題としてとりあつかう政治、経済、文化すべての問題を、自分らの工場ではそれがどんな風に扱われているか、実際の状態はどうか、どんな労働者大衆のイニシアチーブがあるかという点などを書く。自己批判もある。大衆的投書もある。文学サークルの連中の詩や小説ものる。
 職場の新聞は、印刷の工場新聞をもっている工場でも各職場職場が手書きの壁新聞の型で発行している。五時間毎にかわる。これは、ほんとに職場の新聞で、職場の日常的なあらゆる感想、自己批判を、洒落ででも、滑稽な色紙の切抜きをはりつけてでも、新聞からの切抜きを利用してでも、ごく自由に大判画用紙一枚ぐらいにまとめて、そのままピンで職場の壁にはりつけ、皆で読む。
 ゴルロフカは炭坑だから、地べたの下何百メートルのところまで職場新聞はもち込めない。ここではゴルロフカ全体の新聞が出されているわけなのだ。ドミトロフ君が説明して『プラウダ』の論文を書き直している若者が「われわれの新聞の編輯責任者の一人ですよ」。
と云った。青年労働者はその声で鉛筆をもったまま顔を上げ、丈夫そうな美しい歯なみを見せて笑った。「そして『共産青年同盟プラウダ』の通信員です」
 私はきいた。
「坑内で働いているんですか?」
 ソヴェト同盟では十八歳以下の青年労働者は一日六時間以下、十六歳以下は四時間以下しか労働を許さない。それで八時間労働に同じだけの賃銀をとり、しかもその半分だけの時間は勉強のためにつかわれるのだ。コーリャというその青年労働者は、
「働いています」
と答えた。
「だが坑内で働くのはたった三時間か四時間です、僕は今専門学校の講義クラスに出ているので、坑内はそれだけなんです」
 ほほう、ここには専門学校まであるのか! 訊いて見たら学校はまだ建っていないがゴルロフカ炭坑に働いている専門技術家が教師となり、半年、一年、二年とそれぞれ程度の違う技術教育を行い、プロレタリアの幹部、指導者を養成しているのだ。
 ここで朝鮮、台湾の読者諸君に特別に知らせたいことがある。それは、ゴルロフカの「労働宮」にはロシア語の工場新聞のほかにもう二つ別にユダヤ語とタタール語の小新聞発行所が設けられていることだ。十月革命によってプロレタリア農民が勝利するまで、ブルジョア地主の専制支配の下でユダヤ民族と弱小民族の一つであるタタール民族が虐げられて来たことは、ロシア歴史を一目見ただけで明らかである。ユダヤ人は屡々虐殺された。タタール人抑圧の悲憤にみちた物語は、文豪のトルストイも小説に書いている。帝政時代のロシア支配階級はその他多くの弱小民族を圧迫し生活権を奪うことによって豊沃な耕地を、森林を、鉱山と港とを自分の富として加えた。タタール民族ユダヤ民族は、自分らの言葉で書いたり読んだりすることさえ禁じられていた。小学校は強制的にロシア語で教えた。公文書は必ずロシア語でなければ通用せず、芝居も自分らの言葉でやることは許されなかった。誰にでもわかる自分らの言葉で本を出版することなどはもっての外のことであった。
「十月」とソヴェト権力の確立、プロレタリア独裁とが初めて、この屈辱的な民族的差別を根本から廃絶した。民族は完全に独立した。自治共和国をもつようになった。今日では自由に自分の国の言葉で読み書きは勿論演劇もやる。学校教育もやる。出版される。「労働宮」の大きくない一室のドアの上に貼られた「ユダヤ語、タタール語新聞発行所」という紙は小さいものだ。しかし、それは世界幾千万のプロレタリアの「植民地独立!」と叫ぶ声である。
 ところで「労働宮」の半地下室へ降りて行って見て私はびっくりした。これはさながら最新式の欧州航路の汽船の内部のようだ。
 真白いエナメル塗の椅子がいくつも並んだ清潔至極な理髪室がある。
 大きい大きいニッケル湯沸しの横に愛嬌のいい小母さんが立って一杯三カペイキ(三銭)のお茶をのませ、菓子などを売る喫茶部はにぎやかな話し声笑い声に満ちている。
 体育室の設備のよさは、プロレタリア・スポーツの誇りだ。
 医務室がある。
 法律相談所がある。
 ゴルロフカの母親たちの便利も決して見落されてはいない。「母と子の室」。
 あらゆる明るい部屋部屋にゴルロフカの炭坑労働者の男女の姿がある。どの廊下にも愉快そうに働いているゴルロフカの連中がいる。
「労働宮」は三百万ルーブル(円)で建てられた。その当時ソヴェト同盟の石炭総生産は世界第六位でありドン・バス炭坑区はその大部分を生産していた。

 来る十一月七日革命第十五周年記念日こそ世界の全勤労階級のよろこびと新たな決意の日だ。ソヴェト同盟のプロレタリア・農民は第一次五ヵ年計画を達成し、社会主義社会建設への勝利と可能とを身をもって示した。ソヴェト同盟の全生産はヨーロッパ戦争前(一九一三年)の二倍に高まった。ソヴェト同盟は世界第二位の生産と国民所得をもつ国となった。労働時間は八時間から七時間になった。失業は根絶され、労働者の平均賃銀は二倍強に上っている。ひきつづいて一九三七年までに行われる第二次五ヵ年計画で、ソヴェト同盟の労働者農民は更に社会主義の社会を完全なものとし、この世界に階級のない社会を建設しようとしている。ゴルロフカ炭坑区「労働宮」のラジオ拡声機をとおしてこの日モスクワの「赤い広場」から叫ばれるスターリンの激励演説とそれに応える数百万の勤労者の歓呼の声が轟くであろう。
 諸君。われわれにもその確信と闘争に満ちたソヴェト同盟のプロレタリアの叫びが聴えるようではないか。よしゴルロフカ「労働宮」はまだわれわれのところに無いにしろ、帝国主義列強の侵略に対してソヴェト同盟の革命的な労働者農民を支持し、社会主義社会の建設を防衛するものこそわれわれである。支持と協力と自身の解放を誓うわれらの叫びを送ろう。
 モスクワへ!
 ドニェプルストロイへ!
 トゥルクシブへ!
 そしてシベリア、極東地方へ!
〔一九三二年十一月〕





底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「大衆の友」
   1932(昭和7)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について