獄中への手紙

一九四二年(昭和十七年)

宮本百合子




八月七日

 (第一信)[自注1]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 モネー筆「断崖」(一)、コロー「ルコント夫人」(二)の絵はがき)〕

 (一)七日、今朝程はお手紙呉々も有難う! ああちゃんが後手にかくして朝のお目ざめに持ってきてくれたのを、忽ち看破したまではよかったけれど、さて手にとってつくづく表紙を眺めて、封をきり、いたずら者のいない間に読もうと思ったらば、字が一つも字の格好にみえないで、すじのいり乱れで、どうみても物にならず、とうとう閉口して読んで貰う決心をつけました。目がひどくて、殆んど焦点がきまらない有様なので、いつか目を悪くした時慶応で貰った点眼薬をまた貰って、この二日程はふすまのワクが真直にみえる様になりました。自分では読めないけれど、読めないと尚手紙がほしい。この暑さをどうやら工夫して無事にしのいでいらっしゃるのは、本当に何よりのお手柄だと思います。どうぞまだこれからが大変だから、益※(二の字点、1-2-22)御大切に願います。

 (二)今年がそんな特別の暑さと知らず、一生懸命にしのごうと思っている内に、あせもだらけになって、あせもの中から鼻の先だけ出している内、とうとうのびてしまいました。
 隆治さんが丈夫になったのは嬉しゅうございます。あちら土産のタオルというのはこれから恩恵にあずかります。輝ちゃんに押して歩く玩具を送ってあげたら、丁度その頃から歩くようになったそうで、その写真というのはぜひぜひ拝見致します。冨美ちゃんのお腹ペコは他人事ならず同情します。世界中の寄宿舎でお腹の空かないというところはないようです。
 この半月程の間は、寿江子も色々の思いをして役に立ってくれて、大変恩にきせられそうです。太郎が少年ぽくなって、色々と病人をいたわるという事がわかって面白うございます。

[自注1](第一信)――前年十二月九日検挙された百合子は、はっきりした理由を示さず、翌四二年三月検事拘留で巣鴨拘置所へ送られた。七月まで調べがないまますぎた。女区は全く通風のない建てかたで猛暑の夏であったため、百合子は体じゅうアセモにつつまれて、二十八日ごろ熱射病となり人事不省に陥った。予後悪し、ということで自宅へ帰された。帰宅後二日ほどして意識が恢復した。眼の水晶体がふくれて、以来完全に視力を恢復していない。

八月十三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 小杉放庵筆「金剛山萬瀑洞」(一)、安井曾太郎筆「十和田湖」(二)の絵はがき)〕

 昨日はお手紙ありがとう。あの雷と雨から、本当に朝夕が凌ぎよくなりました。色々の工夫をして暑さを凌いでいらっしゃる様子がこの頃はよくわかります。こちらはひどかった割に順調な恢復だそうですが、三十四時間程全く意識が無かったことは矢っ張りナカナカな打撃で、目や口や皮膚の神経が平常のようになるのは容易な事ではなさそうです。字は一寸も見えません、口も思わぬ処でひっかかって妙な事になります、こう云う障害は人間の体の植物性神経と云うもの(自分の意志のままにならない神経なのだそうです)の疲労で口のきけないのも言葉の記憶が無いのではなく、発音の筋肉をつかさどる神経の故障だそうです。顔付きは、どうやら私らしくなって来たそうです。今は痩せ始めています。レコード的すんなり工合です。眠ることと、食慾は大丈夫ですから御安心下さい。友ちゃんの父さんや弟さんがどうして暮しているか心配なことでしょう。島田へは今日、明日に帰った事をお知らせするつもりでした。輝ちゃんがお婆さんと虹ヶ浜で遊ぶ姿を考えるとナカナカ愉快です。(一)

 簀子小屋が松の蔭に立っているでしょうか。メリメ全集送ります。出版年鑑は不許でしたが念のため、もう一度お送りしてみます。近いうちに寿江子さんが又お会いして細かい容態をお話します。今日はむし暑い日になりました。家の小さい連中と母さんは一時帰京して、又郡山に行きました。今度は今迄にないひどい事でしたが心臓と肝臓がやっともって命を拾いました。ゆっくり構えて芯から健康を取戻そうと思っています。皆がお医者と相談して寝椅子を考えて、それを造ってくれようとしていますが、この頃は何しろ蝶番ちょうつがいがちゃんとしたのが無いので、ナカナカ造れません。今ねているのは下の座敷の、家中で一番涼しい処です、夜は雨戸を開けてねます。大変息が楽です、私に栄養のある物を食べさせてくれようとする苦心が一通りでないので大いに恐縮しています、スエ子さんが命の親の権利を充分に行使して頭が上がりません、盛んに一皮むける処で痒がっています。時々吹くこの風がそちらにも通っているのでしょうか、くれぐれお大切に。(二)

八月十五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 川島理一郎筆「金剛山の秋」(一)、和田三造筆「阿里山の暮色」(二)、岡田三郎助筆「高森峠より見たる阿蘇山」(三)の絵はがき)〕

 (一)十五日、昨日の朝のお手紙今朝着きました、オリザビトンと一緒に送った薬は理研のビタスであったそうです。お手許には別なのが届きましたか、若しそうだったら何かの間違いでしょう。名札でも取れたのでしょうか、お調べ下さい。隆治さんの事は腸の系統ではないかと思って随分気にして居りましたが、マラリヤではやはり後へ長く残る病気で決して安心もなりませんね、帰ってから再発して体質的に影響も多いから。送る本は私も時々心に浮べていましたが、中々これぞと思うものがなくて、もう少したったら岩波文庫で『ピーター・シンプル』というのが下巻まで揃ったら送れるだろうと思っています、そちらの目が大変に治りにくいながら悪質のものでなかったのは本当に嬉しいと思います、目は随分こたえますから。私の視力は新聞の大見出しはみえるけれど他は駄目です。体の治り方がテンポが不揃いで、いくらか起きかえる事が出来るようになっても目はずっとおくれているというような工合です。何しろ普段から左右がチンバな乱視で困っていたから。今度ももう少しのところで視力が根本的に犯される危険があったようです。

 (二)気をのんきにしているからどうやらこらえられますが、全くみえないというのではなくて物象は映っていて焦点が左右まちまちでコントロールがきかないというのは至って不安な状態です。然しこの頃は目をあけている事が多くなったから、それだけ平均が恢復してきたのだというお医者の説です。口の妙な感じは左のすみに残っているだけです。意識が恢復してくる過程は大変面白くて、決して通俗小説に書かれているような段々夜が明けるような調子のものではないことがわかりました。真暗な中にローソクの焔のような一、二点の明るいところが出来てその部分だけがはっきりとして後は全部暗いまんま、そういう点が少しずつ増えて行ってやがて互いに連がって一日の大部分がわかった状態として現われてくるので、意識が戻った後も始めの内はまるでわからない記憶にない事の方がどっさりです。一番始めの明るい点に映ったのはお医者様の顔で、親みのあるその顔は小さい小さいミニチュアールの様にみえました、昏睡をしている人間というものは大変人間離れがしてみえるそうです。そういう体の中で命と死とが微妙に交流していた時期の話は自分の今日の命の伝説時代で、珍らしく聞きます。看護婦を厭だと夢中で首を振ったそうです。

 (三)でも今は正気だからそんなわからず屋は言わないで頼む事にしましたが、さて、人がなくて昨日は待呆けました。寿江子とこの間一寸お使いに行った娘さんが代りばんこに大奮闘ですが、まだ自分では何一つ出来ない人を世話するのだから、心ざしはいじらしい程ですが素人ではヘバリ方がひどくて気の毒です。『寡婦マルタ』は家にあった筈ですからみつけてお送りします。本が不自由でなかったのは幸せでした。北氷洋の流氷の上で科学的実験をした人達の記録などは随分面白く読みました。最近『微生物を追う人々』という世界的な名著の翻訳が出ましたからお目にかけましょう。私は今寝床の上に仰向いてこんな話しをしているところへ寿江子が足許にヘバリついて涼しくない光景です。昨日から少しずつ「ピーター・シンプル」を読んでもらっています。この話は寝て読んで貰って聞いたりするのにふさわしい話で、私は恐らくこれから先何ヵ月もこうやって本は読んで貰って、書く事は書いて貰ってやるしかないでしょう。今日は長ものがたりになりました。

八月十九日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 藤島武二筆「屋島山上の展望朝霧」(一)、梅原龍三郎筆「朝の仙酔島」(二)の絵はがき)〕

 (一)十九日、今日は写真有難う御座いました。輝チャンの洋服姿は中々傑作です。如何にもハーティな笑顔で、若しこういう笑顔を青年になっても持っていたら大したものです。目に特徴があって、これはお母さんのお目と似ていて、叔父さん達の目とも似ています。大変愉快で有難う。隆治さんも大人らしい面持になりましたね。あごなども大きくなって。まだどの顔もおぼろおぼろでそれが心残りです。然もおぼろおぼろという時はおろろおろろに近くなるに於てをや。今日四時過ぎに開成山から親子四人が帰ります。一昨日やっと看護婦さんがきて、二人の篤志看護婦はいささか息をつきます。然し忽ち秘書に代らなければならないから楽隊屋でない方は中々放免されません。

 (二)メリメ全集は古いのを集めたそうで一巻が欠本です。六巻まであるそうで、お言葉通り三、四、五とお送りしてみます。六巻はまた続けて送ります。『娘インディラへの手紙』[自注2]は大変面白く読んだものの一つでした。あの本の書かれた状況についてもさまざまの感想を持ちました。「スクタレーフスキイ」という小説はどうも本物でありませんね。「黄金の仔牛」という諷刺小説がゴーゴリの風下にたってちっ共新しくなかったように、この小説の心理主義も至って古めかしく感じられるのは不思議です。これらの事も中々興味のある問題ですが、もっと口がまわるようになってから。たった一つの自慢は一人で起き返るようになってテーブルにひじをついてウナル事が出来るようになりました。

[自注2]『娘インディラへの手紙』――ネール『娘インディーラへの手紙』インドをふくむ東南アジア史。

八月二十日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 青山熊治筆「ばら」の絵はがき)〕

 二十日、今朝の空の色と風の肌ざわりは何と秋でしょう。目が覚めるとああ秋だと強く感じられました。そちらにもこんな風が入るでしょうか。二十日過ぎてこんなに秋になるとは目新しい感じです。病気して秋になった事が始めてだものだから、何年か前にあなたが苦しい夏を過してやっぱり今朝の様に秋を新鮮にそして亦爽やかな哀感をもってお感じになった日があったろうと云う事もしみじみと思いやりました。病気をするとおもいやりの細かくなるところもあって、つまりはあなたも損はなさいませんね。私のペンは口をきくものですから、曰く、おもいやりながら悪口を言っている。
 紺絣をお送りしましょう。

八月二十一日

 (消印八月二十七日)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 ミレー筆「羊飼」(一)と山本鼎筆「秋と白馬山」(二)の絵はがき)〕

 十九日付のお手紙二十一日朝戴きました。ありがとう。国男さんが持って来て、私に手渡してから読んでくれました。スエ子がおききして来た半ズボンのことは、気にかけていて、今日、明日のうちに一応見当をつけたいと思って居ります。どうもお待遠サマ。この頃は前のような布地がないから、ああ云うさっぱりしたちぢみは出来ますまい。自分の手足が利かないからこんな事も気の方ばかりシャツ屋の廻りをうろつく次第です。送って下すった本は今に着くでしょう。ね椅子は私も図を見た事がありましたが、今プランしているのはもっと私の生活に即した便利さが有るもので、何とかして物にしたいと思います。この頃は事務用の廻転椅子の軸が折れて、落ちる人がよく有るそうで、私が椅子ごと平ったくならないように心配しているので、実現がノビノビになります。
(スエ子さんが、手紙を上げたいそうですが、余り筆マメでないので、この「ペン代用」をもって、いささか良心を慰めるのだそうです。)(一)

 葉書に細い字をつめる技術に就て御同情下すって、書き手は光栄だと思いますが、これにも速戦即決的事情が有って、絵ハガキだとそれを突きつけて悲鳴を一寸上げて書かせることが、割合やりやすいからです。まして、只今この二枚目を書き始める時、スエコ口走って曰「細く書くのが道楽になっちゃった」と。ですから当分この細字のお習字は続くでしょう。二階の部屋は今日迄空家で私は下の太郎達のねていた処にいます。運んで来てねかすに都合の良かったことと、一番涼しい事で、ここにねています。従って、ベッドはどうなっていることやら。昨日、立上って、三・四歩位歩いてみましたが、目は役に立たないけれど、目まいはしないで、今日はこのハガキを終ったら、敷蒲団を取代えて、ついでに又少し膝のバネの訓練を致します。毎日お医者さんが見えて、注射をしています。一度一寸止めたら暑かった日とかちあって、胸が苦しかったので、又ずっと続けています。太郎は今日から学校。この頃は、自転車で相当に乗り回して居ります。アアチャンは少し長めの水瓜位の形で、大変に堂々たるものです。スエコはザンバラ髪で、ベートーヴェンが生き変った如き有さまです。あんまり、細い字を書こうとする時は、こちらから見ると、歯の間から少し舌が出そうな風です。ヤス子は、相変らず。国男サンも。今日は、爽かですが、又いくらか暑いからどうぞくれぐれもお大事に。(二)

八月二十二日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 あんまり葉書がつづきましたから、今日は手紙に致しましょう。人の気持は面白くて、違った筆で書かれるのを封すると、何だかそぐわない気がして居ましたが、寿江子なら封しても息づまるような想いもしなそうです。今日は日曜で幾分かのんびり。太郎も休みで小鳥を眺めてたんのうしている父さんのそばにくっ付いている様子です。昨夜ねる時、太郎が父さんに「お父ちゃま、いつになったら一緒にねてくれる?」と隣りの部屋で訊いているのを聞いて、大変可愛く思いました。太郎は今、学校が始まったから、下の部屋に小ちゃい叔母ちゃんとねんねで、親達は泰子を連れて、二階へ、別々ですから。私が二階の上り下り出来るのはいつのことでしょう。太郎はそれまで待たなければならないかも知れません。中西さんと云う看護婦さんが居ます。一日の行事は、朝晩体を拭くことや、間でちょいちょい薬を飲むことや、チクリと痛い想いをすることや、スエコに命の親的クダを巻かれること、及び風向きの良い時は、こうやって親切にペン代りになって貰うこと等です。スエコは本を読むのが上手くて、この間うち「シンプル」を読んでもらって居ますが、スエコが読むのと、別の人がよむのとでは、まるきり物が違ったようで、今度初めて、読方の技術の大切さを痛感しています。あなたは、読むことがお上手かしら? 上手な人は、自分を読んでいる文章の内へ決してまぎれ込ませないで、よんでいる物を独立してくっきりと浮き立たせます。(このウキタタセます、と云うようなのは、云うのにだいぶ口元が骨が折れます。何しろスエコに「この狸」と云ったら「タルキ」にきこえたそうで以来、「何だタルキのくせに」と云う流行はやり言葉が出来ている次第です。私がいくらかすらりとして、床の上に坐って、ロレツの怪しいタンカを切って、チラチラして物も見えない二つの目を、いやに大きく見える眼鏡の内から光らかしている姿を御想像下さい。大変見馴れないでしょう。自分にも良くなれる事の出来ない自分です。)
 下手な読手は、変にぼってりとした自分の肉付けを文章のまわりにくっつけるので、意味が解りにくいばかりか、文章の味などと云うものが全く消えます。もし長く見えないと、私にとって読手と云う者が書手同様必要ですが(スエコ曰く「オオコワイ」)その人の選択と云うものは、性質の良さの他に、そう云う特別な要求点があるわけですから、なかなか見付けるのに困難しましょう。口述の簡単なのでも人の性質によっては、抵抗があってやりにくいものです。何しろ、そうそうスエコを乱用も出来ませんから。既に御らんの通り、オオコワイと云われてみればね。
「インディラへの手紙」の著者は、また現代史を書きつづけるような生活ぶりらしい様子ですが、彼の国の今日の歴史は実に紛糾していて、沢山の犠牲が行われている模様です。なかなか現代史のページは、立体的ですから。過去の歴史のどの時代にも無い内容です。
「シンプル」は、十九世紀始めのイギリス海軍が、どんなに野蛮で粗野な一面を持っていたか、フランスと対抗していたこの時代に、イギリスの軍艦の水夫が、どんな動物的な狩り立てで、強制的に強奪されたかが割合正しい率直さで語られているし、そう云う背景で理解する人には、興味がありますが、さもないといかにも十九世紀の始めらしい流れののろい描写で、退屈するようです。家の先生も上手な読手に拘わらず、むしろペン代用となる方をより興味あることとする傾向があります。(私にはよく見えないけれど、字がだんだん速記的になって来たそうですが、本当?)外交的ヒントと云うものはこう云う形で与えられ、決していきなり「もう手がだるい」とは云わないものと見えますね。(これは内緒話ですが、私はいつか、目をしかと見開いて、何枚書いても速記的にはならない字で、スエコがこっそりのたくらしている現場をつき止めたいものだと思います。)
 ロマン・ロランの「魅せられた魂」は完訳され、一巻と四巻と云う風にとびとびに読みましたが、「ジャン・クリストフ」はお読みになったでしょう? あれとくらべてこのアンネットと云う女主人公をもった長篇は、女である私達には、非常に興味深い観察が促されて、ずっと読んだらば、さぞ面白い感想がまとまるだろうと思います。生活に一貫した自立性を求めて行くアンネットの理性と情緒的な物との見かたが、この作品では、一方を人間的高度の知的な物として、他の一つを意識下の血の力として見ているような点が、何か私達の生活の現実が、到達している生活の実際よりも、歴史的に一段階前のもののように思われます。そして、この事は書かれた時代が二十年程前だと云うばかりでなく、男の作家が女主人公を誠実な意図から向上的な精神の面で描き出そうとした場合、その善意によってむしろ、やや観念化された結果だとも思えます。これも面白いところで、矢張り強い思索力と云うものは何か所謂「理性」だけが分担するように思われて、それは即「男」と云う名によって現わされた人間の高い精神の働き、と云う風に映り、女の本能的なものがそれに対置されるのでしょう。この小説は大変に面白いので、なかなか声を出して読んでもらうのでは物足りなく、読手はよみたがり、目下協定なり立ちません。きりがないから、宛名の余白のあるうちに、これでおしまい。
顯治様[#「顯治様」は手書き文字]
百合子[#「百合子」は手書き文字]
(手さぐりの字はいかがですか?)

