三つの「女大学」

宮本百合子




 何年ぶりかで珍しく上野の図書館へ行った。むかし袴をはいて通った時分からみると婦人閲覧室もずっと広く居心地よいところになったし、いろいろ変っているけれども、本を借り出すところが一段高くなってそこに係の人がいる役所めいた様子は、やっぱりもとのままのこっている。
 係のひとの顔のなかには、遠い記憶のなかで見覚えている面ざしもあって、頼んだ本の来る間を、何とはなし立ちかえっての物珍しさというような心持であたりを眺めていた。若い婦人の本借り出しもなかなか多い。同じようにして待つ間を、そこの右手にある新刊書棚など眺めている。ふと見るとその棚に、「新女大学」という一冊の本がある。著者は菊池寛。経済年鑑のようなものを借りに来ている和服の若い女のひとも、洋装で、ドイツ語の医学書を借りているひとも、そのほか何人かの若い女のひとたちが、ひとしくその棚に目をさらすのだが、どの女のひとも、少女という年頃の娘さんでさえ、この「新女大学」と金文字で書かれた一冊の本の表題を眺める視線に、それを「しん、じょ」と読み下そうとして、おやととまどうような表情はなくて、いくつもの若々しい女の目がちらりと、「しんおんなだいがく」と読み下して、格別、自分たちがそういう徳川時代の本の名にそんなに馴らされていることに、新しいおどろきの心を動かされている様子もない。
 私は自分たち女の生活の中にある伝統の力の強さを感じ直させられるような感じがした。そのようにして、大お祖母さんの時代からすらりと「おんなだいがく」と読みならわしてきている本の内容を、おそらく今日こまかに知っているひともないであろう。だが「女大学」の名は決して死んでいまい。何か生きて日本の女の生活のなかに今日も一縷のつながりをもってつたわっている。そのことは感じられるのではないだろうか。
 貝原益軒が、「女大学」と呼ばれて徳川時代ずっと女の道徳の標準となった本をかいたのは宝永七年というから、十八世紀の初頭の頃のことである。八十五歳という長寿を保ったこの漢学者の生涯の時期は、日本では、有名な元禄時代の商人興隆時代、文化の華やかな開花の時代、文学の方面では芭蕉、西鶴、近松門左衛門などがさかんな活動をとげた時代と、流れを一つにしている。経済の中心が町人の階級にうつって、これまでは武家の掟で沈黙させられていた人間の種々さまざまの人情が、自然な流露を求めてあらゆる方面に動いた。西鶴の小説などは、よかれあしかれ、そういう時代の世相を描いてまざまざと今日につたえているのだけれども、その自由奔放な時代の感情の半面で、女というものは、どんな風に考えられていたのだろう。
「女大学」十九ヵ条は、先ず女を「女は陰性也、陰は夜にて暗し、故に女は男に比るに愚にて目前なる然るべきことをも知ら」ぬもの、という立て前において、さてそこから順々に女子の心得を書き連ねたものである。「女子は成長して他人の家へ行き姑に仕うるもの、夫に仕うるもの」であるからと、その心得がさとされてあるのだが、「婦人は別に主君なし夫を主人と思い敬い慎みて事うべし。(中略)女は夫を以て天とす返々も夫に逆らいて天の罰を受べからず」、女にとって夫は天とひとしい絶対の関係におかれている。
 女が一旦嫁した家を去るなどということはあるまじきことと益軒はいましめながら、天である夫の側からは、自由に「七去」を行えることを認めている。「一には姑に順ざる女は去るべし。二には子なき女は去るべし。是れ妻を娶るは子孫存続のためなれば也。然れども婦人の心正しく行儀能して妬心なくば去ずとも同姓の子を養うべし。或は妾に子あらば妻に子なくとも去に及ばず。三には淫乱なれば去る。四には悋気深ければ去る。五に癩病などの悪き病あらば去る。六に多言にて慎なく物いい過すは親類とも中悪く成り家乱るる物なれば去るべし。七には物を盗む心有るは去る。此七去は皆聖人の教也。」
