獄中への手紙

一九四四年(昭和十九年)

宮本百合子




 一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

   初春景物
笹の根に霜の柱をきらめかせ
  うらら冬日は空にあまねし

 こういう奇妙なものをお目にかけます。うたよりも封筒をさしあげたいからよ。[自注1]かいた手紙は厚すぎて入らず。
 二日

[自注1]封筒をさしあげたいからよ。――この手紙は日本風の巻紙に毛筆でぱらりと書かれている。歌の行を縫って検閲の小さい赤い印がちらされている。封筒は正月らしい色どりで若松に折り鶴が刷られたもの。

 一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月二日
 あけましておめでとう。ことしの暮はめずらしい暮でした。従っていいお正月となりました。そちらも? でも、大笑いして居ります。餅のような、という言葉は、子供の頬や女のふくよかな白いなめらかさに形容されて、日本にしかない表現でした。美しくて愛くるしい表現でした。ところが、もし今年の餅になぞらえて、あなたはほんとにおもちのようよと云われたらそのひとは、どんな返事が出来るでしょう、と。こんなにブツブツでうすくろくて、愛嬌がなくて。餅もそうなっているというところに、何ともいえないいじらしさはあるにしてもね。憐憫と、うれしい愛くるしさとは別のものですもの。
 ことしは、大分わたしの意気込みがあって、大晦日には二階はちゃんと煤もはき、よく拭き、御秘蔵の黒釉の朝鮮壺には独特の流儀に松竹梅をさしました。そして壁にはこれも御秘蔵のドガのデッサンの複製をかけました。赤っぽいものは机の上の飾皿だけです。なかなかさっぱりときれいです。花はこれを書いている左隅の障子際においている白木の四角い書類入箱の上にのって居ます。今坐って居りますが、七日ごろになったら久しぶりで机の高い方を出して腰かけにします。
 元旦から今年の計画に着手して、なるたけわたしは自分の部屋暮しを実行いたします。日記もつけ出しました。こんな暮しの中では一日にどんな勉強したか、何をしたか、一日ずつちゃんと見てゆくのも大事です。今年本やに日記というものがありません。日本出版会は日記の統制もやって、従来の日記はつくらないのだそうです。わたしは十六年の日記を出して、つけます。曜日が三日ずっているのよ。これを当にして、とんちんかんをやって、叱られやしないかと実は苦笑している次第です。
 何がどうあろうと私は何となしに元気を感じ、新しい暮しかた、勉強を期待して、きちんとした気分の正月です。どうしてだろう、と考えます。こんな瑞々とした愉しさのたたえられたお正月の気分というのは。新しい年がおとずれる、というでしょう? 新年になった、というのと、年が新しくおとずれた、というのと、心持はちがうものなのね。大変ちがうものなのね。わたしのところには年が新しくおとずれたと思います。支那の昔の女の詩人のうたではないけれど、南に向うわが窓は、年久しくも閉ざされて、牡丹花咲く春の陽に、もゆるは哀れ緑なす草、という風なところへ一条の好信、春風にって来る、というようなところがあります。そのよいたよりというのがなんだときかれたら、わたしは何と答えることが出来ましょう。見えもしない、聴えもしないところにも、いいたよりがあるものなのを知っているのは、雪の下なる福寿草。
 三十一日に、二十九日づけのお手紙がつきました。それを、食堂のこたつであけてよんで、あと働き用上っぱりのポケットへ入れて働きました。バルザックのほかによむものの話、そうだと思います。
 この御手紙の前半にあることね。わたしは本質的には、しわん棒なんかの反対なのよ。しわん棒が義理のつき合いに骨折るなんて例は天下にありませんしね、詩を自分から溢らす人間がしわい性根ということもあり得ません。そういう印象を得ていらっしゃるとしたら、其はわたしがそういう方面が下手で、時々こわがっているそういう瞬間が結果としてそう映るし、そういうことにもなるのね。わたしに対しては、しわいという評は当りません。実際の技量が低くて、重点を巧みにとらえゆく力量が不足で、そちらの緊要に鈍感で、世間並から見ればおどろくほど大きい気で暮しているから時々妙にこわがるという結果です。それはわたしのような気質のものが、自分で無理なやりかたをしているとき(ひとまかせで結構、という人間が足りない腕で自分で万事思案してやるから)生じる哀れな滑稽です。滑稽で終らない結果もおこすから、わたしとしてはそういう自分の未鍛錬の部分も自分にゆるしているわけではありませんけれども。でも、あなたもよくおくりかえしになることね。わたしがおどろいて笑うと、きっとあなたは、だって其はブランカがそれ丈くりかえすということだよ、とおっしゃるでしょうね。
 わたしに百万遍しわん棒と云っても、私はニコついているだけよ。しかし、ブランカは自分の人生をすっかり入れこにした心で暮しているのに、そんな風に思える時があるというのは、よほど、やりかたに下手な未熟なところがあるのだね、と云われれば、其は全く一言もないわ。きっとあなたに私のそういう弱点はいくらかにくらしいのね、どうもそうのようよ。あなたのおどろくべきところは、ものの批評が深く鋭くのっぴきならなくあるにしろ、辛辣な味というものの無いところです。その立派さでひとは説得されます。わたしは、自分よりよほど立ちまさった天賦としてそれを見て居ります。魯迅が細君にやっている手紙の中で、女のひとが、辛辣以上に出る例は稀有だ、と。わたしの修業の一つに其が項目となって居ります。むき出された鋭さ、鋭さをつつみかねる人間的器量の小ささの克服。もしブランカ的素質習癖(?)のために、折角のあなたが、家庭的な細部から辛辣さを滲ませるというような癖になったら其こそ一大事です。わたしとして慚死に価しますから。ことしは一度もそういう苦情はお云わせしまいと思うのよ、確かにわるくないでしょう。わたしをその点で御立腹なさらないで下さい。そして何となくにくらしいみたいに思わないで、ね。
 ことしは思いがけず「春のある冬」の続篇が刊行されました。ごく簡素な装釘です。でも、内容の美しさはひとしおよ。近刊の続篇は「松の露」という、実に清楚な、而も情尽きざる作品です。
 文集には「珊瑚」というのもあります。めずらしいうたですから、月半ば以後におくりものといたしましょう。きょうはさむい日なのよ、雪がふったら面白いのに。では四日に。

 一月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月九日
 なかなか寒うございます、頭がしーんとなる位ね。
 今のわたしは珍しい納り工合で、これをかいて居ります、二階でね、坐っているのは例のとおり例の机です。こう冷たくては堅い木がむき出しではたまらないから、机かけでもかけた方が落付ける。でも程いいのもない、厚くて、ものをのせたり書いたりしてずらないようなのは。ああ、昔父がロンドンでつかったオリーブ色のぼったりした野暮くさいテーブルかけがあったっけが、どうしたかしら。虫くいかしら、あれならいいが。こんなこと考え考えしているの。そして、更に更に珍しいことには、机の横に火鉢というものが出ていて、その中に火というものがあるの、びっくりなさるでしょう? どうしてこんなに自分をもてなしているかというとね、或はお客があるかもしれなかったのでした。古本やさんをやっていて河出につとめたTさんという人が、今度徴用になって立川につとめます。出征ではないけれども、字ばかりひねって四十になった人が、キカイを習うというのは、やはり改った事と思って細君と赤ちゃん一緒によびました、赤ちゃんが人工営養で、ゆっくり出来ないと云っているうちに公衆電話がきれてしまったの、五銭きりもっていないんだけれど、というところで。だからもしかしたら来るかと思ったので、炭をはずんだところ来ず、わたしが珍しい納りかたとなりました。机とかぎの手に、二月堂机をおいて。大したもので、お正月のようです、膝にも毛布かけて。その毛布たるやわたしが生れて百日目に札幌へゆくときくるまれて行ったという年功ものですが、なかなか暖いのよ、まだ。
 今年は、二日の手紙にかいたように昨年と暮しかたを変えて、自分の線をはっきりさせて生活しようと考えています、そのためにたとえばきょうにしろ、こうやって二階に落付いていられるのはうれしいの、そういう気分になれている自分がうれしいのよ。国咲は国府津へ行っていません。先なら気がもめてくしゃくしゃしたのに。生活の責任というものをどう考えているのかと思ったりして。Tも赤倉まで行って甘酒しるこも食べて、雪をすべってかえって来る位なんだから、こちらでこせこせ気をもむがものはないと思って。そこで、こうして静心しづこころでいる次第です。わたしもいくらか修業出来たというものでしょうか。
 今年は又スペイン風邪大流行の由です。どうぞ、どうぞお大事に。わたしは経験があるから大きらいです。大いに注意して、かからずにしのごうと思います、一家総倒れになりがちで、ね。いつも、そういう大流行のときは看護婦はなし、薬はなし、というのがつきものです、規則正しく早くねて、冷えないようにしてカロリーカロリー。ね。
 営養読本は、来週中にかえして貰います、かりたひとは先をうつして返すのですからすこしゆとりをつけました。
『同盟週報』は毎週土曜日発行ですね、どうかしら、半年も払っておきましょうか、毎週きっちりつい行きかねますから。
『外交時報』は又神田ででもないと駄目らしいわ。この次の火曜日かえりによりましょう、隆治さんに本を送る中に、何か一寸可愛いものを入れてやりたいから。それも買いがてら。この頃は実に何もなく閉口ですが、神田に井上という美術専門店があって、そこにはちょいと愛嬌のあるものがあります。
 きょう『同盟週報』の一月一日号買えました。面白いというのもいろいろの程度ですが、これからお先に一目失礼いたすことにいたしました。
 片方の読書の報告をしないで又々バルザックですみませんが、どうぞ辛棒なさって下さい。「木菟党」をよみ終り、一七九五年頃のブルターニュの状況、あの時代ナポレオン時代の紛糾を実によく理解しました。木菟党はミミズクの鳴声を真似て合図とするブルターニュの農民兵で、その首領をめぐりフーシェの派遣した女間諜をめぐり、その女の人間らしい死に方を大団円とする伝奇風の作品ではありますが、ブルターニュ地方の特色、農民の狂信と無智、其を利用する坊主、それらすべてを利用する亡命貴族、その高貴さと卑俗さ、農民の剛直さ智慧とどん慾さ、なかなか大したものです。
 この時代の人々(フランス)の間にあったパリとブルターニュとののちがうという観念など、又ナポレオンに対する感情など、実によくわかりイギリスの狡猾さもよくわかります、モロアの「英国史」はこの一七九三年をめぐるイギリス対フランスをどう書いて居りましたろう。
 バルザックの筆致は極めて簡潔です、正確に、そして血肉をもっています。ディケンズが思い合わされます。「二都物語」において、ディケンズは果して、イギリスのフランスに対した真髄をとらえ得たでしょうか、其とも寛大な紳士を描くことしか出来なかったでしょうか。そういう点から又よみ直して見たいと思います、ヨーロッパの文学は、こういう共通な一つのテーマをめぐって、おのずから対比も出来、作家の力量について考え学ぶことも出来、本当のヨーロッパ文学研究は、そういう風なコンプレックスをもって学ばるべきですね、その国々だけの一本の棒の上を這うのではなしに、ね。バルザックの農民というものに対する考えかたもこの「木菟党」でいくらかわかります、その実力のいろいろな面を知って、つまり祈祷させておくにかぎるということになったのね、それもいきり立たない念仏で。フルマーノフの小説で農民をかいたのがあったでしょう? 大変よく研究されて作者の活動を反映していた傑作でした。バルザックの農民は、この小説では特に頑迷なブルターニュを扱っていて、そこにやはり見るものは見て居ります。
「誰が為に鐘は鳴る」という小説ね、第二巻もまことに面白く数々の感想をそそるものでしたが、バルザックのこの小説のように関係をもった国々の同時代を扱った作品までを考えさせるだけ統括的なものは感じさせません。そこにあの作者の規模が示されているのだということを改めて感じました。あの小説の主人公であるアメリカ人があすこでああいう動きをする、それにつれて、アメリカというものについて更に知りたいと思う心持は直接には浮びません、更にあの山人たちが、どう思って外来者をうけ入れているかというようなこと、つまりあの事件の全性格はくっきりつかまれていないのです。時間の問題その他の関係もありますが。
 ユーゴーの「九十三年」という作品があり、殆どバルザックと同じ時代を扱っています、よみはじめたらユーゴーのロマンティシズムとはこうも有平糖でありスコットの亜流であるかとびっくりします。チェホフがね、ゴーリキイの若かったときこんな注意をしてやったのよ、君、君の小説では風が歌ったり波が囁いたりするね、しかし風は吹くのだよ、そして波はうちよせるのだ。自然は其で十分美しく立派なものだということを会得したまえ。ユーゴーがこう云われたら、何と返事していいでしょう、何故なら彼は美文の1/3は削ってしまわなくてはならないでしょう。おそろしい悪文ね、饒舌で冗漫です、そのくせ粗雑な描写です。このユーゴーの亜流がデュマであったというのがよく分ります。「ミゼラブル」が傑作であって、しかし家庭文庫の中に光るものであることが何と沁々わかるでしょう。こういう大家は文学の上では悲しいと思います。しかし大家よ、パルテノンに埋っています。ユーゴーのこういうロマンティシズムを見ると、絵の方がまだましのようにさえ思います。そしてフローベルの出たのが分るわ。フローベルは、ユーゴーに立腹したのね、そして、「ボバリー夫人」をかいたのですね、そして、あのつまらない「サランボー」をかいたのだと思います。ユーゴーが曲芸風に腕をふるので、フローベルはむっとして下を向いて、俺の皿は素焼だそれで人間は食って生きているのだ、と力んだのね、フランスの自然主義の根は、ロマンティシズムの大さと比例して居ります。田山花袋の間口二間ほどのナチュラリズムは何と果敢はかなくて、無邪気で、無伝統でしょう。フランス文学、イギリス文学が明治の初めに入って来たということについては、地元の文学的うんちくの歴史がよくよくかみこなされなければ、其の日本的風土化もつまりは分らないでしょう。バルザックの偉大さ、というより博大さ、は本当に歴史を理解する力によってでなければつかまれきれません、それはバルザックの博大さというよりも、むしろフランス史の博大さですから。バルザックの小説が私たち作家にとっての興味のポイントは、人間関係の状況と性格との関係にあらわれる特色です。これはこの前私がバルザックについて素描的勉強をしたときには分らなかった点で、同時に十九世紀文学とのちがい、スタンダールとのちがいを示すものだと思います。バルザックの小説では状況シチュエーションが性格をめざめさせ動かし、後の人々の作品は、其ほど社会に強烈なシチュエーションがかくれて、性格がものを云い、自己廻転をはじめ、大戦前後の自己分裂に来ています。バルザックが歴史小説から現代小説に入って行ったのも面白いし、ドイツの小説の道と並べたら更に面白いでしょう。私はまだドイツ小説は貧弱にしか知りません。漠然と、ウェルテルとリュシアン(幻滅)の二人の主人公の歩きかたの相違を文学的本質に通じるものとして感じますが。追々こういうようにしてすこししっかり世界文学をものにしてゆきたいものです。それにしては私の語学が全く何の足しにもなりませんが。語学の力にたよらずに、外国文学も或程度正しく本質を理解したいと思えば、しなければならない勉強というものは分っているわけで、私は自分の読書力が、もっと四通八達であったら、どんなに楽だと思うでしょう。これは教育がよくなかったのよ、私が余り体育のことに無頓着に育てられて丸く小さくなってしまったように、丸く小さいところがあるのよ、きっと。残念ね、骨の折れるだけも、ね。
 こんな小さい字もかくから、大分よくなっているようですが、寧ろこの頃は眼のわるさになれて、まがったペンを使いこなすように、悪妻を扱いこなすように、こなしはじめたのではないでしょうか、チラチラはひどいままなのですもの。眼とは面白いものね、顔全体出て見える眼はこわくなくて、せまいすき間から眼だけ見える眼というものは気味わるいし、おしゃれの女がその効果をつかって、ヴェールから目元だけ出すのも何とずるい技巧でしょう。わたしは出来たらこの眼をあなたに届けて、何とか工合を直して頂いて見たいようです、
 おなかぺこについて心痛いたします。もうお眠れになれたでしょうか。

 一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

道ばたにならび居る子ら喉をはり
  勢一杯にうたふ「予科練」

さむ風に総毛だちつつ片言の
  女の児まで声あはせ居り

けふはなほ正月七日風空に
  凧のうなりのなきが淋しき

風おちぬしづもる屋根に白白と
  雪おもしろく月さしのぼる

 何の虫のせいかこんなものが出来てお目にかけます、どうせ又出なくなってしまうのよね、きっと。もう一つ或人に書いてやった文句


 さるの子も親にだかれて松の枝

 これは可愛らしくて気に入りました。
  十日

  つまりお正月のなぐさみと申すべき。

 一月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月十七日
 十五日づけのお手紙きょう頂きました。何よりも先ずすこしは正月らしくなったのをおよろこびいたします。本当に旧正月がママわ。暦の上では何日でしょう。わたしは今年から生活の整理のため又日記をつけはじめましたが、普通の日記というものはなくなったので、十六年のを使っているのよ。ですから何だか見当がつかないけれど。ことしは面白い年で、一月の二十三日も二月十三日も、日曜に当ります、そして二月は二十九日よ。女のひとから求婚してもよいと云われる年よ。
 去年の後半は私も揉みくちゃになったところがありましたが、云わばもう其で揉みぬいたようなところが出来て、今年はもう全く心機一転よ。相変らずの、手のかかったことしてやっさもっさやっているが、もういいということにいたしました。私はやっと暮しかたも会得したと思うところも出来ました。
 わたしの愉しさについて、同感して下すってありがとう。こういう風に、何となし心あたたまる心持は何と微妙でしょうね。私がここでの生活について、サラリと気持をもちかえることが全く自然に可能になったのも何かそういう内奥のモメントが作用していると明瞭に感じます、自分の生活の線、つまり私たちは本当に私たちの生活を生活しているのだ、ということを、改めて私たちのものとして、この中に感じ直したことも、やはり同じ点からだと思います。
 こころに及ぼす深さは何と深いでしょう、それは、それ程のことと予想もされなかったと思います。ダイアモンドはどんなに小粒でも石炭でないということなのね。私は殆どありがたく思っているのよ。詩というものが、これでこそ人の心の宝と申せるわけです。そして詩を保つために払われるたくさんの心づかいというものの価値を実に実に感じます。
 自分の得ている仕合わせについて感じることは一再でないけれども、又新しくそのよろこびをもってよく体を直し勉強もしましょう。
「九十三年」は終りまで読んで、ここに云われているとおりの感想をもちました。確に大きくて多い欠点をもってはいるが、ユーゴーは、スケールがあります、統一された自身のものとして。バルザックのスケールの大さは、事象をとり集めそこにあらわれる現象を縫う博大さですが、ユーゴーは「九十三年」というものを、一まとめに全輪廓からつかまえる力量をもって居ます。彼なりであるが。そして、大変面白かったのは、「九十三年」の主人公の若いゴーヴァンによって、「九十三年」の傑物たちが、その段階では思い到ることの出来なかった生活の正義――たとえば女性の位置などについて、前進した理想をかかげている点です。バルザックは九十五年のヴァンデーを「木菟党」に扱って居ても、勝敗の渦中に秘術をつくす人的交渉のなかに全精力と智力とを傾注していて、ユーゴーのように、人類の進歩の足どりとして其の時期を見て行く性格ではなかったのね。それに、ユーゴーは、バルザックのように、ナポレオン三世の治世に、俗衆の抱いたと同じ野心で煽られず、その頃は海峡諸島の島に暮すことをよぎなくされていたのですってね。「ミゼラブル」は、その国外生活の時代の作品の由。セルバンテスにしろ、これにしろ、そのことによって宝石となり得る優秀な人々にとって流謫るたくとは何たる深い意味をもっていることでしょう。ツワイクは一九一四年頃の「三人の巨匠」のドストイェフスキー論の発端にそのことを云って居ります。ワイルドがかなくそになってしまった辛酸の中で、ドストイェフスキーは宝石に自分を鍛えた、と。そう云いつつ、ツワイク自身、自分の流謫を支え切れなかったのは、何と哀れでしょう。それに、そういう芸術家にとって真に自分を見出させる流謫の形が、決してチャンネル・アイランドとか、雪の野とかきまっていないのも、何と味あることでしょうね。ただ多くの場合、その境遇の真価を理解するだけ、自分の生涯というものの意味、存在の意味について考えつめられず、目前の暮しに視点をたぶらかされるから、徒に、不遇的焦慮に費されてしまうのでしょう。
「九十三年」でもう一つ大いに面白かったのは、ユーゴーらしい自信をもって、ダントン、ロベスピエール、マラーの大議論を描き出していることです。これは勿論非常に単純化されて表現されているし、原則というものに立っての理論の通った論議ではありませんが(時代の性格として)三人の人となりと、当時の有様がよく想像されます。マラーという男は、私なんかのように浅薄な知識しかなかったものには、冷厳極る流血鬼のようにしか考えられませんでしたが、決してそういう人物ではなく、三人のうちでは清廉な人間であり、政治家であったのね。九十三年の有様が、ヴァンデーをはじめ、フランス中支離滅裂であるということを最も案じたのはマラーであり、その統一の力を求めたのもマラーであり、そのために集注的権力を一人に与えることを=即ちマラーとしては得ることを――考えたのであり、そのために、清めようとして骨までしゃぶる親鼠となってしまったのね。ロベスピエールは、ブルターニュ地方を通じてピットの力、イギリスの侵入をおそれ、ダントンはオーストリア、プロシアをおそれていたときに。マラーの、その見とおしは、今日から見て正鵠を得ていました。マラーの卓見は、一面にその時代の巨頭間の勢力争いに足をひっかけられていて、コルデールが憎んで刺し、人々はそれでっとしてしまって、腰をおろしナポレオンさんによろしく願ってしまったのね。その筋に立ってみれば、ナポレオンの初めの活動は、実に愛国的意義がありフランスの救いだったのに、亡命貴族の没収財産を買っては、息のかかった成上り貴族をこしらえはじめてから、再び対立の根を与えてしまって、遂にルイ十八世というようなものを出現させ、ダラダラとナポレオン三世まで来てしまったのでしょう。ナポレオンの功罪は大変大きいのね。思われているよりも大きいのね。マリ・アントワネット、カザリン・ド・メディシスなどは、所謂歴史上の定評を訂正されていますが、マラーなんかはどう見られているのでしょうね。本場には、いろんな人のメモアールなんかがあって、ユーゴーは「九十三年」は其等をよく調べて居ります。カーライルなんかあの歴史の中でどう見たのかしら。
 バルザックはナポレオンを、一七九五年の舞台にのぼせていますが(暗黒事件)深く入っては居りません。
 ユーゴーが、全輪廓から見てゆき、常に人間の進歩を信じる動機で其を見ているところは、ロマンティシズムの積極の面ね。笑い出してしまうのは、進歩に伴っておこる大波瀾は歴史の必然であって、その必然は神様だけがしろしめすところだ、という文句です。雄大なものね。どっしりそう云って坐っているのですものね。
 こうしてみると、ユーゴーは、非常に大きく力づよく複雑な機械をその内部に入れてどっしりかまえている建物の壮大さであり、バルザックは、内に入ってはじめておどろきを新たにする機械そのものの巨大さ、相互関連の複雑さ、人間を駆使する力と云ったような異いがありますね。
 こういう人々と並べて、というか、つづけてというか、トルストイを見ると、何だかこれ迄とちがった心持がします。近代文学のテーマの推移ということを感じます。あんな大きい「戦争と平和」ですが、真のテーマの大さというものはどういうものでしょうか。性格(主体的には自己)がモティヴとなって来ている十九世紀末以降の文学は、いつぞや云っていたように、もっともっと深く勉強されるべきですね、そこから前進するために。そして、初期のリアリストたち、或は其以前にさかのぼってみることは有益です。自分達から先の世代の文学に何が求められているかということが、一層わかるために。バルザックの作品の世界では、各性格は自身の性格への自覚と存在意義の自覚をまだもっていなくて、事件の力にふりまわされます、その人なりに。そういう形でしか性格はないから、人物は単純ね。ユーゴーは理想のために人物をつくりました。ゴーヴァン対シムールダン博士。トルストイは、「戦争と平和」にしろ、事件の大さそのものを性格と等位におき、大事件にかかわるかかわりかたのモティーヴを個々の性格においている。現実はいつもこの均衡を保ちません。殿様としての生活の立場がこういうところにもあるわね。将来の作家には大した仕事がひかえています、大きい規模で事件を全輪廓においてとらえつつ、自覚ある性格の活動が統一して描かれなければならないのだから。この節の作家のように一二枚の新聞用原稿に、維新頃の壮士文学のような肩ひじ張ったポーズを示して満足していたとしたら、こういう大事業はいつ、どうしてなしとげられるでしょうね。
 合点の上にも合点すべきということは全くであると思います。
 この前九日にかいた手紙につづいて、又巻紙に歌かいてお送りしました。ついたかしら。
 九日にかいて、きょうは十七日だから御無沙汰になりましたが、間で、初執筆をして居たので。二通りかけなかったの。
 私たちに白藤をくれた古田中夫人(母のいとこ)のこと名だけも覚えていらっしゃるでしょうか、あのひとが、やはり糖尿で、十六年の十二月十何日かに死にました。こんど追想集が出るについて、私にもかいてくれと云われ、それをかきました。二十枚ばかり。「白藤」と名づけました。
 本になったらどうぞきびしく読んで下さい。きびしく、というのは、わたしが、どの位ものをかく上で常態に復したか、それが知りたいからよ。神経と関係のある文章の動きのリズムが弾力にとんでいて、リズミカルであるか、感覚が緻密か粗大であるかという点を、ね。書いている間には、自然で、なだらかに展開いたしましたが。ほんとに其がしりたいの。こんなに言葉が落ちるものの話しかたがのこっている以上、気になるのよ。あなたは余りお気づきにならないようだけれど。それが分るほど長くたくさんいろいろのことを喋る時間がないからなのね。長く喋っていると、ガタガタにしか発音出来ない音の重りがあります。却って口の方がそうなのだろうが。
 でもね、私は、人前で喋々出来にくいことになって、いいと思うのよ。作家はかけばいいのです。喋らずといいわ。画家は描けばいいのよ。中川一政が、字で喋り、そのお喋りは絵よりも往々にして面白い。これは一大事だわ。ですからね。では明日。さむくないように。

 一月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月二十四日
 きのうは暖い日でした。きっと、ホホウ暖いねとお思いになったでしょう、前日は夕方一寸みぞれが降って、雪かと思ったのでしたが。特別暖い日になりましたね。
 そして、又きのうは、何となし可笑しかった日よ。先ず朝九時半から防空演習でした。私が家中の総大将という憫然なことになってしまって、其でもどうやら無事終了。わたしは隣組の救護班です。国と。まだ働けないから。うちにはタンカもありますから。
 午前中床に入るのが普通なのでへたへた。其でも暖かいし折角の二十三日がモンペで終るのも興ないし、そこでハガキに云っていた「ドン・キホーテ」「プルターク」のある叢書を買おう、こっちにある売るのとさしひきしたら、ええいいわ、たまに自分を優待したって、ねえと、珍しくコートなしという風でフラリと出かけました。いそいそしてよ。私たちで買いましょう、そう思って。神田の巖松堂の二三軒先なの。金曜日にはお話していた通り帰りによって、『外交時報』かったのよ、一月十五日発行というのを。そして家へかえって、「ヨクヨク見たらば」とまるで手毬唄のようですが、よくよく見たら其は一月十五日なの。どっさりあるのですもの、一月と思ったわ、よく見えなかったのね。大笑いして其用もかねてです。一月号はギリギリの月末か二月に入る由。よく月おくれに女の雑誌が出て、気をもんだこと思い出し、感想多くありました。それから二三軒先へ辿りついて店へ入ったら在る、ある、ある、金曜日に見たところに積んであります。札が下っているのを、今度は何しろ買おうというのだから、念を入れて見たら、三十冊揃いで五十六円ばかりと見えたのに、どうでしょう、ここでも一がぬけていたのよ、一は百なのよ、つまり百五十六円だったという次第です。びっくり敗亡。内心苦笑してしまいました。この訳本はいいのだけれども今はそれだけ出しにくいわ。売っても惜しくない本をパチパチと弾いたがやはり一が邪魔です。バルザックがこれ丈分るようになったと思うと、「ドン・キホーテ」がよみたいのですもの。暫く佇んで首をかしげていたけれど、思いあきらめて店を出て、其でも二十三日だからと、江戸時代の文化を書物から見た研究や、女流文学の古典のありふれた資料ですが二三冊買ってかえりました。ああ、こうかいているうち又未練が出て来たこと。欲しいことね。でもと考え直すと、あの三十冊の中でオースティンの「誇と偏見」二冊、「デビッドの生立」三冊、モンテスキュー「随想」(?)、「テス」(一冊)、メレディスの「エゴイスト」二冊その他、是非これで読まなくてはというものもないわけです。そう思って帰って来て、重い袋かかえて門入ろうとしたら、往来で遊んでいた太郎が「おかえんなさい」とよって来て、「写真メン買っていい? 向日葵の種買うのに五十銭もらったのをやめたから」というの。「写真メンて何なの」「メンコノ写真の。ね、いい?」「誰にお金もらったの」「台所にあずけてあるの貰ったの」「一ついくら」「一つ三銭」「五つ買っていい?」「いい」と云おうとしているところへ、「こんにちは」ひょいと帽子ぬぐ男みたら戸塚の御主人です。マア、何てきょうはおかしい日だろう、さすが防空演習でさわいだ丈あると、何となしこれも苦笑に近い気持がしました。総てのことについて私が全く局外におかれていたということは何とよかったでしょう、五時間(八時まで)縷々綿々として、些末な描写にうむことない話をききました。きいたけれども私に何一つ出来ることはない。「それはそうでしょう? 何も分らないように暮したのだから、この二三年……」其は合点合点しないわけには行かなかったわけです、こういう生活の根本的破壊は、奥さんが、えらくなったから、思い上っているからだそうです。何度も何度もそういう意見でした。私は全く反対に考えていますから何とも云えない次第です。そういう考えかたからここまで崩れたと思い、私は作家の道のおそろしさを切実に感じました。不器用な足どりに満腔の感謝を覚え、謹でわれらの日を祝しました。ブランカのよたよたした四つ肢だけであったなら、果してどこ迄雪の凍った道が歩けたでしょう、その雪の下にだけかたい地面がある道を。郭沫若という作家の紀行に、夜営して第一の日、柔かい草をよろこんで眠ったら翌日体がきかないほど湿気をうけ、石の堅いところに臥た老兵は体がしゃんとしていた、とありました。ハハアと思ったことを思いおこしました。あの当時ぼっとしてあなたに叱られた位でしたが、この頃は自分の心もしゃんと自分の中にあり、自分の勉強についての確信、生活についての確信がいくらかあって、五時間きき疲れたけれども、気分は乱れませんでした。そして、やはり或る距離はちぢめられません。
 わたしはね、この頃、その人たち夫婦の間で、自分がどんな調子で話されるだろうかと想像したとき、何だか索然たるものを感じるような人に対しては、もとのように渾心で向わないの、剣法がすこし分って、いつも重心は自分の内におくことにしているの。ですから。同情もいたします、でも、腑に落ちないところは腑に落ちかねて。二人のひとが保険外交員でなくて、私も作家ならやはりそういうわけでしょう。
 八時すぎて夕飯たべました。ひとに出す御飯がないのよ。来たひとも気の毒ですが。
 其から太郎がせがむので二階へ臥かせて、話してやって、手紙かこうとしたら、疲れすぎを感じ、きょうにまわしました。
 あの叢書が買えなかったことを、私は天のお告げとうけとったのよ、凄いでしょう。お前のよむべきものを先ずよみなさい、そういうお告とうけとって、成程ねと感じ従順にうけとり、きょうは、大分歯抜けになった本棚を大体整理いたしました。
 ちがった形でいいことがあったわけです。
 去年の同じ日は大した月夜でした。そして、今よみかえしてみると思いあまった言葉足らずの詩をつくりました。まだ一人歩きが全く出来ず門外不出の生活で。
 一年経って、一日のくらしかたを思いくらべると、丈夫になったし其にすべてが私として常態に近づき、詩をつくらないで、あれこれそういう経験をしたことを面白く感じます。
 あなたも同じにお感じになりやはり一種の感興をお覚えになるでしょう? 詩をかかない私の方が安心なのよ、ね。たっぷりの詩をもっていて、いわば詩の裡にあって、詩はかかないでいる、面白さ。そういう散文の中にどれだけの詩が照り栄えていることでしょう、私はそういう散文家になりたいし、其が好きです。アランは、どうかしていてね、散文のそういう高さ、精神を知らないのよ。勿体ぶって、詩は現実から立ち上って歌うが散文はその中を走り廻るにすぎないと云っています。気の毒な男! フランスの思想界がアランぐらいのひとを選手としているということについて、大いに考えさせられます。二十世紀に入ってフランスのみならず例外をのぞいた国々は、散文の精神の力を喪って、散文は神経繊維か、思索の結晶作用の過程を示すようなもの(ヴァレリーの文章)になってしまったようです。
 文学が筆舌的なものと化する堕落についても新しく感じました。いつぞやのお手紙に、筆舌の徒となっては云々とあり、私はひどいなと思ったのよ。でも筆舌的なものと、文学的なものと、どっちにもポチポチつきですが、旧い文学の領内では全く背中一重なのが実際ね。大いに慎まなければならないことだ、と云われたのが、わかるようです。簡明なる美は非常な洞察、深い内省による選択、其に耐える精神の奥ゆきを求めます。官能において簡明な美が、つまりはそういう精神に立っているように。
 わたしはこの頃こんなことを屡※(二の字点、1-2-22)感じます。少年から青年に亙る時期にいろいろの体技、スポーツを身につけるということは、大したものであると。進退についての、おのずからな自信、それによる自由さいかばかりでしょう。精神や性格に加わる一つの現実の可能です。性格とそういうスポーツは結びついたところがあると云うことも出来るけれど。運動神経の敏さと明敏とは切りはなせないものですから。
 太郎がスキーをはじめました。其には自転車をのりまわしていてスピードに恐怖しないこと、バランスの馴れ、などで上達著しい由です。瞬間の処置に動じない男らしさは、一つの美です、私などにとって大きい美しさです。太郎がどんな性格と人間的規模をもつ男になるか、そのような身についた力が、人間生活の仕合わせ、よろこびを与えるものと迄なるかどうかしらないけれど、でも条件だけは与えてやりたいと思います、わたしの気持お分りになるでしょう? 年月を経ても抜けないものね、その鍛練された線ののびやかさは。子供のときやった泳ぎ、自転車は決してぬけないそうです。
 太郎は細かく智慧の廻る、働く方よ。
 寿江子のところへお手紙ありがとう。わたしは見たいのをこらえて今この机の硯屏にたてかけてあるのよ、水曜の夜来ます、そのままわたしてやろうと。炭もなくあちらの生活大変のようです、どこも大変なのを、あのひとは五年前熱川あたがわにいたときの気分で、余り安易に考えすぎ、それで今困っているが、困ったわ。今いるところ引上げると云っても又さあとここの戸をあけてやる人はいないし、わたしひとりハラハラ。でもまあ何とかなりましょう。
 本棚の面目一新いたしました。竹早町にあった低い方の本棚はいつも座右にあり特別の棚なのですが、こんど入れかえて、これからよむものを(文学のもの)第一段、という風にして、友達のゴタゴタした本はみんな別の棚にうつしました。さっぱりしました。
 太郎が、もう暫くで(九時すぎ)二人が帰るというので落付かながって、二階へ上っていい? と何遍も声をかけます。下へ行くからとどなるの。今夜からやっと私も放免です。太郎と並んでねると、せまくるしいと思うのよ、そして其を現金と思う私の心は、まだ天国から二足ばかり出た太郎には分りません。

 一月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月二十六日
 二十二日のお手紙、昨夜頂きました。ありがとう。きょうは、何となし珍しい日ね、気温が暖いというのではないけれども、大気がゆるやかで、庭土の地肌が春めいてうるおって居ります。柿の幹が雨にぬれて黒く見えるのも気が和らぎます。寒は暦の上では二月四日にあけるのですものね。昨夜は霜がふらなかったのね、しもどけの土の、人に踏まれないところは、細かく粒々立ったようでなつかしみのある眺めです。こんなに愛嬌のない東京の冬の終りにさえ、こんな「春立つけさ」の感じがあるのですもの、永い冬ごもりの雪国で春めくうれしさはどうでしょう。そんなうれしさからでも、北のひとは人なつこくなるのね。
 こんな風に早春をうけとる自分の心も面白くかつ又いじらしく感じます、わたしの春陽はいずかたよりと思ってね。
 二十二日のお手紙、笑う口元になりました。全くね、ブランカがバルザックわきにおいて一首ひねる姿はおなぐさみです。源氏物語をよくよんでみると、式部の小説家としての人生の見かた、描写、大したものです。しっかりしている、しかし沢山の歌はこのように小説の情景を鋭くとらえる人が、とおどろくばかり。品のよいのが只とりえ、間違いのないというところを行っていて、殆ど描写も情の流露もなく、干菓子のようにつまりません。面白いでしょう? だからわたしも余りあなたを悩ませることはいたしますまい。今月はこれで終りよ、即ち

ふるさとはみぞれ降るなり弟よ南の国につつがあらすな

 二十二日の午後隆治さんの小包こしらえていたら、音を立ててみぞれがふって来ました。二十三日の前日でわたしの心はやさしくなっていたし、ああみぞれ降るなりと思って、隆治さんの本の間に紙をはさんでかいてやりました。これだって、御元気にね、というだけよりはやはり心の波がうっているでしょう、下作にしろね。
 送って下さった本つきました。
 幻滅は、こちらよこちらよ、折角貰ったのだからどうぞお間違えなく。
 ユーゴーとバルザックとを並べよんで、非常に有益でした。バルザックは柱頭キャピタルのない大柱列のようね、しかもその柱はびっしり並んで太くて比較的柔い石の質で、彫刻の刻みめの深い彫りかたで万象の物景がうごめくように彫られています。が、ギリシャの柱列にある柱頭はなくて、従って、天はすぽぬけで青空よ。そこのところが我ながら妙な工合だと見えて、バルザックは、そこのすぽぬけのところを神秘主義でふたして居ります、人間の昇らんとする欲望、より高からんとする意欲、それはさすがにあれも男の中の男にはちがいないから、直感したのです。ユーゴーはそれを人間の社会の中にかえって来る精神において理解し得たけれども、バルザックは其はそれときりはなして精神の問題としたのね、だから人間喜劇の中に哲学的考察という銘をうった作があって、其は今日でみれば史的研究でありますが、バルザックはそこにつけ足して、何だか彼のリアリズムで包括出来ない現実の部分を、錬金術師の長広舌や降霊術やにたよっています。
 カトリーヌ・ド・メディシスね、あれは三部からなっていて、彼女が王権のために我子もギセイにし、ギルドのくずれかかる時代の新興市民にたよる過程など実に堂々としているくせに、最後の部ではカトリーヌの霊というのを出してロベスピエールに政論をさせています。しかもそのカトリーヌのおばけは、気の毒にも十八世紀のヨーロッパを股にかけて世情の混乱につけ入った大山師ドン・カグリオストクロの宴会で出て来るのよ(十八世紀をもって、世界的山師は終焉いたします)。
 バルザックは、自分のそういう不思議な性格的すぽぬけを、例の大上段の云いまわしで、神秘を感じずにいられない程強い精神と称しています。こじつけながら一面の真実ですね、何故なら、彼は少くともすぽぬけを直感して神秘につかまらずにはいられない高さ迄は、人間喜劇の柱をのぼりつめたのですから。
 この人間喜劇ということばも、おっしゃるとおりと思います。コメディアというものの内容の性質は、時代との関係で大したものね。シェイクスピアが悲劇をああいう形でかき、喜劇をああいう風に笑劇、ファースの要素を多くかいたということは、エリザベスの時代の鏡です。モリエールが悲劇として書かず、喜劇としてあれだけのものをかいた神経はフランスです。「悲劇」でない悲劇。
 コメディア、フィニタという文句は、パリアッチョ(道化師)という極めて近代風なオペラの終曲の主人公のアリアです。妻に裏切られた正直なパリアッチョが、劇中劇で妻を殺してしまうの、そして泣くように歌います。コメディア、エ、フィニタと。見物は本当に自分たちの見ているのはコメディーでそれが終ったと思ってきいているという趣向よ。直哉の「范の犯罪」は潜在した殺意からのことをかいていますが。このレコードが実に面白いのに古物で、ひどい音なの。細君をやる女の声は素晴らしい美しさ、人間ぽさ、動物らしさ、女らしさです。〔中略〕
 さて、ここで忽然として家事的転換をいたします。袷の件。そちらにある銘仙の羽織を前へ出しておいて頂きます。その羽織と着物とを合わせて一枚の着物をこしらえ、羽織は別のにいたします。どうぞお忘れなくね。鏡の物語というのがありますが、それは又別に。

 二月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月十一日
 ひどい風が納って、やはり春の近づいた天気になりました。紀元節というと、この日の夜まだ道具の揃わない動坂の家で、あなたが七輪に火をおこして御自慢になったのを思い出します。でもあの頃はああやっても家がもてたのね。何一つなくて、でも炭だけはたっぷりで、わたしはあしたの朝、途方もなくからいおみおつけをこしらえましたね、そして、私の御料理の腕前については、久しいことあなたは断言をはばかる、とう状態でいらしたわね、又いつひど辛いみそ汁をたべさせられるかと。思い出の中にある季節の感じは、こうして、風に鳴るガラスの音をききながら感じている今の気候と、どうしても同じようではありません。あの季節感の中には、早咲きの梅か何かいい匂いの花の枝が揺れて居りますね。
(ここまで書いたら立たなくてはならないことになりました。島田から小包が届いたのよ。太郎があがって来て、「とかいてある上に達とあるよ、子供達の達」と報告いたしました、さあ行って見なくては)
 とんだいい紀元節で、大人も子供もホクホクです。送って下すったもので。メタボリンもたっぷり来ました。岩本さんが買ってくれた分の由。一ヵ月も留守をするからその前に当分間に合う丈薬や何かお送りしておきましょう。この節一ヵ月留守するというと、あとに大変気が配られます。一ヵ月というものを、只三十日と考えることが出来ないから。
 きょうは、これでなかなかいい日になったのよ。さっき裏の画伯が来て、川越の先の部屋[自注2]かしてくれるということになり、これも大安心です。島田へ行く前にそちらへ引越ししておいて、そしてゆっくり行けますから。こっちへ一応の単位を揃えておくつもりです、机その他本棚も。第一、あなたのふとん類おくところが出来て、何と気が楽でしょう。二十日すぎに見に行きます、そして、すぐ荷を運んでおいてね。わたしもここにともかく場所が出来、目黒の先の大岡山に寿江の室をこしらえ、まあどっちへ行ってもいいことになって気がのびます。大岡山の室[自注3]というのは大した眺望で、ゾラが巴里を高い郊外の住居から感じたように、何か東京というところを俯瞰する感じのところで一寸面白いところよ。富士が見えます、秩父の山々も。空気もよいの、川越の方は田圃の中に電車の駅が一つあって、そこからすぐですって。そこは農業の家で亡主人が絵をかき、そのためにマッチ箱的別棟アリ、その二階をかりるわけです。まわりには川と田だけ。未亡人は昔から家政のきりもりをずっとしてきた人で、しっかりした女のひとらしい風です。
 若い女教師(小学の)をおいているそうです。わたしは、どうしても、ここにいさせて貰わなくてはならないとは思って居りませんから、疎開につれて、主人公がどういう計画を立てるか、それについても急に途方にくれることがなくなって大安心です。
 二月五日のお手紙ありがとう。本当にこの間うちはろくでもないことでね。もうこれで終了です。むしろさっぱりいたしました。あなたにも大分ホコリ浴びせましたが、どうぞかんべん。
 体を直すことについては、全くそう考えます。考えてみれば、私は病気が癒らないうちから心労が多すぎ其でよほど神経は手間どったと思います。ここで一ヵ月ほど周囲の全くちがった、そして春の早いところで暮すのは、体のためどんなにいいかと楽しみです。それにつれ、昨夜も熟考いたしましたが、この間うちからの話ね、あれは、私が行くときはもってゆかないし、手紙でかいて頂くのもすこし後にしとうございます。五年ぶりですものね、行くのは。友ちゃんには婚礼のとき以来ですし。せめて今後は、お互に気づまりなことなしに一ヵ月のんびりしてみたいと思うこと切です。もうわたしは気づまりなのや、自分が入って行くと何となし話やめるというような空気は沢山だわ。私が行っていて、私のいない折、下でよりより相談、何となし調子が改るというようなのはへこたれです。こんどは、一緒に解決するのはやめましょう、必ず結果は面白くないから。こころもちが。御機嫌伺い、おママり、わたしも休ませて頂き、それで十分よ。そして、あとから、二ヵ月もして、手紙でお話し下さり次いで私もかきましょう、却って、ずっとその方がさっぱりしていい結果です、それは確。まして無責任に考えているのではないのですから。どうぞこの案に御賛成下さい。それについて、あなたとしてお話になりやすい条件を思いましたから。そのためにもすこしあとの方がようございます。御自分が隆治さんについて云っていらっしったと同じインシュアランスをおもちになるのです。わたしがどうかあれバ、あなたは不自由なさらないようにして考えてあるけれど、自分にとってあなたはそういう風な面で考えられませんでした。しかしお母さんのお気持に対して、あなたが御自分からの配慮として、では、誰が責任負ってくれるのだろうという場合のお母さんのお安心のために備え、其をあなたが御自分の側の一つの条件としてお話しになれば、よほど全体がすっきりいたしましょう。なかなかの妙案よ、ユリにしては。すこし良妻だと思うがどうでしょう。
 手続のことは私のを扱った前からの係の人間で雑作なく出来ます、こちらで。面倒くさい調査なんかなしに。只直接の受取人が地方だとすこしうるさいかもしれず、それを研究しましょう。わたしのは、あなたになっているわけですが。
 こうすれば、勿論そんなものと別に、段々責任を果してゆくにやりよいわ。心もちに与える第一印象が、ね。心づもりしていらっしゃるよりも多いめにしてね。たしかにこれはいい思いつきです。マリを放るにもむこうにうけとる人か壁かがなくては張合ないようなもので、お母さんにしろ何かああそういう工合のか、と、何だか手ごたえのあるようにお思いになりましょう。でも、考えるとすこし笑えるわね、観念的というようなことは或る特別な人間にだけ、かかわりあるようにふと思って居りますが、安心というものもすこし似たところがあるのかしら。それは勿論根拠はあるようなものだが、あんまり比較にならなくて、ともかくマアそう考えつきました。
 全く、時は遅くても且つ迅い、ということを痛感いたします。生活のテンポが時間という鞘から抜けて走ります。新型ドン・キホーテとはうまい表現ですね。この春をうまく合理的にすごしたらきっと丈夫さが増しましょう、しかし眼はよほどゆっくり思っていなくては。島田へ行ったらうんと早ねして、午前中起きていとうございます。
 十三日の誕生日は、鷺の宮へ行ってすごします。泊らず。あなたのお祝いは何を頂きましょうね。ビオスボン届いて? あれでもボンというからにはボンボンなのね。そう思って、とどけました。わたしのボンボンは本当にまがいなしの Bon! Bon! で、あれは不思議なボンボンよ、みると。こっちの体じゅうが惹きこまれてしまって。十三日には、心祝いに、読み初めをいたします、第二巻から。又はじめに戻ると、こわれた時計みたいにグルリグルリ針があと戻りしてきりがないから。島田では文学のつづきよみます、あれこれ。冨美子が三月に卒業いたします、お祝いになる本さえなくて大弱りです、勝の初めての端午よ、子供たちも其々存在をとなえておもしろいしおばちゃん大抵でなし、では又。