八月二十七日

 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 ドガ筆「踊子」の絵はがき)〕

 今日は、涼しいこの頃にしては暑い日でしたがいかがでしたか、御注文の半ズボン、今日手に入れて、お送り致します。大きさはたっぷりしていると思いますが出来上り品ですから、長さは普通です。この生地一色しか有りませんが洗ってクタクタにならなければ幸せです。やがて、一ヵ月になろうとしていて、今夜は、月影が珍らしいので助けてもらって、久し振りで、夜の庭を暫く眺め、よい心持でした。ひるまはキラキラして、簾ごしにも庭は見られないので。目は字が見られる迄には、よほどの時がかかる様子ですし、大体四十二度以上の熱を患った者は大抵そのままになるのが多い例なので、そう云う病気の本でも神経障碍の実例は余り記述されていないそうですから、いよいよもって、運の強かったことを有難いと思わなければならないわけでしょう。もう少し、体全体が恢復したら、目の方の検査もして、恐らく、乱視の度が進んだでしょうから、それをはっきりさせます。目の宿題は、生理的、及び精神的宿題です。庭には畠が出来ていて、お芋(これはやや可)大根(これは全く未知数)赤蕪(肥って良)などが出来ています。鳩のヒナは三羽居ます。夜のしらしら明けから鳴きます。

八月二十七日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 八月二十七日
 この三、四日なかなかきびしい残暑なのでいかがかと思って居りました。暫くお手紙がなかったから。十九日の日付のを出してみて眺めていたら、二十四日付のを持って来てくれました。夜明けは涼しくなったとお気付きになるのは、余り夜良くお眠りにならないからでしょうか。どうぞくれぐれもお大切に。
 今年は私にとって、夏が年一杯つづいているような印象です。実に長い。秋らしい様子になって来て、ゆうべ等は月の光が射しているのに、雨が降る音がしたりして虫の音もしますが、庭をひるまカンカン照りつける日光には辟易です。簾を下げてマクマクしています。目は極めてのろのろと幾分ずつ恢復していて、お手紙の字なども、固い苦しい線の入り乱れたものから、昨日今日は字らしい柔かみを持った物となってうつるようになりました。用心して無理に読まないようにしています。字画はまだボヤボヤです。面白いことに、自分の手の先の爪がなかなか見にくくて鏡をやっとこの頃苦しくなく見られるようになりました。
 ビタミンのことありがとう。目下私の療法はビタミンの補給と肝臓の機能の補助で、終始一貫していて、ビタミンもBを注射してA・Dを飲んでいます。目の為にもBは大変に有効だそうです。咲枝さんが身重なので、お乳が出るために矢張り同じ注射をして居ります。こちらはすぐ効力発生ですが、スエコさんが疲れて矢張り同じものを注射し始めましたが、こちらは何しろ持病の糖尿でさんざん苦労を重ねて薬に対してもいささか懐疑的なので自分からすぐに効力は認めませんが、はたから見ればいくらかききめが見えています。今も太郎が学校から帰って来て食堂でウェーウェーとやっていて、小チャイ叔母ちゃんは「お土蔵くらへ入れて来るから一寸待って」と云いましたが、やがて「面倒くさい」と云って中止しました。どう云うビタミンがこう云う腰抜け小僧にきくでしょうか。
 日本評論社の本は承知致しました。本当にこれからはますます主婦が知って置かなければならない知識ですから必ず島田へも送ります。先達て島田からお見舞の手紙とお金とを戴きました。それでも家で養生していられるので、お母さんもいくらか御安心下さっています。
 ビタスのことはすぐ取はからいます。
 メリメ全集は葉書にも書いたように、第一巻が欠本ですが、第二巻は、ではお送りしましょう。バルザックは家に全集が一冊もなくて、何とかして手に入れたい心持でいた処でした。どんな都合にゆくでしょうか。私も「幻滅」は是非よみたくて居りますが、河出につとめている人にきいて、算段してもらいましょう。スタンダールは「赤と黒」は不許でした。「パルムの僧院」「恋愛論」等、ちりぢりにありますが、選集は家には有りません。サンドのものは割合に訳されているものは集っています。これから先へお送りしましょう。フランスは、あんまり有りません。昔読んで集める気がなかったものだから。「支那イソップ」が家の本棚にあるそうですが、昨今はその本棚もだいぶいろいろなことで掻き廻されているので一層見当が付きませんが、調べてもらって見ましょう。「シンプル」の下巻まで待たない方がよかろうと云う話には同感です。
 それからね、栗林さんのお金のことを読んでいた人は「アラッ」と云って頭のてっぺんを押えました。「こりゃあ」と云って目玉をおおいに動かして、まだ送ってなかったと云うことでした。今日送ります。これには何でも言いわけがいるのだそうで、以下の如き次第です。(どっちみち送らなかったのですから、言いわけは止めにします。スエコ)
「マルタ」が出入り禁止とは、オールゼシュコも思いがけなかったでしょう。そちらでお読みになって興味のある小説以外の本を、こちらへ送って戴けたら、だんだん読み手を頼んでよもうと楽しんでいます。スエコも読み手志願をしていますから。けれども、この目の調子では今に一日に数時間ずつ、そのことだけしてくれる人を見付けなければなりません。目は見えなくても、世の内は矢張り面白く急速に進歩しているのですから。
 今日は書き手が私の用事でもう出かけなければならないから、これでお止めにしてまたに致しましょう。ね冷えをなさらないように。こちらは大丈夫ですが。
 名前だけがはみ出るとのことで一ページもうけました。この頃は気分がよほど普通になって来て、花を見たいと思ったり、音楽をききたいと思ったり致します。それに、いつの間にやら、スエコが育っていて、読んでいた色々の本の話やスエコの音楽論等と云うものを拝聴する時間が相当あって、思いのほか楽しい病臥生活です。スエコもあれではにかみやだものだから、音楽論等と云うものは門外不出ですが、こっそりもらす処をきけば、相当に目がつんでいて下等品ではありません。決して不肖ではないから一安心です。然し創造的な仕事は体力が消耗されるので、それと戦うのがこの頃の食物では一仕事で、しかも私のように死んだことがあると云うのでもないから、つい丈夫な身に扱われて折々閉口しています。

八月三十日

 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 コロー筆「樹陰」(一)、柚木久太筆「八甲田の一角」(二)の絵はがき)〕

 (一)二十六日附の御本の要件について。一、御注文の本はどれも品切でこれからも心掛けておいて、手に入り次第お送りします。「結核」はお医者様が持って居られるかも知れませんから、お聞きしてみます。フランスのは『昔がたり』が一冊だけありました。先、英訳で読んだ本は十年前に売った本箱に入って居ました。サンドはあるだけお送りしました(六冊)本のないのには実に閉口です。冨山房文庫は殆んど廃刊同様の有様です。手紙は又別に。

 (二)本の話の続き、今朝はこういう字を書く方のペンが可愛い花模様の着物で現われたので、早速電話もかけられましたが、どれもなかったのは残念。岩波文庫に新しくジャムの散文詩と、オースティンの『説きふせられて』スタンダールの『ヴァニナ・ヴァニニ』などが出ているようですから買っておきましょう。こちらでお先へ拝見してという風に行けば誠に好都合なのですが、私の目玉の代用品は今のところどちらもミュウズの申子だから、時々創作的情熱という病気にかかって代用品の方を廃業するので、これもやはり至って焦点がきまりません。多分先へお送りする様なことになるのでしょう。隆治さんへの本願います。

八月三十日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 八月三十日
 今は、二十九日の夜です。やっと太郎がねて泰子が母さんとお風呂に入って、あたりは静かになり、虫の声が、耳につくようになりました。二十六日と、二十八日とのお手紙二つ枕の下の蒲団の下に敷きおさめて、機会やあると、スエコの飛び交う袂を眺めていましたが、忙しかったり、へばっていたり、さもなければ何となく柳眉の辺が気遣われたりして、それをとらえたのは、只今です。もっとも寿江子の名誉のためにお断りして置かなければなりませんが、機会をあたえるとなれば、全く自ら進んで、提供してくれるのですから、私は大変安心してよろしいのです。
 今日は本当に暑かったこと。九〇度を越しましたろう。今日のように暑いと、あの半ズボンが、またお役に立つわけでしょう。三・四日前は、お送りするのが遅すぎて季節はずれのように、思われましたが。
 私は暑いと一層、目がマクマクして、気持がいやになります。けれども、今日ではもう氷嚢なしに過せますから、御安心下さい。矢張り神経障碍の一種で、時々「マシン」のようにポッとふくれて、痒い処が出来て困りますが、これも、追々「レバア」の利目があらわれれば、なおるものだそうです。
 何しろ、この十年の間には、あれほど心臓を悪くして、やっとなおしたかと思うと、いつかの夏のように、微熱を出したり、目を悪くしたりして、考えてみれば、夏のたびにいくらかずつ健康が低下して来ていた処に、ガッタリと根本から打撃を受けましたから、何やかやと、妙な故障が続発するわけでしょう。気長な養生は只一つの恢復の道です。注射は「B」のほかに「C」も入っているそうです。その他、神経の栄養のために燐剤を飲んでいます。「レバア」は勿論。
 この燐剤は、合っているらしくて、至って抵抗力の無い神経が疲れて、少しいらだって来たような時、スエコに素早く一服盛られて、案外の効果を示します。そう云っても、これは決して、眠り薬では有りませんから、御安心下さい。
 二十六日付のお手紙の中で、東洋経済新報の件は、当時予約を受付けず、毎月買って入れていたので、継続の分は有りません。ベリンスキイは来ていませんでした。お金は月曜にお送りします。
 目の検査のことは、もっと時がたって、体全体の栄養が恢復して、出来るだけ均衡を取戻してからでないと、目だけ切り離してみにくいものなのだそうです。こう云う目の見えなさは、脳の内膜が脳膜炎と同じような状態になって、目のぐるりの神経・血管その他に故障を起させたからだそうで、実際、先月の今頃、夢中だった時には、真赤に充血して、ふくれて飛び出した目をしていたそうです。あの目じゃ、見えっこない、と云う評判で、家の人達は、この頃、兎も角、私が、私の顔になって来た、と云うことを、珍らしそうに感服している有さまです。
 昨日は、一ヵ月目であったので、自然話が出て、知らなかった我が身の上話に幾頁かを付け加えましたが、今の私と、前の私との間に、全く自分の知らなかった何日かがあって、しかもその何日かの間に、夜の目も合わさず私を生かそうと努力しつづけた人々のお蔭で、命が保たれて、今日、自覚した生活へつなぎ続けられていると云うのは、何と不思議な気持がすることでしょう。自分の知らない自分のことが、人から話されることで、初めて自分の生活の物となる、と云うことも何と奇妙でしょう。心理学的に、色々と面白いことがあります。例えば、私が、暑くなると夢中で団扇を使ったと聞いていて、それは団扇を手に持ってはいたのだろうと思っていた処、団扇はとても持つどころか、空手からてを団扇を持った形にして、あおいで、時には、ぐるりで皆があおいでいる、その風の動きと合ったリズムで無意識にあおぐ真似をしていたのだそうです。反射神経が、そう云う風に生きつづけ、今のように、精神の作用がある程度まで、戻ると、植物的神経などと云うものが、蒙った損害からいつ迄も恢復出来ないで居ると云うような生理のいきさつは、とても自分でも驚きます。
 昨日、みんなでハァハァと笑ったことですが、あなたは愛妻の身の上にそんなとんでもないことが起ると云う虫の知らせをお感じになりましたか? 昔小さかった時「虫が泣かすんじゃあ」と泣いた人は、成長して、虫は余り敏感に作用しなくなったかどうかと云うことを話して、大笑いしました。私の方はあんまり急で、云ってみれば、虫を派遣する暇が無かったのですからあしからず。お化けになる支度をするひまさえありませんでした。
 二十八日付のお手紙、これは結局、国男さんに読んでもらいましたが、字がいくらか大きかったものだから、何だかよめそうな気がして、おおいに目玉を動かしました。
 宛名を力作と評価して下さったことは、うれしいと思います。全く力作で、当分もうあれはくり返せません。午後中、よく目が見えなくなったから。
 本に就ては、葉書で申上げました。小野寺十内の和歌は初めて知りました。昔の人は、そう云う場合の感情さえ、こう云う一見淡彩な表現の内に、語ったのですね。あなたのお手紙の内に、歌の出た始めてですから、特別な感じです。今日は、もっと歌の話、その他を、どっさりするつもりで、意気込んで机に肘をつき、耳たぼを引っ張って居りましたが、紙は、何とじき一杯になることでしょう。それに、もうスエコがお風呂に入らなければ、何人かが困ると云う場合に立ち至って、残りは、別便になってしまいました。では一と先ず、これで。

八月三十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 八月三十日。
 昨日丸っこい小さい小包が着きました。開けてみたらばお話の手拭とタオルで、お見舞有難く戴きました。手拭は見なれた物ですが、タオルはいかにもあちらで出来たらしい気持の良い藍色と、それより細い朱の縞が縁に付いていて珍しい可愛らしいものです。一枚位そちらでも使ってごらんになりましたか? 体をふくのに上々ですが、私とすれば何だかそれも惜しくて、机の処にかけて一寸使えそうな気がします。
 メリメは全部を読んだことがないので、むしろ駄作を知らないわけですが、トルストイの全集なんかでも遺稿の内には、未完成の小説で、一つのテーマを、ああ書き、こう書きしてみて、結局物にならず終っているようなものがあります。けれどもこの人の場合は、百姓女をだました地主の貴族が、妻に対する良心と、自分の行動に対する責任感との間に苦しんで、一つの習作では自殺をさせ、他の一つでは結末がつかないまま、中絶していると云うような作者の精神の足どりがうかがえるようなものです。メリメはああ云う作家だったから、そう云う形で未完成さが現れずに、ただのお話になってしまっていると云う違いが、面白く感じられました。「カルメン」はメリメの作の方がオペラより数等上ですが、あの音楽はなかなか面白いわね。覚えていらっしゃるでしょう? 貧弱な機械で聴いたけれども。
「娘インディラへ」の著者に触れて、歴史家の内には、原本を持っている人もあるようだと云うことは、読みながらも深く感じたことでした。歴史家の歴史を描き出しようもさまざまですからね。百年たたねば歴史の書けない歴史家もある。また、まず人がどっさり本を書いてくれて、その内で文部省の推選図書になったものをお手本にしなければ書けない人もあり。十四、五の女の子にむかっても、真面目な精神は、真摯しんしな物云いをしていることは、読者に感銘深くありました。
 この間うちから、スエコと話している事ですが、心の内に次から次へと湧き起る色々の心持や考えを、一旦言葉に出して、それを人の手で字に写してゆくと云うことは、何と困難な、時にはバツの悪い、しかもいつも云いたいことはとことんの処で云い残されていると云う工合の悪いことでしょう。心の声を自分の声として、自分の耳に聞くと云うことは、沈黙の内で、気持と紙と語りかける相手とだけで、差し向いな習慣のついている者には、一つの苦痛に近い感じです。文学の仕事と云うものが、どんなに心情的な過程を持っているか、と云うことを改めて感じます。小説がこう云う方法で書かれようとは一寸思えません。それにつけ、ミルトンだの馬琴だのと云う人の仕事した骨折りが、実に考えられ、特に馬琴が、あの時代の特別に学問もなかったお嫁さんにあのコチコチな漢語を一々教えながら、書き綴って行った努力は日記に書かれている以上だったでしょう。でもあの人達にはまだ書けたと思います。何故なら、ミルトンは、ああ云う観念の世界に自分を封じ込めて、其処に君臨していたし、馬琴は矢張りもっと卑俗な程度の道徳感と、支那的な荒唐性に住んでいたのだから。我々の文章そのものに対する感覚から云って、書いてもらって書く小説と云うのは、いかにも出来にくそうに思えます。スエコは、それでも、私がもしすっかり視力を取り戻さない時の用心に、だんだん馴れてゆけばそう云う物も書けるだろうと健気に申しますが、今もこの手紙のなかで、沈黙の「黙」に八つ点ポチが付いてしまったと云って、さながらペンは恐しい自動力をそなえているようなことを云う始末ですから、私として親切に対する感謝と、実際上の見透しとは、必ずしも一致しないのは無理ではないでしょう。恋文の代筆が喜劇のテーマになることは、これとは一寸違うけれど、何だか思い合わされるような処もあります。
 今度は前から持っていたプランに従って、古代から近世迄の女流作家の作品を読もうと思って、万葉や王朝時代の人達の物を幾らかまとめて読んで、色々と面白く感じました。万葉の女性達は和歌の世界へユーモアさえ反映させていて、そう云う生活のあふれた力が雄大さや無邪気さや、強い情愛となってあふれていて、その時代の女性ののんびりと丈高かった心の動きが、気持よく印象されました。斎藤茂吉の『万葉秀歌』上・下が岩波新書から出ていて、それで読みましたが、御らんになる気はないかしら? 紫式部と云う人は、矢っ張り立派な小説家だと思います。よく云われる悪文家だという評判はもっともで、ところどころ眠ったまま書いて行ったかと思うほど、抑揚のないダラダラ文章の処がありますけれども、それはたいてい具体的でなく、わざとぼんやり何かを仄めかそうとしている時で、例えばあのみにくい末摘花の哀れな姿を描写している場面や、玉鬘と養父の光君との感情交錯をたどった処、その他どうしてなかなか本物のリアリストでなければ書けない描写がどっさり有って、恐らく徳川時代のどんな作家も及ばなかったことは確です。そしてこの人が清少納言と対比されて大変落着いた内省的な身持の堅い女性として、常識家にも評価されているけれど、それは式部が有難やの云うような哲学者だったからではなくて、道長の最隆盛の時代に生れあわせて、その時代の現実にじかにふれ得る程度に家柄も良くて、なお自身大変年上の面白くもない夫を持ち、娘一人を残して死なれ、寡婦の生活を送っていた後、中宮につかえて、其処の気風は万事万端、道長の盛な翼のかげに持たれているような、いわば無気力なふんいきであったから、式部のリアリストとしての感情は、常に或るもの足りなさやぼんやりとした不安や、を感じていたのでしょう。そう云う境遇を知っている女でなければ書けない人物もあって、当時の女の立場と云うものを、哀れなものとして、客観する力もまたその限界の内で、そつなく身を処して行くべき心得と云うようなものをも兼ねそなえていたようです。はっきり中流の女性は自分の力で身の将来をも開いて行こうとする意識があるから、余り上流で、外から尊く飾りたてられている女性や全く無教養な下層の人にない面白さがあると云っている処も女の実際にふれていて面白く思えました。もっともこの人の中流と云うのは、大伴家持がそうであったように国守程度を指しているらしいけれども。清少とこの人との面白さの対比は、つき進んで見てゆくと、これまで面白がられていた以上に面白いらしく考えられます。この時代のずっと末になると藤原氏の力も衰え、女流文学もしたがって衰えて、たまに書いている人は、作品も貧弱だし、書くと云うことに対しての意識が変に外見的なものになって気に食いません。それに就ては、またこの次。
 ついこんなに長くなってしまって、私はもうヘトヘトです。これだけ書く間に、一くぎり言っては「ね」とつける、その「ね」の数は幾百ぞ、です。スエコも疲れてきて、頭が痒くなりました。ではこれで一息ね。さようなら。

「紙って書けないもんだな」とスエコも歎声を発しています。

八月三十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 吉田博筆「剣山」の絵はがき)〕

 三十一日
 本郷の方へ出掛ける人に頼んで思いがけず『結核』がみつけられました。早速お送りします。他にフランス『襯衣』同じく『遊歩場の楡樹』スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』とを、みつかりましたからメリメの第二巻と一緒にお送りします。これらは皆お下りを読んでもらうのが楽しみなものたちですからおすみになったらどうぞ。下すったタオルはおばあさんのくれた台の上にかけて床のわきに置いて眺めています。中々きれいで且シャレています。タオルとはみえません。上でこの葉書を書き、ひどい風が外で吹き荒れて私は気分が悪くソボリンをのんで、はいが一匹その箱にとまっています。