 聖人というのは支那の儒教の聖人のことなのだが、女の生涯は、この七箇条を見たばかりでも、何と息も詰るばかりの有様だろう。嫁、妻として求められているものは絶対の従順と忍耐とであって、最大の恥辱とされている七去の条件にしろ、それらはあくまで夫と舅姑の側の権利としてだけ存在している。舅姑にしたがわざるといっても、六の多言と同様、その標準はいわば相手の気まかせである。どこまでをしたがうとするか、どこからをしたがわざるとするかがまるであいての心次第であってみれば、嫁たるもの妻たるもののしたがう範囲は無際限といえる。子なき女は去るべしというのも、益軒として、実に奇妙と思える。人も知るとおり貝原益軒には有名な養生訓という本がある。いろいろ科学的には変なところがあるにしろ、養生という以上生理にふれているわけだのに、益軒は女が子供を持たない理由に夫の責任が過半であることを全く見ようとしていない。女一人の責任として、妾の存在を肯定している。時代の道徳というものの矛盾が、益軒の彼としてはまじめな態度をも、大局にはこのような矛盾においているのである。
「女は常に心遣いしてその身を堅く謹慎すべし朝早く起き夜は遅く寝ね昼は寝ずして家の内のことに心を用い云々」当時の男としてのこういう要求においても益軒は女のための養生訓の必要ということに思い及ぼうともしていない。女が子を持てなければ去るべし、といいながら、女の妊娠期間への注意、分娩や育児への忠言は与えず、「古の法にも女子を産ば三日床の下に臥さしむと云えり」という風である。
 益軒の時代は、さっき触れたような商人擡頭の時代であって、歌舞、音曲、芝居なども流行をきわめ、上方あたりの成金の妻女は、あらゆる贅沢と放埒にふけった例もあった。西鶴の小説が語っているような有様であったから、近松の浄瑠璃が描き出しているような情の世界があふれていたから、それへの警告として、警世家の言葉として益軒の「女大学」をふくむ十訓があらわれたというのも一つの見かたではあろう。だが、近松の浄瑠璃にうたわれる女主人公たちの悲しい運命に涙をおとして当時の女がききほれたのは、ただ当時が華美で音曲一般が流行したからばかりではなかったろう。やはり、「女大学」が天下の至言として流布された、そのような社会のとざしのなかに生きなければならなかった女の切ない境遇、その悲劇が芸術化されたからこそ人々の袖をしぼらせたのであったと思う。
 日本でこのような「女大学」が現れた十八世紀のイギリスでは、女のおかれている事情を自分たちの努力でましなものにしようとしてモンタギュー夫人が率先して、二世紀も後に日本へその名がつたわった「青鞜ブルー・ストッキング」がすでに組織された、ということも、何か私たちには忘れられない。
 ところで、この益軒の「女大学」を、明治の偉大な啓蒙学者であった福沢諭吉が読んで、「女大学は古来女子社会の宝書と崇められ一般の教育に用いて女子を警しむるのみならず女子が此教に従って萎縮すればするほど男子の為めに便利なるゆえ男子の方が却て女大学の趣意を唱え以て自身の我儘を恣にせんとするもの多し。(中略)女子たるものは決して油断す可からず」と、熱烈周密なその「女大学評論」を著しているのは、今日顧みてまことにつきない感想を誘われる。日本の社会の習慣や男の生活を具体的に観察すれば、「我輩は女大学よりも寧ろ男大学の必要を感ずる者なり」という立場に立って、福沢諭吉は、十九ヵ条の一つ一つについて、反駁している。「女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のものなり」「男女を区別したるは女性の為に謀りて千載のうらみと云うも可なり」そして、例えば「七去」についても、民法の条文を引用して、離婚が「女大学」にいわれているような条件で成り立つべきでないことを説明している。益軒の「女大学」は、あらゆるところで、女は夫に仕えて云々という表現をしているのだが、福沢諭吉の開化の心は、主従関係、身分の高下をあらわしたそういう表現が夫婦の間にあることに耐え得ない。「我輩の断じて許さざるところなり」「婦人をして柔和忍辱の此頂上にまで至らしめたるは上古蛮勇時代の遺風、殊に女大学の教訓その頂上に達したるの結果に外ならず」夫婦の生活で夫が妻を扶養するのは当然の義務だのに、妻たるものがわずかの美衣美食に飼い馴らされて人としての権利さえ自分から捨てている愚を、福沢諭吉は社会全体の進歩というところから痛歎している。「夫婦苦楽を共にするということは努々ゆめゆめ等閑なおざりにさるべきことではない」のだから、ことこれに関しては、議論して争うことも避けがたく「是れが為に凡俗の耳目を驚かすことあるも憚るに足らざるなり。」明治の精神が持っていた壮健な常識の響は福沢諭吉の言葉をとおして、これらの文章のうちにも高く鳴っているのである。
