心に疼く欲求がある

宮本百合子




          一

 こんにち、私たちの生活感情の底をゆすって、一つのつよい要求が動いている。それは、日本の現代文学は総体として、その精神と方法とにおいて、きわめて深いところからきかえされる必要があるという疼痛のような自覚である。
 この欲求は、こんにちに生きる私たち多くのものにとって理性の渇望となっている。
 五年来、現代文学は、社会性の拡大、リアリティーのより強壮で立体的な把握と再現とを可能にする方法の発見を課題として来た。そのための試みという名目のもとには、少からぬ寛容が示されて来た。しかし文学現象は、その寛容の谷間を、戦後経済の濁流とともにその日ぐらしに流れて、こんにちでは、そのゴモクタが文学の水脈をおおいかくし、腐敗させるところまで来ている。ちかごろあらわれる実名小説というものも、そこにどういう理窟がつけられようとも、日本の現実におけるそれらの作品の大部分は、私小説から一層文学としての努力をぬきにしてそれを裏がえしたものにすぎない。現代文学の方法が、そのようなタコ壺にはまったとき、われわれの心には五年間の寛容について、責任をかえりみるこころもちがわいて来ている。
 日本の文学は世界の激しい前進を、より多く逆流としてうけて、最近の五年間、いわば年ごとに、タコツボに向って、おしころがされて来た。一九四五年八月十五日から後の、いく年間か文学上に発言のなかった今日出海によって、実名小説流行のいとぐちが開かれたことも、偶然ではない。一九五〇年度の文学現象のこのような特性は、それ自身として決して孤立した社会現象ではないのである。
 そのようなこんにち、一方では、社会的・歴史的な人類としてわれわれが生きている証左たる、理性の覚醒としての文学、を要望する思いが、切実である。広汎な読者がそれを要求しているばかりでなく、文学者自身のうちに、その要求が疼いている。
 こんにち、もっとも真率に探求的な態度で語られなければならないのは、理性の構成と機能、の課題である創作方法の問題ではないだろうか。しかもそれについて語りかたは、歴史の現実とともに急激に推進されて、わたしたちは、創作方法についてメリー・キューリー夫人が放射能を求めて、黒くて臭い鉱物を煮つめていた時代のように語ってばかりいることは許されない。こんにちジョリオ・キューリーが原子力の研究の人類的な方法について語り、それについて行動しているように、文学の方法も語られるべき歴史の段階に来ているのではないだろうかと思う。人間の価値は、こんにちおそろしいテムポで、その真実を露出しつつある。彼が何であるかということによってではなく、彼はいかなることをなしつつあるかという事実によって。創作方法の問題とその可能性についても同じように現実的な角度からしっかりと直視されていいと思う。私は私にとって一番そのプラス・マイナスについて遠慮なく語れる自分の四年間の文学実験について、そこにあらわれた問題を内と外との関係から見て行こうとする。

          二

「伸子」が書かれたのは一九二四年―六年のことであった。続篇を書きたいと思いはじめた三〇年のはじめから、断片的な試みがされたが、当時の条件がそれを困難にした。やっと一九四六年の初冬から、はっきり「伸子」にひきつづく作品として「二つの庭」を書きはじめ、「二つの庭」につづくものとして「道標」一部、二部、いまは第三部のおわり三分の一ばかりのところにいる。予定では、あと三巻ばかりの仕事がある。
「伸子」と「二つの庭」との間には、二〇年余のへだたりがあり、その時間の距離は、作者の生活をその環境とともに内外から変革させている。「伸子」をかいたときの作者は、全く自然発生にテーマにとりくんだのだった。女にとって苦しい日本の社会の伝統に対して示している抵抗と、そこにおのずからふくまれている社会性そのものも、それをそのように語ろうとして意識し計画されたのではなかった。したがって、作中の人物の分析にアンバランスがある。「伸子」のような女房をもった佃に同情すべきであるというような言葉が、著名なひとの文芸評論として登場したりした文学の時代でもあったのだった。
