女流作家多難

――創作上の諸問題――

宮本百合子




 どうもこれは大へん難しいおたずねだと思われますね。こういう質問を受けて、私が返答に困るのは、いってみれば、今のような世の中での生活は重荷がベタ押しで、取り出して見れば経済的な重荷、女として経験しつつある重荷、および作家として文学的に感じている責任から来る重荷、こういうようなものは普通のことですからね。
 私なんかの生活の気分ではこれらの重荷を重荷として自分が押しつけられてしまわないように、自分として一番正しいと思われる方法で、それらの重荷をくくって肩へになって、になったままえいえいと歩いているような状態です。よく作家活動に関して昨今のような世の中で不安や動揺や憂鬱を感じないのは鈍感だといわれる言葉を聞いたりしますけれど、私の正直な感想はそういう言葉そのものがかえってある鈍感さを示している気がしますね。苦しいとか、重荷があるというのは、こんにちではいわずと判ったことで、問題はむしろそれらの重荷の意味、性質を理解すること、それを歴史の発展の方向にそって処理してゆくことが生活の日常の問題で、憂鬱だとか、不安だとか、坐っていっているひまがある、そのことが実はそうひどい重荷を背負わされていないということになるのではないかと思われる点もあります。
 こう話すと大へん抽象的な答えであって、少し冗談をいえば、私に生れつきもうちょっと気のきいたジャーナリスティックな答を思いつく気質のないようなところが重荷の一つであるようなものですが、考えてみるとなかなか面白いと思う。つまり私のように重荷として考えてみれば実際日常すべての面に重荷を負っている者が、その荷の現実的な性質とその必然性を自分なりに理解していることで、心持の上では、刻々重荷とは感じないで生きているということ、そういう人間の生活に対する力というものは面白いものであると思う次第です。
 いつぞや窪川稲子が『婦人文芸』に現代の婦人作家が社会生活の点から負うている重荷のことについて書いていたことがありますが、実際、今日の社会で女としての生活、婦人作家としての生活をふたつながら立派に打ちたててゆくということは非常な努力のいることであります。
 芸術的創作というものはただ自分の負うている重荷を重荷としてだけ感じたところで、それは芸術品として創りあげられるものではなくて、やっぱり広い目から自身の重荷の本質を見きわめてはじめてそれを作品化することができる。だからさまざまな点で大きい意味のある社会的な経験をへたとしても、その婦人に十分の把握力がなければ作品としてそれだけの客観的価値を持つことが困難になってきます。
 このことは私どもが自身の問題としてしばしば経験していることであるし、また、昨年のうちに発表された野上彌生子さんの「小鬼の歌」という作品などは、その点について大きな警告を婦人作家に向ってあたえたものといえると思います。婦人作家としてあれほどの努力家であり、鍛錬も積まれている野上さんでも、ああいう自分の妻、母として直接に生活に迫って起った問題に対しては、あの作で扱われた範囲においては、結局良人の世界観の限界を自身の芸術家的限界としてしまっている点、そのようなワクがいつとも知らずに自分の芸術的生涯にかけられているということ、それを自覚されない無邪気さ、そういうものについて私は強烈な印象を受けました。
 野上さんはこのことを、どの点まで日本の婦人作家が負うている重荷として自覚しておられるでありましょうか。私は野上さんを尊敬しているし、努力的な勉強にも学ぶべき点を発見していますが、この一点に関してはおそらく作者自身より、あるいは野上さんが十分自覚されなかったであろうほど、それを社会的な意味で自分自身が作家的生涯において解決の端緒をあたえなければならない重荷のひとつとして感じているようなわけです。
〔一九三六年七月〕





底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「読売新聞」
   1936(昭和11)年7月28日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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