九月六日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 九月六日夜
 本当にね、仰云る通り二枚以内に致しましょう。この間、自分でもいくらか考え付いたことでした。それに面白いことは、この四、五日、全体として進歩しながら、またこれ迄にない疲れが出ていて、体中の筋肉がしこって、腕など髪をとかすさえ痛い程なので、お医者の紹介でマッサージを頼んだところ、その女の人の云うには、体中びっくりする程凝っているそうです。七回ほどでだいぶ良くなるだろうとのことです。夢中の間に筋肉が緊張していたのだそうで、それが今になって疲れとして感じられて来たのだそうです。つまりやっと其処迄病的な条件が収まって来たことの証拠だそうです。これにつけても頭の内のことが怖くなってね。自分の知らない疲れが結局は一番決定的な意味を持っているのだとしみじみ感じました。そして又この頃は落着いて来た結果、自覚される疲れと云うようなものも実際に有って、今月一杯はうんとぼんやりして暮そうときめていた処でした。
 色々細いこと迄気づかって戴いて、本当にありがとう。だから、二枚以内はお躾けとしてではなく有難く合点いたします。この間うち、しきりに長く話したかったには、色々の気持の理由が有って、考えてみればいくら長く長く話したって矢張り話し切れない心持から云っていた処もあり、一方には自分の頭がどの位正常であるか自分にたしかめたい処もあったと思います。病院のことは、今の私には家での方がずっと良いらしい様子です。食餌のことも病人の特配を受けているし、卵・バタ・果物類は色々な人が心配してくれて、何とか今迄続いて来て居りますから御安心下さい。目の方も九月末にはちゃんと調べます。それ迄は体の基本的な条件を整えるためにかかるでしょう。タオルのことは大笑いだけれども、私にしてみれば、やっぱり机の上にかけて眺めるだけの値うちが、新しい意味として籠っているわけでしょう? 今見れば全くきれいよ。この頃ちょいちょい療してと云うことに就て考えます。これはどんなにかあなたもお感じになったことでしょう。何年か前の夏などには。夜露は、夜草葉に落ちて、いつかそれを甦えらせます。そう云うもの。療してはそう云うものね。

九月九日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書 速達)〕

 眼についての速達どうも有難う御座いました。あの先生のことはちっ共思い出していませんでした。大変いい御注意でしたから、早速主治医先生と相談して二人の都合のつく時に落合って頂いて相談しようと思います。今日迄待っていたのは、乱視の度を調べるような単純なことでも、眼の検査には強い光線を眼にあてなくてはならず、それだけの刺激がよくないというわけでした。だからもっと体がしっかりして、神経も安定してからでないと眼の検査の為の作業が脳を刺激して大局的には反ってマイナスになってしまうからということでした。もうそろそろいいのかも知れないけれども、昨今又違った形で神経疲労が出ていて、三四日前に夜一寸芸当を演じたりしましたから、若しかしたらもう少し鎮静してからの方がいいかも知れませんが、今日の内に両方へ電話をかけてみて、相談だけはともかくも至急してもらうことに致しましょう。でもね、この頃は大層成績が上って、上目を使っても目が廻らないし横目も出来るしすごいものです。ひと頃のように枕の上から自然にみえる範囲の伏目勝ちでどっちへも目玉が廻せないという様な有様から比べれば、たしかに人間並になりました。
『ピョートル大帝』の下巻は、もらわなかったから古本で探しましょう。眼の本はどうも有難う。誰が読んでくれるかしら? この字を書く人が二日置きずつにちゃんと来てくれることになったから、私は本当に気が楽になりました。眼のこともいずれ読んでもらいます。家の連中は私がもう死なないことがはっきりしたら、大分タガをゆるめているのよ。おかしいこと。

九月十四日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十四日
 今日の様な風を昔の人は野分の風と呼んだのは実感からですね。木の葉の音やその中にまじる昼の虫の音を聞いていると、野分としか思えない風情です。昔の人はそこで短冊を出しかけたのだけれど、家では中耳炎になった泰子の泣声がひびいて、看病にヘバリ果てた身重のあーちゃんが次の間で横になっている次第です。人手が極端にないから、こういう突発のことは総動員になってしまいます。泰子は大して悪いのではないから御安心下さい。私だけが家中で泰子を抱かないただ一人の人間です。眼のことは来る十七日の夜、二人のお医者様が落ち合って、先ず乱視の度を調べたり、他の障害があるかどうかを調べたりして下さる予定になって居ります。私は大分用心して、本を読んでもらうことも手紙を口述することも止めて、一週間程過し熟睡するようになりました。マッサージもきいているようです。残暑の長さと凌ぎ難さがしみじみですが、お障りないでしょうか。私がおしゃべりをするとお思いになって、そちらも手紙を下さらないのかしら。歩けるのは(外出)余程先のことだから、どうぞお手紙下さい。薬は色々のがいるものです。友子さんから手紙で九月中には隆治さんが帰る由です。無事に島田の家の土間に立つ姿を考えると涙が浮ぶようですね。お母さんのお喜びどんなでしょう。会いに行けませんから残念です。あの人の胸の中にたたまれている感想の数々についても推察致します。

九月十六日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十六日
 土曜、日曜がはさまったので十一日附のお手紙昨日午後頂きました。昨日の雨は季節の境目のようで、今日は本当に秋らしい日になりましたが、私はいかにも気がきでない一日を送りました。だって私の紺がすりは戸棚に入っているけれど、あなたのお召しになるのがどこにも見付からないという訳で、しかもそちらにあるのかどうかもわからず、ともかく袷羽織とメリヤスの合ズボン下と、銘仙紺がすりを小包にしてどうやら夕飯を食べました。何しろ冬のジャケツを八月の下旬に私とこの字を書く人とで、やっとクリーニングに出した始末ですから。ポカンとしている時間が体にどんなに大切かということは、この頃身に沁みて感じて居り、そちらでお着になるものを順序よく手入すること位が楽しみの程度に周囲が整理されていたらどんなに心持がいいでしょう。眼の検査がすんで風呂にも入れ、もう少し歩けたら、万難を排して国府津へ行き、この冬を過したいと一日千秋の思いです。寿江子が勉強を始めたらピアノの音とレコードとオルガンとで、ああちゃんのキィーキィ声がかき消される始末で、私はその音で動悸が早くなる程厭です。私がかんしゃくを起すから温和なこの人まで神経をたてて、みているとこんなに字をまちがえているでしょう! ですから万端お察し下さい。あなたが乾いた単調さとお戦いになる程度にここでは音やごちゃごちゃとの組打がひどくて、ここの生活に一寸もなれない内、いきなりこちらはヘバってうずまきに巻き込まれたから大閉口の有様です(愚痴をこぼしてごめんなさい、こういう愚痴もたまにはこぼしたいものよ)世界史瞥見の続きというのは、「娘への手紙」の続きでしょうか。それならばおあきになった時、こちらへ送って頂きたいと思います。前編はやはりお友達からのものでしょうか。やはりお返ししなければならないものでしょうか。若しそうならば続編を読んでもらってから『元禄快挙録』と他の小説と一緒にお返し致しますが。青年書房版の『世界外交史』ヴェー・ペー・ポチョームキン監修第一巻を買いました。第二巻はまだ出ませんが、第一巻は一九四一年版で十六世紀から「ジャコペン党外交の組織」までです。若し興味がおありになるようならすぐ送ります。私の方も読むのに我が眼が役にたたない為、まるで氷砂糖でも歯なしがしゃぶるように大したものでもないオースティンの小説が、シンプル君以後の読み物で、然も前途遼遠という始末ですから。三枚になったがお許し下さい。

九月十八日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 九月十八日
 十六日附のお手紙、十七日頂きました。六日に書きとってもらった手紙が九日に投函されていたということは、如何にもここの家での私の生活の特徴と不如意の形をまざまざと示していて、中々感じが深いことでした。私は知らないのですから。ハンドバッグにでも入って三日がたったのね。マッサージはこの間の手紙で申し上げたように、私が夢中の間に体中の筋肉が痙攣のように緊張してひどい力が入って、すっかりしこりになっているのをそろそろなでてほごして、そちらの方からも神経の鎮静をしようというので色々研究して刺激が強くないように考えてやって居りますから御安心下さい。十七日の夜予定通り二人のお医者様が落合って、眼の検査をして下さいました。ビタミンBの欠乏による軸性視神経炎というもので、眼底に致命的な故障はありませんそうです。これは本当に嬉しいことです。盲目になり切ることはないというわけですから。今みえないのは、まだ眼底に充血が残っていて、細胞の間に漿液のようなものがしみ出しているのだそうで、それを吸収させるために新しくヨードカリを主にした薬を段々量を増しながら飲んでみることになりました。Bの注射は元通りです。少しよくなるまでにも数ヵ月はかかる見込みだそうです。
 一昨日お医者が来て、今の私の神経の疲れ工合、恢復の調子からみて少くとも一年は静養しなければならないと始めてはっきり言われました。いきなりそういうと私が失望すると思っていらしたのでしょうね。たびたび会って私が長いのを自分でも充分わかってきていることが知れて、始めて口に出されたのでしょう。眼も全体がよくなればよいとわかれば悠々たるものです。大事な手紙が三日宙に迷ってもそれは我慢も致しましょう。何しろこの不随状態の人々の中で生活していれば。シャボン昨日お送りしました。『微生物を追う人々』と『支那イソップ物語』二三日内にお送り致します。イソップはどうもみつからないらしいのです。今も探してもらいましたけれど、二階に上れないものだから。それに引越をしてゴタついたままのところを更にゴタついたもので。
 島田へ送った『栄養読本』のことは、今葉書で聞き合せました。十二日にはきっと着いていたと思いますが、いつぞやのお手紙にあった通り病気にならない人達は、「ハハアこんな本が来たわい、友子さん読んでおおき」「ハイ」という位のことで、それがどんな大きい意味を含んでいるかなどということは、あまり頓着しないのでしょう。人間の健全さと愚さとが、こういう場合にも私たちの生活にない合されていて、面白いものです。私だって丈夫ならやっぱりその口ですから。
 小説の技術のことは、大変興味ある問題で、芥川龍之介はスタイルが文学を古典として残すか否かに決定的な力を持っていると言ったとか言って、野上彌生子さんは専らスタイルの完成を心がけられるようです。このことはもっとどっさりのおしゃべりを誘い出しますが、三枚以上続けるなんていうことは、あんまりこわいから。これでおやめ、改めてまた。

九月二十日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 田辺至筆「秋の戦場ヶ原」(一)と有島生馬筆「霧嶋連山遠望」(二)の絵はがき)〕

 (一)二十日。ヨード・カリという薬は大変にまずい薬ですね。これが眼底の充血をとるならばと正直に三度三度しぶい顔をして飲んで居ります。ところでオリザビトンが製造禁止で春以来苦心して買っていたのが駄目になります。代りとして近藤薬局に相談したところ、「ユガマン」三〇〇錠十一円が B1 とCとを含んでいて、オリザビトンと殆んど同じものだということです。もう一ビンはお送り出来ますが、その次がもうないからお考えおき下さい。強力メタボリン(B1)三〇〇錠七円とアスコルチン(C)三〇〇錠七円という組合せもありますが。だんだん高い薬しかなくなって閉口ね。昨日今日は大変よく眠って、恢復の感じが少しずつわかってきたようです。
 今日は変にむすから風邪をお引きにならないように。

 (二)前の葉書を書いて暫くしたら注射の為に水上先生が見えて、薬のことを御相談しましたら、強力メタボリンの錠剤と日本橋の日本ロッシュ会社発売のレドクソン(C)とを併用すれば一番よかろうとのことでした。オリザビトンなどは、このレドクソンを買って、それから又錠剤に作ったものだそうです。大変小ビンしかない様ですが、明日調べてみましょう。結局この二つを併用するのがよさそうですね。今日は薬屋がどこも休みだそうですから。いい代りが見付かって若しこのレドクソンがやたらに高くなければ実に好都合ですね。私の注射しているCはこのレドクソンだそうです。二十日。

九月二十三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二十三日。
 二十一日附のお手紙、二十二日頂きました。一枚の葉書が一週間もあったまっていたとは、少々けた外れのことで閉口しました。皆さんがあっため好きなのではなくて、一人の御婦人があっため好きなので、然もその人が私の目の代用でしたから、そんなことも起ったわけでした。この頃ちゃんと着いているのはお互い様に助かります。手紙が自分で読めると、何かの時に繰り返し繰り返しみるから、書かれていることも心に残るのですが、何かの折忙しくさっと一度だけ及び腰で読まれてそれきりだと、特にこの間内は物覚えが悪かったから、度々同じことを繰り返す始末でした。手紙を読んでもらう人もよく考えて、ねっちり読む人に頼むことにします。それでもこの頃は波の間にチラチラ岩の姿を見るように一通のお手紙のところどころ拾って自分で読み返すことも少し出来るようになりましたが、それはほんの数行のことで、しかもそういう時は勝手なもので、大変贅沢な好みがあって、用事のところなどは貴重な真珠貝のように拾い上げないのだから、あなたにはすみませんわけです。泰子の耳はいいあんばいに軽くてもう治りました。咲枝さんがもう今にも生れるばかりでお腹を重がっています。寿江子は体の調子が大変によくありません。そして国男さんは神経衰弱だというのだから、私のめくら腰ぬけから始まって、満足なものは太郎一人の有様ですから、不随の家族と言ったのは本当でしょう。国男さんは時代的な理由もあって、中々難局に面していて経済的にも底をついている状態です。事務所がその人の実力にふさわしくない負担になっていて、いずれいつかゆっくりお話し致しましょうが、子供の様な大人の人達が困却している様子は気の毒でもあります。国府津行きのことはああちゃんのお産が十月下旬ですから、その頃は出掛けたいと思いますが。あなたもやっぱり私のように寝台自動車が動くものと思っていらしたのね。東京市内でもやっとで、あちらへなどは燃料がないから恐らく金をいくら出しても行かないだろうということです。そちらから林町までで二十七円だったとかです。あちらへ一緒に行く人のことも頭痛の種で、あすこだって私には目代りになってくれる人がいるのですものね。ただ御飯をたけばそれでいいという人では間に合いません。今日まで寝ている内にまた看護婦と派出婦というものをみると、こういう仕事をする人の質が半年の内にどんなに落ちたかということが驚かれます。余程足りなくて掃除がちゃんと出来ない人が、一日二円で仕事をひどく怠けるというのだから恐縮千万です。行く人のことは目下研究中です。東京へ毎日通うにはこの頃の汽車のひどさがあまり丈夫でない女の人などには無理でしょうし。空想に近い希望は、多賀ちゃんがあっちで信用のある医者に診てもらい、菌が出ないと判明したら気胸でもやって、やがて国府津に半年位も暮せたらということです。多賀ちゃんならそちらの用も極く自然にたす気持ですし、目白の経験でお互いの気持も相当わかってきていると思いますから。でもこれは又これで多賀ちゃんの婚期ということもあり、もう来年は二十七ですし、単純にも行きますまい。多賀ちゃんの心持も色々と思いやられます。
 もう二通分になったからこわいこわい。
『外交史』と『微生物を追う人々』をお送り致しますが『支那イソップ』は家にないこと確実になりました。あちこち本屋を探したが、今はなくいずれみ当り次第買います。本郷に一軒この文庫を持っている本屋があって、然も邪魔物扱いにしているらしくて、廃刊のようになるわけもわかるようです。友達に返す本のことわかりました。薬の葉書は着いたでしょうか。あれらを何粒ずつ飲めばよいかということは、先生からよく聞いてお知らせ致します。私は決して本も読んでもらいすぎていません。オースティンの女主人公アンさんは、日曜日に旧友のスミス夫人に会っておしゃべりをしている途中で、水曜日の今夜まで立往生なのよ。決して読み過ぎでないことはおわかりでしょう。ではお大切に。

九月二十三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 島崎鶏二筆「牧草」(一)と野間仁根筆「越後毛渡沢溪流」(二)の絵はがき)〕

 (一)二十三日
 この絵をみると悪く親父の今日の気取り方に似た息子という歯がゆい気が致しますね。以前何時か能楽趣味の女が野原に佇む絵を描いて以来、あったら才能がカンバスの上を無駄に流れています。紫の花も白い花もちっ共愛されていませんね。秋声の息子の一穂も親父程の骨組みと角とがなくて、もまれてふにゃふにゃになっているし、芸術家の二代目は恐ろしや、ね。

 (二)二十三日
 これはこの画家の傑作の一つでしょうね。細部は見えないけれど、何だか気に入って喜こんで眺めます。奥まで本気に描き込んでいて気持がいいこと。この頃これだけ根をつめた絵をみなかったものだから。私には手前の方の子供や花がよく見えないのよ。お金持の友達があって、私がこれだけ気に入っているのを明日あたりふっと買って、かけて眺めるように送ってくれたらさぞ嬉しいでしょうね。ディッケンズの小説は、このさぞいいでしょうというところから出発した空想ね。

九月二十五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 九月二十五日
 タオル寝巻をやっと出来上らしてもらって、さあ、これで嬉しいと床の上へひろげてたたもうとしたらどうでしょう、私が折角下前へくるようにと思って切った筈のつぎ足しが上前へ出てしまっています。あなたもこんなに風流なタオル寝巻は今迄一度だって召したことがないでしょうと思って我ながら唖然たりです。この手紙を書いてくれる人が私の床の横にちょこなんと坐って、昨日も長い間かかって天下無双の大つぎをあててくれ、私はその側にみえない眼に力を入れて「どう? 何とかなる? ありがとうね」とやっていて残りは今日にまわりましたが、忙しいところを来てくれるのだからせめて下拵えだけでも少し自分でやっておこうと大いに腕を振ったつもりのところ、どう感違いしたものか出来上ってみたらば御覧の通りの始末です。このつぎを御覧になったら、今日の世間にタオル寝巻どころかタオルそのものさえどんなにないかということがまざまざおわかりになりましょう。一枚お母さんの為に買ったのがあって余程それをお送りしようかと思いましたが、でもそれは五寸も短かいのよ、何時かやっぱりこの位短かいセルをお送りした時、気持悪がっていらしたからつぎつぎでも脛のかくれる方がいいでしょうと思って。上前のはぎのこと右の次第故どうぞ可愛がってやって頂戴。眼の御注意いろいろ有難う。遮光のことは自然に敏感で、色眼鏡こそ使っていませんが少しまぶしければ昼寝の時も眼の上に折りたたんだガーゼをのせているし、始めの間は、一日の内わずか数分だけそれをどけるという有様でした。乱視、近視の度のついたものはないのでかけずにいましたが国男さんの話ではレンズだけあって眼鏡の上にとりつけるのがあるそうですからそれならば、今でも例えばこういう白い紙をみてまくまくする時、使えるわけです。最近に買います。今私の使っているのはビタミン B1 とCの注射とお手紙で理研ビタスをはじめ、ADと合せ飲んでいます、眼底に充血があったり、こんなにまだ体が疲れて背中が亀甲形にひびが入ったような気分がするようでは十月一杯程注射がいりましょう。医者も悪い影響がひどく残っていることに驚いています。こんなにすらりと恢復しつつあるのに然もこの程度であるという意味なのよ。丸く堂々と雄大になった方がいいというところは、はっきりと読めたから不思議ね、国男さんに読んでもらって、それから又床の上に坐って、しげしげと読んだら、誠に心持よく合点がいきました。この頃は肩のあたりも幾分丸味がついてきて有望ですがまだ弾力があるというところまでは残念ながら遠うございます。腕や首すじの変に張ったところも追々治ってきました。パンパンにならないでもパッチリすれば結構でしょう? 口の方はあくびをかみ殺した時のような感じで面白い経験ですが少し改まると大分ぎごちなさがひどくなって(在留二十五年の日本語の上手なドイツ人の日本語)とお医者がうまく形容したような工合になります、発音しにくくなるのを、はっきり言おうとして耳にそう聞えるのでしょうし、こちらの疲れ方はひどいものです、ですからお客は生理的に御免をこうむりたく、今度ばかりはお客好きの私も願い下げです。御心配下さることもいらない程です。あなたのお薬のことは(日本ロッシュ)の方は月曜に調べてお知らせ致します。国府津は一応注射が一区切になって少くとも私の足が駅の段々をのそのそでも動けるようにでもならなければ、ガソリンなしの此頃行かれますまい。一緒に行ってくれる人のことは、私があんまり途方に暮れているものだから、この字の人が気の毒がって母さんと来てくれてもよさそうな話しが始まっていて、それなら私は実に助かるし気持も楽だし、仕合せですが然し、ここの人は性癖が強いから軽率にして折角の友達を不快にさせるのも切ないし、色々考えて相談中ですが、おそらくそういうことになりましょう。経済上の問題も、どうやら私達は私達で、自主的に一年位はやって行ける工夫をつけましたから重荷の一つは片附けたわけです、もう後は一日も早く丈夫になってゆくことで、私はどんなにその為に一生懸命な気持か申すまでもありません、そしてその為には色々気紛れなことで外から私の安静が乱される条件から離れたい気持が痛切です。頼りにされるのもいいけれどビタミンの様にA・B・Cの人がA・B・Cの訴えを持って来てくれるのは今の私の頭には少し荷がすぎる時もありますから。(これは内証よ)
 島田の方はいつもちゃんと上島田と書いていますし、野原の方は西野原と書かずただ野原と書いていましたが、こちらの方はずっと着いていたようです、碌に書いたとも思わないのに、もうこんなになったから大急ぎで退却致しましょう。新聞が朝日その他月曜は二頁きりだったのが今度からは毎月二十五日定休日が出来るそうです。今夜はむし暑くなりましたから風邪お大事に。

