生産文学の問題

――文学に求められているもの――

宮本百合子




 文学とは何であろうか。そういう問いは私たちの日常生活の裡で、極めて変化の多い形や感情をとってあらわれて来ていると思う。問いが原形のままに感じられることもあり、現在ある文学作品に対する肯定、否定の態度でそれが示されることもあり、時には作家と読者との微妙な組み合わせの姿で、一般が或る作品から他の或る作品へと何か満たされぬ心をもってさがし求めている有様として、文学とは何であろうかという問が現出している場合もある。
 最近の三四年の生活を顧ると様々の転形に於てその問いは激しく人々の心に在って、而もそれに対する答えは、形の上で矢つぎ早に提示されつつ、しんのところではいかにも尻切とんぼに終って来ている気がする。そのために、近頃では益々、文学とは何であろうかという心持が目醒まされ、文学らしい文学に対する飢渇の感覚が一般にひろまって来た。ところで、昨今感じられているその飢渇感には、僅か二、三年前には知られなかった生活的な諸経験がたたみこまれているから、文学とは何であろうかという思いも、一層沈潜して強く流れかかっているのは注目すべきであると思う。

 この一年二年は、時間だけで計られない内容をもって社会生活が変転した。変転する社会の相貌に応じて、文学の分野の謂わばモードも転々したのであるが、今日ではそのような文学の形をとった上波が、つまりは文学というより寧ろ文学によって扱われるべき世相の一つの姿であって、文学とはその様な人間関係の、心理の、何か一皮むいたもの、何か見抜いたところのあるもの、人間として我々の生きつつある真実のうちにひそめられている感動にふれて来るものとして、求められ始めている。人生を語るもの、知らしめるものとして文学が求められて来ている日々がこのようにして迎えられ送られている。その真の姿を確りと見直したい心が文学へ真面目な眼差しを向けようとしている。そこでは、矛盾の諸相も現実のものとしておそれられていない。島木健作氏の「生活の探求」に向けられて行った時代のやや素朴であった一般の人生的な良心も、その点では今日の現実によって成長させられていると思われるのである。
 あの作品は、今日に到る日常生活の雰囲気の急転の初めの時期、客観的にも正しいと納得することの出来る生活の基準を模索していた一般の心理が、作者の或る意味での敏感な社会性に反映して生れた作品であった。作品の題名にも現れている作者の体勢が、人々をその内容に向っての興味、期待にひきつけたのであったと思う。生活の在りように対する関心では、この作品と読者の良心とが同一面に顔を合わせているかのようであって実は決してそうでないものが、「生活の探求」の底に埋められてあった。

 あの作品の主題は主人公駿介にとって最も必然的であるべき事物のありよう、その事情に従っての現実的な心持の動きかたという発端が、先ず一ねじりされたものの上に展開されていた。その一ねじりは作者にとってそれから後をプラン通りに運ぶ便宜上役立ってはいたが、あるがままの現実に面してそれを掘り下げて行こうというには、主題が現実の多難性の前で捩れて、裏がえしとなって、読者の心が求めているものとは背中合わせな本質となっていた。全篇の組立てが、作品の主題に於る微妙な一点での一ねじりあって初めて可能であるというこの作者の方法は他の作品にも見出される特徴である。そのような現実に対する作品の本来は負の骨組みを覆うて、作品の現実性を信じさせる条件としてこの作者は一方で小説の細部の具体性は実に洩れなく書き堅める用意を忘れないため、一層その主題の一ねじりに於て加えられている作者の意識しての手の力は、人生への強引、文学への強引として印象づけられるのである。
 二ヵ月ばかり前の『新潮』に同じ作者の「伊豆日記」というのがあった。伊豆の温泉での文壇交友日記のようなものであるが、その中に、「プチット・ファアデットを読む。この小説は自分には不満だ」とあり、その不満の理由として、ジョルジュ・サンドが、この作中でカイヨウという農夫が若者ランドリイに牛の扱い方をどういう風にするか自分でやって見せたとだけしか書いていず、そのどういう風にするかを実際に描き出していない点をあげている。岩波文庫では「愛の妖精」という題で訳されているこの物語の、条件的ではあるが否めない全体の美しさ、不仕合わせを、そうでないものにかえてゆくファアデットの女らしく而も健気けなげで人生的な気力とそれを語る作者の情熱の味いを知っている人々にとって、正直なところ島木氏の不満とその不満における自信は、一つの唐突さと滑稽とを感じさせるものではなかろうか。

 一つの例にすぎないが一作家における以上のような、現実からの作品の創り出しかた及び、文学作品の世界としての現実の受け入れかたを見較べると、おのずから再び文学とは何であろうかというところ迄立ちかえって、考えさせられるものがある。「どういう風にするかの実際」だけを抽出して描写することで文学としての生命が与えられるものであるならば、題材は豊富であろうし、技術的な実際に即して「どういう風にするか」の説明にも窮することがないであろう。生産文学と呼ばれる作品が、何故今日、その隆盛のために却って一般の心に、文学とは何であろうかという本質的な反問を呼び醒ましつつあるのであろうか。
「麦と兵隊」に、死んだ支那兵のポケットにまだ動いている時計を見つけた主人公が、それをそのまま元へ戻してやる情景が描かれている。読者の記憶にのこる効果で描かれている。だが、そのように効果的に描き出された成功よりも更に深く横わる文学の問題、一箇の芸術家がこの人生にいかに面するかの問題は作者火野葦平氏がその効果と、優者の襟度としてのそのあたたかさを、自身に向ってどう見ているかというところにこそかかっている。生活の現実は人の心をひき緊めているから、文学に向う目もそこまでは及んで来ているのである。
〔一九三九年四月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
   1939(昭和14)年4月17日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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