生活者としての成長

――二葉亭四迷の悲劇にもふれて――

宮本百合子




 三四年前、いろいろなところで青年論がされたことがあった。そのときは、現実の社会生活と文化との間にヒューメンなものの可能を積極的に見出してその成長や開花を求めてゆこうとしていた日本の精神のあらわれの一つとして、多くの可能をひそませているはずの人間の青春、青年が評価され直したのであったと思う。
 このごろまた雑誌や演説で、ひどく青年は呼びかけられているし、激励されているし、期待するところ大なりとされているのであるが、あのときの青年論とこの頃の青年へのよびかけには、どこかちがったところがある。
 何故なら、三四年前青年の人生への価値、未来への期待が語られたときには、主として青年が自発的に自分の存在の意義を発見して、この歴史の進歩と人類のために役立ってゆく美しさについて語られていた。ところが、近頃はめいめいは自発して自己の価値を自覚しなければならないという表現よりも、「諸君は」と、一括した青年群として呼びかけられ、一括した精神と行動との必要に向って注目することを求められている。そして、その声は大変大きくつよく響いているのだけれど、現実には、この間、『都新聞』に詩人の萩原朔太郎氏の書いていられたような青年の無気力という現象があらわれてもいる。
 ここに極めて入りくんだ現代の青春の問題が潜められているのではないだろうか。呼びかけの声はちょうど往来を私どもが歩いているとき頭の上できこえるラジオのラウド・スピーカアの声となって空に響いてはいるけれど、それに交る電車の音、群衆の跫音もあって、何となし心にずーっとしみこんで来ない。語られていることにも種々様々の疑問があって、それをただしたいにも時の流れの瀬音は騒然としていて、そんなしんみりとした時間のかかるものの追究のしかたは昨今はやらないという気風もある。そういうところに一言や二言で云いつくし現しつくせない若い精神の苦悩があるのではないだろうか。

 この間安倍能成氏が一高の校長となったときの何かの談話で、現代の青年はさまざまの外面的な慰安を求める代り、友情に慰安を求めよ、という意味を云われたということをきいた。安倍さんという人は漱石門下の一人で、昔は「大思想家の人生観」というしごく尨大でわかりにくい本の翻訳などもやり、今なお老いて若い心があって、青年の大先輩として思いやりのあるひとの一人であろう。友情に慰安を求めよ、と云う言葉のなかに若い胸にふれて来る暖かさがあるだろうと思える。友情にしろ人間成長の過程では実に波瀾のあるもので、直接に生活態度を反映する点では恋愛とひとしい。その人それぞれの人となりや好みや属している社会の圏やそれらの境遇上の条件に対するそのひとの態度などというものを綜合的に反映しているものである。友情に慰安を求め得るために、人は先ず信頼に足る人物でなければならず、理解力のひろく明るい精神のもちぬしでなければならず同情という能力をもたなければならない。わからないところはどこまでもわからして行こうとする真摯な真面目さをもった人間でなければ、決して永続性のある成長のためのよろこびと協力とにみちた友情は持ってゆけっこないのである。そのこともやはり恋愛の真髄にふれている。
 安倍さんの言葉は、或る価値をもってある種の青年の心をめざましたろう。大学というところを就職のための段階という風に考えている若い人も相当あって、それらの人たちは就職線に向っては互に競争者の関係におかれるのだから、そのような人間関係のなかに健全な友情の生い立とうはずもない。ただ通り一遍の学生のつき合いがあるにとどまる侘しさがある。そういう心に向って、友情を慰安とせよ、と云われた声は、何か新しい関心を誘ったことではなかったろうか。
 だが、友情というものも、その他の人間の多様な愛の感情と全く同様に架空に抽象に存在はしないから、やっぱり相結ばれる心と心とには共通な人生への態度、現実への理解の一致がなければならない。その点で、友情を慰安とするということは、決して気分的な問題に止る性質でなくなって来る。また野心と野心との共同作業というものでもあり得なくなって来る。野心の結合では、一方の野心が充足されたときまたは野心の傷けられたとき、たちまち友情は破れるのである。

