ことの真実

宮本百合子




 一九四九年の春ごろから、ジャーナリズムの上に秘史、実録、実記と銘をうたれた記録ものが登場しはじめた。
 氾濫した猥雑な雑誌とその内容はあきられて記録文学、ルポルタージュの特集が新しい流行となった。
 記録文学ルポルタージュ、ノン・フィクションの作品が生れはじめ、またうけ入れられたのには、理由があった。戦争の永い年月、わたしたちの全生活がそのために支配され、欺瞞され、遂に破壊へつきおとされながら、直接の犠牲者である人民は、戦争の現実について、また社会の事実についてほとんど一つも知る自由をもっていなかった。降伏につづく激動の時期がすぎて、人々の心には、一体ことの真実はどういうものだったのだろうか、とあらためて知ろうとする意志がめざめた。戦争によって人生を変えられてしまった多くの女性の眠られない夜々には、せめて本当のことでもわかったら、と愛するものを死なせた南の海、北の山へ馳せる思いがある。
 戦争にかりだされ、日本の帝国主義による戦争の実体に疑問を抱きながら、よぎなく侵略国の兵として他民族のけちらかされた生活のあいだにおかれてきた人々。戦争、軍隊生活そのものの野蛮さ、空虚さ、偽善に人間としての憤りを深くめざまされながら、それについては手紙に書くことも日記にかくことも許されなかった人々。天皇の名によって行われていたスパイと憲兵の絶対的な軍国主義権力が崩れて三年四年たってみると、情報局の報道と大本営発表でかためられた偽りの壁と封印の跡が、あたらしい回想と、そこに湧く批判の真実に消されはじめた。一九四五年の秋「君たちは話すことができる」という記念的な東宝のニュース映画がつくられて、感動をもって観られたころには、まだほぐれなかった唇が、やっと語られはじめたというところがあった。
 記録文学のあるものは、日本帝国主義軍隊の戦争、敗北、潰滅が、そのかげにかくしていたさまざまの歴史的事実を一般の人々の批判のあかるみにだし、侵略戦争の本質について考えさせ、まじめな役割を果した。いま公判がひらかれている吉村隊長が、外蒙の日本人捕虜収容所のボスとして行った残虐と背徳行為が社会問題化したのは、「暁に祈る」という怪奇なテーマをもつ記録文学がいくとおりか発表され、輿論の注目をひいたためであった。現地の軍当局の信じられないほどの無責任、病兵を餓死にゆだねて追放するおそろしい人命放棄についても記録されはじめた。大岡昇平氏の「俘虜記」そのほかの作品に見られる。ソヴェト同盟に捕虜生活をした人々のなかから、「闘う捕虜」「ソ同盟をかく見る」「われらソ連に生きて」そのほかのルポルタージュがあらわれた。それらは日本軍隊の伝統的な野蛮さとたたかって捕虜生活の民主化に努力した記録。ソ同盟の社会主義社会の運営方法や建設の現実を、捕虜という条件にいながらも公平に評価しようとした若い学徒兵たちの記録。ソ同盟での捕虜生活について流布されている暗い噂を、日常生活の事実で明かにしようとしたルポルタージュなどであった。
 こうして、わたしたち日本の男女が、人民として忘れることのできない経験を、ふたたび吟味することで、帝国主義というものの本質や侵略戦争の現実を学び、非人道な権力に強いられた残虐や民族的偏見をまたくりかえすことはしまいと、決意をもちはじめたとき、記録文学、実録文学の調子に一つの変化があらわれてきた。ルポルタージュであるにはちがいないが、したがってそれはあったことをあったとおりに書いているといえるわけだが、例えば「軍艦大和」という作品が問題になったように、題材に向う態度が、戦争当時の好戦的な亢奮した雰囲気をそのままとり戻しているようなものがあらわれた。二・二六事件の秘史というものが、当時の内部関係者であったファシスト軍人によって主観的に合理化してかかれたものが公表されるし、日本海軍潰滅前後の物語も、当時の連合艦隊参謀長というような人々によって執筆されはじめた。
 これらの記録には、どれにも共通な一つの本質がある。それは元連合艦隊参謀長草鹿龍之介氏「運命の海戦」(文芸春秋、四九・一〇に発表)をよんでもわかるとおり、「ミッドウェイ洋上、五分間の手遅れが太平洋全海戦の運命を決した※(感嘆符二つ、1-8-75)」と五分早かったらという調子で、海戦の状況がこまかく専門的に記されていることである。元海軍中将であるこの筆者は、その達筆な戦記のなかにきわめて効果的に自然に「しからばこのときどうすることがよかったか。結果論のようではあるが私は戦闘機なしでも出すべきであったと思う」と、さながら戦況の不利を目の前に見ているように「何という無念!」という感情で語りすすめている。読者は、専門家の生々した話しぶりにひきいれられ、スリルを刺戟され、われ知らず筆者の感情の流れにひきいれられている。そのようなミッドウェイの敗北をひきおこした戦争の本質について、元参謀長は歴史的な考察と反省を行おうとしていないのである。ただ現象についてだけ語っている。
