『新日本文学』に「町工場」という小説を発表した小沢清という若いひとが、「軍服」という小説をかいた。小沢清は勤労者の生活をしながら小説をかくようになった青年である。
まだ試作というべき作品であるが、「町工場」は、へんに
「軍服」には十日間で免除された召集中の軍隊生活の経験がとりあげられている。この間までの数年間、日本じゅうの青年の恐怖や苦痛、忍耐の経験の一つの表現である。この題材がとりあげられたことはよかった。が、「町工場」の題材とちがって、国家の権力によって組織されていた一つの巨大な野蛮と殺りくの全体系の一部分を題材としたのであるから、作者が題材としてきりとって来てそこを描き出した一片の経験は、短期間の、比較的平穏なものであったにしても、人民の芸術として読みごたえのあるものになるためには、書かれる一行一行の奥ゆき、それを貫いて底まで届いている浚渫船の鉄網のような作者の理解が必要とされる。「軍服」は、この作者のもっている自然ないいところと、自然でいいというだけでは、複雑な社会機構を描くに不十分であるという事実とが、くっきり出ている。作者にとっても読者にとっても、なかなか面白い勉強の材料である。
日本の軍隊は、非常によく組織された殺りくのシステムであった。日本の警察とスパイのシステムが世界に冠たるものであるように。それは十四年間の戦争中に、戦争の段階に応じて残酷さの程度をまして来た。特攻隊をつくり出すまで非人道になり、絶望した若い人々を、そのせっぱつまった心理から、猛然として敵前上陸でも何でもしてしまうようにもって行った。ちゃんと心理的にそういう戦術をつかった。このことは、将校教育をうけた人は知っていよう。
「軍服」は、何年ごろの、軍隊経験であったかということを作者は、はっきり書いていない。小さいことのようだが、これはこの作品の真実性のために大切である。もうすこしあとになってからの軍隊は、「軍服」よりもっとえらいところになったのだから。何年のこと、がはっきり示されると、日本じゅうのどっさりの読者の心に、俺の時代はこうだったと自分たちの軍隊生活の経験、野戦での経験が思い出されて来て、作品はいっそう感動をもってよまれる。同時に、どこかでまた、ああ小沢の時代はこうだったか、自分らはこんな思いをしたのだ、と、何か一つ書いてみたい心をめざまされる人もあるだろう。小説は、決して書かれて読まれるだけのものではない。生きているものである。読者に、何心なく、あるいは夢中ですぎた人生の一部をまた生き直させそのことで現実をよりゆたかに正確にその人のうちに構成するものである。
「町工場」という小説は、たとえていえば板塀にある節穴から、街頭をのぞいているようなもので、小さい穴からでも目の前を動いてゆく光景のうつりかわりはよく見えた。そういうなだらかさ、癖のないというだけのきりこみでは「軍服」の軍隊生活という特別な、常識はずれな生活の立体的な空気、感情の明暗、それに抵抗している主人公三吉の実感が濃くうき上って来ない。戦友としての人間らしいやさしさ、同時に行われる盗みっこ、要領、残酷、
〔一九四七年三月〕