[自注2]川越の先の部屋――荷物疎開のためにさがしていた部屋。
[自注3]大岡山の室――百合子の妹寿江子は大岡山に間借りした。

 二月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月十三日
 きょうの暖かかったこと! そちらもでしたろう。おだやかな日でした。わたしはきょうずっと家にいて、おかしい暮しかたしたのよ。鷺の宮で甥の婚礼で行けなくなったのが却って幸。というのは寿の大岡山の室へ明朝荷を送るについて、きのうは目白来の荷物をあけたら、すっかり鼠が紙をたべていて、せとものはそのままですが、すっかり煮沸しなくては用に立たずというわけ。疲れたからきょうは行かなくて大よろこび。大体きのうガタガタしたから、きょうはかねてたのしみにしている読書いよいよはじめようと、はりきりで心あたりを見たのに、どうしてもなし。これでは折角の十三日だって要するに無意味だと思って悄気しょげて、島田から頂いたアンモをたべていたら、咲が私の古原稿入れてある行李が欲しいというので、其ではと勇気づいて二人で働いて、二人のすべての希望がみたされ、本当に、本当にいい気持となりました。これで十三日らしくなったわ、今夜はたのしみです。
 それでも赤い御飯がたけ、珍しく配給の豆腐のお汁が出来、配給の魚の名は妙な名で、オマエみたいな名ですが、頭つきで大威張りの焼き魚でした。
 よみはじめる本[自注4]、島田へゆくまでに三百余頁だから終りたいものです。
 十日に書いて下すったお手紙ありがとう。きのう、十二日、着。お手紙の趣しみじみよく分ります。だからわたしもせめてきょうからは、と埃まびれにもなった次第でした。そうです、全く非人間的な現象が人間らしいものとなるのは、上塗りのコテ工合でゆくものではありません。孜々ししとして勉学する、孜々として勉学する、ここに無限のものがあります。この頃はね、私がこういう生活しているせいかもしれないが、作家の誰彼が、どこでどう生活しているのか、ひところのサロン的彷徨出没がなくなったから普通の人々は全く我れ関せずのようです。宇野千代が、日露戦争秘話という本かいているようですね。そうお。あのひとはやりてなんですか。そんな工合です。所謂作家生活が崩壊したスピードは大したものね、この一年足らずの間に。特に最近の半年足らずの間に。吹きちらされたようにどこかで、どうにかして何年かすぎるのですが、さてそれからふたの開いた時が見ものというも余りありでしょう。もとのような意味や形で、作家でございと云ったところでああそうですか、でしょう、この頃は。横光利一はもう二度と大学生の神様にはなれません。作家気質がふっとばされて、銀座界隈、浅草あたり、亀戸新宿辺から消散し、さてその先はいかがでしょう。大したことです。何人の古参兵がのこるでしょう。高見順は日本の製靴業の歴史みたいなものを研究している由です。西村勝三[自注5]という先達者が西村伯翁の弟で、古田中夫人の父です。この間「白藤」かいたこと申しましたろう? そしたら良人が大変よろこんで礼をよこし、西村勝三にもふれているのが面白いし、高見順をよんで子供たちが父の話をきくことになっているとか云ってよこしました。高見順の方向は愚劣でないが、その靴と日清・日露がどうからみ、且つ今の当主西村直は大金持だが、そういう昔話の集りなどには出ても来ないし、よびもしない。おっかさんは廃嫡して谷口となっている息子の方へ暮しているというような現実の面白さまでを、どう靴からくみとるでしょうね。「白藤」へは、性質上かきませんでしたが、母が話したことがあります、「品川の伯父さんは、あれだけの人物でいながら、妙なことを云ったことがあるよ、よっちゃん、おじさんが一生御恩にきるから何とか大将のところへお嫁に行っとくれ、って。後妻だったんだよ。何のつもりであんなことをたのんだんだろう。ことわったがね」。高見順の靴物語もここに小説があるのですがね。バルザックは少くともここいら迄かけました。作家の勉強の大変さがこの一つでも分ります。プティ・クローの仕事をあすこまで学ぶということの意味。作家の資質は飛躍しなければならず、大いに空語でない努力がいります。これらすべて面白い、悠々とした希望にみたされた文学的展望でしょう? 一刻千金というところね。ああ私には今ここをおよみになった瞬間に、あなたの口元に泛んだ苦笑が見えました。こうお思いになったのよ、ブランカ! わかったように云っている。もっともこのことは分った話だが、ね、と。そうね、こうやって読まざるを得ないあなたに、わたしが満々たる計画を語っていたところで、いくらそれがあなたにだと云って、やはり筆舌の徒に陥らないということはないわけだわね、こわいこと、こわいこと。では、さようなら。小さき一つの実行にとりかかりましょう。しかしね、あなたに語るということは、やかましい神様に立願したようなもので、自分を自分でしばることになって、万更無駄でもないのよ。空気に向って語られたのではなく、それは精神に向って語られているのですもの。

[自注4]よみはじめる本――マルクス・エンゲルスの原典。
[自注5]西村勝三――西村伯翁の弟。

 二月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月二十一日
 おとといはおもしろい雪でした。わたしの心もちでは、まるで咲き開いた花のあつい花びらの上にふりつもった白雪という感じで、全く春の雪でした。
 そちらではいかがな風情でしたろう。こちらが花びらの上にふる雪と感じたら、そちらはゆるやかな芝山のまるみを一層まるやかに柔かく見せる雪景色ででもあったでしょうか。若木が深い土のぬくみを感じて幹を益※(二の字点、1-2-22)力づよく真直に、葉を益※(二の字点、1-2-22)濃やかにしている枝々に、しっとりと重くふる雪でもあったでしょうか。
 木の幹の見事さや独特な魅力を思うと、自然のこまかさにおどろかれますが、木の幹は決して人間の観念の中にある真直という真直さではないのね。いろいろな天候の圧力や風の角度に対し自身の活動のリズムの複雑さをみたすのに、それは何と微妙な線で美しく変化しているでしょう、そういう美しさと雪の美しさはやはり似合うでしょう?
 雪が冬の終りに降る頃は、天候も春のはじまりのひそめられた華やかさがつよくて。疲れること。
 風邪はおひきにならなくても、熱が出やしなかったかと思って。わたしは何となく二三日おとなしくてぽっとして暮して居ります。用事はどっさりあってね、金曜日から土、日と出つづけでしたが。用事というものは考えると妙ね、だってこころの何分の一かで果せるようなところもありますから。
 土曜はQのところへ行きました。この頃は可笑しいでしょう、本をかしてあげたらあのひとが又がしをして、かりた人がお礼にバタをくれるのですって。それが来たら知らせるからというわけで。行ったところ、バターは消しゴムほどあったわ。そして、文学の話はちょぼちょぼで、やりくり話、家の整理の話等々。今の人のこころもち生活の態度がわかって何だか感服してしまいました。そして、自分の机を思い、よむ本を思い、更に感服をふかめました。
 この間のお手紙で天気予報のことね、みんなによんできかせて大笑いいたしました。皆もお説は尤もだということでした、決して日づけまでをとは申しませんそうです。でもやはり天気予報は有益です。私の身辺のことを見たって。
 日曜日は寿の大岡山の室へやっと荷がはこべ八時ごろつみ出させ、ひるすぎ出かけ、夕飯を七輪の土がまでたいてやって、この三四日ぶりではじめて御飯いっぱいたべさせ大安心いたしました。ホテルでも、朝小さい円い型にはめた、(よくジェリーを丸くしていたでしょう? あれ)――のおかゆ一つ。実なしのみそ汁、いわし一尾ぐらい。晩は、用の都合でぬきになった日があった由。この節の旅館暮しはおそろしいばかりです。ですから、ともかく一ヵ月十二円で、おカマで御飯たいて、おみおつけつくってたっぷりたべたら、悲しくなったというの全くよ。おっかさんの顔みてから子供がワーと泣くと同じです。
 これで寿も上京して安心してね起きするところ出来たから私も安らかとなりました。従弟が寿と食事してひどさにおどろいて話しているのをコタツでききながら、フーフーふいてあったかいものをたべているんだもの、わたしはそういうのは楽でないのですから。よかったわ、もうこの次の第三次の本引越しについてはもうわたしも御免を蒙ります、二度のことでわたしの分けてやれるものは皆わけてしまいましたしね。きのうは行きたくなくて、きょうも疲れがありますが、でも本当によかったわ。やさしさ、親切は心の活々とした、少くとも想像力のある人間でなくてはもてないわ。思いやりなんて、わが身の痛さではないのですものね。
 川越の先の部屋を二十日すぎというから多分木曜頃見にゆきます。そして、又こちらへすこしうつしておいて、それからやはり余り予定狂わさずに島田へ行ってしまいましょう。五月頃東京にいないとこまることになるかもしれないから(御託宣めいているかしら)うちへ子供の洋裁や私のもんぺ縫いに来てくれる洋絵勉強の娘さんが、倉敷の大原コレクションを見たがっているし、わたしはまだ一度も見たことがないから、行きに倉敷でおりて、それを見がてら少し休み、あとは近いから娘さんはそこから戻り私はひとりでゆくということにいたしましょう、いい都合でしょう? おべん当二度分もってね、よく研究してすいた汽車を選んで。荷物を少くしてね。かえりは一人なら、山陰をまわった方がこまないからと思って居ります、東海道ではこの節はビルマから一直線だなんていう勢ですもの、こむわけよ。多賀子一緒になど思ったけれど、ここの家で気がねしたって無意味ですし、其に時期もわるく、やはりかえりはひとりでしょう。さもなければ一寸送ってもらうのだが、その一寸が一寸でなくて。マア、それはそのときのこととしてやはり三月の二十日までに立ちましょう、お手紙のついでによく云ってあげておいて下さいまし。
 ものがなくて、お土産が思うようにととのわずわたしは気にしていること。見かけは大した変りないが、実力は大分まだ低いから、半病人のつもりで見ていて下さるよう、眼が十分でない[自注6]ことなど。
 今度はこれまでとちがって小さい子が二人いて、どうしてもお守りが要ります。体が十分でないと子供の守は疲労ひどく、抱くという何でもないこともこたえるのよ。自分でうまく調節いたしますが、そのことに直接ふれないで、一般的に半病人ということを憶えていて下さるようお願いいたします。自分からも申しますが、わたしがいて、お母さんだけによろしくと申してもいられないというわけです。マア、お母さんわたしが、というのが自然のこころで、それでやはり参るのは参るから。どうぞね、目白の先生も、途中のゴタゴタとこの点だけよ、いく分どうかというのは。でもこれで二ヵ月のばして、わたしはいくらも丈夫になれません、ここまでになったのもマアいい方なのだもの。来年やもっと先が当にならないからきめてしまいましょうね。
 ここの家を処分して郊外にうつろうという案があります。咲、私大体皆のりきです。この家の非能率性はこの頃もう殺人的パニック的よ、こころもちに甚大に及ぼして来ています。国府津へ行って、こっち留守番暮しというのがはじめの案でしたが、国府津は東海道線に沿っていて、何しろ前が本街道ですから、パンパチパチが迫って、あの街道を日夜全隊進め、伏せなんかとなったらもうもちません、そういう地点に、女子供だけ目だつ別荘にいるなどとは一つの安全性もないことです。この際この家を処分するのは、ここの人たちにとって又とない好機です。すこし荷厄介を負っているところはどこも同じ問題よ。
 うちの通りの向側に市島という越後の大地主が、殿様暮ししていたのが、いつの間にやら水兵の出入りするところとなっている有様です。方丈記というのが戦国時代の文学であるのがよく分りますね、一つの家の変転だけ建物としての用途語っても。その市島の家は、もと松平の殿様のお休処で、一面の草原に白梅の林で、タンポポが咲くのを、小さい私たちが、からたちの間から手を入れて採ったものよ。高村光太郎は本でふところをふくらまして、小倉の袴にハンティングでその辺を逍遙していたものです。林町も変ったことね、そして今この通りでたった三軒ほどのこった古くからのこの家が又何とか変ってしまうと、全く昔日のおもかげは失われます。そして、この通りを占めるのは、何かの形に変った金の力だけというものね。
 郊外へ家を見つけるについて、咲と私は、私も一緒と考えていますが、実際になるとどうなるでしょうね、タンゲイすべからずです。居る場所のない家しかないという工合かもしれないわね。それなら其のときのことと思って居ります。
 すべてのものが、日々の目にもとまらないような変化の中で、何と深く大きく渦巻き変ってゆくでしょう、決して二度と戻りっこない変りかたをしつつあります。
 セザンヌという画家は、人物を描くときなんか、椅子にくくりつけんばかりにして動くのをいやがったのですって、モデルが。あのひとの絵を見ると、しかし実に絵は動いているわ。ドガは描かれたものがそのものとして動いているが、セザンヌのは、画家の目、見かた、制作意慾が熾烈で、精神が音をたてて居ります。こっちからこれだけぶっつかるからには対象がひょろついていられてはたまりますまい。対象につよく、直角にぶつかっています。古典よんでいて、対象へぶつかり、きりこむこのまともさを今更痛感し、夜枕の上で考えていたら、セザンヌがはっとわかったのよ。むかしの人の禅機と名づけたところです。(思いつめよ、というのは、そこまで追いこんで、直観的に飛躍せよということなのですが、人物の内容が時とともに充実しなくては飛躍もヤユね)セザンヌの生きていた時代にはそうして対象を金しばりに出来たけれど、そして、そういう対象を描いていられたが、今どうでしょう、とくに作家として。どこで、何を、どう金しばりに出来るでしょう? おどろくほど沸りかえり流れ走るものを、その現象なりに描き出し、それが、現象であることを芸術としてうなずけるほど、一本の筋金を入れるのは何の力でしょうか、ここが実に面白いわ、ね。
 十三日の手紙で、科学の精神のこと云って居りますが、ここと結びつくのよ。こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう、だから面白いわね、勉強に限りなしというよろこびを覚えます。ストック品などでは役には立たないのよ。用心ぶかく、軽井沢辺で、芋でもかこうように作品をかこって繁殖させていたところで、芋は遂に芋よ。だってそれは芋が種なんですもの。家というものは、藤村が或程度かきましたが、又新たな面からのテーマです。ああいう「家」のように伝統の守りとしての継続の型ではなく、それが変り、くずれて、新たなものになってゆく過程で。では明日ね。

[自注6]眼が十分でない――一九四二年の夏、巣鴨拘置所で熱射病で倒れて以来、視力が衰え、回復しきらぬことをさす。

 三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二日
 きょうは又ひどい風が立ちます。春はこれでいやね、京都はこんな吹きかたをいたしません。島田辺もそうでしょう? 風がきらいだからこう吹くといやね、外出しないですむので大仕合わせですが。
 こんどは大変かりかたになってしまいました、二十一日、二十三日、そしてきのう届いた二十九日の分。
「ドン・キホーテ」のこと世田ヶ谷へきいてやってじかにそちらへ返事をたのみました。あの作品はほんとにそうでしょうね、そしてその男らしい笑いの中には、あの時代の頭をもたげた市民精神の強壮さも粗野さもあることでしょうし、罪のないひどいあけすけもあるわけです。「ドン・キホーテ」が完訳にならない部分というのはその部分なのね、昔から。大体中世から近世へかけての文学には、ボッカチオの或作品のように諷刺としてのあけすけがあり、それが後世の偽善的紳士淑女を恐れさせ、中世のドイツ詩なんか随分古語のよめない人には知られない傑作があるそうです。暗黒時代と云われ、宗教があれ丈残酷な威力をふるった半面に、そういう豪快なところがあったのは面白いと思われます。それにつけて今くやしがることがあるのよ、動坂へ家をもったときビール箱に五つも本を売ったでしょう、あのときわたしの旦那様は「惜しがる必要ないよ、いい新版がいくらだって出るんだから」と仰云いまして、愚直なる妻は二つの驢馬耳で其を承り、ああ、おしがるには及ばないのだ、と考えました。ところが、それから十三年経ちました。或る日旦那様が、「ドン・キホーテ」をほしがって、ないかないかとせめかけになりましたが、そのとき、日本には紙そのものが欠乏いたしまして、本にさえ「日本紙漉史」という本が出来、芥川賞は「和紙」という小説に与えられるという状況になりました。清少納言が「白い紙」いとめでたしとかいて、中宮から白い紙を頂くと、よろこんで、何を書こうと楽しみ眺めたことも実感で肯ける時代でありました。「ドン・キホーテ」の美しい插画入りの二巻の大部の本の姿が、驢馬耳細君の眼底に髣髴いたしました、そして思いました、今あの本さえあったらば、と。しかし、後悔先に立たずと云った古人はこの場合も正しくて、驢馬耳細君が、十三年経ってくやしがってみたところで、金文字で「ドン・キホーテ」とあった二冊の厚い本は決して決して再び現れることはありませんでした。おそらく驢馬耳の御亭主は余り慾が無さすぎたばかりに、あった方がよい本が、その中にあるかないかもしらべようとしないで売ってしまったのだと思われます。
 ですからね、「ドン・キホーテ」や「プルターク」については、探すもくやしき一場の物語があるわけなのよ。「プルターク」だって全部揃ってもって居りました、カーライルの「フランス革命史」や何かと一緒に。そして、それらは震災にやけのこった本共でしたから、日本にとって決して意味ない本でもなかったのです。たしかに古い本の鬼面におびやかされすぎたのね。あわれ、その若武者も風車を怪物とや見し。
 柿内さんの云っていること、全くそうね。きのう三宅正太郎さんが、「へつらい」のない世相をのぞむのが自分の悲願だ、と云う話を発表して居られ、関心を引かれました。へつらいを、すべてのひとは軽蔑し、しかも殆どすべての人々がそれに敗けます。アランが「デカルト」をかいて冒頭にこうあってよ、「それはまだ屈従というものを知らない時代だった」と。へつらいのおそろしさはへつらいの心理が根本的に非節操的なものであるから対象が変るごとに何にでもへつらうということです。へつらいの愛国心が国を破るのはこの為ばかりです。柿内さんと同じような意味で、「隠れた飢餓」ヴィタミンの欠乏状態が前大戦のドイツをどんなにひどいことにしたか書いている医者がありました。「隠れた飢餓」と云うのね専門で。ヴィタミンの欠乏を。そう云えば、メタボリンはいかがでしょうか、もうない筈と思いますが。ともかく届けておきましょうね。
 二十三日のお手紙には珍しく詩話があって、大変愉しく頂きました。あの詩にはね、続篇のように、泉の歓びというのがあるのよ、あれは牧人の側からのですけれども、それはその森かげの温い泉の方からうたわれています。軟かな曲線で森にいたる丘のかげに泉はいつから湧いていたのでしょう。白いひる間の雲、色どりの美しい夏の夕方の鱗雲のかげが、泉の上に落ちました。或る大層月の美しい早春、一人の牧人がその泉に通りがかり、何ということなしそのあたりを眺めて居りましたが、渇を感じたのか、何の疑う様子もなく、その前に膝をつき、泉に口をつけました。泉は、日から夜につづいていた半ば眠たげな感覚を、その不思議に新しい触覚で目ざまされました。はじめ泉は、自分がのまれているのだとは知りませんでした。ただ、どこかから新しく自分の力をめざまさせる力の来たことを素朴におどろきました。そして思わず、さざ波立ちました。泉の上にあった月影はそのとき一層燦き立ち、やがて、くずれて泉の中に一つの美しい人影を照し出しました。それは、牧人でした。牧人は泉にずっぷりとつかってしまって、温い滑らかな水の面に、きもちよい黒い髪で覆われた頭をもたげ、水の快適な圧力に全身をゆだねました。泉のよろこびは微妙な趣で高まりうたわれて居ります、泉は、そうやって浴びられ、身をつけられて、はじめて自分を知りました。牧人のしなやかではりきった体は、泉に自分の圧力の快さを知らせました。次から次へわき出でて泡立つ渦の吸引は、そこに同じ快さによろこんで活溌に手脚を動かす体がつけられていて、はじめて泉によろこびを覚えさせます。暫く遊んだ牧人が小やすみをしに傍の叢に横わったとき、その全身にちりばめられたように輝く露の珠は、何と奇麗でしょう。
 牧人の自然さ、賢こさ、人間らしくよろこびを追ってそれを発見してゆく様子。
 あなたはあの散文詩を、あなたらしく多弁でなく要約して書いて下さったと思います。詩にあらわされる精神と感覚のおどろくべき奥行きと複雑な統一は全く比類ないと思います。それは本当にどっちがどっちとも分けられません。精神の力がそれほど感覚を目醒ましく美しくするのであるし、感覚のすばらしさが精神にこまやかな艷やかな粘着力を与えるのであるし。私たちのところにいろいろの詩集があるということは無双の宝ね。これは形容でありません。どういう形ででも高められた生命の発露は詩であり、私たちは単に貧弱な読者にすぎないというのではないのですものね。
 椅子をのりつぶしたこと、何とおかしいでしょう、そしてかわゆいでしょう。大方そういうことになりそうと思ったわ、そしてすぐバルザックが何脚かの椅子をのりつぶしたこと、思い浮べました。バルザックは誇りをもって手紙にかいているのよ、僕はもうこれで何脚目の椅子をのりつぶしたよ、と。
 島田ゆきのこと、あれこれ云って御免なさい。それは、ジャーナリズムの最高形容詞に、凡俗な読者らしく支配されているところもあろうと考えます。しかし今日のジャーナリズムというものを考えると、総本山は一つですから、つまり、そういう最高形容詞をジャーナリストに使うことを要求する力と心理とが支配的なポイントをにぎっているわけです。ああこういうのは、とりも直さずそういういきりたち精神そのもののあぶなかしさが原因となっているのよ。どんな人にしろ平時で想像出来ないとんちんかんが起ることは予想して居ります。そして其は必ず、その最高形容詞の精神のとちくるった発露にきまって居ます。十二月の九日に、あれほどの勝算に充ちていてさえ、あれ丈のつけたりをしたのですものね。それに、とちくるいは、謂わば心理的擾乱で決して合理的な推論から出るものではありませんから、決してそれが局部的であるとか連続的でないとか、そういう判断に立っての上のことでもありません。だから、知識水準の低いところほどおそろしいのです。
 あなたの占星術は合理的でそのものについてわたしは勿論どうこういうわけはないのよ、しかしね。それでも、もう決心しました。あなたはどうしても行った方がよいと思っていらっしゃるのだし、行けるときに行っておくべきのは明らかですし、参ります。もうこの話はやめましょう。行かなければならないから行くのに、多くいう必要はないわ。心からあなたの占星術の当ることを希望いたします。
 川越の方はお話した通り。ここもつまりは引越しますまい。御主人公の考えかたは、生活一新のための絶好の機会とか、程度の差があってもよりましな方という風にゆかず、新しい方を借金して買って(きのう買った人は十三坪の家(借地)六千六百円よ)さてこちらを処分するとなっても、そういうものの売買の統制のために借金が返せないということになりそうだからやめるという風の様です。子供らを国府津にやって一先ず安心してそうなったようです。あちらへ行く迄に、平塚、横浜等、通過出来なくなるところもあり、どうせ遮断されてしまいましょうが。マアそれならそれでいいわ(引越しのことよ)ここがどうなるなどということは土台わたしにとって問題ではないのですから。わたしの留守の間にこちらが原っぱになったって、そんなことはおどろきもいたしません、勿論無事を願うのは自然ですが。島田へのおみやげ大分あつまりました、何はなくとも、ともかくめいめいに何かと思ってね。周囲の若い女のひとがどしどし挺身隊に入ることになって来て居ります。歌舞伎のような高級娯楽は一年間停止、待合芸者やも廃業、高級料理店も停止。これはさもあることです。一般人の生活とはかけはなれてしまって、百円の食事をしたと大声に喋る人間は、時局屋ですから。遊廓はのこされるらしい風です。
 文学報国会で久米正雄や他の人が世話役で、作家の勤労者集団生活の舎監へのり出すことが進められて居ります。文士とやはりかかれています。二三十人先遣隊となる由。文学に全く関係のないひとが、「つまり救済事業ですね」と新聞を見て申しました。ガンジー夫人七十何歳かで獄中に生活を終りました。極めて感銘のふかいことです。どうであったにしろ、インドの人々にとって正直に生涯を捧げた典型が示されたのです。

 三月二十日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鶴ヶ岡八幡宮の写真絵はがき)〕

 さきほどすぐ事務所に電話して切符のことをたのみ、どうにかして寝台も買えたら買うようたのみました。しかしあとのは全く当になりません、私人では。お話していたところ[自注7]は中野区鷺の宮二ノ七八六です。特別何もたのまず出かけます。何も彼も用意すると何だか本当に帰れることがなくなるようで気味がわるいから。あなたのお金だけはお送りしておきます、森長さんへ電話します。到頭おやりになる、いやな方。

[自注7]お話していたところ――壺井繁治の家。百合子が顕治の郷里島田へ行くことになり、その留守中のために顕治に知らせておいたもの。

 三月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二十三日
 風が荒いけれどもそれも春らしいというような日になりました。今丁字の花が咲き、よく匂って居ります、目白の庭石のよこにおいて来たのも咲いているかしら。
 きのうは、どうもありがとう。余りな話だったので自分では十分耐えたけれども、眠れなくなって。すぐ露見するから大したものね、露見することが大変うれしいと思いました、観破して下さるということが、ね。
 けさは、国府津引上げのため、こちらにいたひとも呼出しで、国の朝飯のことしてやり乍ら、心から感じたのは、こうやって台所で働き、みそ汁をつくり香のものを切るならば、わたしはその人のためにこういうことみんなしたい人があるのに、と。まことにまことに切にそう思いました。そして又思いました。同じ親をもって生れたということは不思議だと。生活の条件の相異でこうもちがうものか、と、氏より育ちをおそろしく思いました。
 今度のことは余りのことだから、わたしとして譲歩いたしません。きっとこうなるのよ、今に。Kは事務所を閉鎖してしまい、自分も開成山へゆき、ここは全然なくするから、私は東京にいるならいるで云々と。来年まで待たず、そうなるのではないかしら。国府津は貸すでしょう。段々にそういう準備もいたします。もう少し丈夫になって、神経が調子よくなれバ、わたしも何かすることが出来るでしょうし。この秋までは余り頭や気をつかうのは無理だから。でも考えてみれバ、いいかげん世間の人の倍は此までつかっているわけね。
 ハガキでかいたにくまれ口は、笑いながらにらむ、という程度のものよ。(念のために)
 今は丁度学生が休みになったので、駅は徹夜で行列だそうです。特に遠方は猛烈のよし。じぶくっていたうちに、こんどの話のようなことおこって、何といてよかったでしょう。国は寿の知らないうち、除籍する方法はないかと云った人だから、(この上迷惑を蒙らないための由、寿がどんな迷惑をかけたでしょう、それほどの)うっかりすると、帰って来ようとするとき手紙が来て、姉さんはとりあえず国府津へ転出しておいたから、などということになりかねませんでした。こんなことの虫の知らせとは予想もしませんでしたね。きのうばかりは、あなたもふうむ、ふうむとおうなりになったから、気の毒なかざらしのさ百合が凋んだのもうべなりでしょう。
 疲れたようなところだから、十三日のお手紙にある万葉のうた、くりかえしよみ、いい匂いをかおるようです、うたそのもののまじりけのなさ、そして、其が又書かれているということについての動かされるこころもち。いいこころもち。ね。三つとも燦々として居りますね。(後も逢はぬと思へこそ)の歌に浮ぶいくつかの情景もあります。
 そこには、天から芳ばしい紺の匂いが夢のなかにふりかかって来たような朝があります。西日の光に梢のかげがゆらいでいる障子もあります。霧の濃いなかでき火の火がボーと大きく見える夜もあります。「うるはしみすれ」というようないい表現を日本人ももっていたのだとおどろきます、心と感覚とが全く一つに発露して居ります。万葉の人々は「昼もかなしけ」と流露して、妹のことばを肯いで(でも追補は書かなかったでしょう)と思ったとき、実に笑えたわ、あの時代の人々は「紫の野ゆきしめの行き」、大してむつかしいことがなかったのね、ですから追補はいらなかったも道理です。追補のいるときは「浅川渉り」会って表現したのですもの。
 あぶらの火の光に見ゆる、一首はまるでその時分の生活全幅が描かれるようです。周囲の夜の暗さの太古的な深さしずけさ。「あぶら」の火の珍しいキラキラした明るさ。しかしその光の輪はせまく、集う人々の影を大きく不確かに動かし映るなかで、蘰のさ百合の匂やかな大きい白さが、男のひとの額の上に目立つママ暗の美しさ。うれしさが明暗のアクセントのうちに響いて居ります。蘰は女のひとがおくるものだったと思うけれども。
「笑まはしきかも」に愉悦が響いて居ります、様々のやさしい情がこめられて。
 第二巻はまだよんで居りません。三つのうたは初めてで、古歌と思えぬ瑞々しさです。うたを覚えられない私でも、この三つともう一つの「幾日かけ」は忘れますまいと思います。この十三日のお手紙は十五日のと一緒に、十九日についたのでした。
 体のこと、確に営養のこともありますけれども、この頃はいい方よ。(食べるもののこと)生活のプリンシプルが、いろいろためてしまっておく趣味でなく、食べものは食べられるとき食べる、というたて前でわたしはやりますから、それこそ、今のまさかにゆるがせしないから割合ようございます。わたしが知らないで、しまわれているまま腐ったりしているものがありませんから。その意味でこれからは今としては最上というところでやれそうに思って居ります。魚や肉は配給以外うちは暗いものなしですからきまっているが。小松菜でもまきます、樹のかげというけれども日向のここへ一うね、あすこへ一うねと、パラリ、パラリとうなえばいいのだわ、ねえ、何も四角いものつくらずと。わたしがいろいろやるときっとすこしは動きが出るでしょう。ものにも気分にも。小松菜も蒔こうという気になったのだから、余程丈夫になったわけでしょう、ひとりでに動くのね、そうやって。
 岩波文庫の『名将言行録』は渡辺町へでもたのみましょう。文庫は殆ど市中へ出ず売切れます、ましてや今度「不急出版物一時停止」ということになりましたから。紙を最も功利的に使う本やの工夫で美術や専門技術の高い本が出たのがついこの頃の現象でしたが。この四年ほどのうちに出版もひどく波瀾いたしました。インフレーションと云われ、I・Tが財産こしらえたころから。戸塚が生活を破綻させ些か新潮に儲けさせた段階、その次の十五銭本か小説か分らない作品集の出た時代、それから美術、技術本、そして只今。
 今は人々が、ひと通りの気のよさ、親切、教養などの底をどしどし抜かれていると思います。そういう一応のもののよりどころない口約束みたような本質、一定の条件の限りでの礼儀エティケットのようなものが、皆たががはずれて、ひどい有様ね。親切というこころがいつしか本人も知らないうちに、利用価値にのりうつっていたり。こわいことね。信義というようなもののめずらしさ。
 島田へは、行かないときめたときおみやげ送っておきました、母上と友ちゃん、草履(いいのよ、なかなか)達ちゃんへはしゃれた紙入れ。子供たちに積木と本。野原へは、二人に草履。冨美子は卒業ですから、本。役に立ちそうなのを集め八冊ばかり。かなりのものよ。岩本には薬の世話になるから先生に紙入れ(いかにも年輩の校長先生向なの)奥さんに帯あげ。上の娘帯どめ、下の娘机の上の飾り、男の子切りぬいて作るグライダー、という次第です。来年どうなるか分らないし、私は益※(二の字点、1-2-22)貧乏でしょうから、ことしは、おみやげをけちけちしないで準備いたしました。小包あけて、きっと不平な人は居りますまい。
 この頃鉄道便をうけつけませんから誰彼なしに小包つくるため、ユリお得意の小包作りに紙がありません、売らないのよ。咲は紙やのかみさんに、局が受つけ個数制限していて朝でもう〆切りですよ、と云われたそうですが、さほどではないようです、但小さい局のしかしらないけれども。チッキが番号札もらうのに徹夜の由。うちの連中、あさって行くのにどうするのでしょうね、又誰か夜どおしさせられるのかもしれず、ひどいごたつきでしょう。どっちみち二十五日におめにかかります。

 四月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月七日
 ああ、しばらく。本当にしばらく。先月の二十日すぎ手紙をかき、あれから毎日落付いて書きたいと思いながら時がありませんでした。こんなことは、マア私たちの生活がはじまって初めてのことね。今来客と一緒に出て、ちり紙の配給を坂下までとりに行って、かえりにフリージアの花買っていそいで二階にあがって来たところ。もう四時半まで一時間半ほどは何があってもここは動かないつもりです。(と書いたでしょう? ところがその間に八百やとトーフと二度よ。)
 さて、咲枝子供たち出かけたこと(二十五日)は申しあげましたとおり。
 二十六日になって、何となくしずかだし頭の上がカラリとして、ふと気がついて見たら、咲がどうしてあんなにあわててけとばすように、今この勢という風に行ってしまったかが忽然として会得されました。一種の逃避だったのね。
 三十一日に手つだいのひとも居なくなり、わたしと国男。国は三十一日に汽車の都合で帰ったが、その晩は私が留守だったというので友人宅へとまり二日にかえり、三、四、五とよそへ泊って昨夜久しぶりで在宅。私は、丁度こちらへ引越したり病気したりした間に、配給の様子が分らなくなっていたから、急に全部一人でやって大疲れです。おとなりの人たちがよく助けて下さるのでやれますが。でもこう思っているのよ、どこで一人で暮したりするにしろ、やはり同じくパタパタで、しかも手助けしてくれる人もないのでしょうから、これが今の市民生活の実際だと思ってね。朝七時におき御飯のことして、それから国がダラリダラリと仕度して十時すぎになってやっと出かけます。今日は、そしたら手紙とたのしみにしているところへペンさんね、あれが来て、やはりきいてもらいたい愚痴。でもそう云って笑いました。この頃は二円のクリームに三円八十銭の不用な香水をつけて買わされるのだから、ひとの境遇にも同じようなことが起って、わたしだって巣鴨へ便利で市内で、電話があって、余り危険でないという住場所の必要のために、此だけの辛棒しているのだから、あなたもそう思いなさい、と。そんなものね。
 余りむしゃくしゃしてたまらないと、気つけ薬をかぐように、あの万葉のうたを思い出します。それは新鮮で、いい匂いがして、生々としたそよぎを送ります。自分に向って、かざらしの小百合よ、と思うのよ、いまのまさかに、どんな顔して気持でいるのかよと思うのよ。
 この三四ヵ月の間の私の手紙を並べて思いおこしてみると、世相と共にこういう難破船の崩れてゆく速力のはやさがまざまざでしょうと思います。去年の秋ごろ、先ず細君という積荷の繩がきかなくなって、甲板の上をズーズー、ズーズーと大すべりにすべり出し、寿江子というものが到頭船から落ち、最後に、私が、しっかり荷ごしらえしているために辷り出しはしない代り、船の大ゆれの最後にのこった形です。
 誰も深くその経過を省みず、考えず、ただ心理的に行動して、疎開とかいろんな名目で云われ、とりつくろわれていますが、本質はこういう地盤と条件の生活の急速な消滅の途です。処置のようだが実はその域を越して居ります。
 そういう空気の中ですが、けさは小さい畑にホーレン草の種子をまきました。あしたの朝は不断草というのを蒔きます、朝の落付かない時間の仕事にいいし。
 この頃は省線小田急なども時間で切符制限して居り午前六―九。午後四―七は通勤人でなくては駄目。汽車も回数券はなくなり、定期も通勤証明です。千葉の往復も大変になります。
 この次の手紙は程なく書き、そして生活にいくらか上手になったことのわかるのを書きたいと思って居ります。

 四月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月八日
 もう梅雨のような雨でした。大笑いよ、わたしが朝飯前に畑へ種子を蒔いたりしたから忽ちだ、と。けれ共いい工合にこの位の雨であったら蒔いた種子が流れ切ってもしまいますまい。あんまり黒煙濛々たる手紙さしあげたから、すぐつづけて、マア其なりにどうやらすこしずつ手に入って、台所で煮物の番をしながら本をよむ気にもなって来たことを御報告しなければ相すまないと思いまして。
 台所用の本(!)はトルストイとドストイェフスキーの細君たちのメモアールを集めたものです。やっぱり夫婦はこういうものなのね、トルストイの夫人はギクシャクなりに文章や考えの構えかたにスケールがあって、跛ながら旦那さんの風をついていますし、ドストイェフスキーの細君はひどく素直で、わたしわたしというところがなくて、書きかたは御亭主の小説の成功した部分のように一本の糸の味のあるうねり「貧しき人々」などの味に通じたところがあります。トルストイの細君はおそろしい位良人の内部を理解して居りません。こわい、熱烈な、大きいとさかの牝鶏よ、どっさりの子供を翼の下に入れている意識で牡鶏に向ってわめくところがあります、ドストイェフスキーの細君は、つつましいと表現され得る女のひとであるらしい様です。でも、今、一八七二年のこと、という章をよんで、胸うたれ、これを書きたくなりました。この年はドストイェフスキーは「悪霊」を書き終り、それによって彼のスラブ主義を完成したのですが、『市民』という月刊雑誌を或る公爵の出資で出しました。それの仲間があの有名な日曜日を仕組んだポベドノスツェフだったのですって。それを細君は、こういう人達と働くことはドストイェフスキーにとっても魅力のあることでした、と何の罪なく書いて居ります。ドストイェフスキーという人間は、人生に迷って不幸から脱却したいとき、結婚するか賭博者になるかパレスチナへゆくか三つに一つと考えたのだそうです。そして、一つを選びその細君と結婚したのだけれども、最後の「悪霊」は実に意味深長な作品であったと沁々思います、そういう点にふれての彼の伝記はホンヤクされているものではありません。トルストイは矛盾だらけにしろ、そういう仕事はきらった男でした。その一つの点だけでも彼の人間はしゃんとしていたと云えるでしょう。
 きょうは、もう十日(月)です。きのうは国が家にいて、台所の天井の窓のガラスがこわれていたのを直したり、カマドの灰かきをしたりしてくれました。ガラスがこわれたところから雨がバシャバシャおちて、タライをおいても洪水でした、下駄ばきで台所やって居たから直って全くさっぱりしました。
 三十一日にひとりになってから、十日経ちました。段々手順が分って来て、大体朝七時半ごろから十二時すぎ迄で一かたつけて午後は四時間ほど、自分の時間にしようとしてやって居ります。家のことを四年しなかったうちに全然様子が変ってしまいましたから、今又台所やるのは私に或はいいことでしょう。配給の様子も一つ一つはっきり分るし、不如意な中でやりかたも覚え、これから更に不便な生活をしなければならないためのケイコに有益です。台所も何となし自分の息がかかるとよくなって、今棚の上のコップには可愛い「ぼけ」の枝がさしてあります、台所をさっぱりと整った優しいところにするのは大切ね、女のひとの一生は一日少くとも十時間は台所で暮さなくてはならないのですもの、お目にかけられないところとする日本の習慣は間違っていると思います。そこへ友達も来て、何か働いていながら話もし、本でもよんでくれていいところだと、どんなにいいでしょう。そして女の馬鹿になるのが防げます、湿っぽい、面白さのないところで一人でポシャポシャやっているとき旦那は火鉢に当って談論風発で、十年経つとあわれこれが女房かとなってしまうのね。御用ききというものが来ないのは至極ようございます、今の暮しは一日に七八人のお客ということもないし、疲れすぎないコツを会得して、やれそうです。眠り工合がちがって深く深く眠ります。きのうは傘さして菜っぱをとりに湯島一丁目まで行ったら、私なんか力のないこと、一貫五百匁ほどの包みでフーフーで咳が出る位(ドキドキするから)でした。自転車にのれたらと思います、でも目が不確かで速力が不安なうちは駄目ね。
 あなたが家事衛生のこと、おっしゃっていましたが、こんな実習がはじまろうとは思って居りませんでしたね、お互様に。こうやっていててつくづく自分もいろいろの生活で、こなせるようになって来ていると感じ直します、つまり苦労して来たのだな、と思いかえすようなところがあります。そしてそれは自分の実力ということで感じられるのはうれしいと思います、女中がいない、忽ち上ずってしまう、という生活力では情けないわけですから。でも心もちは意地わるいものね、こんな暮しがはじまると、何と勉強したいでしょう、じっくり腰をおちつけて物もよみたいと思う気が切々です。それが困るが、大体からいうと、人的交渉から苦しい刺戟を絶えず得ているよりも、この方が体のためには悪くないかもしれないと考えます、体がこの位くたびれると机に向って根のつめる仕事は出来ません、読書にしても、これが永続しては、やはり私として本末の顛倒した生活ということになりましょう。国の方は防衛局の仕事がなくなると同時に事務所もとじる計画らしいし、仕事のなくなるのは防火壁をこれからこしらえたってはじまらないという時期が来ればすぐなのだし、どこもかしこもそんな風な日暮しですね。
 寿は長者町に落付く由。それがいいでしょう、わたしがこんな暮しかたをするようになったら、長者町に落付く決心をして、なかなかこまかく考えを運んでいると思いますが、私として、当てにしていないのだから、結局落付いてくれる方が安心です。姉のこころ妹知らず式のところもあって。わたしは一家の中で殆ど術策を弄さない唯一の人間よ、生活の運びで。私のよろこび、わたしの苦痛、わたしの貧乏、それは天下御免で大っぴらで、弄すべき術策を必要といたしません。それは今日にあって大きい幸福です、自分の性根をこのカンに腐らせないでゆける道ですから。Sが人相が変り悲しゅうございます。抜けめないところばかり出ている顔して歩いていて、往来で会って、その人と思えないようでした。ダブつき条件でだけ出来ている鷹揚さ、ひろがりなどというものは、何と急速にはげてしまうでしょう。気くばりと抜け目なさだけの顔してむこうから歩いて来るSを見ると、胸がいっぱいです。あのひと鏡もってるのかしら。人は折々よくよく自分の顔を、検査しなくてはいけません、画家が自画像をかくように、他人の顔として調べなくてはいけません。自分の弱さ、下らなさをそうやって見張り、又いじらしさをいつくしんでやらなけれバいけません。
 手紙いつ書いて下さったかしら。わたしも御無沙汰いたしましたが。この頃は毎朝カタカタと門まで郵便出しに出てゆくのよ、よくよくのぞいて、まだ来ていない、と思って、石じきを犬にじゃれられながら戻って参ります。あの石じきの両側には、今山吹の芽がとんがった緑でふいて居ます、いい紅色の楓の稚葉もひろがっていて、石の間には無人の家らしく樫の葉が落ちて居ります。
 夕方なんか、ふっと待っているところへ入っていらっしゃるのはあなたでありそうな気がしたり致します。目白のもとの方の家の二階の灯の下で待っていたのを思い出します、アンカは小さくても足の先は暖かでしたね。
 きょうは、日がさしはじめたけれどうすら寒いもので、可愛いアンカ思い出したのでしょうか。
 では明日ね、風邪をお引きにならなかったでしょうか。