十月一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月一日
 二十九日附のお手紙が今朝着いて、明日まで返事が書けないなといささか悲観していたらば、ペンさんが私の薬の処方を忘れたのを取りに寄ってくれて、思いがけなく直ぐ書けることになりました。この紫紺色の小さい上衣をきた若い人は薬の証明書を「ある?」と言って食堂へ入ってきました。私は起きてお昼を食べようとしていたところで、寿江子は私の向い側にとぐろをまいて居り、太郎は庭へゴザを敷き板を並べ、ままごとをして、一人で其処で御飯を食べていました。ああちゃんはお産の先生行き。そういうところへ入ってきたのですが、こんな可笑しい言い間違いに今日の市民生活の全面が実にまざまざとうつっていてどんなに色んな証明書がいるかということが現れています。十年前に『クロコディール』鰐という漫画雑誌が出ているところがあって、何でもかんでも証明書、証明書というのをからかった絵がどっさり出ていたものでした。
 そちらのお薬のこと。お送りすれば受取れるような手順がつきましたろうか?「強力メタボリン」は一日に凡そ八粒、それで四ミリになり、必要量だそうです。それから「レドクソン」は六粒で三ミリでいいそうです。「レドクソン」は二百五十粒が二十五円で凡そ四十日持つでしょう。受取れるようにおなりになったらお送りしたいと思いますから教えて下さいまし、勿論錠剤です。
 用事のことがユーモア調だったということはわかっているのよ。あなたの方はその調子でやっていて下さるから助かるけれども、毎日の中では私がその調子を保つことがむずかしくて中々の修養がいるという次第です。多賀ちゃんのことは、割合都合よく運ぶようですからもう少し様子をみて、それから先のことを相談しようと思って居ります。母子で一緒に行ってやろうかと言ってくれる人も人としてはこの上ないのですが、周囲の事情があって無理が通らないので断念する方が双方の為らしくなってきました。そうすれば半年後でも多賀ちゃんに来られた方が助かりますが、まだ今の状態では多賀ちゃんに国府津のことは話してありません。どうぞそのおつもりで。
 栄養剤は私も「ビタス」と「レバー」をのんでいます。昨日バイエルのAというのを(油状)もらってそれを牛乳に浮かして一日に十滴のみます。眼の為に先生が下さいました。注射は十月一杯続ける予定です。今日は十月一日でどっさり若い人達が入営しました。従兄達で学校を出て五日目に入営したものが三人います。隆治さんは本当にいくらか遅れるかも知れませんね。然し正月はこちらでさせてやりたいものです。私が外を歩けるのは来年の秋頃でしょうが、その頃までにどんなに世間は変っているでしょう? 去年の十二月から今日までに三段位に変ったそうですから。二年こもって暮すと仙人めいてしまいますね。でもね、世界を理解するという力は、あながちそれで苔が生えてもしまわないからいいけれど。では今日はこれでおしまい。マッサージの人が来ましたから。

十月五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 藤島武二筆「ベラデスタの池」(一)と「ベルサイユ」(二)の絵はがき)〕

 (一)あーちゃんが二階上下することは、もう九ヵ月の体によくないので私が上に移りました。殆んど十一ヵ月振りでみる二階は、荒廃のあと著し、という工合です。ペンさんに手伝ってもらって、居る方の部屋だけどうやらまとめて臨時の机でこの葉書を書きます。家のように満足な体の人が居ないところは、めいめいが自分の体にかまけて、つまり一番普遍的に気のつく人間が病人になっていられないような可笑しい按ばいです。それと戦ってせいぜい安静を心掛けて居りますから。この絵に色が見えたらどんなにいいでしょう。光と音楽とが感じられますね。ドーデーの小説の中にこういう甘美というような描写がありました。小さい作品だそうだけれども、どこへ出しても大丈夫という格のものだそうです。今日寿江子さんが行って小夜着の話、わかりましたかしら? 夜は綿の入ったものがなつかしいわね。

 (二)この秋はこの老大家の絵が中々見物であったそうです。眼がみえなくなって手もきかなくなったこの画家が新進大家のお弟子達にかこまれて自分の仕事の並べられた室を歩いたそうです。絵画きが眼がみえないでは私と比べものにはなりませんね。光線よけの暗緑色のレンズが出来ました。それをこの眼鏡の上に取りつけるのです。バネが工合よく伸びて小さな爪がふちにかかります。曇天世界になります。あまり愉快でないので今も幾分チカツきながらつけていません。(叱られるかしらん?)この絵の左手が有名な大噴水と美しい森です。右手は石段の下がオレンジ園です。

十月五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月五日、夜。
 これをペンさんが居る内に書いてもらおうと思って、やっこらやっこら二階へ来たらば、きれいにした四角い台の上に思いもかけず菊の花が朝鮮壺に活かっていて、「まあ、きれいだ」と嬉しい声をあげました。寿江子がそちらの帰りに買ってきてくれていたのでした。この菊の花の下には、小さい徳利形の水差し(硯に水を入れるもの。水滴だわね)と一匹のひどく間抜けな顔をした水色の縞の熊が辷りそうに足をひろげています。このシャツの余り布で作られたような縞の熊は鼠が太ったような丸い耳ととんきょうな顔をしていて、私は縞の布で作った動物は好きでないからと寿江子さんが安心して袋から出したところを間抜面の故にすっかりひいきにして御愛物にしてしまいました。
 オリザビトンがこれから二ヵ月もあるというのは心強い話で、その内又ペンさんに三共あたりへ行ってみつけてもらってみましょう。あとから言った薬もみな内国製ですから、そう急になくなるということはないでしょうが、オリザビトンがなくなるとすればあやしいものですね。ただ後のはBとCと独立ですから、相当続くだろうと思いますが。調べておきましょう。多賀ちゃんのことは、また勤めたということは知りませんでした。この間は家にいて退屈だという手紙をもらい、こちらからは広島の逓信病院長を紹介してもらい、調べる要点も言ってやっておそらく勤めるのと行き違いについたのではないでしょうか。辞めるのにあんなに骨を折って口論までして辞したというのに、私にはおしい気が致します。気分の動揺していることも察しられます。そういう気分だとあの単調な国府津で、単調な私との生活を穏やかな気分でして行かれるとは思えませんね。多賀ちゃんが目白にいた時代は私の大忙しの時代で、ああいう活気はこの半盲さんには望めませんから。近い内に様子を聞いてやりましょう。夜がうっすらと寒くなって、去年十七日に皆んなが菊の花を胸につけて遊んだ晩を思い起します。今年はどんなことをしましょう。寿江子は今日、お話ししたようにどこかへ行きます。私が脇でだんだん回復してくると寿江子の様な長年の持病持ちは神経を変に刺激されて反感を感じるのだそうです。自分の体の悪さばかり痛切に感じるのだそうです。疲れたことも疲れたのだし、私のとこの横に終日ついてその気分であれこれ刺激を受けるのも切ないしするから、ひと苦面をしてともかく暫らく気分を変えさせます。私のこの人の年の生活なんかを考えると、他人の世話をやかせて自分の気分を始末するということも変に思われますが、体が弱いという事実と、そこから生じている自分の習慣は一朝になおらないものでしょう。勝気な女の子が病気をすると、多賀ちゃんにしろ、自分の気持を支配して行くことが反って一苦労らしくみえますね。十七日には、私は大変珍らしいものをお目にかけようと思って、盛んにこっそりもくろんでおります。一寸想像がお出来にならないでしょう。勿論この節ですから、食べるものでも着るものでもありませんけれども。あと何行? もう三行よ。さあ何を書きましょう! 今は白い紙の反射がまぶしいから、例の色レンズをかけて物々しい姿です。今日は二階がきれいになって、大分気持が楽になりました。

十月九日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月九日
 もう素足がつめたいので、びっくりしてそちらにあげる小掻巻の肩当をつけたり衿をかけたり。御存じの通りこの頃は元のようなビロードがなくなっていますから、顎にふっくりとあたる着心地の為にはやりくり算段例の如し。ペンさんが手伝ってくれていたので六日附のお手紙は七日についているけれども、定例で一日置きの今日来てくれるまで、私は目なし鳥でした。
 ユガマンは三〇〇錠で十一円、当分切れることはなさそうです。一日何錠かは聞き忘れましたが、凡そ八錠位でしょうがちゃんと聞いてこの次お知らせ致しましょう。ADはそちらで買っていらっしゃるのでしょう?
 タオル寝巻が別にもう一枚あったというのは安心の様ながっかりの様な工合です。何故なら、あれは天にも地にもかけがえなしと思って、私の蒲団の上に伸ばしたりちぢめたり、ミシンでガチャガチャ半日やったり、おまけに私が上前と下前を取り違えたり、苦心と滑稽の交ざった誠に暖い生き物なので、それが領置でほとぼりがさめるのかと思うとがっかりの次第ですが、世間並の女房の言い草を真似れば満足なのが別にあったのは結構でした、と言うところでしょう。『微生物を追う人々』はまだ読んでもらいませんが、そのことは寿江子も言っていました、ああいう学者がコッホになって始めて学者らしい顔付になって、先駆者達はなかなか冒険者風の相貌をもっているというようなことも言っていました、先駆者達は世間学にも相当長けていたらしい風ですね、『娘への手紙』は上巻でも、おっしゃっている通りで、それは著者に資料がなかったというのとは違った原因で、あんなにポツンと切れたような章をなしてしまったのでしょうと思っていました。下巻も、恐らく理由は同じではないでしょうか。
『世界大戦』は二三日内ついでの時みてもらいます。
 藤山のおばあさんは玉子と牛蒡ごぼう、ジャガイモ等をもってきてくれました、重いものをこの頃の込む汽車で大変でしたから、咲枝が半衿をお礼に送ると言って居ります、もう買ってあるけれど、例によって、サイドボードの上にのっかって居ます、咲枝の体も私の病気が却って幸せなきっかけとなってBの注射や心臓、腎臓の為に注射をしたりした為に、大変によくなって全身のむくみも取れ、やっとこれで普通のお産が出来そうというところまでこぎつけました。聖路加で始めいい加減なみかたをされていて、私がどうも気にくわないので水上先生に話している内に国男さんも厭がっていることがわかり、小鷹さんという曙町のお医者に紹介され、お互いに二人の医者が話し合えもするので大変いい結果になりました、家中安堵の胸をなで下しました、これで私の心配の一つは解決。この上は一日も早く寿江子が出発して、野でも山でも歩き廻っていくらか体をよくしてくれることが望ましいだけです。そして最後にはこの月中に何とか私の眼も少し改善してゆけばよいと思います。本が読めないので、片附けものでもするしかないところが、体が十分動かせないから今は苦しい時期で、三四日眠れない様な日もありました。全体とすれば勿論よくなっていて、眼もそれに従っているのでしょうが何しろ、のろいのでね、亀よりのろいわ。こちらも「急に」というのは大嫌いよ。この次若し「急に」があれば「急に」よくなるなんてことはあり得ないから「急に」死ぬというのがおちで、そんなのは如何に私が楽天的でもあんまりでしょう? ですから大事にはして居ります、ただこれまでのテンポで現在がよくなってゆかないというだけです。
 岩本の娘さんが奥さんになったとは、まあ、あの人は去年女学校を出たばかりよ、東京で買物のむずかしさで吃驚びっくりしているでしょう、お父さんお母さんの職業から人に物をもらいつけていて、シャツなど買ったことがないそうですから人間並の職業についている御良人なら結構です。もう五枚目だからやめないと叱られるわねえ、ペンさん、と言うわけです。夜着は月曜頃どうやら運べそうです。

十月九日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 小磯良平筆「バタビヤにて(人物)」(一)、宮本三郎筆「印度の女」(二)、脇田和筆「幼児」(三)の絵はがき)〕

 十月九日(一)
 器用な絵だことね。こういう絵をみると環境や歴史性がわからなくて不思議のようですね。描かれている女の人達は、でも皆んな真面目な自分の顔をしていて、それが取り柄です。この画家のジャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の土人の踊りをスケッチしたものは、リズムがあって面白いものだそうですが、生憎そちらは売っていません。ペンさんがこういうものを心掛けてくれるので、私は随分楽しむし、そちらへもお送り出来ます。ペンさん同情して曰く、「代筆の手紙なんて気の毒だ、きっと読んでいるような、いないような気がするだろう」こういうことを言える人なんだからすみに置けません。

 十月九日(二)
 この前の灰色の角封筒がそちらに無事つきましたか? この頃封筒の大きさが統制されて、十月一日から葉書の大きさがなければいけなかったのだそうです。汽車は石炭を運ぶために客車が減ります。お米は大分増収だそうで玄米食が再考究されています。今日は時雨しぐれた天気で今もうそろそろ雨戸を閉める刻限ですが、五位鷺の鳴きながら飛んでゆく声が聞えます。そちらでも聞えたわね。ジャムの「夜の歌」という散文詩が面白く、カロッサの「詩集」では一つ二つ、大戦後の作品でいいのがありました。御覧になるでしょうか。

 十月九日(三)
 この頃は理屈ぽく物を考える根気がまだないのと、字が書けないのでかかない文句を長く心に書いたり消したりしているのとで、私もどうやら少し詩人めいてきました。カロッサの詩では「生の頌歌」「避難」「未だ生れない者に」等が立派な格調を持っています。詩の句を書きたいと思ったけれども、それはまあ一寸おやめ。カロッサが心理主義にわずらわされてはいるけれども、大戦の後には初期と大違いな作品を書いていることは注目されます。今日という日をこの詩人はどんなに経験しているでしょう。そしてその経験が一生の内に若しもこの詩のように生かされることが出来たらそれは彼の一つの大きい幸いでしょう。

 十月十三日 [自注3]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕


  祝い日

 愛するものの祝い日に
 妻たるわたしは
 何を贈ろう。

 思えば われらは無一物
 地道に渡世するおおかたの人同然に
 からくりもないすっからかん。
 健康も余り上々ではない。

 とは云うものの
 ここに不思議が幾つかある。
 朝夕の風は
 相当軒端に強く吹いて
 折々根太ねだをも軋ますばかりだが
 つつましい屋のむねには
 いつからか常磐木ときわぎ色の小旗が一つ立っていて
 荒っぽく揉まれながらも
 何やら嬉々と
 季節の太陽に
 へんぽんたるは何故だろう。

 夜が来て
 今は半ば目の見えない妻である私が
 少し疲れを覚え
 部屋の片隅の堅木かたぎの卓の上に
 灯をともす。
 焔は暖く 橙色。
 憩っていると手の中に
 やがて夜毎に新しく
 一茎の薔薇がほころび
 濃きくれないに ふくいくたるは何故だろう。

 短く長いこの年月に
 私たちの見てきたことはどっさりある。
 歳月の歯車から
 ほき出される あれや
 これや を。

 何と度々
 愛の誓いが反古になるのを
 目撃したろう。
 その醇朴さが
 却って ばつの悪いほど
 辱しめられるのをも眺めて来た。

 けれども
 幼い子供たちが その遊戯の天国で
 ぞっとするほど面白く
 泣き出したいほど うれしいのは
 何の魔力のゆえからか。

 秘密は唯一つ
 それは 幼な児の正直さ。
 遊戯の約束は決して破らない
 それの たまもの。

 単純きわまったこのことに
 妻なるわたしは
 幸福の天啓をよみとる。

 そうだ わたくしも
 約束はやぶるまい 決して。
 互を大切に いとしい者と思いあう
 この おのずからなる約束を。

 今宵も ひとり私は灯のそばに坐り
 ひとしお輝く光の輪につつまれる。
 やがて薔薇も匂いそめ
 単純な希いが
 たかまり
 凝って
 光とともに燃ゆるとき
 愛するひとよ
 御身の命も亦溢れ
 われら鍾愛の花の上へ
 燦然とふり注ごう。

  真白き紙の上に

 真白き紙を くりべて
 黒い字を書く めずらしさ。


 墨の香は秋の陽にしみ
 一字一字は 活溌な蜻蛉。


 古き東洋の文字たちは
 次から次へと
 ふき込まれる命の新しさに愕いて
 われと我が身を あやしみながら
 七彩にきらめき
 いとしきひとの かたへと飛ぶ。

  あしたのたのしみ

 たった これっぽっちを
 幾日もかかって
 紙に鼻すりつけて書く可哀そうな私
 半めくらの私。

 いつも一緒に暮している声が
 顔の近くで 斯う云う。
 「ユリ そんなによくばらず
 上書きだけは 明日のたのしみに
 とってお置き
 疲れた証拠に
 息が こちらへ 触れる程だよ」と。

 私はおとなしく うなずいて答える。
 「そうしましょう
 でもね
 誰が
 昔から
 胸の動悸をはやめずに
 愛したためしが あるでしょう」
一九四二年十月一日―十三日