 そもそも福沢諭吉が、「女大学」を読んで、それに疑問を抱き、手控えをはじめたのは、彼が二十五歳で大阪から江戸へ出て来たときからのことであった。明治五年に「学問のすすめ」を発表して、近代日本の誕生に、大きい光を投じた福沢諭吉が、この「女大学評論」と「新女大学」とを時事新報にのせたのは、ようやく明治三十二年、彼が六十八歳で歿する僅か二年前であったということは、日本の社会の歴史のどういう特徴を語っているのであろうか。世間一般の気風とかく落着かずまじめに女学論など唱えてもまじめに耳を傾ける人などはなかったために、「幾十年の昔になりたる」その腹稿はやっと、福沢諭吉が最後の病臥をするようになって初めて公衆の前にあらわされた次第であった。
「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭をもった全篇二十三ヵ条のその「新女大学」で福沢諭吉が最も力をこめている点は、婦人の独自な条件に立っての体育、知育、徳育の均斉と、結婚生活における夫婦の「自ら屈す可からず、又他をして屈伏せしむべから」ざる人生の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚にあたって財産贈与などによる婦人の経済的なある程度の自立性などである。詠歌には巧みなれども自身独立の一義については夢想したこともなく、数十百部の小説をよみながら一冊の生理書をよんだこともない婦人の多いのをなげき、「学問の教育に至りては女子も男子も相違あることなし。」それが原則であるけれども、日本のように女の学問を等閑にして来た国ではその段階に至る迄に相当の年月が入用であろうと見ている。「文明普通の常識」の程度として、「殊に我輩が日本女子に限りて是非とも其知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此二者にあり」婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれないが、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女の無力である原因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。「形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」といっている福沢諭吉の言葉は、爾来四十余年を経た今日私たちの現実のなかで、はたしてどのように形をとって来ているであろうか。「新日本国には自から新人の在るあり、我輩は此新人を友にして新友と共に事を与にせんと欲する者なれば」と、敢て保守の人々の反対をも予想しつつ、福沢諭吉のこの「新女大学」が出た明治三十二年といえば、西暦一八九九年、まさにキュリー夫妻が彼らの記念すべき物理学校の粗末な実験室で辛苦協力の成果としてラジウムを発見した翌年である。イプセンの「人形の家」が書かれたのは日本の明治十一年であった。そしてモウパッサンの「女の一生」の書かれた一八八三年は明治十六年。トルストイの「クロイツェル・ソナタ」の書かれたのが明治二十年というとき、私たちの心にあるおどろきに似たものが感じられるようではないだろうか。世界に卓越していた婦人数学者ソーニャ・コ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)レフスカヤのストックホルム大学教授としての生涯は、この年代にすでにその早く終った生涯の晩年に近づきつつあった。
 さて、ここに、紫色の表紙をもった第三の「女大学」が私たちの目前に登場して来る。福沢諭吉の「新女大学」が出てからの日本の社会は今日まで実に大股に歩いて来た。四十余年の歴史の襞の間にはおびただしい波瀾がくるまれているのだが、第三の「女大学」は、どのような女の歴史をその内容にてりかえしているだろう。
 まず昭和十三年に出版されているこの「新女大学」には、良人読本という一部が加えられている。菊池寛氏は、日本の男子がもっと一般に婦人尊重の習慣をもたなければならないこと、妻に貞操を求めるならばそれと同様に自身も妻に対する貞潔を保つべきこと、一旦結婚したら決して離婚すべからざること、それらを、こまかく具体的に、例えば月給は全部妻にわたすことが、良人の貞潔を保つ一つの条件であるということにまでふれている。男は、自分より生活力も弱い婦人を、婦人一般として、その人への自分の好悪にかかわらずていねいに扱うところまで高められなければならないと説いているのである。