 四月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月十六日
 きょうはいかにも若芽の育つ日の光りです。咲が帰って来て殆ど一週間わたしは公休でしたから、疲れもやっときのうあたりからぬけて、きょうはげにもよい心持です。久しい久しい間こんなにのびやかで、しずかで愉しい、気持ございませんでした。
 きょうはね、一日ゆっくり二人遊びで暮せるのよ。素晴らしいでしょう。あっち二人は国府津の家を人に貸すについてとり片づけに出かけました。月曜の夜かえるでしょう。うちにはわたし達、あなたとわたし丈なの。それにわたしの疲れは休まっているのですもの。七時頃いい心持で眼がさめて、お喋りや朝のあいさつをして、なかなかあなたの御機嫌も上々のようよ。
 すこし床の中にころころしていて、それから降りて来て珍しく紅茶とパンをたべました。パンがやっと配給になりましたから。但しお砂糖はこれ迄〇・六斤のところ又〇・一斤減るそうで、決して安心してサジにすくえません。でも、きょうは、こんなにうれしい日なのですもの、いいわと自分に云ってお茶をのみました。
 庭へ出て、今ボケが咲いている、それを剪って来て小さな壺にさしてテーブルの上において、その花の下蔭というような工合でこれを書きはじめて居ります。
 食堂にいるの。大きいテーブル、長さたっぷり一間ほどのテーブルですが、その長い方にかけていると、左右に十分翼があるので大変工合ようございます。いろいろの人がこの位の大長テーブルで仕事したのがわかります。ペシコフもこの位の机よ。この位の机をつかったのがトルストイやペシコフで、チェホフのヤルタの書斎にあった机はもっと小さかったのも、何かその人々の特徴があるようで面白うございます。白と藍の縞のテーブルかけがかけてあるので、ボケの花の薄紅やみどりの葉の細かさもよくうつります。
 十日のお手紙ありがとう。あのお手紙のかきぶりを大変心にくく思いました。ああいう風に慰めるものなのね。そしてそれは本当に与える慰安であって、愚痴のつれびきでないというところを感服し、一層なぐさめられました。十日のお手紙の調子全体は、ブランカのいろいろをすっかりわかっていて、その上で、一寸こっち見て御覧という風でした。なんなの、と見て、おやと思って、眺望の窓と一緒に心の窓もあいたようになって来る、そういうききめがありました。〔中略〕わたしは二十年以上もこんな気分の、不安定な家族の中で暮したことがなかったから、出直り新参です。新しくやり直しというところね。しかも私の条件が変って居りますからね。お客に来ているのではないから、ね。
 火曜日にはすこしのんびりした顔つきを御覧に入れられると思います。
 わたしの畑のホーレン草は、さっき花を剪りに行ったとき見たら、ほんの毛のような青いものが見えました。あれが芽でしょうか。心細いがでも生えるでしょう、一年めは駄目の由です。肥料をよく注意しましょう。ここでも、あっちこっちにつくると結構出来そうです。うちに子供たちがいなくなりましたから犬やこんな畑や気持の転換になります。籠の小鳥はどうしても苦手よ。囀る声はこんな天気の日の外気の中にきくのはわるくありませんけれど、それよりも時々山鳩や赤腹や野鳥が来ます百舌鳥も。その方が林町らしくて面白うございます。そうそうこのお盆に南瓜の種が五粒あります。これは隣組配給よきっと。この週は南瓜週間なのですって。週間の推移様々なりと思います。わたしは南瓜をすきと云えません、けれ共ことしはちゃんと植えます、前大戦のドイツはインフレーション飢饉で二十万死亡しました、それは御免ですから。このあたりの隣組は全くわが家専一で、家の中のカラクリは垣根一つこちらからタンゲイすることは不可能です。したがって飢じい思いをしたり、ひからびたりするのはお宅の能なしということなのよ。凄いでしょう? 飛び散ってしまえば其までながら、さもなければ、私はまだまだ小説を書かなくてはならないのだから、南瓜でも豆でも植える決心です。それでも、こんなものはかよわいものですね、ドシャンバタバタの下に入って、猶も青々しているなんて芸当は出来ません。そう思うと、土の中に埋めるものはノアの箱舟のようになります。ノアはあらゆる家畜一つがいずつを入れたが、日本のブランカは、焦土に蒔く種も一袋という風に。やけ土はアルカリが多くなってよく出来るかもしれないことよ、但し蒔く人間がのこればの話。
 天気がうららかとなって、一つなやみが出来ました。まだ眩しいのです。光線よけをかけなくてはなおりそうもないの、痛い位だから。傘もささないと苦しいし。駄目ですね、キラキラした初夏の大好きな美しさにあんな眼鏡かけるなんて、しゃくの極みです。あの眼鏡ごらんになったわね。嫌いでしょう? 眼のニュアンスは眼鏡かけている丈でさえ損われている上にね。〔略〕
 この間護国寺のよこの、いつも時局情報買っている店でヴェラスケスを見つけました。ヴェラスケスの自画像があってね、それはゴヤのあの畏怖を感じる慓悍な爺ぶりでもなければ、セザンヌのおそろしい意欲でもないしレンブラントの聖なる穢濁の老年でもなく、いかにもおとなしくじっと見てふっくり而もおどろくべき色調の画家らしい自画像です。
 ヴェラスケスの絵はたのしい絵ですが、ウムと思うのはゴヤです。ゴヤはヴェラスケスが描いたフィリップ四世のデカダンスの後をうけて全く崩壊したスペインに、愛着と憤怒とをもって作品をのこした画家で、あの時代として男の中の男というような男ね。淋漓というようなところがあります。声の響のつよさが分るような、面白くねえという顔した胸をはだけた爺よ。それであの優婉なマヤ(覚えていらっしゃるかしら、白い着衣で長く垂れた黒い髪した顔の小さい女が、ディヴァンにのびのびとして顔をこっちに向け、賢くておきゃんで皮肉で情の深い顔しているの)を描くのですものね。ヴェラスケスはセザンヌとちがうが純絵画的な画家ね。ゴヤはちがいます。ゴヤは表現の欲望そのものが、なまに人生をわしづかみにして来てしまうたちの男ね。描く女も従ってちがうわ。ゴヤの女はどれも女の肉体に衣服を着て、その肉体はいいこと、わるいこと、ずるいこと、うそさえ知っていて、しっかり大胆にタンカも切って世をわたっている人たちです。大公爵夫人にしても、よ。ゴヤの女たちが、みんなしなをしていなくて、二つの足を優美ながらすこし開いて立っているのは、何か人生への立ちかたを語って居ります。ヴェラスケスやヴァン・ダイクは衣服の華美さを、絵画的興味で扱っていて、人間が着ていて、裸になったって俺は俺というゴヤ風のところはなく、顔と衣服とは渾然一つのをなして居ります。小説家はゴヤに鞭を感じます。
 こんなに色刷の貧弱な絵の本ももうこれからは何年か出ますまい。そう思うと十年以上前に大トランク一つ売った絵を思い出します。パリで妙ななりをしていても、これ丈は、と買ったのですが。惜しいのではなくよ、どこの誰がもっているやら、と。いずれは日本の中にあるのだから、わたしも日本の美術のために数百円は寄与したわけです。マチス素描集なんかがどこかでヘボ野郎の種本になっていたりしたら笑止ね。
 ああああ、どうしても歯医者へ行かなくてはならなくなりました、上歯の妙なところに穴がポッカリあいてしまったわ。
 歯医者へゆくとわたしは全くいじらしくおとなしいのよ。眼医者へゆくとしおらしく不安なのよ。歯医者は、肴町の近くのところへゆきます。メタボリンが岩本さんにも手に入らなくなっている由、「万難を排して」買って下さる由、県視学となって下関へゆくそうです、頂上の立身でしょう。下関とは、しかしこわいところね。お祝いを云ってあげなくては、ね。豚娘(!)さんが赤ちゃん生んだそうです。女の子をこう謙遜して云われると笑い出してしまいます、西郷南洲を見込んで好いた女は豚姫といったのですって。

 四月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月十六日
 ね、二人遊びは面白いでしょう、きょう一日あなたは私のするいろんな細々したことのお伴で、夜床に入らなければ放免にしてあげないという工夫です。
 さて、さっき始めの封をしていたら、庭の方からカーキ色服の男の子が現れて、「魚やの配給です」「ああそう、どうもありがとう」「僕とって来ましょうか」「ありがとう。でもきょうは居りますから自分で行きます。」この男の子は裏の洋画家の長男です。父なる画伯は縁側に坐っていろいろの絵をかきます。その仕事ぶりは笑えないわ、そうやって描いて一家六人をやしなっているのです。
 前のポストへ手紙を入れ、これを(十七日)けさ又受けとったのよ、七銭不足の由で。三銭四銭と恥しいほど長くはりつけることになりました。前かけかけたなり目白でやっていたようにカゴを下げて犬をつれて団子坂下を一寸むこうに突切った魚やへ行きました。魚やは初めてよ。三人で冷凍のタラ三切。三十銭也。となりの文具やへよったら封筒らしいものは一つもなし。坂を又のぼって下駄やへよったら隣組配給になるのですって。九日から二十五日までにさばいて警察に届けるのですって。下駄やの斜向うに菊そばがあります。ゆうべかえりにそこ丈明るくて男や女がワヤワヤ云っていたの、何かと思ったが、見ると今晩軒という札が出ていて午前十一時より千五百人売切れとあります。ホーレン草の束を運びこんでいます、「今晩軒て何が出来たんでしょう」「雑炊です」「まあ菊そばが今晩軒になったの」「いいえ、代が変って菊そばは引こしちゃったんです」あの下の方のところには土間に板の床几が並んで居ります、ホーレン草の入った雑炊売るのね。附近の人は大助りでしょう。外食券なしで買えるし、食べさせるのですから。いずれはうちも十一時までだから十時半などと云って団子坂の上まで列に立ったりするのでしょう。
 魚やから戻って、これから一寸することがあるの。小遣帳の整理です。小遣帳たるや、この私に二冊もあるのよ台所用。自分用。この頃は、出たところ勝負で買っておきたいものがありますから。そしてこれは、こんなものいるのかというようなもので。例えばね、この間、そこの帰りテープ買ったのよ、ゴムの。下着用の必需品。これが立売りしかありません。細いの一尺五十銭、やや太いの七十銭。六尺五寸ずつ(たった二組ずつのためです)それが七円八十銭かでしょう? これですもの。
 立売りは面白い現象です、アホートヌイ・リャード[自注8]に一杯立売りが並んでいてね、塩づけ胡瓜、卵、キャベジ、肉、殆ど何でも売って居りました。胡瓜なんかの価をきくときはパ・チョム? の方を使って、スコーリコとはきかないのね、スコーリコはもっとまとまったもので、百グラム何銭にいくらというような食品なんかみんなパ・チョムでした。それが一九二九年の十二月、西からかえったら[自注9]、一人もいなくなっていました。全くあのときはホホーと思ったものでした。
 夕方になったら冷えて来て、わたしの鼻の中が妙に痛くなって来ました。薄ら寒いのよ。これは風邪の下地です。もう五時四十五分ですからわたしも夕飯こしらえて、たべて暖くして早く横になりましょう。咲は火曜日にはどうしても帰るのですって。そしたら又わたしの司厨長よ。ですから風邪は迷惑です。
 これから台所へゆきます、何をたべましょうね、有っての思案ではなくて無くての思案よ。忽然として天に声あり、エレミヤのラッパのように鳴ります、「カロリー。カロリーを忘れるな」と。笑ってしまうわね。鞠躬如として答えます「ハイハイ、油気が入ればようございましょう、油は貴重品ですから」と。よって、油で御飯でも焙めてたべましょう小松菜の切ったのでもまぜて。こんなところが上々の部ね。
 御報告いたします。御飯いためにタラを入れました。いいでしょうそれなら。タラは一切れで何カロリーとは云えないけれど、いいのよ。いいことは。
 さて、今湯タンポのお湯をわかしています、これがわいたら上りましょうね、あなたももう下に格別用事がおありになりもしないでしょう。きょうはふとん干してポコポコです、風邪ふせぎに丁度ようございました。天気さえよければ干すので、色がさめて気の毒よ。動坂で使っていらした茶色縞ね、あれをまだ丈夫でつかって居ります。それと、西川かどこかでお買いになってあちこち旅行した草花模様の。あれ二つです。よく永年用に立って可愛いことね。色はさめても香はのこるというわけです。
 お湯の音がしはじめました、ああうがいもして臥よう、ね、このようにわたしは養生やです、それは本当よ。まだ時間が早くてあなたはまだ本でもよみたいかしら。でもどうか今晩はつき合って下さいまし。ああふいたふいたお湯が。
 どうものどが渇いてしまって。仕方がない、下りて何かのみましょう。鼻の奥の痛いのはなおり、一眠りいたしましたが、これはすこし本ものね。あしたきっと喉がいたいわ。今十一時半ばかりです。島田から頂いたエーデルがほんのぽっちりのこっているのでものみます。
 さっきは湯たんぽを当てて、すぐぽーっとなってしまいました。
 こんな風に暮してみて分りましたが、もし万一ここがやけのこって焼けた人々と共同の生活をするようなことになれば、この食堂と客用の手洗場とをこめた一角を使うと、なかなかコンパクトにやれると思います、ここにガスの口があります(もとストーブ用のが)それに手洗場の水道をつかって、外のすのこを流しにすれば。でもほんとうにどんな生活がはじまるのでしょう、歯は早くなおさなくては、其につけても。痛まずかけました、私の歯はよくそうなのよ。
 ゴビの砂漠という写真帳をかしてくれた人があります、学術探検隊が行ったとき読売の写真班がついて行ってとったのです。ヘディンの蒙古に関する記録をよんでこれを見ると面白いのでしょうが、そんな気おありにならないでしょうか。うちにヘディンはかなりあります、『馬仲英の逃亡』『さまよえる湖』(ロブ湖のこと)『熱河』など。上二冊の部分ね、ゴビは。大気のよく澄んだところの写真はきれいです。ラマの祭りの仮面踊りはアイゼンシュタインの「アジアの嵐」という映画にあの時代らしい手法で、比喩的にフラッシュで使用されていました。蒙古人の食物も不味ではない由。青いものが少いらしいのね、しかし牛乳製のものが主食だからいいのでしょうが。レーニングラードに蒙古人で日本の父をもっていると称する女がいました。全くの蒙古人の証拠に、日本語の発音の自然な適応性がちっともなくて、顔つきもこの写真帳の女のようだったわ。ふしぎな女。医者でしたが。
 十七日、きょうもいい天気です。美しい光線です。けさ新聞に、林町と道灌山の間が建物疎開地域になって居ります、そうでしょう、このあたりは入りくんで人が一人やっと通れるような道で抜けていたりしますから。それからあの動坂と林町の間のゴチャゴチャ区域。あすこも危険地帯です。本郷は菊坂辺もそうの由、わかりますね。林町の裏には大きい貯水池が出来て居りますが。
 喉は、夜中に湿布してきょうは快方ながら油断無用と申すところ。明日ドラ声女房で現れないためにね。二人あそび終り。

[自注8]アホートヌイ・リャード――百合子がソヴェト同盟滞在中に知った場所。
[自注9]西からかえったら――百合子が西ヨーロッパからソヴェト同盟へもどったこと。

 四月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月三十日
 きょうは、又、のんびり二人遊びで暮そうと金曜日から楽しみにして、先ずその前祝いとして昨夜は九時に床につきました。全くぐっすり五時間ほど眠って一寸目がさめ、ぐっすり五時間眠ると一通りは眠ったことになるらしいのね。暫くパチクリして、ああ何と伸々していいのだろうと、床の中でうれしくのびたりちぢんだりして、雨戸すこし明け、朝の空気入れて又眠りました、すると、中條サン、中條サンと裏の画伯の妻君の声で、おきて手すりから見下すと、満開の山吹のしげみを背景に「ボークー演習」と小さい声で怒鳴ってくれました。「あら! 今日になったの」「そうですって」そこで遑てて紺モンペはいてへんな布かぶって、かけ出しました。七時半から九時半まで。きのうだったのよ。きのうは国が居りましたから「たまに出た方がいいわ」「うん」というわけだったのが、七時にサーッと降って来ました、それでおやめ。十時に晴々とした天気になりました。「いいとき降ったネエ」しんから嬉しそうです、というのは十一時五十五分でカバン二つ両手にもって水筒さげて開成山へ立ったからです。すんだと思っていたのよ、ですから。でもいいあんばいに大したことはなくて終了。しかし、きょうは防空壕の検査があるといので、モンペはぬがずいると、十時半ごろ警防団員、警察官三人で来ました。「ああ、これなら安全です」よかったけれど、バクダンは、これらの人々のように物わかりが果していいでしょうか。あやしいものね。こうやって、若々しい楓の枝かげに、を出したばかりの春の羊歯シダの葉に飾られてある壕は風雅ですが。十分深くもあるようですが。
 それが終り一仕事片づいたわけです。十一時に河合の春江という従妹が来ました。咲の姉よ。一番わたしと親しくして、今つかっているペン(赤い軸の。覚えていらっしゃるかしら? モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)、ベルリン、ロンドンと一緒に旅したペンです、そして、様々の夜昼を共にもして)をくれたひとです。おくさんらしく用で来たのですが、わたし一人ときくと(電話)「アラマア可哀想に、じゃおひる一緒にたべましょう」と食料もって来てくれたわけです、一緒にパンたべ、玉子もたべ(大したことでしょう)ゆっくりして、いろいろ家のこと、その他(鶯谷のすぐそばで沿線五十メートルの中に入り家がチョン切れることになったので)話し、今、息子からさいそくされてかえりました。
 そこでわたしはお握りを一寸たべて、早速かけこんで来たわけよ、あなたのところへ。ああ、やっとよ、というわけで。
 さっき、その従妹の来ている間に配給のことで二三度立って、その一度は外へ出て、二十七日づけのお手紙頂きました。ありがとう。
 体のこと心配して下さるから、きょうは、二人遊びの中にすこしこんな話も交えましょう。
 疲れることは、相当つかれます。しかし、御承知の通りの家の中のゴダクサつづきで去年の夏から心持よくしっとりした日というものがなく、巣鴨へゆく時間だけが一番心理的にも健康というひどさでした。やっとこの節一段落で、自分の体のための食事についても遠慮したりしないでよくなって、公平に見て、こんな単純な体のつかれと、今の暮しかたから得ている心持の伸びやかさ、合理さ、食事の合理性と、釣りかえにならぬプラスがあると思います、この頃の日常というものは、けわしくてね。先頃のように十分働く必要もないのに、いなくてはならないという雇人の人たちに、奥さんが落付かないまぎれにおだて上げて万事まかしていた状態は、云ってみれば生活でありませんでした。
 ほかの友達たちも張合のある気で親切してくれます。自分が、きりもりしていますから、今日は疲れていると思えば、そのように注意して食べ、さもないときは次の用意にまわしておくと、万事一目瞭然で、ほんとうに心持よい暮しです。夜は十時ごろ必ず眠ります、そして眠りは深淵のようです、病気しなかった頃のとおりで、夢もみないという位になり、これもわたしはうれしゅうございます。そして又うれしいことは、誰でもこの家に出入りする人は家の新しい活気をひとりでに気づいて、「一人と思えないわね、何だか賑やかな気分よ」ということです。これは千万言よりうれしいわ。こんなガラン堂のような家が、私の暮す気分で艷をもって家じゅう荒涼とはしないで、却ってしっとり艷があるなんて、どうか旦那様も扇をひろげてよろこんで下さい。その艷は、廊下にゴミがあるということとは別なのよ。廊下にゴミがあったって、其は埃よ。心もちから積んだ沈滞ではないわ。うちは垢ぬけました、それは心のあぶらがゆきわたったからよ。この間国にそのこと話して「気がついている?」と云ったら「そう云えばそうだね、不思議だ」というの。「人が住んで荒らす生活だってあるよ。つまり、姉さんは相当なものなんだという証拠だけれど、わかるだろうかね」と云いました。「そうらしいね」と云って、「うまい、うまい」と里芋サトイモをたべました。この人には里芋のうまさの方から、姉さんのねうちがつたわる口ね。ともかくそういう工合で、この暮しに使い立てられては居りません、夏になる迄、これでやろうと思います、暑くなると買出しや隣組の月番の外出がこたえますから、そしたら方法を考えましょう、夏の暑さには抵抗力がないから。暑気負けは、どうしてもそうですね。その夏までに、又万事がどう代りますか。それに応じてね。
 食事のことなど、御安心のためならば献立かいて上げていい位に思うけれども、わたしとしてそれは辛い心持なのよ、よう致しません。一言にして申せば、あなたの上るものよりも確実にいい食事をして居りますから。特にこの頃は。ですから、わたしのその心持を汲みとって下すって、どうかまかせて御安心下さい。ほんとうに、この一ヵ月、私が台所をやるようになってから改善され、筋も通った衛生的食事をして居りますから。無いならないように、有れば有るということをはっきり身につけ暮して居りますから。隣近所とのつき合も、この節はむずかしいが、自然に、私流に、親しみが出はじめました、それでなくては、こんなときやれるものではありません。誰も彼もが時間を浪費し骨を折って暮しているから、あの人も同じだ、というところに心の和らぐものがあるわけです。
 心が和らぐと云えば、わたしはこの頃そうなのよ。ゆっくり先のように手紙かいている時間もないみたいな暮しになりはしましたが。暮しぶりにはわるくないと思って居ります、金曜日28[#「28」は縦中横]日のことは、お目にかかって。これもすらりと行くらしい様子です。
 世田ヶ谷の人から、ドイツ語の本もらいました、「緑のハインリッヒ」をかいたケルラーの「三人の律気な櫛職人」というのと、シェファーという人の「ドイツ逸話集」。アネクドーテンというのね、北の方ではアネクドートです。この人もひどいつとめらしい様ですし、「茂吉ノート」の先生も大した様子で、何だか二人とも(特に本の人は)短気になり、面白くなさそうでおこりやすいわ。細君が、すこし気を張っていて可哀そうです。子供二人は元気で、節造という三つの男の子はほんとに男の子よ、可愛くてそれには目尻を下げて居りますが。「どうもこの息子はユーモラスなところで親父まさりらしい」と云ったら、親父さんへへへとうれしそうでした。あなたにそのこと話したら、あなたはフフフフとお笑いになるだろうと云ったら、おやじさん、俄然もち前の笑い声でハッハッハと笑いました。こう笑うのが本ものよ。ね。
 レントゲンのこと。こわがってなんか居りません、面倒くさいのよ。しかも、いいかげんのところのレントゲンなんてろくに映りもしないで。結核予防会へ行くのですが、それが面倒なのよ、面倒というのは通用いたしますまいが。日わりはこんなよ、月曜は歯イシャ、神田の方へ野菜とりにまわり午後じゅうつぶれます。火曜はそちら。水曜は分らないが、又桜田門かもしれないわ。面倒というのが、くせものめいて居りますかしら。こんなにしつこく日程なんか並べるのもくせもの?
 疲れはそういうことからではなく、人事的紛糾の精神疲労や何かがまだぬけないところへ、生活条件が急変したからです。しかし本当に診て貰いましょう、来週桜田門がなさそうなら来週のうち、に。とにかくくりかえし御心にかけさせておくのはよくないことですもの、その方が大事だから。(恩にきせる? そうでもないのよ)
 桜はもう八重になったのね、たのんだ時は一重でしたが。久しぶりね、八重桜なんて。美事だったというのはようございました。
 わたしの畑は笑止千万よ。何しろ、朝飯前に種子を蒔くなんて例外をやったものだからその日の午後から沛然と雨になって、ずっと三日ふり、そのあともああでした。そのためにホーレン草の生えるべきところから、何だか分らないヒョロヒョロのものがすこし出ていて、最も元気なのは楓の二葉です、わきの枝からおちたのが二葉を出しているの。楓のつまみ菜ってあるでしょうか、あきれたものね。もう少し待ってみて工合によっては猛然耕し直して豌豆えんどうをまきます。やがて南瓜もまきますが。土と天候とは沈黙のうちに教えています、俄づくりやつけやきばは役立ちませんよ、と。心のうちにシャッポぬいで居ります。
 この頃は生活のひどさで、人間の上塗りもはげることはげること。修繕がきかないから、みんな地を出して来ています。生地のしっかりしたものにはかなわないということをどんな平凡な人も感想としていて、これも興味あることです。あら、こうしてみると、この木目は奇麗なのね、という風にありとうございますね。少くとも桜ぐらいの木目の堅さ品位、つやをもってね。ベニヤのなまくらのはり合わせがふくれてガタガタのブヨブヨというようなのは御免です。
 この間のお手紙に万葉歌人の春の湖の舟遊についてかかれて居りました。霞をわけて、一つ一つと新しい景観にふれてゆく新鮮さは、日本の春独特の美しさでしょうね。北欧には秋の霧の哀愁ある美がありますけれど。
 この間、それとは別ですが、短い詩で「丘かげの泉」というのがありました。どこか連関あるような感情の詩で、それは狩人と泉の物語りでした。狩人が、獲物を追って足早く丘をのぼって来ました。ゆるやかな丘の斜面のどこかに、小さい獣はひそんでいます、やがてカサとかコソとか葉を鳴らすでしょう、待つ間に狩人は喉の渇をいやそうと、精気美しい眼をうごかしてあたりに耳を澄せつつ湧き水のありかを求めました。どこかで淙々とした水の音がするらしいのに、目にふれるかぎりの叢に泉は見当りません、狩人は若々しい額の汗を手の甲で拭い、何となしはやっている生きもののような眼つきをします。泉は泉で、出来ることなら、自分の姿を日光にキラキラ燦めかせて虹と立ちのぼり、自分のありかをしらせたいと思います。泉は、ついそこのもう一つ小さい丘のかげの草の下にゆたかに湧きあふれ、滴をもって流れているのでした。人間の視線が、丘の折りたたまれた曲線について、折れ曲って泉を見出さないということを、泉は残念に思います、そして、もう伝説の時代が人類の生活から去っていて、泉から白衣の仙女が立ちのぼり、狩人をうっとりとその泉まで誘いよせて、その縁にひざをつかせることもなくなっているのを、葉かげの泉は歎息しました。
 一枝か二枝の八重桜の下で、この物語をどんなにお味わいになるでしょうか。讚美歌の中に、渇いた鹿が谷間に水を求める姿をうたった調子の高いのがあって、すきでした。シムボリックに求神を云っているのでしょうが、雅歌が極めて感覚に生々としているように、この歌もほんとうに生きるものが水を求める渇き求めを歌っているようでした。渇望という字は、人間の率直な表現ね。しかしそれを純粋に感覚する大人は少いし、それをまともに追う人も少いのは不思議です。そして、おどろくべきことは、気力を失った精神には渇望が決してないということ、ね。
 今何時? マア、もう七時半よ。かき出したのは六時よ。きょうは又うんとこさ早くお眠りブー子をやります、そして、あした気持よく歯イシャを辛棒し、野菜袋をブラ下げ、そして、いいこと思いつきました。あさって、もしかしたら、朝のうちに駒込病院へ行って、外科の先生に紹介してもらって、いつか多賀ちゃんが、ラジウムかけたあの物療室でレントゲンとって貰いましょう、そして午後はそちらへ行くの。そしたらいい子ですね、この決心はもうつきました、駒込病院なら、遠いとはさかさになっても云えないし、あすこにレントゲンはないとは云えないしね。そしてすましてしまうとさっぱりするわ。一人のときが、午前は泣きなのよ。うちの国先生はダラダラ出勤で、桜田門へ出かけると云ったって、やっぱり自分のテンポは同じですから。こんや九時に眠り十一時間眠りとおしたって八時よ。御飯たべてから十二時迄に三時間はあるのね、あした行けないと云えるでしょうか、でも午後のギリギリガーガー思うとへこたれだけれど。火曜日に、もう行ったのよ、と云ってみたいという子供らしいところもあります。
 この紙が十枚で二十銭よ。アテナインクは二オンスずつのはかり売りです。しみる紙に紫インクしかなかったところを思い出したりいたします。

 五月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月六日
 今、夜の八時すこし過ぎたところです。いい月の夜となりました。いかにも新緑の季節の満月らしい軽やかさと清澄さで、東の風がふいているのが、それは月の光のうごきのようです。こんな時間とこんな眺めの時刻に、二人暮しがはじまったのよ、この土曜日は。例のとおり食堂の大机です。白と碧色の格子のテーブルかけや、からりと開け放された南側の石甃やそこに出してあるシャボテンの鉢のふちをきらめかして月の明るさを告げている小さい光りや。柔かく新しい葉をふく風の音は、こころもちようございます。赤いものといえば、つつじの花ばかりですが、緑、白、碧と月光との調和は絵画的です。
 甃のところに下駄が一揃出て居ります。その下駄に月の光があります。私は落付いて、のんびり、一人の夕飯をたべながら、その下駄の方をちょくちょく見ました。それは男下駄です。自分の待っている人の下駄に、こうして月がさすのであったらば、どんなでしょう。それは跫音や声や視線や、一寸したしかも特徴的な身ぶりまでをいとしく思い浮ばせる不思議な力をもっています。
 こんなに隅から隅までが静かで、しかもこころもちと五月の自然の充実が満ち満ちて感じられる夜は、何と面白いでしょうね。二人ともあまり喋る必要がないようね。あなたの二つの眼がそこに。そして、わたしの二つの眼がここに。それでいいという風ね。
 きょうは、午後三時から、私たちきりだったのですが、六時すぎまで歯医者のところで握った掌に汗をかいて来たのよ。夕方の街を歩いて、いつもの古本や見ます、歯をがりがりやった気持があまり閉口だから。きょうは、リルケの果樹園という詩集と、レンズのツアイスね、あれのガラス工業の完成に着手したルネッサンス頃の祖先の歴史をかいた小説見つけました。お金が足りなかったから、月曜日、歯医者のときとることにしました。お読みになれそうなものです。そういえば、活字のグーテンベルクの伝はまだおよみになって居りませんね、一度よんでよいものです。
 そして家へかえると、犬が躍り上って歓迎します。躍り上る犬は女の子だのにさっぱりとして快活で男の子めいていて気に入って居ります。その次の仔が出来てね、その仔ったら又真黒と真茶のコロコロの本当の犬っころです。まだ縁の下にいて、さっき北の中庭の木戸の中にいるのを呼んだら、熊がウンとかワンとかいっていそいで引こんでゆきました。その丸さったらないの、全く今時、こんな仔犬は珍しいわ。きのうだったか、さすがの主人公が小さい声して姉さん一寸、一寸と手招きするから行ったら、可愛いよって。そういう位可愛いのよ。健之助がいないからこんな仔が可愛くて。家鴨の仔を買いたいけれど、餌が大変だというから考慮中です。熊もクリ(栗)も、到って器量がわるくて、又その不器量さったらないのも大笑いです。
 わたしが、本好きであるということは、畑にとっての不幸事です。やれ、と腰かけるでしょう? わたしは絵の本を見るか、何となしものを考えているの、で、一休みしたら、小シャベルもって出かけるという風にゆきません。ですからわたしの畑は大陸的になって、日本の集約耕作とは行かないわ、ちまちまちょこちょことは行かないのよ。これは家庭園芸には欠点で、マメであるか慾ばりであるかする女がいなくては駄目そうです。天地の勢に一任していたのでは、そこがせち辛くなって来ていて、うまく行かないらしいのよ。こまりです。畑いじりつつ、ものを考えるほど畑仕事に習熟していないというのも事実ね。台所はすごいことになって、一旦その気にさえなると、御飯の仕度が出来上ったときは準備でちらかっている台所が片づいているという上達ぶりです。わたしは国男さんにきょうも申しました、「国男さんが一番得しているのよこんなにゆっくりした、仕事に追われない気分で家のことをするなんて、わたしとしたらほとんど大人になってからはじめてで、そのとき国男さんが一緒だなんて。何てにくらしいんだろ。肝心の旦那さまに、わたしは一口だって、こんな気分でたいた御飯をたべさせることがなかったのよ。畏れつつしんで、しかるべしよ」と。「だから定期進呈したじゃないの。」そうなのよ、市電が一系統十銭ずつになり、往復四十銭かかることになりました。定期だと、いくらかよいのよ、それを買ってくれたというわけ、団子坂―池袋。れっきとした勤め人ですものね、わたしだって。うちでは出勤といえばそちらと合点しているのよ。
 それから前の交番が廃止になって空屋となりました。前の通りはそのために夜不安心なところとなって、おそくなると一人で歩くとこわいわ。ちょいと横に入ったところにはバカが出たのだから。きっといまに大通りまでのしてくるでしょう。
 うちでは門をしめておくことにしました。そしたら早速となりの万年筆工場でも門をこしらえたわ。同じことを考えるのですね。うちの門は、よごれたりと云えども白い格子の低い門ですから、今はそこを透して狭いところの左右の緑やバラのアーチが見えて、この通りでは一番人間らしい感じを湛えています。しかし竹垣が大ボロで貧乏を語っては居りますが。だから目のきく泥棒なら入るまいと思って居ります。目白とちがって、ここは戸じまりよく二階の寝るところは、廊下もちゃんと鍵がかかりますから、御安心下さい。トタンの庇がベカベカ云うと、猫なりや泥棒なりやと胸をドキつかせるにも及びませんから。あの頃はこわかったことね。一足入ったら、もう顔つき合わすしかなかった狭さだったから。ここは泥さんにとっての迷路よ。大きい家というのではなく、どこに何があるのか分らないから。そうでしょう、住んでいる人間にも分らないみたいなんですもの。昔大笑いしたことがありました。入ったのよ。戸棚片はじからあけてありました。ところが、その頃母が存命で、母の作品である風呂しき包がどの戸棚にもごたつみで、その一つ一つあけてみても、えたいの分らないボロばっかり、あいそつかしたろうし、仲間の一つ話になっただろうと笑いました。今は、もっともボロとも云えないけれど。注意いたしましょう。
 犬たちは有益です。でも集金の人たち犬ぎらいね。どうして、どこでも吠えられるのだから好きになってしまわないのでしょうね、わたしは狂犬以外には自信がありますが。けさもガス屋、巻ゲートルで血相かえて、手に瓦のかけをつかんで犬を追っかけるのよ、憎らしい腹立つ気分も分ります、でも気の毒ね、沁々そう感じました。大丈夫ですよ、と云ったら、息はずまして、うちの人には大丈夫かもしれないが、くわれてからじゃ間に合わないからね、って。人生を感じました、そういう人の。嶮しいものです。
 でも犬がワンワン云うのでおや、誰か来たかと思い、わるくありません。クリと熊はどうして育てましょう!〔中略〕
 太郎が、十一歳頃から少年の後期を田舎の中で過すのは実にようございます。つい先日午後学校からかえって出かけ、夕刻おそくなっても戻らないので心配していたら、ドジョウ二匹獲もので揚々と引上げて来たのですって。〔中略〕
 わたしの二つの肺の悪戦が、あの範囲で終ったのなんか、みんな、早ねすべし、早おきすべし、面会に来るべし、体温はかるべし、べしべしづくしで泣面しながら、大したごま化しもしなかったおかげと、今は心から御礼を申します。あなたがあの位強引にして下さらなかったら、私はきっとジャジャ馬を発揮したでしょうから。わたしのはじぶくり従順というようなところがあるのね、どうして、とかく初めじぶくるのか、可笑しなわたし。
 あの写真はやはり役に立ちます。こんなことが一例で。普通、風呂のとき洗いもの一緒にやるのよ、家庭では。わたしは、それが疲れすぎて、いつも二つ洗うつもりが一つか、一つも出来ないのです。あれをみればそれがあたり前ね。ですから、わたしは風呂と洗濯とは別にするのが自然なのです。二日にわけた仕事として。そうすればちゃんとどちらもやれるのだわ。そういう自分としてのやり方が分って来るのも、働き馴れとともにああいうものが参考になります。わたしはよっぽどありがたく思っているのよ、べしべしづくしの成果に対して。謂わば、わたしの一生を救ったようなものです。

 五月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月七日
 きょうもいい天気になりました。今、もうすこし暑くなりかけましたが、種蒔き終ったところ。例の楓のつまみなのところを耕し直して、少し日かげだから韮の黒い種をまきました、それからおとなりとの境のところへ、ヒマを少々、あれは大きくなるのでしょう?
 一休みしていたらキューキュー仔犬の声がするので、北側あけてみたら、親子二番目の子――クマ・クリで遊んで居ります、クリは雄らしく、珍しいこと。チンは女権拡張で女ばかり生んでいましたが。クリを寿つれて行くのかしら。
 きょうの宿題はすんだから、予定通り穴のあいたスリ鉢に、つる菜もまきましたから、あとは本よみでいいのよ。あ、まだ一つある。二階の大掃除。これは、疲れるから夕方にしましょう、ねえ。かまやしないわ、わたしたちはここにいて、楓の若葉眺めているのですもの、ここもテーブルの上は紙や帳面やでかなりの有様ではありますが、こういうちらかりには性格があり、生活が現れていて、却って落付けるようなものです。
 こういう暮しをしてみて、段々わかり、この先、もし国が引こして、わたし一人ここのどこかの隅で暮すようになったとして、十分やって行ける自信がつきました。仕事が期限つきである生活の心持と、そうでないとは、こうも違うものでしょうか。その点わたしは例外の生活習慣をもって十八歳から暮して来たのであったと思います。
 一層生活をたのしみます、この調子で見ると、私はもう少し経ったら、本気で仕事はじめて、こういう紙の上だけでない二人遊びの時を十分に、十分にしんからたのしく暮す丈仕事しておかなくてはならないと思います。そして、仕事する生活のためには、こういうのはいけません、却って一人がいいわ。朝おきぬけから、おつき合いしてはじまるのでは仕事は出来ません。生活のいろいろの形、いろいろの調子を、経験するというのは、大したことね、それは人間しかしないことです、それが自主の判断によってされるのは。
 国は、ああいう人ですから、こうやってやってみて、調子がいいと、それをこちらにかまわずひっぱろうとする傾でね。国府津へ私を行かそうとして力説しますが、其は駄目。何のために私はあすこで暮す必要があるでしょう。汽車の切符は申告、途中二時間半往復、では一日仕事、こっちに泊るところもなくて、どうしてやれるでしょう。もし国が行くなら(経済上の理由、都民税が大したもので、従って公債その他瞠目的です)わたしは蔵前の六畳、四半へだって籠城いたします、そして一人で犬の仔なんかとやるわ、そして仕事して。それも亦たのしいでしょうと思います、こういう暮しが始ってから却って生活は自分のものとなり、のどかさも生じ、どんな小さい形でも不便中の便を見出してやれるようになりました、体もいくらかよくなって来ているのでしょうね、頭が動くところを見ると。こうして、そろそろと焦らないで、仕事が出来るようになるでしょう。
 そう云えばこの間原稿整理していて、祝い日のためにの詩ね、あれをくりかえしよみました、びっくりいたしました。あれは本当に、半ば盲の妻の作品ですね、そのひたすらなところ、思いこんだ調子、確乎さ、立派なところがなくはないが、何と流動性がないでしょう、可哀そうな一心さがあります、健康というものをおそろしく感じました。哀れと思っておよみ下すったのが、今になって自分でわかります、あのときは精一杯でそれは分りませんでしたが。ああいう凝りかたが直ったら、現金ね、わたしはもとの散文家になってしまって、しかし、目出度しです。あの詩はレンブラントの絵のような重い明暗があり、赤い一点の色彩が添えられて居ります。それにしても、本当に何と眼が見えないという感じ、手さぐりの感じ、周囲というもののない感じでしょう。よい記念品だと思います、あんなにわたしは苦しくて、見えなくて、じっと動けなかったのね、可哀想に。
 然し今は、青っぽい筒袖のセルを着て、紺の大前かけかけて、青葉の色よりすこし水色っぽい更紗の布で頭包んで、とにかく小さいシャベルふるって土も掬って居るのですもの、えらい進歩であり、生きる力は大したものだと思います。そう思うにつれ、こうして自分が生き、癒りして来た力はどこから湧いているかと考えざるを得ません、わが命のみなもとは、と、おどろきを新たにいたします、アダムのあばらから生れたなんて、西洋人も想像力が足りないことね。リルケは、それを疑問の詩をかいて居ります。もし肋なら、こんなに生きて、こんなにあつくて、こんなに欲ばりの生きてとなったイヴをもう二度と横はらへしまってやることなんか出来ず、あわれイヴは、のたれ死によ、ね。横はらを枕にさせてやれるのが精々で。命の源は、一つのいのちのその中に、まるっこで在るのです。だから大変よ。どうちぎることも、便利なようにちょん切ることも出来っこありません。
 もう十一時よ。寿どうしたのでしょう、あの、うらぶれ部屋で工合でもわるくしているのじゃないかしら。
 ワンワン吠えるのでガラスのところから見たら白いブラウスが見えました、まあよかった、待人来るです。
 久しぶりでゆっくりおひるを食べさせて、今そこの椅子で本よんでいます。過労で弱ったのですって。注射していい由。このひとも、東京千葉と、落付かないために、過労にもなるのね、台所で私の動きぶりを見て、びっくりしていました、大した上達だって。けれども、これで又仕事したくなると、例のお笑いになるおったて腰で、旋風的になって来るのです。
 きょうはこれから姉と妹とで、ちょいとした罪悪を犯します、寿が自分用というひとかたならぬ砂糖をもち出して、コトコト煮るものをやって、私にふるまってくれるのですって。御免なさいね。二人遊びの日だから、わたしだけ袂でかくして、あなたに知らせ申さないということが出来ないの。おまけに、私の着ているセルは、筒袖でしかもゴムでくくれて、ニュッと腕が出ているのですもの。
 そんなことをしているうちに夕方になり、夕飯をしてやって寿の里帰り(やぶ入り日)も終りとなるわけです。
 私は、小使帳の整理や日記やあるのよ。二階のテスリに干しておいたネマキが風で落ちているのを見つけましたし。
 きょうはすっかり夏になりました、室内で七十八度あります、あしたあたり又グッと冷えるのでしょうか。
 大観音よこの交番のところを入って動坂の通りへ出たら、あの途中の右手の養源寺に都指定史蹟として、西村茂樹之墓と札が立って居りました。よく通った頃はそんなに、いつもおじいさんの前を通るような気のする札はございませんでしたね。あの通りを、あなたは早くお歩きになったことね、わたしはすこしかけるようについて歩きました。ではね。