[自注3]十三日――十月十七日、顕治の誕生日の祝いのために、半ば手さぐりで書いたはじめての自筆のたより。

十月十五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月十五日
 こんな妙な大きい紙をみつけ出しましたが、これは決して同じ二枚を大きい紙でもうけようというこんたんではありません。今手紙を書く紙がなくなってうろついていたら、ペンさんが気転をきかして自分のスケッチ帖を切って使わしてくれたというわけです。だから下のデコボコがあるのです。ここが金の綴目。こんな紙でこの頃の美術学生は勉強しているのですよ。絵具のホワイトもないのよ。木炭紙と木炭は多賀ちゃんまで動員して探してもらいました。
 今日は十五日だからこれを御覧になるのはいずれ十九日頃のことでしょう。十七日に間に合うように、と出した手紙は思い通りに着いたでしょうか?
 十日付のお葉書を十二日朝丁度夜具を届けようとしていた時に頂いて、とうとう催促されてしまったと悲しくなりました。出掛ける前にお葉書をみたからシャツとズボン下は届けられましたが、どてらが遅れて本当に御免なさい。縫っている人が町会で遺族案内を割合てられ、十九日まで仕事を出来ないことになったので、益※(二の字点、1-2-22)遅れて二十日過ぎにやっとお届け出来るでしょう。
 十七日の為にどてらがなくて詩があるなどというのは私の好みと全く反対で気まりの悪い程のものですが、どうぞ今年はそういう頓ちんかんを御辛棒下さい。何しろあんな大きいボタモチのような字は自分ですかしすかし書けるけれど、縫物の方はそれも出来ず人頼みの哀れさです。その上今年は秋になって私が起き出してから冬物を手入れしはじめるさわぎでしたから。
 国府津行きのことは、私に関する色々の事情を考慮して行かないことに大体決めました。田舎は案外にきゅうくつな時代になっていますし。あちらはずっと管制の状態です。かえってここでなんとか家のゴタゴタを受け流して、二階で日なたぼっこでもしていた方が、万事につけて安静の治療が続けられそうだということがわかりました。第一今のところではまだとても汽車には乗れませんし。こちらの家へ何とかして、もう少し人手があるようにして、私が呑気に二階にいられるようにすれば何とかやれるでしょう。十二日朝、寿江子は沓掛へ出かけ、家中は少しホッとしています。御本人もあちらでここの空気はいいと言っているでしょう。十六日、十七、十八日は休み続きなので、国男さんは太郎を連れ、若しかしたらば沓掛へ行きそうです。そしたら今年は休養祝日というわけで、十七日は今にも身のこぼれそうなああちゃんと二人で、のうのうとした小さい祝宴をはるつもりですが、今夜の様子ではどうなることやら、国ちゃんに何か野心が出来たらしい顔付です。
 今月一杯には冬物がすっかり入るようにしたいと思います。大事な下着類はそちら、ここ、もう一ところ、と位に分けて灰にならない用心をしたいと思います。結局今は綿や木綿、毛糸が財産で、あなたのものだけはなくしたくないと思います。
「祝い日」その他は、全く私の心にある一日がきっかけとなって出来たものですが、この頃のように、ものが書けず読めずにいると、次々にわく感情が自分にとって、一番宙で覚えやすい形をとり、自然とああいうものになります。今の表現の必然のかたちで、十七八で書き始めたのなら末が心配だが、一遍死んで亦生きて、そして字がかけないから心にかかれたものとしてああいうかたちをとるなら捨てたものではないと思います。これからも出来る間は続けましょう。ですから自然作品としての一つの部分をもなすわけで、いつかお気が向いたら文学作品としての感想をお聞かせ下さい。それが聞いてみたいだけまだ馴れずおじおじとしたところがあるのですね。
 もうそろそろやめなくてはね、あんまり机の上のコスモスがきれいだから二輪ほど封じ込みます。

十月二十三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 中西利雄筆「樹間」(一)、福沢一郎筆「道」(二)の絵はがき)〕

 (一)綿入れやどてらが遅れて何と気になることでしょう。月中にはお送り出来ようと思います。夜着は今のでは冬が越せますまいから、厚いのが出来次第お知らせ致しますから、暫らく不自由をして頂いて、小夜着を下げて入れ替えましょう。ところがこれが又来月仕事でね。冨山房文庫はついでがある毎に気をつけてみていて店も調べましたがありません。忘れては居りませんから。毛糸足袋の専門家は今年赤ちゃんがいてだめだから、家で下手な繕いをしてお送りします。今日夏ブトンはまだ下って居りませんでした。これは用事ばかりの葉書ね。風邪はお治りになったでしょうか。

 (二)今日はペンさんがわざわざ手紙の為に来てくれたけれども、くたびれていて少し熱っぽいから手紙の方は中止に致します。二十日に書いて下すった手紙に対して、私はよほどお礼を言うにも声に力が入ってしまいますから。今日の熱は別名を蒲団熱と申します。この二三日やっと冬の掛蒲団が出来て、今朝送り出したい為に、私は昨日一日「蒲団の様な顔」をしていたそうで、その疲れです。勿論明日は大丈夫。毛糸のジャケツ上下。手袋。お金。封緘。ビタス。等、明日発送します。くわしく又手紙で。十七日は奇想天外の一日でした。用事帳は早速こしらえることになりました。

十月二十七日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月二十七日(今日はああちゃんの出産予定日なり)ですけれども幸い今のところは平穏無事で丸いお腹は納っているので、私達は二階で何日ぶりかのゆっくり手紙書きを始めました。
 今日はいい秋日和。空気がカラリとしてほっぺたがぽっと暖かいような日。こんなにいいお天気だと如何にもいい気持だけれども、私はまぶしくて自転車に乗って庭を廻っている太郎の顔なんかは真白な光の塊りにみえます。そこで思うには、昔の人が仏に後光がさしているとみたのは、きっとだいたい貧しい人で、少し眼が悪くて、自分たちの不運をお助けあれと願った時、きっとそれはピカピカ光ってまぶしくて白く後光がさしているようにあらたかだったのでしょうね。馬鹿な詩人は少年の顔から後光のさす浄かさを感じるかも知れないわね。ところが太郎は健全なる人間の子で泥まみれよ。
 さて十六日のお手紙へ。
 ビタミンBは一日の必要量は四ミリだそうで、私はメタボリンの六号を注射していて、それは五ミリです。一日置きに十ミリずつと、Cを十ミリ位ずつやっていますから、B1 の服用は今のところ必要はないそうです。咲枝さんが入院してしまうと、私は奥さん代りで気が落付かないから、一日置きに先生に来てもらう事はやめて、その間はメタボリンの錠剤とレドクソン(C)を飲み、若しそれで故障がなければ、来年の二月位までそれでやって、春から夏に備えてまた注射を始めようか、と思っています。お出で下さる先生は、所謂うるさ型で細々したくだらないことが気遣いのような質の人です。例えば自分が注射してもらっているのに、お茶菓子の心配をしているというようなのはいやですから、咲枝さんの留守はおやめです。一回十円も安くないしね。(然しこれは博士とすれば割引ですから苦情は言えません)この先生は親切は親切ですが、長年開業医としてだけ暮してきた生活態度がしみついていて、勉強好きなのも一種の穿鑿せんさく好きのようなもので、学問と生活態度とが散り散りばらばらです。やっぱりそういう風なのね。利巧すぎます。世間智がありすぎる。うちではその点いくらかへきえきしているのですが。悪いお医者ではないけれど。
 眼のことは色々本当に有難う。あなたは私が少しずつよくなっているのを御覧になれないから全くお気の毒に思います。御心配下さる点は医学的にははっきりしているのだそうで、軸性というのは眼球外という意味なのだそうで、それは眼底を調べれば明瞭にわかる特色を持っているそうです。若し今日まで一寸も進歩しなければ不安なことだそうですが、少しずつよくなっていれば、それが順調で標準は四五ヵ月から半年で、それは特に眼や頭を使わない人での話だそうですから、恐らく私は十ヵ月はかかるものと思いましょう。ペンさんがその間にお嫁に行ってしまったら一大事だけれども、それならそれでしかたがないからうんとお祝いでもしてやりましょう。今も数えればまだまだやっと三ヵ月ですもの。私はその位度胸をすえて居ります。
 胚芽米、玄米のことは普通には出来ません。大体林学博士本多静六は妙な人で、自分は森林の値ぶみをしたりして、厖大なパーセントをとり、お金を作ったのに、雑誌へは一銭から貯金して今日の基礎を作ったというようなことを平気で書く人だから、色々のことが眉つばものです。この人が玄米食のことなんか言うと台所にはきっと小さいモーターの臼がありでもするのだろうと、自からカンが廻るのが自然です。今、私の受けている特配は、牛乳二合のところが一合、砂糖が〇・八斤、八百屋もの少々。バタ等ですが、八百屋が十一月から一日一人二十五匁ずつの野菜を配給することに決りました。二十五匁というのは小さいジャガイモ二個です。大きい胡瓜きゅうりは三十五匁もあり、おいもなどは大きいと四十匁だから、こういうものは一日一本はあたらないわけです。魚は二十五匁が一日置きの予定のところ三日から五日置き。町会では八百屋が一日一人十五匁と言ったのを二十五匁に増したのだそうですが、一日置き、又は二日三日も飛ぶかも知れずなかなか台所はキチキチです。
 オリザビトンは今後は発売されないということは、もう前便でおわかりになったでしょうか。代りの薬として、ユガマンと言っていたのはどうも聞きまちがえらしくて、二三日中にペンさんが近藤へ自分で行ってはっきり調べてきてくれます。三〇〇錠で十一円だと定価まで言ったのに、今度は人が行って一日の分量を聞いたらば、誰一人その薬を知らず、本までみてないというのは実に奇妙です。電話ではユガマンと聞えるし、こちらでそういうと向うにも正しい名の発音として聞えるのでしょうが、妙ねえ。自分で用事がたせないと狐につままれたようなことがあります。電話は何故だか苦しくてかけられません。
 足袋カバーは修繕出来次第送ります。ジャケツは今年はごましお色のですが、灰色のは私の防空着に拝借致します。毛布のことは私としては泣きの涙よ。六月に寿江子に度々手紙でそちらの毛布を洗濯しないでよいかどうか念を押したのに、いいとおっしゃったということでした。今は世の中にシャボンが消えて、御用聞きがない時代だのに洗濯屋だけは争って二軒も三軒も入ってきて、持って行ったものは一ヵ月もかかって出来上る有様です。これからの毛布洗濯はかわかないし、きっと一ヵ月では寄越さないでしょう。寒い目を御覧になるでしょう。若しどうでもしなければならなければ、二枚続き一枚だけはいつかの虫食いを入れて下げて頂き、やりくりつくかも知れません。全くこれからの毛布洗いは苦労の種ね。
 何しろ十六日からのお手紙の用事だからもうこれで一杯。十七日のことはどうしても別刷にしなければならない程珍らしい一日でしたから、ここで一休みしておやつをたべて、それから又ペンさんを酷使致しましょう。

十月二十七日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月二十七日
 さて※(二の字点、1-2-22)いよいよ十七日の物語り。
 あの前後お休みが続いたので、父子が沓掛へ行こうと言っていたらば寒いのが厭というようなことで十七日になりました。あの日は雨でした。相当な降りで。これは私達の十七日にしては珍らしいことでした。食堂へ行ってみたら早朝にかかわらず、佐藤先生が一仕事終ったという顔でお茶をのんでいられます。「まあどうしたの?」と其処にいる御夫婦を見くらべたら、泰子が夜半からひきつけて大さわぎをしているのに、林町のかかりつけの小児科医は、医師会のピクニックで皆出払ってしまっていて、私の先生に電話したら子供は診ないということで、そこいらの医者を紹介され、その人が取りあえず注射して、佐藤先生にわざわざ来診願ったところというわけでした。
 去年の十月末ひきつけた話は申しあげましたね。成長の一段階毎にこういうことが起るらしくて、咲枝はショックでお腹があやしいし、父さんは明方からの骨折りでクタクタだし、私が気をもんで動き廻るという有様でした。こういうことがあってもこの節は買出しに行かなければ何一つお菜がない。然し人手がないから行けない。御飯の心配があります。ともかく十七日なのだから、私としては少くとも何かしたくて、晩の御飯でも言いつけようとするが、うなぎ屋にうなぎがないのよ。支那料理も鯉どころか、食用蛙の天ぷらが、とりに行けば幾人前かは出来るという有様です。
 泰子は体中をけいれんさせて、歯の間にお箸をたてて(舌をかまない様に)いるのに、蛙をとりに書生さんは出せないから、では菊そばへ、というわけで、やっとあやし気な天丼にありつきました。一円の天丼がいかの足を細切れにしたもの一つ位がのって居ます。
 雨はざんざ降りで、皆こわい顔をして心配して動いているから、太郎はビービーで私は大変かんしゃくをおこします。そして太郎に、しっかりしろ! と言います。夕方泰子の薬を取りに船橋まで雨の中を行く書生さんについて太郎が出かけ、その時は小さいながら少年ぽくて愉快でした。
 夕飯前にペンさんが電話をかけてくれ、騒動を承知でお祝いのあんこのお菓子を一寸持ってきてくれましたが、これが災難の始りで、ペンさんはその夜はとうとう帰れず、夜中の二時に泰子を負って寝かしてくれるというさわぎでした。きっちり二十四時間もかかってけいれんがやっと下火になりました。十七日の晩は、ですから皆半徹夜で、私が菊そばへ電話かけたら、気分が悪くなってはきそうになりました。天丼は無事平げましたが。
 ざっとこういう一日でした。これはほんのあらましの話で、酸素吸入をするとか、それがないとか、注射をするとか、その針がないとか、バタバタで咲枝さんはよくぞ持ちこたえました。若しその時、パンクすれば生れた子はガラスの保温器に入れて育てなければならなかったのです。
 幾度か色々の十七日を経験しましたが、今度のは秀逸で一寸類がありません。
 今度のお産にしろ、こんな泰子を預っておまけに何時空襲があるかわからず、眼もみえないアッコおばちゃんとしては中々の大役ですが、それでも今のような私の体の調子で、若しこんなゴタゴタさえもなくて、手をつかね、どなりつけることもなく、眼のみえない自分だけを感じているのだったらば、どんなにつらく淋しく、従って回復も遅れたことでしょう。その点ではお産も結構です。泰子のひきつけは御免ですが。若し始まったら、今度はまさかピクニックもないでしょうし、空襲とかち合ったら、私がビタカンフル位して置いて先生を呼びましょう。
 ながくかかる回復の途上には、日常生活の動きが本当に大切です。「母の肖像」の例をひいていらっしゃるように。うちにびっくりする程人手がなくて、少し何かあると私の居るところの掃除は出来ない程ですが、その為に無理もあるけれど、体の調子によって細々と何かして気も紛れるし、体の力もつきます。私はそうして段々治って行く質ですが、寿江子は何だか調子が違ってそういうことはやれないのね。子供の時からの生活の調子が全然違っているからでしょう。それにああいう慢性の神経の弱る病気は、意志の力が実に弱くてだるさもはたにはわからないらしい程のようです。今居ないので留守居には困るようだが、家中の気分が単純化していて結局は休まります。
 私にヒステリー気味がないことをほめて下すって有難う。でもこれはどうもうちのなかでは証人をたてなければ額面通りには受取ってくれそうもありません。まだ私はかんしゃく持ちです。気が短かくなっています。胴忘れも相当します。そういうことは皆新しい現象です。しかし自分でもこだわらずだんだん物覚えがよくなれば治るだろうし、体が丈夫になれば根気も続くだろうと皆さんには御免こうむっています。(ペンさんはいい子だから、私の短気になったことを気付いていても抵抗しないでいるでしょうが、寿江子さんたら御飯の食べっぷりまでせっかちだと言うから閉口します)
 二十日のお手紙の反歌にはどういうお礼をしたらいいかと思います。どうも代筆の字では現わしにくい。実は私はこのお礼だけは自分で書いて差上げたいと思いましたが、でもそれでは折角の日頃のおっしゃりつけも無駄になるし。珍重という言葉はこういう時にこそ使われると思いました。堂々としていて率直で、すくなくとも枕言葉歌の類ではないし、私にとっては名歌だけれど、あんまりほめるのを書いてもらうのも何となし、体がポッポとするわね。
 ○冬シャツは調べてもう一組お送りしましょう。
 ○年鑑は承知しました。
 これからは成るたけ色んな細い毎日のことをお知らせしようと思います。去年の十二月から十ヵ月引きこもり生活をしてわずかな時間だと思ったのに、昨今ではその間に世間がまるで変って、私は色々なことで自分の間抜けを知ります。例えば四月の第一回の空襲を特別な条件で経験したということは、何か私のなかにセンスのかけたところをこしらえていて、土蔵などについてもとかく平面的に(火事という風に)考えて、天井からぶち抜く力があることを知っていて、つい知らないようなものの考え方をします。戸台さんが三十七歳で花婿になって赤ちゃんがやがて生れます。お祝いをあげるのに茶ダンスを考えて、私達にふさわしいけちなのが三十円もしたらあるだろうと思ったところ、ああちゃんやペンさんに一笑にふされてしまいました。そういう名のつくものは五十円以上で、タンスの極く悪いのが百五十円。二十三円でタンスが買えた時以来、私はタンスというものを買ったことがないから本当に驚きました。今は銘仙夜具が一揃えで二百円もする様です。何しろあんな格子縞のが表だけ三十円で、やっとそれもそこへ落付けたという次第です。常識の補給にこんな話も致します。栄さんが鷺の宮へ家を建てて十年年賦で一万数千円だそうですが、制限内の三十坪何合で家をみるとしゃくにさわるから、外をみていると景色はいいという話です。
 この間の手紙に入れたコスモスの花はどうしましたろう。御覧になりましたか? 秋の花らしかったから入れたのだけれど。今日はたっぷり書いて少しまくまくですから、ではこれでさようなら、ね。

十月二十七日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 福沢一郎筆「海(三)」の絵はがき)〕

 手紙に書きもらしましたから一寸。多賀ちゃんから先程手紙で、病気は何でもなく保健所でレントゲン透視をしてもらったら、どこにも異状なしでしたそうです。柳井の組合病院でもレントゲン写真を撮ったところ、これまで病気したあともなくて大変きれいだと言われたそうで大喜びして居ります。肺尖という診たてはあやまりだそうです。本当にされないように喜んでいるし、私達も如何にも気が軽くなって嬉しゅう御座いますね。

