最近の二年ほどの間に、婦人作家の活動はかなり活溌にあらわれた。
それにはいろいろ複雑な理由があると思うけれども、第一には、過去十年ほどの間多くの困難を経験しながらそれでも文学はすてずに努力して来ていた婦人作家たちが、文学の技術や生活経験においてその人々なりにある程度に達して来ていたとき、現代文学がめぐりあうようになった深く大きい動揺につれて、婦人作家の存在が一般の活動の裡へ登場して来たことがいわれるだろう。
外部の条件として、インフレ出版と呼ばれるような出版の活況があって、一面ではその乱暴な出版洪水のために、文学は荒らされているのも現実である。婦人作家の文学業績も無責任に商品化されてゆく危険があるのだが、めいめいの心がけによっては、こういう時期をも将来の自分たちの成長のための何かの条件として本当の意味で積極的にいかして行けないものでもないと思う。
これは、この一、二年急に文学を読む読者層がかわって来たという事実とも
現在では日本の婦人作家の性格、個性がまだまだ弱い。持ち味というような範囲でその作家は他の作家から自分をわけている範囲だと思う。
題材的には数年前になかった変化があって、例えば大石千代子氏のブラジル移民を描いた小説、小山いと子氏の「オイル・シェール」のような題材のもの、川上喜久子氏の朝鮮を背景とした作品など出ている。そのほか多くの婦人作家たちが、満州、支那、南洋へと見学にも出かけている。
十年前なら、秋の奈良へ行って博物館や法隆寺を見ていた婦人作家たちが、今日は満州だの蘭印だのへ出かける。
そういう風に動きの領域がひろがったことは、次第に婦人作家たちの内的世界をもひろげて行くのだけれど、今日ではまだその目で見耳にきかされることを十分理解し、洞察し、判断し、事の真実にまでわが心情にふれて行って芸術的な作品を生み出してゆくところまで婦人作家の生活と芸術の母胎は強靭になっていない。題材的にひろがった作品の多くは、芸術の美を持つのが困難な姿であらわれているのである。同時に、今日の婦人作家が、今日私たち女全体が身に経つつある転変について余り代表的な作品をおくり出していない事実についても、何故であろうかと考えさせられる。そういう現象をもたらしている内と外との事情があるとすれば、それはとりも直さず婦人作家の明日の成長にかかわることとして考えさせられることだと思う。
〔一九四一年五月〕