 五月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月十五日
 今週の二人暮し日は妙な日どりになって、先達てうちのように、土、日とはゆかず、月曜の少しと火曜日ということになりそうです。今週は東京にいて、日曜日の防空演習に出てくれて助りました。たまには、こうして東京にいるのがいいわ、十一日に、開成山に行っている女中さんの一人が一寸来て、今日まで居て、大きい洗濯などして行きました。十六日から月番という当番で、隣組全体に関係するから、すっぽかしがきかず時間的に私一人ではやれないので、咲が十七日頃来るのでしょう。あの組も半月ずつというようなところで、出入りが頻々ね、そして、御本人が手紙見に行くから、面白いものです。この頃はいい身分になったね。どうして? 手紙がたのしみで、さ。ほんとだ。こんな問答けさいたしました。そして、けさは、私の目の前に(そのときわたしは食堂の椅子にかけて、あなたのネマキのつぎを当てていたの)ハイとお手紙出してくれました。おや。一人? うらまれそうだと云ったら、僕にも来てる、自転車がついたって、というような工合でした。わたしのつめてやる弁当をもって只今出かけたところです。
 咲が来て下旬一杯居りましょうが、その間に、家の大半をあけわたすための片づけをやる由です。
 達治さんが折角上京するのに、ガタついて気の毒ですが、それでも妙にせまくるしく暮すようになってからよりはいいだろうから、本月下旬だといいと思って手紙出しました。大体の方針では、今わたしの使っている二階全体と蔵の前の六・四半と、洗面所、便所、湯殿と一かたまりに仕切って、そこで台所も出来るようにして、私と国とが暮し、表側全部を開放することになりましょう。この仕切りかたですと、下の二間で、国咲がまとまれるし、上は私が、私一人で勉強もし、ねることも出来、一寸した一人の食事は出来るし、けじめがあって、ようございます。わたしは、やがては、もっと時間をとって仕事も勉強もしとうございますから。一人のときは主として二階で書生流にやれたら手間も省けてうれしいと思います。疎開の家族は、気が立っていましょうから、受入れる側が普通の家庭の形式を保っていて、夫婦、子供と揃っていたりすると、細君同士、旦那同士の感情がむずかしいでしょう。うちのように、姉弟で、あっさりやっていると、比較してこっちはこんな落付かないのに、あっちは水入らずでのんびりというようなことがなくて。十何年か前、一つ建物の中に人はどんなに暮すか、という共同生活の大典型を見ているから、その欠点も、やりかたもいく分合点していて、それは、こういう生活様式の大変動に当って、少なからず私の自信となって居ります。「井戸端の移動」式にならずにやる確信があります。ただ、電気、ガスなどのメートルが、共同だと、モン着はそこからでしょうね、困ったものね。昔、大銀行だった大建物の廊下に並んだ一つ一つの夥しいドアが、其々一つずつ木箱とケラシンカ(石油コンロ)を並べて、眼路はるか、という風に見えていた都会生活の姿を思いおこします。
 国はいよいよ事務所を閉鎖いたします。それがたのしみで、上機嫌よ。やめるのもいいが、のんびりして、国府津だ、開成山だと廻って暮して、つい二年経ったというようだと人間がくさるから、と云ったらそれはそう思っているそうで、何か、電気関係の会社の何かをやるらしいようです、正直のところそれは怪しいのよ、実業方面ですから。あの人の性格では合いません、内部抵抗のつよい男ですから。それでも一昨日だったか何かの話のついでに、わたしにあやまりました、姉さんの誠意に対してすまなかった、と。あれやこれやをひっくるめての意味ですが。そうあやまって自分も明るくしているわ、私もよかったと思います。マア借金と心の負債は、そのとき出来るだけで返しておくことです、又かし借りのできるのは仕方がないわ、それはそのときのこと。
 うちの畑は何というか、ひよわい子をもった母さんのような気を起させます、きのう南瓜の種を五つ蒔いたがどうなるでしょう。つるなの箱で雀が砂浴びして、掘って種をとばしてしまったらしいのよ。きのうよくよく見たらば大粒の種がむき出しになっていました。ことしは初めてで、自分のやりかたが自分で分らないし土の工合も分らず、たよりないことおびただしい始末です。それに今は、ここへ植えても、この庭の部分はひとが使うかもしれず、というところもあって。おとなりのうちは年中畑眺めていて、ちょいちょいの手入れがいいのねきっと。まめであるか、欲ばりか、どっちかでないと。二時間時間がまとまってあると、さアとこうやってテーブルへくっついてしまう細君は、畑むきではないのよ。
 健坊歩き出しましたって。見とうございます。健坊は、うちの子としては明るい面の多い子です、太郎もおそらくあの暮しで、のびやかになるでしょう。御機嫌というものの影響をいつも受けるのなんか子にとってよくないわ。咲ものびやからしく、庭の花々についていつもうれしそうに書いてよこすそうです、こういう時がすこし続いて、あのひとのキョロキョロも直るかもしれません、そうすれば其は一番いい丈夫になりかたでしょう、しんから神経が休み開放されるのですから。
 わたしの歯は、一本神経をぬいたところ、あとが水や湯がツーンとしみてしかめ面になるほど痛いのはどうしたわけでしょうね、妙なこと。今日よく話しますが。神経とるときに突つきすぎてしまったのかもしれないわね。
 明日は火曜ですが月番第一日でいないといけまいから、今日歯医者とそちらを行こうかと思います、だとするともうやめなくては。この間うち台所用本で、深田久彌の「命短し」、矢田津世子の「鴻ノ巣女房」というのをよみました。こういう小説家たちが、みんな一種の語りて、お話し上手となってしまうのは不思議なこと。内面へ立体的にきり込まず、面白い話しぐちという風にまとまるのね。栄さんなんかも生れながらの民話の伝承家ですが。何か日本の精神伝統の関係ですね。そういう点で、矢田という人は、円地その他真杉などという人よりは、まとまり且つ自分の小さい池をどうやらもったというところで生涯を終ったと思います。小さい池に楓の若葉かげも、白雲も、雨のしずくもしたたるという意味で。このひとのは庭上小池でしたが。どこまでも。人のこしらえたもの、ほどよさでまとまったもの。だから、秋の落葉に埋めつくされる、という場合もあるわけです。そうはないようにと、箒を手ばなさなかったところがあるでしょう。
 アラ、もうよさなくては。そして御飯たべて出かけるようにしなくては。きょうはネマキもって参ります。もうすこしましなのを、と思っていろいろ思案しておそくなり、やっぱりもとに納りました。これはきっと背中がやぶけてしまうでしょうね。

 五月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月十六日
 今、午後一時半。この食堂いっぱいに青葉照りとでもいうような、すこし眩しい光線がさし込んで居ります。お話したように、きょうは月番の第一日ですし、米の配給日で、何しろこれはもう一粒もなくなっていたところですから、謹んで内玄関をあけて、居ますヨと表示して待って居りました。来て、九キロ(半月分)おいてゆきました。三円八銭也。
 昨夜は国、横浜の友達のところに泊ったので、わたしは九時半ごろ床に入り、のんびりしていたらいつか眠りかけ、びっくりして雨戸しめて本当に寝て、今朝起きたのは九時。十分眠りました。そのわけなのよ。きのう、あれから家へついたのが六時すぎでした。御飯がきれていて、それから炊いたから食べたのは八時すぎ。大ペコのペコでね。たべたら眠くなった、という犬ころの如き天真爛漫ぶりです。
 きょうは、咲や国のふとんを日に干しに出して、犬ころにサービスして遊びました。茶と黒のコロコロ二匹だったのに、どうしたのでしょうか、黒しかいないのよ、きのうから。一匹のこったというのでしょうか。シートンが大層役に立ってね、その仔犬と近づきになるために、先ず、おっかさん姉さんの揃っているときすっかり指さきや着物の裾なめさせて、匂いよくつけてその仔にさわったら、すっかり安心して(家族一同)至って好成績。きょうは呼ぶと、小指ほどの黒いしっぽをふってかけつけて来ます。わたしは犬がすきね。とりあえず、コロコロと呼びます。ころころなんですもの。
 おや、内玄関へ誰か来ました。中條さーん。電報よ。アス九ジタツムカエタノムサキエ。あすというのは、いつでしょう。もとのように電報のつく時間というものが、はっきりしていれバ、こんな心配いたしませんが、近頃は途方もないから、アスと云ったって、きょうかとあわてる次第です。丸の内へ電話し、駒込へ電話し、つまりあしたなのだとあきらめました、局では控えおかないんですって。
 さて、きょうは仔犬遊びしてから、たまっていた手紙どっさり書きました。そしてこれも書き出しました。外へ出ないときめた日は、何といい心持でしょう、わたしは毎日出るというのがごくにがてです。
 何だか、すこし日ざしがかげって、楓の樹の幹が黒ずんで見えて来ました。夕立っぽいのかしら。よく見て、ふとんとりこまなくてはいけないかもしれないわ。一寸待って。
 ね、やっぱり。面妖な雲が東の空、西の空に現れました。ふとん干して降られたら眼も当てられず。いそいでとり込むなんて出来ないんですもの、重くて、大きくて、おまけに高いところにかけるから。
 こうしてしまってしまえば安心よ。あなたのところへ、冨美ちゃんの可憐な二十円也と達ちゃんたちの写真をお送りするこしらえをいたしました。この写真に、お母さんが入っていらっしゃいません、私たちはお母さんも見たいことね。
 咲は月一杯はいるつもりでしょう。家片づけや月番やをやり乍ら。達ちゃん上京するなら、家が余り狭く暮すようにならないうち、そして咲がいて、国のお守り出来て、わたしと達ちゃんが、すこし留守しても結構というときがいいと思って、手紙出しました。くり合わせがつくかどうでしょうか。
 こうして、腕ニュッと出るキモノ着ていると、が入って光沢もよくなって来たのが分って、うれしいと思います。きのうだったか、紀という従弟が来て音声が響きがちがって来たと云ってくれました。この間迄は、病人ぽかったって。わたしは或ところ迄丈夫になると、闊達に暮すのが療法になるたちなのね、誰にしろそうですが。仔犬めいて夕飯すますと眠たくなったりするのも暫くはいいのかもしれません。又々丸みを帯びはじめ、自分で自分の体の愛嬌を感じるとうれしいわ。何となしぱっちりしなくてグタグタしているのは腕一本眺めても感服いたしません。ころころでも閉口ですが。現今の生活で、そうなりっこありません。丸く短き腕をふり、というのが関の山でしょう。
 御飯後には、小包すこし拵えるのですが、どの位やれるでしょうね、そういえば今夜の御飯のおかずは何にしましょうね。ああ、おなかが鳴って来た、では御飯、おそい昼めしとなりました。
 御飯すまして一寸台所始末したら、もうあとは一時間ほどしか自分の時間がなくなりました。
 ひどい音がして飛行機がとびます。出てみたら美しい形で雁行して居ります。低いところに雲があるので、見えつかくれつしながら。形の静かな優美さも、こんなに空気をかきさいて動いてゆくのね。昔の歌人は、人間の営みのいとまなさを、やすむ間もなき鴨の水かきとよみました。悠々浮いているようでも、と。
 今台所用本は、ナポレオンの母の伝記です。レテッツィアというひと。いつか書きましたろう? 一種の女丈夫だって。いつお前たちの必要がおこるかもしれませんよ。他人のパンを乞うよりは、私のお金の方が使いよかろう、と皇帝の見栄坊に一矢酬いたという。この伝記者は、もう少し突こんでかくべきマレンゴのことやブリューメルについて大変、おっかさんの側からだけ、彼女の知っている範囲でかいていてその点つまりませんが、コルシカという島の十八世紀末におけるむずかしい立場、島内のありさま等よく分ります。箕作元八のナポレオン伝は傑作で辛辣でもあります。ナポレオンが不肖の弟たちを王にして自身を危くした愚かさを云って居り、本当と思いましたが、そこにコルシカの伝統(族長家族)があり、大家族の首としてのナポレオンの兄貴としてのやりかたがあったのですね。支那みたいに、一人が出世するとズルズルとたぐったのね、十八世紀のイタリーもそうだったそうですが。(この時代のイタリーは私生子全盛時代であった由、(カテリーヌ・メディチの親父等)ナポレオンが失脚後ボナパルトと云われ、スタンダールが憤った扱いをフランス人がしたのは、どうしてもコルシカのというところが、フランス人の考えからぬけなかったこともあるのでしょう。このおっかさんは政治的葛藤におかれて、コルシカを脱出し、チュレリーでボナパルトが手柄を立ててフランス司令官に出世するまでマルセーユで木賃宿ぐらしいたしました。ジョセフィーンというひとについてはネゲティヴにかかれています。
 ところで、わたしのこの頃は、台所用本ばかりで御免なさい。どうもそうなるのよ。根をつめなければならない本にとりつけないの。今に、家の片づけも終ったりすればいくらかましになって、一日に歩く家の中での哩数も減るから、すこし念入り読書も出来るでしょう。それ迄御辛棒下さい。そして、さもよめそうなふりをしないことを、閉口頓首の正直さとしておうけとり下さい。其でもそちらの待つ間にこの頃は本をよむようになり、細菌物語も終りました。余り結核菌についてあっさりかいてあるので目白の先生に話したら、衛生学者だからの由。弘文堂の本もそうして読もうと思います。営養読本もつまりはそちらで読んだのよ。たっぷり一時間半あるとよめますね。かなり。電車などの中では全く駄目。新聞は今も殆ど見出しよ。本文には努力がいります。
 では又。木曜日にお目にかかれると思いますが。

 五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕

 隆治さんの宛名が変りました。
  ジャワ派遣輝第一六三〇〇部隊(乙)
 けさは、胡瓜の苗を植えました。問題の南瓜が遂に二本出て、思わず二匹出たよと申しました、そんなに生きものが出たという感じ。大きい種は孵ったという感じよ。

 五月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月二十七日
 今、夜の九時です、きょう歯医者が手間どって、かえったのが七時。それから御飯たいて今すんだらこの時間。けさは咲が帰るのでわたしは五時半から起きて働きました。くたびれたところへ俄におなかがはって大変眠うございます。森長さんへ電話をかけて、もうねてしまうわ。あした朝早くおきてまる一日二人暮しするのをたのしみに。二十八日から三十一日まで防空訓練で、夜明け頃起きて警戒しましょう、と廻覧板にありましたから二十九日は夜明けに目のさめる位早くねなくてはなりますまい。早ね早おきは大した規模で必要な次第となりました。では電話かけましょうね、ああでも、しきりに全く独特な工合にまつ毛のところが美しい二つの眼が浮んではなれません。光線の工合で何とくっきり面白く見えたでしょう。
 二十八日
 こんにちは。ちっともお早うではございません、もう十二時五分前よ。勿論只今御起床というのではなくて、きのう咲が立つので大乱脈のままになっていた台所を一時間ほどまとめて働き、その前に小鳥の世話、犬の御飯、胡瓜とニラの芽の見物をしたわけです。
 いつもこうなのよ、咲が来ると実にゴタつき、帰って国がいなくなると、私は長大息をついて次の朝なかなか腰があがりません。可笑しいのね、主婦が帰れば却ってよく片づいて単純になりそうなものなのに、決してそうゆきません。国はわたしとの暮しではいろいろ辛棒して書生っぽにしているから、愛妻御帰館で、気持の要求がぐっと殖えるのでしょうね、食事にしろね。それに咲の来ている気分にしろ、察しのつくところもあるわけでしょう、だから何だかごたごたになってしまうのよ。わたしだったら、と思うから、ごたつきについては敬意を表しておくの。だって、そうでしょう? 眼が一つのものからはなれやしないでしょうと思います。オヤ、見なくては。おひると朝けんたいの、メリケンコの妙なものをやいているのよ、ストーヴのところのガスで。こうやって書き乍らやくと急がないから、きっとよく出来るでしょう、どれ、どれ。
 成程成功よ、大いにふくらんで狐色になりました。これは、その昔ホットケークと呼ばれたものの同族ですが、牛乳ナシ、玉子ナシ、バタナシ。ナシナシづくしのふくらし粉一点ばりのやきものです、さとうナシですしね。でもふくらめばいいわ、にちゃつかないから。
 鏡で見たところ、きょうの頬っぺたは、きのうより幾分ましになりました。きのうかえりに見たら、まだ洗ったり薬つけたりしなくてはならない由です。どうしようかと考え中です。抜いたところ二本ブリッジになります、そのために一番奥のいい歯の神経をぬいたりけずったりしなくてはならないの。金をかぶせたところで、又いたんで、又その歯をぬくなんてやりきれないと思います。そのギイギイ仕事の最中に、一ヵ月以上かかりますから、ドカンドカン来て、歯は放っておけない、にもかかわらず御入院なんていうのは閉口よ、十中八九までは、そうなりそうです。そうなると思って万端やることにいたしました。咲もいず、(役に立たないけれ共)寿もいず。歯まで心配の種ではやり切れないから、もしかしたら秋ぐらいまでこのまま歯かけでいようかと思います、こんなこと迄相談されては、と笑止でしょう? でも、マア。相談というのでもないけれど。
 ここまで書いたら電話のベルが鳴りました。寿。長者町に、やっと永住出来そうな家がありそうになったら、別の借手が現れて怪しくなったので、九段の家主まで来た由です。お米が足りなくてキャベジたべて、気分わるい程とのことです、どこも同じね。弁当にお握りをもって来て、寿は其をたべ、わたしはパフパフをたべ。ホットケークの悲しき同族は、たべるときまことに空気が多くて、パフパフいうようだから、わたし一流の名づけ術で、パフパフと申します。名だけきくと美味しそうだと大笑いです。
 四方山よもやまの話をして六時頃寿引上げかけたら、酒やで福神漬を売るから月番よろしくとのことで、わたしは日のかげったときゆっくり畑いじりしてみようと思っていたのに、其ではと大鍋をもって寿送りかたがた出かけました。団子坂上なのよ。行ったら各戸なのだって。組長の女中さん、時刻が時刻なのでちょいとよろしく計らったのね、それが通用せず、というわけだったのでしょう。
 帰ってから、寿サービスの片づけをして、自分の夕飯たべたら、又もうこんな時間。九時です。明朝の御飯は今晩炊きましょうという二十八日ですから、今炊いて居ります。夜あけに起きて警戒しましょう、というのはどういうことをするのでしょうね
 きのうは朝公共防空壕の修繕を隣組でやりました、国がオバーオール着て、鉢巻きして出ました。わたしは台所するとき、薄緑の布で髪をつつむのが好きで、これは灰で髪をよごさない実効がありますが、鉢巻は気分ものね、てっぺんの薄いところもまる出しだし、まさか頭の鉢が、あの手拭一本でしまるほど、それほどたががゆるんでも居りますまい。国は身なりも極端ね、この間は咲の迎に、ハッピ着てゆきました。「目黒のさんま」(落語)のくちね、殿様の御微行は、いつも下賤におなりです。実直な働く人々が、自分の身分に謙遜して、ちゃんとしてなくては失礼と思う反対ね。
 きょうの二人遊びは、右のようなわけで肝心の午後が潰れてしまって、まことに残念でした。先週は国ずっといて、咲が来て大バタバタだったから、今日はほんとに待ちかねていたのに。でも、寿はよろこんで休んで帰ったから、あなたも計らぬ功徳をおほどこしになったわけです。寿も一人きりの生活は、食事の一人のことなどつまらないようです。あのひとも十二月から大変だったわけで、いろいろこまかいことで、可哀そうだと思うし、大局的に寿はそれで世間並のことを覚え、生活力も身につけるのです。よく変れる側が、人間学から云って大いなる利益を蒙って居ります。
 この間うち、『スペイン文化史概観』という仏人のかいた(一九三七)ものですが、よんでいて、昨夜[#「昨夜」は底本では「作夜」]よみ終り、いろいろ深く感じました。これはスペインの一九三五年までの新しい希望とその実現の時代に及び、一九三五年以降の混乱によって再びその美しい向上の試みがこわされる頃までを、統一(中世の終)から書いたものです。小冊子で、不充分だけれ共、わたし達が所謂スペイン風として異国趣味で誇張して珍しがっているすべてが、スペインにとっては誇よりは寧ろ悲劇であるということを知って慙愧を感じます。日本について、大部分の外国人の評価が、赤面ものであるように、スペインにとって、世界の人々がもつ興味の角度は、心ある精神に、名状出来ない思いを抱かせるでしょう。しかし、日本文学の代表を、いつも万葉と源氏において、恥しさを感じない人があるように、レオナルドを今日もあげるしかない貧弱さを感じるイタリー人が少いように、スペインにもそういう感じの人々が十分どっさりいないために、文化のそういう無力さのために、あの国の悲劇はくりかえされるのですね。
 この小冊子が面白いもう一つは、スペインのジェスイット派(ロヨラの派)が、どんな暗い情熱で専横を極めたかということ、一般にキリスト教が、スペインではスペインを興隆させず第三流国に堕すに活溌な作用を与えた点です。信長の時代日本に渡来したジェスイットは、西欧の宗教改革によって失った地盤を求めるためと、黄金探求の慾望と二つから来たのですが、スペインのキリスト教は、スペインがムーア人に支配され、それを奪いかえすために一役買ったキリスト教徒のおかげで、僧院だらけ、坊主政治おそろしい始末になって、今日の貧乏と無智と当途ない情熱のために、短刀さわぎをおこす情熱的民族となってしまったのであったのね。
 わたしはふるくから日本における切支丹文化に興味をもち、芥川の「きりしとほろ」とはちがったものを直覚していたのですが、当がなくて来ました。この小冊子は何かどっさりのヒントを与えるようです。キリシタン文化については、いつも新村出や幸田成友や、考証家歴史家さもなければ信者によって語られて来ましたが、それでは決して十分でないわ。
 ムーア人の回教徒との接触を経験したジェスイットが、日本も東洋であるからと思ってふれて来たとき、そこには随分ムーアの回教徒とちがった要素があったでしょう、信長がそれを許し又禁止し、秀吉がゆるし又禁止した時代の起伏は、極めて興味があります。その頃スペインは、南米で、罪業ふかい血まみれの黄金をかき集めはじめていたのでしょう。
 歴史小説というものも、現代のレベルでは、この位のテーマをもつべきですね。「ピョートル大帝」にしろ、オランダの商業を或程度勉強しなくては書けなかったでしょう。現代史が十分かける力量をもって、歴史小説もかかれる筈だと思われます。ジェスイットの坊主の中にも、本当に宗教に献身した人々があります。こういう卓越した個性と宗団の矛盾、信長の禁圧の当然さと、逆に信仰せざるを得なかった武家時代の貴婦人のこころもちなどのあやは何と人間らしい姿でしょう。面白いことね。
 ピョートル大帝と云えばこの前一寸かいたかしら。レフ・トルストイが、ピョートル大帝を書こうとして遂にかけなかった、ということ。「戦争と平和」はかけてもピョートルはかけなかったのね。ピョートルは、ナポレオンの侵入というような巨大な背景の前に、あの夥しい各性格の箇人を描写するにふさわしいテーマではなくて、一面から云えばもっと単純であり、一方から云うと、もっと複雑です。だからレフにはかけなくて、才能の大小を云えばより小なるアレクセイにかけたというところ。作家にとって殆ど落涙を催させる時代というものの力があります。これは同じ名の二人のトルストイの間に横わる時代の絶対のちがいです、秀抜な作家が一時代にしか生きられないということは、何と何と云いつくせない生物的事実でしょうね。死んでも死にきれない事実だと思います。
 後輩の中に能才なものを求める、慾得ぬきの心というものは、科学者にしろ芸術家にしろ、真にその仕事の悠久さと人間業蹟としての偉大さを自覚した人々だけのもちものでしょうね、そういうものがチラリと見えたらどんなに可愛いと思い望みをかけるでしょう、科学よりも文学において其は更に茫漠として居ります。科学は研究ノートをそれなり継承出来る部分があります、文学はどうでしょう、未来というものの中に、うちこめて、そこに期待するしかないようです、
 こういう風にして、自分を益※(二の字点、1-2-22)捨てて行く心もちから、芸術家や科学者の才能が更新され、若がえるというのは、不思議な面白さね。自分に執しているものは、自分より大きく成長出来なくて、つまりは世俗の成功だの不成功だのという目やすに支配され、とどのつまりは世俗の日記と一緒に歴史のつよく大きい襞の間にまぎれこんでしまいます。山本有三という作家が、主人公に芸術家も科学者も扱い得ず、教師をつかまえるのは雄弁な彼の人生のリミットですね。

 六月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月三日 土曜日
 きょうは、思いがけないことでわたしの時間が出来ました。国が、急に国府津の家の件で、役所の人とあっちへ出かけ、朝八時四十分で立ちました。けさは六時におきて台所へ出ました。珍しく八時すこし過にひとりになったので、この時と、早速郵便局へ出かけそちらの書留や小包送り出しました。本、一冊しか今手許になくて御免なさい。『療養新道』の方は、多賀ちゃんにきいてやったまま、ついそれなりで。多賀ちゃんも忘れてしまったのね、すぐハガキかきましょう、又。ついでにケプラーお送りしておきました。
 きょうは、三時頃に太郎と咲が来ます。太郎は、農繁期休暇二週間のうち、半分だけはお父さんの顔を見て来なさいと云われた由。夏の休みなんか全く当になりませんから、いいでしょう。子供の頃一夏ハダシ暮しして、東京へ帰って来るとき、次第に上野が近づく心持、家へ入って来るときの心持、あれを太郎が味うのだと思うと、面白く、笑ましい気持です。それは非常に新鮮で、人柄や感情を豊富にするし、抑揚を与えるようです。太郎すこしは大まかにゆったりしたかしら。たのしみです。健ちゃんがウマウマと云うようになって、ヨチヨチかけ出すのですって。可愛いこと。実にみたいわ。立つ朝、小鳥のカゴにだきついて(よく見たくて)餌こぼしたって親父がにがり切って、それも忘られませんが。馬糞が草道に落ちていると、太郎がいち早く、健ちゃんこれなアに、ときくんだって。すると、たどたどしい頬っぺの赤い健坊が、ウマウマと云うって大笑いよ。食べるあのウマと馬のウマと同じにこんぐらかって、つづけてウマウマと出てしまうのね、健坊は、陽気で、人なつこくて生れながら愛嬌をもって居ります、どんな男になるでしょう!
 森長さんの用向きは通じました。日曜日にゆけるでしょうとのこと。しかし妙なものですね、お疲れになるのは閉口です、何よりも。
 ヴィタミン剤益※(二の字点、1-2-22)なくて、メタボリンはもう二ヵ月ほどありません。これからは注射しかないのかもしれません、岩本さんのところには大分お金は預けてありますが、手に入りにくいと見えます、
 うちは、疎開の割当、強制ではないのですって。国府津をああやって使うことになったから、国はここに居ります。国がいて、急に人が一家族入ったのでは、私が困難一手引受けでやり切れないから、咲に町会へ行ってたしかめて貰ったの。強制でなくて大助り。どういうことになるかは今のところ判明いたしません。家を移ることはないでしょう、もうこの頃になると、一般の生活の感情は、大きいさけがたい変化を、今か今かと思っているようなところがあって、あわててあっちこっちする段階を通りすぎてしまいましたね。わたしは、さしづめ、冬のどてらとふとん何とかしなくてはならないと気が気でなくて。引越車の多いこと。
 美校、音楽学校、みんな先生の首のすげかえをいたしました。ゲートルの巻ける人、モンペはける人に。結城素明というような七十歳も越したような先生や小倉末先生(ピアノ)のような大先輩は引こみました。国宝はこの際すべて引こめて、しまっておくというわけでしょう。博物館でやったように。
 アラ、八百やだって。一寸待って頂戴。帯をしめ直さなくては、ね。布をかぶり、筒袖を着、縞木綿の前かけしめ、カゴ下げて出かけます。
 犬が母娘でついて来て、どうでしょう、気のつよい雌犬が八百屋に出現して、ムキになってチンの首ったまにかぶりつきました。小さいくせに。女の人ばかりだからアレアレなのよ。エイ、と思って、その犬の頸輪つかんでギューギュー引っぱったら喉がキュークツになってはなしました。チンたらキャベジ籠の間にはさまってぶるぶるふるえているの。可笑しいのは、雄犬だと、大きくってもいじめたりしないし、チンも「わたし女よ」という風でつんとしていて、何と滑稽でしょう。腰がぬけかけみたいになって、一寸だいてやりました。犬抱くなんて、私の大きらいなことです。でも可愛がっているのね結局。だくのだもの、腰がぬけると。
 この八百やへは高村光太郎先生もザルを下げて来ます、八分の一ほどのキャベジを貰うのよ。あすこは一人ですから。うちの半分ね。うちは四分の一の小さい半分貰います。芸術の神様たちの養分としてはいかがかと思われますね。
 今このテーブルから見えるところに、あなたのドテラ二枚ふらふらと日向ぼっこして居ります、余りよごれず、来年使える程度なのは本当にありがとう。これを虫よけ入れて、開成山へ送っておきましょう、覚えていらして下さい。ドテラ二枚とも、よ。きのう洗った足袋もフラフラして居ます。
 この間、歯医者の帰りに、ガンサーの『アジアの内幕』を見つけよみはじめました。あなたはヨーロッパの方を、およみになりましたっけか。考えかたや観察の深さよりもインフォーメーションが面白いのね。荒木大将邸の虎の皮や鶴亀の長寿のシムボルが西欧の目にどんなに映るかなどというところも、日本人として面白く且つ参考になります。
 支那の部は大分面白うございます。東洋、日本が、どんなに分りにくいかというのは、この本を見てわかるし、例えば(三井)の祖先しらべの中に、藤原の出で、道長という青年貴族が藤原をきらって宮廷生活を去り出生した村の名三井をとって姓とした、多分修養のため隠遁したのだろう、と日本人としては、著者としての信用問題にかかわりそうな間違いを犯して居ります。インド、アラビアにまでふれているから、面白い本と思います、「ヨーロッパ」の方が、ましであるという意見は本当でしょう。同時に、日本人が東洋をどの位知って居り、近似感をもっているか、ということについても反省されます。近くて、而も遠いというのが日本と他の東洋諸国とのいきさつのようね。日本人はちがうという、習慣的な考えや感じが日本人につよくあって、その程度は他の東洋人に推測がつきかねるところに、いろいろ複雑になるところもあるでしょう。
 きのうここいら迄かいたら、庭にいた犬が吠えはじめ、ピー、ピーと短く区切った口笛がしました、太郎の口笛なの。マア、太郎ったら。すっかり田舎っぽい日にやけた顔色になって、落付いた少年ぽさで、田舎言葉で、見ちがえるようです。よかったこと。黙って大にこにこで。早速裏の親友ミチルちゃんと遊びはじめました。うちの連中のいいところは、田舎に対して都会風の偏見が全くないことです。子供は、だからすぐ自然田舎言葉になって、周囲とも自然にとけ合ってしまうのね、先生もいい先生ですって。何よりです。東京のこの頃の暮しの空気に追われていない先生の方が、子供を育てる、という仕事に気がまとまるらしいのね。こういう時勢の力で、却って太郎や健坊が田舎で日にやけ、生活能力がひろがって育つとすれバ、一つの大きい幸です。わたしが、こんな台所仕事で、体力は、いくらかましになったように。
 太郎はどうしても九日か十日に帰らなくてはなりません。国府津の家の片づけその他で咲はもうすこしいなくてはならないので、もしお許しが出たら、わたしが太郎を送って行って、一日二日休んで、山々も眺めて、そして帰って来ようかと思います。親たちはそうすると好都合だし、トラックを利用出来るという、この際稀有な便利にあずかれます。わたしはわたしで、太郎と自分のチッキで荷物をすこしまとめてあちらに送れるということがあり、国も息子のお伴をわたしがして、おかみさんのこしてくれれば、田端まで荷運びもしてくれるでしょう、(荷運びもなかなかの問題ですから)急な思いつきですが、みんな好都合ということだし、わたしははりきりです。そちらに御不便でなければうれしいと思うけれども。いかがでしょうね、行けたら大いに能率的なのだけれど。いずれ明日御相談いたします。
 この頃暑くなって、わたしは一人で万端やるのが、すこし重荷です、そちらに行くと、歯医者、お使い。その上での台所ですから。歯をわるくして今休んでいる女中さんが、もう一ヵ月もしたら来そうで、そうしたら汗の出る間大助りです。夏へばっては仕方がないから。そうすれば、仲々うまく行くということになるでしょう。
 薬が買いにくくて困ったこと。全く困りです、ヴィタスなど島田へ伺って見ようかしら。
 きょうは咲がいるので、わたしは床から体がはがれなくて。体じゅうはれたようにギゴチなくなって、幾度も幾度も寝つぎして十五時間ばかりねました、ひどいでしょう? ゆうべ九時に床へ入ったのよ。その代り休まってかんしゃくも起りません。熱はいかがでしょう、お大切に。やはり出ましたろうか。

 六月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月七日夜
 もうすっかり夏になりました、きょうなど、暑かったこと。暑いときに歯のジージーガリガリは一層汗が出ます。きょう、お会いしたのが五時だったのね。それから歯へまわり、かえって夕飯終ったら八時です。
 ことしの夏はね、自分がすこし丈夫になったら、悲観のことが出来ました。のみ問題です、ことしはうちにノミが多くて、わたしは特にたべてみて気に入られたと見え、全く赤坊のようにやられます。痛くちくりとさすノミで、其は小さい体をしていて猛烈なのです、だもんだからこの三四晩、安らかならずという仕儀です。眠くて床に入るのに、チクリと体がビクつく位やられるので、むっくり起き上り、永年愛用の水色エナメルはげかかりの円い首ふりスタンド(竹早町以来の)ふりかざして、文字どおりノミ取りまなこを見はってつかまえます、わたしの眼もその位になったとはお目出度いと、目白のお医者様は祝賀をのべて下さいました。ノミとりまなこを見はると、眠けさめてしまって過敏になって、体中チカチカあついようになってノミも食いあき、こちらも疲れると眠るのよ。何と癪でしょう。イマズふりまいてプンプン匂う中に眠るのにね。
 島田の二階のノミのひどさ。でも、あすこのは、土地柄とあきらめていましたから、ここの二階の奴ほどにくらしくはありませんでした。目にも止らないノミに向って、大憤慨の形相して突貫している滑稽なかざしの花については、万葉の諧謔も思い及んで居りますまい。御主人公の御機嫌という厄介なものをあしかけ三ヵ月かかって克服したと思ったらのみ奴にせめられ、泣かまほしです、却ってこっち(のみの方)が泣けそうだから大笑いね。ノミは実にいやよ。ちょこまかして、悪達者で。旦那様に云いつけるぞと云おうが、此奴め、ユリをくう奴があるか、とにらまえても、ノミの答えは一つでしょう、ピョンピョンはねろよチクリとさせよ、今がおいらの全盛時代、とね。ノミはドイツにもいると見えるのね。「ファウスト」の中でしょう? 蚤の歌。どんな神秘主義者にかかってもノミは「おいら」族ね、決して「われら」族ではないわ。南京虫はまけずおとらず穢い一族ですが、あれは徒党をくみ、集団的で会議をするようで「われら」風です。クロプイという劇をメイエルホリドが上演しました。すべての寄食的存在を表象したものでした。
 きょうは、朝すこしおそく起きたので大いそぎで御飯をたべないうち、トマトの苗を植えました。千葉のです。移すのには大きくなりすぎていますが、丈夫そうだからうまくつくかもしれません。そのトマトはね、春ほうれん草をまいて出なかった畑をもう一遍こしらえ直して植えました。ほうれん草ではなく小松菜コマツナだったらしいのよ、畑直すについて出ている小松菜をみんな抜いて、今夜ゆでて、おママしにしてみました。その青々した色の鮮やかさ。それから田舎のお菜の匂いと味がしました。すこし燻りくさいような土くさいような。ああこれでこそ青い葉にはヴィタミンがあります、なのだと痛感しました。そして、殆ど生れてはじめて蒔いて、とって、ゆでたそのおひたしを、自分ひとりでたべることを千万遺憾といたしました。丁度二人前になったのですもの少いめではあるけれど。これで見ると、小松菜というものは、決して不味でありません、八百やのは、いつもこわくて水っぽくてよくないので、余り作らないけれど。
 トマトがついて一つでも二つでもなるようになったら、朝や夕方、それをもいで食べようとするとき、どんな歌を思い浮べるでしょう。いろいろのうたを思い浮べ、千万残念に思い、しかしそれで涙のうちに食べるのを中止するのではなく、ちょいと頭をふって、二人分せっせと食べてしまうところが、わたし流の悲歎ぶりです。畑というものは、決して決して単に蒔いたから生えた、生えたから食う、という丈のものではないわ、生活的な多くの内容をもって居ります。
 面白いことが二つあります。わたしは種をまいたり、苗を植えたりするとき、水をやたらかけて土のかたまるのが不自然に思え、泥はしめらしてもあとから水ビシャにしなかったの。姉さん駄目だよ、もっと水どっさりやらなくちゃあ。そうかしら。マアいいだろうあの位で。ところが、講座には、水をやりすぎて土を呼吸困難に陥れる害について強調していました。モラルめいた感想は、畑つくるにも野菜の身になれぬ。人間の慾ばりで、早く芽を出せという性急は駄目ですね、出さぬと鋏でチョンギルぞ、というのは、悪者の猿だとした昔の日本人はなかなかしゃれて居ります。
 それから第二話。胡瓜の苗が育ちつつあります。これは、いやなの耐えて、ごみすて(台所からの)穴へ入って、そこから汲み出した泥でウネをこしらえて大いに努力したものです、八本。太郎が来て、フーム胡瓜つくってるの、これじゃ、うね幅がせまいよ、もっとひろくなくちゃ。いつの間にか倍ほどにひろげておいてくれました。子供の仕事だから浅く掘られてはありますが、「あっこおばちゃん」のよろこびをお察し下さい。三月前の太郎は、畑掘ってくれ、と云ったら、だってエ僕と、体をくにゃりとゆすってことわり、あっこおばちゃんの腹を立てさせたものです。三ヵ月田舎で暮して、こんなにやることを覚え、父親が姉さん云々駄目ばかりを出して坐っていることと対比して、この一寸の相異が、将来に太郎の人生に加える大きいプラスをこころからよろこばしく思います。太郎の疎開は皮相的な一身の安全を期す以上の意味があります、何をやらしても何だか頼りない連中の次に、すこしは物にたじろがない、ものと生活を知っている活力ある世代が、こうして田舎で育つというのは微妙な自然の法則のようです。少くとも咲はよくよくこの大きい意義を知り、責任を感じ又よろこぶべきです。フラフラ子供をつれて戻ったりしてはいけないわ、少くとも中学を出る迄ぐらいは。太郎の弱点であるくにゃりとひしゃげるところ(弱さ)が減って、小堅くかっちりとして来ました。生活があるからよ、あちらには。ここで、街上でのらくら遊んでいる空虚は害があるのです。東京にいると、生活がありません。何もさせない、親でさえ、十分はしないのですものね。田舎でそういう実行的な育ちかたをして、うちの、というのは、わたしたちの、よ、文化水準で教養を加えれば殆ど申し分ないわけです。太郎の将来の図書目録は、寧ろ太郎の素質が果してそれらをこなし得るやと思うくらい充実して居り、多方面であり、面白く且つ真面目ですから。去年スキーに行った結果は、要するにああいうスポーツのやりかたは、有暇青年風だという警戒でした、太郎はマせているから宿やに平気で、それはよしわるしでした。下駄の下へ竹つけて雪をすべったり氷をすべったり、来年の冬は、赤倉なんかへ行かなくていいから、これも安心です。面白いこと思い出しました。わたしの足は、小さいけれど、子供時分ハダシにばかりなっていたし下駄はいたし、幅はひろいの。パリで靴買いに行って英語でものを云っているので、気を許して女売子が大きい声でわる口を云うのよ、ひろがった足してる、って。つまり下品な足だって。それは鞘に入れて育てたのじゃないものね、とわたしはつれに申しました、これは日本語よ、わたしの頭はがつまっているから、台がひろくなくちゃもたないのさ、と。まけ惜しみでもあるが本当でもあります。日本人て、こんなところがあるのね、漱石なんかこれでカンカンになって、ロンドンで神経衰弱になったし、あれ丈の文学論もかきました。日本人はおもしろいわ、大抵の人が一番気の利いたことは自国語でしか云えないところに、お気の毒さまというところがあります、そしてくやしさが内攻して、見当ちがいの愛国熱でゲンコふりまわしたりします。(よくベルリンで博士の玉子たちがやったように)
 日本人と云えばパリで緑郎どうして居りましょう、ルアーブルからセーヌづたいにパリは五時間以内ではないでしょうか、英語が通じるようになって便利するのでしょうか、そうまで呑気ではないでしょうね、いくらヨーロッパの中だと云っても。フランスの中だと云っても。あの若い二人の生活もここで歴史的一転をいたしましょう。丈夫でいてくれと思います。
 ついでに、一寸家事的ノートつけ加えます。冬のジャケツ上下、シャツ、ズボン下、どてら二枚、今ごろ着る外出用の単衣(これは新しいもので御存じありません、大島の紺がすり)、先へよって、真夏着る麻など、開成山におきます。咲に、いつもお送りしている約十倍、保管たのんでおきました。現金です。いつでも、すぐ用に立つようにしてあります。これは咲がまさか絶対責任をもつそうですから。どうぞそのおつもりで。そのあと、工合よく行けば、もう其と同じ位か、すこし多く、やはりあずけておきます、(今のところ、こっちは出来ていませんが)これは、わたし一人のまかない分とは別にしておいてのことですから御安心下さい。わたしの方は、自分にくっつけておきます。場所がちがえば、ちがったですぐ役に立つように。何しろ人だのみは出来ない場合もありましょうし、又そんなひとも居合せず。
 薬は、オリザニンみつけました土曜日に届けます。ワカモトで出しているワカフラビンというのは、もっとよい(メタボリンよりも)そうですが、今どこにもないので。ヴィタミン剤も精製されすぎていなくて、コンプレックスの多いものの方がいいということになって来ている由。よくわかりませんが、そんな風な話しでした。では又。
 お大事に。疲れを。

 六月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月十一日
 さて、こんにちは。きょうは十一日で日曜日よ。いま午前十一時半。さっき国、咲、太郎一連隊が出発したところです。あと、ざっと掃除して顔を洗って、髪結って、出来たてのところで一服というところを、こうして書きだしました。全く、いまこそ煙草のむべきところよ。三日に来て例のとおり大騒動いたしましたが、今度はね、その眼の下で芸当を演じたことが計らず曝露して、しんからいやになりはてながら、慎重にかまえ、例の身勝手鈍感の方はそれと気づかず、つまらなく文句云ったり、亭主風をふかせ、それをきいているあいての心は百里もあっちにあって、大したことでした。寿の引越しのときもわたしはここに居りません。実の妹が皆と一緒に食事もしないで、引越しさわぎをしなければならないのを私が見て黙って居られません。しかし、もし七月に入り咲が来られなければ、国に開成山へでも行って貰ってわたしが手つだいましょう。
 おっしゃっていた本、宮川何とかいう人のは、厖大なばかりでインチキ本の由、間違いも少くない由です。『結核の本質』という病理と細菌の専門家の書いた本でよむべきのがあるそうで、入手次第お送りいたしましょう。あの御愛読の『結核』教養文庫、あれは名著だそうです。あんな姿をしていて名著だというところに、何とも云えないいいところがありますね。
 きょうは、今迷っているところなの。きょうのうちに外出して、果しておいた方がよい用事が二つばかりあります、あした午後はお客でつぶれてしまうから。だが、朝早くから大さわぎして、お握りこしらえて出してほっとしたところだもんで、あついし、出かけるのも何となし進みません。もとだと、夜平気だったし、心持よかったけれども、今、夜はこわいし。どうしましょうね。行った方がいい? なまけてしまって、あした? でも困るわね、あしたなんて。くさってしまうものがあるのだから。くさらないうちに届けなけりゃいけないのよ。あああ、チン(犬)がもうすこし馬琴風の神通力をもっていて、首からザルでも下げて用足ししてくれるといいのだけれど。八犬伝とまでは行かなくて結構ですから。
 きのうは、毛のものと、どてら荷作りしてどうやら出しました。先ず一安心。もう二つほど送れるといいのです。この間、一日のうちに大体毛のものの洗濯終ったら本当に疲れました。お湯をマキでわかして、運んでは足し、洗っては運び、黙ってウムウムと働いて、きのうあたり本当にグロッキーでした。きょうもまだ十分と行かず。ここいらで一日二日ゆっくり横になりたくなって来て居ります。
 横になりたいといえば、ノミ騒動。いいあんばいにやっと退治に成功したらしくて、昨夜あたりのうのうでした。ノミのいない床によこになる心地よさ。騒ぎという字をよくみると、馬に蚤がたかったところね。これじゃわたしもいやなわけだと、ひとり笑いいたします。私のよこに蚤をたからしたら、字にもならないほどのさわぎのわけよ、ね。お察し下さい。
 この原因がチンなのよ。この間、吠えつかれてチンが八百やのキャベジ籠の間で腰ぬけになって、思わず抱き上げたと話したでしょう? そもそもあれが原因でした。ノミの方は、そんなこころなんか我不関で、得たりとたかって来たのでした。ひどかったこと! 以来、チンの可愛さとノミのこわさはきびしく別で、めったに体をすりつけてもらいません。チンは訝しそうよ。どういう工合なのかナという風です。
 ガンサーの本、ガンジーの伝のところ、面白くガンジーの自伝というものをよみたいと思います。聖書的率直さと天真爛漫さだそうです。ガンジーが、肉体の欲望を支配する力を得ようとしていろいろ努力して、四十年来成功しているそうですが、このひとはトルストイのように、自分の目的達成の困難さを、女のせいにしていかめしくかまえもしないし、ストリンドベリーのように、妙に精神的にひねくれもしないし、キリスト教徒でない、自然さがあるらしくて、そんなことも面白いと思います。十五歳で十歳の妻と結婚したのだそうです。北の生活の中では、わからない人間成長と性の問題のくいちがった様相があるわけです。インドでは体が、果物のように熟してしまうのね。精神は生活経験の蓄積の時間が入用ですから、体にまけて、萎えて、未成長のまま早老してしまうのでしょう。インドの聖人たちが、みんな肉体の支配について巨大な意力を動員しなければならないのは、実際の風土に対する人間的プロテストなのね。自然におけるそういう条件への抵抗と、イギリスというああいうガンコな壁への抵抗で、インドの人々の生活は、意力あるものは極めて強靭な意力を要するのでしょう。ガンジーは、ゴムのような男の由、堂々たるヨーロッパ人が大汗でおっつけない程迅く、やせて軽い体を一本の長い杖をついて運ぶ由。ガンジーの矛盾だらけ、不思議な素朴さ(経済問題について)は、即ちインドの一般生活のおそるべき低さと比例する困難さに応じたものであるというのは、興味をうごかされました。糸車も漫画に描くよりはインドとして意味があるのですね、いろいろ感じました。ガンジーのつよさ、力の諸源泉、そのコムビネーションについて。キリスト以来というのは或は当っているかもしれません。インドには、全く、「いわれなくしていやしめられたる者」が充満しているのですものね。ガンジーの秘書をしているのはミス何とか云ってイギリスの海軍大将の娘の由。ミス一人の良心で、イギリスの歴史を償おうというのは、荷が重すぎるでしょうね。
 ああ、本当にどうしよう、思い切って一寸出かけましょう、かげって来たし。雨だと(あした)又こまるから。では、これで一寸おやめに。