十月三十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十月三十一日
 もう十一月とは何という早さでしょう。去年の十二月から今日まで、殆んど眼と鼻の間なのにもう今年が終るとは。誰でも今年はひどく早い一年だったと思うでしょうね。私にはブランクの時がはさまっているから、早さも特別に感じられます。
 二十九日附のお手紙、三十一日午後頂きました。
 今頃はもう後の手紙も御覧でしょう。
 夏蒲団は昨日どてらを届けた時持ち帰りました。毛布、下ばきも届きました。毛布はもう洗濯に出しましたが、恐らく一ヵ月以上かかりますからどうぞそのおつもりで。下ばきは惜しいことをしましたね。あんないい薄い毛のものは、全くどこにもないものです。それが虫喰いだらけで丸でイルミネーションみたいに日光をすかすのを眺めると、さすがの私も「まあ、きれいね!」というより先に「あらアー」と情けない声を出しました。しかしとても捨てることは出来ないから、何れ一つ一つをつくろいましょうが、人に頼めるものでもなし、まあ来年のお楽しみね。あれを一つ一つつくろったのが届いたら、それは完全に豚妻の眼がよくなった証拠といえましょう。
 用事帳云々のくだりは特に二人で眺めて合称しました。その帳面のこちらの名は「ジゴクノテチョウ」と赤鉛筆で書いてあって、特に赤いリボンがつけてあります。アラームの意味です。忘れるとベルでも鳴ればもっと調法でしょう。(そしたらペンさん曰く、私の三角の袋の中でビーィンなんて言ったら厭だなあ)目録のこと取計います。訳註の本のこともして置きます。この御注文は嬉しいと思います。
 栗林さんの支払いは受取りがあって、こちらで少し余分に払ったものだから、お釣りを切手で寄越してくれました。
 富雄さんへの本は新書を三四冊みつけます。新しいのは中々手に入りませんから、手許にあるのを。大抵『アラビアのロレンス』『今日の戦争』『北極飛行』『阿部一族』『高瀬舟』等。
 お友達への本代のことは心にかけていますが、そちらからのも手をつけずにとってあって、反って厭だということなので、子供さんのものや何かを送ろうと思います。暮までに金額にしてどの位のものが送られているか知らして頂けたら、子供へ上げるものもそれで見当がついて便利ではないでしょうか。
 スタンダールは、すっかり読み返してみようとしていたのに病気になってしまいました。たしかに相当の作家です。「ナポレオン伝」などをみても、それを書いた動機がやはり一つの気力で、ナポレオンの没落後、パリの社交界人が、ナポレオンとさえ言わず、ムッシュウボナパルトと言って、極く卑俗な自分達のぬくもった利害の見地からばかり批評しているのをみて、ナポレオンの歴史的な価値を再認識しようとしたものでした。けれども「パルムの僧院」で、スタンダールは一人の人間は事件の局所しか目撃出来ないという現象にとらわれて、そこに文学の写実の意味をおく一種の間違いをおかした通り、ナポレオンについても彼が帝位につくに至った勢いについての評価は決して紙背に徹してはいません。
 掛蒲団は「暖かそう」とあるのでホッとしました。随分四角いでしょう! でも赤いボタンは可愛いでしょう! どうぞあんまり蹴破らないで下さい。どてらが送れたので思いがけない人が胸をなで下しています。国男さんがこの間内、暖かいどてらを着ていて、それをみると私がそばへ寄って、なでてみて「あったかそうね」というものだから、気味を悪がったり気の毒がったりで閉口していました。これから寒い晩があってももう大丈夫です。国男さんは安心してどてらをきられます、なでられないから。
 今日ペンさんが、三井洋画コレクションにあるラファエリー作の「大通り」というクレパスのようなこの人の発明したもので描いた絵の写真をくれました。色がない写真だけれど、いかにも田舎の町の大通り、パリへ続く郊外の大通りの落葉した時節の明るさ、冬のやわらかい陽の明るさ、が雰囲気によく出ていて、傍に插した山茶花さざんかの花とよく似合います。この次もう一枚出来たらお送りします。山茶花といえば大抵ほんのり花びらが赤いものですが、真白い山茶花が咲いていた小さい庭を覚えていらっしゃるでしょうか。
 パリといえば緑郎から昨日八ヵ月かかって手紙が来ました。フランス語でない切手がはられて、二つのセンサーを通って。結婚の話が要件で、あちらで知った日本の娘さんで声楽を勉強している人、カネボウの重役とかの娘で、小さい写真が入っていますが、ちっ共悪くパッとしたとこのない、やっぱりどてらの苦労もしそうな人で、皆いい点をつけました。娘さんの方では、何かの便利でもっと早く親へ手紙を書いていて、お母さんが咲枝に会いに見えました。声楽と言ってもJ学園から始め留学させられていたので、本当の芸術家ではなくてそれは体の形にも現われています。あすこは金持の少し才能のある娘を親ぐるみでおだてて、あっちこっちへ留学させ、とどのつまりは学校のスターを作る流儀だから、始めはそれで行って苦労している内に、幾分かそのわくからはみ出たのでしょう。緑郎も三十で相当に色々見聞して、ああいう地味らしい娘さんをみつけたのならまあ安心というところでしょう。十月二十八日が咲枝さんの出産予定日でしたが、本人の予感では、十一月三日の夜らしいそうです、アナオソロシ。赤ん坊は男の子らしいそうです。母親が赤いものばかり欲しがる時には男の子だそうで、咲枝さんの蒲団と枕の赤さといったら少くとも私は微熱を発する程度ですから、多分すごい男の子なのでしょう。名はまだわかりません。女の子は桃子が可愛い名だけれども、字面が悪いので二の足をふんでいます。そうしてみると私の名はいい名ね。
 冨山房の本は、随分さがしているけれどもまだみつかりません。外交史の下巻はどうしたかしら? 聞いてみましょう。訳は一刻を争うから雑なものが多いのですね。うけ負仕事のようにやるから。いずれ送って頂いて私も読んでもらいましょう。十月一杯は一冊も本読まず、縫直しさわぎで暮れましたから。今月からは少し落着いて本が読んでもらえるだろうと嬉しゅう御座います。

十一月三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十一月三日
 三十一日附のお手紙今日(三日)頂きました。
 薬のことごめんなさい。オリザビトンのことだと思ったのでした。ビトンは目下、粉末しかなくて、これから先も錠剤等は出にくいそうです。ですからこれは駄目で「ユガマン」と言っていたのは、ペンさんが近藤で口をみて発音を聞いたところ「ユバモン」というのでした。オリザビトンの代りにはこれが一番よさそうです。一回一―二錠、一日三回、三百錠十一円。オリザニンは専門家にいわせると、気やすめ程度だそうです。わけて二つのむならBはメタボリン錠の方が実効があるらしい様子です。
 毛布のこともそうとわかれば、これまたお気の毒でした。十二月までには何とかなりましょう。袖のある夜着は、今のでは寒中お困りでしょう! 洗濯毛布が入って毛布が二枚になったら、厚い夜着と代えることが出来るでしょうか? 夜着は十二月に出来ますが、ダラダララインは、今私の舌たらずな発音では大変言いにくくて、ダアダア、アインと聞えるそうです、一層悪いわね。
 大学書林は一年一回出ていて、今あるのはそちらへすぐ送るように頼みました。
 ヘルマン・ヘッセは本郷辺は売切れですから神田をみましょう。こんなありふれた本でさえ増刷を制限しているものだからこの始末です。楠書店はまだはっきりしたことがわからないので、明日でもまた電話してみます。
 この間手紙で申しあげたように、ああちゃんの入院を機会に注射をやめようと思ったので、目白の先生に細かく相談しましたところ、それでよいだろうし、薬も整理してメタボリンとレバーと、眼の為のヨード剤位にして、レバーにはAもCも入っているから、幾種類もただ並べて惰力のように薬をのまない方がよいということです。Bを普通よりたっぷりのめば。Bはよく説明してもらいましたが、脳炎などの後、本当に失明してしまうのは、視神経が萎縮してしまうので、眼底をみれば神経の束が眼球に入ってきているところに細い血管が集っていて、それが独特なカーブを書いてそのカーブの深さで視神経が萎縮して低くなってしまっている深さが、はっきりわかるのだそうです。
 私のはもう三月にもなるのに、萎縮はちっ共起っていないそうです。そしていくらかずつよくなってきているから、悪性のものでないことは専門的に確実だそうです。ここに図を書くと尚いいのだけれど。(ペンさんがお得意のところでやるそうです)
[#図1、眼底の図、二点]
 咲枝さんのお腹は今もってパンクしません。でも今日明日で、私たちは始終大きなお腹に横目を使っています。今度私が病気したことは、この人にとっては案外なもうけもので、一緒にBや心臓の薬を注射したため、母体の条件が大変よくなってきているそうで何よりです。今は皆自信を持って安産を考えていますが、夏頃はひどくうっ血した顔をしているし、苦しがっているし全く心配でした。五月頃聖路加へ通っていると聞いて私は困ったことと思い、しかし自分でよりよいところを紹介できないし、さて今度はどうなることかと思っていたら、私の先生から近所のよい医者を紹介され、命拾いしました。始め羊水が多すぎると言って食物制限をして、バターを食べさせなかったところ、小鷹さんに診せたら心臓が丈夫でない為、うっ血してガスが発生し、その為お腹が人並より大きいし、全体むくんでもいるというわけで、勿論バターなどは是非たくさん食べた方がいいしという話で吃驚びっくりした次第です。聖ロカの医者にはそういう致命的な問題がちっ共みえていなかったのです。私の命と一緒にもう二つ拾ったので、それというのもまず私が死んだからで相当感謝されています。私は今、回復期のきわめて滑稽な状態で、自分の疲れ方が見当がつかないところがあって、どの位まで動いたら気持よく眠れる程度に疲れるのかわからないでまごついています。どうもボタンなんかをみつめて目玉をくりむくと、てき面にひどく疲れて工合悪く、昨日などの様にいくらか人足めいた品物を動かすような仕事は、細いものをみないために案外疲れません。つまり眠れるように疲れるのです。当分これでは人足ね。でもうちはそういうことをする人がなさすぎて、どこもかしこもうず高いから、ポツポツ女中さんを助手にして、ごみ片附けは細君にとっても歓迎です。気持のよい疲れ方というものを求める気持が強いにつけ、好ちゃんがいたらどんなによかろうかと思います。元気ながら持ち前のおもいやりでいたわられながら歓談したらきっと人足仕事などを心がけないでも、もっともっと詩趣豊かにほっこりするでしょうのにね。
 重い病気から回復してゆく間のこういう感情は、私として始めての経験です。あなたはきっとこの数年の間に十分お感じになっていたことでしょう。でもあなたのその時期に、私はちっ共そんなことは知りませんでした。今はそれがわかります。何にも言わずにあなたはそういう時期もお暮しになりましたね。言われてもわからなかったかしら。私の爪の真中に一本横にひどい窪みが現われました。爪が伸びてきて三月前死んだ時の線が真中まで押し出されてきたのです。チブスをやってもこんなことはないそうです。「ひどかったんですなあ」と先生が感服致します。賀川豊彦でなくても死線が現われました。
 あなたがひどくお悪かったあと、髪がうすく軽くなって、向い会っていると頭の地がすけてみえて本当に吃驚したことがありました。絞りの着物を着て、やっと歩いて出ていらしてお腹を落して椅子にかけていらした時分です。日本画家が幽霊をかく時には、必ず頭のぐるりをぼかして少しはなして、ポウポウとした毛を描きます。それがどんなに実際に観察にたっているかということが沁み沁みとわかって、あれを思い出す度にああよくも命が助かったと思いますが、今の私は爪に死線が出たとおり髪もピンチです。いささか亡者めいています。まるでチョロリとしたしっぽを下げているきりで、いかに私が楽天的な妻でも、頭に毛が十本というのではお目にかかりにくいわ。
 来年になって眼の方がちゃんとしたら、髪の毛もせめて普通までこぎ戻るように太陽燈でもかけます。これは眼に害がある光線だから目下は御心のままに抜けているしかありません。
 芸術家と日常生活の関係は全くここに言われている通りです。文学は生活感へいつも立ち戻るところがあるけれども、音楽や絵は一定の技術上の習練がいる為に、そこに足をとられて女の人などは殊に危っかしくなり勝ちですね。
 この頃私は人々の向上心というものについて興味ある観察をしていますが、(ついてはページをくってみたところ、もう十枚目だからこれは次便にまわします)
 富雄さんのところを光井へ聞いてやりましたが、そちらでこの次の手紙で教えて頂きたいと思います、古いのしかないから。
 来年は島田のお母さんが六十一におなりでしょう? 私達にとっての六十一はそれとして祝う意味もないが、お母さんはやはり還暦ということをお考えでしょう。普通は赤い座蒲団などを送りますが、そんな形式的なことは元気なお母さんに失礼ですから、何とかやりくりしてお気に入りそうな着物を一揃え上げたいものですね。御賛成でしょう? 島田へ二三度行くところをやめれば何とかなるかも知れませんね。くわしいことはまた何れ。今日も秋日和です。

十一月五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 セザンヌ筆「花」の絵はがき)〕

 大変に色が悪くて説明書の効能が発揮されませんね。今日は割合のんきな日で満開の山茶花の花を、二階からながめたりします。咲枝さんは正に今にも、というところで、うち中待機の姿勢です。なかなかの緊張ぶりです。
 お正月になったらと楽しみなことがあります。それはまた自分で手紙をかいてもいいという許しを自分に出そうと思って。今度はどんな字を書くでしょう。少しは小さくなるかしらん。橘の本はありました。前進座が火事で焼けました。実に可哀想です、あの骨折を思えば。大東亜文学者大会というのがあります。村岡花子が日本の女流作家だそうです。

十一月八日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 ボナール筆「桃」の絵はがき)〕

 今日は嬉しいことがあります。オリザビトンが五つ程みつかりました。今そちらにいくつかあるでしょうから、これですくなくとも一月までは持ちますね。早速二つお送り致します。ああちゃんはまだパンクしないで、はたをハラハラさせて居ります。もっとものびただけのことはあって、オリザビトンもそのお蔭よ。つまり余程前に私の居ない時、買ってあったのを何かのはずみで霊感的に思い出して持ち出してきてくれたのですもの、うちは物の在り場所ということについてはまったく独創的で、常識がこのとなりには凡そこんなものがありそうだと判断する、その判断が全くあて外れで、かつぶしがざるに入っているその上に何がのるかということについてはのってみなくちゃわからないし、という次第です。だから私の様な新米はとかく世間並のことを考えて、片付けるはいいけれど、私は私で片付け忘れるという病気でお話しの他の有様です。でもビトンはあんまり悪口は言えないわね。あ〔数字不明〕出したんだから。

十一月十日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 堀井香坡筆「ひととき」の絵はがき)〕

 何となく冬めいた日です。寒いけれど風邪は大丈夫でしょうか。咲枝さんはまだうちです。大同書院という本屋から瀧川政次郎著『法律からみた支那国民性』というのが出ましたが御覧になるでしょうか。御返事下さい。
 私は注射をやめました。やめ時らしくて先生から言い出されたから。何となしのんびりです。セザンヌの伝記を読んでもらい始めました。何しろ一ヵ月振りの本だから仲々面白い。でも視野が比較的狭くて歴史のモメントを深く個人の上にみないからその点は喰い足りず(改造文庫)。赤チャンの名前が男の子はまた一苦心で、食堂のテーブルが賑わいます。今、照二郎というのを思いつき、かなりいいと思います。字面も悪くないでしょう。

十一月十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十一月十一日
 もう北側の障子をあけると冬の風が吹きこみます。三十一日に書いて下すって以来、御無沙汰?
 風邪をお引きになったのではないでしょうね。
 私は二三日来、注射をやめて飲み薬だけになりましたが、心のどかで好調です。何しろ静脈注射ですから気がはるのよ、痛い時はひどいから。
 知らなかったけれどB・Cの外に砒素の薬が入っていたらしくて、それは心臓の為や体の再建の為に役立ったのでしょうが、あれの特徴で興奮性だからそういう刺激があって、レロレロのくせに働きすぎるというような傾きがありましたが、うちでの通称「ウワバミ」(ウワバニン)が切れたら、たががゆるんでお目出たくなって夜は早く眠がるし、少し動くとくたびれるし、気はのんびりしたし、つまり実力に戻って、うち中気嫌がよくなりました。今になって白状に及んだところをみると、みんな相当私のウワバミ元気にはヘコたれていたらしいのです。更に滑稽なことは咲枝さんも心臓の為にそれを注射されていて、ウワバミ元気にあてられる度も一入ひとしおであったのでしょうが、しかしこの人の方は腰の痛いのがましだという結果に現われて、私のように悲しき女人足にはならなくてすんだのです。
 こういう薬のこともなかなかむずかしいものですね。個人個人によって、受け方が大変違う、一つの体へのプラスマイナスの関係が本人にもよくわからなくて。つまりやめ時だったのだろう、という衆議に一決しています。今年の冬は私は大変寒そうです。足の冷え方が格別です。夜具が重くて、フウフウで狐の子のように落葉をかけて寝てみたい。重い病気のあとはそうですね。あなたもボタンのかかるシャツは一冬お着になれませんでした。やはり胸がつまったのね、夜具の重さなども胸にかかるから不思議です。本当は足先にかかっているのに。心臓にこたえるのね。十年昔の大事大事の木綿のあの蒲団を今年は始めてしまいそうです。大学書林のはついたでしょう。橘は現在は目録を出していないそうです。本はこちらへとっておきます。南江堂はそちらへ直かに送ります。
 世界地図のことは遅れていますが、この頃は内地ののみならず学校なりなんなりの証明がなければ買えないことになっているらしくて珍らしいことです。何とかして買う様にしましょう。尚また手間取りますが、(新しいのが間に合わないこともあるでしょう)紙屋の松屋の表に紙がぶら下っていて、「大学ノートをお買いの方は制服制帽でお出で下さい」とあるそうです。こんな風景は私にとっても未知です。「美しき青春」は神田の方を調べます。(何んで早く調べないんだろう、と思っていらっしゃるでしょうね、いやんなっちゃうなあ、とペンさんの歎息)本当にさあ、と言いながらペンさんはさかんにアゴをつまみます。寿江子は今鹿沢にいます。浅間の景色は美しいそうですが、この間鬼気が迫るような手紙を寄越して、私は吃驚して小包をこしらえてちょいちょいしたものを送りました。晩年の母の厭世的な、人の善意をそのままに受けられない心理が、寿江子に現われていて、体の悪さが推察されます。困ったものですが、まあ、あちらにタンノウするだけいて、少しは恢復してもらうしかありません。インシュリンもないのだし。ああいう病気は本当に哀れです。親が無責任だなどと書いてきていました。自分を生んだということについてよ。心持がああいう状態だとそういう消極な考え方にきっと陥るのです。富雄さんには小包を送りました。うちの廊下の衣紋竿には国男さんの冬のトンビがかかっていて、いつの夜中にでもそれ! と言って出掛けられるようにしてありますが、赤ちゃんは悠々としています。お乳は出そうです。どんな骨折りをしても、今年はお乳がなければなりません。母子の為に。
 ヴォラールの「セザンヌ伝」を読んでもらっていると、一八九二、三年頃「落選画家の展覧会」を開いた後でも、セザンヌがどんな扱いを受けていたか、ということがわかって驚かれます。絵具商のタンギイ爺さんというのがセザンヌ一派を熱愛して、たまにセザンヌの絵を求めてくる人があると、画室へ自分が案内して選ばせたのだそうですが、その画室には、一枚のキャンバスに小さいモティブの絵がいくつか別々に描かれていて、貧しい愛好家は一ルイ位出して林檎りんご三つを買ってくる、というような風だったそうです。タンギイ爺さんが鋏を持って行くのよ。そしてそれだけ切ってくれるのですって。そういう風な売手と買手のいきさつのなかには、私達を深く感動させるものがあります。一ルイでセザンヌの林檎ならばこそ三つ買って、ホクホクして帰る小さいパリーの勤人、屋根裏の住人の心持を考えると、セザンヌが何を力にあの困難も堪えたかということもわかるような暖かさがあります。はでなサロン向の画商との所謂大家的取引とは何と違うでしょう。ゴッホは自分の弟を最も信頼する画商として持っていました。ルノアールは水ぽい絵描きですが、セザンヌに対しては厚い心を持っていた様です。この伝記とチャンポンに小説を読みましょう。実に小説が読みたい。志賀直哉全集は大きい活字ですから今に読み始めるにはいいけれど、心持とはあまり遠くて。今はカロッサの「医師ギオン」を読もうと思います。一九三九年の写真では、カロッサは猫のようなものを手に抱いて、一寸下目になって額に横じわをよせています。それはそうでしょう。このお話は何れ読んでから。
 この前の手紙で向上心ということの色々の観察を話しかけましたが、庶民的な環境に育って色々の重い因習と戦いながら、人間として向上しようとしてきた女の人は、向上の方向がグラグラしてくると、その向上心そのものが、一つの極めて妥協的な世俗的な立身の方へいつの間にやら流れ込んでしまう危険が実に深刻です。目安がないから積極性が方向かまわず積極積極と出て、案外なことにもなるし、そういう人の中には大抵の人に劣らない体力も意地もあるから、又利巧さもあるから、それらが皆固って妙なことになります。十分そのことについて、自省もあり、時に自嘲的にさえなっているとしても、全体としての動きはそうなって行く悲しさがある。それから又突抜けて出る新鮮な力は、このゴミっぽい過程の間で磨滅しないでしょうか。私は磨滅させたくないと思います。
 本が出てそれをまず友達に送りたいと思うような、そういう本の出方はこの頃誰のところにもないらしい様子です。本屋の店頭には、割合お粗末なのがどんどん並べられているが、友達はそれをもらわないというようなのも現代風景です。
 今日は一時間程本棚をいじりましたが、私達の本も文学史の勉強の為には、もう決して手離せない様なものだけになりましたね。大人の本箱になってきた。焼くのは本当に惜しいと思います。手に入らないばかりでなく、質的にもうない本ばかりですから。行き違いにお手紙が来るのでしょうね。誰も行く人がなくてごめんなさい。気にしています。