 今日の若い心は、自分たちの間にそのような友情が見出される可能を、どの程度信じているだろうか。ここに青年たち自身の今日の課題があるのではないだろうか。学校を出る、すぐ兵役の義務に服する、そのとき既に友達は八方に散るのである。三年ぐらいはたちまちその条件のうちで経過する。その三年間就職しつづけた人々と、新たにそれから後に就職する人との間にはおのずから隔たりがあるのが普通である。安倍さんの青年時代のように、学校生活につづいて研究の時間がのびやかに前途にひらけていないのが今日の青年の生活が歴史からうけている条件である。世俗にみて就職がおくれることを問題としなくても、学問上の研究をその間途絶えさせることもある。
 現代の若い心は、さけがたいそれ等の義務に直面していて、雄々しくそれを果していると思う。戦争が世界的な規模になって来ている今、若い世代は次第に沈着にめいめいの運命を担って最善をそこにつくしてゆく健気な心になっている。友情もそれらの波瀾を互の人生的なものとして凌いで行こうとするその雄々しさと思いやりとで結ばれて行くように変化しつつあると思う。友情も新しい形でその可能を見出されつつあるのである。
 青春というものは誰にとっても経過する人生の一時期であるけれども、その経過のしようによっては、歴史が全く夥しい人々の青春を単に消耗するという結果になる。この事実を、人々はどう考えているだろう。一人一人の青春のおのずからな経過と歴史の力がそれを消耗してゆくこととの間には同じでないものがある。それを人々はどう感じているだろうか。この関係はもとより今にはじまったことではなくて、人類に社会生活が形づくられたはじめからあるわけだが、歴史の特殊な激動期にこの関係は非常に緊張して来る。或る種の人々はその緊張のために思考する力を喪って、より強烈な需要に自分の生活を吸収されつくしてしまう。経験が歴史の推進にとって重大な価値をもつのは十分な自覚と観察と判断と結論とが種々様々な思考と行動との間からまとめられて来るからであろう。そのとき一つの歴史が生きて経過され体と精神とによってためし験されるということが出来るし、人間として歴史に働きかけてゆく能動の力が生じるのである。
 どんなに歴史が強烈に動いても、それは人間の動きから発するものであるということは明らかなのだし、そうとすれば、人間の義務はあらゆる場合に、歴史に消耗されっぱなさず、歴史に働きかける力としてめいめいが存在しなければならないことにあるのではないだろうか。そして、この歴史に働きかける力としての存在の姿に、いろいろ私たちを考えさせるものもあるわけである。

 明治文学の歴史を少しでも知っているものは、二葉亭四迷という作家の名の価値を否定しないだろうと思う。二葉亭四迷は明治二十年に小説「浮雲」を書いて、当時硯友社派の戯作者気質のつよい日本文学に、驚異をもたらした人であった。硯友社の文学はその頃でも「洋装をした元禄小説」と評されていたのだが、そういう戯文的小説のなかへ、二葉亭四迷はロシア文学の影響もあって非常に進歩した心理描写の小説「浮雲」を、当時は珍しい口語文で書いたのであった。
 文学を真面目に考えていた少数の人々は二十四歳であった二葉亭のこの作品から深刻に近代小説の方向を暗示された。坪内逍遙が戯曲と沙翁劇の翻訳に自分の一生を方向づける決心をしたのは、この二葉亭の小説の深い芸術の力にうたれて、小説家として自分の天質のうちにある浅薄さを知ったためであった。逍遙は率直に自分でそのことを書いている。
 ところが、文学の仕事というものは明治二十年代の日本で、硯友社が繁栄を極めていた程度の遊戯性で一般からみられていて、作家が歴史に負うている責任をその文学的業績のうちに見るというような水準まで来ていなかったから、二葉亭の作品は一部に高く評価されつつ、一般受けはしなかった。何しろ文学を愛する奴なんぞは、くたばってしまえと親爺から怒鳴られた思い出によって、長谷川辰之助は二葉亭四迷という筆名をつけたというような時代であった。
 二葉亭の苦悩は、文学というものがもし現在自分のぐるりに流行しているような低俗なものであっていいのならば、文学は男子一生の業たるに足りないものであるというところにあった。二葉亭自身は、人生と社会とに何ものかをもたらし、人々に何かを考えさせ感じさせる「人生の味い」をふくんだ文学を文学として考え自分の作品にそれだけのものを求めていた。しかし、日本の当時の文学をつくる人たちはそのような文学の使命を一向に感じず、求めようともせず、遊廓文学めいた作品をつくっている。
 この煩悶を二葉亭四迷はついに文学の内部で解決する方法を見出すことが出来なかった。そこに、彼の時代の悲劇と彼自身のものの考えかたからの悲劇とがあったと思う。二葉亭四迷は「浮雲」によって日本の文学のために極めて意義ふかい発足を行い、ゴーゴリ、ゴーリキイ、ガルシン、アンドレーエフなどの作品を翻訳紹介しつつ三十九年には「其面影」四十年には「平凡」と創作の業績を重ねながら、目前の日本文学一般がおくれていることへの不満のはけくちを、日清戦争後の日本がさらにシベリアへ着目していた当時の国士的な慷慨のなかに見出した。そして、朝日新聞社からロシア視察旅行に赴き、あちらで発病して、明治四十二年五月帰途の船が印度洋を通っているとき病歿した。
 二葉亭の悲劇は決して旅の半ば船中でその生涯を終ったことではない。彼の悲劇は、あれだけ日本のために文学をもって働きかける力をもっていたのに、周囲のおくれていたことに本質的には敗けて文学の理想は大きく高く懐きながら、その道から逸れて行った心理のうちにある。通俗の目にすぐ肯ける男子一生の業にうつったところに悲劇があるのである。
 現代の世界の波濤は、二葉亭四迷のこの悲劇を再び案外に多くのところで、若い命の上に反覆しようとしているのではないだろうか。
 二葉亭四迷の行うべきであった義務は、日本の文学の成長を根気づよく支持し、援け、力の限りそのための養いとなる条件をふやして行って、自分の理想とする文学創造の可能のためにたたかうことであった。それにくい下って離れるべきでなかった。文学は、まぎれもなく男子一生の業として足りてなおあまりあるものであるということを明かにするべきであった。文学はそれだけの命と社会的奥行をもつものである。
 二葉亭四迷もこの面からみれば、歴史の力に消耗されることを自身にゆるした瞬間、悲劇の一歩をふみ出しているわけである。
 現実に面してひるまない精神ということと、何が出ようとも何とも感じず常にそこから自分にとって一番好都合の部分をかすめとって来る機敏さというものとは、全然別様のものである。歴史に働きかける力としての存在ということも、いつも立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということとまるでちがう。

