ヒューマニズムの諸相

宮本百合子




 日本にヒューマニズムのことが言われはじめたのは、この一二年来のことであり、主としてフランスの今日の文学を支配している活動的なヒューマニズムの影響を受けたものであった。一九三二年以来日本の社会的事情は急激に変化して、プロレタリア文学は退潮を余儀なくされ、その背後の社会的な力は同時にブルジョア文学をも著しく萎靡いびさせた。それに反撥する要求として、一部の作家から文学に於ける能動的精神ということが言われ初めた。
 この能動精神は、当時文学の置かれていた所謂いわゆる文壇的雰囲気の狭さ、無気力さ、非行動性に満足しない感情、即ちこの人生と文学とに対してより積極的な、能動的な人間性の発露を目標としたのであったが、この能動的精神の提唱者たちは、自身の提唱を一つの実際的な生活的、文学的潮流となし得るまでに具体的な方向を持っていなかった。漫然と能動ということを言い、ローレンス等が紹介された。ファシズムをこれ等の人々は否定した。それと同時に、人間の能動的精神は、従来謂われて来た内容でのマルクシズムの思想でもないことを強調した。中間のものとして、自由主義的なものとして自身を押し出した。しかしながら、現実社会の複雑な事情を反映し、整理し、その間から文化的な発展性を引き出して行くためには、この抽象化された能動性、自由主義的立場というものは、結局為すところの少いものであった。
 ヒューマニズムは、能動的精神が提唱された時に本来的に欠けていた一つの思想的核ともいわれるようなものを持っている。これはヒューマニズムがそれに先行した能動的精神の提唱に比べて、はるかに我々の日常生活に於て社会的に、文化的に作用を及ぼす実践の可能を含んでいる特徴的な点である。ヒューマニズムは、ファシズムに明瞭に対立している。ファシズムの強権と横暴から人間の理性と合理性と自主性とを守ることを根本の目じるしとしている。その人類共同の目的に向って参加して来る者は何者をも拒むまいとしている。国内的にそのことが言われると同時に、国際的にも同じ事情に置かれており、それぞれの国の知識人をこめての大衆が、自分たちの人間性をファシズムの轍から守ろうとする、その要求と行動とに於て、世界的に互が結ばれていることを感じているのである。
 従って、それぞれの国に於てヒューマニズムの現れは独自的な形をとっている。例えばフランスではヒューマニズムの運動は政治上の人民戦線政府の確立を土台として、文学芸術の方向を強い力で反ファシズムの方向へ動かしている。フランスで文化擁護の大会が持たれたりしたことは、ロマン・ローランの最近の文化的活動の傾向と共にはっきり我々に示されている。
 ドイツでは、またおのずから違った形で現れている。ヒットラー政権の下では、自由主義的な芸術家が国外へ追放され、政治的移民としてアムステルダムやパリに住み、世界文学史の上に前例のなかった移民文学を創造している。これらの人々は当然ヒューマニズムの立場にあるのであるが、更に注目すべきことは、ドイツの国内に「国内の移民」と言われている一団の作家、学者のあることである。これらの人々は、日々極めて不便な非合法的な境遇にありながら、強い根気と努力とでファシズムの文化政策に反対し、思想の自由と芸術の自主性とを守り続けている。旧臘ドイツの宣伝相が、芸術の「批評」を禁じて単なる鑑賞批評だけを許したことは、当時世界の視聴をその極端性でおどろかしたが、この非文化的な宣言を敢てしなければならないほど、ドイツの民衆の間には、自分の声で、人間らしい理性の具わった言論を求め、またその要求に応えているものが一方に存在しているという現実を語っているのである。
 中国に於ては、ヒューマニズムの運動は、その国の置かれている事情に従って、民族自立の問題と結びついている。先頃亡くなった中華のゴーリキイと言われた作家魯迅の存在は、全く以上のような特殊な国情を反映していた。
 さて、では日本に於けるヒューマニズムはどういう展望の下に置かれているであろうか。非常に複雑なものがある。第一日本では政治上の人民戦線が結ばれるに困難な事情があり、文化的な面から見ても、ヒューマニズムを提唱している人々自身の中に、左翼的なものを排する気分、その気分の合理化としてヒューマニズムが取上げられた傾向もあった。ヒューマニズムに於ける現実的な発展の方向をある意味では意識的にぼやかしていることは、日本に於てヒューマニズムが一つの指導的な新しい文芸思潮として高まり得ない弱点となっているのである。ファシズムに賛成しないというだけのところに限度を置いてそこに居据っていたのでは、今日の文化を進歩的な方向に進める思潮とはなり難い。更にそれから先、ではどうするかという問題が示唆されなければならない。日本の現実に即してリアリスティックに生活と芸術とに対する一般的態度としてこの示唆が必要なのである。先ずヒューマニズムを提唱している人自身が真面目にそれを一つの文芸思潮とすべき必要を自覚することが必要なのではなかろうか。
 ヒューマニズムがまとまった、行動の指導力を持った文芸思潮となるにはまだ先にも言ったような距離が残されているが、ヒューマニズムの翹望が今日の多数者の心にあることの実例として、一部で希望し、一部でそれを警戒しているほど日本にファシズム文学が現れて来ないという事実がある。文学の本質から言えばこれは当然のことであるし、人間性の主張という側から見れば寧ろ消極的な形ではあるが、今日の日本の諸事情に照して見れば、なかなか見逃すことの出来ない意義を持っている。ヒューマニズムの社会的、人間的な土台はここにもかくされていると思う。小林秀雄氏が最近の時評でいち早く自身が提唱した日本的なるものの迷子になることを予言しており、ヒューマニズムも同様に行方知れずになるだろうと言っておられる。日本的なるものがこれらの人々の間で迷子にならざるを得ない理由というものは誰にでも推察出来る。けれどもヒューマニズムがそれと全く同じように行方知れずに誤間化されてしまうということは、そう簡単に言い切れないと思う。何故ならばこれ等の間でヒューマニズムは、よしや行方不明になろうとも、別のところでヒューマニズムは存在し続ける社会的な可能を持っているからである。
〔一九三七年四月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「雑記帳」
   1937(昭和12)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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