十一月十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 ピサロー筆「春」の絵はがき)〕

 今、手紙の封をしたところへ六日附のお手紙頂きました。白水社の本のこと承知しました。夜具やタオル寝巻がお気に入ってその嬉しさは私一人ではありません。何しろ大した苦心をした人物がもう一人ここに控えているのだから。歯の金のことは調べます。全く、色変りの合金の歯などは歓迎でありませんから。注射について書いていて下すっているところが大分珍らしい御苦心のあとなので万々お気持がわかり全くそうよという気持です。静脈注射は看護婦では許されません。看護婦は皮下だけです。お風呂は石炭不足で一週に一度、しかも私はやっと、この頃たつ度に入るようになったばかしです。私の風呂好きがこの有様よ。シュトルムはおっしゃるとおりですから、ヘッセをみつけたいと思います。他に何があるか調べましょう。

十一月十三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十一月十三日
 十一日附のお手紙頂きました。先ず本の話しから。ヘッセのはとうとうありませんでした。シュミット・ボンの『老婆』というのをともかくお送りしますから、そのうしろのカタログ中から選んでいただいたら、手に入るものもあろうと思います。『現代ドイツ短篇集』は幸いありました。こちらへとって置きましょう。南山堂も郁文堂もモクロクは出していません。この頃こういうものは出せないらしい風ね、紙がなくて。『仏語より英語へ』は題が逆でしたがあったから『老婆』と一緒にお送りしました。面白そうな本ね。英語を元にして、ロシヤならばおしまいをチアと代え、フランス語ならばシオンと代えて、どうやら歩きまわっていた時のことを思い出します。
 栗林氏へお金を送ったのは、九月下旬か十月上旬でしたろう。受取りを調べると五十二円二十五銭で、私は五十三円送ってお釣りをもらったと覚えています。二月分から九月分までのうつしで全部で六通です。大泉という人の公判調書二通が一番新しい分です。おや、ここに小さい字があって、九月三日に五十三円もらったと書いてありました、奥さんの字よ。
 輝ちゃんの毛糸のことは本当にいい思い付きです。あなたのジャケツは私の唯一の避難用下着だから、私ので送れるのを工面致しましょう。これで誘われて、世田谷の子供達にも毛糸をやろうと思いつきました。和服で育っていても調法だから。そちらへも広島から隆治さんの葉書はきましたか。こちらへ一昨日もらいました。何んてよかったでしょう。お母さんもこれでいいお正月がお出来です。私達同胞は運のいい方ですね。お母さんもお幸せな方です、本当に嬉しいと思う。
 厚い方のどてらはもう一寸らしいのよ。その代り、それより早く、綿入れ着物、羽織を差しあげます。茶色の毛のシャツ(冬)この間送ったものの外に、もう一枚そちらに行きっぱなしになっていやしないでしょうか。それと紺大島の(御秘蔵のとは別)うすく綿の入った着物を若しや春頃お送りして、それもそのままになっていはしないでしょうか。一寸お調べ下さい。この二つがどうしてもみつからなくて気にかかります。
 歯のことは市内では闇で使っています。何とか方法を講じようと考え中です。
 咲枝さんの出産はずっと延びそうです。子供は大変よく育っているそうで大安心です。お留守番の稽古で泰子をねかしつけます。自分が頭が苦しかったから、この小さい頭のアンバランスも察しられてなかなかいいところをなでるらしくてトロトロよ。そして私は子供達がどっさり居る夢をみました。赤ん坊に乳をのませる間、母さんが二人を置いては眠り不足で怖しいことになるから、その間は少くとも泰子は私の養女でしょう。ものも言えず、たてもせず、それでも優しさはわかって、この頃は人恋しがり、皆の声の聞えるところでないと淋しがったりするのは全くいじらしいものです。幸い美人だから邪険にされなくてまあまあです。
 カロッサの小説は、極く始めですが、大戦直後のドイツの真面目な心の諸問題を扱っていて面白いし、不幸をそういう形で経験し、表現し得た二十五年前を考えます。シュミット・ボンにもこの時代の作品で一寸特色のあるのがありました。ヤーコブという人の「ジャックリーヌと日本人」という小説は、インフレーション時代のベルリンと日本の震災時分を背景として動揺する中層の精神を描いて印象深くありました。スタンダールは読む人の成長につれて読み返される価値があり、作家とすれば、そのことがすでに一つの大きい価値ですね、私も読み返したいと思います。古行李をいじっていたら、新しい健康だわしが出ましたから、あれを使って益※(二の字点、1-2-22)風邪を引くまいと思いますが、哀れなことには、うちのお風呂がこわれたのよ。そしてもう同じかまはないのよ。銅がないから。お寒くはないでしょうね。

十一月十八日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 榎戸庄衛筆「秋果豊収」の絵はがき)〕

 この絵は光線ばかりにとらわれている作品だそうです。ギタギタですって。こうやってみると人間の危っかしい描き方ばかりが眼について、女の人などひざを一寸押すと、それきりガクリとゆれそうね。本当の動きの為に全身の筋肉を緊張させて爪先だっている女の弓なりの体などは本当に美しいのに。こんなアトリエのうそでごまかして。ブリュウゲルの写真版のいいのがあってペンさんが貸してくれ、台紙に入れて今日出来上りました。この画家の健全な面が発揮された絵で収穫の図です。色彩も非常に新鮮です。お目にかけられないのがざんねん。

十一月十八日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十一月十八日
 あなたの方がうちよりも風邪については早手まわしでいらっしゃいましたね。こちらは今日あたり繁昌です。私は三日目で、昨夜湯たんぽを二つあてて寝たら今日は大変によくなり、国男さんは青い総毛だった顔をして、どてらを着込んでいます。私の風邪は簡単なもので、もう大丈夫ですから御安心下さい。
 ヘッセの『イリース』等を出している本屋の名が文書院と読めたのですが、それで当っているでしょうか。一番最後の行の良い芸術と書かれている字と照し合せてそう判断したのですが。本屋のところがおわかりでしょうか。教えて頂けますか? 出来たらばどうぞ。
『現代ドイツ短篇集』は手許に来ました。いつでもお送り出来ます。(このところで何故かペンさん、莞爾としました)きたならしいニッコリね、にくまれ口だけは御自筆。書いて字をみたら大笑いをしてしまった。だってきたならしいと書きながら、その字といったら! ペンさん曰く、「全体こんな字ばかりだったらどんなでしょう!」と。多分あなたは肩がこっておしまいになるわね。あっちへよろよろ、こっちへよろよろで。
 南江堂へ聞いてみたところ、目録はドイツ語の医書と科学書の原書のみで、訳註本のはやはり出していないのだそうです。
 ウワバミ元気のこと[自注4]については、一同に朗読して聞かせたところ、御難という程でもなかったとのことです。あなたのトンビは、今考えれば本当に惜しいけれど、壺井さんが帰った時、勤めに行くのに着るものがなくて、あまり困ったのであげて、今でも大事に着ています。私達の通知状を世話やいてくれたし、そんなこんなでまわしたのですが、黙ってそんなことをしていけなかったかしら。夏服も同じ人に使せました。冬服は私のいない時に(九年のはじめ)だまされて誰かにとられてしまいました。四谷に国男さん達が住んでいた頃。こういう風に書いてみると、何んにもなくしたようで厭な気持ね。でも緊急になくて困っていた人があって、いくらでも買えたあの頃の私達の気持では、蔵っておいて虫に喰われるよりは、と思ってのことですからどうぞ悪しからず。
 赤ん坊の名前はまだきまりません。セカンドジョンの話しを聞かせたら誰れも知りませんでした。私は勿論よ。中々しゃれたことを御存じね。お説のとおりですから国男さんが照という字を嫌っているし、また考えなおしてみましょう。
 広島へはすぐ葉書出しました。お母さんはもう行っていらっしゃることでしょう。私にもあのあたりの町の景色がみえるようです。歴史が無限のエネルギーを持っているということは、人間の究極の希望と信頼の土台で、それ故に人は自分の一生というものの価値を外見上の一生の現れ以上のところへおいて考えることが出来るのですが、「多少の感慨」は時に中々痛切です。人は同時代人の種々相を感情の小さい面に反射させ易いものですね。
 文芸欄のある新聞は『都』だけだったので、またとろうとしたら『国民』と合併になって、『東京新聞』という名になっていました。内幸町の新しい船のような白い『都』の建物は中身がどうなっているでしょう。それでも細かく一頁を使って、いくらか特色をとどめているから可愛ゆいと思います。十何年来買ったことのなかった色々の月刊雑誌も寄贈をやめましたから、このことも様子が違います。さて買うとなると、この頃の内容広告は一円が惜しいようなものでね。しかし悪い米も食べてみなければ、悪さも良さもわからないというところもあります。
 気がついてみたら、そちらからのお手紙はもう三四通前からすっかり自分で読んでいるわ。ですからどうぞどうぞ面白い手紙を下さい。この字は不思議と読めるただ一つの字なのだから。子供の時あなたも「面白いお話しを聞かせてよ」とおっしゃったでしょう。そういう人はいつもきまっていたでしょう。子供だって、きらいなやつに面白いお話しをせがむような鈍感な間違いはしないわ。
 寿江子が昨日電話を寄越してあちらは終日雪だそうです。東京は街の黄色い葉を落して強い雨降りでしたが。佐藤先生のところへ手紙を寄越して、色々気持の病的なところを訴えてきたそうです。体はみたところ肥って、陽に焼けてしっかりしたようだそうだけれど、神経がどうこう、気持がどうこうというわけで、そちらの方が難物です。私も気にしているけれど、お医者様への手紙には「うちのものには絶対に言ってくれるな」と念をおしているそうだし、一寸手の下しようがありません。年齢的にもむずかしいのだろうし、何か感情の上へショックを受けたことがあるのではないか、という気もします。率直なようだが、事実は決してそうでないから、苦悩の原因が誰れにもわからない。そういう状態の時、人はすべてを沈黙のうちに自分の力で整理するか、さもなければあけすけに感情の動機までを話して、それによって解放されるか、二つに一つしかないもので、寿江子のように波紋だけを周囲に訴えて、根源をおしかくしているのは困ると思います。東京のものがあの人ににくみママをいだいていると感じているらしいが可哀想ね。にくらしいものならば、たとえば私がこうやって借金暮しの中から、どうして体を直す為の金を出してやるでしょう。私のようにどこにいても、どんな時でも自分の責任に於て、周囲の人の善意を信じて暮すものには、特に病気などした時、寿江子のような心持はどんなに蕭々しょうしょうとしたものでしょう。治る病気も治りそうにない。この間少し元気をつけるような手紙を書いたら、気に入らなかったらしくておこってきました。普通ならあなたに一度手紙をやっていただきたいのだけれど、何だか今は一寸手がでなくて、折角あなたが書いて下すってもそれがどううつるか、わからないからまたのことにお願い致しましょう。そちらへ行けないのがそろそろ焦立たしくなってきました。庭へまだ楽に出られないのだから、若し乗物に乗ったら必ずひどくなることがわかっていて、やっと辛棒します。誰れも行かなくて全く厭です。そんなことを拘泥していらっしゃらないだろうけれども、私とすれば厭なのよ。
 街の並木の黄葉がきれいだそうです。

[自注4]ウワバミ元気のこと――「ウワバニン」の注射のために百合子は亢奮状態におかれて結果がよくなかった。そこで「ウワバミ」という家庭のアダナがついた。

十一月二十日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 杉本健吉筆「博物館中央」の絵はがき)〕

 この絵葉書をみたら、昔ここ(奈良)へ来た時のことを思い出し、空気のかわいたカランとした感じがとらえられていると思いました。
 今日セルとメリンス襦袢がつきました。庭の青桐や紅葉が黄葉の最中で中々きれいです。去年の秋はこんなにゆっくり秋色をながめる心のいとまがなかったけれども、今年は東の窓や西の窓をあけ、さては北側の動坂方面を眺めたりして、動坂の家に屋根をおおうて欅の木があったことをも思い出します。夜中に落葉の音が聞えます。輝チャンに送る毛糸が殆んど揃って、近日中に送れます。私が火鉢で湯のししてなかなかいい毛糸です。十一月二十日

十一月二十二日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十一月二十二日
 今日の日曜は珍らしく穏やかな秋の小春日和です。昨夜も夕方、月ののぼる頃は東空の眺めがなかなか趣きありました。二日続きであしたも休みだから、国男さんは大変のんびりして太郎も大喜びです。昨夜は新しく買ったベートーヴェンの「第九」を三人で聴いていると、太郎は大きいテーブルの下にもぐり込んでふとんにくるまり、コーラスの声々を聞きながら半分眠ってみかんを食べていました。大きくなってこんな土曜の夜を思い出したらどんなに懐かしいでしょうね。私はひどく感興を覚え、こっち側からのぞいて「極楽極楽」とほめてやりました。
 今日は色々嬉しいのよ。天気がよすぎて私の眼はまくまくで、一入ものがみえないけれど、起きたらお手紙が来ていたし、寿江子からもきていて、あの人も初雪と一緒にやっと峠を越して、同時に宿屋にオルガンのあるのをみつけてすっかり元気をとり戻し、「悪夢からさめたよう」だそうです。一日雪明りの部屋でオルガンをひいて助かった気持になっているらしくて、私にとって今日が一層心のどかな休み日となりました。どうぞあなたもお喜び下さい。あの人もこうやってゆきづまりながらトコトンで何か打開して生きて行くことを学びつつあります。体の調子にひき廻されながらも。どんなに安心したか、御想像下さい。何しろ、何を言われても総毛立つというのだから、私としては自分の食べるチーズでも分けて送ってやるしか手がありませんでした。まあ本当によかったわ。この人も泰子も成長の一段階毎にヒキツケてゆかねばならない質です。精神はいつもそういうものですが、この人達は体がそんな風になります。寿江子のは泰子のように口から舌押えの棒をたてる代りに、おそろしい呪いの言葉を発します。こう書いて今日は笑えるから嬉しいわ。これで私もまた一層のんきになって治れます。私がひっくり返って治るまでに、咲枝やおなかの赤チャン、泰子、国男さん、寿江子、みんなが揃いも揃って一つの時期を通って、私の医療につれて何かそれぞれプラスを得て、国男さんは神経衰弱が治ったりして本当に禍福あざなえる繩ですね。文法書のことは承知致しました。たちばなの本は来ていますから、一緒にお送り致しましょう。
 歯のこともわかりました。市中ではみんな金冠を使っています。一定量だけ各医院に配給されるのだそうです。
 今読んでいるカロッサの小説は本物で、なかなか面白く、一日置きに読んでもらうのが待遠しゅうございます。カロッサが大戦後のドイツの生活のなかから希望と精神の確乎とした人間成長の可能を見出だそうとした熱意が限界を持ちながらも真面目に伝えられています。はじめて小説らしい小説を読んだから、感銘が新鮮でいつか余程前にジャムの「夜の歌」を読んでもらって、その感銘が私のなかへ「祝い日」の出来るようなリズムをかき立てましたが、おなじようなことが小説の方でおこるようです。これも嬉しいことの一つ。この小説を読んで何となくバルザックを思い出しました。この二人の作家の間にある違いは多くの要因を持っていますが、一つは明らかに純正な人間の叡智の敗北の悲劇を自覚したものと、バルザックのようにそれは自覚しなかった作家との違いだと思います。文学の精神の相異がここに何とはっきり出ているでしょう。カロッサの少くとも過去の小説には悲劇のなかで自分の精神をとりまとめ、希望をとり失なわず生きようとするけなげな心が脈うっています。日本文学との対比を考えます。「茂吉ノート」で「自然はコスモスであることを失ってはいない」と言った人は、それでも、色々殊勝な心がけがあるらしいことよ。文学は文学であることを忘られない作家の一人であるらしくみえます。ユーゴーその他の作品はずっと昔に読んだけれど、今読めばまた今の判断があるでしょう。けれども、今の私は当分現代に近い小説をドシドシ読んでもらって、小説ひでりをいやしたいと思っています。あなたに興味はおありにならないかしら。
 今年の冬は寒そうで、そのしのぎの仕度が大変です。しかし太郎は十二月の十日の誕生日に、スキーの道具を一揃いもらいます。そして一辷りやるでしょう。父さんはちぢこまってどてらを着ていても、息子は雪の中にころべまた起き上って辷れ、と願う心は自然な健全さを持っているものですね。私もこれには満足です。

十一月二十五日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 今日は久し振りで吉報をもたらします。昨日午後一時五十分男の子が生れ、九百五十匁でまことに見事な坊主だそうです。七時半頃起こされてみたら、もう洗面所で支度していて出たのが九時少し前、いいお天気だったし、時刻も程々でおまけにお医者にほめられるような子供を持ったから一同大満足です。特に父親は今度初めて全過程を一緒にいてやって、大変深い感銘を受けたらしくて、赤ん坊と母親への可愛ゆさと健げさで心を動かされたと言っています。こういうことも私が動けないからの反ってよい結果です。私は昨夜から泰子の養母になって横にねますが、頭のなかに不調和があるから、泰子の眠りは不安で幾度も目が覚め、泣きます。その度にこちらも起き、この数年来のああちゃんの辛苦がはっきりわかるようです。ああちゃんが心臓を悪くしているのも全くこの泰子の重さと、やっと眠りかけると、それを中断される不断の疲れだということがわかります。私は泰子に自分の心臓はやりたくないから、だんだん工夫してもっとうまく一緒にねている女中さんに手伝ってもらう方法を講じましょう。今度の赤ん坊は私の病気のために、母さんが注射したりすることになり、思わぬもうけものでした。「やっぱり百合ちゃんの病気で、気をもんだりしたのが悪かったのね」などということではたつ瀬がなかったから。
「正直の頭べに神宿る」ということわざは、現代ではこんな形に出てくるのね。しじみやが正直にざるをかついで働いているお蔭で、大金を拾ったというような昔の正直のむくいよりも、どうもこういう方が理屈にかなっていますね。ですからみんな愉快です。私は一晩で疲れて、今日はもうろうとしているけれどそれでも満足です。ペンさんが昨日は非常召集で病院へまで行ってくれ、生れた子もよく見てきてくれました。「この子は本当に、生れた時から知っているんだから」と大えばりです。この人には一家のなかの死に損ないから誕生まで、何やらかやらと厄介をかけます。今日は木枯らしが吹いているけれど、風邪お大事に。
 十一月二十五日