 これは、果して歴史の「真実を語る」方法だろうか。根本の原因にふれないで、そこに生じた現象だけを、おのずからほとばしる職業軍人の感情で語ることに、うそがないというだけで、こんにちファシズムとたたかって平和を確保しなければならないわたしたち日本の人民にとって、誠実な態度であるといえるであろうか。
 敗けさえしなかったら。――日本が敗けたんだもの仕方がない。そういう感情は戦争をまるで災難のようにうけとるほど、伝統的な軍国主義のもとに育てられた日本の女性の心に、きょうもまだぬけない根をのこしていはしないだろうか。何もかも敗戦がわるいんですよ。生活の安定がうばわれていることも、またもや軍国主義者が復活し、ことありげな空気をかもしていることも、なにもかも敗戦がわるいのだ。そうあきらめて屈従する気分が、日本の女性の感情を重く鈍くかげらしていないのならば、こんなに負担の多い日々を営んでいる日本の女性によってこそ、もっと激しく、もっと決定的に平和への渇望が表明されていいはずだと思う。
 日本の帝国主義は、日本の内地にも植民地朝鮮の人々の、しいたげられた生活を展開させた。自分たちの日々で、「みじめな朝鮮人」を見下げる習慣をもたされてきた一部の人々は、いまは日本も敗けてしまったのだからと、軍国主義権力の崩壊を、それによってこわされた自分たちの生活と同じ一つもののように思いこんで、われから隷属に屈していることはないだろうか。
 夫婦の不和や家庭破壊の問題がおこったとき、どんな幼稚な身の上相談にしろ、先ずその原因を冷静につきつめて、と答えている。あのことも、このことも敗戦がわるい、というならば、どうしてその敗戦などという現象がおこったのか。そもそもの原因までさかのぼって、つきつめようとされなかったのだろう。どこでいつ行われようと無慙、野蛮でしかありようない現代のおそろしい兵器による戦争そのものがとりのぞかれようとしないならば、それにつづく事態ばかりをせめることは、歴史の発展のない、民族的自虐でさえある。歴史の現実にたいしてはっきりと目を開いていないそのような受け身の状態は、それなりまたずるずるとわたしたちの生活を犠牲にしてしまう危険をふくんでいる。すべての社会現象の全体の関係を人民生活の前に開いてみせず、任意な現象だけをきりとって、さまざまの粉飾でしめした方法こそ、天皇の神聖をかざした軍部のやりかたそのものであった。条理ある社会関係の総体の見とおしを許さず、きれぎれの認識で混乱させた力こそ、ファシズムの本質ではなかったろうか。
 記録文学の流行は、出版界の不安定性とまじり合って、各出版社を記録文学のヒットさがしに熱中させた。花山信勝の「平和の発見」は軍国主義のあらわな鼓舞としてはげしく非難された。その「平和の発見」は出版社の人々と著者の合作でつくられたものであったことも知られた。参議院の考査委員会は、永井隆氏を表彰しようという案を発表したが、六月十二日、七月三日(一九四九年)の週刊朝日は、カソリック教徒であるこのひとの四つの著書が、それぞれにちがった筆者であるというようにいっている。
 記録文学のあるものは、クラブチェンコの「わたしは自由を選んだ」を筆頭として、国際的にも一つの注目すべき反民主的利用の道をひらかれてきた。わたしたちは、明日のよりよい社会のために、書かれているその範囲のことにうそはないという程度の記録文学から、一歩すすんで、それが社会の歴史の諸関係の事実を語っているということのできる記録文学をもとめる。
「流れる星は生きている」(藤原てい著)をよんで、この生活力の旺盛な若い母が三人のおさない子をつれて新京から引あげてきた物語が、ひろくよまれるわけもうなずけた。軍国主義の敗北とともに、満州、中国、朝鮮、台湾、樺太、さらに遠い南の果てから内地へ引きあげてこなければならなかった日本人男女は幾十万人あったろうか。台湾、朝鮮のような植民地または中国、満州のような半植民地に発展していた人たちは、その土地と社会が本来は他の民族に属するものであって、そこで日本人は侵略者の立場をもっている事実を忘れた、優越感に安住していたのではなかったろうか。
