女性の現実

宮本百合子




 十二月十七日から三日の間に行われた協力会議で、婦人の問題で高良富子さんが、婦人局の設置の案を提出した。それに対して、有馬頼寧伯の談として、婦人局というようなものを置こうとは思っていない。婦人を区別しては考えていないわけで、国民としての貢献は男と全く同じ心で期待しているのだから、かえって婦人たちによろこばれるだろうと思っているという意味の言葉が語られているのを夕刊で読んだ。
 会議の結果、どう決定されるのかはまだ判っていない。けれども、日本じゅうの女性たちは、この問題についてのそれぞれちがった意見をどのような感想をもって読んだろうか。
 自分たちが生れて、そこに生き、そこに死する国を愛する心に、男と女とのちがいはないということも一応はわかることであり、その心に立って、尽す力を男とひとしく女に認め評価するという態度もその限りでもっともであろう。
 しかし、新しい日本の社会の健全な発展のために、婦人局があったらよかろうと提案した人々の考えは、「女も国民として」の心持という抽象の観念ではなくて、そういう女性一般の心持が具体的に表現され活用されてゆく過程で、社会的により進歩した形として婦人の貢献の条件について考慮してゆく施設が在った方がいいだろうという立場からであったろうと思う。
 婦人を男と区別しては考えていない、ということは、男尊女卑的な過去の伝習に対して、何歩か歩み出された考えかたである。けれども、単純に男と女とがかりに平等であったとして、それで社会の幸福と女の幸福とは創り出されて行くものだろうか。かりに男八時間女八時間の社会的な勤労に対して、男と女とが一銭の差のない報酬を獲る社会があったとして、ではそれでそこには欠けることない両性の明るくゆたかな生活が創られているといえるのだろうか。
 世界じゅうの婦人がおびただしく社会的な活動に従って来ている今日では、どんな素朴な婦人解放論者でも、男女平等というその範囲で課題を見てはいまいと思う。同一な技術に対して同一な報酬が婦人に与えられるだけでは十分でなく、婦人の母性がそれにつれて切りはなせない条件として考えられ、それに対する社会的な施設がなされなくては、健全な社会勤労は在り得ないことを学んで来ているのである。社会のために勤労の力をつくしている数百万の婦人にとっては、男と同じように働くということばかりに希望がつながれているのではなくて、妻であり母であるという女性独特な天賦の事情を、社会的な勤労の条件そのものの中に認められることが痛切に念願されている。その現実は、従って、明治四十年代の一部の進歩的な人々に考えられているような観念の上での男女平等からずっと具体的に成長してきている。社会的勤労において男対女としての権利を認めるばかりでなく、社会全体のより健全な成育のために勤労の場面で母性が無視されていることから生じる深刻な不幸をとりのぞきたいという真摯な願望が燃えているのである。
 昭和十二年七月に事変が勃発してから僅か二年の間にさえ、若い女性たちの重工業への進出は金属工業で男が一六パーセント増したのに対して女子四二パーセント増しとなっている。機械器具製造では男子二一パーセント増しに対して女子三〇パーセントという大幅の増加がある。精巧工業では男子一六パーセント増に対して女子六一パーセント増、特に造船業・運搬用具製造業などでは男子三五パーセント増に対して女子一〇七パーセント増。二年経たないうちに若い婦人は二倍以上に増加して来ている。
 鉱山に働く婦人の数が、男子一五パーセント増に対して女子は一七パーセント増して約二百万人もおり、しかも坑内作業が多くて二十歳未満の女の子がふえているという事を、人は無関心に聞くであろうか。
 全国工場災害率をみると、例年の最高は機械器具であって、十一年八月を一〇〇とすると、十四年一四五と災害が飛躍していて、このことは、尨大な数の不熟練工とその中に加わった娘たちの災難とを語っているのだと思う。しかも、怪我したりする年齢がこれまでは二十一歳以上の屈強な働き盛りのものが自然第一位であったのに、昭和十三年には十六歳から二十歳までのものが二三・六パーセントとなって災難の第一位を占めていることも注目されるのである。
 事務員や女教員その他のところに働いている婦人たちのほかに、工場で働く婦人労働者が去年末にすでに二百二十三万八千人あって、事変直前にくらべれば三十六万人の急増を示しており、今年一杯では更に数万の若い婦人が勤労に従うこととなった。それでもなお足りない労働の補充として、今年は職業紹介所が中心で、家庭の妻たちを一日数時間ずつ動員するという新しい方法がとられた。
 男の労働者に比べて婦人労働者の賃金はどのくらいの割合いになっているものだろう。内閣統計局の統計によると、昭和十五年五月の平均に、金属工業で男三一二円手当賞与一五六円であるけれど、女は一二三円七〇銭手当賞与四一円一〇銭という違いで、実収入額では男の半分、手当賞与では三分の一ということになっている。このように女の働く者の手当賞与が少額であるということにも、二三年来急に増した若い働く女性たちが技術上未熟練なものの多いことを語っている。しかも実収入で半額まで女がこぎつけていることに、日々の努力が決してそれらの女性たちにとってかるいものではないこともまざまざ語られているのである。
 若い婦人を働かせるために何の特別な設備もない重工業の部面に、どんどん未来の母たちが吸収されて行っている重大な意味については、世人もまったく無関心ではないと思う。政府も、婦人にふさわしい仕事と衛生設備について一言ふれているのではあるけれども、それぞれの工場や勤め先での実際ははたしてどこまでそれが反映されているであろう。
 日本の働く婦人はあらゆる職能を通じて、今日きわめて深刻な板ばさみに置かれているのが現実であると思う。活動に堪える力は最大まで社会のためにと、外の仕事に動員されるのだけれど、外の仕事ではつねに、いざとなると女はどうせ家庭に入る者だから、それが一番自然で貴重な女性の任務なのであるから、とたとえば肝心の労務委員会あたりも、女性の職場での福祉については積極に行動されない。
 女性の働くあらゆる場面を通じて、どうせ若い女の働くのは二三年という観念がじつにつよい先入観となっている。どうせ二三年なのだから、と粗悪な条件のまま交代させているのだけれど、先頃婦人工場監督官谷野せつ氏が公表された統計では、働く女性たちは三年目ぐらいからぐっと体をこわしているのである。
 事変になってから乳児の死亡率の高くなったことや若い母の流産死産のふえたことも、やはり人々の注意をひいたことであった。
 婦人は社会的に働いても永続性がないからと、女性の能力の低さの一つとしていわれるけれども、この事の一面には、働かせる側からのどうせ二三年という先入観が原因とも結果ともなって複雑に作用しているのである。
 現在日本全国の工場では二百二十余万人の女が活動しているのに対して、婦人の工場監督官としてはおそらく谷野せつ氏一人であるという日本の姿は、婦人の勤労生活のどういう事情を語っているだろうか。
 大規模に災害防止研究所が創立されるそうだけれども、そこには特に女子の労働生活からこうむる影響の研究のために、どんな専門部が置かれるだろう。私たち女性は、組織の形はどのようでもいいから、本当に社会に役立っている女性の肉体と精神の健全のために具体的な助力を与える実力をもった組織がほしいと思う心は切である。
〔一九四一年二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「オール女性」
   1941(昭和16)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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