 戦後、「伸子」が十六七歳の少女の心にも通じる女性の訴として日常生活のなかによまれはじめたとき、わたしの心は、歴史のすすみの手がたさをおどろく思いで波だった。きょうの若い少女たち――女性は「伸子」よりははるかに前進した社会性と、自分を生かす可能をもっている。それにもかかわらず、日本の家、家庭、夫と妻の関係の現実の大部分には、なお彼女たちに「伸子」をひとごとと思わせない苦悩の要素が実在している。そうではあるが、それが二十五歳だった「伸子」によってではなく、十六七歳の若い女性によって自覚され、そこに抵抗と発展が準備されつつあるという現実は、作者に限りないいとしさと勇気とを与えた。
 一九四六年か七年に福田恆存が、ある文学を卒業する必要について若い女性へ語る文章をかいたことがあった。福田恆存は、宮本百合子の文学を早く卒業してしまうように、と忠告していたのだった。一つの社会が、ある文学を卒業するという場合、それは、どういう状態をさすのだろう。ある読者の人生経験の角度が、ある作家の人生と文学の角度とくいちがって来て、そこに共感が失われるという事実はしばしば起り得る。けれどもこの場合は、一つの社会が、ある文学を生きこしてしまったこと――卒業したことにはならない。「伸子」を書いたのち、一九三〇年の中頃から、私は、机の上において、何となしその頁をひらいて数行をよむことで創作への熱心を刺戟されるような文学を見出せなくなって、途方にくれた。けれどもこの経験は、日本の社会の現実認識の方法と文学評価が、全体として志賀直哉の文学を卒業した、という事実を語ることでないのは明らかである。「アンナ・カレーニナ」の悲劇がほんとうに卒業された文学になった、ということは、その社会に新しい人間性の全基準が生れ、新しいモラルのなりたつ社会的条件が確立した場合にだけ云われる。しかも、外部的にそういう社会条件がなり立ったばかりでなく、そのように新しくなった社会の成員の感情の内部までも、新しい発展に立つようになったとき、はじめて、「アンナ・カレーニナ」は一つの社会によって卒業された文学と云えるのである。
 ソヴェトの男女は、アンナ・カレーニナの悲劇のうちに生きてはいない。それだのに、どうして、芸術座はアンナ・カレーニナを上演し、名優タラーソヴァの演技は、世界の観客をうつのだろう。タラーソヴァと芸術座の演出者は、こんにち地球にのこっている資本主義の社会の上流で、アンナ・カレーニナの悲劇が生きられていることを歴史的・人間的悲劇と腐敗の現実として、しんからつかんでいて、云ってみれば、トルストイ自身が自然発生的な批判とそのリアリズムで描き出した社会的モメントを、一そう明確にして、それにたいしてより高次元のヒューマニティがたたかうべきものと認識した客観性で演出しているからである。
 一つの社会が、ある文学を生き越しきる、卒業する、ということは、社会史上の事業に属する。文学者は、この複雑で長い期間に亙る発展の見とおしに即して、自身の文学が、やがて真に生きこされ得る時代をもたらすようにと尽力する。社会主義リアリズムの方法は見とおしの長い方法であるはずだ。曲折にたえて、社会と個人の相互関係については、動的で柔軟な見とおしに立たなければならない必然が、こういうところからも説明されると思う。
「伸子」の批判的――と云っても主として被抑圧的な者の立場からの照明を与えられている――リアリズムの方法によって、「二つの庭」を書けない。わたしとしては、過去のプロレタリア・リアリズムが主張した階級対立に重点をおいた枠のある方法では、階級意識のまだきわめて薄弱な女主人公の全面を、その崩壊の端緒をあらわしている中流的環境とともに掬いあげ切れない。佐々という中流層の家庭の崩壊過程は、歴史の一典型として映っている。その下から、自然発生的に、やがては次第に意識的に、次代のジェネレーションに生きついでゆこうとする要素と、同じ環境から生い立って、その善意のすべてにかかわらず様々の道をとおって壊滅を辿らなければならない者と、それらも大なり小なりの典型として描き出そうと欲する。このような実験は、現在のわれわれとして社会主義的なリアリズムによるしかないと思われる。作者がこんにち立っている地点から、網がなげられるしかないのである。