 一九四五年八月十五日から植民地在住の日本人にあらわに思い知らされた敗亡する侵略者としての足どりは、それらの人々にいってみればさか恨みの感情をもたせたとも思われる。日本の軍国主義にだまされた自身のいきさつを思うよりも、こんな目にあうその苦しさを、敗戦と、いまは屈従から立って自分たちをかこむ土着民への恐怖と憎悪の感情にこらして、引あげの辛苦を経験した。これら幾十万の人々、特に引あげてきた婦人たちの身に刻まれているのは戦争の実体を究明しようとする意志よりも、引あげの日々を貫いた苦しさ、不如意、不安であろう。
「流れる星は生きている」の著者が良人とわかれて三人の幼子をひきつれていた若い母であったことは、引あげの辛苦もなみなみでないものにした。著者がその惨苦に耐えた火のような生きる意欲そのもののはげしさ、生存のためにむきだしにたたかった、それなりの率直さで、現象から現象へ、エピソードからエピソードへと押しきる流れで語られている。
 読者は次々と展開する插話にひきいれられて、口をはさむひまなく読むのであるが、さて、読み終って、わたしたちの心に、落付かない感じがのこされるのはどうしてだろう。
 筆者は率直である。偽善的でない。荒々しい条件におかれた自身の荒々しい所行(「三百円儲けた話」)の物語といっしょに、恐怖をもって臆測されている北鮮の治安が実際にはよくて、保安隊の若もの、土地の人々の親切、ソ同盟の兵士の素朴な人間ぽさなども、それがそうであったように語られている。北鮮の新幕から三十八度線をこえて開城につくまでの徒歩行進の辛苦の描写は強烈で、一篇のクライマックスとなっているのであるが、著者は、新京から引揚げの開始された八月九日の夜から一ヵ年の苦しい月日のうちに起ったできごとを、その身でぶつかり、たたかい、つきぬけ、かきのけてきたことがらとしての範囲に集注して、あとはきりすてている。宜川の集団の住居の雪の夜、延吉エンキチという西北方の町から、半死半生でたどりついた三人の良人たちについても、そのおそろしい憔悴のさまは描かれているが、延吉というソ同盟軍の町につれられていった三人が、なぜ、どうやってそこにあらわれたのか、当然わかっていただろう事実は、ふれられていない。
 引あげの人たちそして著者自身、戦争の実体をどう批判する感情におかれていたか。そういうことについては一切語ること考えることがさけられている。生のために不屈にたたかう能力を小柄な全身にみなぎらしている著者は、その体のたけとはばとで解決しきれないような問題は、みんなきってすてている。したがって、この引あげの辛酸な事実の歴史的背景となり悲惨の原因となっている日本の軍国主義や満州侵略、そこに巻きこまれた市民の不幸の意味などは、一切考えてみようとされていないのである。
 これらの特徴は、どれもこのごろの記録文学の性格をそなえている。まじめに考えさせるようなモメントは重苦しいとしてみんなきりすてて、スリル中心に読者をひっぱって行って、一定の雰囲気の影響のもとにおくジャーナリズムの方法が、「一生一代の勇敢なる冒険『創作を書く』ことを思いついた」著者の文筆におのずからそなわっていたというわけでもあろうか。
 跋を見れば、きょうの著者の日々は官舎に暮す小柄な軽口をいう無邪気な若い主婦の暮しである。
 あの八月九日の夜、新京から真先に遁走を開始した関東軍とその家族とは、三人の子をつれて徒歩でステーションに向う著者にトラックの砂塵をあびせ、列車に優先してのりこみ、ときには飛行機をとばして行方のわからない高官の家族の所在をさがさせまでした。が、八月十五日から数日たってやっと降伏した知らせが届いた満蒙奥地の開拓移民団の正直な老若男女が、ことの意外におどろいて数百名の生死を賭す団の進退をうちあわせようと駆けつけたときには、もうどこにも関東軍の影はなかった。そのために、うちすてられた開拓団のいくつかは、数百名をひとかたまりとして女から子供まで、絶滅させられた。満蒙奥地の住民のそのような怨み、憎悪が開拓団に向けられた理由こそは、関東軍が絶対命令で実行させつづけた住民からの収奪であったのに。きょうになれば、著者の耳目にこのいきさつもつたわっていよう。
 とるものもとりあえず新京を脱出した八月九日という日は、十五日より六日も前で、関東軍、役人たちの遁走前奏夜曲であったということを著者は、なにかの思いでこんにち、かえりみるときもあるだろう。新京にいてさえ、一般住民は不意うちをくい、おいていきぼりにあった。関東軍の威勢は日本の運命を左右し一人一人の首ねっこを押えていただけに、この歴史的事実にたいして、一般の人々の抱いている人間的道義的侮蔑は深く鋭いものである。日本の武士道とやまとだましいのはりこめんのうらの、醜さ、卑劣さとして、世界的に唾棄されている。軍につながる高級官僚たちが素早く我をかばった保身の術も、同情をもってみられてはいない。
