文学は常に具体的

――「国民文学」に望む――

宮本百合子




 生活的な真実というもののあらわれは、非常に多種多様だと思う。
 国民文学が単一に民族伝説(サガ)だけを自身の内容とするのでないことは明らかなわけだから、生活が年々に経てゆく現実の諸相から諸種の文学が生み出されて、そのものの文学としての真実で、国民の所有する文学の宝庫をゆたかにして行って自然だろうと思える。
 文学というものの興味つきない胎内では、民族がある時期に遭遇している特殊な歴史の相貌や要望やらというものを、それなりで結論とはしていない。「イリヤード」や「オデッセイ」にしろ、経験された事象が、その経験された時間と空間との中から、もっと雄大な歴史的時間の感覚のなかに放たれて、そこでうたわれ、描き出されているために、その芸術性の故に、普遍性をもっている。
 芸術の永遠性ということをいわれるとすれば、それは自己肯定の狭隘を破って、経験された事象が前後につづいて動いている尨大な歴史の上に照らし出され、しかも内容の一つ一つが具体的なそのときの真実にみたされている場合である。
 日本の精神が雄壮であるということは、あらゆる人々によって承認されている。雄壮という資質は腕力的ということでないのは知れきったことであるし、真の雄壮は、感傷的な自己陶酔を最も厭い嫌って、真実を愛そうとする天質であることも、言をたないであろう。
 国民の文学という場合、自身の雄壮を自身の耳に向ってうたう感懐に立ったロマンティシズムのほかに、国民の日々の生活が刻んでいる像を、あらゆる真実の姿でうけいれ、創り出してゆく旺んな創造力の発動にたえるだけに、日本の雄壮な精神も成熟して来ていい頃であろうと思う。
 文学は具体的にしかありようのないものである。人間というものが土台からそう出来ている。従って国民のもつ文学、国民の愛する文学も、つづまるところは、個々それぞれの作品であり、個々のそれぞれの作品はとりも直さず日本の農村の生活が生きる姿で描き出されている制作であるし、いろいろの職場で働いている人々、或いは働く職場の失われた人々の物語でさえも、万民の生き経る波瀾への共通な愛から評価されていいものなのである。
 ものごとの実体が一つのものから他のものへと転化してゆく瞬間は、何という機微だろう。
 私たちは笑いの功徳を十分知っている。それだからといって、もし始終笑うことしか知らない人を見たら、誰しもそれを正常な心理の人として見ることは不可能であろう。
 文学精神の明るさというものは、現象に目を奪われて、ものごとの一面に明るさを、他面に暗さを単純な対比として感じとる範囲でいわれるべきではないであろう。もっと、事象を歴史の上に射透す精神の光波をさすべきであろう。明暗をひっくるめてその関係の生きて動きつつあるそのものを、よりひろいより大きい時間と空間との中に再現したとき、人間は常に進歩を欲しているものだがまた常にそれは矛盾におかれている、その生々しい人間真実の悲喜をうつしたとき、文学精神の明るさも、いうに甲斐ある透った明るさとなって爽やかに輝くわけだろう。
 文学の明るさをいうとき、私たちは、そこいらの高さまでを念願して、それが自然なのであろうと思う。
〔一九四一年四月〕





底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「報知新聞」
   1941(昭和16)年4月24日号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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