 ところで、わたしには問題があった。社会主義リアリズムの方法は自身の経験のうちで意識して試みられた例に乏しいばかりか、一般にその方法の機能ファンクションについて、更にその機能の細部について、まだ見きわめられていない。大まかに、社会と人間の有機的な諸関係をその歴史の積極な方向――社会主義の展望において描き出す、という規定を土台としているだけである。プロレタリア文学の時代、その最後の段階で、「前衛の目をもって描け」と云われたことは、社会主義リアリズムへ展開して、もとよりその核心に立つ労働者階級の文学の主導性を意味しているのであるが、前衛の眼の多角性と高度な視力は、英雄的ならざる現実、その矛盾、葛藤の底へまで浸透して、そこに歴史がすすみ人間性がより花開くためのモメントとして、目にもたたないさまざまのいきさつまでを発見することを予想している。
 歴史は、それについて多くを語らない人々によって変えられている。その現実の詳細を、社会主義リアリズムは、自身の課題としていると思う。
「伸子」につづく「二つの庭」から「道標」の道行きを考えたとき、わたしは、作家として、とても目ざましい、というような方法をとれなかった。「二つの庭」にあるすべては、それらの問題をわりきってしまった者として生きる作家としての自分、などという風な高邁な気風に立って、蜿蜒えんえんとしてよこたわる中産階級の崩壊の過程と人間変革のテーマを扱う能力は文学的にないし、人間的にない。わたしは、これから担ぎ出して、あるゴールまで運ぼうとする材木の下にはいこんだ。そして、材木を肩にかつぎあげ、いわば身たけよりはるかに長い材木を背負わされた小僧の姿で歩き出したのであった。
 私は、こうきめた。「播州平野」をかいた方法で、この複雑でごたついた重荷は運べない。もうひと戻りしよう。「伸子」よりつい一歩先のところから出発しよう。そして、みっともなくても仕方がないから、一歩一歩の発展をふみしめて、「道標」へ進み、快適なテムポであっさりと読みなれた人々にきらわれるかもしれない、ばか念のいれかたで、「道標」のおよそ第三部ぐらいまで進んでゆこう。そして、女主人公の精神が、より社会的に、ほとんど革命的に覚醒され、行動的に成長したとき、作品の構成もテムポも、それにふさわしく飛躍できるだろう。それまで辛抱がつづいたら、この仕事も何かの実験というに値する、と。
 このような方法は、一歩か二歩先に、出来上ったものとしてあるように考えられている社会主義リアリズムの方法として、型破りであるし、誰が見ても低い程度からの試みである。けれども、社会主義リアリズムが、真に現実にたえる制作の方法であるならば、ひとりの作家がその実際の条件にしたがって、ごく発端的な一歩から描き出し、永年の過程のうちにより広い歴史の展望とそこに積極の要素となってゆく人間の物語の延長にもたえるはずではないだろうか。手早くつくられてゆく物語の面白さというのではなく、人間がまどろしく生きてゆくかと思うと、あるとき案外な飛躍もするその歴史の面白さを物語る、その感銘が生み出せないと云えるだろうか。わたしのところでは、はじめから社会主義リアリズムの方法によって描く、という、説明として通用しやすい手段はとられなかった。作者としての見とおしはあるものの、あらわれたところでは長篇の肉体そのものの螺旋形上昇とともに、その内側で社会主義リアリズムものびて来る、ということにならないわけには行かなかった。わたしにおいて社会主義リアリズムは、作品をつくる方法として、作品のそとに存在するものでなかった。
 作者としては、このごろやっと一つのところへ出て来たが、このおかしな方法――だがわたしにとってそれしかなかった方法を、全く第三者として分析する能力には達していない。

          三

 風がわりな歩調で歩いて来たにせよ、作者として一定の方法が展望されていたことは、今日までの過程でうけた批評のあるものについて、いくつかの問題を考えさせている。