 科学者が真に科学者であるためには沈着な勇気と歴史への洞察と人間は結局合理的な生きものであるということへの信頼とを、つよく胸底に蔵さなくてはならない時代がある。科学の世界にだって、流行というものはある。それが近代の宣伝術というものときりはなされない時代性格である。昔錬金術というものがあって今日の人の目はそれが科学でなかったことを知っているのであるが、それなら何人の努力の成果に立って、きょうの科学は錬金術の非科学性を明らかにして来たのであったろう。決して決して錬金術師達の口伝からではなかった。錬金術が背後の楯としていた中世の宗教の暗い恐怖すべき力と向いあって、しばしばその恐怖に圧倒されそうになる自分ともたたかいながら、錬金術への疑問を、現実があらわす客観的な真理にしたがって謙遜に解きにかかって、おそらくは目立たぬ生涯を硫黄くさい幼稚な設備の実験室で費した無名の何人かの人々の業績の永年のつみ積りを、忘却することは出来ないのである。
 美しさはそのようなところにもある。そのような歴史への働きかけは一見まことに見事らしくないが、しかも大きい河が河の中にやがてそこに都市の建てられる三角州をつくるとき、どの砂粒がその大きい自然の作業に参加するに余り艷の目立たないただの砂粒であることを自身にとって下らないこととしただろう。
 新しい日本の生活というものは、希望とか要望とかいう生やさしいものではなくて、この刻々のうちに木炭切符のなかから砂糖切符のなかから湧き出して来ている現実である。青年の成長力にとって、下宿の食物は益々空腹を充すに足りないものとなりつつあるその現実から、うそのない新しい日本の姿が立ちあらわれて来ている。
 もし青年に新しい日本の担い手としての期待がかけられるのならば、それらのあらゆる現実を落着いて自分たちの経てゆく生活史のなかにうけとりつつ、歴史に消耗されず、そこからめいめいの建設を見出してゆかなければならない、そのような今日の時代の鍛錬が今日の若い世代を、小市民らしい自己偸安に成長した前世代人より、立ちまさった客観力もそなわった生活者にするであろうということ以外にはあり得ないと思える。
 青年の精神は豚ではない。くわせば何でもくうものではないであろう。青年の精神はどっさり並べられた空壜ではないであろう。注ぎこめば何でも入る、そういうものではないであろう。
〔一九四〇年十一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「法政大学新聞」
   1940(昭和15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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