十二月三日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 十二月三日
 今日は珍らしい報知を致します。泰子が昨夜の十二時から今日の昼までたっぷり十二時間眠ってうち中をアッと言わせました、何年にもないことです。この間中は一時間、二時間おきに起きてないて、私は全くグロッキーになり、一昨日は病人となりました。手つだいの人達が気の毒に思って自分達の方へ寝かしてくれ、一晩でかぶとを脱ぎ、昨晩は、さてこれから一合戦と覚悟をきめていたら、思いもかけず眠り通して六時半の太郎の目覚ましで、私も起きた時には思わず床の上に坐って、しげしげと泰子の寝顔を眺めました。せめて五時間でも続けて毎晩ねられればいいのにね、と。可哀相に。泰子も出産の時、圧迫によって脳に出血したらしくて、その為こういう有様ですから小さい体のなかに正常に伸びる力とそれに伴わない神経の萎縮があるから絶えず不安で困るのでしょう。今日は私も、夜昼とり違えでないから気分もよく、かんしゃくも納っています(この風に吹き当てられるのは他ならぬペンさんで昨今は時々向い風に吹き当てられるような目付きを致します。ところがアッコオバちゃんはえらいスパルタ教育だから生活はお手柔かな日ばかりあるものかという勢いで相当抵抗力を養成しつつあります)

 御注文の辞典類は木村の『和独大辞典』と白水社の『和仏辞典』とがあったので、書店から直接そちらへ送るように送金致しました。『朝日年鑑』と片山の『ドイツ文法辞典』と、『ドイツ現代短篇小説集』お送りしました。芸文書院のことはお手数すみませんでした。早速電話したところ、現在カタログはなくて、在庫品としては単語集と童話集があるだけだそうです。
『毎日年鑑』はまだ出ていませんが出次第とっておきましょう。
 赤ん坊はずっと良好で三十日のお七夜には健之助という名がつきました。そちらの御意見がみんなに同感されて、次郎、三郎はお廃し、ということになりました。なかなかしっかりしたよい名で好評です、合作ですね。
 今日寿江子が帰ります、そちらに行ける人が出来て私はやっとホッと致します。
 隆治さんが二十五日から九日までうちへ泊ってそれからまた南へ行くということが友子さんと母上のお便りでわかりました。やっと無事帰ったと思っていたから、私の気持は苦しくて可哀相で、じっとしていられないようだし、素手でまた南へやるのはとてもしのびないから、大さわぎをして色んな人に聞き合せて南から決死隊で生還したという人の準備を聞くことが出来て、今日はどうぞこの包みが間に合うように、と願いながら緑茶を小さいカンにつめたり、かつお節をけずったり、タダシさんに頼んで夜光磁石や、天文図やウィスキーの瓶詰などを陸軍の方から買ってもらう手筈をしたりしています、その前に南方ではビタミンBが命の親と聞いて、メタボリンを九〇〇錠送りました、が、あとから聞いたものはみんな体一つで何とかしのがなければならない時、油紙の氷ノウに入れて体につけていて、役にたてるものばかりで極く実際的に有効です。嬉しくなって、何でも揃えようと頑張っています。ジャングルへ迷い込んだっきりになるものが少くなく、それ等は磁石も天体測量も出来ず、ましてそれを食べるかつ節なんかは持ち合せない気の毒な場合が多数だそうです。隆治さんはああいういい子で、勇気もあり、忍耐も強く、責任感も大きいから、私達とすれば一層万全を期して出来るだけのことは考えもし、揃えても持たせてやりたいと思います。本当に発つ日がわからないから心配です。南のことは誰も不馴れで、何となく手がない気がして、決心ばかりするしかないのだけれど、こちらでこれだけのことがわかって包みが間に合えば、いくらか心ゆかせになるというものです。梅干布などというものもあって、これは島田で作っていただきます。さらし木綿に梅干汁をひたして天日に乾かし、それを小さく切っていざという時しゃぶるのだそうです。成程これは渇きをとめるし、腹にいいしお菜になるし、さすが経験者の考えることです。水に入ってあせって泳ぐなということも強調されていました。そんなこともみんな伝えます。
 私が行けないから小包みばかりがノロノロと道中して行くのかと思うと気がもめますね、いつぞやの栄養読本が半月かかったあのでんでは隆治さんは出発してしまいます。こう書いているうち益※(二の字点、1-2-22)不安になってきたが土曜日から日、月とかけててっちゃんに行ってもらってはいけないでしょうか。島田から達ちゃんにでも広島まで出てもらって、一緒に面会して品物も渡してもらったら、伝言も出来て、いいと思うけれども、それを頼んではあんまり勝手でしょうか。明日は寿江子がお目にかかれるだろうから、そちらの御意見を伺って、てっちゃんの都合がつくなら、旅費を出して行っていただきたいと思います。本当に小包みさえ早くつくならば。

 こんな心配をして、お七夜さわぎをして、夜番をするのだからアッコオバチャンだって気もたつわ。無理ないでしょう? おまけにね、どてらの心配もあるのよ。辞書をひくなんというやさしいことではなくて田中さんという浅草の女の人がいつになったら我が御亭主の為にポンポコどてらを縫い上げてくるかという心配。何しろ、東京の人はこれまで袷で冬を越しているから綿入着物が珍らしく、縫う人はゴテてそれが恥かしくもない顔をしているから毎年私は恐慌をきたしています、九月から頼んで十一月一杯というのが今日もう三日でしょう、ですものね。
 あなたの十分の一の正確さをそういう人達が持っていてくれたらあなたもどんなに楽でしょう、(何だか吹きだすわね)
 達治さんが去年六月に応召の時は面会が出来なくなりましたが、今度はどうかしら。あんまり多勢動く時はそうなるのですが。
 自分で行けないのは何て歯がゆいでしょう。隆治さんについてはあなたの日頃のお心持もよくわかっているから、私も心をくだきます、どうぞ無事でまた会えるように。お母さんも隆治さんの体の丈夫なことだけを頼りのようにお書きでした。
 私の体は二十四日以来可成りの無理があったから、随分気をつけてマッサージもまた始め、昼間よくねるようにしておりますから御心配下さいますな、何といっても体の大きい五つの子供をだくのは骨よ、体中にしまりのない子なのだから重さは非常なもので、皆、可愛がりながらヘコたれます。毛足袋、かかとが少しゴロつくかしら。風邪をお大切に。

十二月七日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 金曜日には久し振りで寿江子さんがお目にかかり、元気そうにしていらしたというので安心しました。
 それに隆治さんのことについても指図していただいて有難う。今日(七日)光町と隆治さんと両方から便りがあって、私の速達や薬だけは間に合ったようですからいくらか安心です。たびたび電報して七日に面会にいらっしゃることがわかり、二度目の速達で南方帰りの人の注意してくれたものを申しあげておきましたから、こちらからの小包は七日に間に合わないが、品物だけ揃えて渡すようにお願いしました。こっちも大さわぎで、磁石を探したりウィスキーをみつけたりしましたが、それは又いくらでも用にたつ道がありますから。
 隆治さんの手紙は相変らずあっさりしているけれど、今度は自分でも考えることもあるとみえて、島田のみんなが元気なので安心したということや、顕兄様のことを何卒よろしくとくり返し書かれていて、読む方はおのずから感じることも深う御座います。あとから隊宛に品物を送ることが出来れば、もうしめたもので、それが出来る時は私がやっきになって持たせてやりたいとあせったものも不用となって目出たし目出たしのわけです。忍耐強い子だから根が切れてどうこうということはありませんが、人間の貴重で精緻な体をふっ飛ばす暴力はやり切れません。
 うちでは三日夜寿江子が帰り、五日午後咲枝が腕に赤ん坊を抱いて、湯上りのような顔をして帰宅しました。これで一家の顔が揃い、私は病人に戻ってよいわけですが、泰子を誰がひき受けるかということもきまらず、女中の一人が兄貴にけんかをふっかけさせて引き上げるという次第で、口の先では病人に戻ることを我れも人もやかましく言っているけれど、なかなかです。しかし眼のためだけ考えても、私は度胸をすえて、この疲れを休めなければなりません。今日中には看護婦が来るそうだから、赤ん坊の方だけは一かたつくでしょう。この頃はどこもかしこも修羅場で、多賀ちゃんの手紙に「静かな陽なたでゆっくり静養していらっしゃるでしょう」とあって、大笑いになりました。こうして悪い条件に速力を鈍らされながら荷物をひっ張るようにいくらかずつよくなってゆくのが実際なのでしょう。人手が揃って静かに陽なたぼっこが出来るような全体の世の中なら、言ってみれば私も半盲になるような途方もないことはあり得ないわけで、一事が万事ね。しかしあんまり閉口だから、二月にでもなったら、伊豆の伊東に安い宿屋を聞いたから(ペンさん曰く、「来年になったら上っちゃいそうだ」とのこと)ゆっくり温泉に入りに出かけたいと思います。私の心配するのは眼のことだけよ。こういう風にのそのそしている内に、視神経が萎縮を起したら大変だと思います。もしかしたら年内にもう一遍眼底をみてもらうかも知れません。本は本屋から着きましたろうか。
 毛布のことわかりました。毛布とどてらと一緒にお送りしたいものだと思っています。
 もうあれから一年たち、今年が二十日ばかりで終るとは何ということでしょう。だれしもこの一年はゆっくり息をつく間がなかったでしょうが。
 今日から配給のお米は、とうもろこし入りになり、まるでいり卵をかけてかき交ぜた御飯のようで、玉子をたべることは少いから、玉子好きの私達は錯覚をおこして、おいしいものをみたような気が一寸します。そして味も案外苦にならず、人間の食べるものの範囲の広さを考えさせられます。
 読んでもらっているカロッサの小説が、もう少しで終りです。いろいろと面白く、感じたことも多くありますから、それはいずれお正月に。ああ、でもお正月と言っても二十日前後にそちらへの手紙は出さなければならないから大変だわ。それまでにこの眼がもう一寸安定しなくてはね。
 てっちゃんがこの間あなたの御意見を伺う前、もしいいとおっしゃったらと思って、前もって都合を聞いたらば、心よく引き受けてくれて嬉しゅう御座いました。あなたのお考えを聞いてから、はっきりしたことはきめることにしてあったから、つまり中止になりましたが、それでも忙しい中を躊躇せず行ってもよいと言ってくれたのは、いつに変らぬあの人の気持のよいところでありがたいと思います。毛糸も子供二人分なかなか手に入らず、先ず一人だけ送りました。あとはまた店に出た時みつけて送りましょう。
 今日は百合ちゃん大ヘバリです。だからこれでおやめ。今、食堂に居たところ、先ず大きな大きな海苔まきのような毛布包みの泰子を抱いて寿江子が現われたと思ったら、ホゲーホゲーという声を先立てて、赤ちゃんを抱いたああちゃんが続いて御出現。泣き合せという光景です。御想像がつきますか? 私は二階へ上らざるを得ないでしょう。ざっとこんな始末よ。では風邪をお大事に。
 健之助は健啖けんたん之助とつけるべきでありました。ああちゃんをみていると、年中粉ミルクをかきまわしています。
 十二月七日

十二月七日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 コロー筆「ナポリ」の絵はがき)〕

 十二月七日、夕刻電報拝見しました。ああ本当にこういうこともある、とすぐ駒込郵便局へペンさんに電話してもらったところ、この頃ずっと小包みは受付けない由、手紙だけ。それも不定期で、その時になってみなければ、飛ぶか飛ばないかわからないということでした。折角の思いつきも右の始末ですが、今日手紙に書いたように、もし島田の人が本当に心配をするなら、二度目の速達の品を揃える時間はあったわけですから、すべてが徒労になったわけでもあるまいと思います。お母さんも薬のことはお喜びでお手紙がありましたから。電報の御返事取敢えず。風呂の釜がなおることになって大喜び。

十二月十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 ペンさんがヘントウ腺をはらしたというので来ず、うちは泰子さわぎて眠らない人ばかり。私は手紙が書きたくて気がもてず、二階へ来て、こんなかきかたをして見ます。柔かい5Bでこうやって書くのは割合楽よ。あなたもこの間うちはあちらこちらとお忙しかったのね。隆治さんと母上とからけさおてがみで、私の細かいことづてもつたわり、物も届いた様子です。七日に小包が間に合わないから、速達で申上げたものを広島で買っておわたし下さいと電報したことや、航空便のダメなこと申しあげましたね。これをかき初めていたら、太郎が九日ごろのお手紙もって来てくれました。それともこれは十日におかきになったのかしら。
 あなたも永いこと御不自由ですみません。自分でいろいろ出来ず、電話かけてもまだはき気がしたりして本当に厄介ね。毛布が送れて一安心。どてら、いつ縫って来るつもりでいるのでしょう! そうそう牛込の荷物ね。あのなかにはオリーブ色、細かい格子の裏の絹の丹前があっただけでポンポコはありませんでした。あの昔のなつかしい染ガスリの夜着のようなのは。
 私は国男さんの所謂じれったがらない修業が大変よ、何しろうちは何かの巣のような騒ぎで、考えておいて黙って実行されるという一つのこともないのですもの。きょうのあなたのお手紙にパニックは起さずとあり、又向い風とかきかけて消されてあって笑えました。そして、こうやって一人自分のカンシャク姿に笑えるのは、やはり一つの慰安なのよ。こんな紙にこんなにかくと、何もかかないうち何と長々と、お軽の手紙のようになることでしょう。

  小曲

 小さな男の児が
 大きい椅子の根っこで
 じぶくっている

 父親は遂に夕飯に帰れず
 となりの子供たちは
 みんな出払っている休日の夜。

 男の児はじぶくっている
「お父ちゃまとお風呂に入りたいんだよ」ウェーンウェーン

 母親はミシンを動している
 これから生れる子供のために
 椅子の上には
 赤い毛糸の足袋で
 小さい女の子が笑っている

「お父ちゃまと一緒に
 入りたいんだってえば」
 母はなおミシンを動している。

 やがて女の児がつれ去られ
 泣きつかれた男の児は
 そのあとへ這い込む
 九歳のしなやかな
 日やけ色の手脚をまるめて
 名もなつかしい
 おじいさん椅子グランドファザーチェア
 おだやかに 大きく黄ばんだ朽葉色

 気持の和むなきじゃくりと
 ミシンの音は夢にとけ入り
 時計はチクタクを刻む

 となりの子供は
 みんな出払った 休日やすみびの宵。

十二月十一日

十二月十四日

 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 コロー筆「樹陰」の絵はがき 速達)〕

 十二日朝の速達戴きました。(十三日)
 隆治さんに送る物に就て、はっきりその後の様子を申上げなかったので、気を揉ませて済みませんでした。七日に間に合うよう、電報をして、品物を揃え、母上から隆治さんに渡していただきましたが、ウィスキーや、磁石は、もしないといけないと思って、小包で島田宛送って置きました。書留小包にすると、割合早く、確に着きますから、二十五日頃もし出発が実現しても間に合うでしょうと思います。私の二通の島田宛の速達も隆治さんにお渡し下さったそうです。二十五日頃と云うのは、隆治さんの予想だそうです。お互さまに気をもみましたが、これでマアいくらか安心です。この次の面会は出来るものやら出来ないものやら不明だそうですが。小包を出したらホッとして、昨日の手紙にその事を書きませんでした。今日はうすら寒い日曜日ね。飛行機の音がします。

十二月二十一日

 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 きょうもお軽の手紙ですが、紙を更えて。これなら恥しいほどズルズル長くはなりますまいから。
 十七日のお手紙をありがとう。
 隆治さんのことはやるだけやって見て全くようございました。あとから送った磁石(夜光)やウィスキーなどが十六日に届き十八日に最後の面会だったそうでした。ウィスキー磁石等紀さんに大骨を折って貰いました。ウィスキーはポケット用のビンではこわれるから大さわぎして水筒を買い(これも今はない)それに入れかえて送りました。隆治さんから十九日に電報が来て、
 イロイロノゴハイリヨアリガタクウケマシタゲンキニシユツパツ
 とありそれを見たら涙が浮びました。有難くうけと電文をかいているところにも、あの人の気質がよく出て居ります。生かしてかえしたいと切望します 実に それを願います。
 ウィスキーは内国産でも現在は薬用に足りるだけ純質なのが少くて、散々人手を経て一ビン買い小売りをしないというので大枚を投じ、うちにあると、無駄にのむ奴がいるから紀さんにあずけてあります。それから水筒を又一つ入れて達治さんに送っておきましょうね、今度のように気を揉むのは辛いから。
 達治さんも同じ方角でしょう、そちらに重点がおかれているらしいから。磁石は手に入るかどうか。天文の本は紀さんの意見では非実用の由です。
 実に特別な年末ですね。
 この家での生活は、子供が三人になったら又一つ様相変化して大変なものです。太郎は今私と一つ部屋に寝て居ります、泰子が四十度ほど熱を出しているので。赤坊についている看護婦さんは泰子が熱を出すと同時に自分も熱が出たそうで、ねて居ります。赤坊が人工栄養だし、泰子がああだし、お母さんは本当に二人の子供の間でキリキリまいをして居ります。したがって私はどうしても家のことに手を出さずにはいられなく、そのため過労してパニックも生理的におこったのですが、よくよく考えて、もう余りつかれないようにしようと決心したので、この二三日は幾分ましです。
 ペンさんはこの頃は一週一度にして居ります。「自分の生活とまるで関係がないから」とはっきり云われると私は切ないからもうこういう法式で自分がかくことにしました、あなたにだけは。用足し手紙は仕方がないが。
 寿江子の体いろいろありがとう。
 こうやってチラチラと定まらない視線の間から、段々に少しずつ字も書いて行くのがいいのでしょう。全く視力の恢復の手間どるのは苦痛となって来ました。本はよめません。知っている字をこうやって半ば手の調子にたよって書くことの方が出来るのね、使う字もわかっているし。この頃は少し頭の疲れもしずまって来て、注意もやや集注するようになったので、眼のおくれは一層切実に感じられることとなりました。
 近日うちにお金もお送り致します。森長さんや九段は例年通りでよろしいでしょう?
 もう一度は年内にかけますね、或は二度? この一つ二つの手紙の中で今年出来たものをみんなおみせして新年は新しい諧調をもってはじめたいと思います。風邪はお気をつけになって。





底本:「宮本百合子全集 第二十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年3月20日初版
   1986(昭和61)年3月20日第4刷
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
2004年10月15日作成
2016年2月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード