観る人・観せられる人

――観客の問題――

宮本百合子




 外国の映画がこれまでのように輸入されなくなったということが、日本映画の製作を刺戟して、優秀な作品のいくつかを生み、その水準も高めたというのは実際であるし、そういう外部的な事情をぬきにしても、直接日本の生活の種々相が描かれ、語られ、示されている日本の映画というものは私たちに深い親密さと期待とを抱かせていると思う。日本の昨今は、日常現実の生活が、アメリカやイギリスや又ドイツなどとも随分違う。ちがった複雑な生活の感情が日々を貫いているのだから、その生活を掴んだような映画の出ることは、皆がひとしく心のどこかで待望しているところであろうと思われる。ところでそういう人生的な映画はどの程度まで製作され得るのだろうか。今日の観客は、期待と同時にそういう疑問をも抱くところにいる。日本映画を一定のところまで押しすすめた諸事業そのものが、それから先の二歩三歩、真の大作品としての日本映画を誕生させるためには、見える又見えざる各種の障害を潜めているのではなかろうか。例えば最も見易い技術的な問題に連関してフィルムその他諸材料の質の低下その他から始まって。これらの事情は、映画企業に当る者、製作に当る人々の精神、感情、処世の智慧にも及ぶ関係をもっているのである。
 既にはっきり予見されているこれらの困難を製作者と観衆とはどのようにのり越え、企業性や統制の方向と折衝してゆくであろうか。今日の社会生活の全面にあらわれている多難性が、ここにも映っていると思われる。最近日本映画の優秀作品として「若い人」「路傍の石」「冬の宿」「鶯」その他長篇小説のいくつかが映画化され日本としての高い水準を示したものとされた。文学の作品を映画化して行こうとする製作者の心持のうちにある現実への真面目な要求はよくわかるところがある。けれども、今日、すこしみがありおのずから触れるところのある映画を製作しようとすると、題材を既に出来上っている文学作品に求めなければならないところに、映画の成長としてこの問題があるのではなかろうか。日本映画の内的世界の歴史的な一種の立ちおくれが感じられる。
 更に、従来日本の文芸映画或は芸術映画につきまとっていた作品の気分的な効果を狙ってのまとめかたというものが、今日及び明日において、どのように脱皮されて行くだろうかということも考えられる。現実の一断面を作品にするとき、或る気分で貫いてまとめるという在来の手法は、手近なかわり作品のリアリスティックな深度や規模を一定の範囲にとどめがちであるということは、映画も文学も同じであろう。文芸映画とその観客の層との生きた関係でみると観客そのものがそもそも気分的なものに誘われて、気分的な主調でつくられた映画を観て益々現代に生きる自分たちの或る気分にもたれかかるような場合も想像されなくはない。今日のいい評判というようなものの実際の裡には、そういう要素も決して少量ではない割合で混りこんで来ているのではないだろうか。
 文学作品に対する健全で人生的な発展的鑑賞の気風が昨今は低められている。それ故、例えば文芸映画についても、文学作品そのものへの鑑賞が無規準ななりの或る好評に招きよせられて映画化し、その映画化によって、じかに文学作品をよこよりもっとうわすべりな受けいれかたをひろめるという結果も生じ易い。文芸作品が映画化されてゆくことは一見相互的な活況のようであるが、その実微妙な本質の部分で、却って今日の文化の消極の面が働いているかもしれないのである。文芸映画をつくる人々と観る人々とは、その重大な点をどのように考え又感じ、押してゆこうとしているのであろうかと関心がもたれるのである。こういう点について、私たちは単に観せられる人々であってはなるまいと思う。
 優秀な日本映画が高い水準を示しつつあると云いながらも、その幾つかの峰と、文化以前のところにまで長く暗く重くそして広く引きずられているその裾の部分との間には、何と深い社会生活の姿が浮き上っていることだろう。労働能力だけは現代最新技術に適応して訓練されているが、文化面では渾沌におかれている夥しい数の青年男女が彼等と彼女たちの僅かの時間と金銭とを、嬉々としておどろくような情熱をもって映画に投じている。高杉早苗の新婚旅行の首途に偶然行きあわせたと云って、翌朝は工場のストーブのかげで互に抱き合い泣かんばかりに感激する娘たちの青春に向って、その境遇さながら、最もおくれた感情内容を最新の経済と科学の技術で結び合わした情熱の消耗品がうりだされている現実である。
 詳細にみると、映画においてはその技術的前進に語られている人間の勝利と、その技術をもって語る作品内容の社会的相貌、人間性の勝敗の様との間に常に鋭い歴史性を反映するギャップがある。そのギャップを原則的にうずめ得る文化をもつ国は例外であって、映画の技術によって拡げられた国際性、短縮された時間の観念などにさえも、その根底的なギャップの本質が作用して、或る事情のもとでは人間の勝利である映画技術の縦横のリアリスティックな駆使をはじむるに至る。この環境的な映画の性格についても観るものの生活意慾は何を感じるであろうか。
 地方の目立たない小都市や村々の中へもちまわされる映画の性質とそれを観せられる人々の生活とのいきさつも複雑であると思う。東京では見かけないような特殊なものが地方まわりをしているらしい。啓蒙をめざされているとしても、感情や主題が非現実的で中央ではまさかこうは表現されないが、というようなものであれば、結局どういうことになるのだろう。
 今日の観衆は、又、大人の感情で子役をつかう所謂童心を描く映画に対して、もっと清潔であってもいいのだと思う。無制限に甘え合わないでいいと思う。文学の作品としてそういう境地に種々の問題があるように、映画にしても考え直さるべきところがある。
 文化映画の将来性、ニュース映画の豊富性、いずれも今日の文化の大きい内容を占めるものであるが、文化映画統制委員会というところは、文化映画の目安をどのようなところにおくのであろうか、これも映画を観るものにとって知りたいことである。映画製作が、種別に統制されるという企画は、日本が初めてではない。既に永年その方法でやられているところがある。やはり知りたいのは、その企画における文化としての質と量との比重であろう。
 あらゆる面からそのおもしろさを求める点においても、映画を見るものに益々人間らしい人生的な判断の必要が増して来ているにほかならないと思うのである。
〔一九三九年二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「三田新聞」
   1939(昭和14)年2月25日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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