 その一つは「道標」第一巻から第二巻にかけてのころ云われた、作者は折角ソヴェトを描きながら、伸子の見たことしか書けない、という批評である。桑原武夫の評論の中でも、この「レンズの光度の低さ」は「日本的方法の限界を示し」、日本の文学に共通な後進性として、鋭いフォークで刺されている。そして、スタインベックが旅行記をかいたように、その他ヨーロッパの誰彼が旅行記をかいたように、日本の作家には外国がかけないのであるというように云われた。
 スタインベックの「ソヴェート旅行記」は魅力のある報告であった。そこには、一九二七―三〇年のモスクワでないモスクワが描かれているし、反ナチの祖国戦争で、ソヴェトの人々が人類の平和のためにどれだけかけひきぬきの犠牲をいとわなかったか、その巨大な破壊とそこからの回復のためにいかに奮闘しているかということを、スタインベックは、あたたかくわれわれにつたえている。スターリングラードでの、彼は、彼の作家としての生涯にとっておそらく最も強烈でまじりけない人類的感銘をうけている。
「スターリングラードの再建」の最後に彼ののべている感想には、真実の響がある。世界の元首たちが、スターリングラード市民の名誉のためにおくりものをした品々と云えば、中性の剣とか古代の楯の模造品であり、その記念帳にかかれた文字は、「世界の英雄たち」とか「文明の防衛者達」という字である。スタインベックは、「これらはすべて極めてとるに足らない事を祝う時に使われる馬鹿馬鹿しい讚辞である」と云っている。「スターリングラードが六台の土鋤機を欲しているときに、世界は一個のごまかしの賞牌をその胸に飾ったのである」と。
 だけれども、スターリングラードの夕暮、彼に忘れがたい感銘を与えた一人の少年の姿――夕方になると共同墓地に葬られた父を必ず訪れる少年の運命にとって、第二次大戦に連合軍が第二戦線をおくらして、ソヴェトに最も負担の多い出血を余儀なくさせたことは、どのように連関しているかについて、スタインベックは、ふれなかった。
 シーモノフの「ロシアの問題」について、彼は少からぬ質問者に出会った。そして彼らを説破した方法を、スタインベックは無邪気に語っている。彼は「ロシアの問題」の題材とテーマとを、すっかり逆におきかえて、もしソヴェトにおいてアメリカに対するこういうことがあるとしたら、君たちはどう思うか、と反問すると、大抵、それが真実でないことを納得した、と語っている。読者は、このエピソードに、ソヴェトの人々の四角四面で素朴な合理主義が、スタインベックの練達した話術のトリックにかかるモメントを目撃しないわけに行かない。そして、このエピソードにおけるスタインベックの成功を慶賀するよりも、現代においてすぐれた作家の一人である彼が、そういう話ぶりをしていることを気の毒に思う。なぜなら、「怒りの葡萄」の中でスタインベックは、カリフォルニアの果樹園とそのまわりにあぶれている季節労働者――土地をとられた農民の群の有様を描いている。豊饒なカリフォルニアの果樹園で、市価がやすいために収穫がのばされている。樹の下には甘熟した果物が重なって落ちて、くさりはじめている。酔うような匂いがあたりをこめている。だが、あぶれて餓えている労働者たちは、その一つを拾って食うことも許されない。子供が拾って食うことも厳禁されている。「怒りの葡萄」に鋭い筆致で描かれているこの事実をスタインベックがソヴェトの人々に向って話したとしたら、こんな非合理で非人間的な浪費があり得ると思うかときいたとしたら、ソヴェトの人たちは何と答えるだろう。気違いだスウマ・ソシュリー! と答えるにきまっている。しかし、この場合、ソヴェトの人々の常識では狂気としか判断されない事実を、スタインベックは、神の怒りにかけて現実に見つつあるのである。そのような巧智な話術で彼がすりぬけた――というよりも、集団マスとして「ロシアの問題」にかかわる彼の同国人をすりぬけさせてやった、その線のところにこそ「怒りの葡萄」ののちに来るテーマがひそんでいるであったろうに。――
 彼が「一人の男に握られた権力やその永続を極度に恐れ憎むアメリカ人にとって」、スターリンがどこでも必ず顔を出している(肖像画や写真や彫像で)ことは、「恐怖すべきことであり、嫌悪すべきことである」と云っていることも現代のアメリカ市民の心理にある特色を示していて興味ふかい。現在のアメリカ人にとってきらいなことは、きらいなことだときめるだけですむかのように、それから先の追究をすてているところに、アメリカの明るさと同時に異様な主体性の没却を示している。
 そして、巨大な現象をつかみながら、作家の主体的角度が消失しているという点こそ、アメリカ現代文学の無気味な点ではなかろうか。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの強烈な性格と生活力にかかわらず、バトラーの抜け目なさにかかわらず、彼らのところで経験されたのは状況と境遇とにすぎなかった。アプトン・シンクレアの「ラニー・バッド」は、尨大なアメリカ式切抜きスクラップ整理ファイルの事業である。作者は、その国の億万長者たちが世界地図をいつの間にか盤にして、その上にチェスのコマを動かしているように、世界のあらゆる場所にラニー・バッドを出没させる。地球とそこに起る出来ごとは作者の目の下にあるようだが、主人公であるラニー・バッドとは、何者だろう? その行動性をぬいたら、彼のヒューマニティにのこるのは博識と社交性とそしてすべてのものに不自由のない人間の一種底なしの虚無ではあるまいか。「アメリカの悲劇」は、たしかにこんにちドライサーのテーマとしたところから前進している。「ブルー・ラプソディー」にまで。
 こうつきつめてみると、日本の作家が「スタインベックの程度」にかかないということも単純でなくなって来る。
 世界の現実に対して、理性が主体的な角度に立つリアリズム――社会主義的リアリズムについて考えている作家は、スタインベックがソヴェトの人々の合理主義を扱ったああいう風にそれを扱おうとはしないだろう。そして、社会主義の社会の住民として「攻撃を受けて自分自身を守り通した小さい人々」の人間価値を評価し、彼ほど衷心から戦争の犯罪性を指摘するなら、人民階級の独裁ということと、金と権力をひっくるめて独占するということとの間にあるちがいについても学ぼうとするだろう。――これはもとより、わたしが「道標」の前半を、どのように書くことができているか、ということについての弁明ではない。「道標」前半におけるモスクワと伸子との相互関係は、伸子がまだそこにある社会生活を総括して政治的なその根元からつかめず、次々に接触する事物からの感銘や批判を摂取して目に見えず内面変革にすすんでゆく、その段階においてとらえられているのである。拙劣に扱われているかもしれないが、伸子とモスクワ生活との関係で、主体と方向は失われていない。

          四

 新心理主義の方法は、現代社会のコンプレックスを超現実の手法をもかりてコンプレックスなりに再現しようとしたのではなかったろうか。
 文学にあっては、あることが表現しにくい、と表現するにさえ、つまりは表現の力をかりなければならない。文学として表現されたとき、真の人間不信はあり得ないと思う。なぜなら既に表現するということが、理解を予想しているのだから。
 わたしの心理に近代的コンプレックスが見られないということが、あき足りなさとしてしばしば云われる。或いはいくらか嘲弄的にもふれられる。ある読者からフロイドをどう考えるか、という質問もあった。
 わたしの生活と文学との通って来た特別な道行きをさかのぼってみると、わたしは、常にコンプレックスを解く方向へ努力しつづけて来た人間であった。互に押しへだてられて生活した十二年間に、夫と妻であるわたしたちは、当時の不自然きわまる個人的・社会的条件――コンプレックスそのものである日々の中で、あらゆる機会と表現をとらえて可能なかぎり互のコンプレックスを解放する努力をつづけて来た。ひずんでしまわないために、偏執にひからびないために。
 そういう事情があったばかりでなく、わたしは、コンプレックスを解こうとしずにいられないたちかもしれない。日本の社会は、どっちを向いても、あんまりコンプレックスが多すぎる。こんにちでは、昔ながらの日本のコンプレックスが解かれきっていない上に舶来のファクターが重って来て、日本の知性、良心のコンプレックスは実に圧の高いものになった。
 第一次大戦から第二次大戦までの文学に、フロイドが与えた影響は非常に広汎であったと思う。そして、現在でも、フロイドが人間性の自然な解放のために、その心理的、潜在意識的モメントとしてとらえた主として性のコンプレックスは、社会と、個人の精神のうちに存在していることも明かである。だけれども、一方最近の数年間に、世界の市民的な生活感覚に潜在するコンプレックスは、フロイドの時代からみれば比較にならないほど、その複合の要素を複雑にして来ているというのも、現実だろうと思う。第一次大戦の社会混乱と過去の秩序の崩壊につれて、とくに婦人にとって因習的であった性に関する意識の抑圧が、堪えがたい精神圧迫となった時期、フロイドの方法は、明かに一種の解放手段として役立った。
 第二次大戦が火をふきはじめた時、近代人がより深く潜在意識の裡に生きているとして、そのような創作の方法にしたがっていた心理主義の婦人作家ヴァージニア・ウルフが、イギリスで、彼女の住居の近くの川に身を投げて死んだ。六十歳を越していた彼女が、世界よ、さようなら、と書きのこして訣別した「世界」は、潜在意識の世界だったろうか。わたしには、そう考えられなかった。
 性に関するコンプレックスだけとりあげてみても、それは第二次大戦の時期を通じて、われわれの意識のなかに「コンプレックス」として意識されるものになって来ているし、そのコンプレックスは、ドイツの若い婦人に対してヒトラーの政府が利用したようなものとしてあらせてはならないし、日本軍隊の婦女暴行としてくりかえされてもならないという意識も、明瞭に意識されて来ている。したがって、こんにちフロイドの精神分析をうけつぐ人があるならば、そのひとは、第二次大戦後、性コンプレックスは、その複合体のうちにどれほど多量の経済、政治上の要因をふくんで膨脹して来たか、を見ずにいないであろう。そして、その人も、おそらくは、わたしたちの常識がそうみとめているように、コンプレックスについて語るとき、フロイド流に性意識の圧迫にだけ重点をおくことは、現実におくれていることを発見するだろうと思う。肉体文学というものの袋小路が思いあわされる。こんにち世界で十数億の人民が平和と原子兵器禁止のために発言している。その過半数は婦人であり、第二次大戦の犠牲者たちである。ある人によれば、これらの婦人たちの性のクレイムが彼女たちの熾烈な平和への要求となっていると説明されるのかもしれないが、その要求は、フロイド時代のなつめの実の夢、その他に表現される潜在的な形をとらない。彼女たちは政治的に平和のための運動を世界にひろげつつある。かつて意識の底によどんで潜在し、ヒステリーをおこさせていたものを、みずから意識し、更にそこから苦悩の原因をとりのぞくために、きわめて現実的に、顕在的に行為する時代にはいって来ている。わたしたちの心に疼くきょうの自由についてのコンプレックスは、「家」その他日本的な種々雑多な因子としている上に、将来日本が憲法をかえてさえ再武装するかもしれないという信じがたいほどの民族的苦痛の要因に重くされている。
 わたしが生活と文学とにコンプレックスを全然持たないか、或は極く少くしかもたない女だという見かたは、わたし自身としては奇妙に思える。「伸子」からはじまる続篇を貫いて志向されているのは、ストリップ・ショウ風ののたうちはないといえ、つまりは日本の社会の一つの時期に生きる人間、女の、意識の覚醒の課題であり、それは、とりも直さず個人と集団を貫くコンプレックスの発見とそこから解放されようとする物語ではないだろうか。

          五

 文学に再現される社会的な人間の典型ということについて、わたしは近ごろ、ひとつの目をさまされた。現代文学が、小市民の文学となってから、われわれは文学のうちにバルザック的典型を見なくなった。それにかわって、ささやかな、解決のない心理葛藤と状況のもつれを読んで来ている。
 社会主義リアリズムは、社会的人間の、それぞれの典型を描き出そうとしているのだけれども、現在まで、わたしたちは比較的小さな典型しかとらえ得ていなかったと思う。それらの典型は、一つの典型であるにしても、そう大してわるくもないし、そう大してすばらしくもない。要するに市民的規模の典型であったと思う。「道標」以後の作品の中にも、いくつかの典型は見出されてゆくであろうが、それらの、多くは市民的スケールであるにすぎない。
 権力からはなれて、つましき良心に立っているわたしたちの社会生活の範囲では、バルザック的典型は、つくり出される人物に属し、架空的であり、よいにしろわるいにしろ、こしらえものとしての感じを与える方がつよかった。プロレタリア文学が、英雄的な典型を見出そうとしたが、芸術を通じてその人物に読者の実感をひきつけ得ないことが多かった。ひとつの機微がこういうところにあったと思う。
 ところが、この五年間に、わたしたちの典型に関する現実リアリティーは非常に拡大された。わたしたちは、善意の途の上で悪党どもに面接するという経験をもった。その典型は権力の諸関係の大きさにひとしく大きい。権力の諸関係の本質と相通じて、怪物的である。そして、現代における大きい典型の再発見の妙味は、それが、ルネッサンスの世界、バルザックの世界にあるように、怪物同士、典型間の力の不均衡と矛盾を通してだけ見られているのではないという点である。頭をあげて、人民の理性が立ちあがったその眼が、その高さではじめて発見できる位置において、文学は大きい典型を再発見しつつあるのである。
 この事実は、まだ文学にあらわれていないが、日本の現代文学とその理性にとって意味がふかい。そして、現代の典型はルネッサンス時代のように、どういう意味においても強烈な個性によって――オセロとイヤゴーの例にしても――一定の社会に典型たり得ているという単純なものでないことも着目される。平凡な、人間性のよわい、自主性のかけた人物が、ある機構の特定の性格にしたがった廻転によって、ある場所におかれるとき、その人物は自分としてではなく、その機構そのものの本質を具現する典型となってあらわれて来ている。そして、悲劇もシェークスピアにおいては、何かその原因となるデスデモーナのハンカチーフのようなものをもっている。オセロの敏感な自尊心――黒人の劣等感のうらがえされたもの――そのものと、イヤゴーのユダ的性格そのものが、性格と性格の格闘として悲劇を形成している。
 現代の悲劇というより、むしろ正劇は、個々の性格間の格闘というよりも拡大されて、人間理性の発展にあらわれてきた歴史と歴史のギャップ、相剋という普遍性をもつたたかいの記録に進んで来ている。日本の現代文学は、世界の現実としてのこれら日本の現実を描きつくす義務をもっている。
 現代文学は非常にかわる。――そういう予感にみたされている人は案外に多いのではないだろうか。
 こんにち書き改められようとしている東洋史――東南アジア史は、こんにちの東南アジア諸国の大部分が、数百年の過去には、それぞれの民族としてのすぐれた文学その他の芸術をもっていたことを告げている。
 ジャーナリズムの上に氾濫している小説の数によって、一つの民族がろくな文学も持たない「島の住民」となる危険から保障されていると云えるものはない。一つの民族の社会と文学の健全にとっては、少数の西欧文学精神のうけつぎてが、自国の文学について劣等感に支配されつつ、翻訳文学であるならば、つとめてその優性をひき出すとしても、多くプラスするところはない。中国の文学的教養の大きい部分がフランス文学、イギリス文学、そして日本文学から摂取されていた時代、中国は自身を植民地の民としての立場から解放させ得なかった。
〔一九五〇年九月〕





底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「中央公論」文芸特集号第四号
   1950(昭和25)年9月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について