 男の社会的な習慣をそこまで高めてゆくために、ではどのような婦人の積極性が承認されているかというと、非常に興味あることには、その点に向うこの「新女大学」の著者の態度は、一貫して女の側としての妥協性の要求に終始している。男は男として、もっと良人教育をされなければならない。しかし女としては、と女に向けられた面での言葉は、決して四十何年か前、福沢諭吉が気魄をこめて女子を励ました、そのような人間独立自尊の精神の力はこめられていない。貝原益軒の「女大学」を評して、常に女に与えられている「仕える」という言葉を断じて許さずといったのは諭吉であったが、菊池寛氏の「新女大学」には、良人に「よく仕え」と無意識のうちにさも何気なく同じつかいかたがよみがえらされて来ている。歴史をくぐるこの微妙な一筋の糸はそもそも女の生活のどこにどこまで縫いつけられているのだろう。
 婦人に性的知識が欠けていることから生じる不幸について。恋愛に処する道について。職業婦人としての社会的進退について。四十年の社会の推移は、第二の「新女大学」に、おのずからこれらの項目をふやさしている。けれども、たとえば良人の貞潔の問題にしろ、女の側からとして説かれている場合には、本質的に何と男の古い持ものを肯定した形で、良人の気持を理解する妻のかしこさとして出されているだろう。ここでは正面から議論する妻の真情は買われていない。おだやかにまとめる、それが女の機智と手腕とされているのだ。けれども、放蕩な良人をもつ妻が、敏捷に良人の気分を察して、今夜は芸者と遊びたいと思っていると見てとれば丸髷に結って純日本風の化粧をする。きょうはバアを恋しがっていると思えばいち早く洋装になって酒をすすめるために、遂にその良人は、酒場へ行っても「バアの酒は馬鹿らしくて高くて、しかも話相手の女は教養がない。チップをおくのがもったいない」と述懐して早々家へ戻るようになったという実例に、「一家の幸福を作ったいい例である。もしその変装夫人にしても、放蕩ずきの亭主に自分の勝手気ままな意志で対していたならば、あるいは既に結婚上の危機に見舞われていたかもしれない」といわれているのを読むとき、若い世代の心には、男女にかかわらず、それが家庭といえるものだろうかという疑問が当然おこると思う。女はそんなにまでして結婚を守らなければならないのだろうか。女の一生とは何であろう。
 菊池寛氏の「新女大学」は日本の婦人のための高等教育の中途半端さを、文化全般の低さからもたらされる一つの不幸として見るよりも、多くの良人が「完成品を自分の妻とするよりもどちらかといえばまだ未完成品を妻として、それを自分の好みによって、自分の好きなような女性に作り上げてゆく方がはるかに楽しみで」あるという理由で、婦人に高い教育を必要としていないということも、注目される。女性尊重を男に向って説きつつも、男が好きなように作ってよいものとして女が基本的に提出されているとき、そこにどのような人格の五分五分がなり立とう。
 今日の複雑な現実のなかで、男の生活感情も女の生活の実情もある面では遙にこの「新女大学」を溢れているのが実際だけれども、それにもかかわらず福沢諭吉が新人の友として高らかにうち鳴らした新しい生活への鐘の余韻が、今日の日本にこのようなものとして現れ得ているところに、私たちの痛切な関心をひく何ものかが隠されていると思う。
 私たちやより若い世代が、「女大学」でもなく「男大学」でもない生活の本を、自身の生活で書こうと念願して生きている刻々のうちに、せめてはだれ切ってしまわない歴史の響きの幾分かをすこやかに息づかせたいものだと思う。
〔一九四〇年三月〕





底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
   1940(昭和15)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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