家庭創造の情熱

宮本百合子




 すこし物ごとを真面目に考える今日の世代の若い人たちが、自分たちの結婚生活に入ろうとするとき、生涯向上する情熱を喪わない夫婦として生きたいと願わない人はおそらくないだろうと思う。
 この願いは、或る意味では良人になろうとする青年よりも却って妻になろうとする若い女性たちの心に、一層痛切に感じられていることだとも云えるだろう。若い女性たちは、まだそれが自分の現実とはなっていない母たちや姉たちの明暮を、おのずからうける様々の感想をもって眺め、どっさりの「自分はああ暮したくない」という問題をうけとっているのが普通と思える。「私はああ暮したくない」何とそれははっきりとして強い訴えと抗議であろう。より若い世代の誇りとしてその感情は自分にも肯定されているのだけれど、実際として、さて、ではどういう生活をしたいか、という具体的な問題に入って来ると、そこにはまたおどろくばかりに沢山の未解決なものがある。自分ひとりだけではどうにもしようのないことが後から後からある。何故なら、結婚生活ではいつでも良人は妻を、妻は良人をとび越してものを考えることも実行することも出来ないから。いつも何かの形での協力の生活でなくてはならないのだから。云ってみれば、お互いがお互いから切りはなして考えたことは、それが健全なよりよい方向であってさえも、結婚生活の現実の中に実を結んでゆく善き花となって咲き出さない場合さえ多いのである。
 しかも、一人の若い男、一人の若い女という単純そうな姿の中に、実に複雑なその人々の成長して来た国の社会の色や響、その社会の中のどういうところにその家庭は属していたかというところから身につけられている種々の精神と肉体との特徴、更にその青年や女性が自分たちの時代として経て来た歴史の性格などがそれとこれとをきりはなしてふるいにはかけられないような溶け合いかたで刻々に躍動している。
 良人となる青年がそれだけ念の入った複合体であると同様に妻となる女性も、彼女の或は無心な情緒の奥にそれだけの因子ファクターをちゃんとしまっているわけである。
 人間の性格や気質にいろいろの癖があったり自己撞着があったりするのも畢竟は、私たちすべてのものが、ぽつんと天地の間に湧き出たものではなくて、波瀾を極める人間社会の肉体の歴史、精神の歴史の綾の裡から、またその綾に綾を加えるものとして生れ出ているからなのだろうと思う。
 私たちの心の中には、従っていろんな傾向が眠っているわけだけれども、あらゆる時代を通じて若い人たちは、きっと、その親たちよりはよりましでより合理的な生活を送りたいと希望して来たのだという動かしがたい事実を、私たちは改めて見直していいのだろう。人間がまだ穴居生活をしていたころから、その希望は本能的な生活の欲望として、人間の内に働いていたにちがいない。ごく原始的な表現で、例えばより工合よく体にかける毛皮を縫い合わせたいという気持がいつもあって、或るとき或る人間が先の尖った石か貝の片の一方に糸を通す穴をこしらえて針を発明した。コフマンは、女性に名誉を与えて、そうして人類の生活に初めて針をもたらしたのは、多分その頃はぼうぼう頭で日向にかがんで毛皮をつぎ合わせていた人類の女性だったのだろうと想像している。
 コフマンの仮定をうけ入れるとして、人類の遠い遠い祖先の女が針らしきものを社会生活にもちこんで以来、今日まで、女性のよりよく生きたいという希望は社会の発展とともにあらゆる面で複雑になり高度にもなって来ている。
 幾世代の歴史の間で、人間はたしかに進歩して来ているのだけれど、その著しい進歩はどうして可能だったのだろう。
 例を近くにとってみれば、一人の男、一人の女がそんなに入り組んだ諸要素をもって生れて来ていて、それでどうして、その要素の各方面にひっぱられてしまわないで、半歩なり一歩なり前進して来ているのだろうか。
 結婚生活または家庭生活というものを、私たちはまだまだどこやら穴居人の洞めいたものに感じる蒙昧さがのこっていると思う。そこの内部は何か人目からかくされた場所で、そこにある丁度いい暖かさ、体にあった窪みを、ほかのものには相当堪え難い悪臭とともに、自分たちの巣の懐かしさとして愛着する、そういうところがありはしないだろうか。
 家庭のくつろぎ、居心地よさというものを、その人のよさ、ねうち、生活への美しい意企を誰よりも深く理解しあった者同士が感じ合える、その味いとしないで謂わば手ばなしでめいめいの癖を出し合える場面として、ひとにも云えないことの舞台としてしまうところはないだろうか。
 家庭の二十四時間にはその上に、どっさりの台所の用事もついて来る。洗濯盥の権利も主張される。それらは今日の私たちの生活の上で決して手綺麗にすまされ処理されることがらでなくなって来た。若い主婦はいかに明敏であろうとも、八百屋に足を運ぶ度数を減すことは出来なくなっている。
 今日の若い世代の、よりよい結婚生活、家庭生活の願いは、一方で、ますます加わって来る困難な条件をはっきり見とおして、それらの困難にめげない人間の成長への確信に裏づけられなければ、やってゆけないだろうと思える。
 狭く一つ洞の中で互いを暖め合う男女の一組としての睦しさだけでは、云わば最も生物らしい情愛さえ保てない時代になっている。今日の若い良人と妻とは、歴史が私たちにめぐり合わせているこの地球全体の動乱から自分たちの結婚生活が影響されないと思ってはいない。自分たちの愛で自分たちの善意で結合が完うされるものだという素朴な事情で考えてはいない。自分たちの心からなる希願と愛とにかかわらず、どんな突然の変化が自分たちの生の上におこるか分らない。そういう現代の嵐の中に私たちの生は営まれているのである。
 人と人との真心のこもったいたわり、饒舌でない思いやり、骨惜しみない扶け合い、そういうものが新しい結婚や家庭の生活にますますゆたかにされなければならず、そういう潤沢なあふれる心は、つまり今日の波濤の間で私たちの明日が不測であるからこそ、今日を精一杯によりよく生きるための努力を惜しまずよろこび、愛して生きて行こうとする強い意志と、明るく光りに射とおされた理性の調和から湧き出すのであろうと思う。
 よりよく生きたいという人間本来の念願を私たちのものとして生活の中に実現してゆくためには、目前の不合理そして又自分たちの非条理で失望し引き下ってしまわないだけの、大きくつよい息が必要である。
〔一九四一年十一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「女性生活」
   1941(昭和16)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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