 いま新京を遁走するという八月九日の夜、観象台の課長であった著者の良人が、責任感から、他の所員を引揚団の団長にして自分は一応残留したという事実に、読者は、そのときその人の妻が良人に向っていった言葉とは、ちがった行為の価値を見いだす。妻はおどろきと悲しみにとり乱して、良人が見栄とていさいと優越感のために、ただ一つところで働いていたというだけの人々のために、自分の家族を見すてるつもりか、となじった。その感じかたのままで話せば、きょうこの著者は、ただ同じところにつとめているというだけの人々が住んでいる官舎で、住宅難も整理の不安もなく暮しているということにもなるだろう。そして、それは、妻にののしられたにかかわらず科学者として職務の責任感から残留もした良人によって保たれた地位が妻にもたらしている条件である。もしこの科学者、官吏が命を失っていたらどうであろう。その人の努力、妻たる人の奮闘がどのようであろうとも、三人の子供をつれた未亡人に、あてがわれる官舎はあるのだろうか。同じところにつとめていたというだけの人々――これはわたしたちに息をつめさせる言葉である。
「流れる星は生きている」のなかに、一度ならず二度ならずいまわしさをもって叫ばれているのは「日本人の利己主義」という言葉である。利己主義が日本人という民族の属性なのだろうか。そうは思えない。それが、生存する環境の悪条件に左右される自己防衛のきばであることは、著者そのひとが脱出の夜良人に向っていった言葉であきらかにされている。日夜顔をあわせている女同士で自分が八百円に売ってやった衣類の、二百円を天びきに相手にわたして、何も知らないその人が礼にとさしだす百円ももらい「三百円儲けた話」は、きょうの著者の心に、明るいエピソードだろうか。人間の心は、こういうときはこうもなるものです、と居直ってすむものならば、非人道的な捕虜虐待で日本の軍人が戦争犯罪に問われる道義的根拠は失われる。最近ヒットしたルポルタージュの選手三人の座談会で、著者は、いよいよとなったら身を売っても仕方がない、売るなら高く売ろうと思いましたと語っている。そこまでそういう言葉で語るひとが、宜川のソ同盟兵が人形の体に鉛筆でいたずらがきしたようなことを「けがされた人形」とある種の連想をともなう誇張した題でかいているのはどうしてだろう。その人形は宜川のソ同盟の屯所へ行って、にこにこ笑う兵士に地下室へ案内されて、そこからもらってきた布地でつくられた。その布を見た同室の人が、あら、いいわねえ、みんなで早速人形つくりをはじめましょう、といったとき、「みんなですって、この布は私達のものよ。皆で作りたかったら、自分で行って布を貰ってくればいいでしょう。この布はあげられませんよ」女主人公はそういった。その婦人は、いかにも口惜しいという顔をして、「利己主義ね!」という。「なんですって、利己主義はお互さまでしょう」その人は、冬、オンドルのある特別室にがんばって動かなかった人である。
「流れる星は生きている」は、一人の女性の生存力が、小さい子供の生きぬく力とともにこのように発揮され、このような方向に煉磨されなければならなかったことは、まったく軍国主義の犯した一つの犯罪であるという歴史の事実をわたしたちに告げる一つの物語である。著者にそれを自省する力がないならば、せめて読むものとしてわたしたちは、このように非人間で苛烈な生のたたかいが女性の上や子供の上に強いられる戦争そのものこそ絶滅されなければならないと抗議せずにいられない。
 東大協同組合出版部から、『きけわだつみのこえ』という戦没学生の手記を集めた本が発行された。戦没した学生たちは、帝国主義の侵略戦争がどんなに人類的な犯罪であるかということを、死の訴えとしてのこした。やがてしかばねとなる自分の靴の底へかくした紙きれの文字によって。ポケットの手帖にかかれた瀕死の自画像によって。
〔一九五一年三月〕





底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「婦人公論」
   1951(昭和26)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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