獄中への手紙

一九四三年(昭和十八年)

宮本百合子




 一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕

 明けましておめでとう。そちらはいかがな正月でしょう。こちらは兎も角ヤス子が命拾いをしたので、どうやらお芽出度い春らしい三※[#濁点付き小書き片仮名カ、7-4]日です。国男さんが風邪をひき、その上目を悪くしてお雑煮を食べられません。太郎は十になったから頭を丸い三分刈りにしたら面ざしが変る位男の子らしくなりました。私は今年は完全にね正月、一日のうち起ているのはお雑煮を祝う前後の数時間で、夜とひる前は床の内です。ヤス子騒ぎの一段落後は私もやっと安心して、人間並の疲れかたになり、即チ何をするのもいやと云う風になりました。ポーッとしてねどこばかり恋しがっていますからどうぞ御安心下さい。今迄はこんな気のゆるんだくたびれかたの出来ない程度にしか、神経もよくなっていなかったものと見えます。タカちゃんからお菓子を造らして送ってくれました。徳山の菓子やでしょう。今日はテッちゃんが見えました。みんなからよろしく。

 一月七日 〔巣鴨拘置所の宮本顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月七日
 暮の二十六、七日はうち中、今にも泰子が駄目になるかというさわぎでしたがそれでも幸い持ち直し、二十八日には寿江子がそちらへ行けました。二十八日には色々世帯じみた必要事について寿江子が伺ってきたので私にとっては一層よい年末の贈物で大晦日や三※[#濁点付き小書き片仮名カ、7-15]日は全くのんびり致しました。
 相変らずかたいお餅を上りましたか。今年はそれもなかったでしょうか。うちは菓子なしの正月のところ、多賀ちゃんのお心入れのまがいカステラで思いがけずテッちゃんにもお裾分けしました。
 去年は咲枝のお産をひかえ、何しろ弱い人だから夏頃の工合の悪さから見て無事にすむかどうか誰しも不安だったので丁度私が回復し始めるころから十一月にかけどうしても気が張っていて私は力以上の緊張が続きました。咲枝が留守のこともあなたがお考えになるように我から買って出た役でもなかったのです。ここの父親は子煩悩だけれども遊び仲間で、死に騒ぎにならなければ夜子供をみるというような世間並みの習慣はなく、亭主教育されているから咲枝としては私にでも頼むしかなかったのでしょう。全責任を一人で負う女中さんというものはあり得ませんし。
 どうやらやっとそのお産のゴタゴタもすみ咲枝の体も順調で全く一安心です。泰子が生きると決ってから私は全く体中の力みをゆるめて夏以来始めてクタクタになり十三四時間も眠ります。相当なものでしょう。うちの人達も私に無理をさせていたことが必要がすんでみればはっきりわかってきて今は休むことを頼まれ私はいい身分よ。何しろ呑気にしてさえいれば安心だというのですからね。
 今の調子で春までのんびりしたら眼もよほどいいでしょう。伊東へ行くことなども考えていたけれどもあすこは防空地帯の甲で、これからは東から西への気流がよくなる折からだし、地方の常識外れも怖ろしいし、やっぱり信州辺の温泉へでも行けるまではこの二階でずくんでいようと思います。軽挙妄動は怖るべしですから。
 薬のことを有難う、でもねオリザビトンは買ってあるだけは飲んでいただきたいと思います。効く薬なら尚のこと、何しろ、そちらの食事は手にとるようにわかっているのですし。こちらはメタボリンとレバーとでいいと思います。薬はこの程度で充分な休みと一日の間の適当な用事の配分とできっといいでしょう。片附け熱病がすっかり消えてこの頃はどうやら何時もの百合ちゃんの緩慢状態になりました。今日になってみるとああゆう頭の打撃は本当に自然になるまでに極く小きざみで複雑な神経状態を経るものなのね。考えるすじ道はまともでも動作やその考えのスピードなどに色々なニュアンスで普段でないところがついていて、気質の少しどうかした人ならそして人間に対する根本の信頼がない人なら、その妙なところが固定してしまって所謂大病のあとの人変りということになるのでしょう。考えの道はまともで何だかその人らしくないなどというのはこわいわね、そういうことが自分にわかってきただけ丈夫になったのでしょう。手紙は何といってもすじばかりのところがあって、目でみ、感じるその人らしくなさ、は手紙には若しかすると少ししか現われないのかも知れないわね。
 私の方はざっとこうゆう工合です。
 富雄さんから写真が届きましたか。裏に最近の勇姿、と書いてありましたか? やっぱりあの人ね、二百枚もうちへ写真を送っているんですって。隆治さんはどこで正月をしたでしょう。船の上ね、お餅があったでしょうか。
 今日はこれだけでまたね。机の上に実のなった豌豆の花があってそれは大変生き生きとしてきれいです。お豆腐の味噌汁は近頃珍物よ。さや豌豆えんどうで思い出しましたが。

 一月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月十一日
 一月八日のお手紙有難う。
 泰子はいいあんばいに順調でこの頃は私が「やっこちゃん遊びましょう、ジュクジュクジュク」(これは歯と唇の間からたてる妙な音で泰子のお気に入り)というといかにも美しい顔で笑うようになりました。丈夫な子でも肺炎をすると数年遅れるというから泰子などはさぞひどいことでしょう。
 すっかり髪が脱けました。病後のやつれたしかしほっぺたなんかの赤い顔をして目はキラキラ全く星のかけらのように見事に輝いています。この輝きがもっと天上的でなくなって人間の子の喜んでいる目付に戻らなければすっかり回復したとは言えますまい、大変可愛いことよ。手がまたなくなっていますが、私はもうああちゃんが丈夫だから下のさわぎにはかかわりなく今日のように気持よい雨がどっしり降って、ぬれた冬の木立がきれいにみえるとこの間に一本大島椿の真赤な花の咲くのを植えてみようなどと考えています。昨夜珍らしく夜中に眼が覚めたらあたりの暗闇と自分の安まった気持の深さとがいかにも工合よく調和していて、病気以来暗闇が圧迫的で苦しかったことがすっかりなくなっていたので嬉しゅうございました。こんな風にして私の安まりも段々本物になってゆく様子です。みんなの話では私らしい動作や感情の柔軟さが戻ってきて殆んど前と変らなくなったそうです、ただまだ疲れが早いし、疲れると注意を集中しているのが面倒臭くなるけれども。問題はこの眼ばかりよ。
 たちばなへ電話したらチェホフはあるそうですからそちらへ直接送るようにいたします。前の注文の分は発送ずみだそうです。「ギオン」と「パルム」は別々になりますがお送りします。
 小説のいいものというのはちょっと返答に困る有様でいつかお送りしてそのまま戻ってしまった「チボー家の人々」も作品の頂点をなす(一九一四年)は訳出不能です。スタインベックの「持てるもの持たざるもの」は、「誰がために」への一過程としてみた場合色々専門的な意味で興味ある作品です。アメリカ作家のキャパシティーのタイプの見本として。この頃は世界文学の流れも不自由で身の廻りの作家の書くものではまだ一つもこれぞというものを知りません。なにしろ、私の本を聞く速力ときたら亀の子以下ですからね。一ヵ月に一冊読めないから。もう少し身体が丈夫になったら、もう一人人を探して読む方と書く方を分けたいと思っています。
 手袋やその外のことわかりました。寿江子の体についていつも配慮していただいてすまないと思います。私の留守中あの人は全く生れて始て位、本気で親切に努力してくれて、それは重々わかっていますが、一つ二つその誠意に比べてどうしても私に納得出来ないことがあって、それは事柄は些細なものですがそのルーズさが質的によくないと思われ秋頃も一度話し出しましたがその時は自分の精一杯さと善意だけをとりたてて主張して手がつけられなかったが、今は両方の体がましになったせいか二三日前にそれを話し出したら今度は私の真意がよくわかってちゃんとつぼにはまって自分を批評する点をわかりましたから、それは今年の喜ばしい獲物でした。私達姉妹はすじの通った深い情愛に立っているのだからそうやって話しがまともに通じなければなりません。ああいう点はああいう人間なのだから、と、甘やかすことは出来ない。芸術をやろうとする人はましてや「笛師の群」のお話し通り、気立てが大事ですから。低い周囲を批評する力が自分にあるということは自分の高さを意味しはしませんからね。
 このことが長く心にひっかかっていたところ、釈然としてお互いに愉快だし、一層しっかりとした大人らしい親愛を深めました。
 今日、島田から赤ん坊のお祝いを頂きました。隆治さんを入れた写真はそちらにも行きましたろう。隆治さんは私のおぼろな眼でみると、どこやらあなたに似た風になってきているように見えます。達ちゃんはあの年ではもっと腹にも肩にも生気が張っていなければならないように見えます。やっぱり色々ああゆう表情の気分で動揺しているのね。私の取越し苦労でしょうか。
 この頃のお手紙には夜気分がよいとあり、あの長い昼間は気持よくないということを心配します。夕方から少し熱が出て気分がいいのでしょうか。明け放しで頭が冷たすぎて何か気分がよくないのではないでしょうか、タオルなんかかけたらましではないでしょうか。営養が何処にいても悪くなる一方だから私は夜の気分のよさも油断は無用と思えます。呉々お大切に。

 一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月十三日
 昨日は面白いことがあったのよ。ペンさん[自注1]に一通書いてもらって下へ降りたら、食堂のテーブルに御秘蔵物が置いてあるので、ヒョイと感違いして、さっき見て書いていたのをいつの間に持って来たのか、サテぼけかたも甚しいとひそかにびっくりしたら、それはまた別ので、しかも十二月二十八日朝と書いてあります。何処かに引掛っていたらしい皺があってそれでも着いたのは感心でした。年の暮にあたってこの手紙には、色々のねぎらいや親切な贈物が籠っていたのに、私は、二十四日のパニックに就ての修養談が一番お終いで、年を越したのは残念でした。勿論、謹聴致しましたが、ああ云う年の暮には、やっぱり、二十八日に書いて下すったような心持もほしいわね。くれぐれもありがとう。
 オリザビトンは飲むことにしました。そんなに効くのなら、服んで一日も早くこの眼のマクマクがなおしたいから。今、うちに二三ヵ月分は有りますから、間にこれを当分続けてみましょう。
 和独は箱付きかどうか判りませんが、スエコの伺ったのではそのまま間に合せて下さることになったのでしょう。(スエコは意地悪で「ソノママ、マニアワセテ」と早口に続けて云ってみろと云います、ひどいわね。「隣の客は良く柿食う客だ」ではあるまいし。)
 この頃は養生訓三ヵ条が実によく守れています。それと云うのも三、四月になって東から西への気流が良くなるにつれて、望みもしないものが天から降って来て、火事場騒ぎなど起らないうちに、一度是非そちらへ行きたいと思い、そのためには、もっと良くなって乗り物に乗れるようにならなければならないから。
 私の健康上のプロンプターはスエコで、何しろ永年持病と戦っているから案外疲労の測定が正確で、私より先に私の疲労が見透せるらしいから、口やかましい忠告に従わなければなりません。歯っかけのくせに何て姉さんぶるでしょう! 手紙を書いてもらう時の私の待遇はたいしたもので、二階の机の横に行火あんかを造り灰皿を揃え、くしゃみをすれば大事な胴着を頭からかけてやって、そして一筆願うありさまです。
 でもね、この頃は手紙を書くことに就ても呑気に構えてしまったの。あくせくして一通余計に面白くもない手紙を書いてやきもきしてみたところで、私達の生活の本筋に大した関係はないのだし、結果として、あなたが心配して下さることを、無にするようでは意味ないと思ってね。こう心を決めたら気が楽になって、あなたもそれでよしよしと云っていらっしゃるような気がしているけれど、それでいいの?
 私はどうかしてこう云う気質に生れていて、御難つづきの人生などを予想しないし、有難いことに、そんな考えを可能にしないような光があるから、その点は大丈夫です。実際問題としては、目下の吾々の生活は銀行相手の赤字生活ですから、今年の末頃にはポチポチ仕事が出来ないと、閉口です。書き始めるに就ては云々、というようなこともきっとあるでしょうし、なかなかすらりとは参りません。ペンさんのことに就ては、スエコから申した通り充分以上のことがしてあります。もう四年ばかり出入りしている子だけれども、この春には結婚するらしく、そしたらあんまりつき合うこともなくなるでしょう。
 ロビンソンは漱石が文学論のなかで、十八世紀文学の常識と無風流と、日常性の見本として、何処にも壮美がないと、あの人らしい美学を論じていますが、成る程、仰云るような古くささが、作品の低さの眼目なのね。漱石の型式美のカテゴリイの問題ではなかったのね。面白いことは、漱石が作家的、また人間らしい稟質の高さから、この作品の意に満たないところを直感しながら、その不満の拠りどころを型式美学に持って行ったところが、いかにもあの時代ですね。ロビンソンのことは漱石の文学論を読んだ時、フリイチェの文学史的な解釈と対比して印象深かったので、短いお手紙の文句だったけれども色々考えを動かされました。あとの文学史先生は、ああ云う作品の発生の起源をちゃんと説明はしているけれど、それに対して今日の読者である私達が、つまらないと思う直感の正当さとその理由に就て、触れてゆくだけの力は持っていませんでした。文学に於ても史家は、そう云う静的な立場から、極く少数の傑出した人々が踏み出すばかりなのね。
 この間、始めていかにも気持よくた晩に(父、子が下へ降りて、私一人で眠れるようになった晩)大変綺麗な面白い夢を見て、またの時、スエコを掴え、その話を書いてもらうのが楽しみです。その夢の話をきけば、私がやっとこの頃ゆるやかな神経で横にもなっていることが判っていただけるでしょう。
 風邪をおひきにならないように。ほんとうに頭から一寸物をかぶると暖いらしいことよ、かつぎのように。

[自注1]ペンさん――百合子の眼のわるい期間、代筆等を手伝ってくれた娘さん。

 一月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月十六日
 十二日づけのお手紙をありがとう。その御返事というわけでもないのよ。約束を守らないとお思いになるかもしれないけれども、この間うちから我慢をつづけて、代筆で。でも、明月詩集[自注2]の物語ばかりは誰に書かせたら私がたんのう出来るものでしょう。しかも、「しきりに寒夜月明の詩を思う」と書かれているときに。そうかいたのは誰でしょう。
 去年よりは小さい字が書けるようになったでしょう、依然としてぎごちなくリズムが欠けていて妙ですが。
 きょうから毎日一二枚ずつ書いて出したら二十三日前に着くでしょうか。気をつけて少しずつしか書かないから大丈夫です。丁度日向に長くいて日かげの部屋へ入り、そこでものを見ようとするとマクマクでしょう。あんな工合にこの紙や字が自分に見えます。
 今のところでは今年も割合暖いようですね、昔の冬は春のようだと思えるほどの時もあったりしたけれど。
 この頃、私はもととは流儀をかえて、夜眠る前にいろいろ考えるよりは寧ろ朝めをさまし雨戸をあけて床に永くいるときに、静かで暖かで新鮮になってどっさりのことを考えます。明るい月の流れ入る窓の詩は夜のうたではあるけれども、あれはうたの心の天真さやまじりけのないつよい歓びの情などから朝の光のすがすがしさとも実によく似合います。一層美しさが浮き立つようよ。そしてそのような熱くてすき透ったような詩趣は朝のうたの諧調をも同じように貫いて響いて居ます。なじみ深い愛誦の詩をまた再び声を合わせ格調を揃えて読もうとする気持は何にたとえたらいいでしょう。
 残念なことに私の物をかく力はまだあの詩ものがたりの旺盛なやさしい諸情景をこまかく散文にかきなおしておなぐさみとして送るまで達者になっていません。それでもやっぱりこうして私は書きます。

 芳しく あたたかく
 夢にあなたが舞い下りた

 恢復期の寝床は白く
 その純白さは
 朝日にかぎろい 燃ゆるばかり。

   昔 天使が
   信心ぶかい乙女を訪れてとび去った
   跡は
   金色羽毛の一ひらで
   それと知れたと
   いうはなし

 翔び去ったあとはどこにもなくて
 そこに
 もう
 いない あなた

 虹たつばかり真白き床に
 醒めてのこれる冬の薔薇。

[自注2]明月詩集――ながい年月の間には、いくつもこういう詩集がやりとりされた。書いたものと書かれたものとの間にだけ発行された詩集。

 一月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 今日は寿江子さんが用足しに出かける処を急に取やめとなったので、二階に来て、私は思わぬ幸にめぐりあったと云うわけです。
 十三日から十五、十八と、なかなかたっぷりした戴物で本当にありがとう。まず十三日のから。そちらに飴玉とユタンポが有ってまあまあでした。成る程昨今では袋へ入れる鉄くずがないわけですものね。然し、ユタンポは二十四時間持たせるのには大骨だし、殆ど不可能でしょう。手間が大変ですね。それでもよほど助かるでしょうからいいけれども。防寒の為にタオルでも頭におかけになったらと云うのはフワリと上からただ掛けておくだけのことで、顔までかぶると云うわけでもなかったのです。年始に目白の先生が来た時その話をしたら、寒すぎて頭がジンとして苦しいよりはその方がよかろうと云うことでした。芝居の道行で、女や男が頭に手拭を吹流しにかけて行きつ戻りつするでしょう、あの調子よ。ユタンポでその必要もないかも知れないけれど。
 島田の生活のことは、全く色々大変だろうと思います。新設の工場が不向きだと云うことも確ですし。お母さんは、でも、体を丈夫に気を楽にもつと云うことを、心掛けて暮すと云っていらっしゃるから助るけれども。トラックを二台売ったりすれば、今のことだから、一寸まとまった金が入り、それを土台に何とか地道な方法が立てば良いと思います。
 色々な処で、色々な形で堅気な人間は、生活の方法に就て苦心をして居りますね。あなたから折にふれ慰めたり、励したりして戴くことは、あっちのみんなも心強いことでしょう。本はこちらでも心がけましょう。『インディラへの手紙』は私達の物ではないのでしょう?「笛師の群」がおやめになって安心しました。ああ云うものはもう重版がないから、私達としては勉強上大切です。今度の新税法で煙草がうんと値上りになり、印刷税と云うのも出来て、二円の本に二割の税が付くようになりました。単行本の用紙がこれまでの半分に制限されました。本はいよいよ手に入りがたい物となって、この暮にひどい古い本を整理したら、およそ百円一寸と玄人がみたのが、市場では、三倍ほどになって、助ったようなものですが、本はお売りにならないようにと、くれぐれ忠告されました。そんな有さまです。本で苦心しない人は五十銭の文庫本一冊のために、どんなに苦労するか判らず、しかもそう云う世間の事情なら、なおさら本をよく供給しなければならず。
 病気のことに就て色々の御注意をありがとう。素人考えだと、とかく片づけることばかり急いで、副作用の有害な処置を取りがちです。つい早くなおしたくなるのね。病気にあきて。自然の時期まで根気よく持って行く力がとかく欠けがちです。私としては、病気のさけがたさの条件も判っているし、病菌の蔓延するわけも判るし、災難ながらやたらに手っとり早いことを願ってばかりも居りません。
 そちらに行くことも、では、仰せを畏み、あせらずに居りましょう。(ここで溜息をつきましたよ〈筆者註〉)家のみんなも心配しているし、なかんずく、目前の筆者は、行くなとは云えず、安心もせず、私が出かけると云う日には、旅行に出ようかなどと云う有さまだから、本当に急がない方がいいのかも知れないわ。ただ、あっちに火柱が立ったり、こっちに煙が出たりする時のことを考えると、あなたがそのお守りと云うわけではないけれど、何だか一目見ておく方があわてかたが少なそうに思えるのよ。ゆっくりと云えば秋位になってしまうかも知れないわね。今年の夏ばかりは東京にいる勇気がありません。あなたもおおめに見て下さるでしょう。いずれにせよ決して突然現われると云うような趣味的なことは致しませんからそれは御安心下さい。
『人間の歴史』、目白から貰ったけれどまだよみません。「私」と云うものを知らないと云う点、古代人と現代の良識との間には何と云う本質の大きい相違があるでしょう。ルネサンスから二十世紀迄の「私」の歴史が蓄積して来た人間の宝としての大きさ、それから更に拡大した自分としての「私」の無さ、それは漱石が「明暗」の時代にリアリズムに足を取られて「無私」と云ったものとは全く違って、なかなか面白いものです。ヘミングウェイが彼流の道を通って好き嫌いなしに、どんなことにでもぶつかれて、その時の理性の判断に従って行動して行く行動性のなかにも、せまい個人からぬけ出る一つの道が示されています。現代のゴタゴタをくぐりながら、意志と、はっきりした強い頭とで一つの道を徐々に切開いて行く強い人間のタイプが彼で、興味があります。
 ひどいスピードにたえる現代人の神経や、酒を飲んでも正気を失わない頭の強さや、パンチの強さまでこの作家のなかでは一つの方向にまとまって神経質なのが作家だというようなけちくさいマンネリズムがふっとんでいるだけ気持がよい。感受性の鋭さや、清潔さは、中学生くさいモラリゼーションより確なもので、後者に永久に止る見本は島木健作です。
 この紙は行が大きくて打撃ね。スエ子さんが怒るけれど細い行のを見付けてくれないくせに。ひどいわね。布団襟に付ける布、お送りします。小包を開けた時、ああ代りが要るな、と思ったのよ。
 どてらの巾がせまくて着にくくはないでしょうか。今年の春は私の生きかえったお祝いに御秘蔵の紺大島を着ましょうね。足袋はまだそちらに有るでしょうか。
 私は風邪をひきません。そちらもくれぐれお大事に。

 一月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 ミレー筆「編物をする女」の絵はがき)〕

 二十五日のお手紙有難う。
 二十六日に寿江子さんと御返事を書き始めたのに今日もまだ未完成という始末。それほど長いのではなく、代筆係りがつかまらないというわけよ。一、教材社へは手紙出しました。二、たちばなのチェホフはありました。三、高山書院の本は二冊ともあって各一円五十銭、四、平凡社のもあって一円八十銭、五、毎日年鑑は附録はどうだったか覚えていません、朝日には附録がついているから同様ではないでしょうか、六、衛生学はまだ調べがつきません、七、足袋は製作にとりかかります、八、カロッサは三笠と河出から出してるらしいけど本がなくてうちにはバラバラに四冊あるだけです。「幼年時代」は何しろゴーリキイやトルストイがあるからお手柔らかに思われますが。

 一月二十九日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 パリ・ノートルダムの写真絵はがき)〕

 これがせむし男のノートルダムです。右のはずれにみえる広告塔のようなものはパリーの共同便所でブドー酒くさいおしっこが流れ出ていることがよくありました。春のはじめらしい景色ですね。
『世界外交史』の第二巻買ってお送りします。岩波から野尻重雄という人の『農民離村の実証的研究』という本が出ていて買いましたが、統計が多くて今の私にはこなしてもらえないので、もしよかったらお送りします。面白そうな本です。なかなか細かく真面目にあつかっているようです。
 今日も寒い日ね、私は綿入羽織をきて針差しのように丸くなっています。

 一月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 一月二十六日
 今日は、今年始めての時雨た天気ですね。私は天降って食堂の炬燵こたつに仲間入りしています。アアチャンの処へお客様で、スエコと二人切りになったから、好機逸すべからずと云うわけよ。
 今日は火なしだと河鹿簑之助だから、スエコは此処を離れては、字なんか書けないそうです。(意地悪でしょ)
 昨日はギリギリの時間でお目にかかれ、色々の様子を伺えて、何となく安心しました。心配していると思ってもいないのに、こうやって安心するところを見ると、やっぱり安心の程度が極めて微妙にあると思います。そちらでも同様の気がなさるでしょうか、そんな工合に家のポワポワ前髪は姉さんの様子を伝える事が出来るのでしょうか。
 お体がいくらか確りしたように見えたそうで、本当におめでとう。そして、遠大な計画で語学をやっていらっしゃるらしく、結構ですが、叱言はきっと日本語以外では仰言らないでしょうね。外国語が達者な人でもフッと腹がたって悪態をつく時は、思わず「バカヤロウ」と云うわよ。
 足袋のこと承知しました。何とか工夫して裏をつけお送りします。本のことも判りました。
 今日、お手紙を戴いたから、昨日のこと以外の用事も判りました。島田への本はその通りで結構です。前知らせなしに送った本は、家からではなくて、『ギオン』を貸してあった人が、いい本だと思って送ってくれたのだそうです。カロッサ全集は、二つの本屋から出ていたらしいけれど、どちらも纏まって家にはなく、一冊ずつ集めています。
 間二日飛んだので、この辺は昨日の絵葉書と重複してしまいました。
 今日も曇った時雨空ですね。月がもう下弦になりました。二十日から二十三四日迄毎晩明月で二階の東の窓から高いさいかちの黒い梢と屋根屋根がその光に照されていました。私は窓を開け、月光を一杯に差込ませて、然し寒いから境の襖を閉めておくと、注ぎ込む月の光は、音にたつような感じでした。
 そう感じながら、こちらで坐っていると、光の音と心の内にある声とが互に溶けあって私はもう黙っていることが出来ず、電気の下でザラ紙の帳面と軟い鉛筆とを持出します。5Bの鉛筆はだいぶもう短くなったわ。大事にすっかり短くなっても、それを捨てずに持っているのは、楽しい処のあるものです。二十三日の晩は風がありましたね。夕方から夜になりかける頃、ガラス戸がなる位だったけれども、十時頃になったらば、風は落ちて、さえた月の下に、枯れた木の枝々が美しく見えました。
 そちらでは高いガラス窓から月の光が差す時分、どんな景色が見えるでしょう。私は杉の木や、ひよっ子や、芝を見ました。
 二、三日前、古い反古ほごを整理したら、(抽出しの棚を又出して机の横に置こうと思って。)シャバンヌの女を描いた絵の葉書が出て来てよくみると、なかなか面白いものでした。背の高い肘掛椅子に裸の女が、その高い背にのんびり二つの脚をのばしてかけ、片方の肘掛に頭をのせ、片手を自然もう一方の肘掛にのせてくつろいでいる構図のデッサンですが、いかにもシャバンヌらしく、清楚で、よけいな男の感覚が付きまとっていなくて心持がいいものです。
 国男さんがお歳暮をくれたので、到ってわずかな物ながら何か残る物をと思って、心がけていて、日頃ごひいきのドガの踊子のデッサンと額ぶちを買い、今それが一間の壁にかかっています。いかにも創作的な活力と、眼光とが漲っている作品で、部屋中が確りと落着いて来ました。私は本当にドガが好きよ。すえ子も。この部屋が初めは全く病室風で、それがだんだん居間らしくなり、さてこの頃は居間であるが、ただの居間ではないと云う処が出来てきて、この変化を興味あることに思います。
 近頃、本が読みたくなって、それを読まずに来月一杯は暮そうと思うから、何とか気紛しが必要で、いくらか集注する必要もあり、将棋でもやろうかと思いますが、生憎なことにお師匠さんがそちらにいらっしゃるから困ったものです。幾何をやろうかと思ったら国男さん曰く、「姉さん、そりゃあ頭を使い過ぎるよ。」おまけに唯一の相手のスエコは、何の虫のかげんか「駒」の字が好きでないんですって。意味が判らないのよ、何故だか。(筆者註、アッコオバチャンは口だけ達者で困りますヨ!)まさか前の通りに床几を持出すわけにも行かないからこれはお流れね。
 碁なら、女の人で哲学者の奥さんで先生がありますが、いかに暇潰しに困っても白と黒の石をパチリとやる趣味はまだ無くてね。ピアノを弾けばいいようなものの、音がまだ強過ぎるし第一、ああしてガンと黒く光って構えているものと向い合うのも気おっくうだし、私が全く子供のピアノでも今の譜を見る速力よりは指の方がまだ早いから、これもだめ。おかしいでしょう。色々な時期に、色々困ったことが起って来て。疲れ工合に注意してみると、私はまだ1/3人前です。一人前になる迄にはたっぷり今年一杯はかかりますね。ポチポチと短い文章を書き、詩のような物も書き、それがやがて一冊の本にでもなるだけの収穫があれば、こんな時期も私は怠惰ではなかったと云うものでしょう。それに就てはあなたに云いたいお礼も沢山あります。すえ子もそんなものを読むときには一廉ひとかどのつら構えで、これはいいとか、左程でないとか、これはちゃんとした音楽の伴奏で朗読されるべきものだとか、その位の音楽を作りたいものだとか云って、これもやっぱりなかなか私にとっての清涼剤です。夜眠らなくて、とんだ時にマッチをすり、人を起したりして、そう云うスエ子は本当にいやだけれど、この癇癪の種が案外な処で薬用と変じるので、なかなか扱いは微妙を極めます。まして況んや万年筆を手に取らせなければならない仕儀に至っては。
 泰子の病気のためアアチャンが疲れて何年もないことに、温泉に行きたがっています。伊東辺を御存知? 私は知りませんが、この頃は大抵の処が軍人さんのための療養所となり、鵠沼辺では普段人の住んでいない別荘をどんどん徴用しているそうです。開成山の奥に兵営が出来、家の前の池の辺で伏せ、撃て、とやっているのを、太郎達は一日付いてまわっているらしい様子です。それは去年のことでしたが。私が何処に行くかと云うこともそんなこんなで軽率に決まらず、山のなかの温泉の静かな処を探し出さなければなりません。そして野菜の食べられる処をね。スエ子はろくに青い葉っぱを食べられなかったのよ。
 弘文堂から原著者は判りませんが除村吉太郎訳で『ロシア年代記』と云う中世の歴史が出るらしく、あなたも興味がおありになったら買いましょうか。世界の中世史として高く評価されるものだと云う広告です。
 今年はこれからが寒そうだから、くれぐれも御大切に。風呂のボイラーがやっとなおって、明日は大楽しみです。(手がかじかんで妙な字が書けました、あしからず)

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 セイロンの風俗の写真絵はがき)〕

 只今一日のお手紙拝見、初雪が降ったと思ったら今日は氷雨で初春というより十二月頃の屋根のぬれ方ですね。第一書房は手紙出しました。杏村さんがおかみさんにどんな手紙を書いたんでしょう、第一書房のおやじは麦僊と知り合いで弟の杏村をかついで店を初め、岩波と漱石のような因縁ですね。『ピョートル大帝』の上巻はうちにあります。『谷間の百合』もあります、お送りしていいでしょうか。
二月三日

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 山下新太郎筆「少女立像」の絵はがき)〕

 三笠の『風に散る』、『廿日ねずみと人間』などは新本はないでしょう、念のためききますが。古ででも心がけます、私も読みたかったから。
 ふとん衿承知しました、せますぎて? 足袋底を丈夫にする作業もどうもうまくゆかず割合ましなのがあってネルが内側についていないからいけないけれど、それでお間に合せいただきます。来年は一工夫してうちで暖かいのを縫いましょうね。男足袋を第一今売り切れだし。玄米はガスが制限で大弱りです、たくのにずっと時間がかかるから。隆治さんのことはまったくそうで、私はだから尚更あの人の素面で経た辛苦を尊敬いたします。写真送ります。

 二月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二月五日
 今日は旧の元日だそうです。小春日和でしたね。三日のお手紙ありがとう。タチバナの本はまだ注文してありません。そちらでやって下さいますか、ありがとう。
 開成山から佐藤と云う当年四十二歳のとっさまが来て、これは祖母の時代に一郎爺さんと云うのがいて、別名目玉の爺やと申しました。その娘がおけさ、と云って、たいした働き者で、身上をこしらえましたが、或時亭主の留蔵が浮気をして、猛烈な喧嘩が始ったとき、亭主は建てたばかりの家をぼっこしちゃうと云ってぶちこわし始めました。そしたらおけさも、ふんだら俺も手伝うと云って障子を持出して、蹴こわして、火をつけました。往来の真中でやったのよ。そしたら留蔵がかえって毒気をぬかれて、もうよかっぺと云って、仲なおりした逸話があります。その婿で今日では翼賛会の青壮年団長、促進員、隣組長と云う、流行男ですが、相当なもので、炬燵にあたりながら、一夕気焔を拝聴して大変ためになりました。面白かったし。開成山辺が工業都市に成って行く勢のひどさは野原が工場町となった変化に勝るとも劣らないらしく、家などは宅地は残るが、ぐるりはみんな中島製作所、三万人の従業員のための住宅地と指定されているそうです。現在でも、もう射撃の音や、飛行機の音が一杯で、その男の隣組、十何戸かのなかで、お百姓さんはその男の他一人だそうです。あとは小勤人、商人、軍人だそうです。この夏は、まだ一人で読み書きが無理らしいから、開成山など、みんなで暮すためにはいいのだけれども、島田や光井での経験を思い出すと気が渋ります。呑気に、招かざる客の来訪なしに保養したくてね。昔の桑野村と何と云う違いでしょう。その変りかたは興味深く、例えばこの佐藤などを活き活き書けたら、全くたいしたものだと思います。そして、それは私の第一作の歴史に従った展開なのだけれども。とつ追いつです。長く滞在するには良い折ではあるけれども。
 語学のことで、橋のない川と云うお話をきき、私は些かあわてます。何故なら私は橋ばかり頼っていたし、時にはひどい丸木橋を危く渡って用達しして居たようなものだから。あなたが川を泳いだら私は土堤を馳廻って、それでは困るわね。あなたの泳ぎは私を溺らさないで引張って行って下さるだけ、上達の見込がありますか。私のは気合語学だから、顔を見てエイヤッとやれば用は足りていたけれど、困ったものね。これは真面目な話よ。お考えおき下さい。小説を書くのには語学はたいして必要でもないように思えたが、評論の仕事ではもうその必要が判って来ます。他の専門なら大人らしい仕事に入るやいなや、必要の差迫ることでしょう。日本の文学者が少し語学が出来ると、すぐ種本あさりをするのを軽蔑したりする気持もあってね。然し、私は語学向きのたちではないから弱ります。サンドの作品は訳されているのはあれだけです。ところがこれからは岩波文庫で増刷するのは、『古事記』や何かの他は『即興詩人』と『ファウスト』、位なものだそうです。ほかの文庫類もその標準で無くなって行く様子です。想像出来ないようでしょう?
 文庫が数冊あれば食べてゆけたと云った時代、M・Yのように金持にまで成った男は呆然として消え去る財源を見守るでしょう。作家がちゃんとした仕事をして、ちゃんと暮せると云うのは理の当然だけれども、作家になって成り上ると云うのも何だか少し変な気がするわね。作家となれば金の使いかたもいくらか普通とは違った道がありそうに思えるけれども、いざ持ってみると誰でも買うようなものを買って、しまいには家や地べたでも買っておさまるのは奇妙なものね。どうせそうなるなら、始めから金を目当てに何かやった方が良さそうにさえ思えます。そうゆかない所が人間の面白さ、くだらなさ、気の毒さなのかもしれないけれど。人間の新陳代謝の速力は意外にも早いのね。役に立つのは、十年前後と云うような人々の生涯もあるのですね。そんな風に、色々なものから消耗されるのですね。消耗なしに樹木でさえも育てないと云うのは、自然のきびしい姿です。
 今日これに追かけて、一寸した送りものを差上げます。
 どの部屋も同じような寒さだから、かえって今年は風邪をひく者が少なくて笑って居ります。

 二月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

   月明のうた。

 月がのぼった。
 金星を美しくしたがえて
 さいかちの梢を高く
 屋根屋根を低く照しつつ。

 どの家もおとなしく雨戸をしめ
 ひっそり
 いらかに月光をうけている。

 なかに ただ一つ
 我が窓ばかりは
 つたえたい何の思いがあるからか
 月に向って精一杯
 小さな障子をあけている。

 いよいよ蒼み 耀きまさり
 月も得堪えぬ如く
 そそぐ そそぐ わたしの窓へ
 満々として 抑えかねたその光を

 ああ今宵
 月は何たる生きものだろう

 わたしはきらめきの流れから
 やっとわが身をひき離し
 部屋へ逃げこみ襖をしめる
 こんないのちの氾濫は
 見も知らないという振りで。

 けれど
 閉めた襖の面をうって
 なお燦々とふりそそぐ 光の音は
 声ともなって私をとらえる

 月の隈なさを
 はじめてわたしにおしえたその声が
 今また そこにあるかのよう。

  一月二十三日

 二月十九日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二月十七日
 十六日の御手紙ありがとう。
 去年の二月十三日には、そちらではパイナップルの鑵を開けて、私の誕生日をお祝い下さったそうですが、今年は何の鑵があったのでしょう。みんなのなかで暮しているからと、御放念だったでしょうか。いずれにせよ私は、あなたから色々のお祝を戴きためてあるから、その日になってにわかにがっつくこともありません。
 十三日は、生れて始めてこんな風に誕生日を祝ってもらったとびっくりするようにしてくれました。
 お客様の数は、目白のお医者夫妻とペンさんと位のものでしたが、食堂のテーブルは珍しく白いテーブルクロースに覆われて、その真中には菜の花や、マーガレットが撒かれ、食器台の上には桃色の飾り笠をつけた燭台が二つ立っていて、これまた珍しく緑色のお酒の入れられた切子キリコの瓶が立って、それはお祝の鐘の鳴る小さい鐘楼のようでした。真中の所に私の椅子がおいてあって、其処に贈物が積んでありました。この頃みんなでして遊ぶダイヤモンドゲームを太郎から。面白い染の袋があって、その上の箱を開けたら、内から気の利いた切符入れと、綺麗な羽織の紐と、からたちの模様のテーブル・センター。さらにいじらしいことには、小さい小さいのし紙をムネに下げて、そこに「アッコオバチャン」「ヤスコ」と書いた一寸ほどのもんぺをはいたコケシ人形が現れました。そのコケシの後つきは全く泰子そっくりで、可愛いこともかわいいし、第一こんなに自分は何一つしないで、飾ったテーブルに座らせられると云うようなことは初めてだから、嬉しくて、少しひどくうれしくて、何となく涙が出たいようになり、でも、私が涙をこぼしたら、みんなはきっとそんなに私が喜ぶことをかえって気の毒に思うだろうと思って、あんまりうれしくて恥しい恥しいと云って気持を自分で持かえました。みんなは、生れかわって一つの人にしては発育が良いとほめて、お杯をあげてくれました。その杯のひとくみの中の一つが、私達御秘蔵の真丸のもので、そのつれの杯をあげながら、私は、あのまん丸の杯が、矢張りキラキラ光りながら私のために上げられているのを感じました。
 お杯と云えば、さもお酒を飲んだようで、心配なさるといけないけれど、それは、全くお祝の心と色彩効果のためで、アアチャンもいぶし鮭の切身や、あやしげな数ノ子位しかないテーブルの上を、せめて賑わすためには、色だけでも鮮かな緑の液体を持出したわけです。
 この晩は幸せに暖かくて、火無しの部屋も今日のようには寒くなかったから、みんなものんびり寛いで、太郎が張り切って四角い口を開いて軍艦遊びの新型を説明するのをききました。
 思いがけない友達が、ちゃんと私の誕生日を覚えていて、私の世話で『シャロット・ブロンテ伝』が出版されたお礼だと云って、わざわざ贈物を持って午後に来てくれたりしました。こんなに良い誕生日を祝ってもらうには、並大抵なことではなくて、矢っ張り、一ぺん死んだだけのことはあると、みんなが笑いました。そうしたらね、太郎はよほど感ずる処があったとみえて、次の日みんなの居るとき、真面目くさって「アッコオバチャン、今年の夏も病気するといいね、みんなが水瓜を持って来てくれるから。」と云いました。苦笑おくあたわず、私曰く、「病気はもう御免だね、病気なしでも少し水瓜があるようにしようよ」と。手近かな推論には恐縮しました。全く記録的な祝われぶりでした。
 オリザビトンは、本当に利くようです。それに、今家では病人揃いで、国男さんも変に工合が悪がって居るし、アアチャンは軽い腎盂炎だし、スエ子は例の通りだし、こぞりてメタボリンを服むから、せめて私が、別の物のんでいてやっと補給がつきます。今、薬が利くようにもなっているのでしょう。
 十日のお手紙への返事、おっしゃった人にはすぐお礼を出しておきました。やがて夫婦で南へ赴任するでしょう。色々の用事はペンさんに頼んだりして居りますから大丈夫です。『廿日ねずみと人間』は、近いうちに見付かりそうです。富雄さんの本が着いて、ようございました。今、杭州の師団司令部の経理部にいるそうで、危いことがなくて結構だけれども、戦地に於けるこう云う部門は、金持の息子と要領のよい人間の溜り場所だそうだから、その意味では決していい場所と云えないのでしょう。前方で多くの人が生死の間を往来しているとき、こういう所では色々なことを見ききしていて、それを正しい判断に照して全体から真面目にみるだけの人物は、十人のうち何人でしょう。隆治さんのことを思いやります。
 チェホフは、病気のためクリミヤのヤルタに暮していなければならず、クニッペルは芝居でモスクヴァ、レーニングラード暮しで、厳冬の時期になると、チェホフはモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)に出て一緒にくらした様子です。
 チェホフは、クニッペルのいい素質と、同時に身に付けている所謂女優らしさをはっきり見ていて、大向うの喝采や、新聞の批評や、花たばの数などに敏感なのをはっきりたしなめて、いつも彼女が自分を掴んでいるように、自分の演技を持つようにと励ましているのを読んだことがあります。チェホフはクニッペルをいつも「私の可愛い馬さん」と呼んで手紙に書いているけれど、その本にもそんな風に書かれて居りますか。チェホフは、人間の程度の差からクニッペルに対して随分甘やかした表現もしているけれども、芝居のこととなればなかなか厳しくて、よしんばクニッペルが内心おだやかならず、人の花輪を横目でみたとしても、旦那さんに手紙を書くときは、流石さすがに真先きにそのことは書けず、自分として何処まで突込んで演じられたかと云う点から自省しなければならなかったでしょう。それは彼女に大変ためになっていました。チェホフが亡くなって後、彼女はどんなにその教訓を生かして自分を高めてゆけたかと云うことに就ては知りません。芸術座で見た頃の彼女はひどく平凡でした。
 ヤルタのチェホフの家は、南欧風の窓があって、庭もひろく、机の上には、象牙の象が幾つも並んでいました。いろんな写真がどっさりあって、細々とした感じの書斎でした。彼の生れたタガンローグの町は、アゾフ海のそばで、ロストフのそばで、其処にある家はいかにも小さな屋台店の持主らしい、つつましい四角い小家でした。黒海をゆっくり渡って、ヤルタへ上陸して、耳にネムの花を差して、赤いトルコ帽をかぶったダッタンの少年がロバを追って行く景色などを見ると、この辺が古い文化の土地でギリシャや、ルーマニアの影響をもっていることを感じました。山の方に行くとダッタン人の部落があって、せまい石の段のある坂道の左右に、清水の湧く、葡萄棚の茂ったダッタン人の家があります。日焼けした体に、桃色のシャツを着た若い者などは、いかにも絵画的です。ヤルタから、セバストーポリまでは、黒海の海岸ぞいのドライヴ・ウエイで、その眺望は極めて印象に強く残ります。黒海という名のあるだけ、この海は紺碧で、古い岩は日光に色々に光って松が茂り、そのかげには中世の古城が博物館となっていました。セバストーポリの町に入る手前に街道が急カーヴしている処があって、其処に一つ大理石のアーチが立っています。ヤルタの方から来るとそのアーチは、まるで天の門のように青空をくぎって立って居り、其処をくぐってセバストーポリの古戦場の曠野の方からそっちをふり返ると、同じように道は見えず、四角いアーチが空に立っていて、その感じは実に独特でした。不思議な哀愁を誘います。セバストーポリもヴェルダンも遠い彼方に山々が連って、まわりは広茫とした平野で、新市街はずっとその先にあります。ヴェルダンなどは全く「白い町」で、今日生きている人の住んでいる処と云えば、小さい川っぷちや、停車場前のほんの一つかみのものです。あとは無限に広く、暗く、寂寞のうちにあります。バクーから黒海岸へ出る夜汽車の中で頭に羊皮帽をのせた人達が手ばたきをして歌を唱い、一人が車室のランプの下で踊っていたのも思い出します。スターリングラードのホテルも思い出します。その道も。波止場も。ハリコフの賑かな小ロシア風な町の様子も。
 日に直接あたらないようにと云う御注意、ありがとう。樹木の少ない高原や、眺望の広すぎる処は、目に悪いと考えていましたけれど、本当に春さきの日に、呑気に照されて、またひっくりかえったら大変ね。人より早く「吾は傘をさそうぞ」と云うわけね。たかちゃんのことに就ても色々考えます。そのことも御相談しようと思ったけれど、今日は予定外の話になって長くなったから、またこの次ね。風邪をひくなと云って下さったけれど、もうひいてしまったわ。あなたはどうぞ御大切に。

 二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二十日づけのお手紙ありがとう。十三日にはやっぱり好物ボンボンのこと思い出していて下さいましたね、ありがとう。
 冴えかえった春寒でペンさんが病気になり、とりあえずこんな手紙さしあげます。衛生学のこと、きけずにいるので御返事出来ず御免なさい。
 今お目にかけたいものがあって例の如くポツリポツリと書いて居ります。この節は少し外があるきたくて、この寒さがすぎたら先ず手はじめに動坂のばら新でも見に行こうとたのしみにして居ります。電車にのる稽古もいたします。のりものへは一人でのることはしませんから御心配ないように。
 隆治さんからハガキが来てうれしゅうございます。マライです。マライ語の本注文しましたから、来たら又お茶や薬やと一緒に送りましょうね。消しだらけのハガキですけれども、無事でともかく着いたとわかって本当にうれしいと思います。写真立派な顔でしょう?
 何ごとかを生きて来た人間の立派なところが現れてたのもしく感じ、又いとしいと感じます。そして私たちが一番そのことを明瞭に感じ評価もするのだと感じます。
 では又かきてのつかまったとき細かく。
 これはいい紙で心もちがよいことね。かぜを召さぬように。
  二十四日

 二月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二十日の御手紙にすっかり返事を書切らない内に二十五日の拝見しました。十三日が腹ペコの絶頂とは何と云うことでしたろう。想像力に限りがあると云うことは、後で事実を知ると痛切に感じます。何んにもお芽出度いことばかりその日に限って考えていると云うのではないけれども、まさかにそう云うことは思いもつきませんでした。それでも方法がついて何よりです。こちらはお医者の証明でパンを半斤もらい、それと引換えにお米がへっています。そちらより早くこちらが無くなると云うことはマア当然でしょう。果物、野菜についてもそうでしたから。パンに付ける何かのジャムがあるでしょうか。私は随分高いリンゴジャムか何かを買った覚えがあるけれども。全くこの頃はお腹をたっぷりさせることが一仕事ね。うちでは二分づきの米に大根や蕪をきざんで入れて、東北の貧しい農夫と同じような御飯を食べます。それでも家は良い方でしょう。したがって女の人の衛生学の知識はますます必要で、快適に生活するどころか、生存を最大の可能で保ってゆくために緊急事だと云うことになって来ています。私はその点乙位のところよ。なかなか知っているのよ。去年体中小豆のなかに落ちたようになった時も、これは危いと思って血液の酸化を少しでもふせごうと飲めるだけ塩水をのんだけれど結局、口から飲める濃さの塩水なんかでは中和出来ないわけでした。今のような条件のなかでは、至る処で度外れなことが始るから、衛生の知識もその応用も全くダイナミックでなければなりません。例えばね、うちの健啖之助は、哀れなことに近頃の牛乳が半分水なもので倍ものんだと云うことが判りました。こんな始末です。
 隆治さんからハガキが来たことは申上げた通り。早速『マライ語会話』(軍用)と有光社の『マライの歴史・自然・文化』という本を注文しました。来たらば他にのんびりと慰めになるものと一緒に送りましょう。兵タンらしいわね。
 富雄さんの友達が一ヵ月ほど帰って来て、又行くにつき、何か変った物を持たせてやりたいと、色々物色して歩いてもらいましたが、布ではった煙草入れと云うものさえ無くて、途方にくれ、昔から私が持っていた浮世絵の本から北斎の「冨士」と、歌麿の少女がラッパを吹いているあどけない傑作とを切って、経師屋でふちどりをさせ、壁にはれるようにして送りました。もう何年もあちらにいれば、浴衣の紺と白とがなつかしいように、日本の色調が気持よいだろうと思って。今にまた何か考えて隆治さんにも送りたいと思います。でもあの人は食物をはこんでみなの為に島からしまへと動いているのではないでしょうか。そう云う間にも一寸出してみれば気も慰むと云うものは何でしょう。今の処、知慧はまだ出ません。締切りなしの執筆と云うこと。この頃のような時間の使いかたを私は命がけで吾が物にしているのだから、底のそこまで味い、役に立て、自分の成長をとげなければならないと思っています。これ迄も小説は一日七枚以上書けたことがなく、一夜で書きとばすと云う芸当はやったことが有りませんでした。然し、矢張り時間にはせかれていて、書く迄のこねかたが不充分だったり、書きつつある間の集注が妨げられたりしたことはあったと思います。この数年、それ迄は知らなかった時間的な緊張のなかに置かれて(心理的にも)今、こうやって体のために仕事を中絶までしていると云うことは、決して単なるめぐりあわせではありません。
 スエコが目下開催中の明治名作展を見て来て、其処にあるものは、絵にしろ、彫刻にしろ、この頃出来のものとはまるで違って、観ても見あきず、時間をかけてみればみる程値うちが迫って来ると云う話をきき、初めて自分の外出出来ないことや、物のみられないことが口惜しく思えました。そこの事よ、ね。その奥行きとこくとは何から出るでしょう。作者が自身のテーマに全幅の力を傾け尽し、何処にもはしょらずテーマの要求する時間の一杯を余さず注ぎこんでいるからこそで、一寸した絵ハガキを見ても当時の人がテーマと題材に就てどんなに真面目に考えて居たか、一つも思いつきではなくて追求の結果であると云うことを明瞭に感じます。スエコが日参するねうちがあると云ったが、それは本当でしょう。性根に水を浴せられる処があるに違いない。二十八日で終ってしまいました。
 絵描きでも作家でも注文としめ切りがなくて、チャンチャン毎日何かを造り出してゆくようになれば、恐るべきです。名作展をみても今日の大家の初期の作品が良くて、現在どんなに芸術家としては生き恥をさらしているかと云うことを感じさせるものが少くなかった由、人間が一人前になる迄には実際、水をくぐり、火をくぐりですね。
 昨日、私はアアチャンにつかまって二三丁の処を出初め致しました。みんなが梯子がなくってお気の毒とからかいました。足どりはノロノロながら確実ですが、道路や家や、人のかおの反射がひどくて、どうも色目鏡がいりそうです。早速、衛生学を振りまわし、午後四時過ぎ、通る処は日陰になってから出かけましたが。もう一つ可笑しいことがあります。一週間ほど背中の肝臓の裏の処が筋肉的に痛くて、フトもと肝臓をやったときのことを思い起し、だいぶえらいめに合わせたから、と神経をたてていたところ、今夜、例によってみんなの御飯をつけてやろうとしていたら、その時、椅子の上で体をねじり丁度其処の処がねじれるのが判りました。体が弱い時には何と云う小さいことがおかしな結果を起すのでしょう。スエコさんと場所を代り、それで私の肝臓病も病源をあきらかにしたと云うわけです。ずっと私は其処に坐って、アッコオバチャンらしく、例えまざった御飯にしろ美味しいようにみんなによそってやっていたのよ。私は御飯をよそうのが好きなの。お風呂の火をたくことも。
 今日あたりは空気もやわらいで、もうこの調子でしょう。お金、とりあえずちょんびり送り、明日少しまとめてお送りします。薬、まだよいでしょうか。又少しためてお送りしておいた方が安全ね。

 三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 都鳥英喜筆「戦傷士の俤」の絵はがき)〕

『衛生学』はもう十一月頃出版されていてそれを只今本屋に注文中です。教材社からは二月中旬にお金を返してきました。第一書房の方はおっしゃるとおりに申してやりましょう。手紙の方へ落したので追加の返事いたします。これも名作展に出ていた一つ。近頃のガタガタの画になれた眼でみると日本人が描いたものかと驚く位です。気候がゆるみましたがお風邪は大丈夫ですか。今年はいつもと違って最近のうちに敷布団の取り変えなどはしておいた方がよさそうです、そのお心づもり下さい。

 三月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 川村清雄筆「画室」の絵はがき)〕

 三月九日(2)
 この画家の大きな絵が食堂にかかっていて、もし爆風をくらえば額の重さとガラスの破片だけで子供の一人や二人は結構片附くから危いことのないうちに処分しようと言っています。もう暫らくすると自分で書けるようになるから、そしたらこの三つのお手紙にたまっている家事的な御返事を致しましょう。かなり細かく知っていただきたいこともありますから。平ったく押してくる火事で、こげはしないが天から直通ではどこへ飛ぶかわからないから、百合子飛散の後でも現実の用事だけは残りますからね。島田行きのこと、私も行きたいけれども秋以後のことと考えて置いた方がよさそうでまだ充分丈夫でないことの他もっと理由がありますが、それはいずれ手紙で書きます。わけはお母さんにも申せばすぐおわかりで私の考えに御賛成下さることです。

 三月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書 書留)〕

 十三日
 十二日づけのお手紙をありがとう。
 体の工合は大分ましになりました。まだ疲れがのこっているけれども。床はしいてありますが、夕飯などは下へ行って皆とたべて居ります。この間一寸歩いたというようなことは直接さわってはいず、寧ろ、この間うちから、何しろ未曾有の春ですから、あれこれと頭をひねって心労もしたりしたのが幾分こたえたのでしょう。何しろあんまり馴れていないことですから。それこれも順調にはかどったから安心で、もうのんきになれます。自分だけのことで、あせったりはしないのよ、何を早くどうしようなどという点では御心配無用です。
 きょうは、一寸代筆では困ることだけ、こんならんぼうな手さぐり字で申上げます。
 あちらへ行くことは御親切もわかり、いいこともわかりますが、私としては空からの不安のなくなった(大体)季節でないと困ります。そのわけは、徳山、光は全く特殊な性質の都市ですから、そういうことになれば直ちに戒厳状態に入ります。今でさえも半分はそうで、親の御機嫌伺いにゆくのにもう次の日はオートバイで室積からわざわざ来てスケジュールをきいて何日にどこへ行くかという次第です。達ちゃんの御祝儀で何とかいう町の料亭へ行ったときは、制服のひとが敬意を表するために来てくれて、別室へあがって面会をしなければなりませんでした。何時にどのバスでどこへ誰と行ったということ迄一々で大した名士なのよ。だから私はいつも全くうんざりです。土地の風で女が昼間散歩するということはないからとお母さんも気をおつかいになるから、あちらにいるときは殆どお墓へ行ったりするだけです。
 丈夫な時ならだけれども、今のようなとき、私はそういう名士は実に願い下げですし、東京では、ともかく命がけの形で、身元もわかった人間になっているのに、あちらでは文化関係もその他のことも見境なしで、あわてた時には、何はともあれ落度なからんこと専一で、どんな待遇になるか、それこそ見とおし不可能です。憲兵の方と二つが錯交して、そこいらのことも甚だ微妙です。これ迄余りはっきりはかきませんでしたが、あちらへ行ったときは、いつもそれが苦痛でした。今度のような時期にはいやだ位ですまないと閉口だから、伺うにしろ冬になって少くとも、現在のように益※(二の字点、1-2-22)緊張に向う時はさけるつもりです。
 おかあさんも、私たちのことだけお思召しなるときには、そのことをつい念頭からはなしていらっしゃるけれど、あすこにいれば随分度々困った顔もなさらなければならず、私が外へ出ることを不安にもお感じになります。もう二三日したらこういうことをはっきり申上げ、私がこれからあちらにゆくのは大体春夏から秋まではさけるよう申上げておきましょう。あなたからは、ユリコからこまかく申上るが、尤もな理由だから秋以後がよかろうと思うと申上げてお置き下さい。
 それから、これは、私たちの家事的処置について。
 ここは市内としては割合安全な方ですが、類焼はさけ難いものとして万事備えておくのが妥当です。去年の四月の十倍二十倍のものが降って来ることはたしからしいから。
(一)[#「(一)」は縦中横] 書籍は金に代えることの出来ないものですが、ともかく動産保険にかけ、その幾割かをかえす空襲保険をかけました。島田へお送りした四倍ほどの額です。
(二)[#「(二)」は縦中横] もし最悪の場合、私がふっとんでしまったら大変困りますから、そのためには四月一日から受付る戦時生命傷害保険に入ります。
 これはディテールまだわからず、手続きは全く簡単です。最高五千円までを恐らく非常に条件つきで小切るのではないかと思います。年齢、職業、男女別等。しかし私はいずれにしろ自分の条件の最高までをかけておきましょう。これは動産に対する保険とちがい、生命保険にあらかじめ入っていないでよいから私にも出来ようというわけです。
(三)[#「(三)」は縦中横] 右のことは現在私たちのやりくりが赤字で銀行からの負債になっていますから、私が万一ふっとんだらその賠償バイショーで負債を返し、同時にそちらの生活費も運行してゆくよう計画しなければなりません。
(四)[#「(四)」は縦中横] 東京貯蓄銀行丸の内支店から、タンポで、島田へお送りした額の十倍までゆーづーするようにしてあります。そのうち本年一杯でおそらく三分の二は消費するでしょう。消費した額だけ返済すればよいわけです。私のねだんはいくらか知らないが、少くともそちらの一年分は余るだろうと思います。
(五)[#「(五)」は縦中横] 返却後は、そちらに現在の凡そ一年分に少し足りないだけの定期収入があるでしょう。(現在の経済の組立てのままと仮定して)
(六)[#「(六)」は縦中横] それだけそちらで入用でない時には、みんな積立てておいて、その後の生活の足場とした方がよさそうに考えられます。島田の方もその時にどんな風かは知れず、たとえどんな仲よい同胞にしろ自分の妻子をかかえ経済的波瀾の激しいとき、共力するにしろタネなしでいられては大分僻易らしいから。よい生活のためのプラクティカルな方法として。私の身にしみての実験です。
(七)[#「(七)」は縦中横] こちらの家では、国男が私のそういう事務をみんなやってくれています。万一の場合のためにいろんな書類は第一銀行の保護金庫に入れておく筈です。それは国男のかりているものですが。
(八)[#「(八)」は縦中横] 私がいないときのこれ迄の事務能力を見ると、私は安心してわが身一つはどうでもよいと思えません。国男さんが健在だとしても。話し合いの結果、迚もそちらの事務まで責任が負えないから誰か信用の出来る人が対手に欲しいというので、てっちゃんにこまかく話し、国男さんも満足で万一の場合には事務をやって貰います。てっちゃんの承認も得ました。私たちの委任した人として法律上の手続きがある方がやりよいようなら公証人にかかせてそれもやって置くつもりです。
(九)[#「(九)」は縦中横] 月末ごろともかく一度そちらへ伺います。そしてそのとき、銀行にタンポになっているものについてお話しいたしましょう。
(十)[#「(十)」は縦中横] そのものは母のかたみですから、あなたと私の用に立てて、よく役立てて不用になった時は寿江子にわたします。あれはピーピーの音楽修業で、どうせ一生ピースコなのですから、寿江子は自分が不用になれば甥たちのために考えるでしょうから。
 こういう扱いかたは御異存があるでしょうとも思いますけれど、船がひっくりかえって波間を漂うときは小桶一つ板一枚が案外の役に立つようなものでね、その点むしろあわれに、笑える位のものだわ。あなたは笑ってききおいて下さればいいのよ。
(十一)[#(十一)は縦中横、「十一」は縦組み] こちらでは今のところ万事ひどい有様だから黙っているのも気の毒故、そちらの一ヵ月分ほどずつ払っています。それはごくの基本で雇人の心づけやいろいろ薬代その他は又別です。
 字が妙なのに面白くもない手紙で相すみません。でもね、これだけきめて人にもたのみ、あなたも知っていて下さると私は安心してよく眠れるようになるのよ。
 いろいろの場合に暮してみると、人々の生活は、どんなに自分のことにばかり追われているか、賢いにしろ愚かにせよそういうのが十人のうち九人以上で、親切な心は誰にでもあるものながらそれは実現する力は誰でも何と小さいでしょう。少し世の中を知ったものはその事情をよくわかって、親切の出来るような条件をこしらえておいて人々の親切も待ってやらなければ、と思うわね。自分たちの生活の日々が二六時中バランスを失いがちで重心が移動するのをやっと保つ玉のり生活をしているのが大部分の人だから、私たちは出来るだけ事務的な手かずで、ことが進んでゆくよう処置をしておいてやらなければ、弟妹たちに何の工夫や積極の考慮がつくでしょう。
 こんなこと、毎晩よくよく考えて一つ一つと思いついて計画して、国男さんに云って事務処理をして貰いました。
 私は衛生学よりももっとこういうことは知らないから、よく考えないと何も思いつかないで、考えつくためにはよほど頭もしぼるのよ。だから哀れな肝臓が、ヤーこれは珍しい疲れかただ、とをあげたのでしょう。

 あれこれをすっかりすましたら私は、四月早々多分いつか行った上林のせきやあたりへ行きます。夏の間は東京に居ない方がよいと思いますから。
 こちらだって戒厳的混乱は生じ得ますから。もう私は東京をはなれるのに所轄へことわって行けばそれだけでいいのだそうですし、山の中の温泉などはいろいろの点でよさそうです。
 今まだこまかく予定が立ちませんが、四月から一ヵ月半ほど信州へ行って一寸かえって、改めて東北の方の東京人の入りこまない地方の人がナベ釜もって行くようなところへ行って九月一杯までいて、その間にすこしものも書きためようと思います。岩手の方に今しらべている温泉があり、そっちだと都合して手つだってもらえる十九ほどの娘さんが青森在から来てくれられるかもしれないので。
 うちの連中は私一人でゆくことを大変不安がるし、自分も誰かいた方が無理しないから。伊豆なんかはお米をかついで行ってひるめしだけ三円、凡そ一日には十二三円以上かかることになって来ました。上林は米をまだもってゆかずといいし、あすこは樹木が多い道があっちこっち散歩するに目のためにいいと思って。カラリとした高原は今年は駄目です。肝臓のためには石見の三朝みささが随一で、この次島田へ行くのは、そこをまわって小郡へ出て見たいものです。京都からのりかえて山陰本線土井までですから、今すぐでは無理でしょう。物資は大体西の方はゆとりないそうですが。
 さあ、もうおやめね。
 あなたの衣類はうちの連中のほかに栄さんにわかって貰うようにしました。いろいろと思慮の不足した処置があるかもしれないけれども、どうぞあしからず。これだけ手くばりしておいて万々※[#濁点付き小書き片仮名カ、44-5]一やけず、ふっとばずであったらそれはおめでたいというわけです。
 では又近いうちに、別に。

 三月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 田舎の風景の写真絵はがき)〕

 この写真は春の日射しよりも秋らしいあざやかさですね、昔、『文新』から行った千葉の開墾部落もこうゆう家が並んでいました。あの時は南京豆がうんと作ってあって、おいしい山の芋の御馳走になりました。ああゆうじいさん、ばあさん達は畠に今何を植えているでしょう。腹の皮がくすぐったくなる程低空を飛行機が飛んでいました。こんな葉書はほんとに珍らしい。今日、明日に隆治さんに小包みを送ります。文庫では「マノン・レスコウ」と露伴の「為朝」でも入れましょう。今日もあたたかいこと。体の調子はようございますから御安心を。

 三月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 きのうの手紙で一つおとしたことを思い出し申上げます。
 島田の方へお願いするということね、前便で御承知下すったとおりの有様で私たちとしては何とかまだやって見たいと思います。
 あちらは、それはひところのことを思えばよほど様子はのんびりしていらっしゃいますが、達ちゃんはいつ留守になるかしれず、隆ちゃんはいず、トラックの方も変化するというきょうの様では、お母さんも友ちゃんや輝をひかえ、決してお気持にゆとりはありますまい。生活をこれ迄たたかって来てやっと少しはのんびり出来るかと思うと、というのがお年を召した方のお気持であろうと深くお察し申します。
 さもなければ昨年から今までにあなたの方へ何とか実際的なこともあったかもしれず、私たちとしては、私たちが二十代でもなくなったのにと、やはり悲しいお気がするでしょう。だから、私が埃立てていて可哀そうとお思いにならなくていいわ。誰だって今日、埃っぽいのよ。借金暮しよ。そんなこともキューキューやりくって見て、智慧もしぼって、しかし人生はやっぱりそのほかのところに人一人生きたというねうちが在るのだと、益※(二の字点、1-2-22)しみじみわかって、人間にうま味もユーモアもついて来るのでしょう。下らない苦労だと云ってしないですむものなら、代々の人間が何のために生きたのか分らないような苦労をつづけて生涯をこんなに綿々とつづけて来てもいないでしょうものね。私は、自分が子供のときのんびり育って、やがて少しは苦労をしのぐ能力も出来、苦労というものについての態度もややましになってから、あれこれのことの起ったのを仕合わせと思って居ります。もし私が子供時代のなりで年だけとったら、どんな半端なものになっていたでしょう。婆ちゃん嬢さんなんていうものは現代では悲喜劇よ。芸術家になんぞなれるものではない。極めて多くの人間が生活のどんなポイントでそれてゆくものか、そのポイントに自分が立ってみなければ分らない、人間の高貴さは観念でもわかるが、弱さは生活のなかをくぐって自分とひととを見なければ分らず、そんなあれこれが生活を知っているかいないかのわかれめとなるのでしょう。
 自分で字をかくと一字一字は見えないから心と手との流れにのってかき、字はノラノラと、ちっとも自分の好きにはかけません。
 お読みになるのも何だかいやでしょうと思うわ。もうこれで又当分代筆よ。
 今日は十五日の夕方ですが、春めいた晩ですっかりくらくなったけれど、廊下をあけています。どこかで花の匂いがします。紅梅にちがいないと思い、あなたがいつかの早春にも桃とおまちがえになったこと思い出しました。香がきつすぎないこと?

 三月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 絵はがき)〕

 今日はあんまりよくないお知らせです。
 山崎の小父様が十四日急逝なされました。多賀子から知らせてきました。島田のお母さんが珍らしく京都見物と奈良見物を思いたたれ多賀子を連れ、大阪の岡本のうち(かつ子のところ)へついたら電報がきて、十五日に早々母上だけお戻りになったそうです。二年程前、お目にかかったのが終りになりました。あなたからのお悔みの言葉として、手紙とお供早速送りました。母上へは別に手紙差しあげます。さぞさぞお力落しでしょう。あの小父様は私達の心持に暖かい面影を持ったかたでした。そして、淋しそうな方でした。

 三月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 絵はがき)〕

 御注文の本寺田と茂吉は岩波新書ですが、何しろこの頃の本のなさといったら猛烈だからおそらくは入手難でしょう。世田谷のお友達が寺田の方はお持ちかも知れません、『自動車部隊』は佐藤観次郎という人のでしょう? 今また行っています。どの人の手紙も断りなく出したからあんまりジャーナリスティックなやり方で誰しも大して好感を持てませんでした。いろんな人があるものね、はじめ手紙よこしたから戦地に居る人と思い、志賀さんなんかも返事したのね。
 肝臓はすっかりおさまって居ります。
 風邪をどうぞこれからもおひきにならない様に。

 三月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 絵はがき)〕

 六日付のお手紙、今日(二十二日)いただきました。珍らしく手間どりました。私が先週の日曜頃出した書留の手紙はごらんいただいたでしょうか。本のこととりはからいます。隆治さんの方へはまだ小包を受付けないので語学の本だけ巻いて送りました。それさえ書留は受けませんでした。袷着物、羽織、合シャツ上下、お送りします。『〓世界地図』やっと買えました。『世界大戦とその戦略』古本でみつけていれました。『農民離村の実証的研究』と三冊お送りします。いずれ別便で。

 三月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 ゆっくりほかのこととまぜて申しあげようと思っていたけれど、ペンさんが来てくれているので一筆。
 空からの御光来については、どこでもまるで合理的な準備は出来ず、それは個人達の怠慢というよりも、資材関係その他ですが、そちらも御自分用の防毒面はおありになろうとも思えません。うちにもありません。子供用のものは土台ないそうです。黄燐焼夷弾の煙は、十分位は人体に害なし、だそうですが、重曹のとかした液を浸した手拭いを口にあてておくと、幾分粘膜の傷つくことを防げるそうですが、その重曹が手に入りにくうございます。塩の濃い溶液にタオルのようなものを浸し、それをよくしませて、口、鼻にあて、眼をよくつぶっていれば何もしないよりはましでしょう。燐の煙は猫いらず的作用ですから、困るわね。
 今年は夏になっても、冬用の夜具類を手許に置いていただきましょう。ガラスの飛び散るのやいろいろは厚い夜具をかぶればいくらかいいし、煙も掛布団の裾がたたみに密着するように、しかも空気がなるたけあるように、ふところを大きくしてかぶれば、むきだしよりもいいでしょう。
 冬のかかりになって、あまり寒くならないうちとり変えるものは変えましょう。
 シーツはそちらに代りがあるでしょうか。いずれ、一枚お送りいたします。シーツが大変なのよ、なくて。
 取越し苦労とお笑いになるかも知れないけれども、備えあれば憂なし、と、あなたが教えて下さいました。
  三月二十二日

 三月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二十九日
 二十七日づけのお手紙頂きました。ポツポツと又つづけてかかなくてはならないから今日から始めましょう。
 隆治さんの語学の本は、『馬来マライ語四週間』と文京社、大学書林のとがなかったので、前に買えた会話手引と日泰馬来英対照の字引だけさし当り送りました。初めこしらえた小包には、文庫の『マノン・レスコオ』、『カルメン』と徳川時代にカムチャツカまで漂流しておどろくべき沈勇で善処して来た船頭重吉の太平洋漂流記というのが非常に面白く立派だったので、それを入れ、お茶、薬なども入れました。本だけを、ではすぐ送ります。重吉の話はやはりあちらでもどんなにか面白いでしょうと思います。まるで幼稚な方法で航海していなければならなかった時代にでも、重吉のような人物がいたということは愉快ですから。
 第一書房の『プルターク』のこと承知しました。この頃は古本をみんなが大事にして、すこしましなのは出ないから、『風と共に去りぬ』のような、一時はいやな程溢れていた本が、今ではあんなにあちこちにたのんでさえ、やっと一冊手に入るという次第で心細いものです。改造の営養読本、この前ガタガタ本を整理したとき、まざり込んでなくなっているのだと思います。私のいない間に二百冊ほど手放したし。あとから昨年買った日本評論社版のはあります。改造のは薄黄色の表紙でしたが。ほかのひとの本を一緒になくしては居りませんから、それは大丈夫です。
 私の体も段々癒って来るにつけ、癒る過程に起って来るいろいろな様子をみて、我ながらひどかったことを感じなおしている風です。字はかく方は、どうしても自分で書かなければならないとなると、この位はかけるようになりました。チラチラマクマクをとおしてですが。春になって変化が激しい故かちょいちょい故障が出て居りますし、実際眩しくて外を歩きにくいけれどもしずかな気まかせに歩ける田舎の木下道でも、のんきに歩けたら、体全体の調子がぐっとましになって、秋までには眼もいくらかよくなるのではなかろうかと思います。ペーヴしてある道は真白くハレーションして閉口だし、混雑はこの頃言語道断だし、空からの到来物のことだけでなしに、田舎へゆきたい心持です。後者のことは物を書く人間に生れて来て、東京がそういう経験をするとき、そこから静安だけを求めて、どこへか行きたいという気はありません。まして動けるのは一人だという場合。自分だけがどこかに行くということを考えると寧ろ渋ってしまうのよ。しかし、ここでの生活は、なかなか複雑で、私の神経が相当いためられます。寿江子という人は大変特別だから、私がこの二三日のように工合わるくして床にいたりするときは優しく親切だが、すこし元気よくなっているときは実に鋭い反撥を示し、癒ってゆくもの、そして着々仕事も進みそうな者への反感をきわめて意地わるく示します、自分は決して快癒はしない病をもって生きているのが重荷なのだ、ということで。こんなに大筋をかいても一寸おわかりになりにくいでしょうし、又いい気持もなさらないでしょうが、それは冷熱こもごもの感じで、まだすっかり丈夫になっていない私には苦しいことなの。咲枝が腎臓をわるくしていて(泰子の過労から)先日も伊豆の温泉にゆき、明後日ごろから国府津へ子供づれでゆきます。自然太郎の責任は私が負うこととなり、お産の留守番以来かなりもう沢山にもなっています。私は今迄は動きたくても駄目だったから。こうしていて月々にかかっている費用にいくらか足して山へゆけたらと考えている次第です。一日五六円のところを物色していて、十三年に行った信州の上林のせきやを問い合わせ中です。これとてもあなたが東京をはなれたって意味ないとお考えなら、ひとりできめて意気ごんでいるわけでもないのです。七時間位の汽車は外景を余り見ないようにしていたら大丈夫そうに思えているのだけれど。誰か送ってだけ来てくれたらば。
 今度のことは、大東亜戦になったらばとリストがあって、それにより二千人近くだった由です。元のときすぐ保護観察というのに附せられ、最初の係が毛利という警視庁から行った人でした。いろいろのいきさつから私への点はからいと見えて、私の態度が私にはよくわからない理由でよろしくないという書きつけが出来上り、書類はひきつぐし一昨年七月頃一寸別のかかりの検事のひとと論判めいたことがあり、リストは消されず十二月となったわけです。検束で二ヵ月いて、この頃は検事拘留で一月三十日に拘留がつき、三月まで『明日への精神』のなかにある山本有三論の字句、スメドレイのことをかいた文章のことなどでぐるぐるまわりの話があって三月に入り、うちのものが私の健康のことを心配して出かけたりしたことがありました。そしたらすぐそちらに廻り、一ヵ月余音沙汰なしで、話は又同じ題目で、どうしても私は一定の主義に立って物をかいていると云われ、そういうわけでないという常識論は通じませんでした。そのうちかかりの検事が見えましたから、私は自分に要求されている返答がどうもしっくりしないで困ること、しかしそれをそうでないということが即ちとがむべきことというのでは当惑すること、書いたものの実際についてよめばひろい観点でかいていることがわかる筈と話しました。検事はおだやかな判断で、私が書いたというために色眼鏡で見ているところもあり、私という人間を特別な先入観で名から見ているところもあり、気の毒だと思うところもあるが、作品はところどころ難点がある、という話でした。しかしグループをもって活動しているわけでも組織をもってそれに属しているのでもない人間が治維法にふれることはないという話でした。
 それから暫くして聴取書がこしらえられはじめ、手記にかいたような経歴などのところで私がひっくりかえってしまったのでした。手記にかくこともないから手記もありませんでした。聴きとりが終れば病気にならなくてもそれで帰れるわけでしたと思います。「カテキズム」ですから話にのぼった作品の箇所へでもゆけば誰のかいたどういうものかと思うような字句であったろうと思います。検事が私の病気を知ったときすぐ執行停止にするからもうゆっくり静養しろということだったそうです。この検事はどこかの軍政官に転じ、本庁の係だった河野という人も南方へ行ったとかいうことです。それきりでずっと何の沙汰もなく、臨床の訊問もなく、検事拘留一ヵ年の一月が過ぎ、二月下旬に駒込の特高の人が来た時、私は自分がどうなっているのか判らないけれどもとたずねたら、もうこのままでいいんでしょうということでした。旅行に出るなら自分の方へ一寸知らせてくれればそれでよろしいとのことでした。検事局へ届けたり何かは不要とのことでしたから、これで一応落着し手を切れたものと理解しているわけです。
 忌憚にふれるものを強いてかこうともしているわけでなし、私がものを書いてゆくことは原則としていけないというわけではないのです。『茂吉ノート』は著者が同じ頃からいろいろとごたついた最中に出版されたのですし、本年に入って新版を出しました。自分としては社会時評や女性生活問題はむずかしいから、古典作品の研究、たとえば明治以来の婦人作家研究をもっとさかのぼり、それをまとめたりする仕事はよいだろうし、文学美術に関する随想はいいのでしょうし、小説は今度も一つも問題になったのはないのですから、小説も段々かきたいし、と考えているわけです。経済的な点で、勿論書くもので儲かろうとは思えず、出版部数も多くはなく不便はつづくでしょうが、全く可能のないものとしなくてもいいのではないでしょうか。隆々と活動するというアブノーマルなことを考えず、芸術の領野で地味に手がたく勉強して、それがいくらかの収入にもなるということはあり得るでしょうと考えますがどうでしょう。そういう風に考えて行って作家としては自然でないでしょうか。ろれつがよくまわらないから大勢の人前で喋ったり坐談会などは本当に不可能ですし、あれこれの旅行も不可能なのですし。もっとも、そろそろ書けるようになったとき、又何がどうなって来るか、それによってどんなに状況が変るかはそのときのことですが。
 私の養生ぶりがしゃんとしていなかったということ、そして話とちがったというところ、悲しく、何度もくり返し拝見しました。私はそのちがいの間にこめられている事情を察していただけると思い、よかったと思っていたのでした。ちがいを説明しにくく、自分の気持だけ言い、二つを並べて客観的にお話出来なかったのは悪うございました。客観的な事情というものはわかっているのだから、二つをはっきり並べて話せなかったのが私のしゃんとしなかったところであったと考えます。
 自分の健康にほんとうに自信があるならば、病状についても平静に、さけがたい腫物はどう出来ているか、を話した筈ですから。御免なさい。私は骨髄癆になっていない自分をつたえたくて一方の事実を糊塗したようになり、そういう作家としても強靭さの不足したような、眼光の透らないようなところ不快にお思いになったのは当然であり、すまないことでした。私は子供らしかったと思います。自分の告げたいことだけを息せききって喋るように。話したい方からだけ、話しいい方からだけ話すというのも、態度としてはなっていないことだし、リアリスティックでなくて。本当に私たちの生活で、私はいつも平静な現実的な勇気をもっていなければならないと思います。余り長くなるといけないからここまでで一区切。今寿江子はコウヅ。ペンさんは旅行で、一切書きかたは中止中です。

 四月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 次の日かきつづけるつもりであすこ迄かいたら、三日休業になってしまいました。きょうはすっかり春めいて太郎は庭で土いじり。白木蓮の花がさき丁字の花がにおって私は久しぶりに外へ出て柔かい庭の土を歩きました。昔秋、田町の道の上でかぶっていた白いパナマの古帽子を日よけにかぶって。この頃は、でも、疲れると何も出来なくなり、おとなしく床にころがっていられるようになったから自分でも安心です。
 横になってゆっくりとあれやこれやお手紙について考えて、臥たのも大変よかったと思って居ります。あなたがああ云って下さることのうれしさがしんから湧いて来て、段々仕合せを感じ、すがすがしいような健やかな流れを身のまわりに感じます。この節はどこもバタバタ暮しです。そして人と人とのいきさつは、互の好都合というところで廻転して、その点ではいつかいやにわかりがよからざるを得ないようになって、夫も妻も、一寸山内一豊の妻めいた才覚が働くと、一も二もなくそれに兜をぬいでしまうし、ひどいのは猿まわしの猿つかいのようになり、小さい黒い手で猿に借金もかき集めさせるという有様です。そうして人間らしさはいつしか急降下しつつあります。あなたが、どんなときにも、私に人間のまともさだけを求め、便宜や好都合のために私の動くことをちっとも予想もしていらっしゃらないということは、こういう時勢の中で、全くおどろくべきことであると深く思います。自分がそういう醇厚なこころのうちにおかれてあるということについて、私は謙遜になります。そして、それがわかっているようでわかっていなかったようなところをさとります。そのために、下らないことでさっぱりしない気持におさせし、話の底がわからないという感じをもたせ、すみませんでした。これは、私の安手なところから起っていることで、私にそういうところがあるということについて悲しく思います。自分が、あんこで云えば飛切り上等というところまで火が入ってねりがきいていず、ざらついたり水っぽかったりして、それを味わうとき、あなたの胸の内側はいやな思いでしょう。人間の資質は何というおどろくべき等差をもっているでしょう。人間の立派さというものの立派さは、それを理解する能力はもって生れたものでも、その能力が直ちにその立派さと等しいものではないという厳然とした堰があります。杉は愛すべき樹ですが檜ではありません。杉が自身の杉のねうちと分限を学び、檜の美しさ、まじりけない立派さを知ったとき、杉はこの地上のゆたかさにどんなに心をうたれるでしょう。その立派さを見あげ感動することの出来たよろこびを感じましょう。だがその身内を流れる涙があるでしょう。檜に生れて見たかったとは思わないでしょうか。傲慢な希望ではなく、生れるならよりよきものと存在したいという希いから。深い幸福感と感謝と悲しみとが一つ心の中にあります。
 十三年に、生活に対する態度のこととして、こまこましたものを処分するようにということでした。そして一部そうしました。当時の生活の必要もあって。そのとき自分たちの生活の条件の不安定なことを考え、私がいないときどうであったかを考え合わせ、私がいなくてもいくらかでもゆうづうするものがありさえしたら、それを送ったりするだけの親切はうちのものも持っているだろうと思いました。十三年には書けなくて困却した年です。当時国男は今日ほど物がわからなくて、私たちの生活を一つのものとして考えることが出来ず、私のためは即ちあなたのためとは思えず、数々不快な問答がくりかえされました。あの節建築の方は今日のような統制による窮迫をうけていなかったから、私の不自由も我が身からの酔狂と見ていました。私はつくづく不安心で、自分がいなくなりでもしたら、二人はどんな思いをすることかと思い、そのために全く些少の足場だが一方だけ即刻処分は出来ませんでした。そのことをすっかりあなたにお話しすべきでした。ところが、あのときは、生活の態度という点で、一つもあまさずというお話で、それは私にあなたがこまかいいやな事情を御存知ないからだと思えました。一々そんなことを話しても、私が感情的になっているか、さもなければ自分の何かつかまるものがないと心細いという習慣風な気分の理屈づけとおききになるだろうと思えました。おそらくそんな印象をおうけになり、そんな風にとれるようにおっしゃったことがあったのは、寧ろ私が簡明に生活の条件をお話ししなかったからのことであったでしょう。
 私たちは家事的な話しなどをゆっくり永年相談しあって暮して来たというのではなくて、そういう話があなたから出たときは、私にとって何か絶対のこととうけただけの癖で、それが変った事情のなかに移っても私にのこって、あなたにとって笑止な遠慮、卑屈さになったと思います。平常はそれをそちらの分の土台としてやっていて、一昨年の十二月から昨年八月までは、実業之日本、筑摩書店から印税の前借をしたのと、十三年に翻訳したその収入と合わせ、やりくりました。もう何ヵ月ぶんしかないというのは事実であったわけです。寿江子はそういうやりかたに馴れないものだから、私もかなり語調でおどかされたりしましたが。
 八月末医者の払いをしたら、それこれがおてっぱらいとなり、国男さんの方の事情としては月々医療費を立て替えることも困難だというから、いろいろ考えた末、百ヶだけ担保として、それで流通をつけてゆくうちに、私の体もいくらかましとなって、少しの収入があればよしということにしました。
 あなたにもすっかりわかっていることでなかったのは悪うございました。しかし、ともかくもこうやって最も体も弱った時期を何とかきりまわして行けたのはよかったと思って居ります。
 ここまで書いたら一日づけのお手紙が来ました。そしてこの前、あなたの不自由なさった前後のことがあるので補足いたします。あの時分は父が生きていて、私は母ののこしたものを自分で自由に出来ず、又どの位あるものかも知りませんでした。母の亡くなったとき父が三人を呼んで、母ののこしたものは子供たちに等分するが、一番能力のない寿江子と、いろいろ責任もある国男にやや多くして、自分の存命中は自分が保管してその収入も自分で自由にするから承知しているように、とのことでした。だから私が牛込居住のころは、私の方も全くお仕きせで、私は二人分だからと自分も随分きりつめて暮したものでした。十月に栄さんから行ってそれきりだったということは、はばかるとかはばからないとかいうことより、私にも分らないけれど、単純にあなたがまあいいとおっしゃればいいんだろうぐらいのことでいたのではなかったでしょうか。あの時分は考えるとひどかったことね。一ヵ月に一度ぐらい咲枝が一寸来てウワウワと何かきいて、あなたの方大丈夫かと念を押すといつも大丈夫よちゃんとしている、と云って、それで帰ってみればそういうことだったのですものね。あの頃は咲枝夫婦は部屋住みの無責任さがあり、寿江子はこちらのことなどかまっていず、今度とは本当に比較になりませんでした。
 父が急逝し、国男は俄に家と事務所を背負ってすっかり神経質になり、寿江子も境遇の激変から妙になって、兄を不信し、そんなこんなで私は帰ってからも相当でした。あなたとしては、うちのものに対しては、まあ何とかするからと仰言るのは分っているが、しかしというとこまでは決して心の歩み出さない人々だということを痛感し、それで、父の死後私の名儀のものが自分のものとなったとき、全部手ばなして又あのあいまいな、わけのわからないいやな思いをしたくないと思ったわけでした。
 必要な場合役にも立てないで、つくねておくようなら持たないにしくはないと、あなたはお思いにもなったのでしょうね。私は自分があんなにつめて心配していたのに、うちの連中は何ていう底ぬけかと思う心がつよくて、時期のくいちがいを御承知なかったあなたの方で、そんなものがあったのならとお思いにもなっただろう事情を心持として分らず、黙ってのこしておくこととなって、行きちがいをおこしたのでした。
 考えてみると、暮しのやりかたが本当に拙劣であったと思います。しかし前の時は私はやっと原稿料で生活していただけで、その日ぐらしで、自分のいなくなったときの考慮まで出来ていなくて残念なことでした。今度は、招かざるお迎えが来たとき、すぐ寿江子にどこからどういうものをとってどうしてとたのみ、それがすぐ分るだけ大人になっていてくれてましでした。
 こちらの生活はなかなか入費がかかります。四倍の入費ということはここにいても同じにひびいて、家へわたす分、雇人の心づけ。ペンさんの月給、本代、薬代、吉凶その他の臨時で、お送りする三倍四倍になります。自分が病気のため知人が心配していろいろ送ってくれれば、やはりそのままにはすまずですし。それもやや一段落の形ですから、その範囲で暮せる温泉へゆきもう一息、この眼のチラチラも直し、疲れやすさも直したく思います。やっとこの位の字がかけてみると、眼のチラチラは却って一層苦痛です、スーッと楽にはっきりすきとおって見えたらどんなにさっぱりするでしょうと思って。一日に二時間でもいいからね。もし温泉にゆくとしてペンさんにはやはり一週一度来てもらって二人の本さがしの用事、送る用事、その他事務上のことをして貰います。現在、うちの人たちは皆半病人で、寿江子はこの間私の為に自分の健康までそこね、それで今も苦しむのは自分だけだという心持があって、そちらにお目にかかりにゆくだけで精々ですから。柄にないことはするもんじゃないと思ったそうです。そんな気持も亦時がたてば自然に戻るのでしょうが。こんな体で自分の勉強さえ出来ないのにと云っていて、私も気の毒だし心苦しいし、それで万一の場合私に代って事務的なことを計らってもらう人として、てっちゃんにたのんだのでした。家族的にももう知りあっていますし、順序がついていて、それを取計らうだけならいいと思って。五日ごろ寿江子が上ります。私はその二三日後に上りたく思って居りましたが、この手紙すっかりよんで頂いて、いろいろのことが分明して、私のわるかったことは悪かったとして、ともかくさっぱりして頂き、まあ来たらよかろうというお気持の向いた上で行きたいと思います。一心に、おぼろおぼろの眼を張って、私はおめにかかりたくて行くのだから、そして、あのほんの短い時間のうちに、ゴタゴタしたことは何も話せず、話せば中途半端でいかにも苦しいのだから、この一まとめの話がすんでからにいたしましょう。これは何日ごろ着くでしょう、長くてさぞ手間がかかることでしょう。早く来てよいと云っていただきたいと思います。

 四月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ゴッホ筆「アルプスへの道」3ノ一、三岸節子筆「室内」3ノ二、土本ふみ筆「垣」3の三の絵はがき)〕

(3ノ一)隆治さんがジャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)へうつりました。そのハガキ貰って、大事にしてしまったら、仕舞いなくしてへこたれです。どうも見当りません。そちらへ来たらどうぞお教え下さいまし。送ったものはみんな行きちがいね。果して届くものかどうか。岩波の小辞典をお送りしました。『秀歌』は田舎へもってゆく分として一括したものの中にあり、そのうちとり出してお送りしましょう。なくしてハ居りませんから。少し勉強しようと思って大事にしてあります。
(この空の色はもっと濃く深く、糸杉はもっと厚い黒っぽいいい色だそうです)

(3ノ二)この人の絵をほかにおめにかけましたろうか。いつも大作を描き、いつもこういう更紗ばりのような展覧会エフェクトの多い画面です。絵のどういう面白さをここに出そうとするのかといつも思われます。婦人画家中の才人です。マチスまがいから段々堕しています。文学では模倣はたやすく見破られるが日本の洋画というものは音楽同様にまだ模倣に寛大な時代なのでしょうか。

(3ノ三)浅春の雪のすがすがしさと柔らかさを描こうとしたらしい絵で版がわるいから垣のむこうがゴタゴタして残念です。今まで知らなかった女性の絵です。この雪の下には砂地がありそうな感じですね。ぬかるまないような。ペンさんが奈良の旅行からかえり、寿江子国男国府津からかえり又ガヤガヤになりました。戸塚のおばあさんが死にました。手紙一つお見舞一つもらわなくて、そちらの事だけ「あらかじめ知らせ」られたりして、少しおどろきました。

 四月八日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕

 あしたの金曜日に出かけられると思って居りましたが、雨つづきで下稽古が出来なかったから、火曜日になります。どうぞそのおつもりで。

 四月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(木下克巳筆「夏の夜」の絵はがき)〕

 四月九日
 この頃いろいろと書きたくなって来ました。口で云ってかいて貰うというのではなくて。そうすると体力がまだそこまで行っていないことを沁々と感じ、ああまだ辛棒しなければと思います。結局口に出して書いてもらうということには随分限度があるものね。去年の秋から今日までの私たちの経験でも一見下らなそうな家事のことも本気にかけばやはり自分でしたいの。

 四月十日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(絵はがき)〕

 四月〓日でも片はじから書いてしま〔数字不明〕小説のテーマなんかずっと心に〔数字不明〕毎日それについて考えているのはたのしみです。
 〔二、三字不明〕云ったことは何か新鮮なものを自分のなかに生んでいて、それは生活環境が目白とちがうことと結びついて、やっぱり一つの新しい面を自分のうちにひらきつつあるのを感じます。

 四月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(京都三千院の写真絵はがき)〕

 ふと思い出してかきます。着物のこと栄さんでわかるようにしておくというのは、もしここが灰になって私は役に立たなくなったとき、当座たのめるようにしておくということで、今から日常的に助けて貰うというのではありませんからお送りかえしのものはここへ願います。念のために。寿江子が何だか混同したように云っていたから。

 四月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(中村彝筆「エロシェンコ像」の絵はがき)〕

 今朝は何とこころもちのよい目ざめだったでしょう。湯上りのようでした。思っていたあなたのお顔と一寸見ちがえるようにかっちりと厚みが出ていらして本当にうれしゅうございました、よかったわね。うちのひとは夕飯に赤飯をたいて私のよろこびを祝ってくれました。
 お手紙けさ着。大して疲れないらしいけれど昨夜は一寸苦しい位こたえたから今日は自重して、ほんの一筆。

 四月二十四日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月二十三日
 十九日のお手紙二十一日に頂きました。細々とありがとう。よくその気持でいそがず、着実に、永くなってもいらつかないでやってゆきます。どうぞ御安心下さい。これがこの頃の原稿用紙よ。私のこれ迄のは赤いケイで、それはひどく目にチラつくからこの色のをさがしたら松やで、こうです。一番細い万年筆で軽く書いてそれでこれ丈しみるのよ。毛筆の方がよいのでしょうが。
 今週は昨木曜日に出かけ来週は水曜日です。こんどはやや人並の話対手で、余程ましです。疲れかたが単純なのは大助りです。それに、そちらへ行くこともかまわないのだそうで、只私の体の疲労とにらみ合わせ、初めは大事をとってあしたもがまんして家に居ります。来週は或は金曜ごろ出かけられるかもしれません。きょうは疲れてマクマクのレロレロよ。家中にいるのは寿江子と私と台所の一人と書生。国男、太郎はみんなかあさんのところへ。実に久しぶりのしずけさで若葉の色をしんから眺めるような気持です。たのしみなことも出来たし、きょうはいい心持で、どうぞおよろこび下さい。一ヵ月に一度でも私がゆければ寿江子は上りません。あのひとはこの頃体の工合がわるく、やせて閉口して居ります。糖は営養がすこしあやしくなると因果と糖が出るようになり、それで益※(二の字点、1-2-22)営養は不良となるという堂々めぐりです。来週あたり国府津へゆくでしょう。
 ああちゃんと子供は月曜の雨の中を出てゆきました。よほど重荷が整理された感じです。咲枝がサービス疲れのようなのもあちらならなんと云ってもやすまりましょうから。国もドメスティックな人なので細君がいないと何となく悄気しょげていて気の毒よ。自分の考えたことで安心はしながらも。この間二度つづけて永い力作をさしあげたら、何だか当分ぎっしりとつまった手紙かく根気がぬけて居ります。でも、あの手紙をかいたおかげで今私の気分はいろいろさっぱりと落付き、一層深い信頼に充たされていていい状態でうれしゅうございます、本当にありがとう。では、大抵来週の金曜頃に。こんなに力をぬいてサラリと書いてさえこんなにしみる紙にGは迚も使えず。ほり込むように一字一字を書いてゆく愉快さもないというわけです。一工夫しなければなりますまい。

 五月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 きのうきょうの風のつよいことどうでしょう。けさまだすがすがしい朝の庭に、赤いつつじが咲いて楓の葉が青々とした下へ、三羽のつぐみが遊びに来ているのを見て大変奇麗だと思いました。少年時代に小鳥とりなどなさらなかって? 裏日本の方ではみんなやるようですね、つぐみはやや大きい黒っぽい鳥で、その色は単調に赤いつつじの色とよく似合って、ああこんな景色もあるかと感じました。
 三十日のお手紙日曜日に頂きました。早速返事書きたかったけれども先週は疲れ月曜の疲労を予算に入れてのばしていたら、その日が一日ずって昨日となり、又明日があり結局きょうとなってやっぱりいくらかへばりの日にかくことになりました。
 もう私の心持では、大きい字を巻紙につらねたような手紙ではたんのうせず、しかもこの位の字は相当の事業故、板ばさみで些か閉口です。本当に眼も永いことね、こんな字にしろ半分はカンで、長年の馴れでかくようなもので白い紙にゴミが散らばったような感じね。
 すっかり初夏となりました。夜のかけものがいつの間にかあつすぎて、すこし汗ばむような工合になるのも五月という気候の風情です。段々病気もゆるやかになって体のまるみもついて来て、自分で新しくそれを感覚するようなときの初夏には、云うに云えない若やかなものがあって面白い感情です。自然のうつりかわりが実に生々と新鮮によろこばしく映って。
 でも、二三度外へ出てみると、このあしかけ二年ほどの間にいろいろ世の中の様子が変化したのを感じます。それも沁々と感じます。日本の人は万事にゆきとどくという美点をもっているのでしょうね、しかし大まかさにも自然のゆとりがあって人間らしいふくらみがある筈です。ゆき届きすぎて非人間めくのは、利口馬鹿のやりてな女ばかりでもない様子です。
 こないだうち珍しいから目をみはって歩いたけれど、もとのように思い設けぬ飾窓に、びっくりするほど美事な蘭の蕾の飾られてあるのや、それが珠のように輝いたりする眺めは見当りませんでした。そちらへ差入れの花も払底な時だから、きっとそういうどちらかと云うと贅沢な美観は街からもかくれているのでしょう。
 でも、どこかでそれはやはり美しく立派で、蕾から花と開き又新らしく萌えたつ豊かな循環を営んでいるにちがいありません。私は全く花や木がすきよ。本当にすきよ。瀟洒しょうしゃとしてしかもつきぬしおりのある若木の姿など、新緑など、その茂みの中に顔を埋めたいと思います。今うちの門から玄関にゆく間のあの細い道は溢れる緑と白い花です。どうだんという木は今頃若葉と白い鈴のような花をいっぱいにつけます。樹の美しさを話すのも久しぶりのように思われます。
 本と足袋明日お送りします。
 昨夜ふと気になったらえらく心配になりましたが、あなたの冬羽織、下着、どてら、毛のジャケツ一組等はどこにあるでしょう。まだお下げにならなかったの? この間はボーとしていて冬の着物一つもらってかえったけれども、考えてみると羽織その他大事なものどもは、どうなっているかと、女房らしく気が揉めはじめました。どうぞ御返事下さい。『廿日鼠』は私も面白いと思いました。あの小さい方の男が、気やすめとはっきり知って気休めを云っているところ、しかし大男や黒坊や掃除夫は、シニカルな気持の半面で真実それにひかれているところなど、ヒューメンな味が感傷でなく在って、あの一束の人たちの作品の特質は主としてそのところに在ると思われます。彼は物理と生物学の勉強をしているそうです。文学からそちらにゆくのは、そちらから文学に来るのと全然違うというのは本当で面白いことです。科学と法則を、彼のような作家が学びたいと感じるのも分るし、『廿日鼠』の大男のような自然力を感じる作者が生物学というところに立ちよるのも判ります。それが過程になるか終点になるかということで、彼の文学の可能も亦かわって来るわけでしょう。
 オニールのようにあっちにはああいう自然力を人間の運命のうちにつよく感じる作家が出るのね。ロンドンやホイットマンもそうですし。新しい生活力が、或ときは悲劇的に横溢するからでしょうか。
『文芸』は六十数頁の小冊子となりました。苦心して編輯していますが、作家は二十枚とまとまったものをのせ得ていません。多くの課題がこの一つの現象のうちに語られていて、作家がジャーナリズムの刺戟で仕事して来た習慣への痛烈な報復がひそんでいます。
 どんな人も従来の1/6ぐらいの収入でしょう。プルタークはもう忘れています。クレオパトラの引力史という表現は笑えました。ショウは利口なようで浅薄な爺さんね。クレオパトラの鼻がもうどれだけ低かったら世界史は変ったと云って、どんな猪口才にも記憶されましたが、クレオパトラがそれをきいたら、ジロリとショウに流眄をくれてニヤリとして黙っているでしょう。鼻の高さひくさぐらいクレオパトラの本体に何のかかわりがあるでしょう。彼女はおそらく女性中の女性だったのです。ナイルをみなぎらす太陽にはぐくまれ、あたためられ、そしてそれを装飾して表現する立場をもっていたのです。装飾に眩惑されるぐらい英雄たちは或面魯鈍であり、自然の魅力に抵抗しかねたほど素朴でもあったわけでしょう。それにあの連中はみんな派手ずきな連中だったからね。どんな時代にも派手好きな人間というものの共通に担うめぐり合せはあるものです、プルターク先生はそこ迄見とおしたでしょうか。随分変転を重ねて其は現われる、例えばレオン先生の晩年のなりゆきの如く。
 私は目下のところは余力なしで、ここに居すわりです。寿江子は来週海岸にゆきます。彼女は大変緊張して暮しているから却って私ものんびりするかもしれません、では又ね。

 五月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西芳寺の写真絵はがき)〕

 きょうは七十九度ありました。暑くて苦しいほどだから、セルが未着でおこまりでしょうと思います。何とガタガタな一日だったでしょう。咲枝が出京して午後の短い時間に思いもかけず見つかった乳母をきめたりして四時すぎ嵐のひくように太郎をつれて行きました。私は半分ボーとして机のところで息を入れているところ。この細かい字は何とかいてあるのでしょうね。

 五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(庫田※(「綴−糸」、第4水準2-3-63)「松林」の絵はがき)〕

 きょうは八十一度になりました。五月初旬にこんな暑さということがあったでしょうか。明日は月曜日で出かけるから、せめて少しは涼しくなれと思って居ります、いそぎ紺ガスリお送りします。
 この松は不自然と皆が云うが、私には昔の野原の海辺へ出る手前の道が思い出されます、きっとあなたもそうでしょう? 木の枝に蛇を下げた男の子がこんな松の間の道を歩いていました。

 五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(石井柏亭筆「佐野瀑図」の絵はがき)〕

 五月九日
『万葉秀歌』はもうとっくについていなければならないのに、うちにゴロゴロしていて本当に御免下さい。上巻はいいのだが下巻にしるししてしまって消してからでなくては駄目でついのびてしまいました。やっと人手がすこし出来、これからは何となし少し楽になるでしょう。この頃の生活から、私は又先頃は知らなかった修業をして面白く感じることが多くあります。働いたことのない人々の人生とは何と嵩ばっているのでしょうね。

 五月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月十五日
 十日づけのお手紙十三日(木)頂きました。くたびれて、クタクタになってかえって来てお茶を呑もうとしてサイドボードのところを見たら、ちゃんとたてかけてありました。思わずこれはいい、これはいい、と申しました。いつもかえって来るときはペンさんの腕に半分ぶら下りよ。そしてお茶をのみパンをがつがつとたべて、二階へ上り坐布団の上に毛布をかけてゴロリとして夕飯までうとうととします。そうするとすっかり元気になります。気は楽なのにちゃんと何時間か坐って居るというだけでも、やはり疲れるのね。おっしゃるとおり自分の気持だけで区切りをつけていたってはじまらないわけですから、もし七月につづけばはっきり夏休みにします、九月下旬までは。体の調子は決してわるくないと思います。それに目下は一寸人手もあり、従って寿江子のとばっちりもおさまっていて。私はこの頃バカになっている修業というものが必要で、成程と感服いたします。そんなにシブキ上げるなら放っておいて私にさせればいいのに、それは可哀想、させる人たちがひどいという公憤も加って、寿は自分でひきうけて、馴れないから大鳴動を起すのね、親切のうけかたもむずかしいものと苦笑いたしますし、妹もあの位になると、バカになっておかないといけないという時もあるものなのね、あちらは性格から云って頭が迅くまわるのを制すたちではないのだし、気づくことは万事気づいてのんびりしているというところ迄の修業の出来ていないのは当然でもあるし。ですから私の姉さん修業も相当の段階にたち到ったと申せます。きっと旦那さん修業にもいくらかこんなところがありそうに思われます。いかがなものかしら?
 花屋の眺めについて御同感でしょう? それでも自然に茂っている樹は美しく、枝ぶりも好もしいし、葉も美しいし、やはりうち眺め、うち眺めして飽きることを知らない心のよろこびです。私はこうやって部屋が二階にあってしっとりとした心持で見ているのはいつもいろいろ様々の若葉を重なり合わせている木々の梢ですから、なかなか鑑賞の力はみがかれて来て居ります。泉物語の詩の話も久しいことしませんでした。自分のしんから気に入っている詩の話などというものは自分で書くしか仕様のないものね、しかも、やっぱりせめてはこの位の字もどうやらかけるようになって来なくては、ね。つい先頃までかいていたあの大きい粗末な荒い字を思い出すと、声のとぎれがちな叫びのようで大変苦しい気がします。まだまだ苦しかった(頭が)と思うの。じっと字をかいていられなかったのよ。丁寧にかいていられず、何かにせき立てられているようでした。その上今思うと、体じゅうの筋肉が変だったのね。全くギクシャクしていたのだわ。ですから大事に大事にすっかり癒らなければなりません。瑞々しく柔軟に丸く心も体も恢復しなくてはなりません。この頃は、字にしろ落付いてこまかくかいて行くたのしさが出来て来て、それに堪えるだけの神経の調子になって来たのでしょう。でも、眼はけしからんの、何というのろまでしょう。原稿紙のマス目はまだ駄目です。
 きょうは六十六度ほどで、曇ってもいるし、しのぎよいが、昨日は又八十度越しました。あついと実に苦しいのよ。肩や背に日光がさすと何とも云えず不快です。もう傘をさしています。冬の衣類前へ出しておいていただきましょうか。私は今月のうちにもう一度ゆきたいのよ。いずれ水曜か金曜ですが。私にとって少しは薬になる外出があったっていいわけのものではないでしょうか、文字どおりほかへはちっとも出ないのだもの。たのしみの外出なんてないのですもの。夜具やっぱり宅下げなさいますか? 私はあつくるしいのはやり切れないとは思うけれども、どれか一つだけ厚く綿の入っているのをおいておいていただきたいのだけれども。ドカンと云ったらあなたはあれをかぶっていらっしゃるという気休めがほしのだけれ共。下らないこと? 小学生たちは坐布団に紐をつけたものをかぶります、親は、それでもないよりはと思っているのよ。
 島田へこんどお手紙のとき、お母さんが日向に頭や肩むき出しで余りお働きにならないよう、川へ洗濯に行らっしゃるのもすこし気分が変だったら必ずおやめになるよう、よくよくおっしゃってあげて下さい。いつもいつも書くのですが、お元気だから黙殺よ。しかし多賀子の手紙などには同じことを心配して居りますし。
 私が久しぶりで手紙をかけてよかったとこちらへもよろこんで下さいました。自動車のことはそのとおりです。乗用とトラックとが新しく入るというようなことが友子さんの手紙にありました。Yという人物やその間の事情も代表的なものですね、いつか島田で私一人店にいたら途方もない横ヘイな奴がヌット入って来て頭も下げず、少額国債のことを話し(自分が買うと)私は何奴かと思ったらそれがYの由。裏の路の話は三四年前からでした。ではもう出来たのね、やっぱり高く出来たのね、人間の生活の常態というものに対して親切な心くばりの欠けた強引プランというものは、いつの時代にもどんな場合にでも人々の心に舌ざわりの荒いかすをのこすものです。或種の人々の感情には横車を押しとおす快感めいたものもあるでしょう。小人物はそういうものだから。有無を云わせぬというところに何かの感じを味っていたりして。そういう町の落付かなさを思います。裏と云っても、もとからあった裏道ね、あれよりもっと家へよったところに出来るということでした。きっとそうでしょう、トラック用道路です。島田の家も住居はもう少し山よりの方へ奥へ小ぢんまりと引こめて、こちらは仕事用の必要部分だけにして、お母さんや子供や女連は住宅の方に暮せるようにしたらいいでしょうね。通りの建物は利用する方法がどっさりありますでしょう。達治さんの健康のためにもいいのでしょうが。このことは少し考えてあげて、その方がいいとお思いになったらお話しになったらどうでしょう。軍用トラック道路と徳山、光町の線路とにはさまれているのは、静かな日々ではないのだから。きっと家賃としてもかなりのものでしょうし、お売りになって小さいのを立てれば案外やりくれるかもしれないし。蔵だって今は使用せず単独に貸していらっしゃる位だから。裏へ道が出来たのではお母さんもお考えでしょう、あいにく私たちが大キューキューで何とも出来ないのは残念ね。
 お送りした草履は、かなり奮発で、今としてはいいものでしたからうれしいと思って居ります。輝ちゃんに絵本送ったのよ。
 今日『防空』到着しました。『ギオン』が一緒のようにかかれていて消され一冊だけでした、私はまだ迚もああいうのはよめないの。寿江子がよんで教えてくれるそうです。それにしても朝日の『衛生学』まだ本屋から来ないので又きき合わせて居ります。スタインベックの「月落ちぬ」Moon is down という小説が英語で持っている人があってやがてかります。活字が大きかったらいいのだけれど。お送りして見ましょうね、文章の新らしい単純さをぜひ原文でみたいと思っていました。外国語では題に自由に動詞をつかえるから面白いものね、Moon is down にしても作者の感覚は本当にただ月が落ちた、という時刻とか光景とかのものでしょうが、生活とくっついた表現にすぎないのが日本語で月が沈んだでは何とも題になりかねます。この頃の月は夜の九時頃もう西にまわっていて早く沈みます。それを眺めて一種の風情を感じているのでなおはっきり文学的表現をくらべる気持にもなります。宵に落ちる月の風情などはせわしい心のときは気をとられないものね。きょうはこれから久しぶりで風呂に入ります。警戒警報が解かれほっとしました。では又ね。

 五月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月十六日
 きょうは、五十七度ほど。これだから体がたまりませんね、けさ午前五時半の一番で太郎がコウヅへ行くというので起きて世話をやいたら風邪をひき気味になって、雨のふるしずかな私一人のうちの中で殆ど一日床に居りました。今もう夕方。おきて暖い襦袢にエリをかけて着ていたら、健之助の乳母にたのんだ人の乳が健全でのましてよいと医者からデンワで、それ知らせろということになったら、あっちのとりつぎ電話が不明でゴタついているところです。
 父さんは大抵金曜日の夕方になると何か用が出来て、どうしてもあちらへ行かなければならなくなるのよ。太郎は土曜から出かけて二人が月曜日の一番で夜明けに起きてかえって来ます。
 其故この頃の日曜は本当にドンタクなの、しずかで。気づかいもいらないし、ケンカする人たちはめいめいちりぢりだし。そして私は面白い、又いじらしいものだと思って、せっせとリュックを背負って母さんのところへ出かけて行く父親の心持や又それとは別に息子のことを考えたりして暮します。アメリカにシートンという動物観察者が居ましょう、いろいろな動物の生活をよく見ていて、時にはバルザックがかいたヒョーについてのロマンティックな物語を書き直したりするところもあるが、大体はまともな記述をしています。それのリス物語を一寸よんだら(太郎のをかりて)リスの父親はどこやらリュックを背負って行く父さんの心持――自覚しないでそう動く心――に通じていて、ほほえまれます。一緒にだけ暮していると、こんな気持ははっきりそれとして生活の中に浮き上って来ないものね、彼にとって家族という感情の柱はどこに立っているかということを沁々感じ、そういう本能めいたものの暖かさと根づよさとを感じます。巣のぬくみ、その匂い、何かしらひきつけるもの。そういうものなのね、全くオカメがいないと落付けないのね、よりよく動いている部分があってもそれで落付けるというものでないというところが面白い。生活の日常性の粘りのつよさということも新しくおどろきます、自分の体温と体ぐせのうつったものがいつも恋しいというところ。
 この紙は妙な形でしょう? でも書きよさそうでしょう? 昔昔のタイプライターの用紙です、S. Chujo と父の事務所用で一杯いろいろ印刷してあるところを切ると丁度この大さになりました。この間、紙屑の山からほり出して来たのよ。形はどうともあれ、今にしては大した良質のものだからホクホクです、書きよいのよ、そして私は手紙につかえるいい紙が見つかると一番上機嫌です。
 風邪のかげんできょうの目といったらメチャよ。大チラつき。ペンさんがやっと結婚するようになりました。秋頃の由。対手は実業家の息子で帝大の経済出。日銀に居た人。ペンさんは高等小学を出てすぐそこで女事務員になり七年つとめている間にその人を知ったのです。中途でゴタついて、男のひともグラついたのらしいが、マア決着したわけです。高輪に壮大なる邸宅があってそれは借金のカタになっているが、妹が結婚する迄はその家をもって行くという処世術を守る家風です。なかなか楽ではないでしょうが、何年来も交渉があったらしいから、ちゃんと結婚というきまりをもって、生活のよさわるさを正面に経験して見るのはよいでしょう。
 私はこの頃迎えや外出のおともをして貰っていますが、秋迄にはその用も一片つきましょうからお互にようございました。きょうはいくらでもこうやって御飯後のお喋りのような話をしていたいがあんまりな目ですからもうオヤメ。かぜをおひきにならないようにね。

 五月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月二十三日
 十九日づけのお手紙土曜(昨日)頂きました。お心くばりいろいろとありがとう。本当に、来ないようとおっしゃったらヒョコリといやに熱心な顔を差出したから苦笑ものでいらしたでしょう。
 私は目下大したものもちで、十五日からつづけて三つものお手紙をためこんで眺めて、あっちこっちくりかえしてよんでいる次第です。
 まず十五日の分からね。マホー瓶の件。もちかえりましたが大したこわれかたね、グザグザね、国男に話したら、キット大きな音がしたんだろうと云っていました。そう?
 マホー瓶は真空装置がある瓶を入れるのだからビールビンではどうかということです。心当りのところに(専門店)きいてみます。うちにあるのは、よくアイスクリームを一寸買ってかえったりするときの、籐のザルに入って、いきなりキルクせんの、テラテラツルツルしたものなのよ。籐のザルをぬいたら立ってもいられない代物なのよ、それでもいいでしょうか、よかったらお届けいたします、御返事を、どうぞ。
『結核殊に肺結核』『文芸』と一緒に送りました。掛ぶとんカバーなしで、夏ぶとんもそれでいいのかしら。何だか夏はあったらよさそうですが。
 用だけ一まとめにしてしまいましょうね。『週刊朝日』その他は来週からの分或は六月号から。それはきのうお話したとおり。
 富雄へ本を送るときのことわかりました。それから物は前金でたのみ、それ以外はたのみませんから御安心下さい。これからは第一たのめません。小包不通故。それに大体私は余りこのみませんから。あちらも通貨が一本立になり物価三倍以上になったそうです。上海ではこちらで八十円のポートフォリオが百二三十円の由。十年前六円五十銭で買ったのを、昨今八十円でよろこんで買うという人があるという笑話をききました、でも本当でしょう。
 隆治さんの雑誌は閉口です。自分で出歩かないのでちっともはかも行かず見当もつかず。
 十九日のお手紙、本当にいつもいつもありがとう。昔の人の表現にもなかなかうまいものあり、病魔はその一例ね。
 無理しないようにということは、私も決しておろそかには考えて居りません。しかし、六月一杯迄このままやって、もしそれより先にかかるのなら九月下旬まですっかり休んでどこへか行きます。「何しろまだ病人対手なのだから」ということで、いく分面倒くささも減っているところもあるのです。多分六月一杯でおしまいでしょう。おっしゃるとおりひとり合点もあるといけないから自分としては何もきめた形で考えていず、体とにらみ合わせてやってゆきましょう。そんなに気をせき立ってもいないのよ、一頃よりはずっと楽に落付いて、いらいらもしないのだけれども、ついつい足が向きたくなるという場合もおこります。でもそのついもおやめにいたしましょう、ホラ又。ユリのアンポンというのでは、自分はともかく折角気をつけて下さるあなたに相すみませんから。
 うちに、代って一寸心やすく行ってくれる人でもあるといいのですけれどね。この家も全く風変りだから。寿江子もこの頃体はわるいし、咲たちが国府津へ行ってしまって、どうしてもうちのことは肩にかかるしで、恐惶謹言的状態で、お使いはたのまれないし、厄介だし、滑稽だし。うちに、あたり前の人が一人いたらどんなに気が楽でしょうね。それが目下のところは自分というのだからお話になりません。私はあながち欲ばっているのでもないのよ、お察し下さい、特に近頃は来るなとおっしゃることもわかるから、それでも私が、なんて考えてはいないのよ。当分何とかやりくって行きましょうね、六月になると、うちの女史は東京と田舎とちゃんぽんに暮すのですって。夏どこへ行くか、なかなか決定出来ません、食物のことがあり、身のまわりのことがあり。まだ自分で洗濯など出来難いから夏こむとき宿やに一人いたりしたら不自由かとも思うの。開成山は猛烈に眩しいところなのよ、開いた地平線の遠い高みに建っていますから。多分信州の上林へでも行くのでしょう、ここは樹木が多く、木下道があり、高燥で、木賃宿のようなうちの人たちは余り不親切でもありませんから。やっぱり本がよめなかったりすると、全く知った人のいない宿やへぽつんと一人でなんか行きたくないものなのね、それは追々具体的にきまって来るでしょう。
 好ちゃんの話、本当にあの子を泳がせてみたいと思います。まだ私がよく抱いた時から男の児の中の男の児という精彩にみちた風で、雄渾という資質だったから追々成人し、どんな美事に波をくぐり、水にもまれ、そして快よさそうに濤に浮んで、のびのびと手足をのばすことでしょう。やはり海辺そだちは違うのね、あの子が海を好くばかりか、見ていると、海はあの子がしなやかにきめこまかな体の線を張って、いのちののように波間にくぐり貫いて行くのを、よろこびだきとるようで、一層嬉々と波だち光り、体を丈夫にする塩のふくまれたゆたかな水圧で、あの子の体を軽くしめつけるようでした。海と遊ぶというのはああいう泳ぎ方の出来るのを見たときの言葉ですね、ひとしきり縦横に活躍して、砂地に上って来たときの好ちゃんが濡れ燦き、美しい海のしずくのしたたる手肢で、いくらかぽーとしたように暫く砂に休んでいる様子も面白く愛らしかったでしょう? あの子はそうして休むと又一しお泳ぐ面白さにひき入れられた風で一層ふかく身をおどらして行ったことね。
 一遍ああいう胸もすくような男の児ぶりになってみたいとよく思ったものでした。胸のすくような、という子は見かけないものね、この頃は特にそうね、子供のスケールが変に小さくなっていて。
 小さい人という溌溂として天真で、真面目なのが少いわ。大人の小形よ。合言葉でつまっていて。大人をおどろかせる子供の新鮮さというものの価値はもっと尊重され、純粋に保たるべきです。そういう点でも好ちゃんはユニークよ。皮膚の荒い人に精神の精緻な人はない、ということを昔から云いますが、それは本当かもしれないわ、好ちゃんなんかのことを思うと。
 秘蔵っこの噂を程々でやめておくには、私にとってよほどの節度が入用です。
 この節、四角い紫檀の机をつかっていて、その横にあなたの側ダンスをおいて居ります。その上には、父が昔買ってくれた古瀬戸の油つぼの絵こんな形の油つぼがあって、それに今日はこぼれた種から生えて咲いた菜の花がさしてあります、その引出しの二段目にフートウや何かを入れてあります、原稿紙もきっちりに入る奥ゆきに出来ているのね、一寸台所へ行って見たら、寿江子が何だかコネていました。きょうは日曜日で又うちは二人きりよ、しずかです、朝は六時ごろ目をさまし戸をあけ空気をとおし又横になりすっかり起きる気になる迄居ります、睡たいうちは何度でも眠るのよ。あしたゆうべに論語をひらくというのも、おっしゃるとおりうそでない気持で経験されたことでしょう、愛誦の詩の中から目醒めるということもあり、それは殆ど地上へ我身を落付けるに余程手間どるばかりです。まだ書きたいけれど、光線の工合が眼によくなくなったから又改めて。

 五月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(浅間山の写真絵はがき)〕

 二十八日、
 きょうも雨になりました、もう五月雨に入ったのかしら。けさ迄二日咲と健之助が帰って居りました、種痘のために。
 健之助は丈夫な児でまことに可愛うございます。秋にはお目にかけましょうね。それはそれはいい香いがするのよ、暖く眠っている床が。かぐわしき幼児というのは本当です。マホービンは、あちこち当って見ましたが、どうも望みなしです。真空瓶をつくるところでききましたが。ここにあるのに外側をつけることを研究して見ましょう。ビールビンではマホービンにならぬ由です。

 五月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月二十九日、
 二十六日のお手紙ありがとう。用向きから。『結核』送るばかりにしていてつい忘れていてつい三四日前に出しました。これとゆき違いに到着していますでしょうが、御免なさい。紐までかけておいてつい忘れたの。週刊朝日、日曜毎日はすぐ手配いたしましたが、本月から予約ぎりぎりの部数しかなくて、どこか一軒おやめになったらまわしますという有様で閉口です。週刊の方は出版局に杉村武という記者を知って居ますから、たのんで何とかして貰おうかと考え中です。毎日の方は当がなくて困りますが。明日は日曜だから待ってみて、次の段どりをします。『日本評論』、『文芸』、『独語文化』はつづけられます。『文芸春秋』に西村茂樹のことを山田孝雄がかいていましたね、ああいう政治家国学者にとかく評されて祖父も苦笑でしょう。『衛生学』はまだ発刊されていないそうです。もう本屋に久しい前から申しこんでありますが。
 森長さんのこと承知しました。火曜頃届けます。手紙をつけて。冬シャツは安積の方をこの夏しらべて貰います。私ももう一枚は無くてはならないと思ってそれで気にして居りますから。今年着ていた「袖抜け」と命名されたのは、そうなのよ。十年来のものです、そして肱がぬけましたか? 実によく役に立ちいろいろとすてがたいシャツ君ですが。では大事に洗ってよく虫よけいれて、休ませてやりましょうね。辛苦を倶にしたものですもの。そういえば今年の下着、二いろの布の合わされた綿入れはどこにいましょう? 前でしょうか? 前へお願いいたします。私はお言葉を服膺ふくようして出かけませんが、とりにだけは行って貰いますから。
 ペンさんの嫁入り先の家は台湾の日糖とかいう会社につとめています。それは親父。若い人は石油の発掘専門の統制会社につとめています。姉たちは財閥の小番頭の又その番頭というようなところに嫁入っています。十三四とか部屋のある邸宅に今は若い連中だけいる由。花嫁は妹とともにその妹が嫁入る迄その家の掃除をしていなければならないから大変です。親戚に誰かかなり偉い司法関係の役人がいて(大臣級らしい。現役ではなく)、息子はそのおかげで就職万端どうやら形をつけてもらったらしい話です。若い人とつき合はありません。
 今はペンさんに迎えをして貰っているだけですが、六月一杯でおやめのことにしてあります、忙しくもなるでしょうし。
 女の気持は自分のことを考えてもいくらか推測がつきますから、その点はいくらか考えていたつもりです。
 同じ病気とたたかうにしても、医者が自分の効能書をよく見せようと診断を重く重くともって行って、恢復する条件がないようにないようにとするようなひどい場合、患者はどうしたってその診断に服すまいという気がおこるものではないでしょうか。よほどちゃんと医書もよんで病気の条件とその養生法とを客観的に判断出来ないと、この医者にころされていられるものかという気から下らぬ売薬に目もひかれるような場合があるものではないでしょうか。
 ろくでもない養生ぶりについて患者は、自分の感受性を裏づけるだけの闘病の経験も知識もかけていて、したがって意力も十分ではなかったのだと思います。自分の気もちとして、何これで死んでいられるか、という思いばかりはげしくて。信用出来ない薬をいや応なしのまされるとき、ダラダラ出来るだけ口の端から流し出さしてしまおうとするように。それは不様です。たしかに人前に出せた恰好ではありません。でも、単なる気弱さからとばかりも云えないのではないでしょうか。副作用のきついものを、そのときはいさぎよいようにのんで、あとの一生をその毒でふらふらしているのも多いし。
 私の病気は本当に複合的におこって、しかもいろいろに変化しますから、どうか段々病気にかかりかたもその話しかたも、ちゃんと会得してゆきたいと願って居ります。
 今マリー・アントワネットの伝記をツワイクがかいたのをよんで居ります。蟻の這うようによんでいますが、マリア・テレサという女王は、自分の位置と義務とをよく知っていた点で女傑であり、明君であったようです。彼女は娘のアントワネットにくりかえしくりかえし王后という地位がいかに負担の大きい退屈なものであり、しかもその位置にいるものはそれに対して責任をもっているかということをくりかえしくりかえし忠告しています。自分の立場をよかれあしかれ、楽しかれ苦しかれ、客観的にそれを十分に理解して処して行くことの出来る人は、ざらにはないものですね。誰でもいきなりからそれが出来るものではなく、それの可能な人は前提として誠実さ勤勉の資質がいるとツワイクは云っているが、これは本当です。テレサは歴史の鏡にてらして未来を見とおしたというより、三十何年間の女王としての経験からマリーの悲劇を予見し自国の将来にも暗さを見たのでしたが。
 これは私としては面白い本です。こんな目でわずかずつしかよめないが、よまない間にどっさり考えますから。歴史の波が或る人をのせてその人がのぞむのぞまないにかかわらず、歴史の突端におしあげてゆくという点からツワイクはアントワネットをかいているのです。
 自分を知って自主の人として歴史に対応しそれに働きかけたのではない人として。平凡人として。自分の義務によろこびを感じ誇を感じ、常に自分の主人である人は、人々が自身にそれを希望しているより、現実には稀有ですね。
 私にしろ、自分の条件が病気にかかりやすく、なおしにくく永びき、その点楽をのぞめないものと知りながら、その病気をもってゆく術は上手でなくて、癒してしまいたがってそういう単純な生活慾は通用しないことが何だか分っているくせに分らないようなところがあります。
 いつもあなたに心づかいおさせして御免なさい。ちゃんと落付いて養生しているか、どうか。気をせかして妙な頓服や注射なんかしはしないか。そういうことをちっとも案じて下さらないですんだら、私もどんなにうれしいでしょう。
 けれども又一方からは、あなたがいつも真直な明るい視線を向けていて下すって、その眼を思ってみれば、自分の眼のなかに光がともるのも私としては深いよろこびです。私は子供らしい心持で、よろこびからこそ義務も責任もすらりとわかるというところがあります。偽善家ではない証拠かもしれないけれども。錬磨されるテムポは、人によってまちまちで資質の純、粗によってのろかったりするものです。
 この伝記は下巻も出てからお送りして見ましょう、そして私は夏休むとき「ピョートル」をよんで見ます。私はこの頃自分のもっている仕合わせの質について、これ迄よりもずっと真面目に、厳粛に考えるようになりました。
 私がこうやって病気して仕事も出来なくているとき、少くない人がこれ迄にない親切をつくしてくれます。真実に生活を思いやってくれます。その親切の源はどこにあるでしょう、決して名士好みのファンの心もちでない親切。又ある時期一つ財布で暮したなどということの全くない人たちの親切。何でもない奥さん、おばあさん、友達、その人たちが私にあたたかい思いやりをかけてくれるのは何故だろうか、と。その人たちに私は何を負うているかと。眼がわるいことの気の毒さ、は、私が只ものをかけないよめないということにだけかかってはいないのだと感じます。
 私は謹だ心でそれらの親切と、そのような親切をうける自分の仕合せを考えます。
 それらの心もちは一つのものにまとまって、人間はとどのつまり何によって生きるかということの考えに向い、私の心はそれは信頼であると明瞭に答えます。人としての信頼の深さこそ唯一の仕合わせの源泉ですね。それを、人はめいめい自分の最善の力をつくしてかち得てゆくのです。狡智や張りこの理屈や、そんなものはここまで持たないものです、人間関係の最深の地盤まで掘りぬく力は、まともさのみであり、それによって信頼が貫かれたとき、泉は何とつきず美しく湧き出すでしょう。しかもその深い深いところから湧く水の音はしずかで下ゆく流れであって、怠惰によって水口をふさいでしまえば、水は抵抗せず再び新鮮な機会の来る迄地層のうちにかくれます。
 私は自分が命をひろって、生命をとりもどしたとともに、一層生活の真の意味にふれてゆく折ともなっていることに大きい仕合せを認めます。
 妻としてもそうよ。私は意気地なしのところもあって、いつも御心配をかけすまないと思いますが、それでも様々の経験にうちこんでゆくだけには、その程度にはいくらかのとりどころもあります。まともなものにこたえるこだまは心のうちにあります。それによって、私が益※(二の字点、1-2-22)深く感じる信頼こそ生活の柱だと思い、私に対して、私が抱くほど確固としたものをおもちになれないにしろ、やっぱり歩いてゆく姿の、その一つの姿はいつも見ていて下さるのですし。
 この頃何かにつけて思っていたことなので。そして年の移るにつれて人間が仕合せと感じることや、その動機が深められ、一層謙遜に評価するようになるのも興味あることだと思います。

 六月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月一日。六月になりました。きょうは、雨つづきの間に時々晴天になるあの日よりで風もふき、家の中の湿気がいくらかとれるようでいい心持です。
 二十八日のお手紙きのう朝九時十五分頃定例によって出かけたとき頂き袋に入れてもらっていて、くたびれを感じると、あれがある、とたのしみにして夕方よみました。
 全く海を思い出すのはこれからですね。特別今私は自分がまぼしくて海が駄目だから、猶更です。芳しい潮の匂い(これは日本の海特殊よ。南はどうだか)色調。つよく軟いうねり。人のいない海辺の淋しさはなかなか詩情を誘います。海はそこに泳ぎ、又雄大な航行をするものがあって、はじめてこの世の美として存在しはじめることは確かだと思います。人間と自然との関係が常にそうである通り。人間が自然の創造の一つではあるが、その人間が宇宙の美も法則もこの世に在るものとして行くというのは何と面白いでしょう。そういう人間をつくる自然の力の大さゆたかさ。ね。自分というものを自分にとって存在するものと知らす人にこの世で出会えた者は、人間冥加と申すべきです。支那の人は士は己を知るものの為に死す、という表現を与えているけれども。こんな三国志的表現はもっと爽快なもっと色調あふれ、諧調ある近代の精神の中に一層複雑な内容で輝いているのでしょう。
 人間が病気から徐々になおってゆくとき、生活力が少しずつ少しずつたまって来るとき、人生を又新しいもののように受とり、醇朴に近づき、謙遜にもなるのは、うれしくたのしい思いですね。私が近頃感じている仕合わせにはこういう要素もあるの。そして、自分がこんなにひどく損傷され、まだこんなひどく不自由で、それでこういうよろこばしい感情を折々、寧ろ屡※(二の字点、1-2-22)持てるのは、どういうわけかとそのことについて真面目に熟考するのです。丁度五月頃の夕方のトワイライトは、ものの上にある光の反射をなくするので様々の色が却って細かく見えるように、私の今の程度の弱さが、自分の心やひとの心のニュアンスをしみじみと眺め、それを映すのでしょう。私の頭は不快な疲れというものをこれまで知りませんでした。柔軟で自分の活々とした働きをたのしむように根気よく、よく役に立ったが、今は疲れ易くその疲れかたは苦しくいやなものです。頭が熟したぐみの果のように充血して重く変にぼってり軟くなった感じで。これは私を悲しませます。相当に悄気させます。少年の皮膚のようにしまって艷があって、きめのこまかい感じが忘られず、いつそう戻るか、あるいはもうそうはならないのか。そう思うの。悄気て悲しい心持でそう思うけれども、又こうも気をとり直します。私のそういう生理的な丈夫さは、或は私をこれ迄能才者という範囲に止めていたかもしれないと。生来の明るい迅さで或は物ごとの表面のありようをすばやくつかみ理解したという特徴を与えていたのかもしれない、と。今私はぐみの頭になって、時々は苦しく、そのくるしさが悲しいというようなのは、ちっとも自分の生来のものの活動を我知らずたのしむ、或はそれにひきずられるということではないから却ってのろく、じっくりと物事を追って眺めて、心情的になって或は芸術家としてはやはりプラスなのかもしれない、と。私がもしかりにいつか癒って又つやのいい頭になれたとして、ぐみの頭になったこと、その時季、それを私は徒費しまいと思って居ります。
 大きい石を磨くには巨大な研石がいるのだから、もし私がこんな病気やこんな永い不自由さにうちかてたら、つぶれて消えずに光れたら、それはいくらか石らしい石なのかもしれないわね。あなたが手の上にのせて退屈なときはそれを鳴らしてあそぶことも出来る位緻密な質の石のかけらかも知れないから、そう思うと一寸たのしみでしょう。自分をよく見張り、よく導き、忍耐や研究やの価値もあるというものです。それにつけても才能は義務であるという言葉は立派な言葉です。最も人間の謙遜と誇ママとにみちた言葉ですね。
 隆治さんへの小包のこと、よくしらべて見ます。
 魔法ビンは、つまらない名をもっているわね、マホーの瓶なら、こんなにさがしてこんなに気をもんでいるぐみ頭の細君のために、手叩き三つ位で、一つはどこからか出て来たらいいじゃあないの、腰抜けねえ。時勢で通力を失ったと思えば可笑しく哀れね。国男さんまで動員してひねくっていますが、この節はああいう仕事をやって見ましょうと云うものがいなくて全く全く閉口です。むき出しのツルツルに籐のザルのついたのをそのまま使えるか、カゴをはずさなくてはいけないか、おしらべ下さい。すっかりすきとおしで見える目の大きい蛇ばらかごですから。もしよかったらそれをお送りします。大きくなくて三合せいぜいでしょうが。ビールビンは殆どのぞみなしよ。口のまとめかたその他困難の由。
 家を引ぱって行くこと。規定で、その家が焼失しかけたとか、全く古くなってくずれかかっているとかいうのでないと手がつけられないのだそうです。かんとく官庁(警察の建築課)の首実検がいる由。そうしてみると島田のような事情のところは山手よりに家を買うしかなくなりますね、その家たるや法外な価です。この頃新建ての貸家は水道ガスなしですが、それで八、四半、三位で四十円以上です。大したものです。どうして暮せているかと思うほどです。
 森長さんには土曜日に届けられます、支払うべきお金があるなら知らしてくれるよう申そうと思います。
 動坂の方をまわってかえったときぐるっとあの家の方を歩いたら、やっぱり樹かげをガラス戸にうつして家はありました。そして、大学生(どこかの)がかえって来て、小さい子がおかえんなさいと反対の方へかけ出して行きましたが間借している様子でした。昔のわが家というものをそとから眺めるのは不思議な感じね、すっかり面変りがしていますから。目白もそうよ。

 六月十日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月八日
 六月二日と四日のお手紙をありがとう。細かく、そして私の病気の状況をよく思いやって考えて下さり、本当にありがとう。どんな養生にも技術上の点があってそれに習熟しなければ、やはり十分よく病気を直したと云えないことはわかります。そして、病人が、自分を甘やかしたり医者に甘やかされたりすると、決していい癒りかたをしないことは世上の例ですから、私として、あなたのつけて下さる点が、単純に辛すぎるということはないのよ。一つ一つ異った病気をしているときは、それぞれに一番いい養生法を発見しなければならず、それには、前のときの自分の病人ぶりを研究してそこから学ぶしかないのだし、前とのちがいを見出しもしなければならないのだから、そのための助力として、自分よりももっとひどい病気ととりくんでいる人の忠言は大事です。どうもありがとう。変に意気込むようなことはないから、御安心下さい。たかをくくってもしまいませんし。この眼のダラダラした癒りかたが、万事を語って居ますから。失敗しないということは何もしないということだ、という言葉は鼓舞的ですが、逆は真ならずだから、まさかに、失敗したということは、何かしたことだとは云えないわね。大笑いね。
 二日のお手紙二日おいて五日につき四日のはきのう着いたのですが、すこし御返事がおくれたについては、満更わるくもないニュースがあるの。
 文芸協会から――今の文学報国会――自選作品集を出します、いろんな人が一篇ずつ小説を出して。私は「今朝の雪」というのをのせます。『婦人朝日』に「雪の後」という題でかいたものです。やっと綴じ込みをかりて来て、うつしてもらって相当手を入れ、厚みのついた作品となり、短篇としては満足です。この間の手紙で、ぐみ頭につきいくらか歎息をおきかせしましたけれども、こういう思いがけない仕事で、現在の力でどんな風に仕事出来るかわかったし、小説をかいてゆく心持も柔かく重くなっていて決してわるくないし、うれしいのよ。この間一寸お目にかけたかしら、松屋のザラザラでうすくてペンがつかえないような原稿紙。あれに鉛筆で一行おきに写してもらってそれをなおしたのですが、悪いことばかりはないものなのね、松屋のあのひどい原稿紙だと鉛筆でかけるのよ。一行おきにかくのです。するとそう気もちにひっかからないの、目も楽ですし。それを清書すればいいわけです。
 その上、一度印刷してあるものをなおしてゆくという程度の仕事が大変ふさわしいのね、書き下すほど疲れず、しかも十分仕事としての緊張があり、且つ〆切りもなく又枚数もなおす範囲で自由で至極工合がようございます。もう一つ「杉子」という小説があるのよ、短篇で。『新女苑』に出したもの。これも夏の休みの間に満足ゆく迄手を入れて見ます。
 却って、夜よく眠り、気分もよく食べるものも美味しいの。ぐみ頭の件は、いく分気にいらないところもあるが、決してさしつかえなく、いく分改良して居ります。目白のお医者様に寿江子からきいてもらったら、よく分らないが、あっそれは、とすぐ見当のついた風だったそうです。会って話すということでしたがやたらに忙しくて、まだ見えません。あすこでは女の子が生れました。戸台さんという家には初めて男の子が生れました。女の子の名は晴子だそうです。どっちの赤ちゃんもまだ見ませんが。あすこでは悠吉さんという二番目の、私の名づけ子が秀逸よ。
 これをかいている机に坐って、みどり色の原稿紙に、製図用の五Bでかく様子が御想像になれますか。坐ってものをかくことも馴れないと、よそへ行ってチャブ台で何かするのに困るでしょう? あなたはずっと坐る机で、くたびれると、よく畳へ背中をおのばしになったことね。坐る机だと、休むときああしたくなりますね、私はふとんをのべてあるの、そして背中がつまると、そこに横になります。
 いろいろの道具だてばかり云っている人の間にいると、どんなに其が一つの不便で、不幸でさえあるかと思い、自分はあなたのおっしゃる口真似ではないが、全く、机、ふとん、紙、エン筆さえあれば安心してやってゆける習慣をもちたいと思います。小説というものは、どんなところででもよまれるべきものですから、云わばどんなところででもかかれていいわけなのでしょう。又面白いことに、そういう風に作者の腹と紙とが同一水平でとけなければいい小説も出来ないところもあったりして。
 ぐみ頭のことにふれ、それもわるくないと書きましたけれど、負けおしみではないようです。そして、こんな風に思うの。私はこれから主として小説だけ書き、ほかの作家とまるでどこかちがう小説をかきたいものだと。つまり小説しか書けない頭ではなくてかく小説。それには何かの面白さ、構造、規模があるでしょう、と。なお可笑しいのは、私は詩的な要素をたっぷりもっているが、詩人ではないということなの。だって、段々体が平常に近くなって来たら、御覧のとおり、私は私たち愛唱の詩を散文で話しはじめ、一ころのように眠れない頭にこりかたまった一行一行をおめにかけることはなくなってしまったのですもの。二月下旬「よろこび」と「円き盃」という二つをかいてからは一つもかきません。散文で印象がうつされます。(ここまで書いたら夕飯、そのあとへ久々で目白のお医者が見えました。私のグミ頭や顔がしびれるようなのは、体が或る程度まで癒って来たことによるリアクションの由。生理上の反動は、或る丈夫さがつかなければ生じない由。微妙なものね。実に面白く思いました。だから過労しないようにさえすれば、あれこれの些細な苦情は出たり消えたりする空の雲のとおりで降ったら傘をさそうと思っておく程度でいいらしいのよ。)
 いろいろかきたいことがたまっているから又改めて一つかき、これはこれでおやめにします。「衛生学」は未刊の方が事実のようです。本を買うのは予約になる由です。本屋でカタログを出すのででもありましょう。では又あしたね。久しぶりに湯上りでいい気持。日曜の夜咲、国、子供三人その他二人の一連隊がかえって来て一週間ほどいるそうです。

 六月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月九日
 きょうはむしあつい膏汗あぶらあせのにじむ日です。こういう日になると苦しかった体を思いおこし閉口です。七十八度ほどです。
 ペンさんはかつらの島田をのっけて、かり着の紋付きをきてお嫁さんになるのだそうです。なかなか大変と同情します、当然そういう恰好をするものとぐるりできめている由。まあ一生にいく度もないのだから、それでケンカしてもいられないわけでしょう。旦那さんになる人は、何しろ福島市というようなところの日銀支店づめであったし、通俗的ととのった方らしいから、若手名士で、田舎で名士になったとき、必ずつきもののおきまり宴会で、あながち潔癖というのでもないのでしょう、おかみさんとのことだって大して、不動の選択というのでもなかったらしいから。別の友人に、結婚したものかどうかと、もうきまった筈のとき相談したと云って大分ヒンシュクを受けているらしいようですし。
 女の人の側として、絶対手ばなせないというわけでしたろう。そして、やっと形をつけるところまで漕ぎつけたのですから。私はこの一人の若いうしろだてというもののない勝気な女の人の人生への処しかたを眺め、いろいろと学ぶところがありました。しのぎを削るという言葉は、こういう人の無言のこういう場合にもあるものであると知りました。よくなろうという向上心で、本の話もする人にひかれ、その人と、処世上まとまった体面のある生活をつくるために、その過程に人としてひどい抜目ないこわい位のいやな人になるというのは何という悲惨でしょう。薄弱な男をつかんではなさず良人にしたてる若い女の骨折りはきつくて、全く世俗的な努力でちょっとまともに見かねます。それでもこの女のひとの場合、その男にふられた形になるよりは、成功ということで自分も満足するのでしょう。ですから、大変ね、ということは只家のものが大変ねという位のことではないわけよ。是が非でもスラムから這いのぼろうとするこういう努力の方向は、私に無限の感想をもたらしますから。
『週刊朝日』は、予約出来ることになりました。こちらは安心です。『毎日』の方何とかしたいものです。これは近いうちに何とかしてみます。『独語文化』まだもって来ません(本や)どうしたかしら。
 マホー瓶は、弱りねえ。そういう修繕の方法はどこも対手にしないし、第一湯でビンがすぐわれて(普通のビンは、ガラスが厚く、そして不平均だからの由)全く意味ないというので、目白のお医者さんが地方へ出かけるので、そちらをしらべて見てくれるそうです。そちらでもどうぞよろしく。あれはコップがアルマイトだし、なかなかいいものなのに惜しかったことね。
 きょうは、多賀ちゃんにこの冬あなたの召す着物縫うことをたのんで送りました。毎年、厚い綿入れをつくるのに苦労して来たところ、この節は国民の標準服ということで大人は冬でも袷ということになりましたから、仕立屋がごたく並べる機会がふえたわけです。まるで暖いものを着せたがる私がわるいようであんまりだから、今年は多賀ちゃんがひとのものも縫っているというから、たのむことにいたしました。お着になるのもいい心持でしょう、それは本当にあなたが心持よくと思って縫われたものですものね。うれしいと思います。
 電車が十銭一循環となって四度までのりかえがきき、五銭足してバスと連絡したり定期をつかえたりしたのがなくなったこと御存じでしょうか。この間一寸した買物があって、迎えに来た書生さんつれて肴町まで二停留場か乗ったら二十銭でびっくりしました。すぐ一円はかかりますね。特急その他坐席指定もなくなりました。そして省線のように立つところのついた汽車が走るようになっているそうです。
 森長さんのは木曜日に届けました。手紙つけて。しかし何とも音沙汰なしです。おっしゃった通り、例年のとおりしたのですが、よかったのかしら。物足りないのかしら。いつも手紙よこしたりしていたから何だか調子がかわって感じられますが。いかがなものでしょうね。
 隆治さんの方へ雑誌や本はゆくことがわかりました。
『世界知識』というの、今出ているの? こんど自分で南天堂へでも行っていろいろ注文をまとめ、整理しなくては。そのときよさそうな本もさがしましょう。自分で見なくては何だか全く思うにまかせませんから。どうかもう少しお待ち下さい。木曜と月曜との間は、少し時間があって休まりますから、来週ごろ行って見ましょう。
 夜具、前へお願いいたします。本月の末夏ぶとん届けます、そのとき冬のをもち帰ってもらいますから。夏ぶとんは縫い直してないのだけれど、今年はかんべんしていただきます。カバーはパリッとしたのつけますから、ね。毛布も、もう一枚の方、洗いましょうね。七月八月九月の中頃まで私がいないと、実に不便で、すまないと思います。寿江はもうどこへか行くのだそうですし、せめて一度ぐらい行ってもらえるといいのだけれども。
 不思議なものね、生活をこまかく知って、病気の世話もあれだけしてくれたのだから、生活の必要事が会得されて、事務的にやって貰えそうなのに、全く反対というのは。気分による生きかたというところ、どうしたって抜けないで寧ろ年のせいでかたまって来る、これは殆ど腹立たしいことです。死ぬ生きるという時しか奮起しない。だから私はよく半ば苦笑していうのよ。この家ではひっくり返りでもしない限り、本気にならない、と。何という目標なしに生きることも、多くの人の人生がそうと云えばそうかも知れないが、働かなければ食えないということのない、東京にいなければならないというのでもない、戦争へ行かなければならないというのでもない、ましてや火のない冬の石室住居になんか耐える必要もない、という人々の生活には、何とも云えないチカンがあって、それこそ根本の病源であると感じます。
 私は何とかして仕事しなければならない、体癒さなければならない、出かけねばならない。なければならないことがあるとないとで、人間はおどろくべき差異を生じます。自分を支配して生きるか、自分に使い倒されて生死するか、その違いが生じ、つまるところでは、生活しているか、いないか、というところに立ちいたります。沁々目を瞠ります。そういう生活を今日快適にやるには巨大な財力が入用です。それがない。ですから快適ではない。生活の輪を何とかおさまるところまで縮少して、家の中をコタコタこねまわして気をまぎらすが、時代の大きい力は不安となって漠然いつも周囲にあり、一層気分的になってゆきます。これは消極の廓大です。こういう車輪のまわりかたを一方に見、一方では、所謂積極に廻転さそうとして若いムスメが、何とも云えない眼を光らせるのを見ます。それは互に反撥し合うの。
 私はどっちにも左袒出来ません。人間をつまらなくしてしまうモメントというものは何と毎日に溢れているでしょう。私にそういうモメントがないというのではないのですし。小説でしか書けないわけとお思いになるでしょう? 小説を書こうと思うわけとお考えになるでしょう、こういう歴史の時期に、経済力をドシドシ弱化されつつある中流の生活と、土台堅気な勤労者の気風なく生活を流して来た小市民のレイ細な生活における成り上らんとする欲望の型とはごく典型的です。もの凄じく、しかも深い人生図絵の感興があります。
 目白のお医者様などは子供三人、おばあさん、その他小さい家にパンパンで、坐るところのないような中に、子供をねかしつけつつなかなか根本的な研究労作をやっているようです。そういう生活ぶりの話が出ても、一向感覚ないのだから、私は生活のもたらす愚鈍さというものについてはげしく感じざるを得ないわけです。
 でも私ももうもとのように素朴に我から弾け出てはしまわず、ここにある私にとって健全なもの、子供たちとの接触、何人かの家族がいるということに在る私の感情のふくらみなど、十分評価し、私がいるということで、太郎もほかのひとも、自分たち以外の生活態度も在ることを知るのは、全く意味ないことでもないだろうと思い、落付いて、快活で、かんしゃくと愛嬌とを交々にやって居ります。本当に巣とはよく云ったものですね、ツルゲーネフは貴族にだけつけて小説の題としたが。あれこれお喋りいたしましたね。でも、云わねば腹ふくるる、のよ。犬っころにしたって、時には一つの前肢を手のなかにとって貰いたがるでしょう? マアあれね。

 六月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月十一日 おとといときのうはかなりの気温でしたが、きょうは七十八度ほど。七十度代だとこの位なのね、大分楽です。
 八日づけのお手紙ありがとう。ぐみ頭の訴えをしたので、やっぱり御心配をかけすみませんでした。でもこの手紙とゆきちがいに又の二通がついているでしょうから、そういうちいさい苦情は大したことなく、むしろ疲労しているにしろ体はよくなって抵抗力が出来、リアクションが生じるところまで来ているのだそうですから、御安心下さい。月、木の次の日は、よく用心して休むし、この頃は歩くのもかなりしっかりになって来ましたし、字だっていく分抑揚がついて来たでしょう?
 用事は、今のテンポなら七月初旬までには一片つきそうですし、さもなければどうしても休暇をとります。七月十日以後は出かけることはとりやめにして、もし出来たら田舎の温泉へ行きます。八月九月の中旬までいて、残暑の苦しさがすんでからかえります。私の体も今年のうちにしっかりさせておかないと、来年は今より薬も食物も不自由になることは明らかですから。眼も特別な場合にはこの位のものがこうしてかける(これだけよ、でも、こんなにかけるのは)し、新聞は駄目でも八ポイントぐらいの本は、五号の活字でなくてもたまによめるようになりましたし、そういう能力は、ふだんの四分ぐらい迄戻りました。こんなにして、不自由ながらいつの間にか一年もしてこの頃は楽になったと思うのかもしれないことね。段々、家康ではないが、不自由を常と思えば、のことになって来るのは生活の微妙なところです。必要にひっぱられて何とかやるようになるところ。鉛筆で小説かいたりして全くびっくりします。これもいいことよ。微熱の出るようなこともないし、根本的な心配はございません。
 この前行ったときは、前日外出した翌日だったからほんとうに疲れていたの。翌日に出かけるような心持だから、動悸だってひどかったし、口をしめているのが無理ぐらいで、おそらくはれぼったい顔していましたでしょう。出かける方はやめられないし、今の組み合せでつづける方が、私として前のコンビとは比較にならない好都合です。この人は作家だということを昔から知っている人、新潮の「文芸日記」つけはじめたときから私のかいたものや、写真知っている人は、まさか一定の必要から興味もなく書いたものをひっくりかえしたり、うの目たかの目の人より常識に立ってものごとが判断されるのは自然です。自分の生涯というものについても現在いるところよりは少しひろく遠いところに着眼している人は、一つ一つ目の前のものを自分の跳び台にしようとあくせくすることもないようです。
 同じ風邪をひくにしても、いやないやなひきかたと少ししのぎ易いという場合もあり。私は疲れは附随的なものでどうしたって何かすれば疲れなければならないのだから、疲れるなら、余り悪質でない疲れかたで経過したい考えです。
 誰か行って体の様子その他お話するといいのですがほんとに不便ね、しかし、この頃つづけて書いた手紙は、割合よくそのこともつたえているのではないでしょうか。何時間も自分で話しつづけている必要はなく、比較的あっさり物を云う丈でやって来て居ります、それも疲れをすこし助けます。
 暑くなると、やはり間にそちらに行くのは無理ね。そう感じます。一区切りつけて、旅行に出る前に参ります。それが一番いいでしょう。旅行も行ってみたい半分、気億劫半分よ、正直なところ。何しろぽつんと一人だから。おともの分を負担しにくいから。読みかきが自由でないからなのね、きっと。それにまだ外を散歩するというのも思うにまかせず。開成山は国男さんがすこし迷惑らしいし(今の駐在の人が名うての人で、村でも閉口しているそうで)私もそれでは恐縮ですし。とかく水不足でお湯に入れないのは切ないし。つまるところ上林か、鷹の巣という、頭に特効ありという温泉かどちらかへ行くでしょう。山形県と新潟の境のようなところにある鷹の巣というのは、割合まだ俗化してないらしく、物資は春頃問い合せたときは信州よりましのようでした。上林は鯉があったのに、今それがないのよ。すると全く魚なしです。野菜も豊富でないからそういう点は余りよくないのよ、米も。只こんな丈夫でない人しか思いつかないことがあるのですが、米沢まで直行だと夜寝台とって横になってゆけるのよ。それからのりかえて羽越線で二三時間らしいの。長野までは夜行では半端で、それから電車が二時間余でバスが猛烈なの。(こんなにかいて反りみるに、どうも私は上林は知ったところだからついそちらへ引かれるが、鷹の巣の方がよさそうだと自分を納得させたくて、くどくどやっているらしいわ)春から又一かわりいたしましたから又手紙を出してきいてみましょう、きめるのはその上でのこと。何もそうてんからきめてかからないでもいいけれど、夏でしょう? だから弱るのよとてもこむし。汽車はこの頃、べん当等しろうとには買えないのよ。梅干握飯持参でなくては駄目。従って途中も一人では無理ということなのよ。今年島田は行けますまい。友ちゃんが十月にお産と云えば九月以降から十一月はふさがりますし。来年はもう父上の七回忌に当ります。六月にはよほどのことのない限り上りたいと考えていますから、今年はやめて、却って来年早くから行って御法事すまして六月十日までに帰れば六月十三日の母の十年祭に間に合うことが出来ます。明日は母の九年と英男の十五年祭で神官が来て祭典をいたします。夜は初めて(私も)外で家族だけ食事をします。足かけ三年目の夜の外はどんなでしょう、それはそれは暗いって。銀座なんて初めてですからさぞおどろくでしょう。
 魔法ビン火曜日ごろ届けます。けれども、もう少し待って、山梨からお医者様が帰ってからにしましょう、ましなのがあった方がよいから。森長さんへきくこと承知いたしました。『週刊朝日』もうちゃんと契約出来ましたから御安心下さい。二十日の分お送りいたします。隆治さんのこと考えていても仕方ないから、こんなものや何かでもとにかく送ろうと思います。『婦人朝日』は五月三十日で廃刊です。あの種のものはどんどんなくなります。岩波の文庫はもう殆どありません(出ないの)。
 魔法ビン来年広島でさがしてみましょう。案外あるかも知れないわ。金庫屋が樺太まで行ってものを仕入れるとききましたが、私たちも魔法ビンではなかなか内地を股にかけるわけとなりました。でもマホービンだからまだ面目が立つわ。細君がこっそり指輪買いに秋田辺へ行ったりして問題を起すよりは。きょうは、きのう出かけて(一日ずって)少々へばり日ですからこれでおやめ。週刊は人々の親切でとれました。

 六月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月十五日
 けさはひどい雨ふりでした。いい心地で雨の音をききながら、きょうは火曜日でくたびれ日故、朝七時半ごろおみおつけとパンと玉子を床でたべて又昼迄横になって居りました。
 今は午後二時。むし暑くなりました。書いていると腕が机にはりつきます、湿度九十九パーセントよ。そちらもべたついていやなお気持でしょう。きょうのような日にお風呂の番だと嬉しいことね。
 十三日には思い設けず自動車をよべたのでそれではと、何年ぶりかで青山へお参りしました。先の頃はいつも草むしり婆さんが、あの道この道と毎日まわっていて、広い道から横へ入るところにも砂利がさっぱりして居りました。もうそんなところにかける人手は足りないのね、草ボーボーで田舎の墓道のようでした。お墓そのものはきれいでしたが。いつの間にか何かの木の芽が実生から二三尺になっていて面白うございました。欅みたいな葉だったけれど。ぐるりと墓地下から青山一丁目へぬける新道が出来て、もとは墓地裏の谷間を電車が通っていたところが、カラリとした大きいカーブの一寸絵画風の新開路になりました。
 その通りは一丁目の消防署の側、教会の角へ出る道と通じて居ます。そこを通って銀座へ出ました。これも何年ぶりかの銀座ですが、やっぱりいろいろとおどろきました、オリンピックで、のむものなど二種しかない、アイスクリームなんてどこにもありません。女の子たちの着物の色が染色の関係からどれも泥絵具式に混濁していて、所謂キレイな色ほどひどく濁り、それに布地の節約からおそろいの服をつけている姉妹が大変目につきました。電車へのったら人々の持ちものが元とは大変ちがっていて、大抵の人が形のまとまらない、つまりぶかっこうな風呂敷包みかかえていて、四合ビンをもっている人も大分います。省線の夜野菜のはみでていない風呂敷包はないし、という話をきいたが、これではそうでしょう。ちょいちょいした粉だの菜っぱだのというものの包みは、正直に自分たちを主張していてスマートな形にばけるという術は知りませんから。
 荷物に表現される生活状態というものは生々しいものです。たとえば上野駅を出入りする荷物と東京駅とでは何というちがいだったでしょう。クールスキー停車場に出入りする樺製カバンの形と、ガール・デ・ノールのワードローブ・トランクとは何とちがったでしょう。でも、今日は東京駅も上野も互に近づきました。そして荷物として動く荷物は、世界中似ているかも知れないわ、カーキ色の被いをかけて。大したものであると、つくづく感じました。八時すぎ家へかえりましたが、月の青々とした光りに照らされた安全地帯と、月光で互の顔を見分ける銀座二丁目とをあなたに想像お出来なさいましょうか。安全地帯の端の赤い標識柱のわきに身をよせて若い女のひとがぼんやり立っているうしろからヒョッコリ男が現れると、私は何だかふつうでない――用心する瞬間の気になる、そんな銀座がわかるでしょうか。殆どすべての店は厳重に表戸をおろして居ります、夜店がマバラに、もうしまいかけの時のようにポツリポツリとあって、はだかの電球の光が低く流れています。似顔絵切りぬきが、覆いをかけた灯の下で街角にいて、たかっている人がすこしある。八時すぎ、日曜日、でももう深夜のようでフラフラしている人はない様子でした。出たらきっと驚く、と云われていたけれど、全く強い印象をうけました。銀座の表通りのような都会的消費の町は、こういうときほんとうに早く表情を変えますね。昼間は今でもやっぱりさもしきハイカラーがふらついているのでしょうが、すこしくらくなり、たのしみがなくなると、こそこそとどっかへ消えてしまう。戸塚や動坂や、ああいう、生活している人間がいる人間がある以上店も入用というところの方が、雰囲気が病的でなくて日常的でずっと健全であり人間らしさを保って居ます。銀座で何も実質的買物をする必要のない人々が東京に何十万といます、だから、銀座なんかが真先にがらんとするのは自然のなりゆきです。銀座が寂しくなったということはしばしば聞いたが、そのことで銀座の本質が示されて居ると云った人はありません。生活のしみじみとしたところを見落しがちなものね。
 宗達という装飾画家のこと御存じでしょうか。俵屋宗達と云って寛永年間の人、土佐派の出で光琳、光悦の先輩の由。この人の描いた源氏物語絵巻のエハガキを偶然みて実に気に入り、光琳のように装飾のための装飾、図面の固定化、様式化しすぎた大名菓子のような死んだところがなく、力づよく清新、男らしい構成力があって、つやがあって(大したほめ方でしょう?)本当に近頃うれしいものを知ったと思う画家です。この人は十分の技倆をもった写実家です。それを土台として、伊勢や源氏の絵巻をかいていて、コムポジションの頭のよさ、牛車をひいている牛や人間の重厚さ面白い。その人の絵は何故か余りエハガキなどにされなくて伝記もないようです。造形美術という雑誌に出ていたから、とうちへ泰子の服を縫いに来る絵勉強の女の子がかしてくれました。
 私は今にこの気に入った宗達について、是非何か書きます。書いてみたい画家などのことちっとも知らないが、本ものの芸術の気品というものについて云うなら、写楽をかきます。本ものの芸術の流動性、計画性、写実性、いのちのゆたかさというものについて云えば宗達をかきます。写楽って、ああいうあご長やどんぐりまなこの人顔を描いたが、犯せない気品があって堕落した後期の歌麿の、醍醐の花見の図の絵草紙的薄弱さとは比かくにならず又、偽作はどうしてもその気品を盛りこめないから面白い。あんな生き恥のような晩年の作品をのこした歌麿さえ、仕事をさかんにやった頃はやはり気品が満ちています。遊女を描いてもそこに品性がありました。芸術として。芸術が稀薄になって来るとき生じる下品さは、憫然至極救いがたいものね。才能の僅少さの問題ではありませんから。いつか宗達のエハガキを手に入れて見て頂きとうございます。きっとあなたも賛成して下さいます。歌麿は余り売れて、濫作の結果、井戸を汲みつくしてしまったように消耗涸渇して、あの位晩年下らない作をつくった大天才は絵画史にも例が少い由。文学の世界には例が少くないけれども。歌麿のカマドの前で火ふき竹でふいている女とかまのふたをとろうとしてその火の煙でしかめ顔している女との二人立の絵や、髪結いと結わせている女との絵などは、頽勢期の前のもので、大変見事です。婦女(働くという意味の言葉が入って)十態とかいうものの一部です。こういう女たちは快く描かれています、ふっくりと肉つきもゆたかで現実の愛らしさで、ヒョロヒョロと長くて細くて何ぞというと不必要に下着や脛を出したがっていなくて。あんなデカダンスの時代にもこういう女たちはこんなにすこやかで、庶民的ユーモアをたたえていたと思われます。
 きょうは計らず、雑誌みせてもらい、うれしまぎれに絵のことばかり喋って御免なさい。その雑誌にセザンヌのいい素描や何かもあって、その柔らかさ確実さ。宗達の泳いでいる水鳥の水墨といずれおとらぬ風情です。セザンヌは変りものと云われてひとに体にふれられるのを実にきらったのですって。フランス人は表情的によろこびや何かあらわそうというと、すぐ手をとる、肩をだく、互にだく、接吻する。セザンヌがそういうマンネリズムの表現をきらい、男同士のそういう感情のグニャグニャしたのをきらったというのもよくわかります。表現とジェスチュアとの区別、見さかいを失った鈍感さ、として。崇拝者の一人であるレオ・ラルギエーという人は、そのさわられぎらいのセザンヌが自然にその腕をとったりして歩いた唯一の人物らしく、ラルギエーは、それは自分がごく注意して、自分がセザンヌにさわることをよけていたからだろうと云ってかいています。そしてさわられぎらいを些かシムボライズして、それはセザンヌの一生の芸術家としてのひとからさわられぎらいを示したものではなかろうかと云っています。セザンヌの偉大さというものの稚朴さを考えます(そういう態度の歴史性を。自己というものの守りかたの表現として)セザンヌは若いときゾラと親交があったのよ。ドルフュスのとき、ゾラがロンドンへ行ったりしているときセザンヌは、あいつは相変らず気ちがいだと云って田舎に引こんでいました。ドラクロアが、ロマンチック時代に生きた生きかたとは大ちがいでした。しかしながら彼は彼なりに本ものだったのね。
 隆治さんにクルクル巻の雑誌三四種とりまぜ送り、手紙も出しました。南の方は手紙その他不便らしいのね、ついたらよいと思います、せめて手紙でも。あなたがもう四通ばかりお出しになったとかきもいたしました。あちらからは届きにくいらしいけれど、こちらからのも何しろ書留うけつけずですから。
 いずれにせよ丈夫ならいいわ。民間の勤人も、たよりのないのは生きているしるしということになっている由です。死ねば家へ知らしてくるからというのです。
 鏡を見ると私の右の眉のところに一本立てじわが見えます、眼の工合がよくなくて、いつの間にかつくのね。眉宇の間晴朗ならず、というのは、人相上大していいことではないのよ、精悍の気が漲るというのも「眉宇の間」ですもの。
 折角女にしては眉と眉とがはなれてついていて、すてたものでもないのにたてしぼがついては価が下ってしまうことね。おでこの立しぼの犠牲においてこういう手紙もかくというと、まるであなたのためにだけ書くようですまないことです。

 六月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月十九日
 十四日のお手紙ありがとう。あれは十六日につき八日朝というのも頂いて居ります。私の方からのが五日以内につくとはうれしいことです。先ず用事を。マホービンのこと承知いたしました。どの程度に役立つか甚だ心許ない次第ですが、おっしゃる通りにして届けます。森長さんのところへ電話したら、丁度そちらへ昨日行ったということで、いろいろおわかりになりましたでしょう? 倉庫の鍵がどうやらこうやらしたのだって。笑ってしまった。寿江子もよくこういう智慧を出しますが、普遍性のあるものなのね。そのときの調子で、この前音沙汰なしをどうしたかと思っていたことも、あれでいいと分りましたから、どうぞそのおつもりで。挨拶をなまけただけでした。そう云って詫びて居ました。『文芸春秋』、『文芸』等、やっぱりまだでしょうか。『日本評論』は八日にもうとっていらっしゃるのね、前後して余り時をへだてず、『文芸』だけはすこしおくれ(自分が一寸よみたくて)みんなお送りしたのでしたが。先週、『週刊毎日』は買えなくて『朝日』だけでした。『毎日』はまだ手順がちゃんとしなくて定期的に買えず、駅のスタンドへ人をやるので一寸のことで買いはぐります。『独語文化』は妙です。全く先月末に出ているわけなのに、本やはもって来ない、きっと本やが買いおくれたのでしょう。発行所へじかに云ってやります。そして、そちらへじかにお送りするよういたします。
『日本評論』、『文芸春秋』みんなそうしましょうかと思うが、自分も一目みたく。少しずつおくれるの御辛棒下さい。
 小説のこと、お心づきありがとう。お手紙を頂いて、なお考えたのですが実際上のこととして、やっぱりあなたも承知していて頂かなくてはならないのだろうと思われます。文芸家協会は一昨年だかに、ああいう名にかわり評論家協会も変って言論※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)会というのになりました。婦人作家たちが日本女流作家の会というようなものを作ってガタガタやりはじめたが、それも文報の中の一セクションとなっています。言論※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)会の方は文学の方より種々の働きが内部にあると見えて、評論家協会としては私のところに来ていたいろいろの会員への義務も、すっかりやめてしまいました。文学の方で、それをやらないのはめっけものというべきでしょう。一つの職能組織風になって、(この頃)そのうごきはいろいろ無駄はあるが、そして、文学の本質的なものを発展させるに夥しい錯誤もしていますが、私のようなむつかしい立場のものが、自分としてそんなものにしろ、それからはなれてしまうことは、これから最小限の仕事してゆくためにも不便だと思います。文学として作品を評価して、そこに今日の制約はあるが、落すべき作家でないとして、作品をあつめる中に加えるようなとき、私はやめます、というのは、予想するより困難な影響を生じます。編輯者が、私の作品をのせたくても、そういう集からもオミットになっているのだから、ということが、一つの躊躇の動機になり、のせさせたくない人の口実となります。ひどい作品は書きたくないし、何かの目的のために、人生を歪んだ鏡に映すこともこまるし不可能ですが、自然にかいた作品が今日らしいいろいろなものの中に伍してあつめられ、発表されてゆくということは避け難いでしょうと思われます。
 多くの作家が現地へ行って来ていることは、文学の上に面白い結果を起しています。みんな(下らない文筆屋は論外として)文学への新らしい愛着、文学とビラとのちがい、文学の精神の恒久性などを感じ直している様子です。一層文学のよさ、文学の文学らしさを求めるようになっていて、これには当然心理的なリアクションがあり、それが又彼等の伝統による情緒性へよび戻して或る意味では退嬰にも近づくのですが、精神と心情の誇張ない稠密な美への憧憬がつよく起っています。ひところ、文学の仕事をするものは、彼等の神経質さと、社会的未訓練から亢奮して、心の肌目の荒びた、強引な、ちから声と称する蛮声をあげ(詩人はまだその時期にいるが)ましたが、この頃はいくらか平正心に戻りかかってもいます。それに、一つああいう文学者の集団で、企画的活動をしている人というのが、何というか、つまり、体のマメなわりに頭の刻みめは浅いというのが、いずこも同じ例でしかも、総元じめの場所に制服をつけている人は、文学を方便以上に理解しなかったりして、企画に悲喜劇を生じるのです。しかし作家は、何かの形でそんな波にももまれつつ、しかも自分の船の舵はとりちがえず、帆は決して畳んでしまわず、あれをあげこれをあげしつつ、航海をつづけてゆくのだと思います。千石船が徳川時代にグリーンランド迄漂流しつつ決して壊れてしまわなかったということを面白く思います。千石船はその位の組立てをもっていたのね。昔広津柳浪が、日露戦争前後からちっとも作品をかかなくなってしまった、発表もしなくなったということの動機は何だったでしょう。或るときこの作家の作品が、不当に批評を蒙ったことから、柳浪はひっこみました。私は決して決してひっこみません。重吉(これはその雄々しい船頭の本名です、この男は三河の農夫の子で、大漂流の間、おどろくべき立派な態度で良識を発揮しました)の千石船は黒潮にも赤潮にもくだかれずに漂う力をもっていることを願って居ります。自分が書くようなものでないものを書かなければならなければ仕方がないが、さもない限り、生活のためにも仕事の窓はあけておかなくてはなりますまい。
 この当然な努力が、様々の奇妙な現象にぶつかるというのが、時代性でしょう。いろんな人がいろんな化物に出会って来ました。魔女だと云われて、単に不幸で孤独のためすこし頭の変になった老母が、宗教裁判にかけられそこなったり、地球は動くと云って命をとられそこなったり。人間て何という高貴な、何という愚劣なものでしょう。
 私があんまり緻密な頭でなくて、時々スリップして、便宜主義になるときがあるから、きっといつも危かしい足どりにお見えになるのでしょうとすみません。全くその点は意気揚々としたことは云えないのだけれども、でも私は馬ではなくてよ。足はすべらしても、すべったらそれぎりの馬ではありません。牛の部よ、すべったにしろこの坂をのぼると思えば、膝をついてものぼります、牛はそうやって馬にのぼれないところをのぼり終せる動物です。私はその牛をいとしいと思うの。牛には牡ばかりでなく牝もあって、その牝にだってその健気な天質はあたえられているでしょう、私は荷牛でいいの。立派な牛舎に桃色の乳房をぽってりと垂らしてルーベンスの描いた女のように、つやつやと見事にねそべっていられず、自分のしっぽで、べたくそのすこしついたおしりの蠅を追いながらのたのたといろんな坂や谷を歩いてゆく、そういう牛でいいと思います。そして、そんな道を歩くについては、まことに比類ない牛飼いにはげまされつつ自分の勘で一つ一つの足は前へ進めてもいるのではないでしょうか。
 こういう話はつまり文学なら文学に対する粘りの表現の、あの側この側の話にほかなりません。存在しつづけるということ、仏教はテクニカルになかなかぬけ目なく、仏はいつも菩薩という人間の生活と混交し説明し、示顕してゆく行動者をもっています。文学精神にしろそういうところもあるでしょう。
 一身の儲けのために文学にしがみつく、その外につぶせないからしがみつく、そうとばかりでない執着もあるわけです。
 これからもいろいろの場合、あしからず御承知下さい、と手紙の文句なら書くようなことが屡※(二の字点、1-2-22)あろうと思います。そういう場合、いつもあながち最少抵抗線を辿る心持からだけ出発しているわけでもないということがわかっていただけて、私は一層平静に、従って落付いて考え乍らやってゆけるというわけになり、そのためにすこやかさを喪わないですみ、展望を失わないですみ、重吉の千石船たるを失わない結果になれると信じます。
 私たちの経済のことで、春の終りに長い手紙さしあげたことがありました。あれは全く私に一つの基本的なことを学ばせました。私たちの生活のやりかたについて。あなたが、私の半病人風にせきこんで気を揉んだ処理報告に対して、自然な疑問をはっきり出して下さったので、私はこまかに何年も前のいきさつを思い出し、整理し、そして、自分が、あの頃はあなたの言葉に必要以上おどろいたり怯じたり絶対にうけとったりして、その為に現実のいりくんだ半面だけであなたに対し、あなたと自分とを迷惑させたとよくのみこめました。もう二度とああいうことをくりかえさないようにと思います。お気に入ってもいらなくても在ることは在ることとして、私の考えや、やりかたをあるとおりいつも知っておいて頂くことが何より大切です。ましてこの頃、そしてこれからのような時節には、一見すじの通らないようなあれこれの間をかいくぐり、かいくぐりですから、私はあるとき全く我流の泳ぎかたをして、どの水泳の術にもないバタバタで、渦をのりきりもするでしょうから。クロールでやるものだよと云われ、そうねと云い、しかし手足は妙ちきりんにうごかしてでもやっぱりここへ出たわ、というような可笑しいこともきっとあるでしょう。内在的なものにたよりすぎることは芸術家にとって危険であり発達を阻みますが、自分にそこがどうやったら通りぬけられるという身幅と空間の知覚のかね合いなんかやっぱりかんにもよるのでしょう。
 寿江子へのおはがきありがとう。返事を上げなければ、失礼だわねとよろこんで居りました。石ケンのこと、お送りいたします。
 この頃は単衣を灰水であらっている始末です。大した石ケン不足で配給は日常の用に足りません。もしかして島田の方ですこしは何とかならないでしょうか。おついでの折お母さんにおきき合わせ下さい。あなたの御用が三度に一度あちらからみたされると大いに助かりますから。『独語文化』又きき合わせます。
 岩本のおばさんが、絢子さんのところへ(結婚した)来ているとかで、うちへいらっしゃりたい由です。世田ヶ谷北沢の明石方としてありますが、明石って、大阪の明石という鉄道会社の社長か何かの娘夫婦のところでしょうか。この頃はおもてなしもむずかしいし、私はまだこんなで正直のところ気がおけますが、あのお年での御上京ですから近日中いい日を見つけて一日お出で願い何とかいたしましょう。ペンさんでも手つだって貰って。(うちに人手も不足だから)闇暮しでいるうちに泊ったりしていらっしゃるお年よりを、今の普通の条件でおもてなししなければならないのは全く辛いわね。そのお年よりの気質とものの話しかたを知りぬいているから閉口頓首、千石船もチリチリです。滑稽でしょう? 御亭主の顔にかかわっては一大事と、女房奮戦せざるを得ません。もしかしたら御一緒に山崎の周ちゃんもよんだらどうかしら。こまが合いますまいか。どうせ、うちの連中はこういう人たちでそういうお義理のおつき合いには役に立たないのだから。星出というひと、島田のお母さんの御上か下かでしょう? そこの息子が目黒かどこかの無電学校に来ていて、よく来たいと云って来るのですが、些か敬遠でいるから、そんなのでもこの際一緒にして親戚話を東京に移動させたらいいかもしれませんね。東京ではいいことだけを期待して来るお客様は実につらいものです、お察し下さい。こういうときは沁々一人がいやよ。せっせと働いて、あなたどうぞと、お願い致したいと思います、そしたらどんなに気が楽でしょう。細君というものは、変なところで気が弱くて可笑しいものでしょう? これが即ち細君よ。
 星出さんの息子はハジメというのです。中條を何度直してやっても中将とかいて来るのよ。そういう学校が東京にだけあるのではないでしょうし、やっぱり東京へ出しておくというところに親の情愛があるのかもしれないが、あのゴタゴタの渋谷辺うろついて、と思います。いい身分なのね、でもきっと下宿で、さぞおなかのすくことでしょう。うちは丼に盛りきりの御飯で、来月からはそれも不足で私はペンをやめなければいけないかも知れません。この頃はバターもなかなかありません。段々丈夫になってよく勉強すると、私はおなかのへるたちだから間に合わないと苦笑ものです。
 さて、これからすこし横になり、休み乍ら御接待方法を思案いたします。年とった人が結核になるというのは、やはりあり得る事情ですね。疲労を蓄積させないこと、規律ある生活すること、これが今のような営養不足の時の第一で、休んで補うしかありせん。それにつけても私が今半病人なのは、不幸を幸に転じることかもしれないと思って居ります。丈夫と思えばこんな生活は出来ませんものね、では又。

 六月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(セイロンの仏教徒の写真絵はがき)〕

 十八日のお手紙二十一日頂きました。『文芸春秋』まだつきませんか、先月末に送ったのに。本と別に送ること承知いたしました。『独語文化』は、直接日光書院に申しこみ、五月号と(六月号は売切れ)七月からずっとこちらへ送るよう致しました。三年前から出ているのですってね。封緘は全く苦笑ね、そちらでむつかしいとき、こちらも買えなくてさわいだのでした。もうやめましょうよ?

 六月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(佐伯祐三筆「貧しきカフェー」の絵はがき)〕

 六月二十一日
 栗林さんの受取りを、きょうさがしたのですが、どうもしまい忘れたらしくここぞと思うところになくて悲カンしています。しまい忘れということをやったのね、隆治さんの所書き式に。クマのように、そのときやたらに失くすまいとして、妙なところに入念にしまって、もう次の日ぐらい忘れてしまったのだわ、些か我ながら哀れです。あすこはルーズだから、その時の分と云って果してわかるかどうか気がかりですが、ともかく計らって見ます。

 六月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(石川確治筆「七面鳥」の絵はがき)〕

 今薬をのんで思いつきましたが、そちらまだオリザビトンが間に合って居りましょうか、メタボリンこの頃入手むずかしくそれでもあなたが御入用でもいいようにしてあります、きのう島田からも送って頂きましたし。どうか早いめにお知らせ下さい。きょうのお手紙に交通杜絶とあり全くそれに近いわね、御免なさい。私がやきもきするの、小さな気だとお思いになっていたかもしれないけれど、実際の事情とお分り下さるでしょう?

 六月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 風邪気で床にいるうち、岩本のおば様が孫さんをつれておいでになりました。お年よりはお思い立ちになると、待ったがないのね。もう足かけ三年お会いしないのに、七十歳で全くお元気でしゃっきりして、ちっともふけていらっしゃらないのにびっくりしました。孫さんというのは、昔小さいときオルガンをひいてあなたにほめられたという娘さんよ、十九で、去年明石という応用化学出の人(鹿島高工)と結婚し、その人が応召で十條(王子)の工廠づとめなのですって。幹部候補から少尉になっている由。おばさんも孫さんも満足して暮している様子で何よりでした。十時半頃から来られ、咲枝が国府津へ行くと大騒ぎのなかを、どうやらおひるを仕度してそれでもよくあがりました。三時すこし前おかえり。いろいろ親類の話が出てめずらしい噂伺いました。岩本さんは三田尻とどことかの間の校長になられ、一家そちらに引越したのだそうです。この間の洪水のひどかったところで、壁に三尺も跡がある由。米屋に一時間もかかるところ。しかし飛行場が出来たりして、光とおなじような場所になるのだそうです。岩本さんではあと女学校四年の娘、六年生の娘、四つの男の子という順だそうです。
 周ちゃんのところではお姉さんでしょうか岩本さんという人にお嫁入りした足のわるい方。その方夫婦がこの節は一緒らしいのよ。すすむさんというお兄さんは、徳山の井村さん(銀行の人)の親戚で只一人娘さんだけのこった家へ養子に行ったそうです。お金はあってなさそうじゃとのお話。
 周ちゃんをよぶとか云っていて、その様子ではふさわしくもないでしょうから、おばさまいらしてようございました。
 どこも御案内が出来ないが、孫さんと二人で観て下さるよう歌舞伎の一等二枚奮発して、お土産話の種にいたします。そして、七月初旬おかえりというからそれ迄に田舎へのおみやげをもって行きましょう。東京でみると、あちらの女の人たちはみんな周ちゃんに似て線が太くてかっしりね、多賀ちゃんもそうだったが、それでもほかの人たちの方が健康のせいかもっとかっしりと線太で面白く感じました。北の方の人々は地の柔かい深さを感じさせ、あちらは、石の切り出した厚みを感じさせ、そのちがいも面白く思われます。人の性格かと思ったけれどもっとひろい共通性のあるものなのね。岩本のおばさまったら、私が丁度いい位にやせたと、島田のお母さんに云っておこうとお笑いでした。でも私は、もっと円くなる予定ですし、そうでないと十分の体でないのだから、見合わせて頂きたいと笑いました。おとしよりの方は、私の円いのに心ひそかに恐縮していらっしゃるのがわかって全く可笑しい。わたしが、ハアハア笑って、一向結構という風で円くているから、苦情も仰言れなくて、何とお可哀そうなことでしょう(!)おや、雨が降り出しました。もう五時近いからおつきになったでしょう。下北沢でおりるのですって。
 珍しいお客様でお話がこまごまとしているから私は疲れました。それでもいろんな噂が珍らしくてこの手紙さしあげます。大阪の明石さんでなかったから大助りよ。まともな配給で毎日暮している人でなくては話にもなりませんからね。それでも軍人さんだから世間にないカンヅメが買えるというのでおみやげに鮭のカンヅメ頂きました。この頃一般の人はこんな大きい円切りの鮭カンなど見たこともありません。
 昨夜はヴェルハーレンのかいたルーベンスの伝記、活字が大きいので読んで面白うございました。ルーベンスの偉大さと美しさと無意味さが公平に見られていて、この詩人が一方でレンブラントを書き、優れたレンブラント伝とされているのも興味があります。ルーベンスの浅薄さとよろこびの横溢を理解してその対蹠的芸術家として真の大芸術家としてレンブラントを書いているのです。
 白樺の人たちがレンブラントを紹介し、日本ではゴッホとレンブラントは云わば文学的に崇拝されています。しかし、レンブラントにせよゴッホにせよ、そういう崇拝は、自分たちにないものへの安易な崇敬として評価されているのでしょうか。自分たちの可能の典型として愛し尊敬しているのでしょうか。私はよくこの疑問を感じます。煩悩の少い、テクニカルなことに没頭したり、フランス亜流に彷徨したりしている人々に、どうしてこういう芸術家たちが、体と心をずっぷりと人生の激浪の底につけて、そこから年々のおそるべき鍛練によって我ものとつくり上げて来た芸術の不動な真実をしんから理解出来ましょう。ベルハーレンが、レンブラントの描く人間はいつも窮極においてのっぴきならぬ情熱のどんづまりにおいて描かれている。決定的なものだが、ルーベンスなどはそういう人間のつきつめたもの、その真実、そういう永遠性はちっともないと云っているのは本当ね。ルーベンスの画集は裸体であふれていて、それを切りとったら話の種もなくなるでしょう。ウィーンのリヒテンシュタイン伯の画廊で見た毛皮外套の若い女の裸体は今も目にのこっています。ルーベンスは妻に死なれ、後若い妻を得て、それをかいたのですが、覚えていらっしゃらないかしら。本当にスルスルとそこにみんなぬいで、それ羽織って御覧と云われ、こう? という風にちょいと体にかけて、若々しいよろこびとはにかみと自分を見る人への恥しさを忘れた親しみとを丸い子供っぽいような顔に溢らした女の像。肉づき、豊満な皮膚の色と、どっしりとして実にボリュームのある大毛皮外套が黒い柔かさ動物らしさで美事な調和を示し、ルーベンスの美のよい面を示しています。この頃私は時々絵の本を見ながら私は自分の富貴人たるをよく知らなかったと思うのよ。貧しい理解の程度にしろ少くない名画をほんもので、自分の眼で見て来ているということだけでも、私はもっともっと自分の内部のゆたかさを自覚すべきだと思うの。つまりそれだけの美の印象を十分自分のこやしとするべきだと思うわけです。私は生活的で女らしくナイーヴで、生きぬけて来てしまうように恬淡なところがあって、しかしそれは芸術家としては初歩ね。ペダンティックな教養への反撥が作用してもいるのでしょうね。もうくたびれたからさよなら。

 六月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(安芸厳島神社の写真絵はがき)〕

 六月二十四日。ねまきお送りいたします。もう一枚の単衣の方はさし当り、去秋(九月中旬)お送りしてかえらず、そちらにあるメイセン絣ペナペナだけれども、今ごろジュバンの上へお着になれます、どうぞそれを着ていらして下さい。新しいのをこしらえてお送りしますから。麻のや白を着る前のは、もとから無かったのよ。一枚いい心持のがあったのを、私がいなかったとき(七年も前)消え失せてしまいました。別に手紙をゆっくりね。

 六月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二十五日づけのお手紙ありがとう。二十三日のも頂いて居ります。魔法ビンはよかったこと。不思議なこともあるものなのね。悪いことばかりはないというのは、このことでしょう。古い方は両全会へもって行って届けます。札をつけて。来月自分でゆくときに。
 官報販売所は、例により電話で話が要領を得ませんから、往復ハガキを出しそちらへじかに返事するようとり計らいました。栗林さんは、へこたれますね。あんなに細かに手紙やっておいたのに、ペンが使いに行ったらそのときになって二階をチョイトゴソゴソやって云うには、何しろ古いものだから分りかねる、受とりを見せてくれれば見つけるが、という次第です。速達を出して、私が病気のため受取り仕舞いなくして困却して居るから万々よろしくと折入ってたのんであるのに、いいかげんによんで、面倒くさがって、それでも三百代言的ポイントをつかまえて使を追い返すなんて、ね。
 やっぱり蔵の鍵が見つからないから、のくちね。しかし閉口します、そして、腹が立ち、何一つ役にたたないのにと思ってしまいます。職業上の義務として、そんなこと位わかるようにするだけの骨折りもいとうとは困ったものです。お使いに、森長さんからもお話がありましたが云々と云っていたそうです。どうしても私はあれをさがし出さなくてはならないことになりました。どうぞ暫くおまち下さい。そして、これからは謄写屋から来たらすぐお送りしてしまわなくては駄目ですね。これからは、代金支払ったら受取りをみんな森長さんのところへ届けておきましょう。そしたら、あの人は事務的だから、後から調べるとき有用につかうでしょう。こちらが病気だって留守だって、盆や暮には礼儀をつくしているのに、こんなとき不誠意だと、商売道から云ったって下の部と思うわね。あわれ、あわれ、受取書よ、どこからか出て来い。めをつぶり手をたたき、三遍まわるそのうちに、受取書よ、出て来い。(と行くと幸なのだけれど)
 今頃岩本のおばさまは孫さんと並んで歌舞伎見物でしょう。暑くないから幸でした。多分水曜日ごろ、田舎へのおみやげをもって北沢へ行きます。おくさん、上の娘、下の娘、男の子、父さんだって一寸何かあればうれしいでしょう。この頃はおみやげ本当に苦心よ。女の身のまわりのものは点数ですし。下駄でもあげようと考えて居ります。男の子へはオモチャ。おばあさん御自身にだって東京みやげがほしいでしょう。何しろあのお年で、元気とは云ってももう二度三度出ていらっしゃれるかどうか分らないのですから。歌舞伎の切符はこの頃四円に四円四十銭から税がつきます、一枚ママ円四十銭よ。大したものです。食事を一寸すると、五円が晩の定額だけれど、税で七円位にすぐなります。山崎のおじさまが御上京のときはもっとお弱りだったし暑かったし、私は林町へ引越しさわぎのときで、若林の周ちゃんのところへトリをたっぷりもって行って皆でたべ、大変それでもよろこんで下すって、それぎりお目にかかれなくても、マア思いのこすところありませんでした。出来るときに出来るだけのことをしておくという私たちの生活法は、いいところがあります。こちらの事情はこちらの事情として、一生に何度という気持で遙々来ている、まして年よりの人の心持は、それとしてやはり満足させてあげた方がいい心持ですものね。骨を折れば其だけ島田のお母さんにしろお気持いいでしょうと張り合いです。島田へは、豆をおねだりしようと思います。御飯にまぜて炊くものがなくなって大弱りです。来年の六月にはよほどのことがない限り、行くつもりです。五月頃からね。六月は十三日がこちらの母の十年祭ですから、あとはゆっくり出来ないわけです。
 レントゲンはとりましょう、でも秋にね。村山へでもゆくのだけれど、暑いうちは面倒ですから。この頃のようにすこし疲れれば床にいる術を覚えたからきっとこれから体のもちは上手になるでしょう。寿江子は眼も悪くなって来ていて、近く池袋の近藤という眼科の人のところへ二人で行きます。あの人は遠視ですが、糖尿からの白内障でなければ幸ですが。そうだとことね。手術の出来る迄視力を失って行かねばならないし、糖尿末期に起ることで、白秋にしろ視力を失ってからじき肺エソになりました。神経疲労位であったら大助かりです。池袋へは来週のうちに参ります。母も眼の障害と内臓の病気は全く併行的でした。
 この間のハガキのお礼呉々ことづかって居ります。
 小説のこと。ありがとう。あなたは余りはっきりして何とも二の句のつげない比喩でものをおっしゃるから、私もあっさり兜をぬがざるを得ません。私のような粗忽なものでも、行先違いの便船にのっても一向進んだことにはならない道理だと云われて、イヤそうでもないかもしれない。うまく漂流するかもしれなくてよ、とは申しかねます。箇人的なあせりはないのよ。その点は御安心下さい。そういう焦慮が何ものをももたらさないことは狭い見聞でもよくわかり、まして金銭的展開などは大局からみて考えられもしません。私は自分の病気を大切に思い、今のようなとき自分がこんなに死にかかりやっと生き、命を蓄えて生きて行くということに、決して徒らならぬ天の指図があり、天は私の文学をいたわってくれると思って居ります。その位深く感じているのよ。東洋人風に、という位。
 ですから私があれこれ考えるのは全く文学の方法としてのことです。芥川龍之介は佐藤春夫のことを、生き恥をかく男と云って当時酷評とされていました。でもそれは一つの炯眼でしたね。私は昔から所謂文壇ぎらいで、そういう常套の雰囲気なしで生きて来ているし、いい友達はこういう折に益※(二の字点、1-2-22)いい友達として誠意を示してくれるし、それだけの面から云っても孤独の感じはありません。それは圧迫となりません。そんなものは私に遠いわ。そうなわけでしょう? どうしてわたしが孤独でしょう! その人の人生にすじさえ通っていれば過去にも未来にも、知己は、各※(二の字点、1-2-22)の卓抜な精励の業蹟の中から相通じる人間精神の美しい呼吸を通わせます。孤独になるのは、その者が、迷子になったときだけよ。日常生活の中においてさえそうです。宇宙の法則から脱れてほしいままに自分にまけたとき、孤独は初まるのでしょう。孤独について、私がこうかくには、私として浅くない感銘をうけていることが最近あるからなの。あなたも御存じの背の高い人の初めの細君は、自分のぐざりとした気分から良人の生活とはなれ、自分にふさわしいと思った安易の道を辿りました。ところが、その道はひどい下り坂で、しかもバイブルの云うように、美しく幅ひろくもなかったの。こけつまろびつ、体をわるくして、あとから婚約した人とも破れ、今中野の療養所にいます。咽喉を犯されたって。小説をかいてよんでくれと云います。よむと、自分を哀れな孤独なものとして美化して描き、終始その孤独を甘やかし、何故に一人の人間が孤独に陥ったかということについて自身を考えて見ません。決してその点をえぐらないの。ですから小説の人間成長の点で堂々めぐりで、云ってやっても感じないの。ぐざりとして腰をねじくったポーズを今に到っても立て直せず、恐らくこの人は気の毒ながら、女の一生とか孤独とか人の情のうすさとか私の気むずかしさとかそんな思いに一生を閉じるでしょう。病人だと思って私は小説はよむことにしています。けれどもいやなの。哀れで腹立たしいの。どうして自分の初めの一歩のれが一生を誤らしたと真面目に思わないのかと。
 昔の良人の兄弟とその妻たちは類例の少い人たちで、本当の同胞思いです。長兄の奥さんは私の身を思いやって見舞まで心配されました。そういう人たちの篤い心からはなれたのは、その女の人の自身の責任ではないでしょうか。
 こんなこともあるし、又昔印刷工だった小説家が、郊外にひっこんで、瓦一枚ずつ書いてためたという家を建てたとき、周囲はそれを軽蔑しました。けれどもこの作家は自分の弱点を生活者らしさで知っていて、伏せの構えをはじめからやって、現在も肱でずるように「日本の活版」というような小説を書いています。印刷技術の発達史のようなものらしい。その時分軽蔑した人が、現在になって二百円の着物だタンスだ家だと、その人が引越したよりもっと田舎にさわいでいるという姿を思い合わせ、私としてはやはり感じるところがあります。人々の姿は、実にくっきりと浮き彫りにされる時期があるものね。そうやって、私はこうやって坐っているぐるりにすぎないが、いろいろ眺めて、学ぶところも少くなく、大切な時期の私心から出発して一歩が、どんな結果を招くかということについても軽く考えては居りません。そういう判断に当って一箇の才分とか自分の見せ場だとか対立の感情(まけた、勝った、世俗的な)だとかが、どんなに邪悪な作用をもつかも知っています。どうぞ心配なさらないで下さい。本当に私はそういう細々としたことからは自由なのですから。もうすこし文学者として欲ばりよ。妻としてこの位欲ばりなのだから作家としてよくばりだって当然というわけでしょう。仮に欲がはりきれなかったとしたら、其は私の自身への敗亡です。それに、そういうことは技術(生活の)の熟練不熟練ということにもかかっていてね、やりくり上手、或は質素の習慣、又生きるための働きに対して勇気をもっているかどうか、ということにも大いにかかわります。多くの人は、生活のための働きの必要というときすぐ手もちの仕事を下落させてそれで食おうとするが、それは間違いですね、特に芸術にあっては。レンズみがきをした哲学者なんかやっぱり歴史的人物たるにふさわしい生活力をもっていると思います、ひどい小説をかいてくうより、別の職業でくって、小説は文学として通るものだけかいている方がいいのです、そういう自分の評価のしかたには勇気がいります。だからもつれ合ったまま奈落の底へ、ということになるのね。「娘インディラへの手紙」は、歴史として面白いばかりでなく、人間は誰でも境遇というものから脱すことは出来ず、その改善のために腐心するのですが、そればかりで人生の意味はつきていないということを考えさせる点で深い意味をもっていると思いました。よく境遇にうち克って云々というとき、何か常識ではその悪条件を廃除しきったようにうけとるけれど、現実にはそうではないのね。決してそんな生やさしいものではなく、雄々しい狼のように一つの足にはワナを引きずっても行こうとした地点へ行ったということなのね。シートンの「動物記」にロボーというメキシコの荒野の狼王の観察があります。すごく智慧が発達していて、どんな毒薬もワナもロボーをとらえません。が、シートンが見ると、いつもロボーの大きい足跡よりちょいと前へ出ている小チャナ足あとがあって、それが妻のブランカだとわかるの。白をブランカというのね、純白の非常に美しい牝で、牡狼ならロボーが命令を守らないとかみころすのに、ブランカには寛大です。
 シートンは、そのブランカを先ずひっかけました。ロボーの慟哭の声が夜の野にひびきわたります。ロボーはブランカを可愛がっていたのよ。シートンの動物の知慧も私から見れば憎らしい。ブランカの体をひきずってワナに匂いをつけます。ロボーは泣きながらブランカの匂いをさがして来て終にそのワナにかかります。シートンはさすがに首を〆めてしまえないで、そのままワナからはずして縛っておいたところ、自分の君臨していた荒野を見守ったままロボーは人間を見向きもせず、王らしい終りをとげます。シートンはロボーの顔をスケッチして、その日にデューラーの版画みたいに王冠をのせ、RoBo 何とかラテン語書いていますが、このシートンという男はアメリカ人らしい生活ぶりで、或地方の賞金つきの野獣狩りなんかにも出るのね、ロボーには一千ポンドの賞金がついていたのですって。
 私はシートンの話はいつも面白いが、こいつはきらいで悲しいわ。ロボーのために悲しみます。そして一層ブランカのために身につまされます。こんな賢い野獣でさえ、その智慧の最上の点で牡に及ばないという自然のしわざを悲しみます。ブランカは好奇心がつよくてロボーが止れと命じて一群が皆止ってもチョコチョコロボーの先へ出たり横へ走ったりして悲劇を招くのよ。ブランカのひっかかったのはロボーがちゃんと警告する本道の上のワナではなくて、わきの草むらに何気なくころがされていた牛の頭の一つです。最もひどいワナがそこにあったのよ、ブランカはロボーが全群に止れと云って自身では一つ一つとワナを神のような技でアバイテいるとき、ひょいと好奇心をうごかして牛の頭をいじくりに行ってひっかかったのです。興味津々たる話でしょう。ユリがこの話を非常によく心に刻まれているわけもそこのモラルもお察し下さい。詩の話は別便で。雨になって来たことね。

 六月二十八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(紀伊田辺の風景の写真絵はがき)〕

 こんなエハガキ。いつか戸台さんという人がくれたものらしいと思います、紀州よ。きょうは(二十七日)うちのものは殆ど皆左腕が重いのよ。きのうチブスの予防注射いたしました。私は三回に分けてして貰います。三年ほど前そうして熱を出さずにすみましたから。隆ちゃんは赤痢をやったらしいのね、アミーバは年々おこるから心配ね。

 六月二十八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土畑鉱山倶楽部の写真絵はがき)〕

 このエハガキは光子さんという絵かきさんがもう六年ばかり前くれたものです。アメリカでどうして暮しているでしょうね、腰を据えた雨の音がして居ります。明日も降りでしょう。私は傘をさして出かけます。シートンの「動物記」をなぐさみによみます。スパルタの母のような女狐の話。黒い火のようなニューメキシコの野生鳥の話。なかなか面白く、人間の伝記のような波瀾と智慧くらべとに充ちています。あつい時読んでごらんになったらどうでしょうね。

 六月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(徳山小学校の写真絵はがき)〕

 これも古いハガキね、岩本の御主人はこの小学校から転任していらしたのでしょうか。あの徳山の黒塀の家へ、あなたが小さいときいらしたの? あの家には今誰か新任地の方の人が交換で住んでいる由です。私は盲腸がまだくっついていて、歩くとそれが痛く膏汗を出しながら徳山のお花見につれて頂きあの家へもよりました。座敷のぐるりに廊下があったわね。細い石じきの入口でしたね、私はあすこは余りいらしたことないのかと思って居りました。

 七月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(紀伊田辺・奇峡巖の写真絵はがき)〕

 七月二日。六月二十八日づけのお手紙ありがとう。あれへの御返事やその他書くのですが、きょうは大グロッキーで一寸一筆。三十日の夕刻、岩本のおばさまを北沢にお訪ねし、初めての遠出でクタクタになって帰ったら国男の入院さわぎで夜中バタバタやり、きのうは木曜日だったので根をつからせ、きょうは永い手紙がかけないの。国男は腸です、流行性の。血液を出したのですが、いいあんばいに大したことなく他にひろがりもしない様です。消毒は完全。こわいわね。

 七月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ルノアール筆「カーニュのテラース」の絵はがき)〕

 ルノアールは水っぽい絵かきだけれども、この間見た村の水浴場の写真はおやと思うようなものでした。これはやっぱり例の赤っぽいものらしいことね。シャボンのこと、あなたの衣料切符はここへ寄留して取りました。が、シャボンは誰にも一人一ヶではないのよ、たまに九人に四つずつ浴用、洗濯が来るだけです。そこに居住していなくてはダめなのよ。これには閉口いたします。どこでもひどいやりくりで私はこの頃顔は洗粉一点張です。

 七月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月四日(日曜日)
 けさ二日づけのお手紙ありがとう。この間うちいろいろの用事がたまってしまって。先ず用事から。シャボンのことはハガキで申しあげた通り。衣料切符その他のことの必要から私たちはここへ寄留いたしました。シャボンその他日用品は不在だから配給なしなのよ。
 白の浴衣のことわかりました。ねまきお送りします、とハガキかいて包みかけたら何となく洗濯がさっぱりしていなくて心持よくなかったので洗っていておそくなりました。それから白地のふだん着は大分汗やけがしていてすみませんが、今年はこれで御辛棒下さい。来年はちゃんと縫い直しますから。それでも本当の木綿モメンがいいと思ってこれにしました。この雨があがったら送り出そうと思っているのですが、今になってよく降ることね、本梅雨ね。
 栗林さんのこと、わかりましたろうか? 閉口ね。私は悄気ているのよ。それから日光書院も、これ又とんちんかんね。ところが、ここ迄書いて、円い焼物の状差しをさがして受領書見たところ、トンチンカンはペンさんもあずかっていて、これには麗々しく月刊講座とあります。ダダと下へおりて行ってズーズーと日光書院呼び出したが、音沙汰なし。日曜というより電話こわれているらしいの。又あやまらなくてはならないのは何と辛いでしょう。だからペンさんはもうおやめでよかったのよ。心此処に在らず、でしたから。早速『文化』が行くようにいたします。
 療養新道は、医学書の部分をみんな見ましたが、こちらにはありません。売りもしなかったと思います、体についての本はもうみんなとっておくことにしましたから。さがしましょうか? もう一冊。御返事下さい。発行所はどこだったかしら。七月から本を買うのは大したことになってね、本やは現物を並べないのよ、カタログです、それで注文して買うの。例により日限とかいろいろあって、まるで風変りなことです。日本にはいくつも世界に類例のないものがありますが、こんなのもその一つね。食うものはなくても本はドシドシ出ていたところもあるわ。紙の関係でしょうが。
 さて、一寸ハガキで書いた、バタバタのことお話しいたしましょう。火曜日に(二十九日)私は始めて一人で出て肴町へゆき、岩本のおばさまへのおみやげ買いました。お孫さんには結婚のお祝いをかねて、コンパクト、母さんにも。女の子二人にブローチと花、おばさま御自身には紐とよそゆきの袖口。男の子には水遊び道具と切符遊び。そんなものを買ってくたびれてかえりました。国男さんはもう四日ほど床についていて、床の上から買ったものみて、たのしみだったと云っていました。鮮やかな出血だったので、痔だと思っていたのね。お医者も。この日はよかったのです。気分もわるくないのだったし。
 三十日水曜日は疲れていたけれどほかに日はないしペンさんつれて、先ず上野松坂やへゆき、岩本御主人のネクタイを買い、初めて省線、小田急にのって北沢へゆき、一時間ほどいて、六時すぎかえって来ました。
 そしたら入院するというさわぎです、駒込へ。あすこはカンづめになり何週間の規定の時日はかえれないのよ。咲それでは困るというし、さわぎがひどくなって困るし、決定したわけではないというのであすこの外科の宮川彪という先生にきいたら、今夜ぐらいは内科病室へうけとってやるというので、自動車迎えのこととり消せるかどうかと、来合わせたタダシさんと一緒に駒込まで行ったらもう移牒してあるとのこと。咲枝はおろおろするたちなのよ。何だか一向準備がちゃんと出来ないであっちこっちしているうちに九時半ごろ自動車が来て入院しました。いい工合に一人の室があった由。そして、もうパンたべているのですって。大笑いしているの。きっと、あの天井の低い自動車にスーと入れられるとき峠越してしまったのだろうって。それでも翌日は家じゅう大消毒。まだプンプンです。この間うち、マグロが珍しく入荷して、それでああいう病人が続出しました。珍しいから刺身と云うことになり、それでやられるのね。あのひとは事務所へ出ると昼はどうしてもそとだからそれでやられたのでしょう、あとは皆健在。しかし検査はあるでしょう、それも規定だから。お医者が几帳面な人だからキマリどおりにするのです。その方が子供たちのために安全ですけれど、困ることも困ります。少くとも二週間カンヅメですから。
 全く疲れてかえったらその騒ぎで亢奮して又駒込まで私としての全速力でかけつけたりしたから、ひどくつかれてね、きょう、やっとこんな手紙もかけます。もう大丈夫近くなりました。きのうも一日床をしいてふらふらしていて、昨夜からけさにかけ十二時間ほど眠りましたから。疲れてねむくて眠れればいいのよ、もう。疲れすぎると不安定で一時間二時間おいてはちょくちょく目をさますから駄目ですが。病気前は、こんな細かい違いなんか無頓着だったのにね。
 シートンの面白い部は、咲がよみたがって今入院です。すこしお待ち下さい。わが哀れなブランカは是非よんで頂きたいわ。チェホフはうちのロシャートカと細君をよんでいますが、馬さんはあんまり一般的すぎます。ブランカには悲しいところがあるが、実感がありますね。少くとも私は、ほら、ブランカと云われると、すりよりながら身をひきしめて自分の生れながらの不束ふつつかさをきまりわるく思いながら、やはり傍からどけない(くことは出来ない)というような思いになります。大変精神的であり又生々と動物的でもある思いです。
 小説のことは本当にありがとう。私としては自分個人としての焦慮というよりも、対処の方法で縺れさせたのであったと思います。
 その点が自分にとってもはっきりして、根本的にどうやって行くのが一番よいかと方針がわかると、あとの処理はすべて比較的簡単になり、落付いた気分にもなり、うれしいと思います。普通の勤め人とちがうというのは全くです。大事な人を一生自分にとって大切な人としとおすには、やはり意志がいるように、大切な自分の仕事を自分にとって一生大切なものとしとおすには、やはりかくれた勇気もいるものです。おっしゃるとおり波瀾万丈ですから、それを面白いとうける力は、その波をおこしている勢についての正しい理解以外にはないわけです。魔力の無限の跳梁と思えば身の毛もよだちますが、少くとも天候というものを知ってその科学を学んでいれば、ホホウというところもあり、おのずからの笑いもあるわけね。相当荒れるわいというところもあったり。面白さというのはそこのところね。
 栄さんは、きのう午前の大雨のなかを、農業試験場の田植に行きました。文学団体の農民文学委員会の主唱の由。新聞に出ています。
 いろいろ眺めていると、仕事の忙しさよりも、仕事をしてゆけるようにしておく為の忙しさというようなものが非常ですね。これ迄、作家たちの大部分は恣意的に暮してごたく並べていたから、大洗濯うけるのも結構でしょうが、それでもやはりすこし教養のある人たちの使われかたと、体だけでの使われかたとあって、大変です。栄さんは御主人が二百円ほど月給があるから、先の暮しでしたらやってゆけるのでしょうが、何しろ新築した家のため、月百円以上償還してゆかなければならないそうで、これは現在大した負担でしょうと察します。悲喜劇です。同じ儲けるにしろI・Tのように出版インフレの先駆けをやって良心なんかてんでもち合わさない儲けかたをして、安気に理想たる芝生のある家を建て終せて、この頃はお髭のちり払い専門になっているというような型もあり。儲けられない筈のところまで波が打って来る時は、もう中心では別の動きがきざしているというのが現実であり、大正九年の大暴落にしろそうですものね。私が家を建てないと云うと云って吉屋信子が笑ったそうだが、私なんかには少くとも経済上のそういう持続性は信じられなかったのですし、それが本来でした。
 ところでこの間送った原稿ね、あれをうまく戻すのはむずかしいらしくて困ります。もう詮衡ずみで、角だつらしくて。もうすこし考えて(方法を)何とかなればよし、さもなかったら今回だけかんべんして下さい。お願いいたします。円地という女の作家が委員の中にいるから、もう少し工夫してみます。本当に、ひょいと考えの二本の筋をこんぐらかして、おしいことをしました。
 生活の方法について、御考え下すって有難う。島田の御親切は私も単純にうけてありがたく思います。しかしそれ迄に私としては、東京に生れ、そしてここに育った者としてとれる自然な方法が少しは在るでしょうと考えて居ます。家族としても、ね。いろんな面がきりつまれば、食うために生きているのでない以上、自分たちの精神生活の評価が行われにくい環境で勉強をつづけてゆくことは苦痛となるでしょう。女がものを書く、それで生活している、それなら分るようなものだけれど、それで食えもしなくて、働きもしない(やはり机に向っている)ということは、普通の生活の中ではなかなか感情がすらりと来ないものなのよ。ですから、女のものをかくということには大したむずかしさ、生活の感覚からしめつけて来るむずかしさがあって、食えるだけに書けないと女はすぐそんな位なら洗濯一つもした方が、子守りして台所した方がうちのために役に立つということになるのです。女の生活というものは百人が百人そこで立っているのだから。
 ですから、個人個人の親切心や思いやりやをありがたく思ってもそれよりつよい習俗の力が時間を重ねるにつれ、日常生活の上には重い力を振うようになるのが常です。その実例は、多くの生活波瀾を経た婦人たちが、安穏に食えそうな故郷をみなはなれて、東京で埃っぽい生活ながら自分の生活を営んでゆくことをとっているのでもわかります。私は幸東京に生れた家があるのだから、その点はより便宜に円滑に処して行かれるでしょうと考えます。其故どうかその点御安心下さい。自分で本が買えないときにはいい本を買う友達のいるところというのも大した価値があるのだし、勉強によっては図書館も大切だし。私は大体これ迄島田にいる間は限られた時なのですから、仕事は殆どしないで暮したし、勉強らしいこともしなかったし、ですから私の本当の暮しぶりはどなたも御存じなく、調和的な面白いきさくなもの知りなユリ子はんに過ぎないのよ。そして、ちょいと強情らしい、ね、私が困ったらとお思い下さるとき、すぐ島田と結びつくのは本当に自然だと思いますけれど、私にすると、女としての自分をよく知っているから、環境的に或は習俗的に息苦しく恐怖するのです。妙なものね、でもこれは本能的につよいものであり、女に附随した一つの保護的警戒力みたいなもので、そのことにも生活習俗や文化の分裂が反映されているわけです、つまり婦人委員会というものが必要だった所以ね。それに、私はよく思ってほほ笑まれて来るのだけれど、あなたは御自分の心のスケールであちらをお考えになりやすいのね、私を包括していて下さるスケールと深さが大変ゆったりと大きいから、私はブランカで、全くかさばらないものなのだけれど、普通の心や精神の可能の面に立つと、女の私は嵩だかなのよ。私としては望ましくない位。大抵のところは根太がぬけるのよ。安心して自分の重みをかけると。ですから私としては底をぬかない用心を自分でやって、副木を添えて一歩一歩と自分の歩ける場所をひろげてゆくわけで、そういう工兵的生活法のためには副木として役立ついろいろなもの、私の役立ついろいろな必要が多いところほど暮しやすいということになります。この一ヵ年近くの間に私はここでもかなりそういう工事に成功して、これからの条件に備え得たと思います。骨もおしまず、必要を洞察し、経済的なことでも私は出来るときは出来るだけのことをする、やぶさかでない利己的でない人間としてはっきり理解させ、或意味では恐縮に思って貰う位で、はじめてその人柄というものの力で通してゆけるようになるのが平凡なぐるりでの順序です。うちへのことも、国は寿江子のことでよく云うから、不平があるときっとそのことにふれるから、私は特別バターや牛乳やパンやらを心配して貰ってもいたし、それを考えてしていたのですが、この頃はみんな配給がなくなったからその費用はないのですし、そうすれば当然額も減っていいのだし、そういう風に変ってゆきます。それに太郎の生活にとって私が陰に陽に大切なあっこおばちゃんであり、二人が温泉へゆく、国府津へゆく、さて又病院へゆく、そういう間、学校の勉強をみてやり、淋しいとき本をよんでやり、朝六時に一緒に起きてやる人は、私以外にありません。太郎と私との間には独特な先輩後輩の気分があって、私にとっても、これは大きい慰めであり、人間をしつける希望と責任でありたのしみです、最近大変面白いことがあって、太郎と私とは一層親密なものとなりました。その話是非したいのよ、私は実に心をうたれたのですから。そういうような細々したことの堆積で――それらは、洗ったりかしいだり縫ったりよりは種類のちがう人間の面で、しかも私に与えられたプラスのものの力による独特のことですが――私はここの家族の間に追々一つの人間的影響をもち、それを通じて私たちの生活全体をひっくるめてうけ入れられる心持がつくられて来ていると思います。永い見とおしに立って努力するところもあります。私としては、こういう性格ですからやはり自分の人間価値に立って自信をもっていろいろの境遇に生きたいのよ、単に肉親的関係という、たよりのあるような片身ママのせまいようなものにだけたよらないで。
 まあざっとこんな工合です。太郎との物語は別に書きます。別に書かなくてはならない話や物語はまだどっさりあるわけです、第一に詩物語があります。泉の物語もあります。心持のよい、血液循環が快く速くなって、優さで心が和らげられ、生きているよろこびが無垢に面をうつようなそんな詩物語を見つけ出したいものですね。人間に歌があり、それはシューマンのようにも複雑となり精神にしみ透るものとなるというのは何と素晴らしい人間らしさでしょう、だって獣は実に微妙なニュアンスをもって生の様々の様相をつたえます、人間より直観的に。しかしそれは歌にはならないわ。人間は深く、つよく、生きる美しさを、美しさとして永遠化す力をもっているのですものね、人間が万物の霊長だというなら、それは芸術と科学をもち得ているからだと思います。

 七月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月六日
 日光書院のこと先方の間違いと判明。『独語文化』五月からお送りするようにしました。
 私の方の用事は、大過去から過去となりやっと現在体となりました。多分これから本についての物語となるのでしょう。例年になく涼しいので大助りして居ります、作物は心配だけれども。これは大助りというにはいろいろ理由があって、そのすこしは幅も心の平静もあるひとが高文にパスしました。私のような人間におそらく分らないほど意味あることらしくて、やがて窓口は変りもうこちゃこちゃしたところへは出て来ないようなことになるらしい風です。偶然つぎ目のようなところで私は息のつける応答をしているわけになり、終りまではこれで通したいと思います。ジリジリあつければやはり続けかねるから涼しくて仕合わせというわけなのです。こういう程度のひとは一ヵ年一つところにいるかいないかですものね。窓口の大さにふさわしい精神の窓口しか幅もひろがりも理解力も小さい頭が又そのあとに坐るのでしょう。見ていると、人間の生活というものは其々の場所で、すこしおやと思うものは、きっと何かそれだけの変化を示すから妙です。
 国男はドンドンよくてスープをのみ、おかゆをたべして居ります。家中無事。私はきのうすこし骨を折り(月)きょうはおこもりです二階へ。
 太郎との話。これは私にとって大変興味があります。
 ここへ暮すようになった当坐、太郎は馴れずお客のように思っていたのよ。それから病気して、病人は子供が気味わるいらしく敬遠していました。それからすこし治り、一緒の御飯たべるようになり、Tが全く無規律な生活の感情の中で育っているのを見て、私はひどく不安になりました。好きなこと云ってごねるのよ。咲はああいう性格ですから愛情一本で世の中へ男として出た場合という大局は考えにくいのね。目の前なの。それで国も自分を支配する能力はちっとも発育させず成長して、やっと四十越して世間に出てすこしずつ耐忍も出て来た有様です。自分の心を自分で持てない人間を私は一番おそれます、男も、女も。一番箸にも棒にもかからないものです。
 そこで暫く私はなかなか厳格なおばちゃんとなったの。国男がくってかかるのよ。可笑しいものね。
 それの後にも最もいい段階が来ました。その誘因はあなたにあるのよ、それでこの話もいくらかあなたにも面白いだろうと思うのですけれど。二月末頃でしたか、私たちの経済のやりくりのことについて長い手紙かいたでしょう? あのとき私は強く強く感じたことが一つありました。それはあなたのお手紙に、一つも御自分の便利とか好都合のためとかで物事を判断したり評価したりしているところがなく、全くものごとの正当さと私という人間の正常な成長のためだけにものを云っていて下さるということ。それはあのとき私を深く、新しく動かしたと同時に、何か根源的に一層私はあなたがわかり自分たちというものがわかり、自分が分ったのです。まじり気のない人間関係というものが沁々とわかり、これまで分っていたことは、まだ皮相であったと考えるようになりました。そして私の心には、つきないよろこびと、理性に立つ従順といよいよ大きく深い信頼とがもたらされました。私たちの実質はこうして一段と純化され、そのものらしさに近づいたのでした。
 いろいろこの味いつきぬいきさつを考えてね、私は自分があっこおばちゃんとして、太郎にどんな信頼を与えているだろうかと反省したのです。あの時分から私は人間関係の窮局の土台は最も強固なものは、よろこばしいものは信頼であるということを痛感していたので。
 子供は謂わば道徳以前で、生物的な意味で自分本位ですから、只禁止の表現で何か云われても積極なよろこびで理解出来ないのね。それで安直に大人は甘やかしてしまって敗北の旗をあげるのでしょう。私はそのことに心づき、太郎が私にものをたのみ、私がはっきりそれを約束した以上は決して変更しないという規律を自分につけました。そのうちに、お産の留守があり、温泉ゆきの留守、国府津の留守とつづき、私が毎朝太郎と共に起きてやり食事の世話をしてやり、私は太郎を全く十歳の男の子として扱いました。ふさわしい人格を立ててやって。
 段々私たちのうちには先輩と後輩の関係が出来て、それが一番自然でいい絆となりました。自動車の機械について訊くのは父親です。本のこと、星のこと、その他種々雑多なことをきくのは私です。いつの間にか私が本をかくお仕事ということも知って来ているのよ、何冊書いた? ときたりしていました。ボーっとあなたのことも知っているわ、宮本のおじちゃんとして。あっこおばちゃんの旦那様として。
 ところがね、ついこの間こういうことがあったの。
 問題は太郎がひっぱり出して来た一枚のゴザです。今ゴザや畳表は売っていず、家の畳はところどころ大ぼろで、女中さんの室はやっと私が見つけてやったゴザで藁をかくしている始末です。ゴザを泥にしいて遊んでわるく役に立てなくしてはいけないと云ったら何かの気分でビービーと泣きはじめました。そしたら咲が、あっこおばちゃんは何にも御存じなかったんだから、と息子に云いわけをしている。太郎は一層ビービー泣いて、あっこおばちゃんは怒りんぼだからいやだ、怒るからいやだ、とわめいている。母さん一言もなしなのよ。二階で私はきいていて、本当に怒りを感じました。そこで瀧の落ちるような勢でおりて行って、安楽椅子にはまりこんでいる太郎の泣いている腕をつかまえて云ったの。自分に都合のいいときだけ甘たれて、何でもして貰ってすこし気に入らないことを云われると、かげで怒りん坊だのというのは卑怯だ。全く男の子らしいことでない。一番ケチな人間しかしないことだ、と云ったら、ごまかしてきくまいとして、猶泣き乍ら、だって何とか彼とかわめくので、私は思わず太郎の脚をぴっしゃりと打ちました。そして、すきなだけ泣いてよく考えなさいと云って上って来てしまった。太郎は敏感な子で、その場に自分を合理化してくれるものがあると思うと、本能的にそこへ身をよせてきっちりしたところのない心持の子です。母さんは、私が息子を打ったということだけで上気のぼせてプリプリしていたわ。うちの人たちは、気まぐれには太郎を叱り土蔵に入れたけれど、そういう人間のケチさのために怒るというような怒りは知らないのよ。
 やや暫くしてもう夕方になり、私は何かよんでいたら、上り口でガサゴソ云うの、そこに太郎の本箱があるの。「そこにいるの誰だい?」分っていたけれど、きいてみたの。案の定、太郎なのよ「腕白小僧」と返事しました。そこの椅子に太郎にかしてやってあった掛布団が干してあった中に埋りこんで、みそ漬をしゃぶっている。「本だすの? 机が邪魔ならどけるの手伝おうか」「ううん」そしてのぞいて、こっちへ来て、私のよんでいた本について何か喋って、二人で暫く話していました。そしてやがて「もう僕行く、ね」とおりて行った。
 私は胸の中があったかあくなってね。本当にうれしいと思いました。大体太郎は二階へ来ません。ごくごくたまにお八つをねだりに来たりする位です。ああやって来たにはそれだけの気持の動機があり、私が打つほど怒った気持が、何か子供なりにのみこめたのね。そうやって怒られ、何かうなずけ、いい心持になり、詫びるというような大人の形式よりずっと人間らしい親密な頼れる思いが湧いたのね。そして二階へ来たのね。夕飯のとき、二人きりのとき私は「太郎も大きくなって段々ものがわかって来てうれしいよ」と云ったの。そしてね「人間はしっかりとたのもしい者にならなくては駄目だよ」と云ったら、「たのもしいって何」ときくの。私たち十ぐらいのとき、たのもしさを直感していなかったでしょうか。私は何となしわかっていたような気がするのだけれど。それからわかりやすく説明しました。やがて皆が揃い御飯をたべ、お湯をのむ段になって、太郎が私の茶わんとって「これで呑んでいい?」というのよ。自分のもなかったが、ここにも一種の心持があります。「いい」。そんなことで、もうケロリと忘れてしまったかもしれないが、それから太郎は何となく私に対して変ったの。一歩深く歩みよって、真直私のわきに立つ感じなのです。面白いでしょう? 私はうちの誰ともいい加減な気持で接触してはいないけれど、太郎のことはうれしいのよ。やはり子供はいいと思うの。うけとりかたが真直です。寿は、この頃何だか索漠としたところが出来て、人生がわかったような調子で、何か話しても多くの場合、あなたはあなた、というききかたをして吸収力が大変なくなり、それは私を悲しく思わせているのですが、私の心が、そうやって木の肌をすべりおちるようないやな思いをしたとき、太郎の心の柔らかな少年らしさは私に励しとなります。寿もわるくはないのに、病人の心理というものを肯定しすぎているし、そこから自分の世界を区切りつけすぎるし、そういうことを生活力の人並より大きいところでかためるからなかなかむずかしいと思います。生活的に大したお嬢さんで、それが昨今の時勢に押され万事不如意ですから、感じとりかたが大仰で、あっさりしなくて(物の無さなど)苦しいところがあります、はたも自分も。私はしんから気の毒よ。いろいろ。女として。
 感情の大きくつよい女が、愛情の目標もなく暮すのはよくないわ。寿は、ああいう押し出しで、ひよひよの男は、先ず俺の財布じゃと僻易させてしまうし、性格的に面白いと思われ、それから先になると二の足となるのよ、健康のこともあるし。寿自身臆病です。暮せるように暮して行こうというあっさりした人本位のところがなく、頭が細かすぎるのか計算が多すぎ、計算したら歩み出せる人生ではないのですしね、土台。何とかして健康とバランスとって仕事をまとめてくれるといいと思います。そうすれば、それが一定の高さとなれば又別の丘へ出て、そこでは又別の人間が生活しているでしょう。結婚生活の形態はきまったものだし、すこし別の形態にやるためには厖大な経済力がいるし、そういう人は、うちの経済力なんか問題にせず、それを突破して井上園子のように、幸福そうな不幸に陥るためには寿は花形でありません。虚栄心を満足させる令夫人よりは骨がある女ですし。私は自分が女としてもっている何よりの幸福の自覚があるから、寿のいろいろの心理に却って高びしゃに出られないのよ。姉としていつも女というもっとひろく、痛切な地盤に出てしまうものだから。丈夫で、少くとも恢復する病気で、こういう結婚生活していて、それは皮肉になりようもないでしょう、という気分が顔を打って来ますから。でも、それでは寿の不幸になるのですが。今は国が病気で留守しているので、寿の気分も状況に対してすらりとしていて、皆が国府津へ行っていたときより楽です。国府津へなんか大したこともないのに大騒ぎして行ったり来たりやって、病人の自分が家の用事で疲らされるなんて、ということから全く神経質となり、えらかったけれど。病人にとって楽でない日常になって来ていることは事実です。一つの家の屋根の下に、こんな気持が渦巻き流れ、私はその様々な音を聴き、未来の瀬のはっきりきき分けられない音を子供たちの泥んこの顔に感じているというわけです。

 七月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(広島市庁の写真絵はがき)〕

 きょうはすっかり夏になりました。こんなところ覚えていらっしゃいましょうか。いつか目白のお医者さんからかりた『時計の歴史』と『ラバジエ伝』どうなりましたろうか。よそへは行っていないでしょうと思いますが。『週刊毎日』買えず『日評』も買えず、御免下さい。病院通いで書生さん寧日なく、宅下げの夜具まだとれず夏ぶとんもおくれていて御免なさい。月曜に国かえって来ます。

 七月十七日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(山の風景画の絵はがき)〕

 七月十六日、本当の暑さになりました。あつい防空演習でした。今夜ゆっくり手紙をかこうと楽しみにしているところ。私の風体はね、紺のもんぺズボンにあなたのテニスシャツを着て居ります。大したものでしょう?『外交史』の下巻もうおよみになりましたろうか。アカデミーの『世界貿易論』というのを買い面白そうです。私は今ストレチーの『クイーン・ヴィクトリア』をよんで居ります。

 七月十七日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(セザンヌ筆「パイプを咥えた男」の絵はがき)〕

 七月十七日、この髭の垂れ工合が三十代のゴーリキイのルバシカを着た写真を思い出させます。セザンヌはいつも片方の眉をこう描くのですね、自分のも、ひとのも。これは気持よい肖像でいくらか秘蔵の心持のあるものです。私の用事は、あと四五回でまとまる由です。マアマアというところです。まる四ヵ月かかったことになります。それきりですむのならさっぱりいたします。国男は月曜に退院して来ましたがやはり営養が不足のせいかまだ床に居て本をよんで暮して居ります。

 七月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月十七日
 こんどは珍しい御無沙汰になりました。いろいろの話がどっさりたまりました。御無沙汰のわけは、国男がかえって臥ていてゴタゴタ。暑くてへばる(二階が)お盆の買物に出たりしたことなど。
 今日はすこし涼しいことね。雨が降りかかってすこし落付いていいと思ったら、やんで曇って、却ってむすかと心配です。
 十日のお手紙をありがとう。『茂吉ノオト』と『人間の歴史』とはあります。これはいい本をお買いになったと私はホクホクもので大切にしまってしまったわ。かえすものでした由。あってよかったけれど、かえすのは辛いことね。ではそのようにいたします。かえすなら一度よんで、ね。
 国男月曜日にかえりました。食事は大丈夫何でもいいのだけれど、やはり衰弱していると見てまだ床についたきりで、目ぺこです。大腸カタルの劇しいものだったらしいのね、赤痢ではなかったようです、家族の健康診断に市の衛生から来ませんでしたから。でも大体国はこの正月眼をわるくしてからブラブラで月に一杯出勤したことはないような風です。その点なかなか大した度胸よ。坊ちゃん度胸と人柄の度胸とダブッテいるように見えます。これで又ずっと秋まで休むのですって。そして、国府津へ行くとかアサカへ行くとか云って居ります。そのたんびに昔の軍隊のように大行李を運んで。こういう時代には落付かない心が、こんな形もとるのでしょうか。わたしは、せめて、本で専門の勉強でもする気になって、落付いてくれたらと思います。自分一人フワフワするのでなく、家族的なのはいいけれども、義務のためにいやなことも忍耐するという生活の緊った気風が家にないと、育って行くもののためにはわるいわ。いつもしたいことをだけして行くというのは。太郎がしたくないことをちっともしないと云って叱るが、それだけ叱ってもというところもあり。でも私はなかなかどっさりのことを学び、(生活法を)一しお自分は勤勉に躾けようと思います。こういう家族の中にいての方法ということも段々わかりました。既に河流をきめて流れて行く川について走ってその流れかたを云々したって仕方がないのですものね。批評も創造的批評でなくてはならないと沁々思います。そのためには喋っているより実行ですから。いつでも、どこでも、同じ、ね。
 国男のかえる前週の金曜日に、出かけた翌日で疲れていたけれど女中さんをつれて出かけて、栗林さんへのものその他お義理の買物をして、富士見町へは 16.00 ほどの大きい、いい盆をとどけました。その時又手紙をかいて、御手数は万々承知ながらお願いしたのだと、改めて云ってやりました。私はいくらか忍耐を失っていて、契約の金全額支払ってかまわないから役にも立たないものを、と思うのよ。性急なかんしゃくめいては居りますが。
 岩本のおばさま昨日八時頃帰国されました。いつおかえりになったか知らないでいるのは気持わるいからハガキできき、しかし昨日は防空演習もあった日で、私は一人で東京駅までゆくの困ったから電報を出して御出発の挨拶をしておきました。本当に目に見えるようよ、島田のうちの、あの裏庭の見えるところにお二人が坐って、あれこれ、話をしていらっしゃる様子、友ちゃんが台所の土間でコトコト何かして、達ちゃんがアグラの中に輝をかかえたりしている様子。お母さんには前に草履お送りいたしましたから、おことづけのおみやげはなしでした。きっと、私がすこし小ぶりになったということは忘れずお話しになるでしょう、この間明石さんに行ったときも、おばさまったら横からそれはそれは熱心に見ていらっしたわ、面白いのねえ。あれだけの実際的経験や知慧が、すべて全く常識の上をクルクル廻っているのは。だから多賀ちゃんの結婚のむずかしいことについてなどは、ただ、あの子は生意気、理想が高い、と云う一言で、決して他の事情へ頭を向けようとなさらず、多賀子が島田にいたとき、それを苦しがって手紙よこしたのもわかるようでした。ほんの一寸したこの間のお話の間でも。細く軽くて、実におまめよ。お母さんのボリュームのある活動性と比較して興味があります。お母さんの活動性は重厚で、思考力が伴われていて、おつむりももっと力があり、立派です。岩本のおばさまの方が云わば女性的であり、お母さんの方は男性的な骨格の逞しさがありますね。この頃私はこの女性的ということについて深く感じて来ているところがあるのよ。一流の学者、芸術家が、何故女性に少いかということにも通じて。女のひとで、自身の人格のうちに、自分を引っぱり発展させるデモンをもっている人は実に稀ですね。よしんば、男と同量の其をもっているにしろ、自由に切磋琢磨する機会を失っているうちに、その可能も萎縮して、境遇の範囲の形に従ってしまうのね。いい意味にも男のようにはめをはずせないのね。真の創造的野心というものは持たないのね。内在的なもののバネが小さくて弱いのはおどろくべきものです。しんから自分の動機というものをつかんで生活して行く力は、そういう生活を実現してゆく創造力は女にすくないのね。身なりをつくるのでさえ女は、大抵とり合わせ、出来ている、あれとこれとのとり合わせ、つまり趣味というところで止っているのですものね。そして其は金で買えるものに多くつきています。
 私がここに暮して、段々馴れて、女の人たちが、自分を出して来て、それで痛感するのよ。素質の悪くなさなどというものは、何と其自体ではたよりのないものでしょう。日常の弛緩した生活は、目にも止らぬ、而も最も本質的なところをドンドン歳月とともに蚕食してしてママゆくものなのね。若かったときの無邪気なよさ、善良さなどというものは、年を重ね、知らないことは知らないままに止って、つまり無智なまま、そこの生活にある癖に沿って厚かましさや口先だけや無関心を加えて行くのね、あなたが、折にふれてはあきず反覆して、素質はそれを展開させる努力のいることを書いて下すったわけだと思います。実にそれを思います。素質の浪費ということは音を立てないから日常心づかないが、もし其がプロペラアのような響を立てて警告してくれるものなら、目も口もあいていられぬという状態でしょうね。人は何と自然の生きもの、謂わばけものでしょう、自分の一生が二度とないという、こんないとおしい愛惜してあまりある時間の枠に規正されている命をもちながら、ほんとにのんきに、無内容に、動物としての命の動きのままに動かされて、大ボラをふいたり、大ウソをついて威張ったりして、動物のしらない穢辱と動物のしらない立派さの間に生き死にしてゆく姿は、何と滔々たるものでしょう、その滔々ぶりに、人間万歳の声を声をママあげる人もあるわけでしょう。そして又、人間だけが、現実の大きな虚偽の上に、真心からの感激と献身をもって死に得る可憐なるものです。逆にいうと、人はどんな人でも、命をすてるときには、その命に、自分で納得し得る最大の価値を感じて死のうとするいじらしい、人間らしいところをもっているのね。無駄に流れて来た時間の或る瞬間、駭然として無駄であり得ない死を感じる人間の心は、非常に私たちを考えさせます。そういう瞬間に会わないと、カツの入らないような心で、作家たちさえも生きて来ていて、そういう瞬間の自覚を人間性の覚醒、生の覚醒という風に感傷するのね。昔、川端康成が、北條民雄の癩病との格闘の文学を、ヒューマニズムの文学、生の文学と云って、私は川端の甘さを不快に思った激しい心を思いおこします。命の自覚の内容も何とちがうでしょう、生物的な脅迫がないと、命はそんなに自然に、そのものとして人間を押しつつんでいるとも云えるのね、きっと。ゴーリキイの初期の「人間の誕生」という小説など、そういう点のロマンチシズムの文学ね。
 島田でシボレーをお買いになった由。乗物に不自由させぬ、とは何と大したことでしょう。(このごろは、目のために、速く動くのは苦しくて電車専門ですが。)私は、でも、島田へ行っても、商売用のそれの御厄介にはあんまりなるまいと、今から考えます。それは一つの身の謹しみですからね。東京から来て、のりまわしている、という感じがしたら、そのさもしさで、私が土地のものならやっぱり反感するわ。
「金髪のエクベルト」小説でしょうか、誰が書いたのかも存じません。『外交史』下巻と一緒に、どうぞ私に下さい。楽しみです。その簡潔で、詩趣あるという語り口が。
 ハガキに書いたように、もう四五回であついところを出かけることも終る由です。そうすると八月中旬になるでしょうから、汽車のこむ、宿のこむそういう時出かけずに、ここで、朝早く夜早く休む暮しをつづけ、よく湯を浴び、すこし午前中勉強らしい読書もしたいと思います。この頃は国男が病院の習慣と云って(実は床についている時の要求なのだが)朝七時すぎ、みんなで(咲と私)朝飯をすませる程度に早おきになり、夜も原則は十時で、大体やっていて、私は大変好都合です。これ迄はダラダラと夕飯が八時にもなることがありました。
 暑いときの読みものとして『マリー・アントワネット』上下、お送りしましょうね。シートンは一番心持よいのは一巻ですが、もしお気が向いたらあともお送りいたします。おしらせ下さい。夏ぶとんおくれて御免なさい。人手が一杯だったものだから。
 ゆうべ、初めて蚊帖をつりました。白くて裾の水色の四角い小さい蚊帳です。ゆうべは、髪を洗い、体も洗い、さっぱりして、その蚊帳に入り横になり、蚊帳にさす月の光をうけながら新しい感じで、夜を感じました。手摺の上にさしている八日ごろの月や夜風。蚊帳の裾をてらす月光。「杉垣」の中に、作者は限りないいつくしみでそれを描いて居りますね。描くになおまさるという思いもあるものでしょう。
 こういう暑さになると、快い飛沫をあげる水遊び、ウォーターシュートの爽快さも思われます。好ちゃんの勇壮活溌な跳躍ぶりを。声を挙げ、なめらかさや、辷る曲線や風や水しぶきの芳しさを好ちゃんは満喫して体じゅうを燦めかせてくりかえし、くりかえしすべり下りました。私たちは何と其を喝采したことでしょう。我を忘れて、見とれたでしょう。すべって来てぱっと水の面をうち、好ちゃんの体が浮き上るようになるとき、戦慄が快く走ったことでした。夏のリズムは、夏のあつさにふさわしく旺盛で、開放的です。汗も燦きよろこびも燦めくという工合ね。私は仕合わせなことに今のところまだ夏負けしないで、去年の苦しさと全くちがう新鮮な元気で、(へばりつつも)夏のあつさを感じて居ります。まだまだレザーヴした毎日の暮しですから、一人前に暮したらすこぶる怪しいものですが。
 今十五日づけのお手紙頂きました。十日のお手紙で字が大きくなっていたのに気づいたのですが、このお手紙で、最後の一くだりはやはり私を心配させます。熱が出るでしょうか、より悪くないために、でしょうか。それならばよいがと思います。私は近いうちにお目にかかりに行こうと思っていたのですが、今お動きにならない方がいいでしょうか。手紙を下さるから行ってもいいのだろうとも思えますが。下着類は、人絹シャツ三枚同ズボン下二枚、麻半ジュバン等お送りしました。人絹シャツ(薄茶)と人絹白ズボン下一枚とはセルと一緒に五月中に。あとは六月下旬の小包が栄さんのところにたのんであってすこしおくれたので、もう、そちらについていることと思います。
「動物記」のこと。ブランカの弱点は正確に云われて居ります。しかしブランカにしてもまさか猟師を見そこなって別のものだと思うほど、嘗て鉄砲の匂いをかいだこともないという牝狼でもないでしょう。ロボーを歯がゆがらす幾多の弱点はもちながらも。私が云っていたのは、ごく限られた範囲で、同じ虫でも毒のきつくない刺し方の虫の方がしのぎやすいというだけのことよ。いたちはいたちで猫でも虎でもない動きかたをするのは知っていると思います。わたしは、お喋りでなくしていて、落付いた気分で居ります。喋ることで流れの方向をどうしたいという気ももっていず、そうなると思わず、あくせく書いてたつきを立てようという※(「火+焦」、第4水準2-80-3)った気分も無くていれば、無用の叩頭も不必要で、そのためにはこの間の小説の経験が大いに役立ってよかったと考えている次第です。あの経験から、心のきまったところが出来ましたから。先の入院の前後の心理と今の気持とのちがいには種々まだお話していない原因があり、それはやはり何か意味があると思いますから、この次に。(価値ということではないけれども。)それにつけても、どんな工合でいらっしゃるでしょう。メタボリン送らないでいいでしょうか。隆治さんの赤痢の話は、岩本のおばさまが、赤痢だったそうな、とおっしゃってでしたから。アミーバでしょうから又ことし発病しまいかと気にかかったのです。長くなりすぎましたからこれでおやめ。

 七月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十一日、きのうは、本当に安心し、その前何となし眠りにくい夜を重ねていたので、半分ぽーとしてかえりました。出かける頃もうポツポツしていたのが、護国寺でのりかえるときは相当になり、団子坂で降りたらザアザアなの。もう古びたボクボクのキルク草履はいているのが水を吸って、草鞋わらじに水がしみたように重いし困って、交番の裏にある電話かけて下駄もって来て貰おうとしたらボックスに人が入っています。仕方なくそこの三角になったペーブメントのところに佇んでいたら夏服着た少年がちょろりと出て来ていきなり「僕傘忘れちゃった」というのよ、太郎なの。大貫さんと映画見に行って、これもふられてかえって来たところ、というわけです。そこで、私の傘を二人にささせて、下駄をもって来て貰うことにして角の八百屋の軒下に居りました。雨は猶々ふって来て着物の裾をぬらし足をぬらし。それでものんびりした気持で濡れて待っていました。
 やっと、すこしは道理に叶った養生がおできになるというのは、何とうれしいでしょう。本当に、何とうれしいでしょう。引越しなすったというのをよんで、心に栓がつめられたようでした。暑い暑いとき、傘をさし白い着物を着て、あちらの入口の鉄扉の外に立っていて、そのままかえったりしたときのことは忘れられないのよ。それに、自分がひどい病気をしたら、看病して貰うということについて感じが細かくなって来て、この前のように、漠然と心配というのではなく、もっともっとずっと細かく具体的にいろいろ思いやられ、不如意もわかりいろいろわかり、一層閉口いたしました。全く、丈夫な人が病きの人を思いやる時は、大づかみで楽天的で、何となし何とかなるやっで呑気でいいことね。私にとってそういうことは、もう二度とかえらぬギリシア時代よ。ですから、私を哀れと思い、どうぞ現状維持を最低のレベルとしてお願いいたします。おっしゃったキロね、換算したら相当のものでした。十五キロが四貫でしょう? だからね。その位ならブランカにふさわしきというところでしょう。
 昨夜月が皎々と輝いているのに青桐の葉をそよがせて白く雨が降っているときがありました。お気がついたでしょうか、もう割合おそかったから眠っていらしたかしら。私は、眠れる筈だしいい心持だのに、眠れず、白い蚊帖が風に微かにゆらめくなかで、その月と雨とを眺めながら横になって居りました。風にゆらめく蚊帳というものは大変抒情的よ。心も一緒に風にゆれます。うれしいやさしいゆらめきもあるし、心配なときは、かすかにふくらんだりしぼんだりしているのを見ていると、あはれ、わが愁にも似たるかな、という風でもあります。
 八月一・二日とおっしゃったとき、何だかあぶなっかしかったのを、暦みたら、土、日、よ。虫が告げたのでした。そうすると、三十一日か四日ね。三十一日になりそうです。
 きのう、いろいろのことお話する間がなくなってしまったけれど、あのとき栗林氏に会ったのでした。よその人の用で来たらしく。よろしくとのことでした。用事のこと改めて云っておきました。いやにお辞儀丁寧にして。わたしはお辞儀はもっともっとお粗末でいいから事務をちゃんとして欲しゅうございます。
 小説の原稿きっとかえしてよこすでしょう。旧作で、意にみたないからかえしてくれと云ってやりましたから。
 寿江子はいい工合に大した悪いものではなく、もうパンたべて居ります。国男はまだ床の上。
 私は八月も九月も、どこへも行かないことにきめました。そして八、九月は、外出の用もいくらか片づいたらよく本もよみ、眠り、そちらへ出かけ、大いに楽しく過す決心しました。一寸したわけがあって。もうどこへ行こうとも思いません。ドカンドカンとならないうち、私は歩ける往来は十分歩いておきたいと思いますから。そうきめたら却ってあくせくしなくていい気分です。御賛成でしょう? 私たちにとって快適な暮しかたというものは、大体そう型は変らないのですね。自然そうなるというなりかたが、私たちの暮しから湧いて来るのだわ、結局。あんなひどい病気して、こんな眼になって、世間並ならマア避暑というところを、結局東京にいて、暑いわねとあなたに云っているのが、やっぱり自然だというのだから、自然のふところは大きいものです。
 きのうは、ブランカが、自分のよろこびをあらわすとき、どんな身振りするのだろうと思いました。あの話にはブランカのそういう場合は観察してありませんね。あんなブランカだから、うれしさを抑えるなどということは、自分の好奇心をおさえかねると同じように抑えかねるのでしょう。白い毛をどんなに波うたせ、どんなに眼をキラキラさせ、尻尾をどんなに房々とゆすりながら、ロボーの見事さ、美しさに傾倒するでしょう。堂々としたロボーは、たてがみにふちどられた首をいくらか傾け、鋭い鼻と、智慧の深い眼差しで、ブランカを眺めるでしょう。ブランカが、美しいと感じる感じを抑えかねて我知らず唸るその気持は、人間の私にもよくわかります。立派な美しさというものは何と抵抗しがたいでしょう。
 何とも云えず立派に、美しい。というような美をもっている女のひとは、大変すくないのね。女の生活が、そういう美の内容を与えにくいのでありましょう。周囲のマさつを、悠々と越してゆくだけの力が、種々な面で不足していて。ゲーテ、アポローなどと云うけれど、旧い旧い常套です。美の範疇は遙か前進して居り質をかえています。私は自然の美しさ、微妙な趣をよく感じることが出来て仕合わせだと思ったことはこれ迄度々あり、人間の美しさ肉体と精神の極めて高貴な調和もよく感じ、そのことにも深いよろこびを見出しているけれども、時にそれは又新しい力で心をうつものとなります。
 折角養生していらっしゃるのだし、手紙余り長くなく度数の方で加減いたしましょう。その方が便利でしょう? 私の愛好する二重唱の全曲とすれば、これはほんのほんの序曲というところですね。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(比治山公園旧御便殿(広島)の写真絵はがき)〕

 七月二十三日 エハガキが段々払底になり駄作連発。この間うちお送りした紀州田辺の風景のうち扇ヶ浜というのがあってそれはそれは虹ヶ浜に似て居りました。六年前の夏、お母さん、山崎のおじさまなどと砂浜の茶屋に一日休んだときのこと思い出し、その松の下を歩いた人の心持を思いやり一寸やきもちをやき、とかいたけれど、あんまり虹ヶ浜に似ていて、私の心に小説が湧くので、御免を蒙って其は私の筐底きょうていふかく蔵すことにいたしました。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土畑鉱山従業員居住地の写真絵はがき)〕

 こんな山の景色は、暑い蝉の声を思いおこさせますね。富雄さんの新しいアドレス。中支派遣槍第二三四四部隊川之上隊です。隆ちゃんところは、いつぞや教えて頂いたままでよいのでしょう、新しい変りはきいて居りません。きょうは八十六度、風涼し。きのう出かけてつかれて夜九時すぎからけさいっぱい十四時間眠ってしまいました。大したものと、およろこび下さい。

 七月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十五日 きょうは日曜日。咲枝は日本婦人会の勤労奉仕で朝から出かけました。私はきのうの午前、きょうの午前とかかって、やっともって来たあなたの夜具その他を整理いたしました。今午後二時すこし前。八十五度。でも風があってきのうよりは汗の出が楽です。大体今年は風のある夏と感じるのよ。哀れに、滑稽と申すべきでしょう。
 工合はずっと同じでいらっしゃいますか。風は通しても横になっていらっしゃる背中はかなり暑いことでしょうね。片方へ横になっていて、自分では手勝手がわるいが背中のところパタパタ風を入れて、すぐそこへ臥ると、いくらか涼しい気がいたします。夏のかけものは、もしかしたらそんな綿の入ったのでなく、タオルのようなものがいいかもしれませんね、シーツいかがでしょう。大丈夫? シーツはどこでも恐慌で、大やりくりよ、あなたのおつかいになって、一部分のぬけたのをつぎ合わし、お下り頂戴しています。なかなかよく眠れて結構です。
 夜具は地がきれたのに、綿はきれず、十年前のいい綿は本当に綿らしいと感服しました。いつだってあなたの夜具は、膝をお立てになるところが綿切れして閉口していたのですものね。それに、あれにはどっさりあなたの運針のお手際があって、解くのも面白く、ひとりで二階の畳廊下で、青桐の風をうけながら折々笑いました。なんてがん丈に、とめてあるでしょう。まるで、ここを止めようと思う、と糸が自分で云って縫っているようよ。そして、唐子カラコの頭のようにこぶこぶだらけで何と愛嬌があるでしょう。ピョコン、ピョコンとこぶたこがあって、僅かのところがギリギリからげてあると、お気の毒と感じるばかりですけれども、この位連続してお手際が見えると、いろいろ感じ糸のこぶと話でもするような気になってほどきます。大したこともないナという首の曲げかたで縫ったところ御覧になるときの様子も見えるようですし。
 しかし私は良妻ですから、そんな風に只抒情的であるばかりでなく、其にしてもほどけたり、やぶれたりするのはいいお気持でなかろうがと研究もするのよ。この次はどこを特に念を入れ、世間並の縫いかたとちがえた方がよいか、ということなど。大したものでしょう? 一寸ほめてやるねうちもなくはないとお思いになるでしょう。
『インディラへの手紙』第二巻読みはじめました。夏の間に、これと『外交史』ともし出来たら『貿易論』という本よみたいと思います。『インディラへの手紙』は第三巻が九月に出ます。出たらお送りしましょうね、『外交史』第二巻どうぞ下さい。シートンいかがでしょう、二巻以下お送りしましょうか。いくらか鼻につくところもあるから、余り熱中もいたしません。しかしブランカとしてはロボーの堂々ぶりを知っておいて頂く方が話がしやすくて。ですから第一巻は、どうぞどうぞ、というわけだったのです。ブランカはいろいろに唸ったり、いたくなくかみついたり、ロボーの足もとにころがったり、すごすごと尻尾を垂れたりするのですから、ロボーのあの立ち姿は是非おなじみになって頂かなくてはならないものでした。
 病気をすると国男さんもいろいろとよみます。シートンを全部病院でよんで、ストレチイの『ヴィクトーリア女皇伝』をすっかりよんで、今ヘディンの『馬仲英の逃亡』をよんでいます。筑摩で『彷徨える湖(ロブ湖)の話』(ヘディン)をくれて、それをかしたら冒頭が馬にヘディンが幽閉されたのが終ったところから始っています(一九三四)。それで、前半にあたるのをかしたわけ。ストレーチイのヴィクトリアは同じ平凡な女性の一生をかき乍らも、時代も人物もちがうせいかツワイクのマリー・アントワネットとは全くちがい、平板です。偉大な時代というのでなく、イギリスの凡俗な興隆とヴィクトリアの凡俗さが、どう一致していたかというところが面白いのでしょうし、文学でいうヴィクトリアン・エージか、テニソンを親方としてアカデミーが下らなくなった意味もうなずけました。ヴィクトリアは全く芸術は分らなかったのよ。アルバートはドイツ出でドイツの君公の文化的伝統で、文芸を庇護してやるということに興味をもっていたが、これ亦芸術は分からない。ヴィクトリア式という、偽善的なような礼儀のやかましさもヴィクトリアの女らしいがんこで狭い道徳趣味からなのね。それを、イギリスの中流人が、自分達の生活感情の偏狭、独善と融和させたものであったようです。このストレーチイはエリザベスを描き、これは大きい性格の女で大きい時代に生きたから、個性とその環境を描いても相当面白いものだがヴィクトーリアは、その後の繁栄のコースを生きつつ凡俗なイギリス社会の風潮とヴィクトーリアという女性との交互の形成を描かないと、やはり面白つまらないと云う程度に止りますね。それにつけても王侯たち、特に女性たちが、本当に聰明になろうとするのは、何と大した、殆ど不可能事だということを痛感します。普通のひとよりひとに一つでもよけい頭を下げられる立場のものが、自分をいつも生きた人間に保っておくということは何とむずかしいでしょう。紫式部は相当のおばさんで、中流の女性が、自分の生きてゆく努力のために箇性も発揮して面白い人が多いと観察して居りますが、全く世間の女より十倍も二十倍も優秀でなければ、ああいう人たちは優秀になれない条件です。愚鈍になるように出来ていますものね。
「マリー・アントワネット」のなかでつよく印象されたことは、マリーを最後迄助けようとしたスウェーデンの貴族があり、それはマリーの愛情をも蒙った人ですが、おどろくべき大胆と周到さとでルイ一家の逃亡を計画しながら、マリーに出来るだけヴェルサイユですごしていた便宜さを失わせまいとして、その男は特別製の馬車やトランクやをこしらえ、そのために、やっと逃げて行ったのにつかまってしまったことです。貴族が自分の貴族らしさを、こうもすてきれないかとおどろき賢人の愚行に打たれました。ストリンドベリーやニイチェやその他西洋のすこし辛子カラシのきいた男が、女性というものに何となし、おぞけをふるったのも尤だと思います。ショーペンハーウェルにしろ。日本の女は素朴な社会での在りようそのまま、あんまりキノコみたいであるかもしれないが、それだけ自然さや醇朴さをも保ったところもあります。女でも西洋の女には、へきえきするところがあります。
 さて、昔のタイプライタアの紙もいよいよこれでおしまいよ。この次からは、私が昔ロシア語のタイプをうったとき使った紙ののこりとなります。これよりわるい紙。
 土蔵に、浮世絵の複製があり、その中に一つ鳥居庄兵衛作の絵があります。初期の紅絵時代、茶色の荒い紙に、上に紅葉の枝をさし交し、侘住居をあらわす一本の自然木の柱、壁のつり棚、濡れ縁があり、壁には傘が吊られ棚に香炉がくゆり、太刀がかけてある。ぬれ縁ぎわに机を出して、かっちりとした若い武士が物をかいている筆をやすめ、その手で頬杖をつき一寸笑をふくんで外に立っている女に何か云っています。女は元禄姿ママの丸くふくらんだ立姿で、すこしあおむきかげんに、男の顔は見ず、横向きに立っている。前方へ視線を向けながら一心にきいている、その顔を見ながら男は笑をふくんで何か云い、重厚さとさっぱりさと和気とがみちていて、実に心持よい作品です。私はあかず眺めます、そして思うの、私たちの仲よさの単純さ、自然さ雑物なし、とこれは何と似ているだろう、と。お目にかけたい絵です。そして女は、外に立っているのに、履物はくのを忘れて平気でいるのよ。

 七月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ウラジロモミの写真絵はがき)〕

 岩波で少国民のためにという本の中で、『地図の話』武藤勝彦著があります。大変に面白い本で、少年向というのが、丁度たのしみの程度です。イリーン『自然と人間』(中央、ともだち文庫)は訳が「あります」文章で、イリーンの持ち味をそこなって居ります。二つとも手に入りました。お送りいたしましょうか。特に『地図の話』の方。

 七月二十六日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ウラジロモミの写真絵はがき)〕

『地図の話』よんでいたら尺度の標準をきめたのはフランスであり、大革命の直後であり、子午線の長さの決定のために測量班がダンケルクへ行ったそうです。ダンケルクというところはこういう不滅の記念をももった土地なのですね。フランスではすべての価値の標準が変ったので、学者ガクシャは兵火にでも何でも変ることない尺度の標準を求めて活動しはじめたのだそうです。つまりは人工的にメートルをきめたのが落着だそうです。

 七月二十六日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(富田溪仙筆「迅瀬の鵜」、「梢の鶯」の絵はがき)〕

『地図の話』なんかよんでもつくづくと考えます、わたしは、太郎や健之助が、少くとも科学的な技術家になってほしい、と。学者としてというほどをのぞまないでも。文学やその他の学問はまるで飴のように扱う人々の手でひねくられてしまいますが、科学には少くとも基本の原則は厳存して、それをごまかしてはうそもつけないという面白いところがありますから。

 七月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(光琳筆「群鶴図屏風」の絵はがき)〕

 文学と科学についてなかなか面白いたくさんの問題がありますね。文学は、その人の感受性、表現力の特質からだけ云われて来ているけれども、実はよほど大きくつよい精神の力が入用であり、強固な人でなければ文学の伝統をその身を貫いて守ることは出来ないときがあります。科学はそれほど創造的熱量のたっぷりしない者でも個人としてのうそを少量につくだけで過せる時があったりして。同じ凡庸人なら科学の方が罪があさいと申すわけ也。

 七月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島名勝 稚児ヶ淵の写真絵はがき)〕

 一寸涼しい風が吹くようでもあるでしょう? もののつり合いは面白いものですね、小さく人がいるので涼味も深まって見えます。
 きょうは私が発病して一週年めです。一週忌と称して居ります、トマトをたべます。そちらでトマトありましょうか。去年のトマトの今夕の味を思いおこします。そこまではわかっていたのよ。あったかいトマトでした。

 七月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 これが、タイプライター用紙です、かなりのものでしょう? 今そこいらに書簡箋というものはありません。
 さて、きのうは一寸気がもめました。八月一日は日曜日だし、二日はさしつかえるし、三日は疲れていてあやしいし、というわけできのう汗をふきふき出かけましたら、お目にかかれず残念でした。けれども、事情がわかり御自分の病気でおありにならないなら、これも世間のおつき合いで致しかたがあるまいと思いました。本当にあなたはお丈夫なのでしょう?
 そう云えばこの前私が出かけてから十日経ちましたが、お手紙頂かなかったことね。あなたの御都合とだけ考えて居りましたが、そうでもなかったかもしれないのね。
 それにつけても、これはどうでしょう、着くかしら。それともやはり二週間は禁足でしょうか。随分御退屈つづきに暮させたから、これからは少し、と思っていたところへ、早速又二週間ほどちっ居でお気の毒さまです。やはり今年の流行病のひどさですね。どうぞ、どうぞお大事に。呉々もお願いいたします。私たちは食物に非常に注意して居ります。生のものは食べないようにして。
 そんな条件はないように思える人が、うちでもあんな騒ぎを演じましたから、とてもあぶないのね。けさ七時半の汽車で、父さんと太郎女中さん安積へ出発しました。うちでは今健之助が百日咳でどこへも出られず、太郎のは休みはきまっているので先発したわけです。わたしは、落付いていて本当にうれしかったと思うのよ。こんなにガタガタしてあっちこっち右往左往している連中のなかで、自分も荷を送り、どこかへ出かけるとしたら、どんなに気ぜわしく休めなかったでしょうかと思います。私はこの頃ひどく脂肪の不足を感じ(!)Aを油でといたヴォガンというのをのんで居ります。紅茶に入れて。冬の間に医者がくれたのですが、却って今の方が要求されます。冬はまだ牛乳もあったしバターもありましたから。このヴォガンというのはスイスの製品だそうだからもうないでしょうね。何か珍しく当時入手したのだそうでしたが。ハリバでものみましょうか。ふとりたくもないのよ。ふとるより体の力がほしいのです。
 小説のこと、いろいろお心づかい頂きました。やっと無事、かえって来ました。御安心下さい。そして、よかった、と思って居ります。
 中村ムラ夫などという人が詮衡委員で、やいやい集めた原稿を御詮衡下さりその上で収録をきめるのだそうです。私は大した識見ももたないものではあるが、ムラオ先生に点をつけてもらったり、のせるの、のせないの、と云われる作家ではありません。文学の点ではないのですもの。おっしゃるとおりでへこたれます、本当にその通りなんですもの。これも極めて、いい経験で、私もすこし会得いたしました。実際の場合として。とりかえしてすっとしました。丁寧に、意にみたないから折入っておかえし下さるように願います、と云ったのですから失礼でもございますまい。
 きょうはすこし乾燥して居りますね。わたしの汗のひどさと云ったら! でもねあせはちっともかかず、苦しくて眠れないという疲れかたはいたしません。ネールの自叙伝上巻が買えました。もうすこし読み進んだらきっと面白いでしょう、全体の動きの前に自身をかいているのですが、一九〇七年頃イギリスにいた(ハーローやケインブリッジ)印度学生というものの生活その他もうすこし形象化されていると、なかなか色彩もあり、大したものでしょうが、どっちかというと一色の糸をたぐって立体的筆致でないところあり、『インディーラへの手紙』の生彩を欠いたようなところもあります。作家と歴史家との相異、ネールは歴史家の素質によりゆたかということになるかもしれません。執筆の年代は、世界史のすぐあとですね、一九三四―五ですから、前の方は三一―三三です。彼の大部な著作はみんな一定の生活条件のもとであり、これもそうでした。書けたのです。割合スピードを出してよんで、お送りしようと思って居りますが、いかがでしょう。
 隆治さんのことは心にかかります。稲子さんにしろいいときかえったので、なかなかかえれない由です。どうしているでしょうね、たよりのないのは、当然というようなわけらしいし。益※(二の字点、1-2-22)そうのようです。どうしていても無事ならば、と願います。自分の力で収拾のつかない事態に対して、冷静で、過度の責任感に負けたりしないようにとどんなに願うでしょう。小心の変じた勇気は痛ましいものですから。それよりは豪胆であることを願って居ります。本当に丈夫で、持ち越すように。
 昨今なかなか面白いこともあって、はげちょろけの浴衣でフーフー云いながら爽快なところもあり。今のような時に自分の借金を左右に見てその間をかけずりまわってばかり暮している人は気の毒だと思います。地球は廻って居り、星は空にきらめき、朝日は東に美しく出ます。
 二週間経ってからと云えば、八月も半分すぎます。その頃又出かけて見ます。スラスラとつくのか、たまるのかよく分らないけれど、わたしの心持とすると、云わば、大して納涼にならない団扇の風でも送ってあげようというようなわけでハガキなどちょいちょい書きましょう。いい絵はがきもないこと。てっちゃんが、この三ヵ月ほどつとめていたところをやめることになりました。先生というものは弟子が好きなのね。はッ、はッという。そんなこんなのいきさつでしょう。学者というより仕事師の下ではつづきますまい。あのひとも世間も知って来て、仕事師というような人間の型がはっきり分って来たから、無駄はありません。
『女性と文学』という本貰いましたから一寸お目にかけましょう。引出しの一つ一つに目先のちょっとちがった小布コギレがつまっていて、ひょっと目をひかれるような気の利いた、柄の面白いようなスフではないものが入っている、しかし小布であり、全体は小箪笥と云った風の本です。文学談の上手なひとというのもあるものですね。そんなことも感じます、それは文学がすきな人です、そして、どんな生きかたをしてもその人として文学は好きであり得るという現実があります。
 呉々もお大事に。

 八月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島の写真絵はがき)〕

 八月一日。自叙伝はなかなか興味深いものとなって来ました。且つ、たくさんのモラルをももって居り又現実の知識をも与えます。世界史が書かれる時が来たら、この自叙伝は多くの真実を呈供するでしょう。規模の大きい人間が、どういう視界をもっているかということについて、考えさせます。よく語り、しかも饒舌でない著述とはどういうものかということについても教えます。ガンジに対してにしろ、皮肉を云うより前に、先ず払うべき敬意のあることを知らせます。

 八月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉由比ヶ浜海水浴場の写真絵はがき)〕

 八月三日。『文芸』の「かささぎ」という小説、三年ぶりに初めて雑誌小説をよみました。ほんとに小さい作品だけれども作者の心の本当のところから書かれていて好意を感じました。そして、こういう人たちの書く小説が、平常の心でかかれはじめているという事実、嘗て島木健作が、緊張し青筋を立て義人ぶった日本人を小説にかいてきた時代から四年の月日は、これだけの変化を日本の人の心にもたらしているということを興味ふかく感じました。

 八月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(香港 Flower street の写真絵はがき)〕

 八月三日。高見順の歴史小説というのは、目が疲れてよみませんでした。(『文芸』はうちへかして頂きましょうね)しかし、あの插画の木村荘八亜流をみて、歴史(明治初期)という空気が、ああいうアトモスフィアで好事的にランプ的に見られているのは不十分であり、それは変りにくいということを感じます。文学史にしろ、明治文学史研究家は裏糸を見ないで、表模様にだけ目をとられているとおり。カナカナがもう時々鳴くでしょう。

 八月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島七里ヶ浜の写真絵はがき)〕

 八月三日、今午後三時半。わたしのおきまりの午睡から起きたところです。こんな時間なのに、この机の、二階の机の上の寒暖計はきっちりと九十度です。そちらもお暑いことでしょう。でも、風が通りましょうか。あなたの昔々のテニス用シャツがこんなに便利に私の役に立つとはお思いにもなれなかったでしょうね。襟をすこし小さくして、袖を短かくして、浴衣のビロビロしたのとは比較にならず楽です。木綿の単衣が段々なくなって、結局又十年前のスカートとブラウスになりそうです、少くともうちにいるときは。お元気で。

 八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉建長寺の写真絵はがき)〕

 八月四日
 建長寺でしょう? 葛西善蔵がいたというところは。昔、鎌倉の明月谷というところに一夏いて、小説かいていたことがあります。そのとき、建長寺も見に行ったのだけれどこんなお寺ではなかったわ。きょう、冬から早春にかけてかいた詩をよんでいて、「祝ひ歌幾日をかけて」という歌をよみかえしていたら、そこに「口紅水仙」の詩のこともかかれて居りました。四季咲きの花は、夏も爽快な驟雨のもとに、水しぶきに濡れながら、花びらにおちるしずくの粒をよろこぶように揺れ咲く様子を、思いおこしました。葉がくれの一本水仙、ほのかなる香に立ちて、という風情。

 八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根宮之下の写真絵はがき)〕

 体の工合はいかがでしょう。本当に大丈夫でいらっしゃるのでしょうね、この間は、大丈夫ときいて安心していたのですが段々気にかかり出しました。自叙伝は極めて真面目な深い本です。流水と共に生きている人が、初めてその河床の凹凸について語れる、そう感じる本です。この本をよみ、文学というものを考えると、全く文学は、文学趣味から解放されなければ恐るるに足りないものでしかないと思います。即ちこの本は一つの文学ですから。「誰が為に鐘は鳴る」の下巻が一箇のテキストであるように。

 八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(レマン湖の写真絵はがき)〕

 八月四日
 きょうお金をお送りいたしました。湿度が高くて八十二度しかないのにさっぱりしない日です。レマン湖のエハガキも、これでは何となくがっかりね。スウィスは牛乳が世界一良質だそうです。北海道の雪印バタ工場が焼失したそうで又一層バタはなくなるでしょう。八月玉子は一ヵ月に一箇だそうです。この頃どちらを向いても茄子、茄子です。茄子の花の色は風流ですが。

 八月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根大涌谷の写真絵はがき)〕

 この前お手紙頂いたのは十五日の日づけでした。私がお目にかかったのは二十日です。きょうは五日。もう半月以上経って居ります。行って、お会い出来なかったのは二十八日でした。二十日から二八[#「二八」はママ]日までの間に、状況はちがったというわけでしょうか。その間から起算して二週間(予防期間)とすれば、七八日頃になります。益※(二の字点、1-2-22)気にかかります。その頃ともかく行って見ましょう。

 八月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根芦之湖の写真絵はがき)〕

 八月五日。弁護士さんから電話で、お会いした由。御用が通じたのは何よりです、予防のため出入をしないようという期間はもう終ったのでしょうと思います。きょうも八四度だのにずっと暑く感じます、今年がどうか苦しい夏にならないようにと心から願って居ります。十一日ごろ上って見ます。

 八月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(モンブランの写真絵はがき)〕

 こういう色も山々に映り刻々変化して行ってこそ美しいのでしょうが、固定されると安価でモンブランのために気の毒ね。『日本評論』、社からじかにお送り出来るようになりました。『市民の科学』(ホグベン)そちらへ一緒に行ったようです、もしおよみになればよし、さもなくばいつかお返し頂きましょう。『文芸春秋』はまだうまく運びません。シャボン又送ります。八月六日

 八月六日夕 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月六日 夕刻
 さっきお手紙頂きました。このお手紙は干天の雨でした。何だかそちらの御様子がよくのみこめなくて、次第次第に心配になって来て、段々私の目つきがよくなくなりつつありました。あなたとしては熱の低くない方で、周囲に流行している関係上、様子を見る方がよいというわけであったことがはっきりいたし、安心しました。そちらへ行ったのは二十八日(金)でした。八度二分も出たという日でしたから、尤もなことでした。
 森長さんはすこし熱が下ったときだったわけね。こちらから電話したのでしたが、あのひとも親切にことづけのこときいたりしてくれても、直接私が心配を話す時には、そんなこと一言も云わず、私の心配もピンとしないような物の云いかたで、そこが又あの人の好いところとも云えるのでしょうが。でも、このお手紙で、私はどんなに安心したことでしょう。いつぞやの夏のような苦しさは、二度と願い下げです。本当に状態がわかって何とよかったでしょう、ありがとう。少し早目に(体の調子を云えば)手紙かいて下さっただけのねうちは充分ございます。もうこれでいいから、どうぞ大事に熱の下るよう風邪をお引添えにならないよう願います。
 私は十一日頃参りましょう(水曜日でしょうから)。その頃はもう熱もすこしは、おさまって居りましょう。
 しかしもし熱の工合で御考えでしたらことわって下すっても大丈夫です。只私はわけさえわかれば納得いたしますから。
 私の方はどうやら幸もって居ります。近視の度の進んでいることを発見したので近く検眼して眼鏡をかえます。もうウロプンクタールはないから、悪いレンズでは仕方あるまいと思いましたが、やはり戸外を歩く時なんかは度の合ったのでないと疲労が早くていけないそうです。ものをよみかきするには今のでもいいらしいのですけれど。
 きょうは大変暑うございますね。細かい字をつめてかくことが出来にくいのよ、御免なさい。フーフーだけれど心は計画にみちていて、活気をもって居ります。辛棒の仕甲斐ということのよろこびも、折にふれて切実です。又くりかえすと、そら御覧ブランカ、ですが、呉々も小説は戻してよかったことと思います。
 今年の夏は所謂丈夫な人によほどこたえる風です。私のようにまだ眼もちゃんとしないし、仕事も出来ず、万事を静養に集注している者は、却って助って居ります。いそがしさ、仕事、どれも倍で、体の力は不足故、えたいのわからない永続性の下痢をやったりして居ります。私は貧乏の量を多くして同時に休養の量も増すことにきめて居ります。小説のことよかったとこんなに云うのもつまり静養の価値について一層明瞭になったからです。
 うちは百日咳のさわぎで、食堂など家庭野戦病院的光景です、吸入器と並んで食事します。咲枝も六月下旬からずっと入院、子供の百日咳とつづいて疲れて居りますが、今年の夏は私は子供係りは致しません、又、あと戻りしたらことですから。寿江子は信州辺に出かけるとソワソワです。田舎へ行けば旧習依然でも万事よくなると楽天的に考えて居るようです。私は夜なるたけあけて眠るよう気をつけて居ります。
 出かける用事が終ったら、疲れもへりますから、涼風とともにすこし計画を実現し一日に少しずつものもかきたいと思って居ります。今はのんきに考えて、本もうだって読めなければ、マア其で、余り我が身を攻めません。夜ぐっすり眠りそのぐっすりさは大分もとのようです。いろいろ考えようと思って枕に頭をつけると、いつか眠ってしまうと大笑いです(尤も、そんな考えの主題はやりくりについて、というようなもので、全くよく眠気を誘うのですが。)朝目をさましたときいつも必ず心にする一つの挨拶や空想は、詩についてのもので、それはいつも新鮮で真面目で、そして淳朴です。神々の朝というようなものよ。或はいつぞやの真白き朝という詩のような。そのような朝が、そちらにもあけることでしょう。呉々も呉々もお大事にね。

 八月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(伝光茂筆「浜松図屏風」の絵はがき)〕

 ゆうべ(六日夜)のむしかたはひどうございました。夏になって初めて、横向きにねている上の方だけ発汗してそれがつめたく何とも云えずいやな気持の夜でした。苦しい晩でしたから、そちらもさぞと思われます。きょうもえらかったことね、夜は幾分ましですが、湿度90[#「90」は縦中横]%ですからしのぎにくいのは無理もないことね。今年はこんなに湿度高いのに、開成山の方は干上って井戸の底が見えているそうです。

 八月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(伝光茂筆「浜松図屏風」の絵はがき)〕

 八月九日、電報を、わざわざどうもありがとうございました。様子はっきりせず段々心配になっている手紙御覧になり打って下すったとありがたく拝見しました。お目にかかったあとで、きっとこのハガキはつくのでしょう。森長さんに五日ごろ電話したのでした。あの人のこと故その日はあなたの熱が下って、他の病気の発熱でないと判明したというようなことはちっとも分らず、只、会ったというので益※(二の字点、1-2-22)私の心配はかき立てられたのでした。でも本当によかったこと。どうぞどうぞお大切に。

 八月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月十一日 ひる一寸前、八十八度
 ゆうべの夜なかは涼しかったのに、きょうはやはり相当の暑さになりました。お工合はいかがでしょう。熱は下ったでしょうか。
 きのうはお目にかかれ大してへばってもいらっしゃらない御様子を見て安心いたしました。一時的のことでしょうね。何しろ、丈夫な人でもよほど健康というレベルは下っていて、今年の夏はしのぎ難いそうです。
 幸、風はとおりそうですからどうぞゆっくり御大切に。しかし、あなたとして見れば、この位の変調は注意を要する、という程度で、もっともっとひどい思いしていらっしゃるのだから、十分の経験をおもちのわけです。きのう伺うの忘れたけれど、血をお出しになったのではなかったのでしょう?
 私の暮しに、具体的な情景が加ったと申すわけです。静かそうで、バタンバタンなくて、休めるでしょう?
 何となし、学生暮しの雰囲気でやっていらっしゃるのね。それを感じ、世帯じみていないのを快く存じました。きっと人によるのだろうと興味深く考えました。私もあんな風に、どこかあっさりとして、からりとした雰囲気で暮しているだろうかと思い、その点では余り点が低くもあるまいと自答いたしました。私は女ですから猶更生活のいろいろな変転を経験するごとに、つまらない意味で世帯じみていないこと――つまり些細な日常的癖に拘泥する習慣のないこと――をうれしく思って来たものです。こんなことも当然とは云いながら、やはり私たちの仕合わせの一つよ。そして私はこうもよく考えます、ずっと一緒に暮せていたら、私は自分のよい意味ではまめまめしさで、反対には俗っぽさできっともっと家庭じみていたでしょうし、あなた迄も世帯っぽさでまきこんだかもしれない、と。
 あなたは「ジャン・クリストフ」をお読みになったでしょう? 覚えていらっしゃるかしら。あの中にクリストフに深い信愛をよせた伯爵夫人がいたことを。娘が一人いたひとです。その人がクリストフの芸術を高く評価して、部屋へ訪ねて行きます。そのときクリストフは留守なの。クリストフの部屋は、婦人向きとはおよそ反対です。客間とは全く逆です。その様子にその女のひとは快い息をするのですが、すぐ何となし少し片づけてやりたいという気が起るのよ。それを自制して心のこもった眼差しで飽かずぐるりを眺め壁をながめ、かえるのだけれども。女の心持って可笑しいのね。そういう点になると女心に東西なしということになります。
 昨夜寿江子は信州の方へ出かけました。去年行ったとき上田が気に入ったというので、もし家があったらそこへ暮そうかなどとも云って居ります。松原湖へ行くのですって。十日ほどで帰るでしょう。昨夜は珍しく門まで送ってやって一年と半ぶりで、夜の通りをしみじみ見ましたが、団子坂迄の間に残置燈が一つあるきりよ。
 子供たちの百日咳は順にいい方ですが、昔の人が百日、咳が出ると云ってつけた名は実際を語っていて、マダマダ健坊はユデダコのようになって咳きます。泰子は例によりすぐ肺炎の心配で大さわぎのところ、もう疲れてろくに食べず、夜中眠らずで、母さん女中さん大へばり。咲枝は疲労のため胃が変にこわばってきょうは横になって居ります。私の眼は暑さとともに、細かいものが駄目になって居ります。近視の度も進んだらしく近いうち行って見ます。十五年の処方を見たら、七月十七日という日づけ。いつも夏わるくなっていたのですね、この二三年。体がつかれていらっしゃる時はあなたもどうぞ眼をお大切に。視力の弱るのは心持もいやなものよ。
 結局どこへも行くさわぎしなくてつくづくようございました。いろいろ。汽車のこと考えただけでも。
 国男と太郎は開成山で元気の由です。太郎は、二十日ほど暮して来て、その力で冬風邪もひかず過します。あすこは紫外線の多い高原風の気候ですが、それでも七十二三度の湿度です、珍しいことなのよ。それで雨は降らなくて野菜が心配というのですから、私のようなものによくわけがわかりません。
 イリーンの『山と人間』ありました。今にお送りいたしましょう。シートンのあとはいかが? もうブランカのばかさ、いじらしさがわかったから、御用なし?
 石鹸のこと御免なさい、そちらで都合つけて頂いたりして。しかし大いに助かります。全くナイものなのよ。只今これと一緒にシーツ、タオル、メタボリンお送りいたします。シーツもシャボンの仲間、ないものの一つです。きれたのを送りかえして下さいまし。ついで私のにして、私のをそちらにまわします。でも今に、浴衣のほぐしたのがシーツになることでしょう。
 ああやって天井見て臥ていらして御退屈でしょう。一つ音楽をおきかせいたします。千代紙の中から琴を弾じる唐子カラコ一人つかわします。松の樹の下、涼しい石の上で、この男児は琴をならし、その音をもってあなたに一吹きの涼風をお送りするでしょう。(支那の人はこういうときうまい文句を見つけますね。)

 八月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(Fishing Village, Paslr Panjang S. S. の写真絵はがき)〕

 八月十二日。沛然という勇壮なのではありませんけれども、久しぶりの夕立で、気が休まるようです。この二三日は蒸しかたが一通りでありませんでした。かなり干上ったところへ雨でいい心持です。開成山の方へも降っているかしら。去年の今夕は、国男の誕生日というので、私がやっとテーブルに向って坐ったが二くちほどでへばって臥てやしなって貰いました。

 八月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(八千代橋畔の秋色〈箱根〉の写真絵はがき)〕

 八月十二日、今夜は何と涼しく、体が楽でしょう。七十八度よ。雨にぬれた屋根の瓦に、月がさして居ります。もうこんな夜も折々はあるようになったのね。立秋ということにはやはりたしかな季節のしらせがあります、朝顔の花の色が美しく目についてそれも微妙な二つの季節のしるしのようです。

 八月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島の写真絵はがき)〕

 八月十三日、きょうはほんとに、ほんとにおどろいて、安心したら骨が抜けたようになりました。お話のようにとりはからいます。ねまきお送りいたします、とりすてになってかまわない分です。
 手拭も一本お送りします、スフ交りのですが。暑いところじっと臥ていらっしゃるのは御苦労さまですが、どうぞどうぞ大事にして、無理な動きかたをして出血したり絶対になさらないで下さい。近く又参ります。

 八月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉長谷観音の写真絵はがき)〕

 ねまきのこと。いろいろひっぱり出して思案いたしましたが、つまるところこの間うち着て臥ていらしった白地に格子縞のねまき、あれは二分ほどスフで、あれを召して下さい。スフも三十点で、点がおしくて新しいのは、という意見です。あれならばマア辛棒してよいと思います、古くても縫い直してちゃんとなりますし、絹はねまきには着心地わるいし。お手数でしょうがどうぞそのように。

 八月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(日光五重塔の絵はがき)〕

 八月十七日、お話の薬、ともかく買うことにして、〓味とヨードと一つずつ買えました。今薬がむずかしくて、一方ときめると買えない時が多いので、どちらでもよいことにしてあると便利と思います。武田長兵衛の薬よ。今低血圧が多いが、大丈夫でしょうか。普通におありでしょうか。年に90[#「90」は縦中横]足した位。血圧のことと血液型のこと。私はAですが。きょう忘れてしまって。又帳面がいりますね。

 八月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根芦ノ湖の写真絵はがき)〕

 八月十七日
 栗林さんが明日又行くそうですから、改めてよく話しておきました。あの人として提案がありましたが其は御意見を伺いました上でのことです。
 気分のよくないとき、遑しく用件をお話しにならなければならなくて本当に本当にお気の毒です。体をねじるような動しかたは禁物よ、平らに平らにとお気をつけ下さい。そして、ゆっくり、そっと、ね、どうぞ。

 八月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土田麦僊筆「罰」の絵はがき)〕

 八月十八日。きょうは入沢さんの本をよんだり看護婦勉強いたしました。チフスの後に視神経炎や眼精疲労が起ることがある由、そうでしょう。だから、こまかい字をお読ませしないようにいたしましょうね。熱はいかがでしょう、二週間目に入りいくらか上るのではないでしょうか。

 八月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十四日
 大して高い気温でもないのに、(午前九時八十四度)むして、汗がひどくて凌ぎにくいことね。
 背中がさぞむれますでしょう、熱はいかがかしら。十二日頃から数えると、きょうで十二日、二週間目がそろそろ終る頃です。その病気は二週間目の熱が頂上で、三週間目はそれが持続しつついくらか下りはじめる也と入沢達吉さんの本にあります。そして、その時期に、腸出血や穿孔が起りやすいということもかいてありました。入沢さんは体重一キロにつき35[#「35」は縦中横]カロリーの食餌を患者に与えて常に好成績であると云って居られますね。
 ジャガいもの柔かく煮たのなどは、食べるときお箸でもう一度ねるようにして十分上れそうに思います。試みて御覧になったら? トマトは種子タネはよけてね。そして、乾燥玉子は、小児科のお医者はさけて居る位ですから普通の玉子煮(フワフワ煮)にしてからでないと上ってはいけまいとのことです、じかに召上ったりは大禁物よ。あれは調理する前二時間水につけておいてとくのですから。(うちでいつもやっていますが)
 眼がお疲れになるといけないと思って手紙一寸ひかえて居りましたが、それはつづきそうもなくなりました。手紙は、せめて、私の行けない日について、暫くは何かとお喋りもいたしますものね、おまけに、あわただしくてついお話しのこすこともあるし。
 この夏、東京にいたのは、何とよかったでしょう。十三日の電報を、もしどこかの田舎で見て、それからどんな汽車でも一番早いのをつかまえてかえって来るというようだったらその間の心配で、田舎に行っていた二十日や一ヵ月はけし飛んでしまったでしょう。ほんとにあのときの心持思い出すと、田舎なんかで、一人であのショックを堪えて何時間かひどい汽車でもまれたりしたら、きっと今頃又病人だったに違いないと思います。よかったわね、それでさえも又眼が妙になったのよ、そこで土曜に医者へ行きました。薬を注して瞳孔を開いて眼底をすっかり調べてくれました。やはり前同様で、視神経は萎縮してはいないのだそうです、ビタミンBしか薬もない由。せいぜい美味いものをたべて、休養しなさいとのことで美味いものというときはお医者も呵々大笑よ。私も大笑いいたします。ユーモアも時代的です。あなたもBが一番大事だそうですが、ずっと上っていらっしゃるでしょうか、メタボリン上って下さい。あれを一日十錠―十五錠のむと五ミリとかで、注射するのと匹敵するそうです。又島田へお金を送って願いましょう。もう補充もあやしくなってしまったから。
 夜はよくお眠れになりますか、本当に本当に御苦労さまです。今週は一方が休みになりましたから、水、金とお見舞にゆきましょうね。
 ちょいちょいとして上げて、小さいことでも、快適とわかっていることを何一つしないで石彫りのコマ犬のように眼ばかりキロキロさせてひかえているお見舞というのは決して決して楽なものではないことよ。少くとも良人を見舞う妻の最大の忍耐をもとめることです。
 大変同感される詩を見つけましたからこの次はそのお話。(作家とテーマ)をかいた詩人の作品よ、あのひとのものならわるかろう筈もないと申せましょう。お大事にね。

 八月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十六日
 さっきの雷は大きかったこと! どこへ落ちたのでしょうね、太郎が学校で粘土をこねていたら火柱が見えましたって。私は横になっていて、思わず両手で耳をおさえてしまいました。
 大雷雨の後にしては湿気が多いけれど割に涼しくなりました(八十一度)。けさは咲と寿とが開成山へ立ちました。
 咲は一日か二日。泰子はよくありません。百日咳が動因となって何か複雑な病気になっている様子です。結核性の。赤坊がいるから私は大いに気にしていますが母親の感情は一層微妙ですから注意をうながすにしても方法がデリケートです。いやがってやかましく云うと思いがちですから。泰子は可哀想だし咲も可哀想ね。きょうブドー糖の注射をしました。食餌がいけないからよ。
 さて、私は昨夜久しぶりでほんとにいい心持となり楽になって、ひどい汗にも苦しまず眠りました。あなたはやや体の不安がすぎたようにふっくりと伸々と臥ていらしたわね、どんなにうれしかったでしょう。疲れも当然見えますが、それはこわいようなものでありません。熱がやたらに上らなかったのは、もう一つの病気のため、万々歳です。
 こんどは、私も一緒に体じゅうがどうかなったようになって、昨日までは本当に妙でした。神経が緊張してしまって、その疲れで夜が苦しかったのよ。病的に汗が出たりして。きのうは、咲枝は子供の心配がとれないのだから、「現金で御免ね」と云い乍らしんからほっとして上機嫌な晩をすごしました。
 この何年かの間に、あなたは随分ひどい病気を次々となさり、どうにかそれに克って来ていらっしゃるのは、考えればまことに大したことです。先ず猩紅熱からして、ね。もうこれがしまいで、段々恢復の条件がととのったら順調によくなって行らっしゃることでしょう。みんなびっくりして、呉々お大事とのことです。栄さんや何か。
 けさはね、すこしのんびりとした手紙をかくのよ、いづみ子の近況などについて。いづみ子も近頃はもう全く一人前の淑女で、ぽっちりと鮮やかな顔色や柔軟でしかもいかにも弾力のこもった全身の動きや、なかなかみごとな存在となりました。あれの特徴であった何となし稚気なところもそのままながら、どこか靭さをまして豊醇です。そしたらね、つい近頃短いたよりをよこして、ごく内輪な表現ですけれども、どうしても好ちゃんのほかに旦那さんはないと心を決めたらしい風です。今時の女の子に似合わず、大変含みのある表現でそれを云って居りますが、そのために却って心の一途さがくみとれます。それはあの二人はどうせ切ってもきれない仲だけれども、いづみ子は次第に目ざめる深い女の心でひとしおそのことをつよく感じ、自分たちの結びつきの又となさについて感銘している様子です。好ちゃんは、あのこのつい近所までよく行くことがあるらしいのよ。でも御存知のとおり兵隊さんでしょう? 時間があるしきまりがあるし、どんなにかああついそこと思うのでしょうが、よってゆくというわけに行かないらしいの。それがひしといづみ子にわかるのよ、ね。ですからいづみ子にしろ並々ならぬ心持で、どこかそこを通っている好ちゃんの上を思いやるという次第でしょう、いくとおりもの家並や街筋やに遮られて、好ちゃんの歩いてゆくその道は見えないにしろ、いづみ子の胸に、あの爽やかで力にみち、よろこびにみちた姿が映らないというわけがありません。いづみ子は日本の女らしい、いじらしい表現でこんな風に云って居ります。
 わたしは日高川の清姫ですから(ユーモアもあるから、大したものよ)自分のからだで海も山も越すことはいといません。けれども、あのひとのおかれている義務のことを考えると、わたしが身をもむようにしたら却ってどんな思いでしょうと思われて、ほんとに私は行儀よいこになります。あのひとは(いづみ子は一番いとしいものの名は、やはり口に出せないたちの女なのね)それがわかって居るとお思いになりますか。あやしいと思うのよ。敏感だけれども鷹揚オーヨーなような気なのですもの。(私が思うに、これはいづみ子の感ちがいね。あなたも私に御同感でしょう? 好ちゃんという人物は相当なものですから、自分の腕のなかにゆったりといづみ子を抱括していて、一寸した彼女の身じろぎだってそれはみんなちゃんと感じとられ応えられているのだわ。いづみ子の表現は、計らず、彼女の愛くるしい慾ばりぶりを率直に示して居て面白く思われます)
 いずれ好ちゃんもたよりよこしましょう。私の方へよりもあなたのところへ書くかもしれないわね、その方が自然でしょうからね。幼な馴染などというものは、世間では惰性的結合になって新鮮さを失いがちですが、あの二人は全然ちがって、二人で感情に目ざめ、育て合い、日々新なりという工合らしいから、つまりは一組の天才たちなのかもしれないわ。昔のひとが良人は天、妻は地なりと云うことを申しましたが、そういう宇宙的献身の見事さや潤沢さは、むしろディオニソス風の色彩のゆたかさで、しかも近代の精神の明るさに貫かれ、全然新種の人間歓喜の一典型でしょう。私も小説家に生れたからには、あますところなくそういう美しさ、よろこび、光について描きたいことね。そういう美は、そのものとして切りはなされて在るのではなくて、全生活行動の強大な脈うつリズムとともにはじめて生命にあふれて表現されるのですから。その純潔な輝やかしさは、露のきらめきさながらね。
 露のきらめきと云えば、前の手紙で、詩を見つけたことお話しいたしましたね。「わが園は」という題の作品なのよ。どちらかというと風変りなテーマです。ほんとはそれを書こうと思ったのに、つい、いづみ子の噂を先にしてしまったらもう七枚にもなりました。つづけて、然し、別の一通として書きましょう。好ちゃんのたよりはお目にかかって伺います、今あなたは手紙をお書けになれませんものね。呉々も体の動かしかたに御用心を。

 八月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十七日
 前ぶれの長かった「わが園は」の話いたします。テーマはいくらか風変りで、支那の詩にでもありそうな情趣です。
 人気ない大きい屋敷の夏の午後です。しげり合った樹木の若葉は緑金色に輝やいて、午後はもう早くありません。一人の白い装をした淑女が、だれもつれず、こまかい砂利をしきつめた道にわが影だけを従えてゆるやかに歩いてゆきます。ゆく手は庭園の一隅で、こちらから見たところ糸杉がきっちり刈りこまれ夏の大気に芳しく繁っているばかりです。白い姿はその緑の芳しいかきねのかげに消えますが、そこ迄行ってみると、糸杉は独特な垣をなしていて、丁度屏風をまわした工合に、一つからもう一つへと白い影を誘い、やがて一つの唐草模様の小さい扉まで導きます。白い装いの人は、永い病気から恢復して、はじめてこの午後の斜光の中を愛する園を訪れたのですが、美しい柔かい旋律のうたは、この扉を今開こうとするときの堪えがたい期待と、あまりの美しさが、自分をうちまかしはしまいかというよろこばしいおそれとからうたいはじめられています。
 扉は開こうとし、しかし未だ開かれません。何が扉の蝶番ちょうつがいを阻むのでしょう。園の花の息づきはつよくあたためられた大気にあふれてもう扉を押すばかりですし、唐草格子のすき間から眺められるのは、ほかならぬ愛蔵の蘭の花です。それは蘭の花の園なのでした。
 金色にあたたまり溶ける光の中に花頭をもたげ、見事な花柱を立てて、わが蘭の花はいのちの盛りに燃えているのを、白いなりのひとは知っています。
 扉は開くかと見えて開きません。何がその蝶番をはばむのでしょう。蘭の花は半ば開き、極めて緻密な植物の肌いっぱりに張り、しなやかにリズムをたたえて花脈を浮き立たせています。蒼空のゆるやかなカーヴを花柱のりがうつしているようです。濃い紅玉と紫水晶のとけ合わされたような花の色どりは立派で、ぐるりに配合された白いこまかな蝶々のような同じ蘭科の花々の真中に珠と燦いて居ります。渋いやさしい眠りに誘うような香気がその高貴な花冠から放散されます。風も光も熱もその花のいのちにおのれのいのちを吸いよせられたかのように、あたりにそよふく風もありません。あるのは香気と光りとばかり。ああわが園の扉は開くかと見え。たゆたう瞬間の思いをうたっているのです。
 詩は、断章です。小説ではないからその白い夏の午後のひとが、遂にその園に入り、その光の上に面を伏せ、自分のいのちの新しさと花のいのちのためによろこび泣いたかどうかということは描かれて居りません。詩をつくった人も、それは時にゆだねて描写しなかったのかもしれません。
 作家とテーマのような作品をつくった詩人に、こういう隠微なたゆたいの詩があるというのも興ふかいことです。わたしはこの詩の味いを好みますが、ひどく気に入っていることは、それがきっとあるままのことなのでしょうが、詩人がその蘭の花の美しさを描くに全く気品たかくて、燦然ときらめく花冠を光のうちに解放しているだけで、ありふれた蝶や蜜蜂をそのまわりに描いていないことです。古い美味な葡萄酒のように花の姿はかっちりと充実し、舌の上に転ばす味の変化をふくみ、雄勁です。花への傾倒は感傷するには余りゆたかという風趣なのです。その味いも決してゆるんだ芸術品には見出せません。健全な大きい陶酔が花をめぐって流れ動いていて、それは自然そのままの堂々とした横溢です。
 雨あがりの午後の光線は、この詩の中のとけた金色に似て樹の葉の上に散って居ります。私は自分のゆるやかながらつよめられている鼓動を感じます。
 伸々と横になっていらっしゃるあなたの手脚に、こんな一篇の詩の物語はどんな諧調をつたえるでしょう、それは気持のよい掌のようであればいいと思うの。

 八月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十九日
 きょうは、はじめて午後の二階が八十六度足らずです。庭で、ホラホラオニ(蚊のかえりかけ)とボーフラ、グロッキーになった! と太郎と咲枝の声がしています。防火用の大きい大きい桶の水が青桐の下に出来て、そこから猛烈に蚊がわくので、その戦いにいろんな薬を試み、ちっとも成功しなかったのに、やっと硫黄の薬(温泉の湯ばな)を見つけて、まいて見たというわけです。昨夜、国男一ヵ月ぶりに帰京しました。東京のじっとり暑いのに参ると云って、きょうは長い顔をしておとなしゅうございます。
 その後いかがでしょう、熱はずっと落付いて居りますか。すこしは味がわかって召上れますか。眠れればよいが、と思います。体のよくないときの夜は何と明けるのが待ち遠しいでしょう。特に夏なんか。ひとの寝息をきき乍ら起きているのは苦しいことね、去年経験いたしましたが。一緒におきている人がいたらたのしかろうと思うことね。そういうとき。
 私は眼の方は「異状なしで」時を待たねばならず、ということでわかりましたが、すこし尿が妙で、きょうお医者に相談いたします。疲れのせいと思っていたが、疲れが、こんなに眠っても軽快にならず、尿はまるでぬか味噌を水にあけたような工合だから変ね。しかし悪性のジン臓は目に出ますから眼底をあんなに検査してどうもなかったのだから、私のこんな疲れかたもやはり「不正型」かもしれないわ、新型の、ね。いずれにせよ、安静を心がけて居ります。どうか御心配にならないで下さい。私の方はいろいろやらなければならないなら、其の出来る条件なのですもの。よく調べてみますから。
 詩の話いかがでしたろう? お気に入ったところもあったでしょうか。(あら、呼んでいるわ)
 今お医者が来ました。やはり疲労で酸が何か変化するのだろうということです、明日検査して貰いますが。大体そんなことなのでしょう。
 今ポツポツとツワイクの「ジョゼフ・フーシェ」というフランスの政治家の伝記をよんで居ります。大変面白い本です。フーシェは大革命の当時からナポレオン時代を通じて活躍した男ですが、彼の特長は全くの無節操無徳義であり白昼公然の裏切りであり、しかも実行力にとんでいて人心の帰趨を観るに敏であった男であります。ロベスピエールを裏切り、ナポレオンを思うままにいやがらせ、当時のフランスの世情の紛糾していたことが可能にした、あらゆる表裏恒ならぬ術策を弄した男です。バルザックがこの人間をその無節操の力のおどろくべき点から描いている由、それからツワイクの興味は目ざまされたのだそうです。フーシェの動きかたの背景としてナポレオン出現時代のフランスの分裂と堕落がよくわかり、ロベスピエールという偏執的潔癖家が、大なる新しい力を余り観念的に純潔に守ろうとしてギロチンにばかりたよって、逆に急速にリアクションを助成し、それに乗じてフーシェがロベスピエールの首をおっことしてしまうところ、なかなか大した歴史の景観です。ロベスピエールたちは議論議論で、しかも大した観念論でやっていたのね。フーシェはそういう弱点にうまくつけ入った男です。裏切ったが、自分のために、ツワイクの云い方ですればバクチの情熱のために冷血なので、自分が安穏にはした金で飼われるのが目的ではなく、同じ無節操の標本であるナポレオン時代の外務大臣タレイランが享楽を窮局の目的としたのとは又違う姿がよく描かれています。
 そして、私に又多くのことを考えさせるのは、著者ツワイクのこういう人物の見かたです。なかなかよく客観的に見ているのですが、しかしツワイクはフーシェのような人物の存在し得た時代の本質については、決して十分把握して居りません。ロベスピエールのような男、卓抜な男が、何故当時にあっていつも大言壮語美辞を並べ、武器としてはギロチンしかなかったか、それで通用ししかも其に倦きた当時のフランスの大変動の歴史的本質。そこにこそフーシェはつけこめたのであるという、存在の可能の意味を明かにしていません。それよりもう一皮二皮上の、人間の時代的関係、めりはり、利害の上にフーシェの存在の可能をおいて居ります。これは著者にとって致命的な点です。何故なら、ツワイクは夫婦で自殺したのですから。二三年前。あれほどの歴史家、評伝家が、どうして今世紀におけるオーストリアの運命や自分に向けられる非人間的強力やについて、史的達観をもち得なかったかということは、おそらく世界中の彼の読者の遺憾とするところでしょう。その内部の原因を知りたいと思って居りました。
「アントワネット」は大戦中にかかれ、「フーシェ」は一九二九年ザルツブルグで書かれて居ます。序文にツワイクは、一九一四――一八年の大戦も「理性と責任から行われたものでなくて甚だいかがわしい性格と悟性しかもたない黒幕的人物の手によってなされたのである」そういう賭博に対し自己防衛のためにもフーシェのような歴史的黒幕人物、所謂外交家の見本を心理学的生物学として研究しておく意味があると云って居ります。バルザックが彼の小説で、英雄的情熱も陋劣と云われる情熱も、感情の化学においては等価値の原素としてみている、ということにツワイクは傾倒して居ります。しかし、これらの考えの中にはたくさんの未だ不明確なものがつめこまれていて、バルザックの所謂等価値論も、今日の理性は、やはりそこに十九世紀を見出します。ツワイクは一見客観的で、しかも十分客観的ではない観察力のために、自分たちの時代と自分の生涯というものを、真に歴史的には生きぬけなかったということが、「フーシェ」をよんでうなずけます。そして文学の世界のおそろしさ、そこにかかる霧のなかなか払いがたくて、惜しい人間の精神をも餌食にする力を感じます。文学なんかこそ、最も強健な精神の所産であるべきです。しかしツワイクは云わば、その自身の限界を極限まで書き、生き、死した文学者として、やはり十分に評価され、帽子をとって挨拶されるべき人間でした。彼は自身を箇人的に完成したものとして知りすぎていたのですね。歴史の歩幅は大きく一箇人の完成は現代において破れ得るものであり、破りかたに永い未来への命があるということは感じなかったのでしょう。彼の緻密さ動向観察、光彩、精神の高さは、ヨーロッパの昨日までの一高峰であったと思います。ツワイクが「流謫るたくこそは創造的天才をして、己の真の事業の視界と高さとを測らしめるものだ」という極めて感銘の深い言葉をフーシェについて書きつつも、自身の流謫的境遇を何故そのようなものとして、「眠ることを知らざる人間の意志の鍛錬されるところ」としてうけとれなかったのでしょうね。近い時代に文学者の死で、私たちに生きることを教えて人たちとしてバージニア・ウルフ。ツワイク。トルラーなどがあります。これらの人たちは自分たちをはぐくみ、自分が創造して来た昨日までのヨーロッパ文化のよかれあしかれ最良の分野の生存者でした。異様な形の入道雲を地平線にのさばらせつつ崩壊する旧文化とともに命を終った人たちです。
 いつぞやの『外交史』ね。私はフーシェをよむにつれ、アントワネットをよむにつれあの本がよみたいのよ。どうか上下二冊送るようにして下さい。ロベスピエールなど、又ナポレオンの外交、タレイランの外交をあの本はどう見ているでしょうか。ツワイクがナポレオンの活動の最も人類的高貴なのは、政権を統一し不換紙幣の整理をし、いらざる流血を終息させ、生産を興隆させた執政官時代であり、コルシカ人のフランスに対する復讐的虚無心にもえた弟たち妹たちの愚行と次第につのるナポレオンの好戦慾、勝利そのものへの乱酔が、遂に悪行となって没落したと、二つに分けているのは尤もと思います。長くなってしまったことね。ではお大事に。明後日はお目にかかります。

 九月四日 (封筒なし)

 九月四日
 きのうは何と大きい気持よい夕立だったでしょう。降りそうな雲の様子ではありましたが、あんなに堂々とふって。柔かい弾力ある雨粒が沛然と地面をうち、それは私の全身につたわり、その音や景色を眺めるうちに、段々気が遠くなってゆくようでした。つよい雨のリズムが脊髄に真直映って。私は何とも云えず快く疲れて、けさは何時間眠ったとお思いになって? 又無慮十三時間よ。
 知っている女の人が満州へ行くのでおせんべつの買いものに出かけなければならないのだけれども、何となしぽーとして坐っているの。八十六度ありますが、風は、さすが夕立の後で、というより二百十日のあとらしく秋の気勢です。
 きのうは小さい子供がどっさりいて、かたまって遊んでいるのを待つ間見ていました。子供が自分の親愛なものを何でも手を出してつかまえ口へもってゆくの面白いことね。うちの健坊もそうです。手と一緒に顔が出て行くのよ。口をとがらして。手につかまると同時に口へ入れるの。そして満足そうにして色ざしのいい口でしゃぶります。人間の自然な表現というものは何と素朴で、生きものらしくて肉体的でしょうね。好きというこころや可愛い思いなどというものは、本当に活々としたもので、それは心の動きそのまま行動で、子供たちやその子供を可愛がる母親なんか、一つ一つをみんな肉体的なものに表現しているのに感服します。土台そういうものなのよ、ね。
 火曜日は、前日に五ヵ月ぶりで用事が一段落し、それも初め考えて居たよりすらりとまとまったので、やっとのんびりした気分で、それをあなたにもおつたえしたい心持でした。ところが、それどころか、あの日は、まるで水浅黄の丸い雲のかたまりが寝台の横へおりたと思うと、エノケンの孫悟空の舞台の五色雲のつくりものではないが、忽ちスルスルと糸にひっぱられて消えてしまったというような工合でした。
 今までの本なんか、そのままでいい風です。文学の仕事だけをする分にはさしつかえもないことになるようです。でもこれは事情が錯綜している上、紙なしですから、いずれにしろごく内輪なことにしかならないでしょう。しかし冬にでもなってもうすこし体がしっかりしたら一日に時間をきめ仕事をはじめたいと思って居ります。八月末に大東亜文学者大会というのが(第二回)開かれ、支那の婦人作家が一人来たのを吉屋信子の家へよんで、婦人作家たちが「小さいお友達」のように(新聞の表現)歓談したそうで、写真が出て居りました。女の作家も外交官の下っぱの細君が考えたりやったりする位のつき合いかたを学んで来たのは結構かもしれませんが、文学の話は「小さいお友達」では無理だったのでもありましょうか。支那の文学と婦人の作家のことも私は本でわかる範囲だけでも知りたいと思って居ります。そんなことも冬になって疲れが直ってからのたのしみです。小説も。今は全く夏の疲れが出て居て意気地なしのところ。今日あたりからノイザールという燐剤の静脈注射をはじめます。神経にすこし肥料をやって眼の方をよくしたいし、頭のてっぺんの疲労感をとってしまいたくて。これまで、私は余り気分よい頭でありすぎたのかもしれないことね。その爽やかさ、疲れなさを忘れられず、どうしてもそこを標準にして健康をはかるものだから。
 きょうは、それでも思いかけず、愛用のボンボンが手に入り、これで当分しのげるとうれしゅうございます。あんまり久しぶりで口にふくみ、感動が深すぎて、あとからやっと味がわかるという工合よ。病気以来はじめてですもの。薬屋さんは親切に心がけ、いろいろ気を配ってくれていることはよく分って居りましたが、配給に時があるし、あの原料は貴重でなかなかなのです、御存知のとおり。私の体によくきく燐を主とした薬は全くこの頃欠乏です、どこにどう使われるのかしら。
 あなたがひどく憔悴なさらないうちに熱が落付いたのはほんとに何よりでした。前に体がいくらかしっかりしていらしたのも大助りでした。
 何と云っても体重も減りつかれていらっしゃるでしょうが、そろりそろりととりかえして行きましょう。これからは凌ぎよくもなりますし。
 でも、よかったことね。あなたは熱病をなさりやすいかと思って全くはらはらいたしました。隆治さんの無事なのもうれしゅうございました。きっとあのひとは一ヵ月に一度は書いているのでしょうが、こちらへ着く分が間遠くなるのでしょう。送るものそろえます。
『重吉漂流記』お送りいたします。弁次郎の方はよほど以前どこかの本やから出て、今は古本でもあるかしら。いつだったか叢書のように日本の海外漂流記と外人の日本漂流記とが出版されたぎりです。今なんか面白いでしょうのにね。本屋がつぶれたのかもしれません。
 おかしいこと。きょうはまだ眠いというのはどうしたわけでしょう。これを書いたらちょいと枕を出して、コロリとなり又眠りましょう、今週は月曜以来きのうまで割合出る用がつづいて疲れたのかしら。
 夕立があんまり見事に雄大で、それにうたれすぎたのかしら。露の重さというわけなのかしら。
 わたしのもんぺ姿は、丸さはともかくとして好評ですが、御感想いかが? これからはああいう風体のことも珍しくなくなることでしょう。帰りに靴を買いました。サメの皮よ。それで雨に弱いって可笑しいと云ったら曰く「やっぱり皮んなっちまうと駄目ですなア」

 九月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月八日
 さすがに八十度を越しても二三度という涼しさになりました。でも湿気のひどいこと。この頃は湿っぽさでやり切れない方です。
 先週は疲れが出てひどかったが、今週になってよほどましになり、尿もいくらか澄んで参りました。
 あんな位病気をすると、二三年は夏を特別用心するべきですね、来年は事情が許せばそのつもりでかかりましょう、今年は用事をぬきにしたって、私として何ヵ月も東京を離れる心持になれないところもあったわけです。一年近く御無沙汰した揚句には、ね。
 この頃は光線の工合がよくて、余り疲れていないと新聞の字もよめます。そして、これは大変私の毎日をたのしくいたします。何しろ今の世界の面白さこそかかる世に生れ合わしたる身の果報というべきところがあって、新聞は今の新聞なりに面白うございますから。本当に丈夫になり、眼もはっきりさせ、世界歴史の面白さを、面白さとしてうけとれるだけ丈夫になっていたいと思います。面白さの反面にある大した困難は明らかなことであり、あんまり自分の巣についてぬくまった人々は、そういう変化から又刺戟をうけて、本来の雄大な動きを見失うようですから。
 しかしながら、其につけても思うのは、一貫した生活態度――よく現実を見て、活々とそれに対応して、しかも原則をもった生きかた――のつよさ、効力、自立性というものを痛切に感じます。
 一つ一つよせてはかえす波にばかり目をとられず、潮を見られる人が船のりでありましょう。操縦されはじめると、人間も本質的には終りね。秀吉だって若いときはそうでもなかったでしょうが、老年になってホタルく歌をよんだら、そろり新左が、螢が鳴いたということは天下にないとがんばって、すこしけんかめいて来たら、細川幽斎が、雨が降って鳴く虫は一つもいないのに螢ばかりが鳴いている、という古歌をもち出して、「されば螢も鳴くと見えます」などと云って操縦しました。それできげんを直すほどヤキがまわったから、あの始末ね。この話は、細川幽斎という人物を私たちにきらわせます。細川という殿様はこういう処世術をあの時代に珍しい学問にからめて持ち合わせていて、大大名として今も一番の金持華族です。細川といううちは政治に手を出さないのが慣わしの由。日本の美術蒐集では圧巻でしょう。春草の「落葉」は護立侯所蔵ですし。
 きのう、ふと活字が大きいのにひかされて谷崎の「盲目物語」をよみました。覚えていらっしゃるでしょうか、昭和七年頃。横とじの、吉野の手すき紙で装幀して横帙に入れた本よ。小谷の方と淀君の少女時代につかえた盲目の按摩、遊芸の上手が、信長の妹お市が、浅井長政の妻となり、兄の裏切りで良人を攻めほろぼされ、息子をころされ、清洲城にこもって十年暮したあと、本能寺の変後、柴田の妻となり、恋仇の秀吉に攻められ、娘三人(お茶々を入れて)を秀吉方へつかわして、自分は一年足らずつれそった勝家と城の天守で自尽するいきさつ。お茶々の短い後日譚を、おちぶれて宿場按摩になっているその男が物語った体です。
 谷崎らしく盲目の男の、美女である小谷の方とお茶々への感覚を絡めたり、当時流行の隆達節の考証をはさんだり、ともかく面白くよませました。しかしこうしてみると、谷崎の文学はもろいものですね。荷風の方が彼なりに粘っています。例えば例の「つゆのあとさき」、ね。あんなものにしろ、ともかく現代の、ああいう女給やそのひもの生活を見て、描写してかいています。「※(「さんずい+墨」第3水準1-87-25)東綺譚」にしろ、冷やかで、独善で、すかないが、谷崎のように高野山あたりでのんきに納って、狐つきの話なんか、十年前に書いては居りません。
 谷崎のもろさは文学的に面白いことね、彼の文学上の下らない安易さ、もろさは彼の所謂悪魔主義が、この国の文化の性質らしく、あるところで妙なボダイ心をおこし、享楽主義も中途で平凡な善悪にひっからまってしまって、あんなことになったのね。大正のネオ・ロマンチシズムの末路の一典型であると思います。春夫が奇妙な生き恥を文学上さらしているのと好一対。しかし谷崎の方がすこし上です人物が。谷崎は、春夫ほどケチな俗気にかかずらって文学をついに勘ちがえしていませんから。
 藤村は「東方の門」という長篇(岡倉天心を主人公にするものの予定でした由)の第三回をかいていて、死にました。七月下旬大東亜文学者大会というのが二十五日にひらかれ、Yなどが満州代表として来たりした一二日前に。「夜明け前」のような主調を、一まわり東洋にひろげたものであったのでしょう。この作家はいやな男ですが、文学者としての計画性について、それを押しとおす実際の努力について、学ぶべきところはあると思います。人物のいやな面を十分みぬきつつも、一方のそういう力は学ぶべきですね。どういう意味と目的とからにしろ、彼ぐらい計画性にとんだ作家はいません。あの年代の人で。秋声は人聞は遙かにいいけれども、自然発生にああなのだし、正宗に到っては、旦那衆の境遇上のスタビリティーですし。
 きょうは颱風模様で、ここの隣組は防空演習なのに、咲枝気の毒です。私は出ないの。あぶないから、まだ。泰子は結核の方はかかっていないで、ああいう体だから恢復がむずかしいのですって。わたしの燐の注射は利くのでしょうが、薬が四年前に製造中止で十本しかないのは哀れです。頓服でいいのがあるけれども其も入手が骨で全くの貴重薬です。
 スープの味はいかがでしたか。どうか呉々もお大事に。わたしのために、どうかいいよいいよとおっしゃらないでね。東洋経済へのお金のこと間違なくいたしますから。では又、きょうのようなべとつく日、さぞあつい湯で体をおふきになりたいことでしょう。

 九月八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(青森林檎畠の写真絵はがき)〕

 九月八日
 ペンさんが青森へ行って、おみやげに林檎りんご畑のえはがきを買って来てくれました。昔、「土」という映画があって、ウクライナの麦や果実がたわわに露にぬれているところを美しさきわまりなく芸術化したのがありました。それから見ればあまりつつましいけれども、それでもすがすがしさがあります。上林にもリンゴ畑の小さいのがありました。

 九月八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西沢笛畝筆「十和田湖と三羽浦秋色」の絵はがき)〕

 大町桂月が十和田を有名にしてから、アパート式のホテルが出来たりしているそうです。しかし自然はやはりなかなか雄大でみごとらしく、これは気の毒な地方の人が風雅と心得た絵で、笛畝は人形絵の専門家でしょう?
 何とチンマリした十和田でしょう。

 九月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月九日
 なかなか又暑い日となりましたが、それでも秋らしさも濃くて面白い日です。風のふき工合など。南も北もからりとあけた二階で、ものを干したりしていると、風にカタカタと小障子の鳴る音がして、それはまぎれもない秋日和の感じです。昨夜なども面白い夜でした。
 月が早く落ちて、夜の十一時頃西に傾いた月が庭木をひとしお暗く浮き立たせながら、光を失った色で梢に近くありました。星は光を消されないで小さく澄みながら窓に輝いていたり。
 稲子さんの書いたものにも、ほかのひとのにも、南方に冬がなく、夏つづき、正月にひとえを着て雑煮をたべる妙な気持をしきり云っていますが、こんなこまかな日本の季節の感じに馴れたものは全く夏つづきというにはぼーっといたしましょう。隆治さんはジャワでようございました。あすこも夏ばかり、花の咲きつづけのところですって。しかし、なかでは凌ぎよい由。花が咲く、という言葉には、深い感じがあって、それこそ花のない町という裏づけがあってこそなのだのに、年がら年じゅう花が赤く黄色く開きぱなしの自然の中では、よろこびの感覚さえ眠ってしまうでしょうね。
 ゴーギャンの絵の感覚は、そういう自然の中に他国の感覚で入って行って、全身をそこに浸したときの作品ですね。文学は生れますまいね。音楽が単調になることもわかります。
 私は季節の変化を愛し、北方的な人間だから、のろのろぬうとした樹木を見てもこわい方です。日向に青島というのがあり。どうかして太古に漂着して日向の海岸のその小島ばかり今も南洋の椰子棕梠を茂らせているところを見に行って、蛇がからまり合って立ち上ったような樹々を見て、動物的なのに大恐縮してしまったのを思い出します。
 動物的と云えば、上野に住んでいた猛獣たちは市民の平安のため処置されました。火、音響などによわいから。上野公園に昔平和博というのがあって、父は第一会場(上の方)をうけもち、いろいろ空想して自分の好きなサラセン模様の音楽堂などをこしらえました。美しいものでした。その時、紙屑入れとして場内に牧羊神パンの山羊の頭のついた紙屑入れをつくり、市の公園課が気に入って、ずっと最近までそれが鉄に白エナメルをかけて置かれていましたが、金だから献納になり、今は一匹も居ないそうです。国男さんが気づいて話しました。その晩床に入ったらこんな歌が出ました。

 最近二十何年間にたった二つのうたと云えば先ず珍品に属しましょうか。
『文芸』のNの「混血児」。久しぶりでこのひとの書いたものをよみ、ちびた細筆で不足の絵具でカスカスにかかれているスケッチを見た感じでした。小説かいていた時の、よかれあしかれ、非常に低い素質のものながらぽってりとのびのよかった筆致は失われました。よくうれて、よくかせぐが、根に新しい境地が拓けていず、本当には文学がそのひとなりの前進をとげていないでああなのですね。文学くさいのが却っていやですね。あいまいな、鈍い、小さいそのくせ作家意識から神経を張ったような書きかたで。
 尾崎士郎は「人生劇場」で浪花節のさわりめいた味を出したが、この頃、いろいろ経験したらその不用な感情の屈曲がとれて、感性が自分の脚で立つようになって、従って心情に湛える力が出来、同じながら火野のプロフェショナルにひねこびたのとは違った工合になって来ているようです。やっぱり細かいところで一人一人のちがいはあるものと感服いたします。
 きのうもレンブラントの話していて、本ものを見たときどんな気がするということから、例えばベラスケスなんか何と美しい芸術だろうと思うし、ヴァン・ダイクなど実に人間も着物もうまく描いてある、成程と感心しますけれど、レンブラントの大作を見たときは何だか其が描いてあるという感じなんかしなくて、――絵の限界が分らないのね――その世界がそこに在るという気持、自分がその中に我もなく吸いよせられる感じ、逆に云えば、見た、見ているという広々として人生的にリアルな感じしかないのです。
 これは何心なく話していて、自分でおどろきを新たにいたしました。レムブラントの内面のひろさふかさ、人生への誠実はそんなだったのね、不朽の大家たる全き本質です。
 いきなり人生にひきこむような文学は少い。トルストイがえらい、バルザックがえらいという、そのえらさが多くは文学という人生の一局面からだけ云われるのね。特に小さい人々の側からいう時。芸術家の時代の相違のみならず、バルザックよりはレンブラントが上です。フーシェ伝(ツワイク)をよむと、バルザックの世界の渾沌雄大醜悪可憐は即ちあの時代のものであったと思います。バルザックは芸術家として根本の態度に、真似ては今日の作家が迷路に入る要素があるが、レンブラントの態度は、時代の叡智に掘りぬける本質のものです。
 イタリーが盲爆で多くの古典美術を失いました。それらは世界の宝でした。惜しいことは実に惜しい。けれども明日のイタリーの人たちのためには果してどうでしょう。イタリーは過去の栄光が巨大すぎ、食いつくせない遺産の上に立って居て、ルネサンス以降現代迄が芸術上新しい宝を生む力を萎靡させていた大きな衰弱を自覚しませんでした。一九四一年に又もやレオナルド展が世界巡業を行ったことは、不滅というよりも「さまよえるダッチマン」のオペラ式で、おおレオナルドをして安らかに眠らしめよと、シェークスピアなら科白にかくべきところでした。多くのものが失われ、それを灰燼に帰した暴力は世紀の恥辱ですが、イタリーそのものについては、あんまりたっぷりした祖先の財産からすこし解放され、御家宝拝見料で食わなくなる方が将来清新な、その時代のイタリーの建設にふさわしい芸術が開花するかもしれません。少くともイタリーのひとが本当に自分の国の誇りについて考えたとき、そういう勇気にふるい立つ筈でしょう。
 この手紙の一銭の切手は、なかなかいじらしいでしょう、日本の切手に女の働き姿が現れた恐らくコウ矢ではないでしょうか。

ノイザールという私の薬、これからも買えそうでうれしゅうございます、利くから。

 九月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(史蹟開成館の写真絵はがき)〕

 私が子供時分は、ここを村の人たちは「三階」と呼んでいて、村役場がありました。村役場につかったのこりの裏側の部屋部屋を人にかしていて、久米正雄母子はその松林に向ったところに暮していました。寿江子からの手紙によると、郡山の東に何里もある飛行場が出来かかっているそうです。トラックと軍靴の音が北へ北へと響くそうです。ずいぶんかわって来たとおどろかれます。 九月十日

 九月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(開成山の中條阿部両氏の記念碑と銅像の写真絵はがき)〕

 九月十日
 こんなものも私はまだ見たことがありません。郡山市読本というものにおじいさんのことがあって、私たちの知らない旧藩時代の勉学の閲歴などかいてありました。野上さんの息子がローマ大学の助教授なので、休戦したについて父さんの談話が出ていました。あっちに立派な能面や衣裳が行ったままになっていたのね。細川や蜂須賀所蔵の。緑郎夫婦の暮しも追々大きく変化することでしょうと察しられます。

 九月十日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十日
 いまは、夜の九時。涼しい風が吹きとおします、お湯をあびて来てここに坐っていたら話したくなりました。
 きょうは、やや臥つかれたという御様子でしたね。無理もないと思います。いろいろと経験を重ねていらっしゃるから病気と闘う方法は会得していらっしゃるにしろ、ずっとお臥になって一ヵ月以上経ったのですものね。臥ていらっしゃる体がぎごちないというのは本当です。てのひらで撫でてほぐすべきところです、咲枝も丁度臥つかれた時分だわね、と衷心から云って居りました。
 そういう疲れかたは著しいにしろ、先、腸の病気のとき恢復しかかって初めて会って下すった時の、あの忘られない憔悴は今度ありません。あのときの憔悴というものは、全くひどくて今迄申しませんでしたけれど、あなたの濃い髪の色が赤っぽく変って、生えぎわから浮いてポヤポヤに見えました。今度は毛が脱けるかもしれないけれどもあんなすさまじいやつれはありません。ただ、あの病菌はやはりこわいと思います。疲れかたがやはり深く時間をかけて恢復しなければならないのですもの。
 そうやっていらして、悪い刺戟はないでしょうが、同時に、恢復のためにいい刺戟のうちに数えられる種類のことも少くてそれは不便です。私が癒るためにいい刺戟に不足していたと同じに。そのために時間をくうという点もあります。幸、今に涼しくなると、もう少し度々行くことも出来るようになり、あなたも体のもちかたが楽におなりになり、幾分はましとなりましょう。
 一寸お話していたとおりノイザールという薬は利いてこれ迄ずっといつも圧巻があって悲しかった頭のてっぺんが軽やかになりました。疲れが少くてよくなったこと、涼しくなったこと、薬が合うこと、あなたが安定を得て下すったこと、みんなそれは私の頭のてっぺんを軽やかにする原因でした。
 カッパの頭のてっぺんに何故人間は皿を描きはじめたでしょう。面白いしおかしいことね。どうせ架空のものでしょう。その頭の皿が乾くと力がぬけるなんていうのは感覚の問題で、人間は頭のてっぺんの工合について昔から何か無関心ではなかったというのでしょうか。この頃こんなことを云って笑うのよ。「河童の皿が内へ、凹まなくなったからいい気持!」すると、咲枝が答えます、「ほんとにそうらしいことよ、顔つきも落付いて来てよ」脳天の大切さ沁々と感じます。
 御存知の鈴木氏の令嬢二人のうち長女が半沢氏へ嫁しました。三年前。結婚のときも、一寸相談をうけ、お父さんはあらゆる条件をととのえ、理想的な結婚をさせ、北京に出張していました。技師だったの。そしたらこの六月、東京へ帰任する決定で、最後の出張をして小さい村にある事務所にとまったら、その夜襲われて奮闘の後命をおとされました。兄さんとお父さんとが北京へ行って、「家財をとりまとめ」東京へ帰って来て、若い未亡人はお里と嫁家と半々に暮すことになりました。一男あり、三歳です。
 私はこの人たちのつみのない幸福が、こうして破られたことにつき、又、娘の幸福を、万全つくして守ろうと努力して、より大きい力にその計画を挫かれた父親の心を深く同情して、通知を貰ったとき手紙をかき、お盆には娘さんにシートンの『動物記』をあげました。本当は、シューマンの詩人の恋というリード集のレコードがあってね、その歌曲を聴いていると、シューマンという人を通して、生粋の男の真の優しさ、情愛、愛着が身に沁みとおって感じられ、暖い暖い勇気を覚えます。その歌曲のメロディーに合わせて胸の底から鳴り出して来る女の真情が自覚されて来て、それは全く男の中の真実に相答えるものです。妻たる女が良人を愛しているという本当の意味で生きている女が、初めて感応する深みです。そのレコードをあげたら、親にも子にも話しても分らず、又言葉ではない良人のなさけ、それに浴した妻のよろこびと涙とを感じて、涙の中から最も感情として純粋に立ち上れると思ったのでした。今頃そんな高級レコードはおいそれと買えないのよ。それで生も死も純粋な形である野獣の生活、そこにある生命力情愛の様々をよんだら、何かこまごまと世情人情にからみこまれた気分から、清冽な気分を味えようと思って。
 そしたら一家じゅうの愛書となり大変よかったのですが、父さんは、手紙をよこされ、小さい男の子は自分が親代りになって育てるつもりだとのことです。これは婚家の気風の何かを無語のうちに反映していますし、娘の将来の生きかたについて思いなやんでいるとありました。娘さんは何か相談があるのでしょう。私のような後輩まで娘にとっての先輩としてそんなことも話す父親の情をつよく感じます。私たちも、情の深い父親をもって居りましたから。覚えていらして? スカンジナヴィアへ行かないかと云ったこと。あんな風でしたもの。それを云ったときの父の遠慮したような、心を砕いているような表情を時々思い起します。娘さんとしては又おのずから様々の感情でしょう、だって、父があんなに万全をつくして確保してくれようとした幸福、しっかり枠をつけてそこから逃げないようにしてくれた筈の幸福は、こんなにもあっさり破れたのですもの。父さんの力をもってしても及びがたき人生を痛感しているでしょう。
 そして私はこう考えるのよ。父さんの愛は常識に立ちすぎていて、幸福と世上に称する条件を、そのまま固定的に揃えて、それで幸福を確保しようとするところに悲劇があります。勇気をふるって、お前の不幸をも賭して幸福をつかまえて見よ、という境地に立っていません。勿論そこまで行くのは謂わば一つの禅機です。底を抜いたところがいります。娘さんの人柄に対してそういうのも無理かもしれません。しかし人生はそういうものよ、ね。そこに千年ちとせの巖があるのです。巖に花も咲きます。つながりの工合だけで決定されてゆく人生というものは、謂わば果敢はかないものですね。
 現実に身のふりかたをきめるとなって数々の困難のあることもよくわかります。身をすててこそ浮ぶ瀬もあれ、というのは古今集の表現で、時代的なニュアンスが濃いが、最も勇猛的な解釈もつくわけです。それに、そこまで自分を鍛えられるほどの底深い情熱をもち得る対象にめぐり合えるか合えないかということもまことにこれこそ千に一つの兼ね合いですものね。めぐり合ったとき、どうせ自分は未熟きわまるもので、もしもその対手がそこに可能を見出さなければ、それきりのことですもの。相互的というところもあるにはありますけれども。
 きょう、かえりに、あの辺はお祭りで、町の神輿みこしを献納するための最後の祭りでした。花笠だの揃いの法被はっぴ、赤い襷の鈴、男の児の白粉をつけた顔、まことに珍しく眺めて停留場へ来たら彼方に一台電車が留っていて動かないのよ。子供をひいたという声がします。子供の大群がそちらの方へ駈けてゆき、男の大人が一人シャツだけでワッショイワッショイと両手で子供の群を煽って亢奮して駈けてゆきました。きれいな祭着の女の子たちもまじってゆくの、かけて。
 その子はいいあんばいに小さくて車体の下へころがりこんで命に別状なくてすんだ由。でも秋日和に照らされて電車は動かず、王子の方へゆく電車で大塚まで出て市電でかえりました。菊富士に部屋もっていた頃、目白へかえるのに大塚終点までよく来たので、独特な視線であのあたり眺めました。山海楼という大きい支那料理やが出来ていました。

 九月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十二日
 きのうは大変珍しい冒険をいたしました。というのは、病気以来はじめて、三井コレクションの絵を見に行って、かえりにペンさんのところで夕飯を食べたのです。平河町の停留場の角に光ヶ丘病院というのがあるの御存じでしょうか。あすこは昔聖マリア館と云って聖公会からイギリス婦人が来て住んでいて、ミス・ボイドという人も居り、そこへ本郷からよく通ったものでした。そこが先年から光ヶ丘病院となりました。そこについて曲って一寸行った右側。三井の誰なのか、去年からコレクションを小さい展覧場をこしらえて公開いたします、各土曜の午後。僅か十数点です。その位なら大丈夫だろうと出かけ、久しぶりで心持よく亢奮しました。
 いつかお送りしたモネの色彩的な「断崖」、ヴァン・ダイクの極く小さいもの。(この紙の倍ぐらい)コローの二十号(?)位。ブリューゲルの(冬)黒田清輝の先生であったコランの「草上の女」そのほか数点でした。美術学生が主として来ています。その人たちが近づいたり遠のいたり技法や(色のおきかた、コムポジション)を研究しているのを見ていて、何か私は洋画の伝統というものについて痛切に感じました。これらのクラシックのものは、どれも本物ではありますが、其々の大作家の全スケールからみれば全クフラグメントです。コローにしろ、ブリューゲル、ヴァン・ダイクみんなみんな壁を圧する大作をもっている巨匠で、その大さその精励、努力を土台として、小品もつくっているのです。しかし、こうやって将来されている作品しか見ることの出来ない人達は大家の世界的な規模、容積、気魄に打たれ、という芸術上のありがたい刺戟を感じることは少くて、何か近づきやすく詮索がましく、高揚されるより真似の出来るところをさがすという傾です。日本の金持はなかなか大きな作品は買えないということにひそめられる大きい意味を感じ、体がひきしまるようでした。
 ペンさんは十月二日におよめに行くから一緒に一度御飯たべようと思い、しかしこの頃は外食券がないと御飯たべられないのですって。そこでペンさんの家へゆき、おかずを私が買って母子と三人でたべ九時、夕立の後かえりました。月夜の中を、送ってもらって。
 きょうはいくらか御疲労です。けれどもいい心持よ、何しろ、ほんとうに足かけ三年来はじめて用事でなくて外出したのですもの。音楽は音の刺戟がきっと大きいでしょうからもっとあとのことです、眠れなくなるといけないから、ね。
 本きょう頂きました。ホグベンの『市民の科学』を序よみましたら、この人は奥さんも経済学の統計学者なのね。四人の子もちです。奥さんは人口問題についていい仕事をしている由。すこし自分の心持を辛辣に出しすぎた序文です。しかし、「単純な真理について語ることを自分の権威にかかわることとは考えなかった」偉大な科学者たち、ファラデイ(「ローソクの科学」の著者ね)、チンダル(「アルプスの氷河」の研究)、ハクスリー(「死とは何か」)などを先輩と仰いでいるから仕事には責任を負っているでしょう。それに経済史のひとや教育学、応用数学の人たちの共働があります。そして序文にその本が出来たのは、ゴルフや宴会を系統的にことわって来たたまものだと云っています。
 汽車にのっている間にかいた原稿が土台なのよ、タイプで原稿をつくるということにはこんな大きい能率上のプラスがあるのね。
 果して私によめるのかどうか、何にしろひどい数学の力ですからあやしいものね。
 この頃になって、自分の生活事情や性格というものに及んでも考えますが、私は十年前の旅行のとき何と筆不精だったでしょう。そして何とものを知らなかったでしょう、今は惜しいと思います、どうしてもっと細かく見聞を書いておかなかったでしょう。旅行のつれの関係もあり、ごく世俗的な興味や関心で消費していた点もあったけれど。私は筆まめに書きはしても、実質の飛躍のなかった人よりましというのがせめてもの慰めです。あとから書いた見聞の紹介はどっさりありましたけれども。
 例えばバクー大学にスキタイ文化の遺跡の集められたものがあって、これは日本の天平時代の美術と全く通じます。支那を通って日本に入ったのですが。タシケントの手前の蒙古にあったというギリシア文化と支那の文化の混交した古都のことなんか何も知らず、あのバクー大学の考古学参考室なんか、今考えると惜しいの惜しくないの。お察し下さい。大東亜という言葉の本当のよりどころは、そういう大きい文化の流れをとらえなければならない筈でしょうし。
 そのときは、ああ奈良朝の美術はここから来ていると漠然思ったきりで、ちっとも深く勉強しませんでした。惜しかったことね。固定して古典詮索の興味よりも、交易商業というようなことで古代の人間が不便な中を大きく動いたそこが面白いのね、ホグベンが再発見した支那から欧州への「絹の道シルク・ロード」のようなものです。その道に当っていたらしいのですね。そのギリシアとペルシア支那文化のとけ合った全く独特の都会というのも。三蔵の大旅行の時代には在ったそうです。
「金髪のエクベルト」早速よみました。いかにもドイツの話ね、あの白っぽいドイツの金髪の色と灰色とみどりのような配合の物語ね。
 因果というようなモティーヴを兄妹の恋という形でつかまえるのは東西同じね。歌舞伎のお富と切られ与三郎の芝居で、お富は自分を救ったのが兄と知らず、どうして落城しないかと盛に手管をつくし、あんまり固いのでやけで与三といきさつを生じ、旦那たる兄から打ちあけられる場面があります。でもそこが日本の世話もので、金髪の騎士のような手のこんだ魔法は作用していないから、お富が「因果のほどもおそろしい、わたしゃあまあ穴でもあったらほんに入ってしまいたい」と袂で顔をかくすところを梅幸はうまくやりました。あの物語はドイツの空想の特徴が出て居りますね、風景の描写にしろ。面白いけれど、好きというのではないことねえ。きょうはこれからひるねをいたします。

 九月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十四日
 きのうは、あんな装束で、お笑いになったけれども、帰りは大した降りで、すっかり体まで雨がしみとおり、顔を流れて、前方が見にくいほどでした。眼鏡はいろいろのとき不便ね。雨のしぶきが傘の布地をとおしてこまかくついてしまうのよ。
 一般に女の装は随分かわりましたが、特にこの一ヵ月には、殆ど大抵元禄袖になりました。いい着物をぶっすりと切っているのが、一種の伊達めいて、面白いものですね。どんなところにもこういう心理があるところが、人間のおもしろい眺めかもしれず。
 昔のように、袂に文をなげ入れるということはない当今だから、誰にとってもきっと便利の方が不便よりも多いのよ。
 食べたいものと云えば、この頃の暮しは変ったものです。ガス節約ですから(十人で一円五十何銭)御飯は土間のへっついで炊いて、ガスは子供用に使うため、お茶さえのみません、朝夕だけ。あとは水。冬はこうは行きますまい。
 電燈も凡そ半分迄。乾パン、うどん粉、うどんが半月分当ります。乾パンは小さく長方形のもの。私は好きでよくたべます。うどんは、いつも昼飯に。これはゆでたのを一寸いためてたべます。うどん粉はパンをつくるのだけれど、うちの技師ギシは、いつも、原始人の粉饅頭に似たものをつくり、おかあさん出動しないとフワリとしたものにならないのだから妙です。フーワリとすると美味しいものよ。プワリプワリ鯉がをたべるようにたべるのよ。
 健之助は丈夫で肥って、いつの間にかおかゆをたべ、きっと、あなたの召上る位のをたべているらしいわ。そして満足なときは、頭をかっくりかっくりやって合点いたします、明るい子らしいわ。一寸不安なときは、兄貴に似た表情をいたします。そしてその表情は親父のする表情で、そのおやじの表情はおじいさん似だから可笑しいものです。
 今年は何だか実に迅く時がすぎます。何しろ世界が一週間か二週間の間にあっちに廻りこっちに廻りするのだから無理ないと思いますけれど。
 ホグベンという人(市民の科学)は、科学的ヒューマニズムという一派の人ですね。科学の発展は、実際生活上の発明、必要、創意によってすすめられて来たものであり、ギリシアの科学は奴隷を自由人にしなければ発展し得なかった、と云うことを云っていて、科学をつめたい概念の所産ではないという啓蒙しようとしている立場でしょう。しかしイギリス人らしい実用性の限界をもっていて、科学は「職人の技の組織的に組立てられたものである」という前提です。これはあき足りません。原始生活において、人間が一つの経験を得、次に其を応用するときは、例えば枝と石をこすり合わす合わせかたという技を応用するよりも、根本的な発展は、その摩擦は火を発するという原理の発見と確立です。人間が理性をもつ生きものという最大の特長はその悟性でしょうから、例え表現上にしろ、ホグベンの概括は十分と云えないと思います。生産と科学の関係を見ようという健全な希望は、一方に、足をとられて機械論、或は反映論に陥っていて、これは根本において科学的でありません。それに奇妙なのは、ケプラーの法則について語っているとき、自然科学がケプラー(中世の大科学者)の時代に脱しかけていた段階を、社会科学はまだ間誤間誤していると云って、ロビン教授という私共国外のものには存在の意義のない経済学者の本から引用して批判したりしているのは、何か場はずれで、そのこと自身、著者の科学の底の浅さを示していて、大いに臭気紛々です。イギリスという国は妙でショウのような人間、チェスタトーンのような人間、ホグベンのような人を生みます、伝統の重さが、理性にのしかかっていて、それを反撥するところ迄は新鮮だが、はねのけ切る力はないために皮肉になるという風で、その皮肉もやがてポーズになって、そこに落付くから、結局はくだらない無力のものです。
 文学においても科学においても、つまり人生に於て、皮肉を云っている人間は牙のない虎で、しんは、綿がつまっているようなもの也。
 ホグベンの本は冨美ちゃんに教材としていいかとも思い、将来太郎のためにもいいかと思ったのですが、そうでもないよう。下巻は買いますまい。
 科学事象の説明は(例のひき方は)生活に即し人類社会の進歩の段階に応じてその選択はされて居りますが、何となし根本に混乱が感じられます。
 藤田嗣治の絵について感想がありますが、それは又この次にね。要は、日本の画壇は藤田をうるし屋(ぬるという点)とか何とか悪口したが、勉強していて、それは決して馬鹿に出来るものでないということです。軍用画においてです。この話は又別にゆっくり。あんなに降ってもきょうはこんなにむします。どんなに今年はきの子が豊作でしょう(!)

 九月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

(同じ日)
 きのこの話をしたらふと、おしゅんというひい婆さんを思い出しました。私が小さいときなくなったけれど、思い出すと炉ばたに丸く坐って、頭のてっぺんにぬれ手拭を畳んでのせていたのを思い出します。このおばあさんはしっかりもので、父は大学になっても朝風呂のために(この人が入る)手から血を出して水くみをした由です。祖父は父に早くわかれ、この母に育てられ、丁寧に仕えていたのでしょう。息子より長命して九十歳近くまでいました。あなたは北の地方の炉辺を御存じないわけね。そのぐるりの光った黒い板の間の様子なんかも、ね。このおばあさんは、或る天気のよい秋の日、午後から近所の松林にきのことりに出かけ、面白くどっさりとって来て、それを夕飯に豆腐と一緒におつゆにしてたっぷりたべて風呂にも入り、やれいい気持と横になって体をのびのびとさせたら、いびきかき出してそれなり、という大往生をとげた由です。
(前のつづき)
 ロシアのきのこが、お伽話の插絵そっくりに水色、朱色のがあることお話ししましたかしら。塩づけになって居ります。大きいビア樽のようなものに入って、塩漬キューリと並び、燻製ニシンの下にあるのが普通の光景です。オランダ派の室内風景なんかには色彩が面白いでしょうが、日本の人にはこわいのよ。朱や水色のきのこは、何となし手が出ません。すこし上等の料理には茶色の丸っこい松露のようなマッシュルームをつかい、これはもう世界共通のありふれたものです。ローマからこの頃ヴェニスへうつったという日本の人々も、こんなマッシュルームとマカロニたべているのでしょうね。咲枝たちは、直径何寸もあるようなマカロニをみたそうです。マカロニたべて葡萄酒のむのでイタリーの人の体はどちらかというとダぶつく由。マカロニが柔かいからではないのよ、ガンスイタンソのせいだそうです。
 藤田嗣治の絵は、変にアジア人の特徴を出して、泥色の皮膚をした芸者なんか描いていていやでしたが、国男さんが十七年版の美術年鑑を買ったのを見たらば、そこに戦争絵がアリ、原野の戦車戦、ある山嶽の攻略戦等の絵がありました。目をひかれたのは、藤田が昔の日本人の合戦絵巻、土佐派の合戦絵図の筆法を研究して、構成を或る意味で装飾的に扱っていることです。更に気がついたのは、その構成にある大きさ、ゆとり、充実感が、こういう絵の求めるわが方の威力というものを表現する上に実に効果をあげています。山嶽攻略なんか、北斎の富士からヒントでも得たかと思うほど、むこうの山を押し出して、山の圧力が逆作用でこちらの圧力を転化する構成です。威力、圧力、勝利感というものを純絵画的に表現するということは一通りではありません。多くの画家は、低いリアリズムで、自然主義で描いて、わめく顔、ぞっくり揃った剣先とかむしろ動物的にかき、効果をクラシックに迄持続させる芸術性にかけて居ります、いやなきたない絵をかきます、しかし藤田はそういう要求でかくものに古典たらしめようと意気ごんでいるし、その努力のために芸術となっています。この事実を、同業人は何と見ているでしょうか。
 文学では、やはり同じ問題があります。もっとむずかしく複雑ですが。報道班として南へ行ったのは何人もいるが、人間として文学に新たな一歩をふみ出したのは何人でしょう。
 尾崎士郎は、よく経験したらしく、日記を集めたものをよむと、文学について、人物について困惑されるところが生じて来て居ります。しかし思うことは、ね、そういう成長と同時に、文学者は(現代人)深い感慨にうたれたとき、何故みんな漢文調になるのでしょうか、ということです。なるというよりもおのずからならざるを得ないのはどうしてでしょう。尾崎にしろそうです。文学論、人物論そのものは、大きくなっています。腰もすわって来ている。南まで行って女買いしたくもないだけのところがあります。だが、漢文調になるのよ。
 日本の文化伝統と感情の新しさということについて考えます。まだ、何でもなく書いて実に深い感銘とスケールとを示すような感情の質が、もたらされていないというわけでしょう。したがって、文学の新しさというものも本質はそこにかかっているところがあるわけです。漢文調の人生感、且つ人物完成というものは油断なりません。これは、まだまだ私に宿題を与えて居ります。日本文学は漢文調を脱却しなければならないのですから。

 九月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十八日
 大人たちは皆居なくて、庭で太郎とその弟分たる隣のミチルちゃんという子供との声がしています。私は風邪気で、妙な顔をして居りますが、面白い本を読んで亢奮を覚えているところです。
 その話の前に一寸した物語があります。それは「二輪の朝顔の花について」です。この頃咲く朝顔が花輪は小さくて葉がくれがちながらも、真夏よりは一層色が濃くなりまさっているのを御存じ? そういう朝顔が一本はそのつるのよこに濃藍の花をつけ、他の一つはそれより柔かいすこし桃色がかった花をつけています。二つの鉢が並べておいてありました。ふと見るとね、濃藍の花がいつの間にか薄桃色っぽい方の花弁に自身の花弁をふれそうになっているの。さわるが如くさわらざるが如く揺れている様子は大変風情があって、何か目をひきつける魅力があります。ほどなく、ほんのかすかに、髪の毛の感じるような風が一ふき吹きわたりました。すると濃藍の朝顔の花はその繊細ならっぱ形の花びらに不思議な生気をたたえて、いかにもそっと薄桃色の花にふれました。目の加減でしたろうか、ふれられた花は何となし花の紅潮をふかめたように見え、二つの花は、花弁の一端をふれ合わせたまま、じっとしています。もうおそい午後で、葉をすかして午後の斜光がさして居ります。その花たちはたっぷりした葉をほしいまま緑金色にきらめかせたまま、それにかかわりないように、寧ろ、その美しさの凝集のように葉かげによりそっています。明るさの奥にもう夕方のかげがひろがる刻限でしたから、その仄かな眺めは大変に大変に優艷でした。
 私は自分を仕合せと思うのよ。こういう美しさを味うことの出来る仕合せは、くらべるもののないゆたかさとありがたく思います。
 さて、本の話です。『偉大なる夢』傍題「伝記小説ヨハネス・ケプラー」という本で、ザイレというドイツの作家のものを、黒田礼二が訳したもの、ひどい紙の二段組でよみにくいことおびただしいものです。ひとからの借りもの。よんでみて、深く感銘されました。科学のこの大天才が、人間的尊厳にみちた生涯をいかに送ったかということが、十六世紀末十七世紀ドイツの紛糾混乱殺戮にみちた闘争時代の社会の中で実によく描かれて居ります。
 歴史家は、中世からルネッサンスへの推移とルネッサンスの栄光について多弁ですが、ルネッサンスという豊饒な洪水によって一応は肥沃にされた土壤に、どんなおそろしい勢で腐敗もおこり雑草もはびこったかという、謂わばルネッサンスのリアクションというような事について、ルネッサンスとの対比において、その比重の大さにふさわしい大さをもって研究し描き出したひとは少いのではないでしょうか。部分的にドイツの農民戦争などを研究はされているけれど。このケプラーという大数学者天文学者、はじめて数学に根拠をおいた近代の科学的天文学の創始者であり、地球太陽の軌道が其々の長さをもつ楕円形を描いていること、地球が自転しつつあることその他の真理を明らかにした学者は、ルッターの宗教改革の後の反動時代のドイツに生れ(一五七一―一六三〇年)、プロテスタントでしたが、ルッター派が、旧教に対して、「僧侶の敵」たる自説を強調する余り、ひどい宗派主義にかたまっていて、聖書にかいてないこと――地球は自転するという事実――を科学者が研究するなどということはひどい反対をうけ破門され故郷の大学にはうけいれられなかった。こんなことも、ルネッサンスを皮相に考えては、変な、わからない暗さでしょう。
 このケプラーの時代は雄渾な才能の時代でガリレオ・ガリレイはケプラーの地動説が本になったとき、ラテン語の手紙をよこして、自分は同じ考えであったが、発表する勇気がなかった、とルネッサンス本場のイタリーから書いてよこして、ケプラーから却って、先生ほどの世界の誇りたる学者が、何でそれを御憚りになる要がありましょう、神の創造は完き調和にみちて居り、それを明らかにしてゆくことこそ神への最もうるわしき献身でありますという鼓舞を与えています。ガリレイはそれで力を得て発表して、ああいう始末になったのではなかったかしら。その点、ガリレーもケプラーも、其々の居住地の特性をすこしあやまって考えたのでしょう。ケプラーは小さいドイツの諸公国領をあちこち追われて転々としてプラーグにも住んだりした――ここで有名なデンマルク貴族天文学者ティホ・デ・ブラーエの助手として貧困な生活を送り、その死去後ドイツ皇帝づき天文学者となり、最後はカイゼルが未払いだった一万数千の俸給を請求に出た旅先でケプラーは死にました――けれども、そして絶えず、新教徒として生命をおびやかされ又正統的でないと新教から排撃されたが、しかしプロテスタントの土地に住み、その波にもまれたのでした。ガリレーはちがいますからね。ケプラーはふるえる手で、ジョルダノ・ブルノーの焚殺をよみました。後年はワレンシュタインが新教徒殺戮の只中でケプラーを庇護してワレンシュタインの没落と共にケプラーの一生も自然終ったのでした。
 ケプラーの時代の大波瀾は、一年としてドイツの諸都・市を平安にしていなかったのが年表を見て分ります。何しろたった二つのときに、ネーダーランドとスペインとの間に大戦争がはじまり、フランスではバルソロミョーの大虐殺がありました。ケプラーの祖父は小さい公国の市長だったが、父は当時のドイツが傭兵市場であって、その一人となって、フランダースで旧教の兵となっていた有様です。分散して経済的にネーデルランドなどとは遙かおくれたドイツが、あぶれた若者をどっさり出していて、それらはみんな冒険を求めて――ドン・キホーテとはちがったもの――他人のために他国のために殺し合いを行い同志打ちを行っていたことは、実におどろかれる姿です。こういう分散状態はナポレオン時代もつづき、ビスマルクのとき迄つづき、従って、統一への情熱というものは、病的な伝統をもっているわけでしょう。
 ケプラーは、アインシュタインよりも人間として純潔であり骨があり、其故偉大です。彼は、当時天文学と云えば占星術で、カイゼルママ天文学者というのは一方では皇帝の運勢の番人であり、半分だけ科学者でありました。庇護者は庇護しているものの真価はブラーエにしろケプラーにしろ、ちっとも分ってはいなかったのでしたが、ケプラーは、星が人間を支配しないことをはっきりワレンシュタインに云っています。只ケプラーは全く活きた智力をもえたたせていた男で、当時の新旧徒の闘争の悲惨、無意味それを利する勢力の消長につき、つねに具体的観察をもっていて、占星術の予言は世人を常に瞠若たらしめる適中を示しました。(事実の諸条件からの起り得べき可能を天候と人事について語ったのですから)
 こういう実証的な大才能はケプラーにおいて始めて近代が花開きそめたと思われます。お母さんは傭兵になって良人に彷徨され、それをフランダースの戦場へ迄さがしに行ってつれ戻したという剛毅な女でしたが、ほかの男の子は錫職人――当時のドイツにあって、尊敬すべき職業に従事した市民、兄より威張っていた男――一人をのぞいて、二人ほどならずものが出て、不幸のためエクセントリックな老婆となりました。そしたら当時のリアクションと小人的悪意によって(ケプラーへの)母親は魔女ヘクセと云われ、裁判にかけられ、拷問され、やきころされそうになりました。この無実がはれる迄前後五年かかりました。老婆は地下の拷問室で卒倒しながらも自分は白状する何事もないと云い、ケプラーはこれは一人自分の母だけの問題でないと、実におどろかれる努力をして真に裁判の純正を求め、近代の方法――事実に立脚した法の適用――を方法として大公に示し、人文史上大貢献をしています。例が実に面白いの。魔女ヘクセ問題らしく、一人の農夫は、あのヘクセ奴がうちの家畜小舎の横を通ったおかげで間もなく牛が殺された、というようなことを云い、それが証言(!)なのよ。すると皇帝付天文学者ケプラーは遠路を泥だらけになってその農夫の村へゆき、小舎を検査し、家畜の飼育状態、農夫の日頃の素行などすっかり具体的にしらべ、その牛は「ヘクセ」が通る前から病気であったこと、病気になった理由迄明らかにして反対意見をのべ、それは誰しも肯かざるを得ません。其故、ヘクセにして殺し、ひいてはケプラーをも失墜させようとする連中は、ケプラーが出版の用事で留守のうちに婆さんをおどかしてころしかけ、ケプラーが大公からの書類をもってせつけて助けたというのが終末です。
 天文学者と云えば星覗き、星覗きと云えばアンデルセンにしろ浮世はなれた罪のない間抜けと思っているでしょう? だのにケプラーは何と活々と、現実と偉大な夢を調和させ、偉大な夢のうるわしさに比例して活眼を具え行動的であったでしょう。
 ブラーエは面白いのよ、デンマルクを学問を守るため遁げ出したのですが、ドイツ皇帝づきとなり、その迷信の面によって生活し、立派な貴族生活をしつつ孤独で気むずかしく、彼の科学は地球は自転せず、太陽が諸々の星をみんなふりまわしている(地球としては受動的)というところに止まっていました。性格的ね。こういう機微は小説家が感得するものです。(作家ザイレはしかし、ここに性格と頭脳の構成との連関はみていないのよ。)ケプラーは、風変りな魅力にみちた男性であったらしく、おどろく優しさと意志のつよさと純粋さをもって、謙遜でしかも何人もおそれることをしなかったようです。彼は、真理はよろこばしきもの、うるわしきもの、栄光あるものとして、その点では神の眼と自分の眼とがぴったり合うという体のふるえるよろこびを味ったらしいのです。乾いたところのちっともない、血そのものが瑞々しいというような男です。男の中の男がうち込んで愛し得る男であり、ワレンシュタインがケプラーの例のない真情の表現に対し、心をひらき、自分は旧教の皇帝を擁立しながらプロテスタントのケプラーに指をささせなかった所以も肯けます。
 あんなにごたつき、血腥ちなまぐさくても、その時代には未だ人物は人物を見出すよろこびをもち得ていたのでした。ケプラーは巨大であり、あの時代は巨大な渾沌でした。
 私は自分がルネッサンスについて今まで皮相的にしか知らず、ドイツの歴史なんか全く知っていないことを痛感します。ゲーテのもちあげられる理由も、そういうドイツの歴史をかえりみれば、よくわかるのでしょうね。文化上の、ルーテル以後の旗じるしが、入用だし、心から欲求されたのでしょう。
 ザイレはどういう作家でしょう。ツワイクと比較しておのずから感じるところは、ツワイクがあの敏感さをもってアントワネットやフーシェをテーマとして選んだ傾向、そのテムペラメントの本質の色調と、この作家が、万一一生にこの作一つしかないにしろ、ケプラーを捉えたということの、絶対のちがいが面白いと思います。ツワイクがオースタリーの出生であり、この作家はドイツの作家というちがいが、決定する以上の意味があります。
 近頃ツワイクの仕事、このザイレの本、イギリスのストレチーの「ヴィクトリア」をよみ合わせ、伝記又は伝記小説について、学ぶところがあります。私の内面の世界は少なからず房々と重くみのった葡萄の実をとりいれ、それは今の私に多大の滋養を与えます。そしてつつしんで思うのよ。自分の日常が、こういう人間の偉大な光を、何の歪めることなく、自分で自分に云いわけせず、こんなに真直わが面を輝す光としてうけとれるように営まれていることは、どんなに感謝すべきであるかと。独力の可能の限界がわかっているからこそ。よくて。ここに小説家としての私が小さな盆からこぼれるところがあるのよ。小説は新しくならねばならず、古い小説の世界から私はスイ星となっている自分を感じます。彗星は凶兆ではなくて、ケプラーによれば、科学的に測定されるべきものであります。

 九月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月二十日
 世の中には意外なこともあるものね、と申しても実例は、あなたがお笑い出しになることですが、ケプラーが生れた翌る年バルソロミウの虐殺を組織したフランスのカザリン・ド・メディチ(一五一九―一五八九)が、近代のバレー(舞踊)演技の最初の組立て人だという事実があります。謂わばあの時代の最も陰険な最も暗殺をこのんだこの女王が肉体と精神の高揚を芸術化するために一役買ったというのは不思議です。デュマはカザリン・ド・メディチという、彼らしい小説をかいていて、昔よみ、フランス宮廷というところのおそろしさを感じたものでした。メディチはルネッサンスの巨匠たちに仕事をさせた家で、その家風にしたがって、この芸術を庇護したのだそうです。大体イタリーがオペラの本場となったのは、宗教の本山がそこにあって、宗教劇、パントマイム、合唱団などの徐々の発展がルネッサンス時代に芸術的な高揚をとげて、法王だの大僧正だのが、作者となっていて、イタリー各地の貴族はその保護にあたっていて、ロレンゾ・ド・メディチは(レオナルドもいきさつがあった人)最大の人でした由。例のサヴォナロラは、そんなのは邪教だと云って獅子のように怒っていた由。タッソーね、あれもなかなか貢献して居ります。
 カザリン・ド・メディチは一五八一年にパンタラジニという演出家をやとって、ジョイアス公の結婚式に夜の十時から朝の四時までぶっとおしの費用五百万フラン。女王や王女が海や河の女神として出演したのだそうです。(こういう伝統があるから、ツワイクの、マリイ・アントワネットにマリイが「フィガロの結婚」に出演したこと、そういう宮廷芝居の習慣をかいているのね。)
 イギリスではエリザベス。面白いのはフランシス・ベーコンが、どっさりプロットと対話をかいたのですって。エリザベスの宮廷にいつも無駄口をきかず、陰気で、相当の陰謀家でせむしで、金も達者にためたベーコンが、ね。(だからシェクスピアはベーコンなりというような女学者も出たのでしょう)大体イギリスはバレーには冷淡だったのですって。シェクスピアのような人物は生まなかった由。フランスは歴代何かバレーのためにはやっていて、ルイ十四世は国民バレー研究所を立て、自分で二十六のバレーの主役を演じたそうです。音楽舞踊アカデミー設立が一六六一年で「人間悟性論」のロック(英)の愛人が、当時大人気者のサレーだったのだって。(こんな話はゴシップ的? そうでもないでしょう、ロックの時代の気風として、又イギリスがしかつめらしい皮をつけ乍らなかなか油断のならない通人をもっている証拠で面白いと思うの)
 ミラノのスカラ座では一八四八年頃、オーストリア(ナポレオンからイタリーを奪った)とイタリー連邦との間の危機をしずめるため特別舞踊を上演して、大人気のエルスラー嬢が主役だったが、エルスラーはオーストリア人なのでその時命令された法王のメダルを頸からかけて踊ることを拒絶して、舞台の上で卒倒する迄イタリーの全観客にヒッスを浴せられたそうです。何十年か後の北部イタリーの夏も終ろうとするとき、スカラにトスカニーニよかえれとプラカートが張られたというのも感銘深いことです。現代コンダクターの王と云われるトスカニーニは、アメリカでこの報道を何とよんだことでしたろう。
 余りあなたに適切でもない興味だといけないからやめにいたしましょうね。でも、あなたのブランカは御承知のとおりの欲ばりですから、こんなことを知ると、日本の封建貴族たちと能の発展を考え合わせやっぱり面白く思うのよ。野上豊一郎はギリシアの古典劇と能の構成の類似をあげて文博にもなりヨーロッパへもゆきました。しかし能は、一筋の道を辿りつづけて、ギリシアの古典祭のパントマイムのように、そこから舞踊や芝居、オペラを分岐発生させはしませんでした。テーマはやったがテクニックとしては。そこにも何か面白いことが見出されそうね。そして白状すると、わたしは自分ですこし覚えたいことは女学生時代から一遍自分で書いてみると、すっかり頭に入る癖だから、一寸あなたに我慢して頂いたのよ。しかし更に一つ我田引水をすれば、私たちの常識は広くて邪魔なことは決してなく、昨今の作家たちの広地域での活動ぶりを見ると、寧ろ常識の弱困になやむようです。多くの人は、その国の人々のもちものを、より科学的に説明してやるにつれて日本の独特性をも納得させてゆく、というような方法には全くかけているのね。肥った人という感じをくっきりさせるには、傍に瘠せた人を示すのが上分別という文化上の方法。最も自然な方法さえ手に入れていません。啓蒙される側では自分に馴染ふかいよりどころがなく来るからのみこめず感受が自然にゆきますまい。そういうことについても感じるところが多くあります。導きては導かれるものよりも常に勤勉であるべきです。
    ――○――
 安積から寿江、ひき上げて来ました。二十何日かいたのですが、身が小堅く肉づいて元気そうになりましたけれど、本気で二時間勉強すると夜眠れない由です。病人はやはり病人を中心とする生活を組立てないと無理なのね。病人同士かたまるというのでなく、丈夫な人間が引添って病人を中心に段々健康環に近づけてゆくという仕事を中心にした生活が必要なのでしょうが、うちでは、迚も不可能です。泰子が衰弱をとり戻せずこの数日来葡萄糖を注射していますが、食慾なく、母の目には益※(二の字点、1-2-22)やつれを加えているらしいから。
 泰子は全く苦心のかたまりです。一家の大きい犠牲に立っています。泰子は無心だし、母の愛情は情熱的ですが、人の体の力は限りがあるから、母親も五年来の負担まけで、内面の疲労――精神生活の放棄――は著しく、それだけが理由でなかなか本質的には大した落しものをしつつころがって行く日常です。幸、咲枝はああいう気質だから、よほどましですが。尖らず、鈍る形で現れるのですが。こういう子をもつ親は誇張でなく試練的ね。特に母が、ね。同情をいたします。しかし私は、やはりこういう子供が母をくい、兄弟の生活から奪い、一家から奪うものの大さと深さとを感じ、可哀そうで又恐しさを切実に感じます。しかしこの怖しさを母は見ないようです。不具の子はいじらしいが、対策もあり、生活の目標も立てられます。泰子は真空ですからね。吸収してしまうだけ。辛労も愛も。
 現在三千軒ある出版業が、ほぼ二百軒に整備される由です。文学、科学の各分科をみんな其々にふりわけて、専門出版店となるらしい話でもあります。文学書は『新潮』などのこるでしょう。『新潮』の出版部。
 関係あるところではそろそろ大童らしい風です。出版外交史というような小冊子も資料は十分ということになるでしょう。出版年表などという単純なものでもないでしょう。
 私の燐の注射はもうすこしで十本終りますが、二十本を一クルスとする由。そして何ヵ月か休んで又いたします。静脈は、やはり気重いのよ。小児科の林先生は上手だし、神経質でないし、音楽がすきだったりしていい人ですが。静脈が細くて工合わるいのは、私の弱点で、いたしかたもない次第。
 風邪をおひきにならないように、どうぞね。

 九月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月二十五日
 きょうは七十度よ。涼しくて体が楽なので、二階の部屋の大掃除をして働きました。ごみになった顔を洗ったところへお医者が見え、静脈を出したら、働いたばっかりだったのでふくれて見やすくて、痛くなく助かりました。
 九月二十三日は、やがて『週報』で御覧になりましょうが、日本の国民が初めて経験するような生活の大切りかえの方針が公表され、昭和文化史の上に一つの記念すべき日となりました。学校は理工系統をのこして、法文科は殆ど廃止、廃校になります。音楽美術文科は伝統を今日までで一応うち切りとするわけです。
 音楽学校の卒業式がこの三日間つづけてあり、それが東京の上野の音楽学校最後の卒業式となります。女子の方の学校はどうなのか、やはり文化系統はなくなるのかよくわかりませんが。夜間の学校も商業などはなくなります。学生の兵役猶予はなくなり理工が八ヵ月のばされます。十七種の職業に四十歳以下の男子がつくことを禁ぜられ、それは事務員から料理人理髪までに及びます。都役所だけで一万何千人とかの人が重要産業に向くのだそうです。
 こまかいことは書ききれませんが、画期的な一歩であり、感銘も浅くなく日常生活も多く変化いたしましょう。うちでは直接関係のものが少いけれども、文学者を考えても阿部知二のように東北の講師をしたりしている人たちは、どうして暮すでしょう。純粋に語学の教師なら、理工科だってドイツ語フランス語英語は入用でしょうが、作家を半ばの魅力にして講師をしていた人などは大窮迫でしょうし、文科の教師たちもなかなかの困難にめぐり合う次第でしょう。
 出版整備の見とおしも、この面から推しても略想像されます。三千軒が二百軒になるのみならず、企画は理工科出版と所謂教養に重点をおいて純文学は何パーセントを占めることが出来ましょうか。
 自分の仕事との連関でも、深く考えるところがあります。そして、遂にジャーナリズムの枠をはなれて真の作家的生活を送るべき時に立ち到ったことを痛感いたします。作家の生涯に、こういう異状な時代を経験することは様々な意味で千載一遇であり、そこで立ちくされるか磨滅するか何らかの業績をのこすかおそるべき時代であり、各人の精励と覚悟だけが、決定するようなものです。生活の設計も従って一層本気に再構成されなくてはなりますまい。何となしの可能として考えられていた条件を一さいとりはらった上で組立てられなければならないわけですから。
 それでも私としてはこういう時機にめぐり合う者として、どちらかと云えば仕合わせと思って居ります。私の場合では自分にかかわるいろいろの事情が、大変納得のゆく又作家として自信も失わない性質の条件で、そのことは騒然と爪先立った処置、身のふりかたとして状態をうけとらせず、もっと文学の本質に即して永い目で、日本文学の消長について自身をも含め考えさせ、それは生活の感情に浸透して居ります。いよいよ落付いて、という方向へ気を向けさせるわけですから。ただ、貧乏は一層ひどくなりますから、どうぞあしからず。そちらの最低限は(今ぐらい)何とかやりくれましょうが。マア何とかやってゆけるでしょう。こちらの方はおそらくそれよりずっと少額でしょうから。当分は国男さんの世話になるわけです。それは追々こうして暮していると、わたしという人間も暮しかたもわかりすらりと行けそうですから御心配下さらないでようございます。(いずれそういうことについてはもうすこしプランが定ってから改めてお話しいたしましょう。目下のところは、昨今の事情に応じて、去年の秋から今までのような経済のやりかたをすっかり切りかえて、ずっとずっと目前には窮屈ながらいくらか永続性のあるやりくり法を考えようというわけで、国男顧問が相当肩を入れていてくれます。現在のままですと、来年夏ごろにすっからかんで、あとは目下の印度同然餓渇地獄となりますから。)そうなっては、うちの顧問先生にしろ自分がアプアプ故迚も手のうちようがないから、という次第。
 あなたにはお気の毒さまですが、こうやって無いというところに落付いて、世帯くさいいろんなものをさらりとすてて、又女学生になったような気分で、仕事考えているのも、なかなか清爽なところがあります。まあ、尤も、この冬どうしてあなたに暖いものをおきせしようかと思いなやまなくてもいいようにしてあったからそんなこともいっているのですけれど。
 わたしが病気で死にそこない、そこから命をひろい、恢復期になっていて、何か新しい生きるよろこびが体にも心にもあって、仕事についてもこれまでのところはそれとして一定の段階に到達し、先の歩みはこれ迄のやりかたでは達しられないという自覚に立っているとき、いや応なしに内面集注すべき事情が発生して来ていることは、貧乏で辛くこそあれ正当にそれを生きぬけば、芸術家にとって全く祝福であると思われます。わたしが逆説的な恩寵として感じる心持、同感して下さるでしょう。巨大な樫の木が、人の目もふれない時とところで刻々のうちに巨大になるのです。そのような生命のひそかなる充実は何という微妙な歓喜でしょう。この時期の勉強如何で、一箇の能才なる者は、遂にそれ以上のものに成熟するのではないかというまざまざとした本能の予感があります。こういうニュースにふれながらこんな音楽の感じられる手紙のかける私達はつまりは幸福者であると云うわけでしょう。風邪は大丈夫? 私は御覧のとおりよくなりました。

 九月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月二十六日
 七八年前、三笠からツワイクの『三人の巨匠』という作家論が出ていたの、御存じでしょうか、うちにあるのはきっとあなたのもっていらしたのではないかしら。
 バルザック、ディケンズ、ドストイェフスキー。バルザックをよんで面白くツワイクという人の特徴も一層明瞭になりいろいろ考えました。ツワイクはこの作家論で、それぞれの作家の作家精神の精髄をつかみ出すことを眼目として居ります。バルザックの精神を、全体を全体なりに掴もうとする熱烈、病熱的情熱。あらゆる価値の相対性、それらをタイプ化せんとする偏執狂的熱中。自己陶酔、偉大なる断篇トルソーとしてつかんで居て、特に金銭がバルザックの世界で最も変質しない普遍的な価値として(人間を支配するものとして)現れていることなどをあげて居ります。
 ツワイクはこうやっていきなり作家の心臓の鼓動に手をふれる能力と果敢な精神をもっているのだけれども、バルザックが青年壮年時代をナポレオン没落後のくされ切ったフランスにブリューメルの罪過が最も悪臭を放った時代にすごされて、彼の大天才はああいう内容をとったということについては見ていないのね。その点ケプラー伝の作者ザイレの方が歴史の背景を描き出しています。
 ディケンズをイギリスのヴィクトリア時代の枠にはまって伝統精神と不思議に一致した天才としてつかんでいる点も正しく鋭いと思います。この作者についてツワイクはよく歴史を見ているのだけれど。フランスのナポレオン時代後の腐敗の中からバルザックとスタンダールの出ていることは何か暗示にとんでいはしないでしょうか。
 つくづく思うことはね、バルザックの偉大さはなかなか単純な若い生活経験では理解出来ず、且つ日本の今日までの文学者は自分の生活感情の内面に共感出来るだけ巨大な波瀾万丈的経験をもっていなかったと思います。今日以後の、勉強をよくして世界の事情に通じ、人間学に通じた作家なら、日本人もはじめてバルザックをかみこなす土台をもつようになるでしょう。そして、偉大さが分るということは好きとは別であり、更に未来の偉大な作家は決して再びバルザックの厖大な自己偽瞞、熱に浮かされた幻想の固定化は行わず、彼のあの薄気味わるいリアリズムとロマンティシズムの双生児(タイプを凝結させようとする――純粋な情熱(何でもそれはよい)への熱中)は生まないことを、銘記させる作家だと思います。
 トルストイの方がわかりやすいということもよくわかりますね。バルザック、スタンダールというような作家はナポレオン時代以後が新たな形で経験される時、文学の世界で大いに学ばしめるところをもつ作家ですね。ドイツ文化史において宗教改革以後の時代、フランス文化においてブリューメル以後は近代を理解する上の重大な鍵でしょう。
 この間も書いたように普通の文化史はルネッサンスの起首をよく描くけれども、その後につづく反動の時代の意義について十分知らせないのは何故でしょう。歴史のつかみ方の形式的なせいね。すべて一つの大きい必然の動きが、その動きそのものの裡にリアクションをふくんでいるということ、それをどう力学として処理し得たかということは興味つきぬところであり、人生のキイ・ノートのようです。
 わたしなどには、まだまだ迚も端倪すべからず、のテーマですが。何故なら形式的な論理に立つ歴史の描写は、いつも等しい価値や力のように反動の発生を描いて居りますから。反動そのものが、又統一された方向への刺衝となる力をふくんでいるその生きた関係はなかなか描かないから。たとえば旧教に対する新教というものの関係は、謂わば或る力学の基礎方程式の運算を学ばせるものとしてもっと近く学ぶべきですね。いろいろの旧教と新教と。
 わたしはそういう人生の力学が段々面白くて。そういう物理をはっきり把握して、しかもバルザックが自分が捉えてふりまわしたと思った対象に実はふりまわされた、あの熱情を、よく整理することが出来たら、それこそ新しい作家のタイプでしょう。七八年前、「バルザックから何を学ぶか」というものをかいて、バルザックの自己撞着と矛盾、混乱を明らかにしようとしたことがありました。それでもその当時ナポレオン時代後というフランスが、いかに独特な腐敗時期であったかを今よりもっと貧弱にしか知っていなかったから、謂わば卑小な時代に泥まみれとなった雄大な野望的精神のあらわれとしてのバルザックは描けませんでした。スタンダールは「赤と黒」の主人公に於て、卑小な時代に反覆される野心の落ちゆく先はどこかということを描き出しているのでしょう? 何かが今私の内に発酵しかけているらしくて、一寸した風も精神の葉裏をひるがえすというようなところがあります。これは、生活が落付かないのではなくて、何か精神が敏感に耳ざとくなっているということですし、ヒントを感じやすくなっているという状態。
 こういう落付かなさというか貪慾の状態というか、面白いのよ。この数年間こんな段々胸元に何かがせき上げて来るような気分を感じている暇なく、それだけ休む暇もなく次々にと仕事していて、こういう風に、本当に新しい諧音で自身のテーマが鳴り出そうとする前の魅力ある精神過敏の状態は、いい心持です。今の気持でおしはかると、私は断片的な感想などから書きはじめず、全く自身の文学の系列をうけつぐ小説をかきはじめるらしい模様です。
 本当に腰が据れば、それが(小説をかき出すのが)おのずから本当だと思われます。そして、これは決してブランカとして悪い徴候ではないわ、ね。評論的資質をすっかり小説に自在にうちこめたら、どんなに胸もすくばかりでしょう。

 十月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月四日
 きょうは、やっと晴れて、風も大してなく、あなたの袷も干して気持よくして明日もってゆけることになりました。きょうの空は青々して眩しくて一点の雲もなくて、秋らしくなりましたこと。これから少しは秋らしく爽やかになるでしょうか。
 風邪はいかが? 私の方はのろのろですが、きょうあたりは大分ましで、耳も鳴らず、洟が出る位で楽になりました。あんなに暑かったり寒かったりだったのですものね。
 さて、本をまとめて、しまつすることも終り、これで今月は呼吸がつづくから、これであなたの夜具のことをちゃんとしまい、お義理の訪問をすこしずつすまして、やれ、と仕事に落付けるわけになりました。古本の公価がきまって、面白いのよ。来てくれた人は目白の先生の紹介で律気な人だもんだから、一冊一冊大体発行年代と定価見くらべて虎の巻を出して字引のようにして買い値をきめてゆきます。つい去年の秋ごろは、一円五六十銭の小説は大体半分で一束にかっさらって行ったのとは大ちがいで、思ったよりまとまり(二百冊ぐらい)そちらにも、すこしお送りいたしておきます。ちびちびと、点滴石を穿つ式にしておかないとね。三ヵ月毎に銀行に払うものがあるから。今月は其で。
 お義理の訪問というのは、私が病気になったとき、大瀧の伯父(父の妹の良人)やその他わざわざ来てくれた人のこと、うちの連中子供らしい人で、今まではっきり話に出なかったのよ。きいてみれば、夢中の間に心配して来てくれているのだから、少ししっかりして来たらやはりお礼に行かなくてはすまないというわけなの。この伯父はもう七十でしょう、昔ベルリンで父とこの義弟とが一九〇四年代のハイカラー姿をうつした写真などもあり。一番可愛がられた伯父です。妻君運がわるくて、一番はじめのおようさん(父の妹)は、ヴァイオリンをやったりして一番風情のこまやかな人でしたが、二人の子をおいて死に、二度目のお菊さんは六人ほど子をおいて死に、三人目のひとは、名も覚えて居りませんが亡くなり、今四人目の妻君です。そういう工合で、総領息子とほかの子と折合いがよくない上、細君が段々下落して来て(心や頭が)何ともそこをちゃんとやれなくて、なかなかなのよ。伯父さんも家庭の内では私たちに諒解のつかないやりかたもするらしいし同時に傍でわからない寂しさもあるのでしょう。四人目の細君には会ったこともないのよ、今度行けば初対面なの。お茶の水出の人ですって。案外、マアと云われたりするのかも知れないわね。
 そんなこんなで、ブランカこのところ一寸「雑事に追われ」の形です。しかし大体の傾向は大変よくてね。この間うちの精神緊張と何とも云えない震動は、案の定何となし新しいところへ私を追い出しました。うまく云い表わしにくいのだけれども、私の中で芸術家がモラリストを超克したとでもいうのかしら。或る夜私の心持がさあっと開けて、ほんとにそのときは勝った勝ったと光と音楽が溢れるように感じられました。
 これにはすこし説明がいるわね。
 由来、芸術家は、本ものなら、本源的にモラリストです。特に新しいタイプの作家はそうです。内面につよい人間生活に対するモラリスティックな衝動をもっていて、決して只の文学感興というものがきりはなして存在しません。ところが、様々な歴史の環境の中では、そういう本源的なモラルを求める気持が、その求めるままの形で生活されていず、従って、そのままの形で芸術化されなくなっている場合があります。人間及び作家として、これは試練の時期であって、多くの人々はその時期に自身の砦をあけわたし、モラルをすて、今の時勢には云々とその位だの金だの肩書きだのにかくれて、芸術をすてます。身すぎ世すぎをしてしまうのね。ところが、そうは出来なく生れついている一群の作家というものがいつの時代にもあるものです。昔の柳浪が一例ですが。この人なんかは明治三十七八年以後の時代に、自然主義の風潮に一致出来なかったというばかりでない理由から作家として自身のモラルに立てこもって、謂わば立ちながら往生した、天晴れなところのある人でした。今日の作家は、もっとダイナミックに考えるから、柳浪を必ずしもその形で学ぼうとはしません。そうでないのならどういう風に自身を導くか、芸術の方向で、ね。
 この宿題はあなたがお気がついているとおり、もう何年間か私の宿題で、「朝の風」からあとずっとついて廻って居ります。「朝の風」は、そのモラルの中でああまで瘠せたことについて軽蔑するよりも注目すべき作品でした。全く危機を告げている作品です。
 あすこからどちらへ流れ出すかということは私の生涯を決定するのだけれども、私はモラリストとしての自分が、丁度自分の音質や声量にかなった芸術的発声法をつかめなくて日夜喉をためしてその音をきいているような工合でした。ところがね、私が逆説的な福祉と云う状況になって、全く私は落付けてしまったのよ。ジャーナリズムとばつを合せる気をさらりと捨てたら、自分の声がききわけられて来たという工合です。そして、それは、うれしいうれしい工合なの。自分のモラル、人間のモラルの高さまっすぐさ美しさはいよいよ深くかたく信じつつ、謂わば、その規準があってはじめて大丈夫という工合で、生活の姿を全体としてつかんで、例えば、人間の生活の下落も、その下落の明瞭な把握において高さを描き出し得るし、自分はそういう一彫刻的作品を描いてよいと自分に許せる気になった次第です。それだけ確信が出来たのね。何年もかかり、生きかえし死にかかりしているうちに。バルザックのこと、この間一寸話していたでしょう? そして今思うのよ、バルザックなどは或意味で、今なかなかよめるのだ、と。はっとして、勝った勝ったと自分のうちに音楽をきいたのは、ツワイクの「三人の巨匠」ををよみかけているときです。私は自分の芸術家が、モラリストをしっかり自分のなかにのみこんだと感じたの。それが今までのようにわたしの横に出しゃばっていて、うるさく其でいいの? 大丈夫? と啄を入れなくてもよいと安心してじっと私の感受性と瞳の中にしっかりはまりこんだことを感じたのです。
 これは人を愛していたことを、はっと心付いた瞬間の心持と何と似ているでしょう。いつかしら日夜の間に心にためられていて、しかしその間には心付かず、或る瞬間俄に天と地とが初めてわかれたときのような新しい駭きで其を発見し、発見したときはもうすっかり其にとらえられている自分を見出す、その工合が。そしてブランカは経験によってこう判断するのよ。こんなに自然に、ひかれつつ抵抗するというような感じ全くなしに、ひきよせられ捉えられている自分をじかに発見した以上は、もうまがいもなしの本ものだ、と。そこを行くしかない、と。そこを行くということを、作品的に云うと、「伸子」以後をかくということです。断片としてあちこちの角度から試みられてはいましたが。
 永年かきたくて、何だか足の裏にしっかりした地盤が感じられなくてかけなかった伸子の父の最後の前後を一区切りとして先ずかきます。それから、「おもかげ」の部分のかかれていない面、伸子、母、弟、時代と三つのものを、全体のかかわり合いの中でかきます。
 それから書きたいテーマがいくつかあるのよ。凄い景気でしょう。ブランカが、紺絣の筒袖着て、兵児帯しめて、メリケンコのグチャグチャしたの(名もつけ難し)をたべて、財布に五十二銭もって、そして斯くも光彩陸離なのを、どうぞどうぞ扇をあげて下さい。こうやって、私は生きている、からには、私の作品をかくのは至当です。一杯の力のこもった倍音の美しい彫刻的な作品をかくのが私だとすれば、それ以外に何をかくべきでしょう。
 いつぞや小説を集にのせるのせないで、私は、重吉の千石舟ですから沈みませんと力んで、すこしあなたに笑われてしまったけれど笑われてよかったのね。あすこで笑われて、ホイ、と思って、それから又ごねごねこねまわしているうちに、私の俗気を日本がふっとばしてくれたというわけでしょうか。つくづく思うけれども、私もかなりの弱虫ね。毎月毎月かかなければならないものがあり、それは其として通ってゆきマイナスばかりでないと、何か心の底に蠢きを感じつつ、やはり、かたい地盤にさわる迄身を沈められないのですもの。そして、モラリストは私の作家をくってゆくのよ。そういう場合だって、作家の生涯から見れば一つの敗北であり、悲劇であり、境遇が人を押し流す力をつよく感じさせるに止まるものです(文学史的に見て、よ)
 こんないろいろの点から見て、この間うちの読書は、一生のうちでやはり特別な意味をもって回想されると思います。「マリー・アントワネット」だとか「フーシェ」だとか一見濫読めいていて、それでもずっと一本何かひっぱって、「ケプラー」をよんで、そして「三人の巨匠」で扉に向ったというのは面白いことです。読むものが、直接でない刺戟、思考の刺戟というような役に立って行って、或段階で直接なものにふれ、展開するのは興味があります。読書の神秘とはここに在るのね。
「三人の巨匠」は、ツワイクの一番緻密で芸術的で努力的な作品です。作家をその精神の核の性格においてとらえ描くということは余りやらないが、むずかしく、それ故面白いことです。今ドストエフスキーのところをよんでいます。この作家の二重性、分裂をそれなりこの作家の特質として、その明暗の間に走る稲妻を作品に見ているところは、大変魅惑的な労作です。しかし最後の「悪霊」ね。あれにはネチャーエフのことが出ているのではなかったかしら。あの大スラブ主義などは果して今よんだらどういうものかと新しい食慾を覚えました。ツワイクは、ドストイェフスキーの存在を、一九〇五年を前告した嵐と呼んでいるのよ。嵐雲のおそろしい気の狂う美しさとしているでしょう。
 風邪をひいたのは気候のせいもあるけれども、数日間つきものがして(シャレタひとはデエモンと呼ぶ狐)すこし夢中になって精根をこきつかったからもあるのよ。今、小さいお産を一つしたようなところで、おとなしくなって少しくたびれて、一休みして、気をおちつけて、やがて仕事にとりかかります。
 今年のお誕生日は、何をさし上げようかと思っていたのよ。去年は眼もろくに見えず、字もかけず、頭は妙で、その代り一世一代に献詩いたしました。今年は正気でしょう? 詩も出来ないし。そしたら計らず、こういう扉を一つ廻転させまして、あなたならこれをもおくりものとして十分うけとって下さると存じます。本質的にはああいう詩の十篇より永もちのする値うちがこもって居ります。何故ならこういう力のいる一生に何度という扉のあけたては、気が合って、四つの手の気合いがそろって、じり押しに押した揚句くるりと展開するのですから。お祝いにわたしは小説のプランをさしあげようと思います。

 十月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月四日 つづき
 一人の作家のなかにある、作家とモラリストとの関係は、いろいろ興味ふかく且つ本質にふれた問題ですね。芸術の向上の歴史がそこに語られても居るようです。この間いろいろ考えているとき、芥川の「或る日の馬琴」を思い出しました。つづいて「地獄変」を。
 こういう問題のチャンピオンはトルストイと考えられていて、たしかに彼はあの強壮な精神と肉体との全力をつくして立てられる限りの音をたててこのたたかいを行いましたが、考えてみると、実に不思議に自分の枠をはずせなかった人ですね。あんまり枠が大きくて、つよくて、こわれなかったのかもしれないけれど、最後の家出にしろ修道院に向ってであって、それは客観的には最も彼にとってやさしい方向でした。自分の一面の力への降伏であったと思います。更に面白いことは彼にあれだけの文学作品があって、それではじめて、あのモラリストとしての動きの意味や価値が明らかにされていることではないでしょうか。
「人はどれだけの土地がいるか」という民話ね、覚えていらっしゃる? いかにもあの時代の、地主の、良心ね。死んで葬られるだけあればよい、というの。そんな土地さえなくて、現代の人々は生き、そして死んで居ます。現代は、地球のどこにその土地を求めようというのでしょう。この間顔を洗っていて、朝何故だか其を思いおこし、トルストイの民話はつまらないと思いました。時代の制約の中でだけのモラルです。(少くとも或るものは)
 馬琴の煩悶に托して芥川は、自分の疑問を追求したのね。しかしモラリスティックな欲求というものも馬琴はあの時代、もう武家の伝統が自ら推移したなかで、町人の文化の擡頭した時期に、伝統の擁護者としてリアクショナルなモティーヴからあらわれ、従って彼のモラルは前進する動きよりも類型をもって固まるしかなく、明治文学を毒した善玉悪玉式図式をつくってしまったのね。馬琴の悲劇は、モラルの本質がそういうものであったから、支那文学の影響も稗史はいし小説、綺談等からうけ荒唐無稽的となり文学の一面で当時の卑俗さと結びついています。春水と馬琴とのはり合いのことが、馬琴の側のふんがいとして描かれているけれども。春水はくだらなくてデカダンスであったにしろ、文学の発生として雑種でありませんからね、そういうところはあるわけです。
 芥川はモラルと芸術性をあの時代らしく対立させ、それを追求はしたが、馬琴に托してしかも馬琴のモラリティーのうしろむきの工合をはっきりつかまなかったものだから、その先には「地獄変」しかなかったわけね。芸術至上主義をああいう形で押し出して、宗教的にしてしまったのね。芸術のために自分の娘をやいてもよいというのは、アブラハムが自分の息子をやこうとしたような、何と旧約風の憧憬ママでしょう。本をしまってしまってよめないけれども、「『敗北』の文学」の作者はこんな点をどう扱ったでしょうか、みたい気がいたします。
 この問題について、私なりの回想があるのよ。小説をかくようになってしばらくして、開成山の家へ行きました。それ迄気づかなかった坐敷の欄間に一枚板に白うるしで細かい漢文が彫ったのをはめこんであります。只字と思ってよめなかったのをそのとき気がついてひろってみたら、おじいさんが開成山開発の事業、猪苗代湖水の疎水事業のためにどんなに身を砕いたかということを書いたものらしいの。私は何となくがっかりしてね、そういうおじいさんの孫として生れている自分のなかにある無風流さを考えたことがありました。
 その時分は、佐藤春夫の祖父や父が詩文や絵の愛好者であるというのをうらやましいように思ったものよ。それからよくぞ自分は風流でなかったと思う時期が来ました。そしておじいさんが、自分の客をとおすところへそんなものをおきたく思った個人的な心持、個人的にむくわれなければむくわれたと思えなかった人の気持(しかも万人のためにと働きつつ)を思いやることが出来るようになりました。
 それから全く新しい地盤で、文学の課題として、自分のモラリスティックな素質を考えるようになった時代。そして、この時に到ればもうこれはおじいさんの問題でも自分の問題でさえもないという次第。
 一寸話がわき道に入るようですが、ふと荷風の「あめりか物語」(明治四十一年)をよんで、谷崎のロマンティシズムと対比して荷風のねばりのよいのがわかるようでした。谷崎というひとは官能的なのね、情感的デカダンスが荷風であるとすれば、谷崎はもっとずっと人間的には自然発生で、肉体の年齢のままに官能が老境に入るたちの人ですね。だからあんなにだらしない歌を紫式部にたてまつったりするのですね。荷風のあくどさはペンキ絵ではないわ、せいぜい水彩かパステルね。谷崎のはペンキ式です。春夫の生きのよかった時代がペン画に淡彩をほどこしたの。
 荷風のこの「気分を味う」傾向は、年とともに傍観的となり、又薄情ともなり「※(「さんずい+墨」、第3水準1-87-25)東綺譚」「つゆのあとさき」等傍観そのものが文学の敗退を語っているようなものになるのだと思いました。
 谷崎の方は、根が単純な官能に立っているから、年をとるとあくが抜けざるを得なく、あくがぬけたあとにのこるのは常識で、念仏っぽくなるという仕儀です。
 日本の近代文学におけるデカダンスというものもこれまでの評論は、どこまでつきつめているでしょう、肉体に対してだって谷崎なんかつまりキレイなものをキレイとして見ているので、ストリンドベリーの肉体の描写の美しい動物らしさは一つもないと思われます。私はバネのゆるいおぼれかたはきらいよ、ね。
 きょうは午後じゅう書いてしまったのよ。
 もう暗くなって来ました。階下に干しておいたあなたの袷、誰かいれてくれたかしら。さあ見て来なくては。そして夜はその袷のとも衿をとりかえるのよ、御覧になったら下手で、きっとすぐわかるでしょう。きょう、ふとんやに坐布団縫いのこときかせました、ひきうけるかしら。
 この紙はペンの先を案外に早く悪くいたします、そしてかきにくいのよ。この頃の手紙の字はきれいでありません。気ががさがさしているというのではなくて、画をちゃんとひっかけて、きっちりかくとしみて、スースーとかくでしょう? だからいやな字になるのよ。

 十月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月九日 土曜日
 雨の音が同じようなつよさで聴えつづけて居ます。ひさしを打つ雨の音、屋根にふる雨の音、葉から葉へしたたる雨の滴、それらがみんな一つにとけ合って、かすかにきわだついくつかの音の奥に柔らかく奥ゆきのある雨の日です。
 私は机の前に居ります。紫の前かけをかけて。雨の音とともに、粒々と鳴るような気持で、この部屋に云わば巣ごもっているのよ。そして、どっさりのことを感じ、その感じを味い、考え、どうしたらあなたにうまくものを書く妻らしくつたえられるだろうとも思ったりしている次第です。
 きのうの夜から、私の心も体も充電されたようになっていて、それはとても自分一人で沈黙の中に消しきることが出来ません。それらはどれも私から生れることを希っているのですもの。その希いは余り激しくてね、私を休ませないのよ、燃えたたせます。物語や断章やになって、それらは翔んでゆきたいとあせっています。
 その一つの物語。
 山と谿谷の景色の非常に美しい崖に一つの城がありました。山はなだらかに高く、その上にはひろい天がかかって居ますし、谿谷のひだは地球が熱かった時代の柔かさと豊かさを語るように幾重にも折りたたまれ、微妙な螺旋を描いて、底の川床までとどいています。景色の美しさにもかかわらず、そのあたりは自然の深さのなかにかくまわれていて、人跡が絶えています。山と谿谷を明るく又暗くするのは日毎にのぼって沈む太陽と、星と月ばかりでした。川床に流れる水は、常に清冽で、折々見えない力にうながされたようにその水量が増し岸の草をも燦くしぶきでぬらします。しかしその濡れ、きらめく草の愛らしさを見るものは、やはり人間ではありませんでした。大抵は月ばかりでした。
 崖上の城はいつ建てられたのでしょう。古い城と云えば、大抵茶っぽい石でたたまれているのにその小じんまりとした城は白い石でつくられていて、円柱がどっさりあって、どうしても戦いの砦のために築かれたものとは見えません。
 山と谿谷の自然の抑揚の中に、一つのアクセントとして、或はその起伏を最もたのしむよりどころとして、寛闊に、音楽的に建てられたものらしく思えます。不思議なことに、その城にも人が住んでいません。白い円柱コロネードの列や滑らかな曲線の床を照らすのは、やはり太陽と月とであり、そこをめぐって吹くのは風ばかりです。
 とは云うもののこの城に人が住んでいないというのは本当でしょうか。何故なら、城の隅から隅まで一ところとして無住の荒廃は認められません。手入れがゆきとどいているような艷が谿谷を見おろすテラスにも、円屋根のあたりにも漂っていて、古びたおもかげはなく、たとえば、城そのものが自身の白さや滑らかさやを養う力を自分のうちにたくわえているか、さもなければ、ここにふる夜毎の露に特別な恵みがこめられていて、いつもそれを新しさで濡らすかのようです。こうして、静かな時の中を山と谿谷と白い城とは不思議な呼吸をつづけて居りました。
 ある秋の日のことでした。その日は大して特別な天候というのでもありませんでしたがひるからすこし曇り出した山上の空は夕刻になるにつれて落付かなくなって、すこし葡萄色がかった紫の雲足は迅く、折々その雲のさけめから見える紺碧のより高い天の色とその葡萄色がかった雲とは、極めて熱情のこもった色彩で白い城に反射しました。川は迫って来る大気の中の予感にかすかに震えるように光って、低いところを走っています。すると突然、何か巨きい火花のようなものが、天と雲とを貫いて光ったと見るうちに、一条の稲妻が、伝説時代のめぐりかえって来たような雄渾さで、はっしと白い城の上に閃きかかりました。山も谿もその光にくらんで、城さえ瞬時は光の矢の中に霧散したと思われました。
 城はしかし光に散ってはいませんでした。天にある力と地にこもる力が互にひき合って発したその唯一閃の大稲妻は、その白い城の一つの薔薇窓から直線に走り入って、薄桃色の瑪瑙めのうでしきつめた一つの内室の床を搏ちました。稲妻は光ではなくて、何かもっとちがった命の源ででもあったのでしょうか。薄桃色の瑪瑙の床は、稲妻に搏たれると同時に生きている女のように身を顫わせました。
 天を見れば、炬火のような稲妻のかげはもう消えています。なだらかに高い山の頂きをみても、そこには空の色がてりかえし、今はしずまった灰色の雲の片がとぶばかりだのに、瑪瑙の床を搏った光ばかりは、どうしたというのでしょう。そこから消えず、燐銀の焔の流れのようにそこに止っています。その焔にゆすられるように薄桃色の床は顫えをおさえかね、果ては唇をでも音なくひらくように、こまやかなその肌理きめを少しずつ少しずつ裂かせはじめました。
 次の朝、太陽はいつものとおり東からのぼり次第に金色をました光の漣にのって、谿谷をすべり、山の頂をてらしつつ白い城の窓々を訪れました。が、朝日は稀有な見ものを見たように、暫く日あしをたゆたって、その薔薇窓のところから去りかねました。太陽は、数千万年地球の不思議をあまた見て来ました。それでもおどろきというものはまだのこされているのを知りました。
 毎日、毎月、毎年、変りないなめらかな薄桃色の床に挨拶しつづけて来た太陽は、この朝、全く思いもかけない発見をしました。太陽が、あちら側の山河や人間の都会と村を照らしていた間に、この人跡絶えた城内で、何事がおこったというのでしょう、昨日までの瑪瑙の床は、もうそこには在りませんでした。こまかい唐草模様の浮いた四つの壁の中央に今みることの出来るのは一つの大きい花ばかりでした。しかもその花は、まだ生成の最中にあるらしく、肉のある敏感な花びらの一つ一つが、息づき乍ら揺れながら燐銀の焔の中からのび上って来ます。ああそして、どんなつよい命がふきこまれたからというのでしょう、そうやって揺れ息づきながら、花は尺度で計ることの出来ないほど微かな生成をつづけながら、名状しがたい美しい無我で花びらを呼吸とともに収縮させ、そして弛緩させます。収縮させ、弛緩させます。
 太陽は、花のその息づきに、いつか自身の光波を合わせて息づいている自分に心づいて更に更に愕きました。
 太陽は朝ごとに甦えり、死も老いも知りません。そういうものを知らぬ自分というものを知ってから、もうどれだけの時が経ったでしょう。今、花の収縮のなかにおちそうになった自分を感じ、太陽は、自分が今若くあるよりももっと前にあった自分の熱さを計らず思いおこしました。人間が生きていられるだけの熱さに、おだやかなるあつさにもなることを覚えてから、経た年月を太陽は思いかえさずにはいられませんでした。悲しみと歓びの不思議な波が太陽を夢中にさせました。太陽は我を忘れて、瞬間太古の熱さにかえりました。そして、灼き燃えたつ光の珠となって、その花びらの軟くきついしめつけの中におちて行きました。
 異教ペガンソングというのは、どういう物語をさしていうのでしょう。ギリシア人は、太陽を決して花びらの間におちる神だとは思っていませんでした。信心ぶかく伏目がちなイエス、マリアの使徒たちは、一閃の稲妻が瑪瑙を花に変えるいのちの奇蹟を、自分たちの救いの中には数えませんでした。
 さもあらばあれ。わたくしは、良人のために異教ペガンソングの美しい一節を奏でます。

 十月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(カーフ筆「静物」の絵はがき)〕

 九日。隆治さんのところを申し上げます。ゴー北派遣堅第九四五〇部隊藤井隊 です。堅というのはよくわからないことね、でも字はそう書いてあります。パンの上にでもつくのかしら。
 お引越しはすみましたか。こういう台所はあんまり食慾をそそりませんね。

 十月十一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月十一日
 十七日までに着かすためには、もうきょう手紙を出さなくてはいけないことね。
 ことしは実に迅く一年が経ちます。春までは半分正気でなくてすぎた為もあるだろうけれども、何よりあれこれと用も多かったからでしょう。これ迄念頭にもなかった種類の用事が例えば戦時保険一つにしても加って。私は小遣帳というものをつけて居て、それに今日は九月九月と書いていてさっきびっくりして訂正いたしました。あなたにも今年は迅かったでしょうか。
 ことしは思いがけずひどい病気をなさり、やっとそこを通りぬけになってのお祝日ですから一層心に鮮やかです。何はなくても、菊の花はありますから、どの部屋も菊の芳しい香りを満々とさせましょう。天気がよい日を希います。天気が晴れると菊の匂いはひとしおすがすがしくていい心持ですから。みんなに何か食べて貰いたくてしきりに考えて居りますがどうなるやら。わたしはそういうことのためにまだまだ駈けまわれませんから困るわ。ああちゃんは泰子で一杯ですし。お祝いに、ああちゃんは丈夫な白の木綿ふろしきをくれました。これは全く素晴らしいおくりものよ。シーツになるのよ。わたしがはったとにらんだものだから、その魔力にさそわれて、おくりものに化してしまったの。
 わたしはすこし恐縮に感じて居ります。それというのは、どうもわたしがお祝いにあげるよりも、たっぷりまことに心のこもったおくりものを頂いているようで。
 美しき異教ペガンソングの一節は、わたしの肉体から生れたものではあるけれども。その歌のモティーヴをさずけられたとしたら、作者はやはりその啓示に感謝しないわけにはゆきません。小説の筋がきをお祝にしようと思っていたけれども、それはおやめにして、あの歌で代えます。その方がずっとふさわしいわ、ね。その上、生れてしまわない子について話しにくいと同様で、胎内にうごめいているものを早目に話し日の目に当てるのはどうも何だか変です。明日行くときに、多賀ちゃんが縫ってくれた暖かそうなどてら持ってゆきます。暖いようにと思って縫った心持を着て頂けたらと手紙にありました。何年ぶりかで、そんなどてらも召すのね。きっと暖かだろうと思います、そして、足もつめたくはおありにならないでしょう? こういう秋の季節の明暮、ほのかに足も暖いのは、ゆたかな和んだ気分です。
 きょう、本棚いじっていたら小じんまりした小曲集がありました。勿論それはもうこの年月の間に幾度かくりかえして読まれたものではありますが、新しい気持でみると、又ちがった節々が目にもつきます、なかに人の心のあどけなさにふれたようなのがありました。「どうして?」という題なのよ。若い女のひとの心持として歌われているのですが、そのひとがわが小箱のなかの秘愛の珠玉をもっています。その珠玉の美しさは直接描かれていないで、しかもそれに傾けている愛着がどんなに深いかということを語るのに詩人は面白い角度からとらえているのよ。その女のひとは、余り自分の心を奪うその美しいものを、思わず見入る自分の顔を、鏡に見られるのも羞しく感じるというその心持からうたっているのです。わたしの眼差しはそれに牽かれ、珠の深い輝きが瞳に映る。やがてそれはわたしの面にまでもかがようのだけれども、自分にさえそれと心づかれるそのよろこびの空やけを、鏡よそんなに凝っと見ないで。その不思議な羞らいはどうして? そしてどこから来るのだろう、といううたなの。
 単純な言葉の散文詩です。けれどもその調子には実感が流れていました。作者は男なのに、女のこころのこんなまざまざとした、一抹のきれいな雲に似た心の動きをよく捉えたものです。それは一つも嬌態ではないのよ。真率な、さっぱりとした、それでいて、いかにもなよやかな味いです。何だかこれ迄見落していたようで、こういう詩趣のふかさも面白く感じました。あなたはもしかしたらお読みになったとき却って心づいていらしたかもしれないわね。
 この詩の作者は珍らしく天真で、卑俗な羞らいの感情などからは、神々のように自由です。それだけ情感はみち溢れて、溢れる水がきらめくように充実していて、高い情熱の焔のためにかげを知らない風です。でもこんな詩をよむと、本当に親愛を感じるのですが、敏感なところがあって、あんまり人並の限界を超えた美しさへの傾注の深さを、その表現を、我からはじらうところがあるのね、しかも、決してその横溢を世俗の枠におさめておくことは不可能なのです。鳴りわたろうとする楽器なのね。そして、ここにそういう資質の独得な歓喜と悲劇ともふくまれているわけでしょう。
 でも、この詩人はしあわせ者です。自分の天才をうながす啓示を常にもっているらしいから。これは人間の生き甲斐というべきであろうと思います。
 十七日ごろには、新しいふとんを敷いて、さっぱりとくつろいでいらっしゃれたらうれしいと思います。
 十五日にゆくときは、おしゃれをしようと考えて居ります。でも果して、どんなおしゃれが出来ることでしょう。春、あんまり大気に生気が充満すると雷鳴がおこり、ゴッホのあの美しい絵のように爛漫と荒々しくなります。秋のみのりのゆたかさにもやっぱりそういう天候が伴うものでしょうか。数日来幸福な病気にかかり、きょうはおのずから快癒に向って居ります。

 追伸
 代筆のハガキ頂きました。あなたのところへハガキ出したあとでした。島田へも書きます。これは心づきませんでしたから。アンデルセンの本は、じかにそちらへ送るよう取計らいました。
「三人の巨匠」、終りに近づき。随分面白くテイヌの作家論などへも興味を誘われます。ドストイェフスキーの二重性格を実によく追っていながら、何か意外な軽々しさ、スリップのようにそれをレムブラントの明暗に比べています。何というちがいでしょう! レムブラントの終局の健全さ。ドストイェフスキーの窮局の不健全さ。一方の暖かさ(レンブラント)。一方の非人間さ。

 十月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月十八日
 十五日には急に代理になってしまって本当に残念でした。おやとお思いになったでしょうと思って。火曜日の夕刻ひどいさむけがしました。おなかが空いたからかと思ったが食後も駄目。これは冷えたのかと入浴してよくあたたまって床に入りました。そしてすこし落付いたら又ゾーゾーなの。さては、面妖と思っていると苦しくなって眠るどころでなく、様子が妙だから体温計を出して計ってみたら八度七分。又三十分したら九度、一時間もしたら九度七分まで上って、いく分ぼんやりした気分です。予防注射していますし、あんなに気をつけてそれで頂いたのならマアいいや、だがうちの連中にはさぞオゾケをふるわれるだろうなど、考えて午前四時ごろになってふと喉のところさわったら耳の下がはれ出しています。ははあんと大いに合点して、すっかり安心いたしました。眠らず朝になり、人が起きてすぐ冷しはじめ、十五日には歩けるようになるつもりで力戦いたしましたが、氷やけで耳の下は赤くなったが、床から出られませんでした。
 熱は翌々日位でとれ、もう十七日にはすっかり平熱で床に入らず暮しました。この扁桃腺のフクレでズコズコ云っていたのもすっかり解決いたしさっぱりした気分になりました。
 扁桃腺が喉の外へ向ってはれたので、内へ向わなかったため食事はおかゆをたべられましたし熱もたいしたことなく助かりました。
 しみじみもう病気は困ると思いました。人手がないから。自分が動けないと遠慮してつまりは氷もとけたっぱなしになりますから。本当によく気をつけ丈夫にしていなければなりません。
 十七日はそんなわけで割合調子もよくなって居りました。せめて、てんぷらでもみんなに食べさせたいものと、二、三日がかりで奔走しましたが、休日と重るせいか、どこもかしこも休み。すしやさえありませんでした。
 そこで、たべるものは何もなしとあきらめていたところへ、東北の友達のひとが出京して、珍らしくリンゴ七つその朝もらいました。今のリンゴはまアと歓声が上るのよ。それで何だかお祝いらしくて全くうれしくなりました。薄青いのや真赤なのや。遙々岩手から病気をしていた女のひとが癒ったともって来てくれたのですからおめでたいものなの。
 雨でしたが、しずかなわるくない雨でしたでしょう? 咲と寿とは緑郎のお嫁さんの実家へことわれない招待で午後から出かけ、国と私、むかい合ってのんびりしていて、いろいろ事務所の話、私の借金の話、寿の話、などしました。この頃いろいろ話すのよ、あちらから。
 そして夕刻になったら留守番の良人というものは落付きのわるいものらしくて、急にゴタクタの食堂を片づけようと云い出しました。
「私はまだ働けないわ、やめようよ」
「姉さんは只みていてくれていいんだよ、時々声援してくれる位で」
「ほんと? 何かひっぱり出して、姉さんそれ二階? なんていうんだろう」
「そんなこというもんか!」
 セルの上にハッピ(本もののはっぴよ、大工の棟梁がくれた)をひっかけて国が着手しました。この食堂の描写をしたらオブローモフはだしですね。空いた大きい木箱をもって来ていらなくなったものは片はじからそれに入れます。わたしは鈴木文史朗のヨーロッパ旅行記をよみよみそれを見ているというわけ。そして感服するの。
「こうやってみていると、やっぱり国男さんでなくちゃ通用しない片づけかたというものがあるのねえ。ああちゃんがいない方がいいね。アラそれやっ子の薬よ。アラそれはお父ちゃまて云われないからね」
「それゃそうかもしれない」
「私はもううわばみ元気が抜けたから片づけはきらいになっちゃった」
 ウワバニンとかいう砒素の薬(それをうちはウワバミというのよ、きらって)を水上さんは注射してその刺戟で亢奮していた頃私はよく女人足と自分をよんでいたでしょう?(いやね、私の神経は丈夫にするためには鎮静させなければなりませんでした、だのにね。ステュミレートする必要は、神経の弛緩した病人にいいでしょうが。私は緊張して障害をおこしたのに。あの頃はいつも苦しくいつも落付けずいつも働いていなければいられなかったのですもの)
 二人が帰るすこし前まで国よく働いて、私は一寸しぼった雑巾であちこち拭いて手伝い夕飯後、寿が、大英断でこしらえたヨーカンまがいをたべました。
 こんな風な一日でした。毎年ぐんぐん変りますね。白木の書類分類箱があるでしょう、あれを愛用しているので、その上へ日頃気に入っているが、余り堂々としていてどんな花も似合わないようだった古九谷の花瓶に白い菊をさして飾りました。そしたらそれの美しいこと。白い花の白の美しさ、それは生きていて、やきものの白いところのつやを引き立て、更につよい渋い赤と緑、ぐるりと黄色い線と実によく調和しました。純白の花の、しかも大輪な花が似合う花瓶なんて相当なものよ。それは虚飾のない男の美しささながらで、例えばこの色彩の濃い調和とボリュームの深さをゴッホが描いたら、どんなに心をひきつけるようだろうかと、飽きることを忘れて眺めました。安井曾太郎が来たら私はこれをかくしてしまうわ。この大家の匠気はきらいです。ゴッホは春の杏の白い花をあの独特の水色と朱で何と美しく心をかたむけて愛し描いているでしょう。
 菊は十七日の朝から飾られていて、私は机の前に坐って、やや右手の下方から眺めたり、夜、スタンドの灯のややほのかな逆光に浮立つ白さを眺めたり大いにたのしみました。ことしは美味しいものもなかったし、賑やかでもなかったけれど、美しさでは一等でした。その美しさは、私の心の中に盛に流動し、胎動している仕事の欲望とよく照応いたしますし、その上、その美しさをわたしがどううけとろうとそれも私の自由。
 そうそうその上、二ヵ月ぶりのお手紙午後頂きました。いよいよあげるより頂いたお誕生日ね。
 久しぶりで、ホラ
とみんなに披露いたしました。それからくりかえしよみ、小説のこと賛成していただいてうれしゅうございます。段々考えていると、すぐあのあとからひきつづき腰をおろして書いて見ようという気がおこりかけて居ります。それぞれの時期にそれぞれの問題があり核心的なテーマがありますから。あの頃ではわからなかったものもわかったところもありますし。「四十年」をペシコフはソレントでかきました。「二十年」は書けるわけです。「伸子」の発端から云っての。
 あれにつづくすぐの時期から出発位までは一つの区切りとなります。その先の五年が一つの区切り。その先の二三年ほどが一かたまり。少くともこの位の群像はあり得るわけです。この間の手紙で云っていた部分は、飛火した大火事の口火めいた性質のものだったのですね。伸子と作者との間には前篇になかった大きい距離があります。中篇的作品の集積とはしないで、はっきり長篇の構成をもってかいてみましょうね。
「伸子」は建てましの時を予測して柱(骨組)を建物の外側に出したまま歳月を経た建築物のようなものですから。テーマは終曲を奏していないのですもの、本質的にね。おっしゃっていたとおりです。しかしそれは分っていて、分らなかったのね。(かかなかったところを見ると)
 鳥籠のあとへ来るのは、針金のかごではないがやはり一種のかごで、しかも其はまとまった形をととのえていず、歪みそのものが語っているものの多い事情です。
 伸子が小さいエゴイスティックな生活防衛の生きかたに堪えないように、伸子はその空虚な女でも男でもないような事情に耐えなかったのは、追求される価値をもっています。女の歴史の青鞜時代とその後の時代との格闘でもあります。テーマはここにあるでしょう。「青鞜時代」の悲劇が描かれるというわけにもなります。その時代には属していないが、まだ自身を発見していない伸子は何とたよりなく、しかも内在するものに、ひしとすがって、彼女の道をたずねるでしょう。我々の女主人公を愛して下さい。あらゆる小作品の列が、大きい真空に吸い込まれるように次々と長く大きい作品の中に吸収されてゆく光景の雄大さ。これは私の生涯に於てはじめて感じる感動であり、芸術の大さであり、大きい芸術の大さです。大きい芸術家にとって、この大さは遙に大であると思うと、私は昔の天文学者がやっと望遠鏡をわがものとした時のようなおどろきに打たれます。これをかき通せば私もどうやら大人の叙事詩をもつことになるでしょう。
 体のよわさがまだあって、自分にとってまだ十分強固と思うに足りる自制力がなさそうです、仕事をしてゆく上で、よ。制作を遂行させるに大事大事な力が。ですからポツリポツリと考えて、感じを追って行ってゆっくり準備いたします。喉元にこみ上げるようなものがあります。何年この欲望をこんなに大切に、ひっそりはぐくまなかったでしょう。
 今私が病気であることの天の恵のいや深さ。あなたもブランカはブランカなりに恵おろそかならぬものと思って下さるでしょう? わたしの仕合わせは人間生活の礎の中に据えこまれていて、私が其を掘り起さなければ宝と知れない宝であるとは興味つきぬことです。
 気負けがおこると一大事ですから、もうあんまり小説についてのお喋りはいたしますまい。子供をおなかにもっている女のように、私は時々あなたに、小さな声でホラ、動いてよ、と告げて笑うでしょう。時には、手をとって丸い柔かい球なりのおなかの中に動くかすかな気配に黙って触れさせるでしょう。それであなたは万事を会得なさるのよ、母子とも健在なり、と。生れる迄、母親しかその存在も生長もじかには感じないという、いじのわるいよろこびを私はブランカらしく満喫しようという魂胆です。そして大いに神秘的になります。だって生命をうむものは神秘的なわけでしょう? 但、私の神秘さはヒステリーの全くの消失という、良人にとっての至福となって現れます。

 十月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月十九日
 又曇天になりました。いかが? こちらはずっと調子よくなおりました。木曜日ごろ上ります。
 きょうは一寸御相談です。Tの結婚について。あのひとはもう二十七八になりましたが、田舎では思わしいこともないらしくて未だにああやって居ります。田舎らしい好条件がそろっていないからでしょう。ずっと気にして居りますが、これぞという思いつきもなくていたのですが、あなたは、もしや昔、牛込区の坂の近所のきたない下宿にいた、Nという早大英文科か何か出た人のこと覚えていらっしゃるでしょうか、もう四十近いでしょう、私は全く存じませんでした。わたしが留守の間本を処分するについて戸台さんにたのんだらこの人と二人で来てくれて丁寧に世話してくれたそうで、去年の暮又一かたまり払ったとき初めて会いました。今そのひとは横浜の航空機の会社につとめました。私の見たところでは人柄がじみではあるが、或るあたたかみがあり、いろいろ苦労もしたらしいから考えかたもふわついていず、瀧井孝作と俳句をやったりしている様子です。そんなことで何かわかる人柄で、手織りの紬のようだが、孝作のようにその味だけの人でもなく近代の精神ももっているらしいが、大規模の人柄ではなくて、妻はやはりうちをキチンとしていくらかは風情あるこころも解するという程度の人がいいらしいのです。てっちゃんが知っていて、わるくない人間だということでした。人柄のよさ、風流のスケール、現実性いろいろ考え合せ、其はTの求めている程度にやや近いのではないかと感じます。日常性のうるおいになる程度の風流や正義感はTの欲しているものであり、日常の秩序を狂わす程強烈でない趣味として細君が文学的なのもわるくないのが一方の気分のようです。Tは苦労してしっかりしていて、もの分りもよいのは長所ですが、頭が早く、世俗的にもまわります。もしその面を研く結婚をしたら、かなりキメの荒いものになりそうですが、そういうところをNという人のほとぼりのある人柄がつつんで、人生には金と地位以外の目やすのあることを生活の気分としていけたらTのよさも生きそうに思います。
 もしあなたが御同意でしたら私はTにこの話をきかしてやり、もし気が向いたら出て来て会って見たりするのもわるくないと思いますが、いかがなお考えでしょうか。これ迄私として可能のありそうな人を知らなかったし一方から云えば、おせっかいをして責任を負うのはいやでした。今だって責任を負わされるのは苦しいが、Tの気持思いやって何か傍観しかねます。S子の実際を身近に見ると同情をいたしますし。兄と妹とは兄が結婚するとむずかしいものよ。だからもし双方よいのなら、と考えるの。全く私たちの柄にないことのようですが、自然にゆくならそれもわるくあるまいとも思います。何もないTは、何もないのを不思議にも思わぬ人のところが楽でしょう。大阪のKは全く虚飾的結婚して、えらいさわぎしたのですから。妹のものまでタンスにつめて行くという風に。
 Nという人は背の高いやせぎすの人で髪が白いのが多く見える人です。Tが黒髪つやつや頬は紅というキューピー亭主が趣味なら駄目ですが。それも云ってやって。あなたの御同意をうけたらすこしこまかくきき合わせしらべて見ます。ケイ類などのことも。一郎というのだから総領と思いますが。兄さんのことも普通はキズになってTの話もまとまらず来ていますが、その人なら扱えるでしょう。世話する限度も分ってTとして安心ではないかしら。
 全くまだコントンの話ですがどうぞ御意見おきかせ下さい。それによってどちらかにいたしましょう。霧のように消してしまうか、すこしはまとまりそうにしてみるか。ではきょうはこの話だけ。
 住むのは横浜の郊外の由です。

 十月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月二十四日
 灯のついたところでお目にかかったりすると、何だか夜じゅうそこにいるような珍しいおもしろい心持がします。日が短くなったのね。あの日来信一束うけとりました。バルザックもありがとう。何年来かたまった手紙はかなりでした。それに封筒の紙がよいものだから新しいようにピンとしていて、今時見るとどこかよその国から来ているように印象が新鮮です。包みからはみ出した一つを待っている間によみかえしました。偶然達ちゃんの御結婚の日のことを野原から書いたものでした。妙なもので、時を経た手紙は自分で書いたものながら、やはり専門家らしく客観でよみかえしますね、そして、あんまり上々の手紙でもないナと思うのよ。こまかく書いているけれども気がせわしいところがあって。
 一行一行をゆっくり辿ってみると、それがわかります、ですからきっとあなたもそれはお感じになっているのでしょうね。たのしんで書いてはいるのだけれども、いかにも迅い文字の運びで。
 でも、あなたはちっともそのことについては苦情を云わず何年も辛棒して下さいました。毎日どっさり書くものがあって、その熱気のほとぼりの勢で思わず書く手紙はああいう自分としての連続したスピードがこもってしまうのかもしれないことね。
 今はそれならどんなでしょう? 手紙をかくのが唯一の執筆だというとき。やっぱりブランカらしくのぼせて早口でしょうか、あぶないものね、又何年か経て見たら上々でもないと、我から乙をつけるでしょうか、それが成長の証拠ともさすがに申しかねます。
 手紙については面白いことを考えます、というより発見します。わたしは十六の時から、1930 までずっと日記かきました。
 その後かかなくなって又書こうかと折々思いながら書かないのは何故かと考えてみたら、私が日記にかきたいようなことは能う限りの率直さでつまりはみんな手紙にかいてしまうのね、だから日記はダブッテもうかかないということになってしまいます。何か心に目立つものをうけとれば、いつも手紙に書いてしまうのですものね。日常のこと、文学上のこと、そして、計らずもこれは日記をつける以上に有益なのかも知れません。何故なら日記はひとり合点承知の上。手紙は手紙ですものね。その上日記にはしない表現の上での積極が加ってもいて。だからもしかしたら手紙を私はよほど大切に思って書いてよいのかもしれないわ、心持の上での大切さと同じくらい文学上の大切さを自覚して。しかし、そんなこと忘れて書くところ書いているところに手紙のよさはあるのでもあります、只今唯一の願いはせっかちでない手紙をかくということよ。仕事に自分を馴らすために、ワアーッと勢にまかせて一度に何枚もかいてしまわず、念を入れて二日にわけてかいてみようかなどと。手紙には大抵三時間以上費します、一日分の制作として十分よ、もし緻細にかいてゆけば。
 お医者の意見で、私がすこし平常の仕事に耐えるようになるのは来年の夏ごろとのことです。一人前の外出、一人前の仕事の意味で。呂律ろれつもちゃんといくらかよくなって。しかしそれまであんけらかんとしていたくないから私は生活をよく整理して、一番つかれる外出とか来客とかはこれからも最少限にして仕事をすこしずつなりともしたいと思って居ります。
 風邪大したことにおなりなさらないようにね、国もきのう、きょうはドテラ着てフラフラです。私のグリップというのは菌が血液に入って淋巴腺がはれて困ったのでした。
 グリップというのは、二度ほどやったからお医者さんが一こと云ってくれれば注意したのに。知らず、すこし早くおきてあとよくなかったのでした。咲が私の枕もとへ来て女中がなくてとても駄目だ、いる人は病気で臥たというのだもの、臥てもいられないわけでした。
 咲は神経衰弱をなおすためにこの頃自転車で一日に二時間近くのりまわし、それでやっと眠り食べられる方へ向いて来て居ります。泰子はジュン生理上の弱さですが、大人への影響のしかたは複雑で、心理的となり、遂にモラリスティックな問題にまで入って来ます。この点がもっともおそろしいところです。泰子に体をくわれるのはよいとして、心をくわれ、一家の健全性をくわれるのは許せない気がします。
 こんなにむき出しに自然の暴威を目撃することは珍しい経験の一つというべきでしょう。母の本能性は尊くもあるが余り盲目でありすぎます。一家の健全性についての責任があるというようなところまでゆけば。あなたに迄とんだとばちりで御免下さい。もうやめましょうね。いろいろな心理とモラルのクリシス(母、女として、妻として)を感受するのが収穫であるというだけでおさまるには、私は少し人間ぽいのよ。そんな三文文士根性に止まれない健全な人間としての憤りがあるわけです。しかし咲として泰子にからむ自分のいろいろの動揺をたたかってゆくことはやはり一つの大きい訓練です。こういう本能的な女性の人間成熟のためにこんな自然の材料が与えられているということを考えるべきでしょう。これをも宝というほど人間のキャパシティーは巨大でしょうか(?)
 其にしても人間は面白いことね。咲にしろ私にしろ泰子が可愛いとかいじらしいとかそんな一面の「いい心持」で人間成長はしなくて、むしろ逃げられない負担とたたかう心理の内でだけ豊かにされ、成熟し勝利し得るというのは。
 こうして人生のテーマは深められるのね。生活的に咲の正気の側に私というおもりのついていることは大変いいことです。神経のエクセントリックな衝動とのバランスの意味で。そして大局には私をもゆたかにするのでしょう。咲枝をよく理解し同情し、いろいろの生活の障害の本源を理解しようとすれば、やはりおのずから見るべきものは見なければならずですから。
 きょう手紙かき出すときにはもっとほかのいろいろのことを話そうとしていたのでしたがおのずから「うっせき」が洩れました。
「三人の巨匠」は少しずつよんでなかなか面白いテーマがひき出されます。シェクスピアが最大の人間通であるとし、彼の全作品のテーマは常に何かの「誤解」である、そこからの悲喜劇であると云っています。「オセロー」ね、あの女主人公と主人公との間の誤解、「リア王」の誤解、しかし現代の人々はああいう単純な誤解の上にあれだけの悲劇は発生させず、従ってかけません。ああいう誤解そのものが生活から減っていますから。この点が私にはひどく面白いのです。時代と文学のテーマとの関係で。シェクスピアがあんなに単純な誤解、殆どおろかしき誤解の上に、あんなに人間性を乱舞させ得たのは何故でしたろう。それは「誤解」がその時代最も人間性を解放するテーマであったからではないでしょうか。交通の不便さ、しかも拡大された地球、発達しはじめた産業、しかし中世のしっかりした身分別。最後のこのものは、リアとコーデリア、オセロとデスデモーナ、人間と人間とを型にはめた関係におきますが、誤解はそこに加った人間の心の積極な動きとして生じ、そしてそれをキッカケに人間性を溢れさせました。意志の疎通の欠けたところからだけ誤解が生じ、(しかし誤解の生じるだけ型やぶりがあり、)=コーデリアの潔癖=それがシェクスピアの文学で典型の単純さでつかまれました。それだから人間をあれだけ活かして動かせ、活人間として今日うけとれるのではないでしょうか。そうだとすれば、大きい文学は必ず、その時代の典型のテーマをもつべきであるし典型のテーマというものの深まりは今日ではもう世界史的スケールのものであり、それは単にマニラ紀行ならずという大課題が浮んで参ります。いつぞやシェクスピアの作品を分析したシルレルだかの本がありました。時代にふれて勿論いましたろうがテーマのそういう点についてそういう文学としての本質についてどうかかれていましたでしょう、大文学というものについてその骨格についてはなかなか深く、文学をそこで捕え得るか否か及びそれを作品化する力量の問題等興味つきません。日本文学の古典にしろ、国内的にそういう歴史は踏んで居ります。しかしシェクスピアのように人間爆発のモメントとして「誤解」はとらえられて居りません。近松が一番可能を示す作家ですが、作品の中ではどんなに展開しているでしょう。誤解以前の「約束」どおりの動きを人間の動きとして動かしがたくうけとって相剋する人間性だけを彼はとらえたと思いますが。そこに日本文学の根づよい特色があるわけでしょう。文芸評論というものの奥ゆきについても考えます。同時に内国的に或る統一段階に到達した国の文学の創造的衝動の消長の問題も決して見のがせません。新たな一種の困難と貧困に当面していたかのようにあるのは何故でしょうか。あなたがゆっくり横になりながら答えを見出して下すったらと思います(これは今後の文学がその国でおそろしく豊富に花咲くだろうという明かな見とおしとの対比において)。文学者の成長というものに要する長い時間、それから文学的資質というものの拡大の鈍さ(そのことは各面に云えるでしょうが。例えば技術家的資質の本当の精神性への拡大の鈍さ、としても)文学がつまりは文学的資質でだけ解決されなければならないという、或種の文学者にとっての無限のよろこびと無限の苦しさ。(どんな作家でも彼がもし本当の作家であるならば、自身いかに雄々しく幾山河をばっ渉しながらも、つまりはそれを作品に再現する静かな時間を望まざるを得ず、それを与えざるを得ず、作家は自身の限界を突破しようとするやみがたい衝動とそれを作品にする外面的孤独沈静の時をのぞむやみがたい衝動との間を絶えず揺れているもので、作家の養成と成長との助力はこの機微にふれているものであるということ)
 文学的資質が拡大し脱皮するためには文学より外の刺衝が入用であり(志賀直哉の時代に美術と音楽がそうであったように)近代ではそのミディアムがもっと科学に接近してい、しかも科学の資質では文学そのものではなく、例えば「北極飛行」は全く新しくよろこばしい文化資質の典型の一つでありますが、文学作品ではなく、文学作品として「ピョートル大帝」がやはり今日までは大作として代表され、しかしあの資質は決して「北極飛行」よりも新しいものではありません。ここにも文学の資質の新しく発現する可能のむずかしい過程があります。これから後十年経てば、この問題はおのずから全く新しい答を見出すでしょう、しかし、おそく花の開く国ではあとまで考えられます。だから或時期における文芸批評の大切さというものは想像以上であると今更思われます。或意味でより若い新しい資質がそこに発芽するのは当然であり、より旧墨になじむ文学的資質はそれと摩擦し、しかし一方で魔法の杖のように新しい資質へよびかけそれを引き出すものです。新しい文芸評論は既に自身の新たな分析力による段階を脱し、分析しつつその分析の美しさ精神のリズムの綜合的な魅力でそれをおのずから綜合的な創造的な鼓舞へ向けてゆくものでなければなりませんね、その志向において愛に燃えていなければうそです、人生へ向って、ね。どんなにそういう評論をよみたいでしょう。「三人の巨匠」はややその渇をみたします。よみたい欲が自分に幼稚なものも書かせました。が、私はもう小説に限ります。あらゆる私の作家としての問題、宿題、予測をすべてあなたに訴えることにきめました。私は小説のことがこの頃又すこし分り、評論のことも又すこし分って来て、制作として二途を追いにくいことが明瞭となりました。或る成長の後二つは却って兼ねにくいもののようです。どちらもそれぞれ全力を求めます。二つの神に仕えられないと昔からいうのはうそでない。
 私は自分の中の評論家にいくらか手引きされつつ刻苦して自身が呈出している課題を克服して行ってみたいと思います。我々の世紀、私たちの時代、限界のなかで、文学の資質はどの位まで更新し得るものであるか、そのすべての条件を試みてみとうございます。私に小説のことがすこし分って来たというのはまやかしではないでしょう? こうして、私は自分の問題から段々ぬけ出して、日本における一定の世紀の文学的資質というものへの答えを捧げたいと思うのですから。これは何と謙遜な、若々しい、願望そのものにおいて生新な希望でしょう。それを成就させる根気と体力とを与えたまえ。作家としての立場から云えば、卓抜な評論家にとって十分素材となり得るような作品の系列をもつということは一つのよろこびでなければなりません。作家の義務でさえあるでしょう? 愛する評論家を文学の不毛な曠野にさらすことは出来ません。

 十一月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(電報)〕

 リンパ センハレテユカレヌユリ

 十一月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ブーダン筆「海辺」の絵はがき)〕

 十一月一日。三十日のお手紙ありがとう。きょう(月)電報打ちましたがうまく火曜日につくでしょうか。先週ふとん仕事や何かでずっと用事つづきで暮したら、グリップの再燃で、今度はいいあんばいに熱は七度五分でおさまりましたが、リンパ腺がすっかりはれて氷嚢づかりです。あの位一度血液に毒素を吸収してしまうと、更新がむずかしいものと見えます。細菌に抵抗力のよわい血液になったみたいね。今度は大事をとって、今週すっかりチッ居いたします、御免なさい、くりかえしをやったりして。大いにおとなしくして居ります。

 十一月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月五日(前略)
 きょうの新聞でいよいよ出版整備のことが発表され、「実績」にこだわらず、「性格」で行くこと、今までの形をすっかり変えて、のこるのも統合して、公的な存在となるべきこと、益※(二の字点、1-2-22)書籍も弾丸であるということをはっきりさせ、二千軒は二百軒以下となるそうです。大観堂のように白水社のように小売やが出版するのは原則としてなくする由です。東京堂、三省堂、その他どうなるわけでしょうね。大したことです。文学者はどうするでしょう、何故なら書籍は弾丸で即ち消耗品であってよいかもしれませんが、文学は消耗品でも破壊力でもありませんから、そういう意味で出る本の内容とはなりがたいというところもあるでしょう。
 繁治さんの勤め先もこのためにどうなるかというわけだそうです。久米正雄が何かの会で「作家は小学教員になるということも真面目に考えている」と話したそうです。文学もこういう時代を経て文弱ならざるものに到達するのでしょう。
 高見順がこの頃『東京新聞』に「東橋新誌」という小説をかいて居ります。このひとはこの頃明治初年のものをよみかえしたと見えて、題からして「柳橋新誌」ばりですし、作者というものを作品の中に登場させ、文体もその時代めいたニュアンスで内容は今日をとってかいて居ります。苦心のあともわかりますけれども、何となし今日の文学というものについて読者に感想を抱かせます。『文芸』の「まだ沈まずや定遠は」とともに。あの演説(今月号)にしろ、明治初期の文学がその未熟な向上性においてもっていた演説口調と、今日のとはまるでちがいますし。文学上の工夫というものが、体のひねりみたいなものになってしまうのは、この作家の著しい特徴ですね、「描写のうしろにねていられない」にしろ。ある敏感さがあります。神経質さがあります。それでくねりくねる。くねる運動は常に前進のみを意味しないというところに悲劇があるのね。あり体に申せば、今日、文学は工夫の域をこえてしまって居ります。工夫で何をかなさんやです。そのことを腹に入れて度胸を据えなければ、文学は文弱なるものに止ってしまうでしょう。もうすこし想像力が豊富だと強壮にもなれるのにね、この頃よくこんなエピソード思い出します。コーカサスの山越えをしようとして、丁度山脈のこちら側の終点をなすウラジカウカアズという町に夜つきました。ホテルは今時珍しい瓦斯燈で、あおい水の中に入ったようなガランとしたホールのところにいたら、フェーディンという作家が来合わせ、明日自分も越すが同行しないか、自動車は六人のりだというのよ。同意して朝玄関へ出たら四人と二人のりとが来ていて、フェーディンの女房が、四人の自分の仲間がわれるのをいやがってゴネるの。すると亭主はさすがに「だってあの人たちは女だよ」と小声でたしなめているのよ、きこえないか分らないと思って。私は大いに不愉快で、このメン鳥の横にのりました。段々山にかかってテレク河をさかのぼり、トルストイが「然しかの山々は」というリズミカルなリフレインで「コーカサス」を描き出したそのテレクをなつかしく眺めて山にさしかかりました。壮大な展望がはじまります。するとフェーディンが「素晴らしい!」と歎息しました。「トルストイ、レルモントフがコーカサスについては書いてしまった」すると女房が紅をつけた唇を動かして一言「やって御覧なさいよ」パプローヴィチェと云うの。私はフェーディンの歎息も女房のはげましもいかにも三文文士くさくて苦笑してのってゆきました。山越えはこの一行のおかげで大半の愉快を失いました。しかし今、あの山道を通るいろいろの動きをまざまざと思いやると尽きぬ感興があります。
 私たちがのっている船は、あの晩夏の黒海のきらめく碧さと潮風にふかれてのどかでした。クリミヤにしろ、そこに咲く百日紅の色を知っています。ノガイの草地では、馬乳が療養上有名です。そのノガイに今日では歴史の物語がくりひろげられているわけです。ノガイと云えばトルストイの時代にはその遊牧民の天幕小舎しか考えられなかったのよ。それ以上のロマンティシズムはあり得なかったのです、エクゾチシズム以上のロマンスは。今日景観は何と雄渾でしょう。それを想って、「東橋新誌」という題みると、おのずから感懐をおさえ難うございます。古くさいがみじめです。今日では明治のランプをつけて古ぼけた写真くりひろげているよりも、土にじかにいて、星あかりに照らされる方がよりフレッシュであるようなものです。
 達者な新しさ。それをどんなにのぞむでしょう。文学の上に、ね。本当にすこやかな息吹きも爽やかな力を。わたしのカン布マサツの動機もお察しつきまして? 余り遠大すぎてお気の毒のようです(自分に、よ)
 さっき太郎が寝ました。この頃この男は軍歌ばかりうたいます。そして航空兵はおしるこが貰えるからいいね、と話します。
 つづいてみんなが国府津から帰って来ました。国男は珍らしく赤い顔して居ります。裏の近藤さんという洋画家が食堂で、ここの隣組は出席率がわるいということについて町会の小言をつたえて居ります。私は何だかどの話も面白くありません。すぐ上って来てしまいました。そしてこれを終りにいたしましょう。
 もと帝大かに来ていたイギリス人が(詩人でしょう)前大戦のときの各国の短篇を集めたものを神近市子が訳し二年程前出ました、「戦線・銃後」という題。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等。それぞれにその国の人のテムペラメントがわかって面白いばかりでなく、こうして編集されたものが却って大戦の奥ゆきというようなものを綜合して感じさせます。バルビュスの暖い短篇もあります。オイゲン先生の国の作品が、大変理念的なものばかりなのは、これも注目する価値を感じました。その生硬さ、メロドラマティックな筆致においても。今に、かりにこういう篇集があり得たら其はどんな作品を示すでしょうね、昔物語のようよ、何しろ、三十何台かのタンクがはじめて前線に出て来たときの小説があるのですから。では又。

 十一月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ユトリロ筆「雪のエグリーズ」の絵はがき)〕

 十一月七日。これが手紙にかいた絵よ。考えてみると、あなたは深く積った雪なんか御存じないのではないかしら。島田の冬は肩に降った雪がすぐとける位ですものね。何年か前はじめて島田に行った一月六日には淡雪がふっていて私の髪にかかりました。東京の雪というと、いつも思い出すのは歩道の横にのけられている雪ね。
馬をさへながむる雪の朝かな
 これはさすが芭蕉ね。北国の深い朝の雪景色、実に大した描写です。馬の匂いまでするようね。

 十一月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(池部鈞筆「池」の絵はがき)〕

 五日づけのお手紙をありがとう。マホー瓶はようございましたこと。
「新生」はうちにありません。どこかきいて見ましょう。「新生」ぐらいが、この作家の、人間をむき出しにしている作品でしょうね。『細菌物語』はおよみになったら拝借、カンプマサツをはじめたことは前便の通りですが、Cが不足らしくてハグキが妙になり注射はじめます、其々の段階で、病気がひどかったことや、どんなに破壊されているかと切実に感じます。

 十一月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(小山敬三筆「高山雪景」の絵はがき)〕

 十一月八日。どてらを着て、毛布をひざにかけて「幻滅」よみはじめて居ります。この作家の書きぶりが、七年以前よりも親しめます。そして、この作品が全く「描写のうしろに寝ていられない」筆でかかれ語られ、滔々として大河の如くあるのを理解します。ふだん着からその人の匂いが、じかに鼻に来るように、生活の匂いがします。それはいい気持です。そして、どうせ描写のうしろにねていられないなら、この位滔々たるものであってほしいと思います。

 十一月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月十八日
 火曜日には何だかうつけたようにしていて気持がおわるかったでしょう。御免なさい。私にとってきいたことがショックだったので、あすこへ行くまでのうちに自分の中に落付かせることが出来なかったのよ。その上、用事が足りていなかったから。重なっておいやだったろうと思います。
 金曜日の夜電話で日曜に来ないか、という招待でした。両家から。どうもそのときはあちらでプランがあるらしいので、久しい前から云われていたことだし、寒くならないうちきれいな樹々の色も見たくて行く約束しました。そして、夜かえるのは道があぶないし疲れるから泊るということにして。
 日曜日は七五三の日だったのね。あっちの女の子たちが五つですし。二時頃出たら四時すぎ着きました。車台が減っているのでこんなにかかったのね。降りたら、ヤーおばちゃんが来た! オバチャン! オバチャン! という声々の歓迎で、大きい母さん鶏のようにおせんさんが笑っているの。子供たちのおみやげはエホン、繩とび、リンゴ(大人へ一ヶずつきっちり)岩手から送ってくれ。包をもってくれてブラブラ辿りついて、夜まで卯女の家にいました。父さんも元気。あなたの病気を話そのほか。すこし話が経過をもっていることだと「一体いつまで知っているんだったっけか」という工合で両家の総員七人と私。泰子の二階で泊りました。ゆっくり眠って父さんは外出。母さんと子供たちとで豪徳寺の中を散歩しました。銀杏と紅葉が見盛りで、実にいい気持でした。いかにも十一月のおだやかな飽和したような天気でしたから。
 夕飯後帰る予定だったら、栄さん夫妻が来るから待つということになって、そしたら雨になりました。
 栄さんたちおそくよく来たと思ったら、話しがあったからだったのね。私がおどろくといけないと思って、何も云わず、雨の中暗いのに、あした真直行く方がよいということに決定。
 そして、あの日出がけに、卯女の父さんからききました。だから丁度、あすこに坐ったころは、私の気持が益※(二の字点、1-2-22)ふかくうけたショックを滲透させるときだったわけです。
 ずっと友達の間も全く妙になってしまっていて、栄さんもおせんさん夫婦も不快なことばかりつづいていたのでした。私のところへは、何しろ電話一つこの何年もかけて来ないという工合でしたから。段々生活がすさんでいるのをきいて、全く心痛していたし、いつかそのままでは続かないと予想していました。しかし、こんな工合に現れようとは。田村俊子が、生活をこわしてアメリカへ行ったのは、やはり四十ぐらいのときでした。出版屋を借りるだけ借りした上。それも同じです、生活を乱脈にしてしまって、作家としての信頼を低めてしまったこと、それも同じです。悪いことには、昨今出版整備で、文筆の範囲は全く縮少してしまっていますから、「くれない」のときのように仕事をすればそれだけは物を云うという時代でなくなっていることです。
「くれない」のときは作者に信望とでもいうものが在りました。現在それはなくなりました。それらのことを悧口な人だからすっかり知っているでしょう。そして、同じ悧口さで、親しい友人に対して自分のとって来た態度もわかっているでしょう。本当に生活がこわれ崩れたというだけの下らなさと自分から認めて、友達にも心持うちあけず、いるところも知らさないというその賢こさは、世俗的な賢こさで、そこに到るまで友人たちに一言も自分たちの暮しかたについて口をきかせず突ぱって来た、その勝気さの裏側で、私たちとして何と心が痛むでしょう。特に私は十三年の下らない事件のときは御主人から全く非友人的な扱われかたをしました。その人柄の底を見せられました。あのとき細君は目白の家の二階で、何と慟哭したでしょう。そして、身をしぼるような声で「わたしは不幸になりたくない。正しいことからでも不幸にはなりたくない」と泣きながら云いました。私には、その慟哭が、今は自分がなぐさめてやれないところできこえているようです。更に更に苦く、更につめたく涙は流れるでしょう。不幸になりたくない故に、全力をつくし迎合し、自分の生涯を歪めたあげく、迚もやってゆけないことになったとして、どうでしょう。
 この間の随筆集の中に十三年に書かれたもので、単純も複雑もくそくらえという気になっている。自分はこれまでひとに可愛がられて来た、それが侮蔑として思いかえされる、というようなところがあったでしょう? 短いがおそろしい文章であると思ってよみました。
 三十日(十月)に栄さんのところへ一寸より、原稿紙とインクかりて行った由。わけも一言「くれない」のつづきと話して。しかし「くれない」のつづきではないのです、質がちがう。馬鹿なこと(男の側)にしろ、あのときは一つ通ったものがあり、女の側に真摯な向上の欲望がありました。今は女のひとの中にもひどいすさみがあり、それを癒し立て直るのは実に大事業です。
 主人は大あわてで(そうでしょう、あのひとをおとりに金を借りたおして、月小遣だけ五百円いると会う人毎にふいていたのだから)下らない出入のひとに喋りちらしているのに、卯女の父さんや私には、栄さんはもとより一言の相談もしないのよ。力をかりようとしない。そういうのです。
 酸鼻という感じがいたします。中学三年になろうとしている男の子、六年の女の子、九州から来ている十九かの娘(はじめの結婚の)その人たちはどんな気がして暮しているでしょう。おばあちゃんは春亡くなっていますし、昔からしたしかった人は一人も出入りしなくなっているし。
 何とかして、あるところでとりとめて、立ち直ってくれることを心から願って居ります。私にとって内面的に最も結ばれて暮したことのあるひとですから、おそらく一番ひどくこたえているのではないでしょうか。時間の上での古さでは卯女の父さんたちでしょうが。
 人間の生涯の曲折というものはおそろしいと思います、親しい友達に、一言も口を利かせないという気の張り、賢こさのおそろしさを感じます、そして人生はつまり実に正直であると思います。世俗的につくろおうとしても、いざというときは、却ってその世俗の面からくずれて来て。
 あなたもわたしのこの尽きない感慨をともにして下さるでしょう。立ち直るようにという願いをともにして下さいましょう。一層一層生活の大切なということを感じます。自分の一生であるが、人間としての一生という意味では、謂わば自分だけのものでない責任があります。自分の努力によって充たされてゆかねばならない人間の一生という刻々に内容をたかめている課題があるわけです。私たち芸術家はその最も人間らしく誇ある課題を充足させるために身をすてている筈です。
 全く気ままに生き弱く生き、時代のめぐり合わせ自分の気質に翻弄されてしまうというのは何と悲しいでしょう。それは生きるという名にさえふさわしくありません。
 何とも手の下しようがない次第ですから、自分を落付け、衷心からのよい願いをかけつつ、自分の生活をいよいよ慎重にいつくしみ責任をもってやって行くしかありません。
 きょうは、大分自分に戻りましたから、どうぞ御安心下さい。
 字引(松田衛)は今どこにもありません。古本をさがして見るのですが、在るかどうかのぞみうすです。絶版とのことです、東京、三省、郁文などききましたが。うちにわるい英露があります、お送りしましょうか。十年ばかり前、ナウカであちらのから翻刻した英露があって、それはよかったのですが、買いそこねました、残念ですね。心がけておきますからお待ち下さい。
『時局情報』はもうすこし待たねばなりません、こんどの整備でこれは四割減、『文芸』八割五分減、『婦人公論』七割減となりました。そのために、予約を全廃してしまいました。出たら早いものがちで買わなくてはならないわけです。何とか買えそうです。しかしこれがほしさに、その本やでエホンも買うという工合よ。
 帝大から四千人の学生が出征しました。大講堂の入口に佇んでその行進を見送る総長の髪の白い、背のまるい、国民服の姿が新聞に出ました。
 うちの書生さんはもう二三日でかえります。私は、この人から迷惑も蒙ったが、ひっくりかえったときは幾晩も徹夜で働いてくれその後も氷買いだけだって大した骨折りをさせましたから餞別を三十円やります。
 バルザックの小説のことゆっくり書こうと思います。こんどはいろいろわかり彼の大作家であるわけもよくわかります。一番私が有益に、興ふかく思うところは、バルザックが、人間関係というものに示している執拗な描写です。もとは、その点の価値が分らなかったから、彼の描く性格の単調なところ、殆どモノトナスなところ、がひどくいやでしたが。関係をかく彼の作家的力量は巨大です。
 昔、彼が現実を描くと云って妙にもち上げられた時(西鶴、バルザックという風に)、もち上げた人たちは、真に彼の大作家たる強さ、実に大きい強さは決して理解しなかったし学ぼうともしなかったようです。何故ならもし其がわかれば、当時自分たちが、何故バルザックに戻ってそれをかつぐかという心理関係がまざまざと自分に見えたわけですから。そして、ああいう風にはもち上げなかったでしょう。
 人間の性格というものはそうそう新奇になりません。刻々に変り広大となるのはその関係です、現実的利害による関係です。小説は、将来、それを十分こなし得る作家を求めているのではないでしょうか。
 散文というものは、タンサン水のように、その中に生活の炭酸性の泡をどっさりふくんだ強壮なものであるべきです。ヨーロッパ(フランス、イギリス、ドイツ)の散文は、十九世紀に其がもっていた剛健さを失って来ています。ブロックのつみ重りではなくて、曲線的になってしまっています。それは新しい生命力をとり戻さねばならず、其には人間の関係についての強壮さを(理解の)もたねばなりません。バルザック以後の、ね。
 だから、アメリカの散文がこの国の若さを自然に反映して、ある瑞々しさをもっているのは面白く思えます。
 しかしこの強壮さは、謂わば若いから丈夫だという人間の生理的な状況のようなもので、それだけではたよりのないものです、どんなにふけるか分らないのですものね。
 日本の文学的伝統における散文の力とはどういうものでしょう、この見地から見直すと、漱石の散文は秋声よりも弱いと思います。寛の散文は初期だけ。芥川のもよせ木です、もろい。小さい、器用です。志賀のは、よく洗ったしき瓦でたたんだような散文ですね、建造物的巨大さはありません。「誰がために鐘はなる」などは、肉体的ぬくみと柔軟さとスポーティな確乎さをもっていて新しい一つのタイプでした。そうお思いになるでしょう?
 私は今の自分として、もっているプランに添ってもバルザックが分って来たことをうれしく思って居ります。自分の散文を全く散文の力を十分発揮し得るものと鍛えたいと思います、私が詩人でないことに祝福あれ。
 では又ね。

 十一月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月二十一日
 きょうはこんな紙をつかいます。
 暖かかったことね、秋の末の飽和したような黄色と紅が二階からきれいに見えます。寿江子へハガキをありがとう。いずれ御返事出しますでしょうが、私からも一寸。『風と共に散りぬ』はひところどこの本やにも胸が一杯になるほど氾濫して居りましたのに、この頃はもう全く影をひそめて居ます、この間うち本やさんにもたのんで居りましたが、望うすしの方です。田舎へ行く人にたのんで心がけましょう、本まで田舎とは。プルータークの雄弁家の巻も同じめぐり合わせです。アメリカ発達史はどこだったかの本やで見たような気がします、新書ね、これが一番早くものになるかもしれません、面白そうな本です。英国史はモロアはうるさいかきかたをしているようですが、そうではなくて? フランス人らしく、あんまり個々の人物のせんさくずくめみたいで。
 この間うちよんでいたツワイクの「三人の巨匠」の中で、文学精神の伝統ということを云っている中に、ドイツとフランス、イギリスを比較して居ります。ドイツのは、「ウィルヘルム・マイスター」以来(あれを近代小説の始源と見ると見えます)発展小説の形をもっていて、これは人間が、自分の内部相剋を統一の方向に向けて行って遂には社会に有用な人物となることを辿ってゆく文学。(そういうと、ドイツ・ロマンティシズムの傾向もわかるようです。社会に有用になる、ゲーテ式自己完成への反撥として、ね。その俗気への対立として)イギリス文学は、社会で実際人々を支配しているイギリス流の道徳の説明書みたいなもの、(ツワイクは、この点なかなか穿って居ります。ゴールスワージー迄謂わばそうです。だから大戦後はロレンスやジェームス・ジョイスが出たのね)フランス文学は、社会と箇人との勝負を常に主題としている、バルザックにおける如く、と云って居ります。今、なかなか丹念に「幻滅」をよみ終りかけて居りますが、バルザックは、或るスペイン坊主の口をかりて、「フランスには、一貫した論理というものが政府にもなけりゃ個々の人間にもなかった。だから道徳というものがなくなっている。今日では成功ということが、何にもあれすべての行為の最高の理由となっている。外面を美しくせよ。生活の裏面をかくして、一ヵ所非常に華々しいところを出してみせよ」という風なことを云わせています、フランス人の暮しかたの或面がわかり、日本の画家藤田嗣治の一ヵ所押し出したやりかたもうなずけます。でもバルザックもツワイクもそれからもう一歩入って、何故そんな精神の伝統が出来たかという、真の解明は出来なかったのね、いろいろな国の文学史の面白さは発達史ととものもので、そんな点から、やはり世界の歴史にはつきない興味があります。
 文学精神の伝統ということ、それなども明治文学の文献的研究では語りつくされません。明治文学史の専門の勉強をしている人にきいたら、そういうまとまった仕事は、まだ一つもない由です。日本文学史はあるのね、でも日本文学の精神史はありません。文学評論史は久松潜一かのが二冊ありますがそれは、文学論の歴史的(そうじゃない)年代記的集積配列で、もののあはれ、わび、さびと、王朝から徳川時代へ移ったあとを辿っていて、しかし、文学精神としての追求はありません。幾人ものひとが一生かかるだけの仕事が、何と未開拓のまま放置されているでしょう。近代及現代文学は勉強家をもたなすぎますね、里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)のように、小説は勉強で書くものではない、という作者気質がどんなにつよかったかがわかります。文芸史家なんて謂わば一人も居りません。将来の日本文学は克服すべき貧寒さの一つとして、そんな面ももっているわけです。どんどんと気持よくつよい歯をたてて勉強してゆくような気魄ある人物を見たいものです。
 紙がつまってしまったから、又つづきは別に。

 十一月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月二十二日
 もう手紙に白い紙を使うということは出来ないのかもしれませんね、文具やに封筒はあるけれども帖面も書簡箋も何もなしとなりました。「幻滅」に、製紙上の発明をする男が登場します。十九世紀に入ってから今日までどんどんと発展したっぷりつかわれた紙が、今又おそらく世界中で窮屈になっているのは大したことです。前大戦で紙の不自由したのはドイツ、フランスにロシアぐらいのものでしたろうね。
 中央公論も『婦公』七割五分削減、『文芸』八割とか。毎日会議会議の由です。
 きょうは、防空演習第一日で豊島、瀧ノ川、板橋その他、明日は林町の方。もんぺ姿でテコテコと出かけ、時間も考えたつもりでしたが、結局二時から三時すぎまで前で待避して、それで帰らなくてはなりませんでした。豊島は第一区なのね、これから防空演習のときは、そちらのときもやめましょう、つまりは待ち損となりますから。段々こんな場合が殖えますね、二十七日が金曜で総合訓練。このときは発令と同時に電車もとまり、壕へ待避しなくてはならないから、わたしは引こんでいとうございます。そうすると月曜ね、さぞこむことでしょう。
 ふとん衿の白い布送りました。『幻滅』と一緒に。バルザックという作家は面白いのね。関係をとことん迄発展させ書こうとするために、登場する人物はどれも原型的ならざるを得ないのね、そこが現代の人間の生きかたにない現実なので――今の時代の人間は、よくてもわるくてもバルザックの主人公たちのように一途ではないから、もっともっとカメレオン式であるから――きらいな作家という印象を与えるのですね、そのいきさつが今度よくよんでみてはじめてわかりました。だからバルザックの限界というものもよく分ったわ。彼の作品の世界では、利害と権謀とが徹底的に跳梁しなくてはいけないから、人間は、だます人間は飽くまでだまし、だまされる人間はあく迄だまされるという可能が許されなくてはならないわけなのでしょう。そこがディケンズとのちがいね。「クリスマス・カロール」なんて、バルザックはきっと鼻の頭にしわをよせたきり黙っているでしょう。
〔欄外に〕
 作中人物が典型であるということと原型ということとはちがうということを感じます。大ざっぱに同じように云いならわされて来ていましたね。
 そして、彼がナポレオン以後のくされ切ったフランスの膿汁を突き出しながら、やはり時代の下らなさをうけていて、「幻滅」のダヴィドとエーヴという善人たちはつまり平凡な金利生活に封鎖してしまっています。エーヴは、賢くも夫ダヴィッドを、発明というあぶない仕事から遠ざけることに成功した、のだそうです。
 この作家の偉大さは、人間の関係をえぐったところにあり、限界は人間を固定して操っているところにあります、人間は進むということは分らなかったのね、利害そのものの本質が変り得るということが分らなかったのね、利害というものを、権力、名誉、金銭だけに限って見たところに、この巨人の檻のめが見えます。
 それにしても彼はやはり並々の作家ではありません。卑俗な欲望にわが一生もゆだねてこづきまわされつつ、あれだけ観察し、描破しています、その力は凡庸ではないわ。
 私たちのまわりには卑俗に且つ盛に小刀細工をやって暮している人間たちが少なからずいます、が、彼等は自分の卑しさの一つさえも文学にする力量をもっていません。精神の貧弱さの故の卑小さしかないというのは詰らないことね、野心さえもない卑俗さなど何と下らないでしょう。
 それからね、これは可笑しなスモール・トークの一つですけれどね、フランスの社会で代議士というものがどういうものかということが、「幻滅」を見てよく分ります。第一金がある、それが第一。それから地位がたかい。永年のひどいからくりか地位によって獲得するものです。フェリシタという女のひとが中野秀人という、絵カキ詩人の細君になって、陶器人形のように白く丸くきれいで内容虚無な顔を日本にもって来たのは、そのためだったのね、兄貴は有名な代議士でしたもの。日本の代議士はそういうフランスの慣習的な解釈にあながち適合しなかったのね。
 わたしが茶色の外套をきてベレーをかぶって、クラマールという郊外に下宿していたとき、フェリシタをよく見かけました。
 バルザックをつづけてよみます。これ迄バルザックは私にとってのマッタアホーンのようなもので、頂上はきわめなかったのですもの。古典についていろいろ云われた九年ほど前に、私は自分の幼稚な鍬で力一杯この巨きい泥のかたまりをかっぽったけれど、それはいく分その形成の過程を明らかにしただけで、自分の文学の潜勢力として吸収するところ迄ゆけませんでした。こんどは、かんで、たべて、のみこんで、滋養にしようというのよ、この頃余り滋養分がないからね、バルザックをよみとおせば、どんなに新しい文学は新しい人間生活の領域につき出されているかということが一層明瞭となり、未踏の土地への探険が一層心づよく準備されるというものです。
 先日、わたしがうつけ者のような顔つきになったニュースについても、段々別箇の観かたが出て来ました。世間では、荒い商売をして、負債のどっさり出来た人が破産して、却って自分の財政を立て直すでしょう? あれなのだ、と思いはじめました。あの位きついところのある、そして賢い人は、聰明というものの清澄な洞察はなくても、生きる力のつよい人間としての見とおしと覚悟は出来ているでしょう。内外の紛糾ときがたいから、わが身一つとなったわけでしょう。大したつよ気かもしれないわ。だから、わたしは安心して、その人のやりかたにまかせ、自分はせっせと勉強いたします。
 寿江子が船橋あたりに別居します。小さい一軒をもって。今年中に何とか形をつけるよう国男との間に話があった由で、わたしがきいた家がうまくものになりそうなのです。今一軒もつことは大した仕事ですが、寿は、その方がさっぱり暮せると思っているし、うちの連中は業を煮やしていて、すこし苦労して見れば、その手前勝手は直るだろう、という考えです。
 どちらも、大人子供よ。実に大人子供よ。寿の方は、大人子供のまま、ひねこびて、術策があるから、それのない側が絶えず不快がり、それを感じつつ変な押しで通して来ているから、寿の、わるい社交性みたいなもの、空々しさ、全く悲しいものです。こんなに急速に変るなんて。今は実に消耗的なのね、戦で死ぬ、負傷する、そういうのばかりか、こうして、直接には苦痛を蒙らないように見える部分が、ひどい質の変化を経過いたします。
 Sの方も大した状態です。いつぞや私が思わず、あなたにまで毒気を吹きかけてしまった状態は、根本的には改善されていません。生理的の原因ばかりでなく、生活目的というか、日々の些末なつかれるいそがしさに挫かれて、反撥して、すてて逃げ出したいのね、こういう心理はこわいものだと沁々思いました。良人のため、子供のためにあったような生活の気分がガラリと底ぬけになるのね、自分の生活の根拠があるのではないのですし。ドイツが一九一四―八年の間に全くデカダンスに陥ったという小規模の心理的見本です。苦痛や困難を背中や肩で支えて来たことのない人間のまことに脆い場合です。
 同情よりもよく話し合い、処置を自分で自分に見出させなければならない時期です。わたしはこまかく心持の分析を話してやります。彼女は寿よりずっと正直で、真率ですから(今)自分の気持を一つ一つ照らして理解し、考えます。そこまでやって来ているのよ。さて、もう一段厳粛にこの人生というものを感じ直し、うけとり直させねばなりません。良人というものが、この仕事に、何のスケジュールも作り得ないというのは、普通かもしれませんが、何だか夫婦の密接なようで離れている不思議な感じを与えます。良人がいる、子供がいる、でも何の重しにもならない。これは女の或ときのひどい心理ね、それで別の対象なんかないのです。しかし、もし近くにあれば妙な心理の力学みたいなもので傾いて、そっちへ行ってしまうのね、自分というものの生きる目あてのしっかりしない女のひとが、三十五になって、食うに困るところと困らないところとスレスレで、しかし目前の不安はなくて、妙に従来の生活に倦き、新しい力を求めるという気分、良人はもう初老だとか更年期だとか云っている、よく家庭教師なんかが介在して来る。陳腐な筋だが、女がしんからその陳腐さを克服しようとする丈高い趣味がないといつまでも起る条件です。
 いろいろなことが起り、それを判断し、自分の生活の独自さをつかみ日々を一定の方針によって生きてゆくということを益※(二の字点、1-2-22)私に訓練いたします。文学修業も広汎なものね、昨今そんなわけで、大変緊張した精神状態なのよ、不愉快と云えば其で充満している次第ですから。それと抵抗して自分の机のまわりだけは混乱させないでいるわけです。チェホフがあの自然さ、落付き、科学者らしい洞察(合則性への)で、新しい世代の母胎となったように、私はこの家で、ゆるがぬ石となり、太郎やほかの子やそういうのびゆくもののよりどころ、古い柱も建て代えには土台石がいる、その石となってやろうと考えて居ります。そして、何となしぐらついている柱たちが、うまく根つぎするよう助力してやりたいと思います。
 でも面白いものね、そういう大仕事になると、動物的な絆、親子、夫婦の或面が大したものの役に立たなくなって、もっともっと高い人間らしさ理性による尺度のあてがいかたや処置しか、力とならないというのは。私は其を最近の何年間のうちに学んだわけです。こんなわけで、この頃私の手紙には、ゆるやかなリズムよりも、畳みこんだもの、かすかな苦渋というようなものが流れるわけです。そしてあなたにも人生のほこりをあびせ申すことになります。
〔欄外に〕
 二十二日(月)そちらの防空演習、二十三日(火)休日、二十四日(水)林町の防空演習、二十五日(木)になります、朝行きます。

 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月二十五日
 二十二日づけのお手紙をありがとうございました。夏以来、いろいろとこまかいことの含まれているお手紙で、うれしく拝見しました。そうね、いつも私のびっくり加減は、あなたに、途方もなく思われる程度ですね、事、あのひとに関すると。何故そうかと考えると、第一の原因は、私として非常に密接な、血肉的な生活の時期と結びついているものだからなのね。一つ一つのこまかい情景さえ、春のある冬、という詩のディテールが私の生活というよりも生存にしみついているとおり、私のこころに刻まれていて、冷静にみられないのよ、多分。そしてそれは、そうだろうと、同情的に同感されるにしろ、大局には、やはりいく分愚かなことなのね。生活の様相の推移というものの苛烈さに対して、未練がましい気持であると申せましょう。あなたが僕にはよく分らないとおっしゃるのは自然ね。そして、自分に親近なものが、程度を超えてとり乱したりするのを見るのは、いい心持でないのも自然です。
 私は、しかしあのひと以前に、自分から友達と思って生活全般で近づいたというひとがなかったでしょう? それも私としては弱点となっていたのでしょうと思います。まさか、仲よしな筈なのに、ひどいわ、という女学生の気でもないのよ。こういう面でも一つの修業をいたしたわけです。すべての修業がそうであるように、一つも甘やかされずに、ね。十分に自身の好意も憎悪も反省も判断もこきつかわれて。その収穫が、友情というものからの収穫であったということを学び、もうさっぱりして居ります。その気持は、前の手紙でかきましたとおり。最後の級を卒業したようなものなのでしょう。
 きのうはこちらの防空演習でした。診断書を出して、半病人としての参加でよいということになりました。が、あなたの昔のレインコートを直した上っぱりにもんぺ。靴ばきで鉄かぶとかぶって、それ空襲警報発令というと、庭の壕に入るの。そして、三回目の午後三時すぎには、隣組全部が一本の繩につらまって旗を先に立てて、類焼による仮定で、須藤公園の一寸した空き地へ避難しました。土の中というものは体にこたえますね。よく準備して冷えないよう理想的にいたしましたが、しんしんとした土のしめりと靴底の紙まがいのゴムからしみとおる冷えで、変になって、中途ですっかり着物を直して盲腸のときの腹帯をしました。
 きょうはぐったりとなって、迚も朝のうち伺うという工合に行きませんでした。これで経験にもなったが頼りなさもひとしおよ。避難して来た何百人という顔ぶれを見て、殆ど女、子供です。役に立つ年齢の子供さえいません(学校だから)風向きについて落付いて考えられそうな人さえなくて。うちの組なんかつまりうちのものが主になってしまっている有様です。咲や何かが田舎に行けば、この組について誰が責任負うのでしょう。これを見るにつけ早く丈夫になりとうございます。ちっとやそっとのことにへばらないように。
 林町のうらの方(動坂の通までの、あの細かいごちゃごちゃのところ)菊坂のポンプなんか入れないところ、神明町の車庫裏、団子坂下の方は勿論、火に対してはまことに消極な地域で、つまりこのあたりは、かこまれる危険が多いのです。私はいずれにせよ東京の外へ出て暮そうとは考えませんから、猶更よく準備したいと思います。必要なものはよく埋めて、体につけて逃げるものは最少限にしないと又被服廠と同じことでしょう。あの避難して来た人々を見ると、何と万事受身でしょう。薄弱な身がためでしょう、一雨で、しんまでずっぷりの姿よ。雨降への用心、これも大切だと沁々思いました。私は長いレインコートなんかないから、合羽のたためるのを一つ是非買いましょう。
 大したことだと痛感いたしました。鉄カブトの少しましなのがあるだけ大したことなのだわ、この調子だと。太郎が役に立つから面白いでしょう。学校からは二分ぐらいで帰ります、中学の二年位まで警戒警報でかえすのよ。
 すこし物を焼くまいとしたりするのも、初めは成たけうちのものと一緒にと考えて居りましたが、ここの連中は一寸風変りで、何だかちっとも切実でないの、又買えると思っているのか、それとも、自分が何一つ謂わば骨折って買って便利して暮しているというものがない為か、にげてゆく先に一応はととのっているというからか、何もしないのよ。すこし運ぶと、もう一杯だ一杯だと云うの。だから、私は全く別箇に、親切な友人たちの助力で、どうしてもいるものは、ともかく比較の上で安全の多いところへ移すことにして、疲れない程々にやって居ります、あなたの冬着を心配してそれ丈はどうやら一番がけにうつしましたが。私にしろやはりふとんもきものもなくては、ね。金がないのなら、日常のものは大事ですから。私は、自分たちは一単位として、最少限の生活は又やれるようにと考えて居ります。
 バルザックのこと。あなたもなかなか痛烈ですね、そんなに考えてもリディキュラスという風に描き出されて、私は何と御挨拶出来ましょう、そんな愚劣さが(読者として)即ちブランカの態度だよ、という程でもないのでしょう? 私は、そうだと思いかねるわ。御憫察下さい。
「あら皮」はおよみになったのね。作者の研究のために大切な一作でしょうが、作としてはつまりませんね。時代的な心理(あの人の時代の)の問題を、哲学と混同したり、人物は何だか人為的で。文章も初めのゴーチェ張りは閉口です、「幻滅」はあれとはずっとましです。一人の作家が、「時代の心理で動く」限界ということも文学発展史上の一つのテーマではないのでしょうか、ドストイェフスキー、バルザック、特にバルザックなんか最大の限界まで行っているのではないでしょうか、リアリストとロマンティシズムの奇々怪々な混乱においても。後代の、ことに、最近十年間の新しい文学の作家たちは、心理だけにモティーヴをおいて自身の生活を導いていないし、同様に自分たちの文学のモティーヴともしていません。それ故の、その大きい発展の故の苦悩、寡作というものがあるのです。新旧の文学の本質的なちがいは、こんなところにもあるのね。新しい作家たちと云えども、余り明確にこの線を自身の文学に引き得ないようなところがあって、いろんなところへずり込んだのね。これは、今かいているうちに自分にもはっきりして来たことですが、なかなか内容がある問題ですね。
 新しい文学は、全く、心理描写だけで満足しないわ、ね。心理から入って、そのような心理あらしめているものを描破しようと欲しているのですから。もし高見順がその意味で、描写のうしろにねていられなかったのなら、相当なものであったわけですが。心理的に生きることを自分に許したら、あらゆる無駄なのたうちと浪費(人間性の)を許すことと同じです。きょうは健之助の満一年の祝です、わたしは茶色の熊をやりました。お祝の主人公は天真爛漫に水洟をたらしてワイワイ泣いているわ。では又ね。

 十一月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月二十八日
 二十五日づけのお手紙ありがとう。前の宅下げのものはもうみんなもちかえりました。本はよほど前、シーツは近くに。ハラマキのことはお話したようなわけ。シャツは買いにゆけなくてまだです。『週報』へお金送ること計らいました。森長さんの電話もすみ。十一月十日以降のをお送りする仕事は明日。そのとき一緒にやっとついた石井鶴三の宮本武蔵の插画集おめにかけましょう、何となし眼の休みになりますから。絵は休まることね、読むことの多いものには。
 さて、きのうの午前八時からけさ八時迄の訓練は、珍しく国もすっかり身拵えをして気を揃えました。太郎や赤坊がいるからさわぎよ。二十四日にやってみて壕が余り冷えるので、きのうは、目白でベッドに使っていた板を提供して底にしきました。大変ちがうと皆大よろこびです。
 よろこぶけれど、はじめ思いついたり、物を工面したり、さがしたり運んだりということはしないのね、決して。そういうゆきかたにタイプを感じます。
 きょうは朝四時十五分前に起き、みんなを起し、おじやをこしらえてやりました。食べてから、何か事が起りそうで、仕度して気をはっていたのに結局八時迄この組は何もなく、私は折角外に出ているのだから、落葉はきをいたしました。そしたら、風呂場の紙屑の下からミラノの街の写真だの、どこかの宮殿の写真だのが出て来て珍しく眺めました。ミラノの、今度空襲をうけた大ドーモの写真。美しく壮大なゴシックの寺院などです。但、通行人の服装は一九〇八年頃なのよ。古風で、何てつみがない風でしょう。宮殿の方のは、壁という壁に、ひどい壁画がいっぱいで、その絵の中に人間がウヨウヨしているの。そこの前でほんものの人間はどんな神経でいたのでしょう。自分たち活きた人間の無言のこだまのように壁上の人間どもを見たり感じたりしたのかもしれないけれども、あのうるさい無趣味さに平気になるだけでも、そこの住人はよほど魯鈍ならざるを得なかったと感じさせます。こういう様式を宮殿として見て来ているブルノー・タウトなんかが、日本へ来て桂離宮などをよい趣味とこころだけが語られている――その前には何でももって来られる空間――として驚異するのは当然であると思いました。タウトは多くの「日本の知己」に洩れず、古典のうちに丈日本があると云っていて、今日を真面目に生きている日本人を苦笑せしめます。
 演習の終ったのが八時すぎ。それから又床に入りおひる迄。疲れて風邪のようにズクズクです。しかし、やはりやってみるもので、靴のしゃんとしたのがない不便さや、その反対に、お古レインコートの上っぱりが至極実際的なことや、いろいろ学びます。
 環境がいろいろと変るなかで――環境そのものが、理想的だというようなことはあり得ないのですから――私がいつも自分の線を失わないようにと心づけて下さることは、ありがたいと思います。モロアの本について云っていらっしゃる最後の一行は、深い意味をもって居ります。全く人の一生と一巻の本とは最後に到って真価の歴然とするものです。
 しかし、何と多くのものが、一生の半ばで、自分の一生というものをとり落してしまうでしょう。持ちつづける手の力を失ってしまうでしょう。作家で云えば、其は、仕事が蓄積された感じをもった瞬間から始るのだと思います、事実は反対です。本当の作家なら、一つの作品はもう明日の自分を支える力ではないこと、それが書かれてしまったということで、もう自分の今日の足の下にはないことを痛切に感じているわけなのですが。旅にやんで夢は枯野をかけめぐる、という句を卑俗には、超人情のように云うが、本当は、芸術というものが常に限界を突破しつつあるものだということの感性的な表現――そこに芭蕉の時代の武士出身者としてのニュアンスが濃くある表現――ではないでしょうか。芸術家として、芭蕉は勇気がありました。あの時代に、夢は枯野をかけめぐる、と表現されたものが、時をへだてては、わたしが今、この紙の横においてよみつつ書いている、そのような忠告やはげましとなっていることの意味ふかさ。後者を、芸術のそとのことのように思う、非芸術さ、或は職業によって固定された感受性の鈍磨。
 もしや、もしや、私たちの貧乏は分りつつ、ユリ、とお考えになると、何だか福相がかって感じられる、という笑止な滑稽或は習慣があるのではないかしら。どうかして、私は、自分の福相が、そういう由来ではなくて、もうすこしは広い、そして形而上の理由によって、明るく、笑いと確信とを失わないものであるということを、くりかえしなく、明瞭にしたいものです。私のぐるりについてジリとなさると、いつもそれが私に向って出るというのは何だか、しょげるわ。これは真面目よ。その危険のある環境についての、いつも新しい戒心という意味では勿論十分傾聴いたしますけれど。社会事情の急な変化は多くの人々を、金銭について淡泊にするよりも、敏感にさせます。フランス人が、あの度々の政変を経て、金銭に対して敏捷になって来ている伝統は、先日緑郎からの手紙にもうかがわれます、戦時の闇生活がはじまってフランス人の富の奥ゆきの深さが分った由。バルザックをよんでいるから、実に合点出来ました。こちらでも、そういう経験の初年級がはじまっているわけでしょう、私たちの考えかたは、暮しかたは、逆です。フランスでは市民の90ママ[#「90」は縦中横]割が、いつも金利を考えていて、年金を失わせさえしない政府なら我慢してやる、という風だママ、フランスが経験の多様さにかかわらず、足ぶみをして、観念の上でだけ多く奔放であったのでしょう。バルザックの金銭世界について、一般に十九世紀からの近代経済が云われるけれども、フランスという個性も亦加っているわけね。シャトーに住んでいたバルビュス。でもつまるところ私はよろこんでいいのであると思います。躾というものは、まだ育つものにしか誰もしようとしないものですものね。わたしの旦那さまは、きっと随分上手な躾けてというわけでしょう。そして、大きないい音を立ててスパンクを与えるべき箇所と場合をよく御承知というわけでしょう。
 風邪をお大切に、きのう防空待機の間にあなたの手袋を修繕し、それは全く愛国的手袋となりました。資材欠乏に全く従順という意味において。

 十二月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月五日
 二日づけのお手紙ありがとう。このところ連日爆撃という形ですね。あなたの丸薬は、笑ったように、正真正銘まがいなしの良薬にちがいありません、糖衣もなければ、大きさも、これは必要、というよりどころからだけ丸められているし。
 ケロリ式の子の首ねっこつかまえて、その大きくて苦い丸薬をのませる仕事をさせて相すみません。でもね、あんまり丸薬が大きいと、のどを通すのに目玉を白黒させるから、先ずのむとやれと、ぼんやりしてしまうということも起るのよ(これは、又忽ちケロリになるということではありません)後世のひとがもしこういうあなたのお手紙をよむことでもあったら、ユリは何という気の毒な、だらしなしと思うでしょうね。駑馬どばの尻に鞭が鳴っているようで。まあそれもいいわ。
 御注文の本で、新本で買えないのは古本で見つけて貰うよう注文してあります。プルタークも、「風と共に」、も「新生」も。「新生」はこんど出る全集の中にあるでしょうからもしかしたら買えるが、ひどい売り方をするのでしょう。未亡人が物質的に大した人で総領息子と版権のとりっこをしているから、全部予約とでもいうことにするかもしれませんね。まだわかりませんけれ共。
 普通の暮しかたとちがう生活では、私が事務的な正確さをもたなければ、生活全体が堪えがたいものになることはよくわかっていて気をつけているつもりでも、何年たってもあなたに云わせることは同じというのは、閉口です。お手紙よんだり、おっしゃることきいたりしてつくづく思うのよ。あなたにしろ、私がやっと一人ですこし永く電車にのれるようになって、三四年ぶりに、友達が、生きかえり祝いによんでくれたことは、やっぱり其はよかったと云って下さることにちがいありません。ところが、用事が大切だのに、徹底させなかったばっかりに、遊ぶに忙しくて、遊ぶ段どりだけはチャンチャンして、とそういう表現は、私の皮膚の上にピシリピシリと音を立てるわ。
 自分があなたであったら、必ず同じように感じるでしょう。扇だって、要がなければ御承知のようなものになってしまうのだから、無理もないことです。即ち、益※(二の字点、1-2-22)私がしゃんとしないとこうだぞと思い知る次第です。
 健康な(になってゆく)人間の生きかたというものは面白いものね。私が自分の弱さを忘れて、うちのものに云われるように、あなたも私の半人前のことは何となし忘れて、全く一人前分の槌をうちおろして下さいますね。それで丈夫になってゆくのね。病気のお守りをしないで行くわけです。体が十分丈夫でないということと、ケロリとは別のものなのですから、猶々改善いたします。でも、もうハンマーは十分よ。響きがきついから、体がその響きでグサッとなってしまうようです。聖書にあるでしょう、エリコの城は長ラッパを吹き立てて落城させたのよ、城壁が崩れたのだそうです。あなたの力づよいハンマーのうちおろしでユリコの城がくずれないということがあるでしょうか。白旗をかかげます。すこしの間、耳を聾する天来の声を、凡庸な十二月の風の音に代えて下さい。そして、あなたとさし向いにして下さい。あなたの顔を、よくよく眼のなかにはめこませて下さい。そこには私の疲れをやすめ安心を与え、同時に気を確かにさせ、すべてのよい願を恒に清新にするものがあります。

 追伸
 レントゲンのこと、これも終ったかは恐れ入ります。
 今年の冬はどこもスティームなしですから予防会へ行って、今どうもないのに、寒いところで体を出す勇気がありません。冬の間は御容赦願います。それがテキメンと叱られるのは分っているけれども。自分がズボラしたのだからお義理にも今年の冬重い風邪はひけませんからね。

 十二月八日 (封筒なし)

 十二月八日
 四日づけのお手紙ありがとう。このお手紙には、いつかの手紙にかいた古い絵の中の男のひと、机の前にあぐらかいて坐っていて、外にはだしで立っている女のひとに、笑をふくんで、ものを云っている、そのひとの眼や口元にあった微笑が感じられます。いい気持になり、らくになり、その楽さは、日なたとともに、のんだ薬を工合よく体じゅうにしみわたらせ、苦みも、ほろ苦い暖かさとなります。どうもありがとう。いつも良薬に対しては謙遜ですが、こんどは、すこし作用がきつすぎて弱ったから大いに助かります。
 葦平の感想というのは、同感されますね、その感想にあなたが同感をあらわしていらっしゃるということは、心にどっと流れこんで来るものがあります、本当に、いろいろいろいろ見せて上げたいわね。私が自分を、聖物崇拝者にならせまいと用心している工合を見せてあげたいわね、そして、何だ、ユリ、と云って笑いになるところを見たいと思います。散歩からかえったときのようないつもの机のまわりだったなんて、思えばくやしいわ。毛布にささってわたしのところに来る髪の毛を、どんな心持で一本一本ととって眺めるでしょう。葦平の妻が、いつその心を知っているでしょう。たった片方だけになってかえって来たカフスボタンを紫の小さいきれいな草編み袋にしまって何年も何年も持っていて、これから火にでも追われて逃げるときは其がマスコットと、背負袋に入れている、そんな気持も、書けば、あなたの同感なさることでしょう。語られない生活の編みめの間に、なんとたくさんの色糸が、織りこまれていることでしょう、心づくしというものが、つまりは日々の些事の中にしか表現されないというのは全く本当ね。そういうまめやかな日々のつみ重りの間に、何か突発することが生じたときは、弾力がこもっているからすぐ応急に処置も出来るというわけでしょう。些事にこめられている心、些事で知られる心いきというものは身にこたえるものね、私自身其ではひどく感じたことがあって。何年か前、母が生きていたとき、不自由に暮しているところへ足袋を送って来てくれたのはよいけれど、コハゼがすっかりとれていて、直しようのないのに、母の手で歌をかいてくれていてね、そのときどんなに感じたことでしょう、歌はなくても、コハゼを見てよこしてくれたのだったら、と。そのとき愛情というものについて沁々考えたことでした。
「みれどあかぬかも」は、これこそ歌の功徳というべきでしょうね。何とふさわしい表現でしょう、そしてブランカが土台まめなのだろうからという云いまわしは、何と又含蓄があるでしょう。一言もないわね。昔から大した外交官というものは、こういう実に一寸した云いまわしで、対手を完封したものだそうです、タレーランなんか。わたしは、やっと、小さい声で意地わる! といえるのが精々です。少し赧くなりながら。
 夫婦のむつまじさとなれ合いとは全く別のものですね、でも本当のむつまじさ、謹だところのあるむつまじさで生きる一組というものは実に実に稀有です。そういう人たちは、自分たちが男に生れ、女と生れて、そこにめぐり合ったということを、自分たちの恣意の中に消耗してしまうには余り価うちのあることと心から感じる人たちです。大抵は、夫婦は自分たちが夫婦であるということで、もうそれをはかる目やすのないことのように生きてしまうのね。そして、ふだん着のように、互の癖になれているという工合よさでダラダラ生きてしまうのだし、すこし狡いのは、対手をほめることで、自分へのマイナスをぼやかして、つまり互を下落させてしまう。生活となれ合ったらもう文学なんてどこからもうまれません。だから、わたしは、おっしゃるとおり意久地なしだけれど、良薬が良薬であることはどうにも否定出来ないのよ。ポロリ、ポロリと涙だしながらも、其那薬なんか御免と云いかねて、のむのよ。マアいじらしいみたいなものね。その様子を見て、あなたも思わず口元がほころびるという次第なのでしょう。
『英国史』はいつかよんで見ましょう、あいたらかして下さるかしら。
 きのうはあれから、裏の電車で神保町行きのあるのを思い出し、六法、早い方がいいと思って、初めて神田へ行きました。びっくりしてしまった、本やが変ったのには。東京堂は、ぐるりの本棚ね、あすこへよりつけないように台を並べてしまって台の上には、謂わば先方の売りたいものを並べておくという工合になって居ります。棚が遠いから私の眼では題もよめないの。六法は、ここでも冨山房でも三省堂でも神保町の方の角でももう売切れです。困ったと思います、これからは森長さんが買うとき二部買ってでもおいて貰うのね、ああいう人には専門の本やがあるのでしょうから。買いつけの本やへきいて見ましょう、丸山町のところのもとの本やは、もう出入りしないのよ、会社へ何かへまとめてゆくのですって。人手がないからと云って。もう目白にいた時分から。予約ものを中途半端にしたりしてすこしけしからぬことになりました。そこで、アメリカ発達史の下巻を見つけました。下がいきなりでは仕方がないことね、上を見つけましょう、お送りするのは其からね。
 須田町辺のこみかたは全くひどく蜒々長蛇の列です。もとのように自動車でもいたら人死にですね、すっかりへこたれて、本買いも大したことになったとおどろきました。
 来週は月水金とあがります。今年の迅さは、無常迅速的でした。ほんのいくらか丈夫になりほんのいくらかものを学び、しかもその間にあなたは生き死にの病気をなさり、何と多事でとぶような一年でしたろう。森長さんの電話しました。この手紙しまいをせいてしまっているのよ、いま手伝いが只一人でおかみさん外出、晩のおかずをこしらえなくてはいけないの、では明後日。

 十二月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月十八日
 きょうは静かなおだやかな午後です。島田へお送りするものもすんだし、そちらの宿題も大体さし当りは足りましたし、メタボリンは来たし、久々でゆっくりした気持です。疲れが出ていて、体がすこし持ちにくいからきょうはずっと二階へとじこもりで暮しましょう。
 七日、九日、十六日のお手紙。どれもありがとう。この間うちは本当に御免なさい。私の場合は、善意がないなどということはあり得ないのよ。善意があるのに云々ということになり、ないも同じことではないかというところにお小言も当然という事態があったのでした。しかし、これ迄十年の間に、へまやケロリで、三年に一度は随分猛烈に突風を食って来ているわけですが、今度は私としておのずから学ぶところが少くありませんでした。生活環境との関係で。
 こんどは、大分周囲の混乱にまけたり、まきこまれたりして用事が事務的にキチンキチンと運ばなかったのみならず、心理的にごたついて、毎日不快でおこった気分で暮して、そのためにわるい影響をうけたのだと思います。その点で一つ暮しかたというものについて分ったところがあります。私たちの生活のスケジュールをみだされたのですね。だから、そんなことに関係ないあなたにはすまなかった次第です。
 九月以来、一寸表現しがたい生活です。子供二人は、すて子同然よ。この二十四日から三十一日迄留守になります。寿江子はどうしても二十七日には引越します。
 自分の生活の順序をこういう大ごたごたの中で狂わさずやって行くのには一つの修練がいり、その焦点は、生活の本質のちがいということを明確にすることしかありません。
 何しろ二十一二から別に暮して二十年以上たって、謂わば初めて一緒に暮すことになったのだから、いろいろ分らなかったわ。一緒に暮す以上は、と親身な責任もはじめは重く感じました。しかし、何かいいこと注意しても注意してきくのはそのときだけで、生活の現実に吸収して、つまり、その新しい意見を入れた暮しかたをはじめるというのではなくて、翌日になれば、又夫婦の馴れ合ったぐずぐず方法で、ルーズに、その日暮しをつづける以上、私は、そういう生活に責任を感じて、自分がまきこまれたりするのは間違いだと思うようになりました。Sももって生れたいいところは苦労しなかったからもっていたのだが、生活がフヤフヤでがたつき出すと、もう自分をまとめて行く力もない様です。本当の建て直しはしない流儀なのね。ガタガタでもたせるだけもたすという流儀。借家ね。
 だから、自分は来年はますますきちんとして、ちゃんと自分の日程は守って暮し、気持をみだされたりして自分たちの生活の不秩序を来したりは決して致しますまい。
 ごく甘えを失って観察すれば、ここの二人に対して、即効的ききめのある存在と自分をしよう、出来るように思ったりしたのが、私の自惚うぬぼれです。価値の問題ではないのですからね。いらないものは、どんないいものでもいらないのだわ。いるでしょう? いる筈だわ、なんて気を揉むのは大甘ね。そして、それが全く必要のところに手がまわりかねる気分に乱されるなんて、何て愚かでしょう。こうやって、自惚れをはがされるのは笑止であり結構なことです。わるいものからも教訓があるという例だと思われます。私は謙遜に自分の力を知って、自分の一番大事なことを万遺洩なからんことを期して居ればよいのだわ。この間うちのガタガタは、本質的に、もうくりかえされないと思います。白旗を出しておいて、半兵衛をきめこむ修練はまだ幸にしてつまれて居りませんから。本当に、ガタガタにまきこまれてガタついて、わるかったと思うの、わるいというよりも弱いと思うし、見境いが足りないと思いました。見境の足りないというところは大分あるらしいわ、私に。そういう場合が善良だなどということは、悪計と看破出来なかった人が、自分の正直さを自分の気休めのために云い立てると同様意味なく、気の毒なことです。修業して、生活において、練達になりましょうね。十分思いやりもあり、世話もしてやり、しかし「世話好きな人」だったり「おせっかい」だったりしないことが大事です。いつも勤勉でね。
 ここの生活では、あっこおばちゃんは御勉強、さもなければ、そちらへ御出勤。という不動の日課で一貫されていることが大切です。私のためばかりでなく。そういう一つのいつもグラつかないものがあることが大事です。太郎なんかの生活気分にも。そして、細君は、私をあてママはならないもの、という事を一層知らなければなりません。自分が外出していて、旦那君が戻る時刻になれば、あっこおばちゃんが何とかつないでおいてくれるだろう、などと思わず、私も弱気にならず、咲のすることはブランクになればなったで国がむくれるならばむくれていればよいのです(私の辛棒もいることですが)そうして、責任ということも知り、国はいつもサービスされることを平常と思わないようになればいいのです。こんな話はもうこれでおしまいにしましょうね。今年のおしまいではなく、すっかりおしまいにしたいわ。こっちのゴタゴタはいつどう納まるかも知れませんから、自分の暮しかたをきめて、其を守って、私たちの生活へ波及はさせまいと思います。
 今度の経験は目白なんかで暮していた時のケロリと又ちがって、気分の荒らされた状態で生じた粗漏さなのね。これは、連爆の価値があります、正気に戻すために、ね。荒らされかかったわが畑の土の工合を、目をおとして沁々と見なおすために。そして、思うのよ、あなたは其ことのためにいやな思いをなさるばかりでなく、いやな思いをしていらっしゃることを私の骨身にしみこませ、私の視点を定めさせ、手元を順調に戻すためには、何日も何日も根気よく追究していらっしゃらなければならないのだから、私は何たる動物か、と。
 全くブランカだと思います。私には、何よりあなたの表情がよく分るのよ。へまをして、不快にお思いになるとき、又あなたの顔は何と雄弁でしょう。私は尻尾をたれて、耳を伏せてしまうわ。その反応の素早さ。けれども其では何にもならないわけです。殆ど肉体的な反響なのだから。ああ、あなたがいやにお思いになる、そのことがいやで辛い、というわけだから。それから、いやなわけが明かにされ、それが納得され、全体の生活のこととして分って、自分の心の状態もさぐって、そして、答えが出るのですもの。それは一日一緒に暮していれば、1/3は発生もしないことであり、半月以上かかる往復も数分の話ですむでしょうに。益※(二の字点、1-2-22)練達にならずにはおけないわけです。
 そういう条件がマイナスとしてあるならば私たちは其から人間修業のプラスを生まなければならないのですから。そういう価値の転換こそ芸術家の本質です。芸術家にとって、世俗の不幸が不幸としてだけの形で存在はしないように。
 便、不便を眼目としない生きかたというものは、生活と人生というものの微妙な差別を知り、人生を生きようとする雄々しい人たちにだけ可能なことです。生活の道づれになることさえ大きい誠実がいります。人生の伴侶ということは、全く人生的な努力であり、伴侶たるものもやはり人生を生き得る力をもたなければなりません。そして、人生は生活されるのだわ。だから、日常のあらゆる些事が同じ些事ながら実質を異にしたものとして、人生の建設として配置され、くり返されてゆくわけです。ブランカは、本能の中にその美しさを嗅ぎつけて居り、其をのぞみ、いくらか丈夫な脚ももっているのですが、昔話の久米仙人のように、雲から片脚はずすことが間々あるのね。ロボーのように堂々として、ゆるぎなく、光のようにまじりけないわけに行かないのは悲しいことです。
 きんの心、ということが形容でないことを感じるのは何と大したことでしょう。わたしはこの春思わず声に出して、ああ、これこそ純金だ、と感じたことがあります、今もその感じが甦ります。
 金に青銅の一定量が混った鉄びんのふたというものが昔つくられました。それは一つの芸術品で、よいふくらみをもった鉄びんに、そういうふたがのると、湯の煮えるにつれて実に実に澄んだいい音がして、気もしずまります。そういうものの一つが、ずっと質のわるいのだがユリのところにあって、冬はよくその音をききました。火鉢にかけて。きんだけではそういういい音に鳴れないのよ。質の下ったしかし不可欠の青銅が入らなくなっては、其が音を冴えさせないというのは、面白いことね。「新しき合金」というオストロフスキーの小説の題は、そのことから考えても、本当に新しい題だったのですね、青銅が、ブロンズ・エイジ風の質にしろ、その質として純粋でなくては、金に混ぜることは出来ないでしょうし。自分だけではなれない青銅が金と合わされて、金をも音にたて自分も鳴るとき、うれしさはいかばかりでしょう。つよく弱く、遠いように近いように、それは鳴ります。小さな鈴をふるようなリンリンというとも鳴りを、松籟の間に響かせて。
 この手紙はこれで終り。その小さい、いい音がそこにも聴えるでしょうか。

 十二月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月二十五日
 いまうちにいるのは子供二人、手伝い、私だけ。寿江子はアパートさがしに出かけ、二人と太郎とは伊豆行です。ことしの暮は、珍しく三十一日までおめにかかれますね、十年ぶりに。
 十六日のあとのお手紙というのは、いまだに着きませんどうしたのかしら。いつも二三日、五日で来るのに。御自分の宛名(住所)おかきになったのではなかったかしら。それでいいようなものの郵便は字面で動くので、却って不便もあるわけです。わたしはきのう南の兵隊さんにハガキ出して、切手がはっていないことを思い出したのは、二時間も経って、そちらで、ぼんやり待っていた間でした。
 寿も、いよいよ期日になって、わたしも随分気をもみ、友達たちにあれこれたのみましたが、やはり家はなく、ともかくアパートをきめると云って、出かけている次第です。一人でそんなことしてさがしているのは哀れで困りますが、私がついてやるわけにもゆかず、咲は全くえりがみをつかまれているようで自分の判断で行動出来ず、するべき立場であるという道理でおす力もなく、三人づれで出かけて、明夕かえると、翌日は又三十一日迄留守いたします。わたしのこれまでの生活の中では自分がしたこともないし、ひとにされようとも思わなかった暮しぶりというものをまざまざと見てなかなか感想が浅くありません。そういうなかで何年も暮した寿が、自分一人にとじこもった傾となり、ひとを信じ切らず、その人も何か悧巧すぎて薄情という感じを与える人となったのも、云わば無理ありません。他人の中に暮すということは、こちらで気をつかうことも多いが、つかった丈の気を活きるところもあって、その人なりのねうちで暮せるのは、却ってさっぱりしていて、こじれた所がなくて、寿のためにようございます。でもね、わたしとすると、ここで生れて育った年下のものを、全く何一つしてやらず、はぐたの皿小鉢ぐらいちょこちょこ集めてやって、家さがしの話を話していても一つも助けてやらず、家から出すということを、普通のことのようにするのは、大した努力よ。寿江子のために勇気を出しておこるのをもおさえ、悲しいのもこらえ、新しい生活でのいい面を押し出してやらなければなりません。わたし達は、この家で生れたのではないのよ。私は小石川原町。国は札幌。ですから五歳以後からこの家に住んだだけです。寿はここで生れ、兄をしたって子供時代をすごしました。国はここの家を自分の家と思っているわけですが、寿にすれば、親の家ですからね。そこの感じは大変ちがいます。
 寿が可哀想だから、あなたも寿江子がいいところを見つけるように、健康に愉快に勉強して暮すように、と云って下すったとつたえました。よろこんで居りました。シーンとして、早く出てゆくのだけ待っているような日々で、わたしが気をもんでいるばかりでは、寿も哀れですから。どうか、おついでのとき、寿江子にハガキかいてやって下さい。ここ宛でようございます、却って。渡しますから。そして、どうか兄さんとして、温情と道理と勇気をもった言葉を与えてやって下さいまし。寿の生活態度で私の気に入らないところをいろいろ見ると、環境から、その反射みたいなところが沢山あって、気がつよいようで弱いから、自分の暖かさがヒイヤリしたものにさわると、引こんで自分もつめたくなってしまうのね。其関係で状態は悪化するのです。わたしのように自分をむき出して、おこったり親切したりではないのね。寿が何か云うときの皮肉さ、冗談らしく云われる侮蔑は、全く針のようよ。はっと思うことがあります。それをそう感じるような人には寿は決して云うわけもない、というわけです。
 こういうことを考えても、侮蔑や憎悪にさされて暮すより、一人での方がずっといいわ、自然なだけでも。家庭というものは、全くピンからキリまでありますね。気心のわかった信頼にみちた、そして人間の向上する欲望をひとりでにもっている家庭というものは多くはないものなのかもしれないわね。親切さのあるのさえ。
 きょうはつづけて、もう一通かくのよ。それでは淙々としたせせらぎの鳴るのを聴きましょう。霜のおりた、松の葉のしげみの下に、伊豆は、冬でもりんどうの花が咲いて居ります。冬でも、りんどうは咲かずにいられないのね。紅く色づいたはじの木の葉が、りんどうの花の上におちます。音もなく、風が吹いたとも覚えず。西日は木立の幹々を黒く浮き立たしてその叢にさしていますが、花の上に散り重ったはじの葉の色に、あらゆる光と熱をあつめたように、一点にこって滴ります。
 そして、その輝きの上にサラサラと雪が降りかかります。

 十二月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月二十五日 第二部
 今ふっと気がついて奇異の感にうたれました。十二月二十五日と云えばクリスマスでしょう、いろんな国々では前線でさえ何かの形でお祝いして居るわけです。ディケンズは、クリスマス・イーヴに鳴る鐘の音で、因業おやじさえ改悛すると考えましたし、人々は其をうけ入れました。わたしたちのぐるりにあるこの静寂はどうでしょう。時計のチクタクと田端の方の汽車の音だけ。それに私がこうやって話しているペンの音と。日本はキリストの誕生にも煩わされていません。ニイチェならよろこんだでしょうね。
 そう云えば、この頃は紙がないのにニイチェ流行です、いく通りも本が出ます。そういう時期が昔にもあったわけでした。樗牛。この美文家はニイチェをかじって歯をかいて、日蓮へ移りました。チェホフの時代ペシコフの初期に、ニイチェが流布したという話です。樗牛が美的生活というよび名で表現したものがニイチェのよまれる生活の根底にあってのことでしょう、今日の流行も、ね。
 ワグナアはニイチェと親しかったけれども、オペラをつくって、王フリードリッヒに、統御の方法として音楽による馴致は有効であると建言して、自身のオペラを隆盛ならしめるようになってからは、ニイチェを邪魔にしました。原因はニイチェが馬鹿正直で、ワグナアに忠実で、心から賞め、心から批評するのが、策略にとんだワグナアにはありがためいわくになったからだそうです。ワグナアが真面目を発揮して、秀吉に対する千利休より遙かに外交的、政治的、従って非芸術的に処世して宗教オペラなどこしらえるので、やはり段々真面目を発揮して来て、バイブルは手袋なしには読まれない、余りきたないから、と云うようになったニイチェが、お前さん正気かと心配するという有様で、ワグナーは、凡俗人の数でオペラを支えようとしているから、常識に挑むニイチェは不便になりました。そしてうんと冷やかに扱い、ニイチェが傷ついてワグナアの顔を二度と見るに耐えないようにしました。自分は冷静なのよ、ね勿論。バルザックは小説の中で云っています。非常に親しい人々の間に、全くおどろくような疎隔が生じる場合がある。人々は理解しがたいことに思う。しかし其は最も理解しやすいことだ、何故なら、親しい全く調和した互の心の交渉をもった人々は、その調和を破る一つの不誠、一つの裏切りにもたえないほど、緊密な結ばれかたをしているのだから。と。これは本当であると思います。いくつかの近頃の経験でそう思います。宝は宝として大事にしなければいけないわけです、ルビーはあのように紅く濃く、誠実のしるしだから丈夫な宝石だろうと、火にかけて代用食を焼こうとすればルビーはれて散ってしまいましょう。
 大事なものの大切さは私達に分っているよりももっとねうちの大したものね。多くの場合、心の足りなさから大事なものを失って、そのあとになって全くあれは大切だったと心づくのでしょう。大事なものは、風化作用もうけずに永もちすると勘ちがいもするのね、浅はかな貪慾心から。
 おもと一本だって、やぶ柑子の土とはちがった土で育てられるのにね。小鳥さえ各※(二の字点、1-2-22)ちがった餌で育つのですものね。
 大きい智慧、ぬけめない配慮、天使の頬っぺたのような天真爛漫な率直さ。
 バルザックを読んで、いろいろ考えます。そして本当のフランス文学史は少くともまだ日本文ではないと思いました。「現代史の裏面」これにはディケンズがフランスに与えた影響について考えさせます。今よんでいる「暗黒事件」は、ナポレオン時代というものの混沌さ、あの時代からあとに出来た所謂貴族のいかがわしさが、おそろしく描かれています。フランスが、亡命貴族の土地財産をこっそり或は大ぴらに買い取った二股膏薬どもを貴族として持っているからこそ、あの一方から考えると奇妙でさえある伝統の尊重、本当の貴族への評価があって、しかも貴族はいつも競売にさらされているようなわけだと分りました。
 この前、ツワイクがフーシェという人物をかいている、そのもとがバルザックだということお話しいたしましたね、この「暗黒事件」にタレーランやなどとフーシェが出て来てフーシェに巻きついて血をすった最後は伯爵某が、小説の奸悪な、向背恒ないナポレオン時代のきれ者たるマランとい主人公です。
 フーシェは、バルザックの方が生きた大した冷血漢、非良心な政治家の典型としてかいて居ります。ツワイクはセンチメンタルです。フーシェという冷血な裏切り者、奸策という風にしか明察も明敏も作用しない男を、裏切る情熱しか知らない、謂わばプレドミネートした力に支配される人間という、観念的なみかたをして居ります。バルザックの方が頭脳強壮ね。フーシェをひらく合鍵というようなものに拘泥しては居りません。山嶽党の失墜、火の消えかかる時代、ナポレオン、ブリューメル、イエナの勝敗と、たてつづく大動揺のフランス政情の間に、いつも内外に機をうかがっている亡命貴族、それが戻って来て、自分の掠奪物をとり戻すことをおそれている所謂共和主義者たち、恥などというものの存在しない保身術などの恐ろしい迅風の間に、いろいろの歴史的うらみや背景が一人の出世の道にたたまって来ているという風なフランスの当時で、(ギヨチンに賛成しないと命が危い、一寸たったら、その時代のその身の処しかたが物笑いになる(ナポレオン時代)更にそのはじめのことで、命があぶない(王政復古)というめまぐるしさの間で、)全く冷静な、純情など薬にしたくもない政治家のフーシェ、タレイランなどが、今日の人々の日常では想像の出来ない悪業に平気だったということは分ります。ツワイクの時代の空気は理性的です。バルザックの空気には毒素となって当時が尾をひいていて、バルザックはその中でフーシェなんかをグーッとつかんでいるのね。バルザックという作家は、フランスの鼻もちならぬ塵塚、塵芥堀の中から、のたうって芽を出した大南瓜ね。まあその蔓の太いこと、剛毛のひどいこと、青臭いこと! その実の大きくて赤くて、肉が厚くて、美味で一寸泥くさいことと云ったら! 人間が喰われてしまいそうな化物南瓜ね。痛快至極の怪物です。ユーゴーの通俗性とはちがった巨大さです。ユーゴーは、とんまや道学者にも分る立派さです、ゲーテ同様。小にしては藤村の如く。バルザックは偉大さとお人よしと博大さと俗っぽさと、すべてが男らしくて、横溢していて、強壮で成熟して、物怯じしない人間だけにうけいれられるいきものです。バルザックは、手がぬるりと滑るほど膏ぎっていて、それが気味わるいということはあっても、きたないと云う人物ではありません。野卑だが劣等でないというような表現もあり得るものなのですね。そして、上品できたない人間に、野卑であっても気持のきれいな男が、唾をはきかけることも分ります。バルザックは妹に、小説の原稿をよんで貰い、文章に手を入れさせ――溢れるところに、土堤をこしらえさせました。その妹に、すごい別嬪だよ、というような語調でハンスカ夫人のことなどうちあけているのよ。
 バルザックのねうちが分るためには、人間鑑識の目がよほどリアリスティックに高められなければなりませんね。羽織の紐をブラリブラリと悠々たらして、奴凧のように出現する無比の好漢は、エティケットを云々する文化女史にとって、どんなに大ざっぱで可怪しい工合に見えることでしょう。ロダンはバルザックをあの有名な仕事着ガウン姿で、ロダンらしく、すこし凄みすぎて甘みぬきにしすぎて居ると思います。バルザックはああいう英雄ではないわ(ロダンのバルザック記念像の形、覚えていらっしゃるでしょう? あのヌーとした。巖のような)ぼってりして肉厚な体で、テレリとしたところもある口元の、シャボテンで云えば厚肉種です、汁の多いたちよ。余りまじり気なく男で、女性の影響なしにいられなかった、そういう男です。
 炬燵に入って、こんな話を次から次へしたとしたら、どうでしょう。ところが、そうなったらおそらくわたしは一ことも云わないで半日たっぷりくらすでしょう。そういう午後を知って居ります。国府津の大長椅子は。足の先だけ、一寸火の入ったアンカにのせて、却ってそういう時は、どっさり話すのね。話したことをおぼえていられなかったのは何とおもしろいでしょう。小さなあんかはきゅうくつでした。きゅうくつさは、今も愛らしく思われます。動くとそこからすべり落ちるという風に、小さい冬ごもりのけもののように、並んで小さい火の上にとまっていてね。ぬくもりはなおまざまざとあります、それは十二月のいつの日でしたろう。
「春のある冬」という題の詩がありましょう、もう古典となっているほど読まれ、年々に愛されて居りますが。
 続篇に「この風は」というのが出るようです。第一章のはじまりは、飾りない素朴さで、この風はどこから吹いて来るのだろう、という句ではじまります。外景は冬枯れて、雪の凍った眺めです、灰色空がすこし黄っぽく見えるのは、西日のせい。木枯しが今途絶えています。木枯は北から吹きます。ふと、思いがけない南の方から、何か風がわたって来ます、ああでもそれは風とも云えないほどの大気のうごきです、が、そのそよめきは、雪の下の雪割草に、不思議な歓喜を覚えさせました。雪割草は今世界が創ったというように自分のめざめを感じ、期待にみちて、又その風が雪のおもてを過ぎるのを待ちます。又風は渡って来ました。この冬のさなかに、それは何の風でしょう、雪割草がこんなに瑞々しく蕾をふくらませ、薄紅い柔らかな萼をうるませ、今こそ花咲かんという風情にうるむのは、その風がどこから吹くのでしょう。蕾はふっくりとふくらみ、汗ばみ、匂い立ち、花だけの知っている音を立てて開きそうです。でも、雪は、花の上を被うて居ります。花のぬくみで雪はとけます、けれども、あたりは冬です。月の冴える夜、枯れ枝に氷の花がつきます。その氷の花は、青く燦めきます、雪割草は白い、花弁の円みをおびた花です。蕊の色はしぶい赤です。その花より雪が白いというのは、雪が生きものでないからです。又別の日風が、雪の上をわたり、雪割草が目ざめました。雪割草はじっと蕾を傾け、自分のしなやかな溜息をききました。風もその息づきをききました。そしてその溜息を自分のふところの中に抱きとって、すぎてゆきました。が、それからは、その風が渡って来る毎に、雪割草の上に、小さい人目に立たない七色の虹がかかるようになりました。虹は夏の空にだけかかるものではなかったのでした。雪割草の花咲こうとするあたたかみを、風はゆすって、滴る花しずくは、仄かな冬の虹となりました。





底本:「宮本百合子全集 第二十二巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本で「不明」とされている文字には、「〓」をあてました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
2005年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について