 六月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 六月二十六日
 この頃は本当に御苦労さまね。心からそう思います。熱はあまり出なかったでしょうか。生憎むし暑くて体がもちにくいし。おなかをわるくしていて、この時候では大儀なことです。丈夫なひとでも、あれでは大抵やられるのよ。疲れのため安眠出来ないのではないかと思います。わたしはもとそういうことがあるとは知らなかったけれど、ひどく病気してから夜風呂に入ってさえ、眠れなくなることがあるようになって、そういうときの工合わるさ、御同情いたします。どうぞ、どうぞ御大切にね。
 咲ひさしぶりでしたろう? 二十三日に出て来たのよ。六時すぎてしまって、さてこれからもし御飯炊くのだったら閉口だとふらふらになって入って来たら、台所の外のカマドで火をたいているのが咲だったので、わたしはうれしくて、ウームああちゃん! よく来てくれたとうなってしまいました。あっこおばちゃん! どぉうした? 二人が抱き合うような「感激的場面」を展開しました。〔中略〕二十四日にはどうしてもと思って来たのですって。こういう思いやりのあることを咲がやってくれるからどうやらやってゆかれます。あなたも咲を御覧になって、やはり似たようなことお感じになりましたでしょう。咲と話したのよ。あなたは輪廓だけにしろ、私の暮しのあれこれを御存じなのだから、ああやって咲がいるの御覧になれば、マア、その調子ならユリもやれるところもあるだろうとお思いになるでしょうって。そして、それは只何年ぶりかでお会いしたというだけのことではない、生活のこころもちをあなたに感じさせ、どんなにいいきもちか分らないから、私もうれしい、と。咲は、きっとわたしも変ったとお思いになったでしょうね、と云って居りました。いかがでした? この前泰子をだっこしてお会いしたきりでしょう? 四五年は少くとも経って居ります。咲は一つ年下よ。月末までいて帰ります。
 岩本の娘さんの一人が戸畑へお嫁に行っていたのではなかったでしょうか。あすこは鋳鉄で日本一なのですってね。どうしているでしょうね、小さい町は五機ぐらいで十分なものらしいのね。野原へハガキ出して見ましょう。
 六月十三日は母の十年でした。十二日に寿が出て、十三日は何年ぶりかで落付いて二人で墓詣りいたしました。寿と二人で、せめて墓参ぐらいしてやらなくては、全く親に申しわけないと思ったわ。それから、はじめて根岸の春江(咲の姉)のところへ廻って、明治初年の浅井忠の画室を外から見て(構えうちにあるの、初期の洋画家はああいう茶室風の画室に住んだのね、いかにも天心がああいう道服を着ていた時代らしい作りです。杉皮ばりだったりして、羽目が)ゆっくりして家へかえり、今日はよかったと話していたら、森長さんの電話で、わたしは眼光忽ち変ってしまいました。
 寿は国のかえる日までいて、実によく手伝ってくれました。寿もその間には、ふっくりした表情になって、この三四年来になかった心持のよい日を送り、あとどんな嵐が来ようと、つまりようございました。わたしは寿がつくづく可哀想よ。わたしは弱いものいじめをする人間は大嫌いよ。互格でないけんかを売るような根性は、ふつふついやです。そしてこの腹立ちは清潔よ。人間が人間らしくあるよりどころです。寿は鍛練が不足だし、性格のよわさもあって、自主的な善意。何しろ寿は心にかかることです。〔中略〕
 国は退去命令が出そうな事態になったらそれ前に田舎へ行くそうです。何も彼も放ぽり出して。話しだけにしろそうなの。わたしはそういう風に行動する気になれないから、家をもっとしゃんと腰の据った態勢に整理して、小堅く確信をもってやりとうございます。
 この間、咲が台所で鍋を洗いながらね、「ねえ、あっこおばちゃん、どうしたらいいんだろう。一生が又もう一遍やり直せるものならいいんだけれど、そうでないんだもの、ねえ」と述懐してわたしを言葉なからしめました。国は咲が一面大事なのに嘘いつわりはないのよ。
 世界はこんなに大きく歴史が轟いて推移して居り、その波は日夜この生活にさしているのに、意識した関心事といったら、けちなけちな一身の欲望、どんなにして尻尾を出すまいとか、口実をみつけようとかいうのだというのは、何と不思議でしょう。世相にけずられ、追いこまれて、小さく小さく、下らなく下らなくとなります。
 さて、そちらで待ち待ちガンサーよみ終りました。パレスチナのユダヤ殖民地をめぐって、アラビア人とユダヤ人とのいきさつなど今まで知らなかったことも学びました。「アラビアのローレンス」を思い出して、イギリスがアラビア人をおだてて独立をさせ、ユダヤ人の科学発明がうれしくてパレスチナの殖民案を通し、しかし伝統的なアラビア人とユダヤ人との流血的対立を排除するどんな実力ももたない点、両刃の剣風に双方をかみ合わせる点、ローレンスが自分の国の政策を見とおさず、アラビア人のため努力して幻滅したりするところ、興味をもちました。伝記などというものは、その関係からかかれなくては、一尾の魚の丸の姿は出ませんね。そして自叙伝などというものの新しい価値は、そういう時代と個人との千変万化なるからみ合いの角度を明瞭にしてかかれなくては仕方のないものなのね。自伝をかくとき、ひとは少くとも自分の生涯の世俗からみれば愚かしい迄の高貴さ、或は聰明とかぬけ目ないとか評価されとおしたことのかげにある穴あらば入りもしたい通俗さを、自分で知っていなければなりますまい。さもなければ、古い型の自伝なんかもうゲーテとルソウとオウガスチヌスとで十分ですもの。
 太郎の少年らしいよさ、満々です。来ていたときに、朝顔の種蒔こうというのよ、どこへ蒔こうというの。だから、あすことあすこがいいねと云っていて、忘れてしまい、この間警報解除の後、庭へ出て菜をとろうとしたら、マア、出ているのよ、芽が。云ったところに。じゃああっちにも出たかしらとみると出ているの。蒔いたよとも云わず、ちゃんと云ったところに蒔いて行ったのね。何と爽やかなやりかたでしょう、いいわねえ。うれしくてまわりの雑草をむしりました。雑草の中へ平気でかためて蒔いて行ったのよ。そういう自然を信じたやりかたもいい気もちです。鳥のようで。
 では明日ね。おなかがましであるように。今にさっぱりした浴衣おきせ出来ます。

 七月五日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月五日
 七月と日づけを書き、ぼんやりした愕きを感じます、もう七月とは、と。今年の早さは、早さというよりも遽しさであると思われます。時の迅さに、人間の足幅が追いつかず、工合わるくエスカレーターに乗りでもしたように、とかく重心がのこって、足をさらわれ勝の生活ね。去年の七月初旬は、まだやっとのろのろ歩き、妙な出勤をやっていて疲労し切って居りました。ことしは、其でもこうやってモンペはいて、警報の準備もし、にしんを煮ている間に手紙もかきます。
 おなか、いかがでしょうか。なかなかどこでも困ります。今鳩ぽっぽと共同食料のように豆入り飯ですが、こまるのは、消化がよくないという外に、くされやすく、今のように一晩経なければならないと、涼しくしておいても「ひる」はピンチになってしまいます。堅固なパンでも欲しいことね、近代武器に対処するにふさわしいような。呉々お大事に。シャボン、使いかけですが御免なさい。唯一の貴重品でした。夏のあつさ考え、なしでおすましになることはよくないと思って居りました。これからも仰云って下さい。何とかします。あなたを、丈夫な大事ないい布地と思いなして、浴用がなければ洗濯シャボンさし上げましょう。まなじっかの化粧用より万一、もとのがあれば、その方が本来の性質と用途に添ったものですから。シャボンよ、シャボン、こまかい泡をきれいに立てて疲れをそっくりもって行け、よ。
 きのうお話した森長さんからのことづて。全く全く、というところですね。あの人がああというのではなく、誰も彼も。そして、こうも思いました。わたしが小説をかくということは、これでどうして大したことなのだ、と。テーマのない小説というものはないでしょう(かりにも小説と云えるものであるなら)テーマはいつも核をもっています。其こそ大事で、万事のうちにテーマとその核とを把握するということ、直感的に把握するということ、更に其を科学的探究で整理し、核がもつ本質を明瞭にしてゆこうとする情熱をもっていること、これは芸術的と云うべきなのね。人生そのものへのくい入りかたの意味で、まさに芸術的なのね。
 一本人生のテーマが通っていて、それを生涯を通じて完成してゆこうとする人生態度の芸術性こそ、トルストイの知らなかった人生派の芸術だと面白く思います。芸術のきわまるところ、即ち生活そのものの創造的意義だということは実に面白いわ。シーザーは、いろんな占いをやって、おっしゃるように勇邁に其を解釈したのでしょうが、そういう占は見えなかったのかしら。シーザーなんかについて余り存じませず、しかしこれ丈は記憶にのこっています。シーザーは細君をいましめて、「シーザーの妻は、あらゆるときにシーザーの妻として振舞わなければならない」と申しました由。これは当時横行したワイロについて、それを受領するな、ということだったのよ。プルタークはかいて居りませんか? ナポレオンは気の毒な良人で、ジョセフィーヌには、えらい思いさせられつづけたのですって。例のフーシェね、ああいう奴やナポレオンの弟の不平組と徒党をくんで、偉大な人の苦痛や面目の傷けられることばかりやったのですって。人間の心の中に、そういう試みる悪意があるのね。神を試みる勿れ、とは苦労人の言葉です。ユダだって、人類的恥辱の裡にありますが、裏切りが面白いより、ひっくりかえしてみて、猶イエスは本当に死なない命をもっているのか、それを見たかった悪魔ね。近代人が、フーシェはじめポベドノスツェフの流の破廉恥を常習とするのは、いくらか違って、悲劇とすれば、アーサー王伝説中のゴネリアの物語みたいなものね。シェクスピアはそれからリア王をかき、コルデリアを描いたようなもので。もとね。プルタークについてはほんとうにそうだと思いました。人生経験というものは大したものね。そして、そういうものが読者に加るにつれて、一層味い深く読まれるというところに、作家というものの意味のふかさがあり、勉強のしどころがあります。大人の文学、というものは、房雄先生の定義するところより遙か遠い、質のちがったものです。俗人らしい厚顔さをますことではないわ。俗説をあれこれかき集めるのでもないわ。こうやって、暮していて、猶々仕事とは何か、ということについて会得いたします、そして、新鮮な情熱を覚えます。自分の人生が要約されてあることに歓喜を覚えます。仕事と妻の心と、主流は綯い合わされた只一筋のそれだけだというところは何と愉快でしょうね。この要約の豊富性については、よく表現しつくせない位のものね。芭蕉は一笠の境界ということを理想にしましたが、現代史の波瀾重畳の間で、よく要約された人生の道具をもって生きられるとしたらそれこそ人間万歳です。
 その至宝のような単純さ、明瞭さの殆ど古典的な美しさの中に、鏤ばめられて燦く明月の詩や泉の二重唱の雄渾なリズムは、どう云ったら、それを語りつくしたい自分が堪能するでしょう。こういうおどろくべき単純さと複雑さとの調和が、可能なのが、何かの意味で日本的だというのならば、日本の世界的な水準というものも納得されるようです。
 すこしきりつめた云いかたをすれば、現在のように今夜の自分の生命について信じず、ましてや数ヵ月後の其について信じず、しかも人間の未来の輝やかしさについて益※(二の字点、1-2-22)深く信じるこころをもって、こうやって書いていると、いのちへの愛が凝集して叫びたくなるようね。
 こういう感動の鮮やかな深さは、もしかしたら、今度は神経の負担が少いからかもしれません。珍しく国が居ります、そして珍しく本気で協力して居ります。わたしはうれしいの。わたしが余りよろこぶものだから国もうれしいところがあるらしくて、さきほど事務所へ出かけるとき「じゃ、なるたけ早くかえりますから。我慢していてね」と云って出て行きました。こんな言葉は、やさしい言葉よ。ね、だのに、この人ったら、浴衣の汗の口なんですもの、風向き一転するや、忽ち端倪すべからざる変化を示します。
 わたしのような人間には、信じないで信じている、というような芸当はむずかしいのに。姉弟ですからどうにかもってはゆくけれども。
 暗くならないうちに御飯たいておかないといけないのよ。ですからここまで。あしたもきっと書けそうね、今夜無事ならば。ゆうべ安眠出来たということのかげに、犠牲の大さを感じて粛然たるものがあります。ではね。

 七月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月五日 つづき
 夕飯を一人ですますことになったので、それに警報も解除となり明るくしてもいいのでお話をつづけます。
 先ず、「鰊のやきもち」という話をいたします。さっき七輪に鍋をかけて、にしんを煮かけつつあっちの手紙をかいて居りました。間で決して放念していたわけではなく、この北の海でとられて、身をかかれて、かためられたのを又ぬか水に漬けられ、甘く辛くと煮られる魚の身の上を思い、折々みてやっていたのに、どうでしょう。いつの間にかわたしが書く方に熱中したとみる間に、じりじりに身をこがして、行ってみたときには、おつゆがからからであやうく苦くひりついてしまうところでした。マアどうでしょう、とひとり言を云い乍らいそいでそこにあったダシをついで、こげつかないところだけとって、一寸煮直して小癪だから夕飯のとき半分たべてしまいました。わたしが小走りに七輪へかけつけ、唖然として且つあわてる様子御想像下さい。鰊は北の白熊に獲られるのね、きっと。やきもちやいて、東京へ出たら逆をやれと思って、自爆して、わたしという白熊を釣って駈け出させたのは手際とや申すべき。
 もう一話があります。なかなか多事だったのがお分りでしょう。「鑵今昔物語」というものです。砂糖の配給は、この頃〇・六斤が〇・五斤(一人)となって、月の中旬以後になりました。もと重治さんが「砂糖の話」という小説をかきました。さとうの話は、充満しているわけですが、うちの砂糖ののこりが、大事にカンにしまってありました。間違えてそのカンをあけたら(つまり間違えるぐらい、タマにしかあけないというわけ)これも亦どうでしょう。カンの中が蟻だらけなの。へえと思って、それをおはしでかきまわして、先ず蟻陣を混乱させ、カンだから小鉢に水を入れた真中に立てて、行くたんびに、カンカンとたたいて蟻を追い出していたつもりのところ、さっき落付いて中をよくのぞいたら変なことになって居ります、水があるのよ、わたしの入れたのはさとうなのに、うすよごれた水がカンの中にあるのよ。ちょんびり。さんざん眺めて、ああそうかと合点したって、もう手おくれです。当今の鑵を信じるうつけものと川柳にでもなりそうです。かんは底のつぎ目がわるくて水を吸いこんでしまったのよ。水の中でどうして砂糖がとけずにいられましょう。とけて水となれば、砂糖包のアンペラの底からハタキ出された身の素姓をあからさまにして、うすきたならしい水になるしか仕方がなかった次第でしょう。そのうすよごれた水を、いさぎよくすてるなどとは、今日の神経のよくなす業でありませんから、わたくしは口で悪態をとなえつつ、丁寧にガラスの瓶へうつしました。
 さて、三十日のお手紙にあった、野原へお母さんがいらっしゃったりするの、本当に結構です。お母さんが暫く家にいらっしゃらなかった間、お父さんが、外道奴、外道奴とお怒りになり乍ら活躍していらした、というような笑いと涙を誘う面白い話にしろ、野原の小母さんが話してですものね。それから、お祖母さんというお方は、大層姿のよい方で、十分それを御承知でなかなかおしゃれで、びんをこう出して、帯をしゃっとしめて、「後姿は、人も出て見るような」という話や、ね。おしゃれというのに二いろあって、表現的な精神の抑揚からのおしゃれはおもしろいことね。そして、わたしは、そういうおしゃれなら人後におちたくないと思います。おばあさんの御秘蔵であった小さいあなたに、おばあさんのそういう弾みのある人柄が何と感じられていたでしょうね。そういう姿美人の子だから、お父さんはお踊りになると、案外なしおがあったのでしょうかしら。お母さんはお父さんの踊上手がお自慢なのよ。御存じ? お父さんのお人柄のよさがそこに出ていると思って伺いました、どうしてあの武骨そうな人が、というようだったのですってね。
 鷺の宮は空気の気もちよい、林の畑の中の小さい町です。この間、着物とりに行ったらとうもろこし、きゅうり、なす、いんげん、じゃがいも等、家のぐるり一杯大きくなっていて、わたしの畑(!)がそぞろ哀れになりました。畑一つみても、力を合わせる者のあるところと、そうでないところの違いはおどろくばかり露骨です。この頃、どの家でも畑つくりをやっていて、気風がわかるようでしょうね。わたしが一人で、畑が貧弱なのもやむを得ません。その一人がともかく畑作りを着手した丈プラスです。一人だと、こんな風に畑は不便よ。朝おき、御飯がたべられる迄に一時間はかかります。いくら丸くても、半分でカマドの世話をし、半分で畑の草とりは出来かねます。夕飯頃日がかげって丁度水をやり、をこしらえてやったり、草むしりによい時刻一人は、一人で七輪の前で大汗です。鷺の宮なんかの風景は、ね、細君が台所にいるのよ。あなた、あの胡瓜一寸とって来て下さいよ、うんよし。或は、一寸旦那さん見えないナと思うと、草むしり。こうして畑は繁昌です。
 緑郎の暮しも目下は食糧が大問題でしょう。包囲の頃(普仏戦争)ゴンクールの日記に、やっぱり妙な貝を歩道で売っている、などと書いてありますが、その比でないようね。その時分は、牧場の牛や羊や畑を、空から見下してはブチこわして飛びまわる罪な化物は居りませんでしたからね。今それやっているそうです。大いに参考とすべき事実です。近郊というものの立場について、ね。袋の中のようなものになって大したことです。二人だからいいところもあり、又反対に、緑郎とすれば、いろいろの場合、妻の処置について心がなやむでしょう。
 ゴンクールの日記をよんだシチュエーションも面白うございました。わたしが風呂たきをしていたの、ひとりで。たきつけに古雑誌をすこし使います。そういう中からふと目にとまって立ちよみしたのでした、何処かの一寸した雑誌。パリの市役所に、義勇兵――国民軍募集のイルミネーションがつけられ、そこにぎっしりと男たちがつめよせて来ている情景などを、ゴンクールは鮮やかに、しかし同情なくその日記にかいて居ります。ゴーチェがこの敗戦で財産をすったとあわてて愚痴タラタラな姿もあります。政治上のことというつきはなした見かたです。
 政治家というものの職業化それに伴う腐敗のために、政治を寧ろ清純な人物の近づかないものとして見る見かたは、現代にも多くの作家を支配していますね。たまに政治的であった男は、又人物の浮薄さを、後々に到って露呈したりして、なおその経験主義の偏見をかためてしまっています。
 ここいらのこともいろいろ将来の興味ある課題ですね。「孫子の代」には、そういう偏見がためられ、常識がひろくつよく健やかになったとき、大きい変化が見られることでしょう。日本でも、あああの男は政治家だ、という場合、それは決して信頼すべき人物だ、という同義語ではないところに、いろいろのことがあるわけでしょう。人間学通暁者、歴史推進者が政治家である、という観念がゆきわたり、そういう実在が見られるには時間がかかることです。
 フランス人は政治家ずれしているところがありますね、精神史的に。又、政治くずれの面もあるようです。偉大な出来ごとの、真の偉大さを把握しないで、フランス人の皮肉・辛辣さでかたづけてしまうところもあります。フランス人のこの特色を、バルザックは立腹して居ります、立腹するバルザックを好しいと感じます。しかも彼は、その人間らしい立腹に足をとられて、自分を、折角怒ったのに、その甲斐のないようなところへもって行ってしまいましたが。
 この手紙はここで終りにいたしましょう、もう九日の午後よ。六、七、八と経ちました。たった一行の間に。今も亦一人です。アイロンがピシリピシリと微かに音をたてながら熱しています。わたしは、暑い日ざしを見ながら、あなたの血便はどうなっただろうと考えて居ります。アドソルビンという腸内の殺菌吸着剤が三共にあるかしらとも考えて居ります。こうやっていてさえも、だるいのに、と思って居ります。

 七月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月十五日
 暑い日でした。きのうも、ね。おなかの工合わるく、食事がちゃんとしないときにこの暑気では、さぞさぞお疲れのことでしょうと思います。わたしなんかメタボリンの注射していて、この位だのに。やっともっているという程度ですから。ことしの夏は誰にとってもしのぎがたいでしょうが、おなかのわるいのは実にいけません。苦しさが夏向きでないのに、大体いつも夏ね、何と残念でしょう。どうか呉々お大事に。いろんなことをおまかせして安心していられる細君は仕合せな者と云うべきでしょうが、病気まで病気している人におまかせしなければならないとなると妙な工合よ、ひどく妙な工合よ。奇妙な疲れかたをいたします。
 十二日づけのお手紙、金曜日頂きました。家のこと、一寸申しあげたように、気がねなんかする理由はありません。ただわたしとすると、いかにもそちらが御苦労さまで、はい、と自分だけ腰が上らないわけだったのです。田舎へなんかは、ね。国男さんは、東京の郊外なんか意味ない、自分は開成山へ行っちゃう、と云って居りましたから。これからの生活は大したものですから、新しくわたし一人でどこかで生活こしらえることなんか迚も無理です。疎開者向ねだんが発生するのは世界共通らしくて。食糧の問題も極めて深刻です。〔中略〕「風に散りぬ」の中の一八六三年頃、あれね。
 国も家のことについての考えは、グラグラして居ります。フランクに話さない自分の都合があったり、心ひそかに描く計画があったりなのでしょうね。ですからアイマイです。わたしがいなくては、自分も困るような話してみたり、わたしはさっさと自分で疎開すべきで、僕はどうにでもやるサ、と云うことになったり。そのどうにでもやるサの内容がタンゲイすべからずでね。だからああそうかと安心しきらないのよ。〔中略〕
 きょうは十八日になりました。暑いことね、しかし風がいくらか通るのでしのげます。そちらいかがでしょうか。おなかの工合はすこしいいでしょうかしら。この間珍しくカンカンにかかって計ってみたら十七貫八百(きもの、下駄ごと)ありました。一九三二年に十九貫あったのよ。わたしとすればレコードですがそれでもやっぱり太く丸いというわけでしょう。
 きょうの新聞でみると、学童が四十万人(六都府県)から各地へ集団疎開いたします、本月中に。千駄木でも三年以上は、その級がいなくなるのですって。学校のそばの疎開も、こわしの方は完成して、すっかり建ったばかりの家々(分譲地でしたから)もこわれ、材木の山と化しました。目白も沿線はこわれて陸橋の左右、角の果物屋も交番側のマーケットもなくなりました。池袋の武蔵野デパートね、あすこもありませんし、こっちの角の森永だったかしら? 三角のところ、あすこもすっかりありません。省線にのって行くと、おどろくばかりです、沿線はこわされて。ともかく家々には生活がつまっていたのですものね。方丈記の、人と住居とまた止ることなしと云ったのは、戦国時代の京都をよく表現しているということを実感いたします。東京も表情が随分変化したものです。
 御注文の本は「消化機疾患の診断と治療」というのでしょうか、御送りしてみます、腸疾患というのはないようです。ひょいひょいと高く熱が出たりなさらないことは、あなどりがたいプラスの由。封緘一緒に送ります。
 今午後二時、九十九度です。大きい大きい埃及エジプト人のウチワで煽いで上げたいと思います。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十三日 日曜日
 今午後の二時すぎ。わたしは珍しくのんびりして食堂のテーブルでこれをかきはじめました。こうやって手紙かくときは、いつもガタガタ連隊は出かけて居りません。その上、きのうから手伝いが来ました。樋熊さんという名よ。どこかの樋のところに熊が出て、その樋のそばに住んでいた祖先の末ででもあるのでしょう。トーテムのような名ね。台所のあれこれのひきうけ手があると、こうもちがうかとおどろきます。わたしはもうピンチだったの。十四日以後十六七日ひどく暑うございましたろう? あれでピンチになったところへ先ず咲が来て、その人が来て、わたしは昨夜は八時すぎ、就床いたしました。そして例により十二時間眠りました。それに昨夜は涼しくて、汗かかず眠れ、きょうは大分もりかえしました。
 そちらいかがな工合でしょう、おなかの方は。暑いところ、不如意一層で御苦労さまです。うまく納った状況でつづいて居りましょうか。あっちこっちの薬やを歩きますが、薬がありません。ヴィタミン剤はいかがわしいのまで、おそろしく氾濫いたしましたが、三四種に統合され、三共が一手でこしらえ、そして其は主として軍納品となる由。咲があっちで何か手に入るらしく申しますからたのみましょう。それまでに、何かほしいと思います。すこしおまち下さい。
 おなかも、突然高くのぼる発熱がなければ、随分ましとのことです。けれ共、実に型が多様のものだそうで臨床家には、試験テストものですって。どうぞどうぞお大事に。お願いいたします。
 寿は、やっと千葉に家をきめ、二十八日にトラックの手配まで、全部一人でやりました。あのひとも去年十二月からは一転して一人で万端とり計らう生活となり、苦労もいたしました。その家がね、つい近くに飛行場が出来るので、やがてはとりこわしとなるそうで、又別の家の話をまとめに上京の由、さきほど電話でした。こういう風ね、そこと思って、苦心の末見つけると一、二ヵ月で周囲の状況一変いたします。苦心の目的がふいとなります。すこし遠いところの家というのもそれでね。
 八月に入ると、ここに本式のコンクリートの防空壕に着手いたします。それはいいわ。おそすぎました。間に合うかどうかの境です。しかし問題は寧ろ、口の方です。前便で申しあげました通り。一日一日とこのことが痛切となり、体力と経済力とのかけっこの露骨さが感じられて来て居ります。殆ど自然状態の生存競争に、最も高度な経済事情が人為的に加っていて、おそるべきものです。明白に恐怖という字がつかえます。ですから、家のこと=住むところの問題は、全く遊牧民的条件で決しなくてはならなくて、決して、近代的の交通問題によりません。面白いというか、すばらしいというか。大したものね。家畜は牧草のあるところへと目ざさなくてはなりません。人間の踏破の様々の形態を思いやります。世界中が現在は、最も近代的な速力によっての踏破と並行に、最も原始的踏破を行っているというわけね。めいめいの足の寸法での。実に様々の流れがあるわけです。鉄の流れ(セラフィモヴィッチの詩小説)のみならず。騒然と、しかし着実に歴史が移りつつあるというのは実感です。
 前の手紙に申しあげたようなわけで、わたし一人だけでどこかに家をもつ――部屋をかりるということは殆ど不可能です。今はどこも、いいツルをもっている人に一室でもかしたがります。工場へつとめていて、カンづめをもって来るとか、布地が来るとか。ね。気風わかるでしょう? そういう慾ぬきで、わたしと一緒に暮してよいと思うひとのところへは、ほかの事情で暮せないのよ。笑えぬ滑稽ですね。だからわたしはいや応なし姉さんとしてくっついていなければ不便です。永続的持久法として。国が九月にはすっかり事務所を閉じて開成山へ行くと申して居ます。こっち誰か留守番を置いて。わたしはその人たちと暮すようになるのでしょうか、それとも開成山に行って、そこからこっちへ十日に一度ずつも出て来るようになるのでしょうか。今のところ自分で見当がつきません。そういう目安を自分で見つける為にも、今のうち一寸行って見るのはいいと思います。七月三十日か三十一日に立つつもりで居りましたら、何だか急に二十五日にでもなりそうよ。それというのは、寿が荷物をとりまとめのために、二十五日からトラックの来る二十八日迄ここの家にいて働きます。それはそうでしょう。国は、一つ家にどうやっていられるか分らない由、いやで。声をきき、顔を見、働く気配が。咲は、予定では二十六日にかえる筈でした。咲に云うのよ。わたしは、いい加減がまんするけれ共、寿と国とが、そういう状態でいる間にはさまって、両方へ気をつかって、寿は寿、国は国で食事するなんていうのに奉仕は出来ない、と。国が二十五日にくり合わされれば、わたしは国と開成山へ行き、寿の引越しは咲がいてやればいいでしょう。国は、わたしが寿に何でももたしてやってしまうと心配かもしれないから。わたしと咲が東京にいたのでは国、ぞっとしないし、開成山へ行けない由。あっちで女中と子供のところへとびこんで、どうしていいか分らない由。大人の男にもこんなのがあるのよ。きのうから国府津へ二人で行っていて、家の最後的片づけをやって居ります。その合間に、グテグテ相談して、きめるのです。今夜かえると決定がわかるという次第です。それによっては、二十五日に行くということになりかねないのですが、どうなることか。結局咲をつれて行ってしまうのかもしれないわ。さもなければ、急にあしたお目にかかりに行ってバタつき開始ということになってしまいます。自分が行くなら、もって行きたい荷物だってあるわ、いやね。歯の治療は今日が最終で、四月下旬以来の行事が終り、一安心いたしました。下の方の古いブリッジを直し、上のむし食いを直し、外からは一向どこをそれ丈苦心したのか分りません。金のどうやらやりくれる最後の由でした。
 この歯の先生が、元は絵をやろうとして(日本画)美校に入ったのですって。絵で食えるかと親父憤って金をよこさないので、一番血なまぐさくない、家にいられる歯をやりはじめたとのことです。平和を愛し、野心をもたない人です。この間、北九州のとき、丁度約束の日で行ったら、すこし顔つきと身ごなしがちがっているの。亢奮があらわれています、白髪の顔に。こちらはもんぺの膝をそろえて椅子にのり、先生はいつもとちがったテキパキさで道具をとって治療にかかりました。そのときちょっと口のところに指がふれました。その指が非常に冷たくなっていました。いつもは暖い、顔にちょっとふれて感じない老齢の指先なのに。国民にとっての歴史的な局面感が、こういう鋭い、小さい、活々とした感覚に集約されて表現された、ということは何と印象深かったでしょう。小説はここに在る、と思ったことです。おそらく一生忘れられないわね。思い出というものは、こんなちいさいしかも決して忘れることのない粒々によって貫かれたイルミネーションのようなものなのね。いろいろな色どりがあります。そして、一つがふっと光ると、次から次へと、灯がのびてゆくのね。
 きのうは、あの夕立と雹の嵐を見ながら十年の夏を思い出して居りました。ゴミゴミしてくさいところにいて、疲れのため、遠い夏空に立っている梧桐の青い筈の葉が黒く見えていました。同じような夕立のふった午後、わたしは打たれて膨れた頬っぺたを抑えて、雨と雹との眺めを見て居りました。それからとんで、わたしは何を思い出したとお思いになって? 可愛い仕合わせな汗もたちのことを思い出しました。
 みんな薄赤いその汗もは、仕合わせものたちで、パフに白い粉をつけたのを、不器用らしい器用さで、パタパタとつけられました。
 そして次には、水遊びを思い出しました。爽快きわまりないウォータ・シュート遊びを。玉なす汗を流しながら、好ちゃんは、何と強靭に、優雅に、飛躍したでしょう。夏の音楽は酔うように響いて居りました。よろこびの旗はひらめいて。
 段々雨がおさまって樹のしずくの音が聴えるようになったとき、一つの詩の断片が思い浮びました。われは一はりの弓、というのよ。われは一はりの弓。草かげにありて幾とき。猟人よ、雄々しい猟人よ、矢をつがへよ。われは ひとはりのあづさ弓、矢をつがへよ。斑紋ふもん美しき鷹の羽のそやをつがへば、よろこびにわが弦は鳴らん、猟人よ。
 白い藤をくれた古田中さんの 孝子の俤 というのが出来上りました。お目にかけます。あなたは孝子夫人にお会いになる折がありませんでしたが、写真を御覧になったら、きっと西村の系統のふっくりさをお見出しになるでしょう。母の若かった頃お孝さんに似て居りました。白藤の感想おきかせ下さい。今よみかえしてみると、体のまだ弱いところが分る筆致なように思われますが。このお孝さんの思い出と、母の『葭の蔭』の中の幼時の思い出と、くみ合わして編輯すると、明治というものの香が高く面白いでしょう。西村の向島の「靴場」[自注10]が、母の方の西村のそばで、この靴場の炊事場で小さい女の子の母が、沢庵のしっぽをしゃぶって遊んだりしたのですって。高見さんの文章の銅像は、こわして先頃献奉になりました。では又ね。これからは今までより手紙かく時間が出来てうれしゅうございます。

[自注10]西村の向島の「靴場」――百合子の母の叔父にあたる人が靴工場を経営していた。

 七月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十四日
 十九日出のお手紙けさ頂きました。ありがとうね。このお手紙は、もう一二度ありがとうね、をくり返したいように、いろいろなたのしさ、面白さ、明るさの響がこもって居ります。手にもって振ると、そこから心のなぐさめられる音が珊々として来そうね。そして、大人にも、ときにはお握り(赤ちゃんが握って振って音であそぶおもちゃ)が、何とうれしいだろうと感じました。ましてやその響は天と地と星々に及ぶ詩の予告なのですものね。万葉の詩人たちは、素朴さと偽りなさにおいて匹敵いたしましょうが、叡智的観照については、時代のあらそわれない光彩が加って居ります。藤村の詩の中に、こんな句がなかったかしら「何にたとへんこの思ひ。生けるいのちのいとしさよ」と。
 きょうは珍しいことでしょう、こうやって手紙を拝見してすぐそこで返事書き出せるというのは。幾ヵ月ぶりかのことね。そして、これは私の生活のリズムの自然さですから、うれしいわ。クマさんもありがたいことです。今あっちの縁側で鋏鳴らして掛布団のほごしをやっているから、なおのこと空気が調和していて。
 ふとん類についてわたしがどんなにクヨクヨ思いなやんでいるかお察しがつくでしょうか。只今世間に綿はないのよ。ふとん側の布地も買えません。今のを大切に使うので、それはいいが、どこへないないちゃんちゃん、としておいたら、無事に秋あなたをくるむことが出来るのかと、それについての思案でとつおいつです。何しろ八月と九月殆ど一杯という時間にはさまっていて、それは只ものでない時間ですもの。縫うことは早くしておかなければだめよ。だってクマさん、ちょいと自信ありげに口を尖らして、ああやって鋏鳴らしているのも、つまりは天から降って来るのが雹どまりのうちですからね。熱いこわいものが一度落ちたら、さっさとトランクもって桐生へかえってしまうでしょう。ですから早く縫う必要があるのよ。そして出来たらどこにおきましょうね。せめて鷺の宮? ここは駄目よ。都外へ出しては、輸送が全く大したことになってしまうでしょうしね。開成山へ送ろうかと思って居りましたがどうかしら。御考えおしらせ下さい。
 それから草履の件。何となく笑ってしまいました。だって。そちらへ送ってよい、という場合は、いつも、何によらず入手困難の結果でしょう。もう大体世間にそんなものはない、という時なのよ。すべてがそうよ。草履というもの、男の草履、麻うらという風なものは、既に辞典ものです。カステーラとともに。たまにあるのは、ひどい、すぐ緒の切れる代用品です、それも参考のためよいかもしれないけれど、お気の毒です。わたしが、そちら用に買ってもっているのはどうでしょうね。緒に一本細い赤が入っているが。さもなければ昔、あなたが足をお挫きになったとき一寸はいていらしたのは? ああいうのは、本当の草履は、勿体ないかしら? 素足でじき黒くなってしまうしね。又キョロキョロして歩いて見ましょう。犬も歩けば、かもしれないから。女の下駄というものもないのよ。田舎にたのんでもないものとなりました。名将言行録はもう、腸の本と一緒にお送りいたしました。風に散りぬ、は手に入ったらお送りいたしましょう。怒りの葡萄下巻も、もしかしたらあるのよ。たのしみです。借りものですが。
 隆ちゃんからのたよりよかったことね。あの言い表しかた「天地の回転は」というの、よく兄さんに似たところがあります。何というか、その回転の大きやかなテンポというか、味というか。富ちゃんはきっとこう書いてよ、「光陰矢の如しと云うとおり」と。隆ちゃんのよさ満々ですね。天性の規模は面白いものです。短い何気ない表現の中に一種の大さがあります。隆ちゃんにわたしのやる手紙、本、ついているのでしょうか、ついたという文句は一つもありませんでしたが、この半年ほど。こちらへは航空便来ません。そして、来ても、あの人らしく控えめで、気候のこと、元気に御奉公のことばかりしかかかないのよ。それはやはりあのひとらしい味に溢れて居りますが。
 達ちゃんも落付かないことでしょう。忙しく働いているでしょうね。
 週報のこと分りました。お金一年送ってあって、それは来年までよ、多分。
 この間古本屋でシンクレアの「石炭王」という小説を見つけました。大正の終りに枯川が訳したものです。金持の大学生が見学のため炭坑に入り、そこのひどい生活におどろいて良心を目ざまされ、不幸な人々のために一骨折るところですが、最後は妙なハッピエンドです。丁度水戸黄門道中記みたいに、どたん場で、大金持の息子という身分を明らかにして、暴力団のピストルを下げさせてしまいます。そして、働く人たちには、君たちの友達だよ、いざというときはきっと味方する、と金持世界に帰ってしまうのよ。
 この小説を読んで感じること、学ぶことは、ああいう国の個人が自分の生活を自分で持ち運んで動きまわれる範囲の縦横のひろさ、ということです。何でもない人が、何でもなく、何でもある経験をなし得るのだし、その何でもある経験から、自然に何でもない生活人にすらりと入れるという、そのひろさ、深さです。わたしたちの周囲では、何か一つの際立った経験があると、周囲はすぐその人を何でもない人にはしておかないし、御当人も何でもない者になり切れず小さくかたまってしまう傾向です。一粒一粒の個人の内容の大小がこうして異って来るのね。風に散りぬの作者だって、あの小説かいたきりもう書きませんと何でもない人になるのですものね。日本の女で、あの位の小説かいて、何でもなくているでしょうか。
 きょうは、もう手紙かきをこれでやめて働き出します。寿の引越しにもたせてやるもの、たのむもの、まとめなくてはならないから。咲、国、まだ帰らないのよ。明日どうするのでしょう、いずれにせよ私は行けません。
 夕方ごろ帰って来て、じゃあ行く、と云ったってお伴に立てるわけはないのですものね。桃太郎のお伴の猿や雉ではあるまいし。
 一昨日の雹でうちの南瓜の葉っぱ穴だらけよ。胡瓜が小さく実をつけました。トマトも夏の終りになるかもしれません。
 きょうも涼しいこと。おなかを大切にね、冷えないようにね。東北は水害相当の由、麦も雹で大分やられました。

 七月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 さて、やっと一騒動終りました。くたびれて、眠たあいけれども眠る気もせず。これをかきはじめました。このインクは、風変り、当節のものです。何と云う名かしりませんが、アテナなんかないらしいのよ。小ビンをもって行くとそこにあけてくれます。普通では学生でないとインク売らぬ由、そこのおばさんは――動坂の家へ曲る角の交番(大観音の)あの角の店――わたしが小学生、女学生となってゆく姿をよく覚えているそうで、マアお珍しいと売ってくれました。インク一つに、これ丈の因縁がもの申すとはおどろきます。大分うっすりしたものね、でもおばアさん自慢して、これだって、うちのは水と粉と分れたりはまさかしませんよとのことでした。手帖のなさ、書く紙のなさ、インクのなさ、雪深いところでの生活を思い起します。
 昨日二人かえって来て、やはり二人で又開成山という決定でした。その方がいいわ、わたしは迚も駄目でしたから。これから寿が参ります。そして二十八日にトラックが来れば引越します。随分ピンチのところあぶない芸当ですが、親切な人があって、自分が応召になったら、あとで困るだろうと、その急な間にトラックを心配して、そして出て行った由、奥さんが寿の友達です。
 咲が大鳴動をしてさっき出発いたしました。国府津で大働きして来て、又ワヤワヤと荷物こしらえてワーと立ったのですから、一通りの鳴動ではないの。妙なものね、去年の春からあんなにちゃんとしろと云っていたのに病気のせいで気にすると云って、今さわいだって夜具も送れなくて。
 咲はもう当分来ないでしょう、国は来月初旬かえるでしょう、何かあったらどうするの? そうしたらいつまでだって帰らないよ。いい返事ね。大抵の気では暮しかねるあいさつね。
 明日から二十七、二十八、と、こんどは一層根深いさわぎをしなくてはなりません。でも寿も焼けないうちピアノを持ち出せれば幸運だったことになります。三四日のところ、無事ですましてやりとうございます。これからの益※(二の字点、1-2-22)すさまじい時に、たった一人ああいうところにはなれていて、随分気のはることでしょう。食物のことなんかにしろカツカツ食べられるという程度だろうと云って居ります。釣り上りようが激しくてそういう予想を導くのでしょう。事実そうであろうと思われる全体の勢です。
 きょうは火曜で、木曜とおっしゃったけれども、明日出かけてしまいそうです。くすりが欲しくて欲しくて。このかわきはどうしたのでしょう、外の光が午後四時で、余り緑と金とに溢れているせいでしょうか。そして、静かだからでしょうか。静けさの底にいのちの流れが感じられるほど、そんなにしずかな午後だからでしょうか。人気ない公園の樹蔭の白い像が、ひとりで生き出して、すきなひとのところへ歩きそうなのは、こういう緑と金との光に充実した午後の静寂の中でしょう、ありふれた詩人たちは、とかく月光に誘われてと申しますが。月の光は、白い皮膚にひやりとし、わが身の白さに像をおどろかせます。こんなしずけさ、こんな光、万物が成熟する夏の気温。その中で像は、いつか自分の姿を忘れ、すきなひとと自分との境さえも分らなくなってしまうのでしょう。きめの緻密な大理石が、とけて、軟くなり、重く芳ばしくなってゆくのはどんなに面白いでしょうね。
 散歩に来る人間たちは、決してこの不思議を知りません。台座にこう彫られてあるのを読むばかりです。「いのちをかけて めでにき」と。実に微妙な光線のあやで、それらの綴りが、こうもよめる不思議を見出すものはありません「その胸に よろこびのしるしをつけん またの日」。
 活々とした人間の世界には、数々の不思議があります。そして、それはみんな、人間らしさの骨頂の人間たちがつくるいとしいいとしい奇蹟です。奇蹟の発端は、純潔なこころの虹であったのでしょう。坊主が永劫地獄におちるのは、それを方便にしたという丈で充分ね。
「石炭王」をよんだつづきでゼルミナールよみはじめました。お読みになっているでしょう? わたしは初めてです。ゾラの小説の肌合いがなじみにくいところがあるけれども、描写の根気づよさにはおどろきます。あの時代の作家たちは、腰をぐっとおろしたら、なかなかのものね。シンクレアなんかは、ほんとに観察しているのかしら、と思うほど粗末で、素描的です。
 炭坑の黒さ、重さ、やかましさ、実に浮き出していて、ドンバスで、長靴はいて坑内を歩いたときをまざまざ思い出します。十九世紀のフランスの坑はカンテラ灯でてらされていたのね、そしてトロ押しを坑夫の娘たちが男装でやっていたのね。石炭を燃した動力で、ケージを何ヤードも上下させていたのね。
 ゾラとセザンヌと若いときは大いに親しかったのに、後年セザンヌはゾラを、気ちがいのように呼びました。ゾラが小説の中で、セザンヌをモデルにして、生成し得ない天才として描いたのがセザンヌをおこらせたからの由。ゾラを俗物という気持も(セザンヌとして)分るけれども、その俗物性(現世的事件にかかわる点。ドルフュスの時など)が歴史との関係でマイナスばかりではなかったことをわからなかったセザンヌは、やはり同時代人としての眼かくしをかけていたのですね。
 同時代人というものの切磋琢磨的相互関係は残酷というくらいですね、同時代人は容易に自分たちの同時代の才能を承認しません、試しに試すのね。そして遂にそのものを天才に仕上げてしまうのよ。賞揚によってというよりも寧ろ抵抗を養わせて。寿まだ参りません。今夜早くねるのがたのしみです。はれぼったいのですもの、夏の真昼の公園のイメージのときはぱっちりでしたが又ねむたいわ。ではね。お大事に、呉々も。

 八月一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月一日、
 さあ、これで一先ず落付きました。ゆっくり、あれこれのことをお話しいたさなければなりません。
 今夕方の六時で、わたしは第一次夕飯を終りました。というと、第二次第三次とありそうで、支那の長夜の宴めいてきこえますが、実際はね、一度分に御飯が足りなくしかのこっていなくて、迚もこれでは駄目なのよ、しかし、ひるはパフパフですましたから、チャンともう一度たべる必要あり、午後からよく働いておちおち手紙かけない位ペコでしたから、豆入り飯にトロロコブのつゆをたべたところ。こんな話しぶりで、もうおわかりでしょう、うちには私一人だということが。そして、欣然として二人遊びにとりかかったということが。
 二十五日の午前十一時何分かの汽車で、咲国二人旋風の如く出立。夕刻、寿が来ました。(その間に手紙かいたわね)次の日から荷物のかき集め、生れた家から出るというので、何となし喋りたく美味しいものがたべたく、そういう寿のこころと口とを満すために相当困憊いたしました。二十八日に、トラックが来るというので二十七日に男雇って荒準備しましたが、二十八日は遂に来ず。今のトラックなんて、来るのが奇蹟故、つまり来るならいいがと大気をもみよ。国は電報をよこして、トラックキタカ、イツクルカ、ヘン、というわけです。次のイツクルカは、わたしのことなの。申していたでしょう? もしかしたら月末から一寸行こうなんて。そのことなのよ。トラックは三十一日に来るということになったし寿一人のこして行くなんて不可能ですし、クマさんが大した成長ぶりで食慾のかたまりみたいに一日わたしを煽ります。何にいたしましょう、何にいたしましょう。
 三十一日には其でも奇蹟が実現して、トラックが来ました。十時すぎ。それからすっかり積んで、十二時迄出発。寿一時何分かの汽車にのって、あっちで荷物うけとるの、それは考えても気の毒です。何しろ寿の荷物と云ったら、大きい一身上のうえにピアノだ机だ、ワードローブだと、男が三人でもやっとこのもの(ピアノ)などだから実に大したことでした。木戸をこわして運び出して行ってしまったのを、あとから直させたり。
 寿の荷物のあったのは食堂の向いの板じき室、あの元の食堂、あの頃畳で、壁に深紅の唐草の紙が張ってあり、なべやき召上ったあの室。夏のこと故、こっちとすっかりあけ放したら、ガランと床がむき出しになって、行ってしまった感が沁々として寂しゅうございました。本当に、行ってしまった、と思って、さっぱりと何一つない大きい室を眺めます。風通りは、全くよくなりましたけれ共。普通の引越しとちがってあのひとの場合は、去り行いたのですものね。めでたく一世帯もつのならどんなに安心でしょう。それでもうちにわたし一人で、隣家の夫妻だのに手つだわれて、大さわぎで出してやれて却ってよかったわ。遠慮なくごった返せて、寿のためにうれしかったと思います、いる者は少くとも全員心を合わせ働いたのですから。しかし、かざらしのへばりかたは猛烈よ。気をつけて湯も浴びて埃をおとす丈にして入らず、自重しておりましたが、昨夜もよく眠らず。疲れすぎたのよ。手伝いがなくてへばったところへ来て、ヤレヤレとよろこび、ああやって、幾ヵ月ぶりかで割合繁く手紙もかけましたが、直ちに引越しさわぎと食い騒動で、又もや窮地です。
 ところがね、天に神が在って、助けが下りました。成城に室をかりられるらしいのです。それが又一風変っていて、よさそうなこと丈並べましょうか、先ずわたしの駑馬的事務能力に欠くべからざる電話があります。主人が居りません。主人は女のひとで物もちの令嬢の由、五泉ゴセンと申す人。大連で実父が没し、そちらへ行って三年帰らず。留守を、おうた、という女が(四十位)して居ります。おうたはそれ以前日暮里夫人のところにいてこちらをよく知って居り、いらっしゃるお客様方の中では一番好きでございますわ、という人。主人は留守番費を出していますがやり切れないので諒解の上、おうたの選択で人をおくことにしました、その話は二三ヵ月前にききましたが、わたしの気分がグラグラでしたからそのままにしていたところ、この間のお手紙やお目にかかったときのことで、やはり郊外で暮した方がよいときめ、其ならと、おうたのところきき合わせたら、マアどういたしましょう二日前に若い女の姉妹が来てしまって。よくない部屋なら、というのです。わたしは、却って二人の若い女の勤め人たちがいる方が気が楽です。おうたという人は稼ぎもので自主的に動いてはいるけれ共、さし向いでは、経済能力の関係上重荷です。他に二人いて、その人も室代を出し、そしてわたしがいて、その代りわたしは、力仕事はおうたさんにして貰うという方が、遙にようございます。大体余り高くなくいられそうですし、おうたさんの生活力が旺で、ここでクマを養うような負担は全然ないらしいから、ごく単純な書生暮しにやれそうです。成城のあたりを御存じでしょうか。駅から近くだって。学園の方の側で。あっちは、奥がひらいて居りますしいくらかましでしょう。附近に畑もあるし。
 三日に行って細部をきめて、すぐ荷をすこし送ります。室代食費おうたの礼が基本です。五六十円でこの分は納りましょう。つけ足りがこの頃はひどくてね。副食物などのね。しかし其とても合理的にやれないこともないから何とか参りましょう。そういう風に、めいめいが自分の暮しは自分でまわしてゆく人たちの中で、あっさりやって、時間が出来て、仕事して行けたらもう願うことなしの条件です。おうたさんが、主食はやってくれるのよ飯たき汁ごしらえなど。配給ものの料理は。自分は一度パンですから、そのときコトコトすればいいの。大した身分でしょう? 配給もとってくれるのよ、これこそ素晴らしいわ、今だって二頁前の真中ごろ、魚やへ行って来ました。ザル下げて月の光にてらされて、地べたに丸き影うつし。サバ二切(二人)。第二次夕飯のおかずが出来てよかったけれど。この間うち曇ってさむかったのが久しぶりで夏めいて月もいいので、白い浴衣の人かげが一杯出ていて、賑やかで、子供ははしゃいでサバとりの行進と思えない賑やかさでした。面白うございました。
 こっちのうちはどうするか分りません。けれどもわたしは行ききりにならないとしても早く動きます。そちら迄二時間かかるでしょう。新宿をどうしても通るのが、いやですが、どこからだって、何か門があるのですものね。
 あっちは紀という従弟が、いいよと云っていましたが迚もないと思っていたの、家なんか勿論ないのよ、ね。でもわたしは、あっさり食べ、勉強出来る生活ならその上のことは申しません、この時代の中で。
 経済的には忽ち大口くい込みとなりますが、そのときは又そのときのこととして、ともかく仕事出来なくてはその点も私としての本来的解決の方法が立ちません、自分として握っていてかけ合うものがなくては、ね。ですから先ず仕事をはじめる次第です。一冊ずつの計画でかいて行きます、作家論にしろ、文学史にしろ小説にしろ、ね。一冊ずつを一まとめとしてのプランで。仕事が出来ればおのずと途も拓けると信じます、出版者も近視ばかりでないでしょうし。出版不能が、個々人の事情でなくなって来ているのが、却って面白い点です。人間もおもしろい気があって、どんなに低下したって出ないとなれば、それならと反転して、視点を高めるところもあったりしてね。世田谷区成城町四二三五泉方というのよ。電話はキヌタ、四〇八。豪徳寺から三つ目ぐらい? おうたというのは大畑うたというので、何でも毛利家のどの分家かに八九年いて、老女が辛くて出た女です、縫物もしてくれるから大助り。どうして御亭主もたなかったのかしら。所謂婚期を逸したのかしら。ごく一般的な働きもので、早口のひとよ、丸めの小柄で。
 室の都合は何しろ先客が、貸す室(一番いい座敷)つかっているので、わたしはあっちこっちとなりそうですが、その方が、とじこもりでなくて楽です。昼間殆ど一人よきっと。二人は出るし、そのおうた女史が、附近の家庭の手伝に出て稼いでいるのだって。そういうの、さっぱりしていていっそいいでしょう。へんにからみつかれてさしむかいでは息をついてしまいますものね。洋風の応接間とかがあってそこにいて、眠るのは二階らしいの。食事は食堂だって、腰かけの。うちのような工合ね、同じことして居りますもの、食堂で今はこれさえ書くのだもの。やれそうでしょう? 運がよかったと思い贅沢は申しません。これで一区切りね。そして第二次夕飯よ。今夜はよく眠れそうです、月夜でしゃれているし、こうやってすこし話せたし。

 八月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山南町一八六中條内(封書)〕

 八月十一日
 きょうは、十七八年ぶりで、ここの家の奥の机でこれを書きはじめました。こんどは急に来て御免なさいね。二十五日に国、咲がこっちへ来て、国の帰って来たのが四日。その晩に、こんどは姉さんも是非つれて行くよ、という話で、わたしもホトホトグロッキーだったから、それは行きたいけれど留守をどうするのさ、と云ったら、それについちゃあ相談して来た、と事務所に十何年勤めている女の子とその親友の子供づれの女のひとに来てもらうようにしたのですって。何しろ九日にはどうしたって立つというのに、それ迄に果して留守の人が来るものやらどうやら何だか分らなかったので、お話しするのも火曜日になってしまったわけでした。
 火曜日の夜留守が確定して、水曜日の立つ朝その人たちが来たのよ。三十一日の寿の引越し、四日の大掃除、手伝いに来たクマさんは一日に帰ってしまったので、全くえらい疲れでした。
 途中腰かけられ、五時間ほどして黒磯辺からは空気も高燥になり汽車もすき七時五十何分かにこちらへついたときは、田野の香いが芳しい涼夜でした。
 それにしても、今の旅行は一人で出来かねることね。何しろ十六年に島田行ったきりで病気以来はじめてだから、切符買う証明、駅へ前日行って買うさわぎ、上野駅の列、座席の争い、そのためのマラソン、一人では気負けしてしまうようでした。わたし一人では温泉へもやれないと云っていたのは本当ね。制限になっていてこれですもの。特に今は学童疎開で、その制限が一層なのに。
 こちらは何と云ったらいいかしら。変ったと云えば実に変りましたが、ここの芝生の庭からの眺望は大して損われていず、広闊な耕地と、彼方の山並とが見晴らせ、人が住みついているので、却ってわたしが元来た頃よりは荒廃の美が現実生活で活気づけられて居ります。客間の、ひーやりする籐の敷物、古風なオールゴール、白いクマの皮などが一年に何度あけられるかしれない乾いた動かない空気の中で樟脳の香をたてていたのが、今はフーフーと風吹きとおしにあけはなされ、書院の「磐山書院」という額の下には、健坊の昼臥のフトンがしかれていて、おむつがちらばっているという光景です。自然的というか、本能的というか、人間のそういう生活が溢れています。書院に、小包がワンサとつんであってね、その左右に、こんな文句の聯がかかって居ります。

天君泰然百體從令
心爲形役乃獸乃禽

 そして、ランマにお祖父さんの明治初年の写真の引きのばしがかかって居り、空では練習機が朝六時から飛びづめです。
 健坊のパタパタいう小さい跫音は実に可愛うございます。のびのびと育っているわ。茶の間の前の敷石のところに、三匹の仔犬がいて、それは健坊の愛物です。野良犬の仔だのに大きくて、コロコロで黒い体に白タビをつけたように四つの脚の先丈白いのよ。
 こんなにここの空気がいいと感じたのは初めてです。こんなに疲れて来たようなこともこれまでの生活ではなかったのね、おそらく。最後には、外国へゆく前の夏一寸母にその報告がてら来た丈でしたから。紫外線がつよくかわいているので、顔を洗ったあと、何かつけないと皮膚がパリつきます。尤も水もわるいけれども。東京では洗ったあとから汗がわくみたいで、何もつけられませんが。
 こちらの食物も極めて単調で、トーフなんか二ヵ月もたべられず、魚もないそうです、玉子もトリも。しかし、ジャガイモは、米とさし引ながらたっぷりあって煮ころがしをたべ、消耗の少いところからガツガツが少いようよ。畑からキューリもいできて、トーモロコシ折ってきて、其だけでもちがうわね、きもちが。子供ががつがつしていないのはうれしいと思います。
 着いた九日の夜は夢中で臥てしまって(一時四十分発、七時五十分着)きのうは一日体がギシギシして茶の間にみこしを据えたまま動けず。夕方畑まわりをして健坊が、葉かげの南瓜に挨拶するのをうれしく眺めました。
 きょうは、よほど体も楽になったのよ、こうやって手紙かく位。今にアンマさんが来るかもしれません、肩をもんで貰います。体のあちこちしこりがとれかけているのに、肩だけ怒らしているみたいにつまっているから、もんだ方が早く楽になるからって。
 こうやって林町での生活を遠くから見直してみると、三月から実によくもやって来たと思いますね。全くトレンチ生活だったわ。捨てた城に一人いるようなものなのだもの。そういって笑ったのよ、わたしが今度こっちへ来たのはエポックになってしまったよ、もう林町の番をする気は沁々なくなった、と。林町へは国が一寸帰っても落付けず、ソワソワしているのも尤だと思います、こっちをみると。わたしは、当然こっちにいて国のように落付けず、たかだか休養の安らかさを感じ、こっちに落付くことには本然の抵抗があって不可能ですが、成城をきめておいて何とよかったでしょうと思います。
 月曜日にここから帰り、あれこれ用をすまして、成城へ行きます。ここへ来るのはわたしにとって、いつも何か意味のある時であるのも面白うございます。自然描写たっぷりよりも、こんな手紙になるのだから、今の時勢ね。又、来てからまだ門の外へ出ないのですもの、裏山の方やおけさ婆さんの方の景色のお話ししようもないのだけれど。
 おみやげに草履がありそうよ。但、ありそうというところに御留意を。夕方、咲が自転車で町の入口のその店まで行ってくれますって。あればうれしいことね。さし当って何よりのおみやげね、わたしの休めたことの次には。
 きょう位工合よくここの空気がきけば、明日明後日とよほど休めるでしょう。そして、その下地をなくさないうちに、成城ですこし丈夫さをためこもうと思います。かえる迄にはもう一度かくでしょう。暑いけれど、ここはカラリとして凌ぎようございます。
 どうぞお大切に。一人でこの空気を、と思うと。だからいやよ、ね。

 八月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(郡山市街全景の写真絵はがき)〕

 こういう風な街の上に、朝からブンブンです。どこへ行っても、ね。
 荷風はラジオを逃げて引越ししたそうですが、雲のみの空ぞ恋しき安積山。よ。安積山は万葉にも出て居ります、その山が、こうして書いている茶の間の北手に見えます。今はボーとしていますが。汗と埃と心労でかたまったメンが一重顔からはがれて、生地が出て来たようです。

 八月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 八月十三日
 きょうは、こちらの盆の入りです。田舎のお盆ということをすっかり忘れて、急だったので土産ももたずに来て、ハア、百合子さん来なすったけエで、些か閉口して居ります、帰ると小包作りだわ。ハア何年ぶりだっぺなア、うちの嫁っ子がまだねえうちだったない、というようなわけなの。
 飛行練習にお盆休みのあるということはうれしゅうございます。きょうはこの眩ゆい空に浮ぶのは夏の白雲ばかりよ。遑しい世紀の羽音はしずまって、村人はお花をもって墓詣りをします。盆踊りも三日間はするそうです。ここの村では太鼓をのせる櫓がこわれたから駄目なんだそうです。きのうの夕方、何里か先の村の太鼓の音が、ちょっときこえました。じいさんの市郎という爺の代から三代目のつき合をしている正一という鉱夫出の農夫が、いかにも都市周辺の現代農民の諸性格をそなえていて、特徴的です。日露戦争のとき捕虜になったことのある別の爺さんも、わたしを夕立のときおぶってかけて帰ったというような縁で、この男と女房と養子との守勢的打算生活の態度も特徴的です。時代に揉まれる農家の人々が、そこを棹さしてゆく、おどろくべき頭の働かせかた、二十年昔の開墾村は、今日全く抜目ない市外農村です。配給野菜で都市生活のものが、どういうものを食わされるかということが沁々とわかりました。リンゴ一貫目十二円五十銭の公定だそうです。三四十粒かかるのだそうです。しかし食べられるものにするためには、三度消毒して、十八円かかるそうです、消毒剤の払底がひどい由。白菜を蒔きまき市次郎曰ク「ハア薬がなくて心配なこった」、わたしは、こっちの生垣の中から立ってそれを見ているのよ。そして、こんな話をするの「こっちじゃ立鍬を使わないんだね。それじゃいかにもハア腰が痛そうだ。」臥鍬の、ずっと柄のひくいので、二重フタエになってやるのよ。「この辺の地質じゃ立鍬は、ハア駄目だね。みんなこれだね。立鍬なんか使ってると、のんきだって云われやす」
 けれども、来るとき感じたのは、東北の文化的向上とでもいうか、昔は宇都宮からは、乗客の空気も言葉も服装も全く違って一段と暗くなりました。こんど来てみると、全くそのちがいは消えていて、女の子の服装だって髪だって東京とちがいありません。ちがいは健康そうだ、という丈よ。駅の女の子にしろ同じ制服で。違うといえばアクセントぐらいのものよ。宇都宮から隣りにのった女の子はタイピスト学校に行っているのですって。宇都宮に二つあるのですって。うしろの座席には、芝浦の工場に徴用に行っている福島からの人が何人かいて、盛に配給食の比較をやっていました。こうして、人々の動きは大きくなって、攪拌されているのだと痛感しました。熟練工らしい人々は、学徒勤労を批評的に見ますね。学生は労作も能率も浮かす分を念頭に入れず、純奉仕的だからうるさいのよ、きっと。
 こうして坐っているところへ風が吹きわたると、松の匂いがします。一帯の平地だのに、ここは本当に高燥で、この空気といったら。暑くて、軽くて、松やにの芳ばしさがあって、体じゅうの皮膚がよろこびを感じます。様々の空想をいたします。わたしはこんなに思うけれども、あなたにとってはやっぱり虹ヶ浜あたりの空気の方が、体に快く吸収されるのだろうかしら、などと。こちらの地方の自然には、北方の荒いやさしさ、情熱というようなものがあって、西の方の明媚さとちがって居ります。こんなこともふと思います。ああいうなめらかさ、明媚さは、もしかしたら男らしい人の感覚を柔かく休めるものかもしれないと。こちらは、云わば炭酸水の泡のような刺戟があって、それは却って、私のような性質の女に快いのかもしれない、などと。又ちがった表現をすると、あっちの自然は、通俗的なまでに文学的完成してしまっていますが、こちらは文学以前の自然だとも思えます。精神を型にはめる安定な自然でなくて、どこかで常に破調があって、先へ先へとひかれてゆくような自然ね。
 さあ、おけさ婆さんが、お墓参りの花をもって来たわ。これから一寸お盆着に着かえて(!)お墓詣りいたします、家じゅうそろって。健坊も歩いてついて来るのよ、きっと。健坊は、ワンワ、ニヤニヤ、山羊はミューと分ります。牛は何てなくの? モー。健ちゃんは何てなくの? モーオ。だって。大笑いね。
 夕立がそれて大分むします。むす、といっても比較にならない程度ですが。
 十八、九年ぶりで歩く草道は、どんなになっていることでしょうね。ここいらの樹間の草道には、特殊な趣があります。桔梗が野生に鮮やかに咲いて居ります。では明後日には。

 八月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 八月十四日
 いま午後五時です。少くとももう東京に向ってかなり走っている筈のところ、わたしはこうやって机に向っている始末です。この頃の旅行はまるでどこかの探険旅行のようね、思いがけない支障で中途で腰ぬけになったりして。今日のさしつかえは、切符が買えないということです。けさ咲が行って買えず、午後一時の列に女中さんが行って買えず。この女中さんは目がまわるようなグリーンのブラウズを着て、おまけに桃色のハンカチーフを黒のモンペのところにひらひらさせて行ったのですが、何のききめもなく、五枚の制限切符は、とうに列の先でなくなってしまったのだそうです。
 咲が自転車で或る知り合のひとにたのみに行きました。駄目という返事が今来たところです。もう一軒知り合いの手づるをたのみに行きます。もし其が駄目だったらどうしたらいいでしょう。わたしはカンシャクをやっとこらえて、折角休養したのをフイにしまいと我慢して居ります。明朝七時何分かのに乗ると上野一時十五分。それからすぐそちらへ廻るしかありません。
 きのうから大丈夫か大丈夫かと云っていたのに。いつもは、何のこともなく買えていたのですって。
 もしギリギリ明日の切符が買えなければ、九日から今日まで休んだことも、つまりは腹立たしいことになってしまって、全くつまらないことです。そうなればどんなにわたしはいやで、あなたもいやなお気持か、はたの想像以上ですものね。わたし達の家風は全くちがうのだから、こんな小さいことも他の家風にたよったバチでしょうか。でも、つい、何ヵ月かくらした人のいうことにたよってしまったのよ。気が気でないこと、おびただしいものです。
 来るとき急にきまったので、あなたも不便そうにしていらして、いいかげんへこたれたのに、帰るに又すらりと行かなくては、もっと早くすればよかった以上ね。御免なさいね。
 今夜九時から売り出すのにどうにかして買うようにし、もし駄目だったら、夜明ししてもあした七時のにのれるようにします。咲も気をもんで、あっちこっちしてくれているけれ共。
 あした午後お目にかかれたら、其にはこんなゴタゴタ騒動が裏うちされているのよ。然し、大体昨今の旅行というものの工合が分っていい修業です、旅行はただの旅行でないのね、「パンの町」という小説のようなのね。そこへ目ざして一つでも多くの口、一本でも多くの手が殺到しようというわけなのですね。こちらの百姓さんが云っているわ。一人で来たものが、ハア今じゃ三人五人と来るんだからハアきけます。きけるというのは参るという意味よ。七八年昔の縁故までたどってっからない、と。本当に切符はどうかしら。こんな手紙、何年にもかいたことございませんね。

 八月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月十七日
 きのうの夜、七月二十四日のお手紙到着しました。長い旅行を迷わずに来て、なかなかいじらしく思いました。安心いたしました。どんなに手間どっても来たのならよかったわ、ね。
 雹のあとおかきになったのね、ガラスも面くらっただろうとあり、あれがいきなりガラスに当る音思いおこしました。全くね、あれでうちは、トマトがすっかり花をおとされて駄目となり、南瓜の葉は穴だらけ。わたしは喉風邪をひきました。犬を丁度つないでおく時季でした、キャンキャン鳴くのよ、こわいのと、雹にうたれるのとで。台所の古レインコートをかぶって、三和土たたきの中へ入れようとして二匹いじっている間に、すっかり雨がとおって、背中がぬれました。そのとき古田中さんがあの孝子の俤をもって来ていて、そのままお相手をしていたら、ぬれたのは乾いたけれど、夜中ドラ声になってしまいました。じき治ったけれども。白藤およみになって? まだでしょうか。
 おなかの調子、ぶりかえしは閉口ですね。あなたの御努力にたよって安心しているしかないというのは、何度くりかえし考えてみても妙な工合です。馴染みにくいことです。でもおかゆになれて大分ましでしょうが、副食物がそれだとなしでしょうから、これ又困ること。どうか早く涼しくなり、おなかもましになり体重も恢復して下さるように。あなたに比べれば、わたしは相すまない位のものだと思います。自分の近年のレコードではあってもね。丁度ジャガイモ一俵分よ、わたしは。
 家のことは開成山からの手紙にも申上げたとおり、成城をきめておいてようございました。学童の次には女、子供らしいから、そのときになっては、もうあすこも駄目だったかもしれません。早速一ヵ月分送っておきました。約束ちがいが生じないために。やっぱりちゃんと移動申告もしてうつります。非常配給のこともありますから。感情上も、あいまいのような印象を与えるのはよくないから。
 八月に入り(七月下旬から)若い友達の良人たち殆ど次々に出征しました。奥さんは大抵一人から三人の子もちでね、大汗をかいてその仕度見送りと働くのよ。なかなかこたえる光景です、三十六七歳の良人たちです。なかには丁度企業整備にあたって失職中の人もあります。収入がないまま出てゆくのですからその気持たるや。文芸のひとね雑誌送ってくれていた、あの人もゆき、改造が閉鎖ですから(命令で)その苦しい方の組でした。細君がこれからやってゆくの。日本評論の人もゆきました。もう一年分継続するよう計らっておいたとはがきくれて、もうそのときはいなくなったのよ。戦争の後段に入って出てゆく人々の見送りは何と申しましょう。「歓呼の声に送られて」と旗を振って出た初め頃より沈痛であり、国民軍という感がひとしおです。では又、お大切に願います。

 八月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十八日
 夕立でも来そうな工合になって来ました、おなかの工合いかがでしょう。きょうは久しぶりの二人遊びでうれしいけれども、どことなくおとなしい遊びぶりよ、あなたのおなかが何しろそんなあんばいですし、わたしもトーモロコシで底ぬけ気味で、朝おかゆたべ、今パンたべ、砂糖なしの紅茶のんだところですから。あんまり声も大きくなく、けれども飽きることを知らないで、あれこれと話すそんな二人遊び。
 さて、ここに、七月二十四日、二十七日、八月七日、十一日と四通のお手紙があります。二十四日について、この前の手紙でかいたように思いますが。二十七日の分には、『名将言行録』についてお話しがあります。この本も一―三、又なかなか手に入らないのでしょうね、あちこち訊いては居りますが。誰でもがもっているという種類でないので。岩波にすこしひっぱりのある人にたのんであります。この間一寸あの本がここにあったときよんで、如水は、やっぱりおっしゃるとおりに感じました。そして、勝ちすぎは云々というところ、文武両道について、又自分の息子は先陣に出張って戦うのに如水は背後にあってそれを止めないのを家臣が注意すると、あれの力量では先陣に出ないで勝つというところ迄は行っていないから、あれでいいのだ、と云ったあたり、なかなかの爺さんと思わせます、たしかに文章もいいわね。漢文の素養があって、どこまでも日本文の文脈で、ああいう簡潔な文章をかいた古人は賞讚に価します。徳川後代の文章は低下してしまっています。やたらと蒔絵のようでね。馬琴なんか、うざっこいわ。プルタークは昔一寸よんで敬遠してしまって。シーザーの妻の話は、そういうのだったの、ナポレオンの母という本には、はっきり出ていず、贈ママのように見えました。
「一はりの弓」の詩、お気に入ってうれしうございます。文武両道に達してこそ真の人間ね、男というにふさわしいと思います。しかし何と其が少いでしょう。そういう人物のつきぬ味いというものは、全く名器をもっている音楽家と同じで、その音をかき鳴らし微妙なニュアンスと靭やかなつよさを味ったものは、どうにもその味を忘れかね、代えるものを見出すことは出来ません。石で云えばオパールのごくいいのね。オパールという宝石は、ダイヤモンドよりやすいものですが、光線の工合で、焔色を射出し、溶けるような緑青色を放ち、こまかい乳色と銀と紫のまだらを示し、夕やけのような桃色を示す実に飽きない石です、それはダイヤモンドのように一定の権柄を意味しないし、真珠のように女の飾りっぽくないし、うれしい石というところがあります。わたしの一つの指環にそれが三つ小さく並んでほんとに可愛くきれいなのがあります、(ああ。「白藤」でおよみになった、あの父のくれたというのがそれです)複雑な調和の変化があって、この音とその音を合わせて面白く、さて、その響とこの響の和音の恍惚とさせるよさ、とつきるところがないようです。人間の精神と感覚の至上の幸福というものがあるなら、それはそういう諧調の感じられる対象をこの世にもっているということにつきますね。こういうよろこびは天上的よ。その天上的なる愉悦のためには下界の波瀾は、波瀾に止るというところがあります。波は砂と岩とを洗います、怒濤ともなり私たちを溺らしもします、しかし波だわ。
 八月七日十一日のお手紙による軽い本のこと。只今ここにあるのは、『アロウスミスの生涯』(アメリカの医者が、医療企業の悪辣さと争いつつ科学者として生きる努力)、それでも地球は動く(ガリレー伝)、『飢と闘う人々』(クライフ著)小麦、食肉、玉蜀黍とうもろこし、見えざる飢(ヴィタミン)等の改良、発見に献身した人々の伝。このクライフという人は、『細菌を追う人々』パストゥールや何かの伝をかき世界的な著者です、『細菌』の方もあります。
 メレジェコフスキー『神々の復活』、旅行記では『トルキスタンの旅』、カスリン・マンスフィールドの手紙と日記。この一時代前のイギリスの婦人作家の手紙は、繊細さで或る味がございます。『飢と闘う人々』は面白いが訳文がわるくてね。どれをお送りしましょうか。『風と共に』はもっていると思った人がもって居ず目下さがし中。『怒りのブドー』は引越しさわぎ中ですこし遠慮して居ります。ツワイクの『マリ・アントワネット』二巻、もしかおよみにならないでしょうか、彼女の一人のみならず周囲も分って面白うございますが。それと、『エリザヴェスとエセックス』お送りして見ましょう、エリザベスの時代がよく分って、あなたのイギリス史の土台で面白いかもしれませんから。伝記というものはこういう仮面のはがされてゆく時代には小説より面白いわね、とどのつまり、いかに生きたかという事実は興味ふこうございます、そして歴史の基石をなします。
 今借りた本でアナトール・フランスの『フランスの天才達』というのをよんでいて、これはアナトール流に瀟洒すぎもしますがなかなか面白うございます。「マノン・レスコオ」をかいたアヴェ・プレボウ、「ポオルとヴェルジイニ」のサン・ピエール、シャトウブリアン。等、大革命前後、アンチクロペディスト、ルソー等の影響が歪曲されて現れたロマンティスト達のことをかいて居ります。アナトールという人は野暮ぎらいで、そのために突こみの足りないものをかくことになったのではなかったでしょうか。フランス流の明察はありますが。野暮をおそれぬ大風流もあり得るのにね。アナトールと云えば緑郎は伯林へ行きました。エトワール、コンコード、よく散歩したリュクサンブルグ公園、オペラやマデレーヌ寺院のある大ヴルヴァールが、激戦の巷となって居る由です、わたしのいたホテルから近いモンパルナッスも。ロダンの家のあったムードンの森というのはね、ヴェルサイユ門の外のクラマールという町の外で、いい面白い森でした。そこも大激戦の由。あのポート・ド・ヴェルサイユをはさんで砲火が漲っていると思うと感慨深うございます。郊外は廃墟の由、わたしのいたクラマールのちょいとした家はどうなったでしょうね、緑郎夫妻はいずれはシベリア経由で戻るのでしょうが、それは果していつのことでしょう、さし当ってはどこか山の奥へでもゆくのでしょう。
 スターリングラードもああやって歩いた広い通りなんか今どこにもなくなったでしょうし。自分で創り自分でこわしてゆく胆っ玉の太さいかがでしょう、この頃わたしはその点でああ人間よ人間よとうなります。決して哲人のように人間は永遠に愚者也などと思いません。但、こういう胆っ玉の太い、憎々しいほど生きる力のあるものだからこそ、一人の人間の生命が六七十年以上あったらたまらないし、なくて自然と思います。自分は希わくば、そこいらで一遍死んで又生れかわりとうございますが。そして、この創造と破壊の猛烈なテムポにつれて、いつの時代も必ず人々の一生は短縮され、そのテムポにふさわしい、過去を知らぬ世代の大量的代謝が行われます、これも意味ふかいことです。こういう代謝によって、歴史は流血の腥さに痛まないで(其を経験しない人々によって)歴史的業績の純理的継承をして、そして、より高まるのです。もしすべて経験した人々がすべて不死であり、彼等の肉体的惨苦をくりかえし物語るのであったら、よしや其は最も光栄ある事業であるとしても、人間は動物的本能からそれにおびえるでしょう。怯懦となるでしょう、度々ストライキして遂にダラ幹となる市電の古い連中のように。人類の歴史の豊かさは、どこも一人の人間が二百五十年生きつづけないところに却って在りそうですね。短かさを知って精一杯にそれを生きるよさに在りそうね。デモ、自分の原子ガ別ノモノニナッタトキ、自覚シナイカラツマラナイ。生れかわりたい欲望は人間につよいものなのね。輪廻の思想が生れたりして。
 ぐっすりお眠りになれるのは本当に助けの神です。それ丈お疲れになるということですが、それにしろ眠れるのは助かります。もうすこしの辛棒で秋涼になります、かけぶとんの綿の柔かい暖かさが可愛ゆく感じられるように。今年の夏わたしは万端一人でしたから疲れも去年よりひどかったのよ、去年はうちのことちっともかまわないでよかったから。では又、呉々お大切に。

 九月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月一日
 きょうは二百十日です。涼しい朝でした。十時頃ですが、まだ日よけの葭簀の下に朝顔が開いていて美しゅうございます、ひどい蓬生よもぎうの宿になってね、その雑草の中に、這い次第に咲く朝顔は風情深うございます。春休みに太郎が来たとき蒔いたのが今咲いているのよ。秋の朝顔という字もきれいです、早い夏のは凡俗ですが。咲きのこったように花が小さく色が濃くなって、秋の朝さいている花はきれいね。目白の上り屋敷の駅の外のごたごたに、秋咲く朝顔があって、いつも目にとめてはあすこから池袋へ電車にのりました。
 涼しくて体が苦しくないとうれしいうれしい気がします。今年は秋が待たれます、早く残暑がすぎて小堅く涼しくなり、あなたのおなかも、落付くように。今年は、人々がみんな秋を待っているでしょう[#「でしょう」は底本では「でししょう」と誤記]。みんな、力がない体に暑気はこたえたのよ。わたしは、明日あたりから又暫く注射をし、暑さまけで秋患わないようにします、そして又早寝励行はじめます、ほかの連中はどうあろうとも。わたしの体に早ねは有効ですから。
 文武両道ということを思うにつけ、心の勉強と健康増進は切りはなせません。しみじみ思うのよ、弱くなってはいられないと。世界の潮ざいに耳を傾けると、それは丈夫でいなさい、丈夫でいなさいと波の音がいたします。そして、一貫した意志がいるということを語ります、小にしては、二つの身が丈夫でいるにも、ね。だからわたしは意志をつよくしてね、たべるものの不足な分は眠りで補うという原則にします。その日暮しに抵抗いたします。
 しかしものごとの面白さは不思議です。昨今(この四日から)わたしの毎日は、全く落付いて手紙こうして書く時間が何日おきかにあって、あとはバタバタの連続です。そちらに行くには一時頃家を出て、大体帰ると五時―六時です。何時間か待つ間に本を読みます。この頃まとまって本をよむと云ったらその時間よ。そちらに行くときがわたしの一番インテレクチュアルな時間だというのは、余り当りすぎて笑止ですね。そして、わたしの「十年一日」は近所でも通っているから「また出勤の日ですから、すみませんが」と配給うけとりをたのんでも「御苦労さまですね」とひきうけてくれます、よくお出になりますね、なんてちくりとしたことは云う人がありません。そうしてジクが一つあるために、すべてが比較的まとまるのよ、家のものだって、わたしが、あしたは出勤よと云えば、それは絶対不変更となって居りますから。いい習慣がついたものね。わたしの健康だってこの軸にうけとめられて規律立つし、辛くても出かけますしね。鍛錬というのはちっと辛くてもやらなくては駄目の由(体操なんかでも)
 きのうは暑い日でしたね、わたしは活躍して、きょう一日在宅なのを、どんなにうれしくたのしんでいるでしょう。
 きのうは朝早く九段へ行きました。用談すまして十時すこし前からてっちゃんのところへまわりました。大人のジフテリーをやったのよ、入院しました。栄さんから電話のついでに其をきいて、早く見舞いたかったのに、丁度こちらの用が重っていて、そのすきに、というまでは体が動かせなかったの。もう退院しました。自分が病気の間、あれほど心にかけて貰って、こんどあちらがという時放っておくのは何とも心苦しいので、エイと気合かけてきのうまわってしまいました。
 大人のジフテリーは予後が心臓衰弱してこわいのです。あぶないと心配していたら、てっちゃんもやったのですって。歩いて帰った翌日、葡萄糖を注射して直った由、すこしやせていました、が、勤めがひどく疲労させるらしいので、却って神経は休まっているようでした。カンシャクもちになったのよ、可哀想に。あの人が、勤め先では決しておこらない人、面白い人になっているって、そうなるための疲れはどれほどでしょう。うちへ帰って敷居を跨いで子供がギャーギャーやっていると、四隣に鳴りひびく声でコラッとやるって、澄子さんが苦笑していました。てっちゃんはいい奥さんをもちましたね、澄子さんはそういうかんしゃくでもちゃんとおとなしくうけてあげる気質ですから。平らかで明るいから。賢い人です。感情的な女だと不幸になってしまいましょう、その原因がただ疲れだというのに、ね。それほど疲れる、というところに世相と性格とのからみ合いがあります。
 卯女は、頭クリクリ坊主で男の子のようになって、でもやせすぎです、微熱出している由。母さん父さんかけ合いで馬糞物語をきかせてくれました、畑のこやしに馬糞をみんなが拾います、芝居のひとはちがうわね、身ぶり声音、興がのると舞台風よ、余り賑やかで舞台裏にいるようでした、その中で父さんは破れシャツ、破れズボン、ザン切り頭で、すこしやせて、南方土民風にしゃがんで、鴎外を論じ『日本戦記』を見せてくれました。馬糞物語では余り現代コントだから「あなた方ったら、二人がかりで、只喋っちまって。栄さんなら立ちどころにこれで六七十円は稼ぎますよ」と云ったらば、台所でわたしにコーヒーというものをこしらえていた父さんが大よろこびで、「いや、全くそうだ! いかんね」と真黒い足をバタンコと鳴らしました。情景些か髣髴でしょう? 四時一寸すぎに引き上げました。
 そして帰って、夕飯は目白の先生とみんなでしました。みんなから呉々体をお大事に、と。
『日本戦記』という本は何冊もあって元亀、天正から封建時代の戦争を軍事科学として研究したもので、参謀本部が十数年かかって大成した仕事です。朝鮮戦史(秀吉の唐入カライり)三冊。これは兵タン、衛生、風紀まで、当時の諸原典を引用してしらべてあり、全体として真面目な研究です。もし興味がおありになるなら、おかしいたします由。御返事下さい。
 どこの家も大ごたごたでボロを着てヤッコラヤッコラ暮していますが、そんな本がつみ重ってゴタついているとわるくありませんね、大工のかんなが光っているようなものでね。ちらかりかたにもいろいろあります。
 そうかと思うと目白の先生は、カボチャのみそ汁をたべ乍ら面白いこと話してくれました。カビのことよ。青カビの一種から肺炎の薬をとることに成功したソヴェート医学の業績は先頃報告されましたが、結核菌培養を早くするためのカビの研究をやっていて、となりの因業なおくさんがくされトマトをくれたのですって。ひどいものをくれやがったと切って台所のゴミすてにすてておいて一夜あけ、その間(五時間)すっかりひどい青カビで、こんな短い時間にこんなに生えたカビ見たことない由で、それを大切に、田舎から見つけて来た滅菌器へ入れて研究所へはこんで目下しらべ中の由。面白いことには、ね、先生の家族は細君の実家の田舎へ疎開して行って、今たった一人のやもめ暮しです。グロッキーで、御飯の仕度もしているので、このカビも見つけ出したというわけです。台所もブーブー云い乍らやったが、バカにならないですよとニコニコでした。
 きょうのわたしのお喋りは、何となく炭酸水の小さい泡のようでしょう? わるくない御機嫌というところでしょう? いろいろわけがあるのよ、一つは涼しいこと。そのほかはひろき波音のあの音この音。
 八月二十八日のお手紙三十一日につきました、大変早かったこと。周防の麻里布の海のうた、思い出すようです、あの頃の官船、赤船が麻里布のさきを通ったのではなかったかしら、何だか遠くに赤船がゆく、余り遠くて、たよりもことづけられない、という意味のうたがあったように思います。このあたりにしろ、虹ヶ浜にしろ、あなたの想像なさるよりも倍も倍も変ってしまっているでしょう。麻里布というような地名からの感じは、遙かで、赤船の色彩的な迅い感じと美しく調和します、あの辺の(中国・四国辺の)美しさは、そういう連想からも生れるのね、東北のは人間生活の歴史のあやがなくて、自然のままの優しい荒っぽさの情感です。日本人がああやりこうやりして生きて来たことを中国はなつかしく思いおこし、東北は、めいめいが生きんとする原始生活力を森や丘から吸い込みます。富雄さんはどうしてこんなに仕合わせ者でしょう。くりかえしこの貴重な小さい紙面で、本のこと思いおこされて。わたしがずぼらというばかりでもなさそうです。隆ちゃんにも送りましょう。もうおかきにならなくても大丈夫よ。ちゃんと発送いたしますから。
『風に散りぬ』の第二巻だけが、ポツンとかりられました。送ってくれるのが、やがてついたらおとどけいたします。あの本は妙なめぐり合わせの本ね、全く、ありすぎてない本となりました。
 うちの南瓜は蔬菜の雑草化の見本だと思って放っておいたら、小さい実が一つついて居りました、大うら成りのうらなり乍ら。蝉の声がしきりに赤松の林を思いおこさせます、そのくらい秋っぽいのね。

 九月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月三日
 きのうは御苦労さまでした。[自注11]本当に、御苦労さまでした。さぞお疲れでしたろう、蒼い色になっていらしたから、帰りに脳貧血気味におなりになったろうと思い、気にして居ります。気持はわるくないお疲れでしたろうが、体の気持はおこたえになったことでしょう。かえって食事あがれましたか? 全く、美味いおつゆをたっぷりのませて上げとうございました。そして、お湯をあびせて上げてね。きのうの御苦労さまという感じの中には、たったきのう一日だけではない、その当時の様々が御苦労さまでした、にひきつづき今日から明日への御苦労さまがみんなこもった感じでした。云いつくせない御苦労さま、よ。しかもその御苦労さまが磐石のようにしずかで、もちこたえよくて柔軟であるとき、こころのおどろきはどんなでしょう。
 字面にすべてがこもるものでないと痛感いたします。わたしが、見たりきいたりしたものはすべて生きていて、与えるものは筋ではないのね。人間を感銘せしめるのはではないのですものね。ありがとう。
 わたしというものがめぐり合っている人間的仕合わせの全延長について、昨夜はくりかえしくりかえし思い及び、人間の質について沈思し、感動をとどめ得ませんでした。
 生活の真面目さと、浅薄さとの相異がどんなに大きいものかということは、平常人が考えているより遙かに巨大ですね。
 この手紙ぐらい、思うままに表現出来ない感じの手紙はこれ迄書いたことがないようです。わたしは、もとから、余り気もち一杯だと言葉に出せなくなるの、御存じでしょう? あれらしいわ。そして、そういうときは、せっぱつまって、いきなり何か小さい行動で表現してしまうこと、覚えていらっしゃるでしょう? あなたはそういうわたしのやりかたを、快くうけとって下さいました。この手紙もそれよ。よくって? ここにあるものは、字ではないのよ、わたしよ。よくて?
 堂々として、一つのこまのぬきさしならぬ、渋い美しい壮麗な大モザイックの円天井を見ます。その美しさのもとに生きることの歓喜のふかさは、それが大理石の円柱であったとしても耀き出さずにはいられないと思います。
 喝采というものは、芸術のテーマとして最もむずかしいものだと思います。讚歎に負けてしまわず、その内容と意義を掌握することはむずかしく、もしそれが十分出来たらその芸術家そのものが、既に喝采に価するわけでしょう。
 わたしは駄目ね。ここにいるのは、わたしよ、と、犬がうれしがってワンというようなことをするから。でも自分がワンといってかみつきたいようになるのは、何と満足でしょう。最上の理性と智慧とが、人間の最も本然な、素朴な、愛すべき表現をとるしかないということは、ほむべきかな、と云うしかありません。

[自注11]きのうは御苦労さまでした。――顕治の第四回公判の陳述。

 九月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月六日
 風があらくて、空では雲がきっとはげしく流れているのでしょう、初秋らしくかーっと日がさすかと思うと急にかげります。
 食堂のテーブルで、食べながら、これをかいて居ります、珍しいことでしょう、くいしん棒のわたしが、どういうわけで食べ乍らなんか、とお思いになるでしょう?
 わたしもどうしてか分らないが、どうも書き乍らでないと、今はゆっくり食べられないのよ、カチカチのやいたパンは、かむのに時間がかかります、つまり早く話したいのね。朝おそくから今まで、成城へやる荷ごしらえをして居りました。去年の春から荷ごしらえ一般は随分やって、力に叶うものならば技術もたしかになりました、けれどこんどのこの荷作りは、特別な思いがわたしに湧いて、一服したとき、あなたに黙っていられないところがあるようになりました。
 成城への荷物なんかはじめは只ありふれた意味で分散させて置こうとしたのよ。原稿紙や古布類を。段々ときが経つうちに、気持がちがって来て、わたしが一緒に疎開して暮すとき必要なものを、と思うようになって来ました。そういうとき、どんな形で暮すのか、全く今は判らないけれども、何処ということさえ茫漠として居りますが、たった一つ極めて明瞭で、こころを動かすことがあります、それは「一緒にス・トボーユ」という短い言葉です。これは詩の題として恥しからぬ表現です。一巻の美しい物語の題であり得ます。この言葉をくりかえしくりかえし考えていると、つまりはこうして話し出さずにはいられなくなって参ります、わかるでしょう?
 動坂以来、いくたびか引越しをいたしました。けれどもこの言葉が、こんなに生々として中核にある移りかたというものは知りませんでした。これは何と瑞々しい気もちでしょう。何か愉しげなような感じでわたしを揺ぶります。自分で自分に訊きただします、(何だかいぶかしくもあるのですもの)果して愉しいことなのかね、と。さすがに、すぐは返答しかねるのね。まさか、そう単純でもないわけですもの、全く。でも、やっぱりわたしがそのために自分の用意を心がけることのうちには不思議な感動があり、詩の新しいヴァリエーションの響があり、その展開の期待と、そこでも詩はそのときなりの充実をもつに違いない信頼とがあります。一緒に、新しい頁にうつってゆくときめきがあります。
 いろいろと空想し、それを自分で空想と思って空想するのですが、一等の魅力は、そういうところで少くとも半年は落付いて暮して、その間に今の渇きがしんから治るまで、勉強することです。人とつき合うことは殆どないでしょうし、一度から一度へと御褒美をたのしんで、一心に勉強するのは、どんなにいいでしょう。あとの半分位は、ゴタゴタした東京で、もまれて、埃をあびせられて、よかれあしかれ、今日につよく接触して、又次の半年は、巣ごもりで暮すの。うんとうんと仕事をしたいのよ。ある日に、わたしが、しんからあんぽんブランカとなり終せ、気持いいこと、美味しいことしか思わないでどれ丈か暮しても、それは十分これ迄の勤勉の御褒美として天地に愧じるところない丈、うんと仕事しておきたいと思う次第です。賛成でしょう?
 二日の帰りみち、わたしは疲れたのと感銘に打たれたため、よそめにはすこしぼんやりした風で、しきりに考えました。人間が幸福を感じる奥ゆきは、いかに深いものか、云いかえれば、ある人を幸福にしてやる、ということには、いかに、ピンからキリまで、その方法があるか、ということについて。自分はすこし大きくなって以来、いつも生きるに甲斐ある生きかたをしたいと思いつづけていました。それは野心その他とまるきり違ったもので、感覚として内在するようなものだったのね。それにつき動かされて、より新鮮な空気を求め求めて来たわけですが、二日のかえり、プラタナスの下をゆっくり歩いて来ながら、わたしはその自分の願望が、勿体ないように叶えられているのを感じました、自分自身の力には叶わない望みが、叶えられて与えられてあるということに驚愕しました。自分というものは、ごく厳密に云って、願う丈の生き甲斐を創り出してゆくには、ちいと力が不足して生れついていると思います。勇気が足りないのか、頭の堅木カタギのように美しい木目が荒いのか、ともかく残念ながら、私に出来ることは、非常によく感じ、理解し、それによって、そこから何か人間的ママ果を生み出してゆくことだと思われます。女というものが、そうなのかしら。文学的な素質というものが、そういう特長をもっているのかしら。いずれにせよ、わたしは、創られた新しい頁の価値にうたれ、それに導かれ、その価値と美を語ることによって、自分も一つの何か醜からぬものをこの人生に寄与してゆくもののようです。
 生きるに甲斐ある人生を求めることが、人間として健気であるというにしろ、それは怠慢を許さないと云え、それにしろ、わたしはやっぱりおどろきを抑え得ません。年々深まるおどろきを。そして、それは、まぎれもなくこの秋空に、燦く頂きを見せました。
 そこには全く時代として新しいものがありました。ずーっと昔、十年ほど前、華々しい論説というような前期的空気にはふれましたが、世代の進展の大さ、着実さ、高さ、尤も注目すべき現実性に於て、極めて感歎に価しました。それの堂々さは、自然現象の壮麗さと同じように公明正大であり、企らみなく、自然です、自然現象のおどろくべき仕組みを見て、人の感じるおどろきは素直であって、おそらくはその人の一生に影響するものよ。虹でさえ、人は美しいと思って見れば一生忘れることは出来ません。
 わたしの中に、オルゴールのついた一つの引出しがあったのね。それが杖で触れられて開くようになって、ああああ何とそれは鳴るでしょう。全く謙遜に、抑えかねるよろこびと献身で、小さいオルゴールは何と鳴るでしょう。よろこばしさの中にエゴイスティックなもののないかということを気にするくらい、へり下って。
 荷づくりしている手や膝は、おきまりどおりによごれて珍しい何一つもありませんが、このお古のテニスシャツの下にうっているのは、余り丈夫とも云えない女の心臓一つではないわ。
 あなたには、これらの感動が文学的すぎて聴えるでしょうか、もしかしたらそうね、少くとも「いく分そういうところもなくはないね」? そういうものよ。自然なものはいつも自分でそれを知っては居りません。チェホフが、若いゴーリキイに云ったようにね、君は風が囁く、とかくが、風は軽く吹いているだけですよ、と。そうよ、でもその風があんまり爽やかで活々としていれば、土方ドカタだって御覧下さい、ああやって胸をあけ、皮膚にじかにそれをふれさせようといたします。

 九月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十一日
 雨が降り足りないせいか、むしむしして来ました。きょうは、隣組の当番です。八百や魚やなどが、当番の一括購入となり、うちの組は十軒三十二人。十ヶの八百やザル、十ヶの魚入れなどを、もう一人の当番と各戸から集めました、朝九時頃。モンペはいて仔熊よろしくの姿で。
 それからフーと水のんでいたら、国男さんがお手紙もって来てくれました、自分のが待たれるから、いつも自分でとりにゆきます、出すのも自分よ。面白いものね。
 読んで、国男さんがフラフラしている間に、乞食の洗濯をいたしました、すごいでしょう。わたしはこの夏、お下りのテニスシャツ一つにスカート一つですごしてしまったのよ。従って寝る前に洗って朝干いたのをきるという乞食の洗濯でやって来たところ、この間うち雨がふった上に、きのうは急に運送やが来て成城へ行くというものだから、大バタバタで荷作りさわぎいたしました。前晩は咲のを十キロずつ七ヶも作ったのよ、国と二人で。ですから、あわれいとしきテニスシャツも黒くなってしまって、きょうはあたりまえのキモノ着て居ります、働く人に何と不便でしょう。靴というものがないから外出はこまるけれども、働いて、それ八百やだ、それ何だと、ことしは冬になっても工夫してこの西洋乞食でやるつもりです。ずっと楽で疲れませんもの。尻尾のきれた丸い牝鶏姿は十年昔でお廃しと思っていたら、又々そうなってしまったと苦笑いたします。動坂の家へ、小さい風呂敷へつつんで、浅青のスウェターもって行って、チョコンと着て、浅緑の毬のようになっていたのを思い出します。あの緑の色は大変きれいだと思って着ていたのよ、尤もすこしよごれては居りましたが。
 さて、洗濯ものを乾してから、あなたの冬の羽織を、今年も多賀ちゃんに縫って貰うため、綿を出して用意いたしました。真綿なんて、何と無いものになってしまったことでしょう、これは即ち、去年のを又今年も使いますということなの。ことしは、御平常着と、外出用と綿の入ったものが二通りいるでしょう、それとも、そとのは、袷でどてらの上にお重ねになりますか? 枚数の点などでどちらが便利でしょうね、明日でも伺いましょう。折角風邪をひかさないように掛布団は出来ましたから、着物も間に合わないというようなことのないようにしたいと思います。
 小包作り終り、やっとやっと、という気もちで此をかきはじめた次第です。書くこと、読むこと、あれこれのこと、わたしはどうしてもつい、あれこれ時間が惜しくて閉口の時があります。だもんだから、何となし仙人くさい状態になってしまって、それを世帯もちの眼から見ると、アラ、でも仕方がございませんわ、外になさることがおありなんですものホヽヽヽヽということになるのね。それでもまだまだわたしには比例がとれません、オホホホ式であってなお此だけ時間がかかるなんて、ね。うちの隣組をあっちこっち歩いて、全くびっくりいたします、どこのうちも、どうしてああなめたようなんでしょう。そのために一生を費している人々には叶いっこないと、率直簡明に、うちのオホホホを承認いたします、情熱がちがいますから。こうかいていて、はた、と思い当ったことがあります。思い当って、これは大変と思ったの。あなたは、もしや万※[#濁点付き小書き片仮名カ、442-6]一にも、ユリが、文章を、だ、だ、で終らなくなったのだから、きっと家もちも何となしあかぬけたろうなどと思いちがいしてはいらっしゃらないわね、大丈夫ね。わたしは、その前に坐って眺めて眺めて、眺めあかざるものがあったら、迚も台所をテカリとさせるために、立ち上るというような芸当は出来ないのよ。すると、そのうちにいつしか風は埃を運んで、遺憾ながら草履なしでは歩くに難き板の間よ、となってしまいます、風のつみよ、ね。わるいのは。
 この手紙終る迄甲高いあのチュウジョウサン! がきこえないといいと思います、八百や魚やの品わけが、午後というわけだったから。
 九月六日のお手紙。先ず本の予告の勘ちがいのこと、お詫びいたします。仰云ることよく分ります、わたしは、これでも追風に背中をもたせて足をすくわれない用心はして居るつもりなのですが、あの本のことは、すみませんでした。尤も、出版計画のなかったことを真さか、空耳できいたのでもなかったのでした。出版所の顔ぶれが急に変ったにつれて既往の出版プランは殆ど大半変更になった中の一つであったようです。ジグザグの幅で見てゆくことの肝要さは、これから益※(二の字点、1-2-22)適切であり、さもないと帰趨を失うことになりましょう、咄嗟のいろいろのときね。よく気をつけます、つまり、勉強してよく万事を考えます、リアリスティックに。学ぶべき経験であったと思います。くりかえしますが、わたしの気分に立っていたのでなかったのは事実です。そうでなかった、ということには、よしんば出版されなかったにしろ、プランとしてもたれたところに意味があり、又中止されたところにも亦意味があるわけと申すのでしょう。紙の配給は又々縮少となります。『文学界』、『文芸春秋』、まだうまく手に入りません、六月号(『文秋』)があるきりで。気をつけておきましょう。『週刊朝日』送金いたしました。『風に散りぬ』どうしたというのでしょう、まだつきません、まさか途中で迷っているのではあるまいし。
 マンスフィールドの手紙は主として良人のマリに当てたものらしいようです。ちょいちょいした時間に、このひとの日記をよんで居ります。ごく内面的な、そして仕事と連関をもった日記で、今のわたしには、調子(本のたち)の合った読みものと感じます。自分の中に徐々展開するものが感じられているものだから、キャスリンの内部世界と全く違ったもの乍ら、小さい蕾が一つ一つ枝の上で開いて行くようなこまやかな、真面目な、地味なそのくせ、胸の切ないように活々した感覚のリズムが、このひとの日記のこくのあるところと調和して、いいこころもちです。たまにこういう読書があるのね、逆に見ればその本をよむより、自分をよんでいるという風な。「伸子」のとき「暗夜行路」がそうでした。三四年の間、机の上にある本と云えばあれきりで、やっぱりリズムが合ったのね、それによって自分がよめたのでしたろう。旦那さんの批評家ジョン・ミドルトン・マリは、善良な男らしいけれども、キャスリンは、自分と全く似ていると云っています。これはつまりキャスリンが作家なのに、作家に似た批評家というのはどうかしら、ということになるのね。キャスリンは感受性が柔軟で繊細で、心情の作家だったようです。彼女が永い間、内へ内へ感じためるだけでまとまって表現しかねていたものが、愛弟の戦死によって、一つの焦点を与えられ、ニュージーランドで暮した生活の再現に集中してから、いい作家になったということには深い示唆があると思いました。前大戦前後の動揺の中で、キャスリンは、安易に作家になり上るためには、本もののテムペラメントをもっていたのでしょう、頽廃にも赴けず、空ママなヒロイズムのうそも直感し、人間悲劇を感じ、何か真実なもの、心のよれるものを求めて、感受性の内壁ばかりさわって苦しがっていたと思います。マリは、その点でのキャスリンの云わば健気な弱気とでもいうようなものの性質を明かにして居りません、伝記の中で。(マリは、キャスリンの伝記で凡庸さを覆えませんが)ヴァージニア・ウルフが、知ママ的な女の作家で、同じ時代にシュールリアリズムに入り、ああいう作品をこしらえ(ウルフのは全く頭でこしらえたのね)この第二次大戦のはじまりで、シュールでもちこたえられないリアルに負けて自殺したことと対比して、ともかくあの地の婦人作家たちが、一通りならぬ苦労をもって、どの道にせよ拓いたということを考えます。今次の大戦後、イギリスはどんな婦人作家を送り出すでしょう。分裂の方向でない新しさ、健やかなリアリズムが、どの程度甦るでしょうね、サッカレーが出たこと丈考えてみても、その素質がないとは云えますまい。でもイギリスにはディケンズ病みたいなものが流れていて、心情的傾向は、とかく炉辺を恋うて、剛健な大気のそよぎそのものの中に心情を嗅ごうとしない危険があります。キャスリンにしてもそうよ。文学におけるヴィタミン欠乏症です。「風に散りぬ」などと肌合いのちがうことどうでしょう。キャスリンの文章は、殆どメロディアスです、文章そのものが或る慰安です。甘くはなくても。彼女は人生を愛しました。
 愛した、と云えば、イギリス人が、あんなに自然のままということを大切に珍重する公園、所謂イギリス式庭園を愛するのは、アメリカ人みたいに、家の中も外もなく、森から湖から土足で愉快に出入りして暮す気分からではなくて、要するにコントラストなのね、生活感情の。一面で、社会生活がヨーロッパでは亢進してやかましくて、ぬけ目なくて、しきたりで、大きい声でものを云うと失礼で、ウーとなってしまうから、太古ながらの樫の木が生えて、鹿がいて、むかし祖先たちが、裸で炙肉の骨をつかんでケンカした風物がなつかしいのね。風景画となると、もう絵はうちで見るものだから、あのイギリス独特の、面白くてつまらない風景画となってしまうのでしょうか。全くイギリスの風景画は、愉しんでみだれず、と云いつたえに立って身を守っているようね。ゴッホが、燃える外光の中に見たあのポプラや糸杉や麦畑。気の遠くなるように白く美しくて、その白さは朱でふちどらなくてはくっきりあらわせない程白く美しい梨の花と思って見たものなんか、イギリスでは、白いものの上の陰翳は紫がかった藍色ときまってしまうのね。イギリスの中流の女たちが誰でも、しなびて水っぽいスケッチしたり、ピアノをお客にひいてきかせるのは、何といやでしょう。わたしは、それを辛棒しているうちにコワイコワイ顔になってゆく自分を屡※(二の字点、1-2-22)感じました。空襲で、そんな暇のない時代に育つ若い女たちは、不幸中の幸です、一つのマンネリズムからは少くとも解放されるでしょうから。
 空襲と云えば、国男さんが建築家である功徳が一つあらわれました。かなり本式の待避壕が(ここで一時間半八百や魚や米炊きさわぎ)出来かかって居ります。間に合えば、すこしはましな壕でコンクリートで屋根もついて泥が三尺ほどのります、なかで眠れるように出来そうです、スノコをでもしいて。火がぐるりをかこんでも大丈夫と主人公は申しますが、さてそれはどうでしょう、わたしはまだローステッド・ブランカになるには早すぎますから、火事が本式となったら、その穴からは這い出すつもりで居ります。今はまだ七尺五寸の地底にコンクリートの柱が何本か立っている丈よ。トラックがなくて材料が来ないのですって。では明日。明日は砂糖配給日です。

 九月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十三日
 きょうは、もうすっかり秋らしくなりました。ブランカは繁忙をきわめて居ります、わけは、けさ八日づけのお手紙頂きました、この封緘一つから、何と音楽がきこえているでしょう、わたしのこころに絃がある限り、先ずこれはこたえて鳴らずに居られません。昨夜「風に散りぬ」の第二巻だけが、やっと来ました、わるいブランカでしょう、お先に失礼してよみたいと思っているのよ。さて、きょうは、もう一つ、先日来の日記をすっかり整理したいと思います、こういう日頃、日記がブランクになるというところに必然があり、又そうさせまいと努力するところにも必然があります。そしてこの三つのうち、いつかひとりでに、最も適切な選択が行われて、これを書き出しました。
 八日づけのお手紙呉々もありがとうね。人間のこころに張られている絃の数というものは凡そどの位でしょう、考えると、おどろかれます。だって十三絃というものを考え、ピアノのあのいくつものオクターヴを考え、それでもまだ人間のこころの諧音は満たされなくて、あれだけの管と絃とのオーケストラを考えるのですものね。
 自分たちのこころにいく条の絃があるか知らないけれども、それが緊張し鳴らんとするとき、高い音から低いなつかしい低音までを、すっかり、一条のこさず、ふさわしいテムポでかき鳴らされるよろこびというものは、本当に、どんなにつつましく表現しても愉悦という、むせぶようなよろこびがあります。理性のいくすじもの絃、感覚のいくすじもの糸。それは互から互へ鳴りわたって、気も遠くなるばかりです。吹く風にさえ鳴るようなときがあるのですものね。互が互にとって手ばなすことの出来ない名器だということが、仕合わせの絶頂であると思います、それは全く調和の問題であり、しかもそれが可能にされる条件の複雑さといったら。めぐり合わせとか、天の配剤とか人力以上のもののように考え、ギリシア人が分身(一つのものが二つに分れている)と思ったりしたのも、素朴な感歎の限りなさから出発して居ります。
 お手紙にある「峠」のうた、それが「どこらの峠かときかれるなら」という一連の詩趣は、わたしの好きなセロの深い響をもって伝わります。くりかえしくりかえしその一連を読んで、峠をうたった古典を思い出しました。あの有名なヘッセ(?)の「山の彼方には幸住むと人のいう」というのがあるでしょう、ゲーテの「山の頂に休息いこいあり」というのがあるでしょう。どっちもその人たちの人生のあり場所を示して居りますが、「どこらの峠かときかれるなら」の溌溂とした動きと多彩と変転に耐える強靭な展望はありません。情感の美しい流露が、言葉のリズムを支配しているばかりでなく、これも亦文学の本質的な新種です。わたしはこういうものは、読むというよりのみこむのよ、たべてしまうのよ。たべてもたべても、そこに消えず香高くあるというすばらしい果物のようね。
 こんな風の爽やかな初秋の日、こういうおくりものをもって、よしやそれののっている緑と白の縞のテーブル掛はかなりよごれているにしろ、やっぱり幸福者たることにかわりはありません。
 ジクザク電光形というのが、そのままね。何と激甚な閃光でしょう、破壊と創造との何という物凄い錯綜でしょう、創世記というものを、人類は其々の民族によって、雄渾な伝承にして来ましたけれども、現世紀における畏怖すべき雷鳴と、爆発と、噴出する新元素新生命の偉観とは、予想もされていなかったと思います。そして、現世紀の民族叙事詩は、極めて高度な散文でかかれつつあります。詩と散文の過去の区分は或意味では消失していると思ったのは、もう何年か前ですが、この秋に、わたしは散文というものの実質がどのように充実し高められ、生命そのものが粉飾的でない通りに、飾りない美に充ち得るかということを身をもって知って、一層切実にそう思います。散文をかく人間に生れ合わせたうれしさを感じます。文学的ということも、進歩いたしますね。ああいう小説がかきたいことね、沁々そう思います、不言実行的小説が、ね。
 さて、これから、わたしは犬の仔の話をかくのをたのしみにして居たのに、電話が鳴って、ひとが来るのですって。仔が五匹チビから生れました。ある朝おきたら、外のカマドのわきの空箱の中に、さっき生れたというようなのが五つ入っていて、チビは大亢奮で、しきりに報告にとびつきました、一つは圧死していました。そこで、早速もっとひろくてふちの低い箱を見つけ出して、ワラをしきこんで、そっちを御新居にしてやって、死んだ仔を埋めました。犬の世話をしていると、こういう事業もわたしの仕事になって、それは苦痛です、閉口なの、全く。しかしそこが又面白いもので、可愛がる世話するということの反面には、そのものの生死にかかわる一切が関係して来るということなのね。そう思って、成程とも思います。
 四匹は白黒、チョンビリ茶。丈夫に育つけれども又この間、妙なことがありました。わたしがそちらへ行っていた間、茶色の野良犬が来て若い母なるチビと大噛合いをやったのですって。それは雄だったのだって。狂犬ではなかったかと心配していたら、次の朝、チビは全くソワソワして遠吠えをしては縁の下に入るのよ。丁度ふとんの用意していて、使わない綿を、奥の室のテーブルの下へ入れたら、チビはいつの間にか、その綿の奥へかがまりこんで、呼ぶと、尻尾をふる音ばかりパタリパタリしてどうしても出て来ません。わたしの家畜衛生学によると、これは狂犬のはじまりの動作なのよ。不安になる、遠吠えをする、暗いところに入って出て来ない。さてさて困ったよ、とチビに向って申しました。到頭はじまったかい。仕方がないから、まだ、わたしの声が分って尾をふるうちに、ともかくつないでしまおうと、首わをつかまえて綿のうしろからひっぱり出して(腰を、おとしてズルズル出て来るのですもの、誰か来て! と呼びたくなったわ)北側の光線のしずかな側の柱につなぎました。仔入りの箱もそっちへ、えっちらおっちらもって行ったの。そうしたら、段々鳴かなくなって、やがて眠りました、夜になってからは大分普通になって、もう今は無事です。人間の脳膜炎と同じと思って光線の少い側にやって、大成功でした。お産して間もないのに大活躍して、逆上してしまったのでしょうね。神経がおそろしく亢奮して、光線もよその犬も人間の子供も、すべて癪にさわったのね、綿のうしろの暗闇で、チビの眼は、ヒョーのように炯々たる緑色に燃えて見えました、こわくて同時に素晴らしい見ものでした。ただの雌犬とは迚も思えない燃え立ちかたでした。わたしの眼もソンナニ光ッタラ面白イケレド。燐光のようよ。
 わたしの悲しみは、育ちつつある四匹の仔犬の将来です。犬を飼うということは、それ丈人間が食べかたをへらしていなければならない、ということなのですから、困って居ります。
 おひるを食べないうちに、きっとお客が来てしまうのでしょう、歓迎でもないわ、率直に。「お話中」なのに、ね。ああでもいいことがある、その女の人に、きいて見ましょう、あなたのところで仔犬ほしくないかしら、と。郊外住居だからもしかしたらいいかもしれません。寿が一つつれてゆくそうですが。では一寸御免なさい。玉ネギをジリジリとやっておひるにします。
 大した長ひるで、ここの間に一日半経ちました。仔犬は一匹貰ってくれるそうです、昨夜はおつかれでしたろう。どうもいろいろありがとう。(つまりもうけさは十五日なのよ)詳細な準備でおつかれになったことと思います。又すぐ書きますから、この前便はここまででおしまいね、お疲れをお大切に。ニンニクをよく召上れ、食事の間にのみこむと楽ですが、どうかしら。ニンニクは本当によいから。

 九月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十八日(月)
 おひるを、いつかお話したパフパフ(覚えていらっしゃる?)ですまして、『風に散りぬ』第二巻をよんで居りました。二時までそうしていて、あと二階で荷物ごしらえに働くプランで。ところが一寸かきたくなりました。
 けさ運送やが来て、成城への荷物出しました。こんどのには、竹早町のおばあさん[自注12]のくれた机、白木の座右においていた書類入箱、低い茶色の折りたためる本棚、字引台、チャブ台、等。これでもう三回目なの。はじめリヤカー一台、二度目三台、今回、きょうあす。明日は、タンス(引出しの一つこわれたの)をやります。それと台所用品と。このきょう明日の荷物は、前には考えていなかった分ですが、こんどはともかくここからどけておいて見る気になったものたちです。長火鉢はやめます。ごく実用的でもないし。今は成城まで四十円平均よ、リヤカー一台が。
 東京周辺の街道をゆく荷物車はどの位夥しいでしょう、都電の停留場に待っている間だけでも、三四台荷物をつんだ車を見ます。わたしの一見貧弱な何の奇もない荷物もその埃っぽい列の一つに加って、カタカタと行くのですが、その荷物たちは、自分に負わされている不思議に建設的な光りを知っているでしょうか、荷物が繩でくくられゆられてゆくとき其々の荷主のこころをつたえて鳴るものとしたら、今の東京のぐるりの街道ばたの人々はああして暮していられないでしょうね、そして、わたしの荷物はどんなに鳴るだろうと考えると、笑えて来ます。アンポン、ブランカ[自注13] ブランカ アンポン。ウレシイアンポン と鳴ることよ きっと。
 きょう、これから二階で、二通りのこまごました荷のよりわけをするわけです、自分と一緒に田舎へゆく分、のこって役に立つ分。働く手が折々止ります、荷をつくるこころもちに我から打たれて。
 ところでね、一つこころからのお願いがあります。
 それは、ブランカのアンポンが余り早めにはじまるとわたしは、途方にくれてしまうから、当分、余りきれいな星空のことや月明りのことや花の蕊のいい匂いのことやは想わないで、おかなければいけないということです。
 空想というものは、どんなに其が光彩陸離としていようとも、それは在りはしないこと、本当に知ってはいないこと、そういうことの蜃気楼です、薄弱なものです。しかし在ること、まざまざと在ること、そして知っていること、今すぐにでもくりかえし其のリフレインをききたいこと、そういうことの心の上での再現は、愉しさの限度に止らず、病気のようにさせる位つよい作用をもって居ります。
 しかも、そういう自然の開花と、今との間には、まだ一つの生涯と呼ぶにふさわしい丈緊張と努力の予想される時間が横わって居ります。ユリが不束ながらもっているはっきりした眼、実際性を、極度に必要とするときが。季節より早く咲いてしまう花は、風にもろうございます。だから、わたしは一生懸命、意志をつよくして、必要にこたえる準備に力を注ごうと思います。時間を忘れて木の葉の音をきいていないで、少くとも十時には眠る、という風にしててね。
 これは、むずかしいようです、お願いというのは、わたしが又候ぽーとしたら、軽く背中をたたいて正気づかせて頂きたいということです。どうぞ、ね。
 このごろは何だか、こわい、と思うことが減って、殆どないようになってしまったわ、新聞でフィリッピン中部に云々とよんでも。これは大変結構なことですが(こわくなくなったのは)それだからと云ってリアリズムを失ってはならないでしょう。〔中略〕
 創造という丈の文学でないものは、或る特定の文化層の分解過程の醗酵物なのね。器用に其が飾られ組立てられ心にふれられるが、それは要するに創作ではないのだわ。再現物なのね。文学に創作と、再現物とあり、作家と再現工人とがあるわけです。再現工人そのものに対して何と申しましょうねえ。読者がふさわしい時期に、それが醗酵物であるにすぎないことを知ることが出来ればいいのだし、そのためには、読者に文化的に親切であればいいのです。文芸批評の新しい根本の任務はそこではないでしょうか。
 このことでもわたしはお礼を申しとうございます。その気持の湧くところおわかり下さるでしょう? 作家としての確信や自信というものが、「私」の枠からぬけ出るということ、漱石は則天去私と云ったが、そのもっと客観的なそして合理的な飛躍は何と爽快でしょう。「私」小説からの発展の可能が、最近の一つの契機として、事実の叙述はいかにするべきものかという実例で示されたとすれば、あなたにとっても其はわるいこころもちのなさらないことではないでしょうか。
 刻々の現実の呈出しているテーマは何と大きく複雑で多彩でしょう。そのテーマの根本的意義を感覚のうちにうけとるところまで成長したとき、「私」はその個的成長に必要だった枠としての任務を遂げて腐朽いたします。現代文学史の中では、「私」がこういう自然の脱皮を待たず、或は、自然に脱皮するとき迄保たないほど弱くて、風雲にひっぺがされて、赤むけの脆弱な心情が、こわさの余りえらく強げになってみたり、感情に堪えず神経を太くしたりいたしました。
 これらのことは、わたしたちの話題としても一つも新奇でありません。けれども、今又このことが新しく会得されるというのは無意味ではないと思います、立派さというものの中には古びることのない感動があります。飽きない摂取があります。立派さにてらし合わされると、わかっていた筈のことの本質が更に又わかって来るという不思議がおこります。山にのぼるにつれ視野のひらけるように。わたしにとってその立派さは美味しさに通じているのよ。何と何とそれは美味しいでしょう。ああ、あなかしこ。

[自注12]竹早町のおばあさん――顕治が大学時代下宿していた家。
[自注13]アンポン、ブランカ――「アンポン」も「ブランカ」もともに百合子のこと。

 九月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月二十四日
 今、うちの防空壕が九分九厘まで出来上って、職人がかえるので、お茶をのませようとして居ります。
 いつ何をどうするのかと思って居たけれども、どうやら間に合いました、時間の上では、ね。このコンクリートの薄い枠が地下で(三四尺の泥の下)どれ丈の役に立つかは=実質上、どの位間に合うか、は未知数ですが。それがためされるのは遠いことではないでしょう。
 十八日のお手紙ありがとう。金曜日に頂いて居りました。クライフはすぐ送りました、訳が下手で、座談的筆致の味が、一種ごたついた印象を与える傾きです。『風と共に』第二巻、『結核の本質』という本一緒にお送りいたします、第三巻もどうやら手に入りそうです、二、三とも借りものよ。『結核の本質』は弘文堂の本より更に初歩向きで本としてお役に立とうと思えませんが、著者のものの話しかた従って気質がいくらか御推察になれるだろうと思って。著者については明日お話しいたします。
『時局情報』がそちらへ直接だといいこと。それのために、わたしは顔も見たくないようないやな本屋の店へよります。その本屋は全く本やにあるまじき根性で、その水っぽい薄情ぶりはホトホトです。本を買う、という人間の扱いかたを知らないのよ、豊山中学の子供ばっかり対手にしているせいでしょうか。どうかお願いいたします。
 市民文学について、全くそう思います、そして、こまかく見ると、その細目の追加においてさえも、其の限界内での豊富さを十分もち得ないまま、萎縮の一路を辿っているようです。鴎外だの一葉だののありがたがりぶりにそれがよく示されています。
 トルストイ、バルザックに連関して「風と共に」のことで、興味ある感想を与えられました、第二巻をよんでいるうちに。でも、それは、あなたもお読みになってから、ね。その方が面白いから。文学作品の雄大さの意味とか、作家の力量とか、いろいろそういうようなことの類ですが。
 お砂糖のこと、どうも呉々もありがとう。釘のことは知りませんでした。わたしだってまさかカンに水を入れはしなかったのよ。カンを水につけたら、つぎめから水が入って来たのよ。一寸したちがいですが、女一人が白痴かそうでないかの境めに立つわけになりますから、御良人としても明瞭に御承知なさりたいでしょうと思って。これをよんでつくづく感服いたしました。人間の頭脳というものは、何と大したものでしょう、このお砂糖と釘の注意と、壮大な構築の論文作制とを、一つの黒い髪の下の生命が行うということを見くらべて、驚歎しよろこばずにいられません。お砂糖の手当法をもうこれで一生忘れっこはないでしょう。
 ニンニク球は、おなかの為丈でも是非召上るねうちがあります。思うよりきくものよ。冬は是非ともね。夏は汗にまじって匂がいやかもしれませんが、でもニンニク位プンプンしても結構よ、いくらプンプンしても結構よ。
 ニンニク人種は、粘りつよさで大したものなのですものね。フランス料理には殆ど大抵小量のニンニクが入ります。味の奥行きが出て美味しくなりますから。野菜や獣肉が。あの素晴らしい支那人の料理法は勿論のこと。
 すっかり涼しくなって、夜は蚊帖をなくいたしました。夜、床をのべて、季節のうつり変りの風情のふかいとき。それは感じふかい一ときです。わたしは、くっきりとその風情を感じとり、そういうときわたしたちがその感じを表現するしかたを思います。それは、いつもたっぷり真率に表現され、自然の愛嬌と優美にみちて居ます。初めてほのぼのと灯かげの上に蚊帖をつったとき。それから一昨夜のように、どこか澄んだ秋の灯の下で、初めて蚊帳のない床をのべるとき。声のきこえない、影の一つしかない部屋の中に、物語は多うございます。深く深く重った影は一つにしか映らないということを、この壁は知っているだろうか。壁は元来何となしそれほど賢そうには見えないものなのね。
 きょう、朝五時から七時まで防空演習がありました。午後からは、近所の防空壕の泥運びです。わたしはそういう働きはすこし無理だから、泊っている事務所の若い人に出てもらいました。もう九年ほどつとめている女の子です、営養士の資格をとってね、それで就職したい考えです。あっさりした気質のいい子です。
 一昨年わたしがひっくるかえったときいたたけ、という女が、今熊谷在で産業組合の事務員をして居ります、それがきのう仲間三人もつれて来て、よっての話に、女の技術員になれとすすめられていますが、どうしましょう、というわけなの。農業技術員なのです、肥料配合や何かを指導する。女学校を出たりこういう程度の若い女が一ヵ月講習をうけて、技術員となり、農業指導が出来るものなのでしょうか。それほど、日本の農民は知らないことばっかりなのでしょうか。曰く、「肥料なんか今まで無駄にまいて居たんですね、今のだけでちゃんと出来て、増産して居りますもの」わたしが、集約農業の特徴を話したり質のことを話したりしていると、もうちゃんと聴いてはいなくて文鳥を眺めているのよ。所謂生活力と粗雑さ、粗雑なまま通ることからの自信にうたれました。
 国府津の家が、ああいう役所になって留守番がいるということになり、急に、これ迄あなたのものをたのんでいた村田という洗濯やの父子をすすめて、そちらへ行きました。団子坂上の細い道へ曲った角の三角地帯にとりついた小さい家にカンバンもかけずやっていました。息子が若くて腕がよかったのが今年春死に、六月に女房も死んだのですって。すっかりつんぼの六十ほどの爺さんと十四の末息子がいて、いかにも気の毒だし整備で廃業し、何か転業したいというし思いついてあっちへ行けてようございました。この間雨の日、この祖父と孫ほどに見える父子が、さすがキチンとアイロンを当てた服を着、爺さんゲートル巻き下駄ばき、白い風呂敷包みを背負って(炊事用品)息子、カバンをかけ、小さい包み二つもって、つれ立って玄関に立っているのを見て、哀れを感じました。女房を失った老年、女親を失った少年、どっちも気の毒ですね。
 その爺さんは大柄で、四角い顎をしていてわたしは奇妙に親しみを感じます。住心地がよくてありがたいと、きのう礼に来ました、安心しました。骨ぐみが、がっしりしていて、それはどこやら島田の父上のお体つきを思いおこさせるようでもあったりします。こころもちの近づきかたのモメントは微妙ね。「風と共に」に教えられたのでもないが。もう紙の表と裏に書かなくてはうそです、少くともペンでかける紙を使いたいと思うならば、ね、我まんしてよんで下さいまし。
〔欄外に〕
 こういう紙の使いかたは、もう昨今では玄人(書くということについてのよ)しかしない贅沢に近づいて来ました。

 十月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月三十日
 いま夕方の五時。うちにとって、極めて興味ある歴史的アントラクトの時間です。というのは、きょう、博物館から国宝鑑定専門の人が来て、うちの陶器の蒐集の鑑定をして居ります。そちらにかかり、わたしは、さっきまで限りない古い箱の整理に埃まびれとなり、一寸腰かけておイモたべ休んでいるところです。
 わたしの荷物を運んだ男が、すこしまとめて荷を動かす方法を見つけそうなので、咲が上京し、家具の必要品を送るについて、その費用のママ出かたがた、この際大整理を敢行しようということになりました。日頃云って居たことがやっと実現した次第です。きょうは1/3ばかりのものを並べました。が、わたしは並べられたものを見て、一種云うに云えない感想にうたれました、それは自分の父親の人柄についての好意と満足です。
 父の蒐集は決して茶人の渋さでもないし、所謂蒐集家の市価を念頭においての財産でもなく、本当に趣味なのね。陶器のサンプルとして純粋なものを、所謂ヒビにゅうの入っているにかかわらず買っていて、通人達の標準から見れば筋の通ったやすものを、平気でもっています、そしてね、鍋島とか柿エ門、古九谷など、どれもみんな活々とした色調の愛くるしさのこもったものを選んで居ります。骨董くさいところは一つもなくて、マア人間て、こんな模様を考えて皿に描くのね、と想像力というものをいとしく思うようなものが多うございます。はじめて見るようなものもあります、これらはうちの蔵を出て、どこかに散らばり、中のいくつかは空襲もまぬかれることが出来るでしょう。うちの蔵払いというよりも、何か出発のような晴々としたうれしささえあります、父という人はそういう人だったと、深く思います。一月三十日に亡くなって、二月のあの大雪の第一日、粉雪が市ヶ谷へ戻る私の髪にふりかかりました。幅のせまい着物に代って、寒いのと甚しい疲労とで夢現に坐っていたとき、二月の雪の霏々ひひとふる旺な春の寒さは、やっぱり私に不思議な感動を与えました。悲しさの中から一つのはっきりしたよろこびの声が立ちのぼってゆくようでした。雪の面白さ、元気さ、陽気さ、それはそのさっぱりしたところと共に、父のもの、と思われて。
 こうしてあぶないところを、うちで灰になるところをまぬかれて、どこかに出立してゆく皿や花瓶やなつめたちは、自ら身にそなえた趣にしたがって、ふさわしいどこかに落付くことでしょう。おとなしいものたちよ、愛らしい人間の精神の産物たちよ。人々が落付いて、自分たちの愛らしさを感じ直せる時まで無事でいなさい。それは鏡のようなもので、人間のこしらえたものであり乍ら、或時、人間に人間というものを考え直させるはたらきをもって居ります。
 こういう晴々としたよろこびをもって、こんな整理も出来るのは、うれしいことね。自分が、こうやって、祖先たちの優雅を十分愛掬することが出来つつ、自身は全くありふれたやすもの瀬戸もので、こんなにうまくものをたべ、愉快に茶ののめるのを仕合わせに思います。
 そしてね、今のこの寸刻のアントラクトに、わたしにこんな手紙かかせる気もちには一寸した基礎があります。
 火曜日の帰りにあなたのセルをとる必要があり、中野の方へゆきました。それから、自分の荷もつのことでもう一ヵ所、友達のところを訪ねました。どこでも、わたしは珍客でたのしくすごしたのですが、帰って来てひとりになって考えていると、何と云っていいかしら、自分が一艘の船であって、波の立つ水の中を、気もちよくずっぷり船足を沈めて通って来たというような感じになりました。通って来た、というより通りつつある毎日という感じを深めました。これはどういうことでしょう、思うに、周囲は非常にざわめき揺れ漂っているのね、生活感情において。歴史はジグザグして幅ひろい線で進行して居るわけでしょうが、箇々の人々の生活というものは、その進行とともにその方向へ適確な動きをしているのではなくて、波間に浮く樽のように、自からの大局からはその方へ動きつつ自覚としては旋回的なのではないでしょうか。動きに対して受動で。どっちを向いても何しママら流れ漂っている感じです。そういう中に、積荷がしっかり荷綱によってくくられていて、かなりひどく揺れながら船体の安定は保たれている確信があり、スクリューはともかく廻って、潮にしっかりと乗っている一艘の船のように自分を感じるということは、少くとも大した仕合わせではないでしょうか。わたしはこういう感じこそを窮極の幸福としてうけとります、そして自分に願うのよ、舳よ舳よ、しっかり波を突切れ、濤にくだかれるな、もちこたえてのりこえよ、と。何故なら舳のところから親綱がひかれていて、先に親船が進行して居ります。切れることのないそれはひきつなです。舳がつなをもっていられる限り。舳もはっきり知って居ます。自分というものが存る限り、このつなは切れないと。
 親船は、自身のひき船の能力をよく知っているようです。いたわり、しかし甘やかさず、水先案内に導かれて、沖ではラシン盤によって波濤重畳の大洋を雄々しく進行し、適当な時期には、ひき船をひき上げ自身の船体に搭載して、更に進行をつづけます。ひき船のうれしい気持は察するにあまりあり、ではないでしょうか。精一杯ひかれて進行してさえゆけば、沈没するほどのときには、大きいひろい船体にたぐりあげられて、安心してその舷側に吊られるというのは、どんなに仕合わせでしょう。親船もきっと可笑しく可愛いでしょうね、相当上ったり下ったり右や左へ揺ママれながら、どこか陽気さを失わず、よろこんでひっぱられて来る子船を眺めて。裏表にかく方法はいかが? 確に不景気ですが、紙の貯蔵は少いから御辛棒下さい。
 二十七日のお手紙をありがとう(きょうは十月一日)生存上の潤滑油というのは全くです、総てのいいことはそこからというところもあります、わたしは、そういう油のたっぷりさのために、香油づけのオリーヴの実のようなのね、くさりもせず干からびもせず。原始キリスト時代の人たちが、香油というものを特別に尊重したことをこの頃思って、その人たちの生活が、どんなにひどくて疲れるものであったかと思いやります。わたしも踵がズキズキするほど疲れたとき、ああ今もしこの足を哀れに思って暖い湯で洗い油でも塗ってもらったらどんなに休まるだろうと思うときがあります。あの時代の人々の生活、キリストという人の生活のひどさは、そんなどころでなかったのね、だから生活の苦労を知っているマグダラのマリアが、実に沁々と愛情をこめてその足を油ぬり、いとしさにたえなくて自分の金色の髪でそれを拭いてやったのね。キリストという一人の男の心情にみたされた思いはいかばかりでしょう。マリアの油はキリストにとって無限の意味と鼓舞とをもっていたと思います、だから、誰かが、そんなことをさせて、と非難がましく云ったとき、キリストは、マリアは自分キリストに迫っている危機を感じてしているのだから放っておけ、と云ったのでしょう。マリアが、自分の非力を痛感しつつ(本能的に)こころをこめてキリストの足を油で洗ったとき、その顔にあった表情は描けも刻めもし得ないものだったのでしょうね、ピエタのマリア(母)の方はミケランジェロの未完成のものもあるけれど、このマリアはロセティかがあの人のシンボリズムで描いたぐらいではないかしら。マリアの顔が描けるぐらい、一個の男子として女性の献身をうけた絵かきや彫刻家は、ざらになかったという証拠でしょう。母と子のいきさつは人情の常道を辿って到達出来ます、そして云ってみればどんな凡々男も父たり得るし父としての親としての感情は味うでしょう。男と女との特殊な間柄は、いつも情熱に足場をもたなくては成立し得ないし、其だけの情熱は或意味では普通考えられている恋愛以上のものですから、誰の生活の内でも経験されることではないでしょう。そして芸術のジャンルについて考えればキリストとマグダラのマリアとのいきさつは全く文学の領域で絵でも彫刻でも局部的な表現しか出来ないでしょうね。この手紙は立ったり居たり、わきへ人が来たりの間に書いたもので、きっといくらか落付かないかもしれませんが。

 十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月九日
 今、夜の十時です。何と珍しいことでしょう、この手紙は、いつものように食堂のテーブルの上でかかれているのではなくて、二階の、わたしの大きい勉強机の上でかかれて居ります。
 先々週の月曜以来(咲枝上京の日から)うちは大ゴタゴタになって、疎開手続をして二十ヶの大荷物を作るかたわら、陶器の蒐集したのやたまったのやらの処分をはじめ、わたしは連日台所に立ちづめです。荷作りはコモ包みを専門家が来てこしらえて、発送するばかりとなり、あのガランとした玄関の土間に人の通るせきもなくつみ上げられました。仁王のような男が来てやりました、それはきのうのこと。一昨日は陶器の商売人が来て、七十歳の体を小まめにかがめて午後一杯価づけをいたしました。陶器の方もこの二三日で処分するものは処分し、のこしておきたいものは、のこすでしょう。
 そのさわぎで、家じゅうヒトところも常態でいるところはなくなってしまいました。食堂の大テーブルは、陶器陳列用につかわれて、小さいテーブルで食事だけはしているし。台所が一番いつも通りなので、わたしは食事係をひきうけている関係から、台所で働きつつ小説をよむという暮しでした。小説はよめても、書けないわ、職人の出入りするところでは、ね。
 きょうになったらもう辛棒しきれなくなって、二階に大車輪で自分のものを書くところこしらえた次第です。目白の頃のようにね、八畳の室の入った左手に机、その奥にベッド、つき当りに小さい本棚。ここへ来れば、わたし達の雰囲気があるようにしました。そして、やっとさっき顔を洗い、足を洗い、着物をかえて、書きはじめました。こうやってこの机使うのは、十六年の十二月八日の晩以来のことです。その時分は、次の室のずっと広い方に机おいて居りました。でも可笑しいものね。余り家じゅうどこへ行っても大ガタガタだと、ひろい室はいやになってしまうのね、ここへ、ベッドとくっついて置かれてあるの、なかなかわるくありません。わたしは妙ね、こういう風に特別な区切りや色彩のない簡素な室で、ゆったりした机の上にだけいくつかの愛物ののっているのがすきです。相変らず支那焼の藍色の硯屏とうすキイロい髯の長い山羊のやきものの文鎮がひかえて居ります。この形で当分暮すのでしょう。
 さて、やっとお天気になりました、きょうは暖くもあったことね。きのう、掛布団届けましたから、あす明後日にはおかけになれましょう。雨の夜こそ綿の厚いのが欲しい気もちがするのにね、今年こそ、と思ってあんなに早く出来しておいたのに、差入れられる日限が来たら雨つづきになってしまって。あの雨つづきは、暖流異変というのだったのよ、御存じ? いつまでも暖流が流れて来て寒流が来られないでいたんですって。だもんだから秋刀魚も、乗って来る潮が停頓してしまって、どっかで停ママしてしまったのですって。黒点との関係だそうです。いろいろ変ったことが起るのね。
 きょう、あなたのねまきをほして、自分の体が痒くなるようでした。マアマア、よくもよくもくったこと! 痒い痒い、おなかのまわりね。あれ丈になるのには、全く夥しい数の輩が、一匹ずつたんまり頂いたことを物語って居ります。
 自分がノミには弱くて、くわれはじめは半狂乱となったからしみじみとお察しいたします、ところによるのではないでしょうか。運わるく、繁殖著しき場所に当っていらっしゃるのかもしれないわね、何年もの夏でしたが、あれほどの戦蹟をのこした夏ものははじめてですもの。どこの家にも今年は多く出たのよ、何かノミにとっては仕合せ多き年なりきということがあったのでしょうか。
 三日づけのお手紙頂いたこと申しましたね。クライフのあの本なんか、良書です。しかしクライフが生れた国柄のおかげか、良書としてスイセンはされて居りません。青年たちがよむべき本の一つなのにね。クライフという人自身、人間というものをよく知って居りますね。人間の情熱というものを自身知って居りますね、あの抑揚は、それを知らない人にはもてない精神のリズムと迫力です。プルタークについても、いつか云っていらしたことは真実ね、多くの場合プルタークはそれを本当に理解する丈生活経験を積まないうちによまれたぎりのことが多い、と。プルタークはあれを、いくつの時分に書いたのでしょうか。プルタークの尨大な頁の中に鏤められている珠玉が、生々しい感動としてわたしの日々の中へまで反映されるようなときがあろうとは、実に予想いたしませんでした。昔トルストイの「戦争と平和」を菊版の四冊かにして出したりした国民文庫の中にプルタークがありました、それがわたしの見た初めでした。それから、まるで字引よりこまかい字で二側にキッシリ印刷した英文のプルタークが、今も埃をかぶって棚にあります、建築字典などと一緒に。どうもあの本をよんだ人がいたと思えないわ、あの字のこまかさでは。買ったのは父か省吾という弟の人かもしれませんが。プルタークは、詳雑でありながらも、キラリとしたところは感じた人間なのね、キラリとするところがうれしくて荒鉱アラガネのところもとりすてかねたのねきっと。
 わたしはあなたが『風に散る』の第二、第三、とおよみになるのをたのしみにして待って居ります。これについては大変話したいことが一つ二つあるのよ、ムズムズして待って居ります。だって失敬でしょう、これからおよみになるのに、前からあれこれ喋ったりしたら。我慢して待っているの、ですから。
 ヘミイングウェイというひとを、再び見直すことにも関係をもって来るのですが。あの第二巻をおよみにならなかったのは、小さい残念の一つね。「誰が為に」、の。
 あなたもやっぱり『食』は御覧になったのね、何万人の人があれをあすこでよむでしょう。わたしもよみました、そして、同様に感じ、又こんなことも感じました、こういう本のかける人の神経は、何とのびやかだろうと。或意味では御馳走と一緒に人もくっているわ、ね。所謂嗜好を、支那古代人は、事実そこまで徹底させました。この和尚さんのは抽象的ですが。もう疲れたからあとは明日ね。このベッドの足の方のネジクギが一本ぬけてガタクリしているのよ、三本足の驢馬にのって山坂を下りる夢でも見なければいいけれど。キーキー云ったら、それはわたしがあぶながって叫んでいるのよ、そしたら、いつかのように、つかまってもいいよ、と云って頂戴。それは暖い初冬の夜の崖の上で、街の灯は遙か下にキラキラして居りました、その腕に遠慮がちにつかまったとき、わたしは体がそのまま夜空を翔んでその灯をえて軽く軽く飛べそうに感じました。シャガールは、ロマンティシズムにへばりついていて下らないけれど、彼の人生の一つの真実として、そういう感じに似て感銘だけはもっているのね、覚えていらっしゃるかしら、彼の誕生日という絵。しかしあれも、その初冬の夜の何の奇抜さもない奇蹟の美しさにくらべれば、つまりはこしらえものね、天井から翔んでふって来るのですものね、そのひとのところへ、花をもった女のひとが。
 ああ、でも、どうして、あの崖のつるりとした坂道で、わたしがふと、こわがったのが、おわかりになったのでしょうね、どうして、あんなにすぐわかったのでしょうね。今年もやがて冬になり、あの坂道はやっぱり、すべりそうに違いないと思います。
 十二日、くたびれて、こんなに間が途切れてしまいました。きのうの朝咲枝とび立って帰りました。子供のことは勿論ですが、あのひとにとってもうこっちの生活は、全くこしかけよ、まして今度はタンスも机も荷作りしてしまったのですから。あっちにある、自分が主人の机、餉台、家じゅう――つまり自分の生活へ、とび立って帰り、そのうれしさかくせず、わたしもどっかへ帰ってしまいたいわ、と、咲枝に台所で申しました。
 きのうも陶器関係の用事で人出入り多く、今日も又大ガタガタつづきですが、さっき※[#丸付き通、464-13]が来て、土間の荷物をみんな運び出したからこれで一安心でした。いいアンバイに国男がまだいて、防空壕の左官もいて、わたしは手をかけずすみましたから、よかったわ。
 十日のお手紙けさ頂きました。早くついてうれしいこと。早くついたばかりでなく、うれしいお手紙でした。これへの御返事はゆっくりしたときこころもちよく書きたいわ、今は、あっちこっちで人声がガヤガヤして、まるで新聞社のどこかで書いているようなんですもの。しかしこんなに疲れているのに、わたしはこの頃誰にでも元気そうだ、と云われるのよ。何が原因でしょう、あなたのお手紙に、夏の頃より元気らしいとあるので、又思いめぐらすこころもちです。それは夏に負けた体だから涼しいのがいいに相異ないけれど、ひとの元気というものは根源の深いものではないでしょうか、わたしはそう思うわ、血気の元気は自然の年齢で鎮められてしまいますが、年を越え、肉体の疲れにかかわらず、猶、焔のようにその人を輝す元気があるなら、それは、内なる灯で、その灯の油こそ実に実に、ただごとで、そこに充たされてあるのではないのです。わたしはこの頃、自分の内心の幸福感に自分でおどろき、そのそよぎの活々した波だちに殆ど含羞はにかみを覚えるばかりです。それはわたしたちのいとしい、いとしい燈明よね、改めてゆっくり、では。

 十月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 昭和十九年十月十七日
 きょうは年に一度の十七日[自注14]ですから、紙も奮発していいのにいたしましょうね。いま午前十時すこし過ぎたところで、国が、用の電報を出しかたがた肴町の花やで菊の花を買って帰ることになって居ります。あいにくはっきりしないお天気になりました。でもゆうべは十時頃床につき、よく眠りましたから体も楽よ。
 けさの新聞は、台湾の東方洋上とマニラの近海における戦果を公表して、戦史まれにみるところとして居ります。十七日に、こうしてしずかに暮せることは一つのたまものです。幾匹も頸輪をはずされて野犬となった犬どもが、一列になって、すがれた夏草の庭や落葉のたまった破れ竹垣のところをかけて通る様子は、これまでなかった今年の東京の秋さびですが、でも空のしずかなのはうれしいわ。たとえ曇っていようとも、ね。
 国が帰って一束の菊をもって来ました。花やの店は大部分しめているのでたのんだのでしたが、肴町のも閉めていて、白山よりの左側の花やで買った由。白い菊、えんじの小菊、黄がかった中菊。この机の上にはえんじのをさしました。こんなに花のつつましい十七日は十何年来はじめてね。いつも花は困るぐらい溢れましたが。この花松という店、白山のわたしがはじめてポートラップというものをおそわった小さい喫茶店、覚えていらっしゃるかしら。あのすこし手前よ。ポートラップの店は今何を売るかしらないが形はあるようです。あの向いの南天堂のひどさ(本の)、それはどこも同じです。あの通りの中央に、大きい貯水池ができかかっていてほじくり返しのゴタゴタです。もう何ヵ月もよ、働いている人の姿もないままです。
 ことしのきょうは、わたしとして特別に心からのお祝いをのべたい心もちです。わたしの胸にいっぱいのほめ歌があって、それをどういう表現で伝えたらいちばんふさわしいだろうかと思案いたします。くりかえし、くりかえし考えます。非個人的な感動やよろこびを、最も個人的なような立場のものがひとに話すことは殆んど不可能であると。しかも、そのように規模ゆたかなるよろこびを、個人として近いからこそ、ひとしお深くつよく感じて、一層非個人的なひろがりに到るということは、何と微妙なあやであろうかと。そして人のこころというものは、おろそかに外に洩らされない感動のそよぎに充たされるとき、それは響きにみちて鳴らずにいられません。きょうのおよろこびに一つのタンボリン(羯鼓)をさしあげます。それはわたしよ。手にとってつよくうてば、その羯鼓はよろこびに高鳴るでしょう。指にとってやさしくうてば、羯鼓は懐のなかで鳴くように、肌にそって長く鳴るでしょう。膝の前において見ていらっしゃれば、羯鼓は見られることをうれしく思って自分も飽きずみられているわ。決して退屈しない羯鼓をさしあげます。おまけにその羯鼓はおてんばもすきで、もしあなたが機嫌よさにちょいとえりをつかんでもち上げたり、ころがしたりなされば、毬にもなってお相手いたします。枕につけて寝れば、それは夢の中にうたうでしょう。
 わたしのほめ歌の主題は、一本の樫の樹です。一本のすこやかな樫の若木が、草萌ゆる丘の辺に生い出でました。春の淡雪は若枝につもり、やがて根に消えて、その養いとなりました。夏の白雨は、しなやかな梢にふりそそぎ、一葉一葉に玉のしずくを綴って、幹を太らす助けとなりました。春秋いく度か去来して、今仰ぎみるその樹の雄々しさはどうでしょう。枝々は逞しく左右に張って、朝の日と夕べの月とに向って居り、梢は空にひいって、星を掃きます。鬱蒼とした枝々に鳥どもは塒を見出し、根の下草には、決してこの樹をはなれない一本のすいかつらも茂って居ります。樫は壮年の美に溢れるばかりです。すこやかな若木であったその樫は、この地上の誇として堂々たる壮年に達し、自然と人間をよろこばせます。ジュピターという神を、ギリシア人は意地わるもする神として考えました。自然力は横溢して、人間の都合をふみにじりもするからなのでしょう。
 ところでこの樫を、天なる神は非常にいつくしみよみしているにかかわらず、折々霹靂へきれきとともに、おそろしい焔の閃光がその梢や枝におちかかります。その光景のすさまじさは、あわやその火の中に樫も根元からやかれたかと思うばかりです。しかし、雲が去り、風がやわらかく流れて煙を払ったとき、見れば樫は見事にその枝々をひろげてやっぱり堂々と立って居ります。只よくみると、一つの霹靂を耐え経るごとに、樫の枝と幹とは次第次第に勁さを増し、樹皮の創さえその成熟の美観を加えるばかりです。自然神は、その天性によって、いつくしみ、抱擁しようと欲するときにも、ありあまる力によって霹靂となってふりかからずにいられないし、火焔となって落ちかからないわけには行かないらしいのです。大樹とならざるを得なく生れついたその樫の樹は、この震撼的愛撫の必然をよくのみこんでいるらしく、おどろくばかりの自然さでその負担に耐えて居ります。そして年を重ねるにつれて重厚さと余裕と洞察の鋭さから生じる愛嬌さえも加えて来ているというのは、何たる壮観でしょう。樫の樹も人も知って居ります。雷によって枝を裂かれていない大樹は、一本もあり得ないということを。枝を裂かれつつ繁栄するそこにこそ大樹の大樹たる栄えがあるのだということを。そしてね、ここに一寸、おもしろの眺めや、というところは、例の樫の根元のすいかつらです。
 樫が若木であったとき、奇しき風に運ばれてその根元の柔かい土の間に生えたこの草は、不思議な居心地よさに夜の間にものびて、いつか花もつけ蔓ものばし、樫の幹へ絡みはじめました。やがて蔓はのびひろがって枝にも及び、花の咲く季節には、緑こまやかな葉がくれに香りで、そこと知られぬ深みにも花咲くようになりました。
 すいかつらというような草は、元来勁い草とは申せません。もしもひよわい枝にまつわれば、その枝の折れるにつれて泥にまみれもしたかもしれません。この樫の根に運ばれた不思議によってこの蔓草は、今やその草とも思われなく房々と大きやかに成長して、蔓の力もあなどりがたくなりました。
 雲脚が迅くなって、黒い雲が地平線に現れるとき、樫は迫った自然の恐怖的愛撫を予感して、枝々をふるい、幾百千の葉をさやがせて、嵐に向う身づくろいをいたします。そのときすいかつらも自身の葉をそよがせ、一層しっかりと蔓をからみ、樫と自分がもとは二もとの根から生れたものであったことをも忘れ、もしも雷霆が一つの枝を折るならば、蔓のからみでそれを支えようと向い立ちます。その気負い立ちを、樫は自身の皮膚に感じます。そして太い枝の撓みのかげにすいかつらをかばって、むしろかよわいその恋着の草を庇護いたしますが、気の立ったすいかつらは、自分こそ、その樫があるからこそそうやっていられるのだということを気づかないのよ。しきりに葉をそよがせて力みます。樫にはそれが気持よく、すこしこそばゆくもあるのです。ですから、よくよく気をつけて嵐の前の樫をみると、風につれてリズミカルに葉うらをかえす合間に、時々急にむせるように、瞬くように、全身を小波立たせることがあるでしょう。あれは樫の笑いよ。するとね、すいかつらはいかにもうれしくてたまらないように、わきにいる小さい苔に囁きます。ほら、笑ったでしょう、樫が。あれで結構よ。樫の勇気はあのひと笑いで、すっかり定着して、ゆとりが出来て、益※(二の字点、1-2-22)立派に発揮されるのよ。さあ、もう私たちはおとなしくね。そして、蔓に力をこめて絡みつつしずまります。どんな嵐にもふきはがされないだけぴったりと。すいかつらが、分相応の智慧にもめぐまれているというのは自然の恩恵と申すべきでしょうと思います。
 わたしのほめ歌は、ざっと以上の通りよ。さて、これをどんな長歌につくれるでしょう。なかなかむずかしい芸当です。こうして話すしかわたしは能なしらしゅうございます。樫とすいかつらの万歳を祝してこのおはなしはこれでおしまい。
 きょう(十八日)夜着届けました。きのうは咲枝も多賀ちゃんも十七日に届くように、と小包を送ってくれて、咲からはあなたへ草履、多賀ちゃんからは冬の羽織の縫い上ったのに、こまごまといりこや橙の青々ときれいなのや、お母さんからの豆などよこしてくれました。繁治さんと夕飯をたべ、夜も愉快にすごしました。栄さんは移動劇団と一緒に四国旅行ですって。世田ヶ谷はおつとめ。こっち方面は月末か来月に一たて別にゆっくりいたします。光から郵便小包出ないらしいのよ。鉄道便でくれました。こちらからは小包行きますが、島田と多賀ちゃんにおついでの折お礼を、ね。栄さんたちもおよろこびに草履くれました。うれしいわ。二足のうち、どちらかは役に立ちましょうから。もう、もとのは半分こわれたでしょう? はじめっからあやし気だったのですものね。
 十月十日のお手紙ありがとう。風に散る第二巻の、あの荒廃時代の描写は本当におっしゃる通りです。時間をとびこしたリアリティーを感じつつよみました。そういう意味では随分参考にもなりましたし、ああいう南部の女性たちが、ともかくああいうひどい立場に陥ったとき馬一匹をも御せるということについて新たに考えました。わたしたちのところには馬もいないわ。従って御せもしないわ。第二巻は、描写もひきしまっているし、作者のテンペラメントとよくつり合ったところと見えて、なかなか大したものです。第三巻と言行録の七、八、お送りいたします。第三巻をおよみになったら、あのわたしのたのしみにしているお喋りをくり出しましょうね。
 言行録、ちょいちょいお先に拝見して思いましたが、家光の時代というのは、丁度いってみると明治興隆期(四十年ころ)のようなもので、実に卓出した人材が多かったのね。松平信綱なんか大した智慧者のように教わっていましたが、人物としてはもっと上品じょうぼんなる士が一人ならずいたようです。伊豆守は巧者なものなのね、智にさといというような男で、強く表現すれば極めて抜目ない秘書よ。剛直とか、深義に徹した判断とかいうことより、抜目なく世情に通じていてそれで馬鹿殿様や押し絵のように、ゆーづーのきかない役人を動かしたのね、常識家の下らなさがあります。大久保彦左衛門は、明治でいえば、何ぞというと御一新をかつぎ出す爺さんで直言が身上、但あの男だからと通用するというカッコつき人物ね。
 本当の人物らしい人物たちは、昔風の忠義ということ(範囲)においてもつまるところは「事理に明白である」ということが基調となっているのは面白うございました。だからこそ時代をへだてた私たちに感興を抱かせるのね。同時に、そんなにきょうの日常は、事理明白ならざる混沌のうちに酔生しているのかともおどろかれます。
 渾沌についてはきょうはすこし感想があるのよ。勉強をしている人間としていない人間とのたのしみかたの相異ということです。一人の人についてみても、その相異はあらわれるという事実についてです。何も本をよむばかりが勉強ではないが、本を読もうとする身がためには勉強の精神と通じたものがあります。生活の中心から勉強心がぼけると、遊びかたがちがって来るのね。只話していて面白さがつきないという風なところ、或は黙ってそこにいて何か面白いという風な精神の流動がなくなって、何か所謂遊びをしないとたのしみにならないような空虚さが出来るのね。丁度精神の低いものは、くすぐりやわざわざ茶利を云わなければ笑うことも出来ないようなのと同じね。人というものが、対手によって自分というものを表出する方法をかえるということは面白いものね。自分がもしそれぞれの人の高い面でしかつき合われていないとすれば、それは遺憾めいては居りますが、そちらの低さについてゆくにも及ばないことだわ、ね。同じ人に玄関と裏口があるのね、そうしてみると、わたしはやすホテルの室かしら。入口も出口も一つきり。あとは窓きり。可笑しいわねえ。わたしは、所謂遊びにはまりこめないわ。女が自覚しはじめたとき(十八世紀)そういう人たちが申し合わせて先ずカルタをやめた、というのは、素朴なようでなかなか意味のあることですね。昨夜いろんな話をふとしている間に、そんなことを痛感いたしました。ブランカのかくし芸なしに祝福あれ、と。
 風に散るの中からの引用。わたしも感じをもって読みとった行でした。それはこの手紙のはじめに感じている非個人的、そして個人的、更に非個人的な高揚の感覚と等しいものです。アシュレが、誰かの句を引いたのね、スカーレットには一生かかっても分りっこない文句の一つとして。世田谷へかえす本もって参りました。間違わずいたしましょう。あのプルタークなつかしい本の形ね。(以下、この頃の郵便局のむずかしさを書いていて、墨で消されている。)

[自注14]十七日――顕治の誕生日。

 十月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月三十日
 きょうも亦雨になりました。よく降る秋ね。まだ秋空晴れて、という印象のつづくときがありません。日本の秋も北方大陸の秋のように、先ず毎日の雨で示されるようになって来たとでもいうのでしょうか。今頃ヴルヴァールの枯葉が雨の水たまりに散っていて、急に雲のきれめから碧い空の一片がのぞき、その水たまりに映ったりしていた光景を思い出します。夏の夜は白い服の人々やガルモシュカの音楽や声々の満ちていたベンチが、人気なくぬれて並んでいてね。公園や並木道の秋、雨の日などの風情は、このぬれて空なベンチで特徴づけられます。リュクサンブール公園は今度の巴里の戦いでは主戦場になったそうでしたから、この秋あすこの美しい樹木や彫像や其こそベンチはどういう姿で秋日和の中にあるでしょう。十月下旬は驟雨が多いわ。その中にふとコーヒーの匂がするという工合で。ムードンの森も、きのこを生やして、しずかでゆたかな森と云えない秋ですね。リュクサンブールのぐるりには中国の留学生が多くて、あの人々のフランス語は自分の国の喉音や鼻音と共通なところがあるせいか、きわめて自在です。互に自分のことばで話さないのよ。でも、やはりこの附近のやすい支那飯やへ行くとそこは国の人ばっかりで(ああ。そうそう。裏へ返さなくては。つい忘れて)お国言葉で談論風発です。国事を談ずる、という風にやっていてね、独特な野性味があって、つまり地声でやっているのね。外国人の話す外国語で、この自然な地声で喋れるようになるにはよほどであると思います。語学の道から云うとなかなかなのでしょうが、一寸別の道、人間の出来、というところから云うと、いつもそう話す、という程度の人間も少しは在るわけです。ひどいのになると、自分の流暢な語学にひっぱりまわされて、本心が我ながら分らないような人間もありますが。
 さて、きょう、あなたの御気分はいかが? やはり忙しくてお疲れ? わたしもきょうはすこしおつかれでおとなしくなっているのよ。きのうの日曜は、風呂を立てた翌朝なので、朝の台所を終ると、洗濯をしました。あなたの白麻の長襦袢やなにかを。国も在宅で、労働服着て、バキュームを動かして、カーペットの塵をすっかりとって、食堂に敷きました。真中に継の大きいのがあるけれども、冬仕度の出来た気分で――あなたにすれば、綿の入ったものがお手元にある気分で――よくなりました。夏じゅう板をむき出していたの。
 おひるをパンにしようとしていたら(国、自転車でとりに行きました)燃料がなくてパンやに配給なしだというので駄目。何とかおひるをすましたら、倉知の樺太にいる従弟が上京しているのが、息子同伴で夕飯に来るとの電話でした。ブランカ一時に緊張し、前かけの紐しめ直して台所へこそ、いでにけり。だってね、この人の健啖は勇名轟いていて、わが家の剛の者が束になってかかったってかなわないのよ。紀の兄で十八の息子が紀のところから専門学校の機械に通って居ります。この豊寿という人は、十七年の七月末にわたしがひっくりかえった晩林町へ上京して来て、家じゅう空っぽにしてかけ廻る番人をしてくれたのですって。三日目に気がついて何かお礼云ったのを覚えて居ります、ですから、わたしとしては三年目の上京には、ひもじい思いをさせられないのよ。台所の戸棚あけてつらつらと眺めますが、あるものと云えば、さつまいも、かぼちゃ。どっちも自分として、とびつく気にならず。パタパタ火をおこしていながら思案して、ないにはまさる、とカボチャうんと切って味丈は美味しく煮て、火なしコンロ(おはち入れの応用)へしまって、さて考え考え足し足ししてお米をとぎ、汁のためのダシをとり、その間、腰かけへかけてアン・リンドバーグの「北方への旅」のつづきをよみました。アンは利口な女性です、本をかくにも、話術を忘れません。女らしくきのきいた(機智のある)ものの云いかたの中に批評も反駁も主張もふくませる、という調子で、アメリカの所謂上流文化人の社交性の文字化されたような味があります。スカーレットの、何ぞというと男の眼ざしなんか丈気にしていた時代の女の利口さが、どの位前進して来たかを感じさせます。そしてアンは御亭主自慢を実に上手にいたします。一つだって直接に称讚なんかしないわ、もっともっとタクトがあって、リンドバーグと他の飛行家の談笑ぶりの間にリンディーの頸首のしっかりさのわかる好もしさのわかる会話を入れたり、北千島の濃霧にとざされたときのリンドバーグの勇戦ぶりを、全く飛行の側から、自分の恐怖の側から書いたりね。首ったけ、というところをいかにも器用に、読むものにもリンディーの好ましさと思わせるように話していて、一寸あれ丈のコツのわかっている女は、女流作家の会、あたりには見当りません。アンの精神はなかなか強靭ですし生活の幅もあります、こういう人が、ギャングに自分の子をさらわれて殺されたことを、自分の国の現代というものの実情としてどんなに感じたでしょうね。アンの心の底には、アメリカという社会について、解答のたやすくない疑問、或は質疑があるわけです。
 アンのこの本をよんでも、アメリカの愚劣な宣伝マニアが分り、アンがへこたれて居ります。例えばね、アンが飛行機にのろうとして到着すると、婦人記者がつめかけて来て、「お二人のお弁当に何をお入れになりまして? 奥様全アメリカの婦人が知りたがっていることでございますわ」という風にやるのよ。日本の記者の愚問も相当ですが、幸なる哉、まだ家庭欄は、こんなおそろしさで全日本女性の好奇心を発揮いたしません。その上、一人の記者がデンワかけているのがアンにきこえます、「彼女は皮の旅行帽をかぶり、なめし皮のジャケットを着て厚底の靴をつけている」ところがどうでしょう、つい鼻の先にいる当のアンは木綿のブラウズをつけてズボンつけて、汗かいて、マアこの暑さに皮ジャケットなんか生きている者がどうして着られよう! と思って、びっくりしているのよ。
 アメリカのそういう愚劣な宣伝病と暴力沙汰――すぐピストルを出す――は、アメリカという国柄の特徴のマイナスの半面ですね。勝ったものが勝ったもの、という神経の太いより合い世帯の社会で、個人というものの価値の目やすが、現代に近づくにつれて低下して来て、世に勝つための機会均等が、アナーキスティックだから、ギャングまで発育よくなって来てしまうのですね。日本の徳川末期の侠客、ばくちうちには、発生にモラルがあって徐々に堕落して町の顔役になったのでしょうが、ギャングの発生にモラルがあったでしょうか、ギャングについて私たちは本当を知りません、映画で妙に色づけられて居るに過ぎません。金力による腐敗のアナーキスティックな所産たる腕力、武力がギャングと化し、精神的暴力が宣伝病です。アメリカ気質はあって、個性はありません(この宣伝病の中に生れ育って免疫が出来なくてはならないため)ここがヨーロッパに比べて実に興味があるのね、ヨーロッパ諸国の知識人は過去の重しと争って個性というものをわがものとしました、そのままそこの国に定着しているから、歴史的圧力としての伝統のよさわるさと自我のマサツが今だに絶えなくて、よりひろい社会的自覚への道も個性の道を通ります。アメリカは何と表現していいかしら、物心づいたと一緒に自分たちを新社会の建設の中に移して行ったから、個人の権利の主張が直ちに開拓者的自在性、自信、腕で来い、適者生存ということのむき出しの現実とつながって、ドイツ風な教養小説の精神、個性の完成というような問題が、その日々の現実の中で、解消されてしまったようです。アンの本を見ても其を感じます。歴史的過程として自身を感じるというより、この瞬間の感情的生活が最も多様な要素を集約している、という風ね。
 だから、アメリカ文学の波の動きも独特で、個性というようなのはポーぐらいではないの? ホイットマンはもうそういう生成過程のアメリカがマーク・トゥエンの時代からそこまで動いたことを示す社会的精神であったしシンクレアにしろ更にヘミングウェイにしろ、個性に加うる社会性――芥川と彼の時代への感応――という風ではなくて、もっと大づかみなアメリカ気質と呼ばれるべきものに時代性がくっきり刻まれているように思われます。彼等の進歩のしかた、新しくなりかたはそういう風で、一本の樹の梢があれ丈ゆれるから、さてはあの山は風が当るな、と思って見られるのではなくて、山じゅうが揺れるみたいで、その中で、特に目立つ樹が目につく、という風ね。封建的なものを知らない、そのじめじめ神経の張った黒い力は知らないが、真夜中にギラギラ白昼燈をつけてオートバイの競走をやって血を流す、明るすぎての暗黒力があり、其に対して芸術家は反応するのね、世界文学という見地からアメリカ文学のこの特徴は極めて興味があります。民主的な国柄の文学は所謂個性的なものに神経質に把われないところから、その一歩先から発足することは共通であり、直接社会にふれた文学にならざるを得ない本質も同じようですが、さて近づいて見ると、そこには興味つきぬ差別があってね。「怒りの葡萄」のスタインベックでしたか、生理学と物理学の勉強しているというの。アメリカ的渾沌にあきて、彼は法則の世界を求めているのでしょうね、法則を知りたいのよきっと、ね。人間の理性にたよるべきものを見出したいのよ、ね。しかし彼に誰か人あって、人間の文学は、パブロフ以後の生理学の示す第二命令系統セコンドオーダーシステムの問題であること、単なる生理的物的反応が人間精神でない、ということを示してやらないでしょうか。科学の貧困が哲学へのめりこみ、文学の貧困が自然科学へのめりこむ工合は複雑ね。
 そう云えばフランスでは最近シュバリエがマーキによって命を失いました。ピアノのコルトだの所謂名人が同じフランス人によってとらえられました。シャトウブリアンの孫の作家がどっかへ亡命し、NRFの或編輯は自分の頭に玉を射ちこみました。街の歌手、あんなにフランスの民衆が彼の粋さを愛していたシュバリエですが、悲しいかなそのイキは商品であって、巴里っ子魂ではなかったらしいのね。芸術的技能が商品化した連中は、国際市場の変動につれて、価格暴落でね。
 さて、話は家事茶飯に戻ります。樺太で電気技師をやっていると、ちがうわね、こまかい当節の波にもまれていなくて、若々しい専門的興味があって疲れたが面白うございました。この人が息子をつれて神田で見つけた大得意の本は、十九世紀の水力モーター(水車)について書いた本です。英語の。今の文献に、そんな大時代のものの説明はないから閉口ですって、そういうキカイを実際に使わなくてはならないからね。電気の人はなまけていたら飯のくいはぐれになってしまう由。この人の弟は東京暮しで、会社の拡張係か何かやっていて、もまれていることねえ。もまれて(スフの布のように)ついたしわがそれなり消えずにいく分人間的固定の感があって。気のこまかい人、それを自分のプラスの面と心得ているような人は、我からもまれるのね。秀吉が大気ということを人間鑑定の中に入れたことは当って居りますね。才人が才に堕さない唯一の道は鈍になり得る力があるかないかのところね。対人関係の中に終始しないで、電気一本しっかりつかまえている丈で、人間も違いが出て(四十代でめっきり)大したものね。きょうはこれからそちらよ、では。

 十一月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月四日
 きょうは雨も上ったし風もないし暖いし、いい日になりました。ブランカは、今、洗濯ものをして来て、キモノをきかえて、食堂のテーブルに向ったところです、煙草が吸えるなら正に一服というところです。十時すぎに、国と、手伝っている事務所の女の子が開成山へ行きました。一人よ。ですから全く二人きりなの。
 三十一日の次の一日が空襲警報だったし、二日はそちらへ行って、夜、どうかして疲れすぎて心悸亢進したりし、三日はきょう立つというのでソワソワで一日中落付きませんでした、雨がひどかったしね。こうやってしずかで、二人きりなのは大変休まります。ゆっくり一日休めるような日は、あなたはほんとに少ししか口をお利きにならないことね、殆ど一日用のほかはものを仰云らず、体を楽にして軽いものをよみながら、そういうしずけさの中に充実している心もちよさを吸収なさいます。きょうなんかは、確にそういう日よ。わたしも同じ沈黙の賑わいを感じ乍ら、ゆっくり台所をしたり本をよんだり、心から愉しいでしょう。
 国男の事務所は、十一月一日からボカシのような工合で、内容が入れ代り、事務所のカンバンは出ているそうですが、所員は国一人で、協電社という小さな電器会社の本社となりました。国は十年ほどそこにひっかかりがあって、今度は何をするのでしょうか、ともかく、そっちへのびるようすです。あの人とすれば、不鮮明な外観をとりながら、父の没後負担至極であったものを閉じてさぞ気が楽になったでしょう、半日ばかり開成山へ行くと出かけました。
 さて、十月二十日のお手紙、二十七日のお手紙、そして、十一月一日の分、どうもありがとう。十七日のための歌謡やタンボリンが、お気に召してうれしゅうございます。「多少ユーモラスな」すいかずらは、自然のめぐりは健やかであって、冬来りなば春遠からじ、ということを大分会得しているらしいから、ユーモラス乍らすてたものでもございませんね。そして、程々ならユーモラスなのもわるくもないと思うのよ、賛成なさいませんか。堂々とした樹と同じ丈堂々と出来っこないのだし、しゃっちこばって堂々めかして勘ちがいしているよりも、分相当に枝もそよがぬ風にこちらの草はちょいとはためいて見たりするのも愛嬌ではないの? ですから、あの歌謡にもあったでしょう? 嵐のさきぶれが大気の中に迫るとき樫の木が笑うと。それはすいかずらがそわついて樫が擽ったいからだ、と。あの通りよ。すいかずらにしてみれば、パタついて、ほれほれと樹に笑われて、一層安堵するかもしれないのね、草にだって神経があるから、神経の鎮撫として、ね。すこしこそばゆくないすいかずらなんか天下にないのよ。耳の短い兎がどこにもいないように、ね。
 クライフは近頃でのいい本でした、太郎が成長してああいう本をよろこんでよむようになればいいと思います、きょう、イーリンの『時計の歴史』をもたせてやりましたが、まだすこし早いかもしれないわね、ふりがながないし。太郎のためにと思って、いい本みんな国府津へ送ってやってしまって、あすこもどうなることやら。地下室にしまいこまれているらしいようです。開成山の疎開荷物に、本の木箱二つが仲間入りいたしました。本をいじっていて感じましたが、本の大事にしかたというか重点のおきかたも、その人の成長の段々をきまりわるいばかり反映いたしますね。蔵書というものは大切なものね、その人の内部があらわれていて。文学者はとかく雑書が多いというのは、特長的で、しかもマイナス的特徴ではないでしょうか。
 本のよみかたについては先般来、一冊の医者の本も、どのように読まれるか、ということを痛感していたので、クラウゼヴィッツのことも身にしみました。或る優れた人は、一冊の本も、其だけの事実というか、リアリティーとして自分に獲得して、その地点では、読んだところまではっきり前進しその点は確保するのね。平凡な読みては、自分とその対象をたいにしておいたままで、ちょいちょい本へ出入りして、わずかのものを運び出して来て自分の袋へつめこんで自分は元のところにいるのね。この相異は、結果として、一冊のよい本についてみても、よんだ丈のことはあるようになった人間と、「それはよんだ」人間と、おそろしい違いのあるものを生み出します。クラウゼヴィッツを、あれ丈のものを、もう一遍よみ直すお約束は出来かねますけれども、本を読むということについてのわたしの反省も、おかげさまですこし深められました。本を理解する力というようなものはまだ皮相なものですね、人生を理解したって文学は書けないようにね。読みかたに創造的読みかたと反映的よみかたとあります、後者は幻燈とその種板よ、こわいことね、種子板がどくと、白いカーテンばかりがのこります。何と多くの作家が、うすよごれたカーテンだけとなってしまっていることでしょう。表現派、新感覚派、シェストフ、知性、能動精神、人間性、歴史文学等。そこを生き経た人は何人で、種子板のいれ入り〓し、かわりに視点をうつして来た人は何人でしょう。思ってみれば、一人の人間が、もし真実其を生き通るならば、其はそんなに急にいくつも通過し得ないでしょうね、人間精神の変ってゆくキメは緻密で年輪はかたいものですものね、本来は。自然は人間が、持続しそこから発展し得るように、自然合理のテムポと理性を賦与しているのですもの。
 本のよみかたについては、ひどく感じつつあったところでした。一つの本をよんだ、ということは、泳ぎにおける腕の一かきと全く同じで、一かきした丈は、体がそこへ出ている、ということを感じて、驚きをもって自分を考えました。そうあるべきだわ、それ丈の価値ある本は、そういう風によまれるべきです。ありがとうね。
 二十七日のお手紙。おっしゃる通り親戚も世界にまたがって存在するようになりました。六月頃出した緑郎の手紙が一日に来ました。ノルマンディーに侵入がはじまった頃のパリで、まだそこにいた時分の手紙です。ざっとよんだだけだけれども、環境の関係か、急所でピンボケのようで、すこし残念でした。同盟通信に働いたり、夫婦で交歓宣伝放送に出たり細君のリサイタルをやったりしている様子です。僕等の活動についてお知らせしますとあり、いろいろそういうことが書いてあるようです。空襲警報のとき来ておちおちよめなかったけれども。パリを去るようなことは無かろうと云って居ります。その後の経過で限界もひろげられ愚かな人たちではないから成長もするでしょう。但し「選良エリット」すぎるのよ、大使館、正金云々とね、細君のひっぱりや緑郎の親の七光りで。外国でこれは用心がいります、出先の大使館のぐるりの生活は、土地ものの生活とのちがいがひどくてね。
 多賀ちゃんのことは、現にもうこうやって一人になってしまって居りますし、今度は一人も亦よしらしいからどうか御心配なく。
 十七日がしずかだったのをたまものと表現したからと云って、あながち、タマモノと思っているのでもないのよ、ハハンと笑って、わたしも一本参ったと申しましょう。でも、あなたねえ、何て、あなたでしょう、その点では痛快のようなものですけれど。
 クラウゼヴィッツは市ヶ谷の頃よみました、面白く、感服もして。そして、忘れもしたというのは、きまりがわるいわね。
 十一月一日のお手紙大変早く二日に頂きました。
 今年はたしかに寒さが早うございます、この秋は秋刀魚も焼かず冬となる、よ。秋刀魚なんて、ほんとにどこへ行ったでしょう、うちの柿はもげましたが。
 このお手紙にはブランカのバタツキ占星術克服のために、よめとおさしずがあり、一般的に、勉強を怠らない精神がどんなに大切なものかということは、十七日のあとの手紙に書いたとおりの実感です。あわただしければ遑しいほど着実な勉強が必要です。そしてそのことについてブランカは現時代人として最も貴重な教育を受けつつあると感じて居ります。これらのことについては、一まとめにして、別にかきます、あれこれの間に書くにしては余り貴いことだから。抒情的に云えば、わたしのこころに鳴るほめ歌の物語ですが、それは天上天下にひろがっていて、最も骨格的なものに通じるのよ(ブランカ流にしろ)ですから別に。
『名将言行録』について何か筋の通ったことをかくことは、容易でないでしょう、そういうのではないのです、あの中に語られている人、その逸話にあらわれている人間としての質量などについて一寸かきたいのよ、そういうものならばそういい加減な饒舌にもなるまいと思います。作家論の延長として、作家以外の人物について語ることもすこしは私の可能のうちに入って来ているだろうと思います(自分の成長との関係から見て)
「綿入れ」とかっこつきでほめて下さるからうれしさひとしおね。笑い話です。そちらからの帰り、ハタト当惑してね、送った荷物は着かないしいかにせんとしおしお日の出町の停留場へ辿っていたら天来の霊感で、ホラあのこと! と思い当り、それから大童でもんぺはいて熊の子のように着物と綿とのぐるりを這いまわって、やがて仕上げた「綿入れ」には、一家をあげて驚歎いたしました。「マア、先生、おえらいこと※(感嘆符二つ、1-8-75)」凄いでしょう? 女医でなくて先生になっちゃったのよ昨今。ほかによびようがないのですって。致し方もなし。これというのも、この節は夜具屋が縫わなくなって、うちで人に手伝ってもらって夜具の綿入れをいたしましたから、それで、おそろしながら「綿入れ」と称するものが出来上ったのよ、あれこそブランカ特製品ですものね、アタタカナラザルヲエンヤ。

 十一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月七日、これは、秋晴れの空からひらりと散って来た一枚のもみじの葉のような手紙。
 さて、只今午後三時半。五日以来日に一度の行事も、本日分は終ったというわけでしょうか。さっき、もう一寸で出かけるところで、おべん当もこしらえて、まさに着物を着かえようとしていたら始りました。そのおべん当を今たべて一服というところです。
 何年も、「一服」の手紙をかいて参りましたが昨今の「一服」は極めて時代的です。一日のときは、みんないましたが、壕の準備がしてなかったので大いにせわしない思いをいたしました。次の日にこたえる位。五日、六日、きょうと馴れて来て、次第に準備も出来て来て、きょうなどの成績は上の部でした。九時すぎに「定期」が来るから、けさは早くおきて御飯もゆっくりすませ、あおりで飛散したため、傷をうけることがあってはいけないと台所のガラスの空びん空カンなかみのあるビン類すべてを始末してあげ板の下にしまいこみ(只今ラジオのブザが鳴り。動坂の家のようなのよ、警戒警報解除)窓と水平の棚の上のものをすっかり空にして、引越し前の台所のようにしました。積年の弊がえらい状態のところへ、この頃は空カン空ビンみんな入用なのよ。ですから私はじめ保存病にかかっていて、役にたちかねるの迄すてないのね。(思い出してひとり笑いいたします。ブランカ、かんだけの保存病だと思っているネと笑われそうで、そっちの保存病は数年前に大分治癒いたしました。)午前中其をやって、ホホウ、きょうは「定期」が休業ならと支度していたら、千駄木学校のサイレンが唸り出しました。近いからその点いいこと。本当に鳴り出す前の唸りの間に大ヤカン一杯の水は汲めます。
 うちは、まだまだ整備どころではないのよ。国の性質は物臭さの屁理屈で all or nothing と、イプセン流なの。ですから、いろいろ放ぽりぱなしで「姉さん、いざとなったら同じことだよ」と、この間うち土蔵から出した陶器類ね、ズラリと並べたまま自分は開成山なの。いい度胸です。ですから、わたしは女心の小心でね、昨夜は日本でも珍重すべき参考品をあまり芸術家として心ないと惜しくて大事につつんで、ガラスの棚から大きい古米櫃にうつし、蚊帳でくるみました。気休めね、埋めなくちゃ何もならないのよね、本当は。いざとなって同じというのもいいが、ものはすべて一挙に行きませんから、家じゅうのガラスがみんなこわれて雨が入り、室じゅうガラスの破片だらけで、腰かけるところもないようになって、しかもまだ家だけのこる場合だってあるのですもの。わたしはガラスの生えた席というものに大した嗜好をもたない以上、自分の安眠のためにもね、働かざるを得ません。
 こうしてポツリポツリと働いて怪我の要素を減じてゆくというわけでしょう。でも昨夜はわたしもなかなかよ。午後になってから、思いたって、この間にとお風呂をわかしました。疲れたし働いてよごれたしかたがた。たしなみがいいでしょう? 一人だと却ってそういう早業がききます、気が揃うから。然し、一人きりなのは神経の緊張が自分で心づかずにゆるまなくていけませんね。こわいというのではないわ。緊張のゆるまなさ。昨夜もそれについて思いました。自分なんかこんなことでさえそれを思うのだが、と。自分で自分をくつろがせてやる術も入用ね。神経の緊張をゆるめる術を会得することは、私に特に必要でしょうと思います。やった病気の性質からね。
 ブランカのくつろぎかたは一風あってね、かたくなったような頭を、一つのしっかりとした胸のところへもってゆきます。それは爽やかに、春の紺の染色が匂っています。その紺の匂いと胸の厚さには限りないあたたかみがこもっていてね。黙ってじっとそうやっているうちに、息がやさしくなって、次第にすやすやした自分を感じます。紺の匂う胸は、格別その間に一こともいうわけではないのよ。ただ頭をもってゆくと、すこし動いて、おさまりのいいように、羽づくろいをするような丈です。その微かな身じろぎに何と深い深い受け入れが溢れているでしょう。タンボリンはしずかに鳴りはじめます。冬でさえもそこには春のあった風ママが渡ったせいでしょうか、それとも二つの息があまり美しく諧調を合わせたせいでしょうか。
 きょうは十日です。鴎外の翻訳だと、「がくの音はたとやみぬ」とでも云いそうに、旋律は途絶えました。あすこ迄書いていたら寒気がして来てたまらなくなったので、早速熱いものをのんで、ゆたんぽをこしらえて床へ入ってしまいました。夜の九時頃まで眠って目がさめたら、寒気はとまって、おなかがすいたのが分ったので、おきて御飯こしらえてたべました。働きすぎや何かで疲れたのね。八日のひる頃、そちらへ行こうとしていたら、寿江から電話で見舞いに来てくれました。八日の晩と九日の晩は、数日来になくよく眠って、大分きょうはましです。眼がすこしマクマクぐらいのことで。寿はきょう一寸千葉へかえり、明日又来てくれる由。「いくら壕があったって、たった一人おいておくなんて」それが本当よ。心もちの上では、ね。壕が丈夫だから一人でいいというのなら簡単ですけれど、もし万事それですめば。
 この間うちから落付いて書きたいと思っていたことも、間奏曲が入って来てしまいましたから、これはこれでまとめてしまいましょうね。こんなに凸凹したような手紙、珍しいし、へばり工合が、おのずから窺われもいたします。本もののときなんか、たった一人というのは、あとの疲労の重さの点からもよくないと思います。段々こんな風に修業してゆくうちに抵抗力もますのでしょうが。
 多賀ちゃんから手紙が来て、いつでも行くと云って来ました。どちらにいてもめぐり合わせだからと小母さんがおっしゃるしって。けれどもやっぱり来て貰うのは先のことにいたしましょう。第一国男がこれから先どの位田舎暮しをするのかそれも分りませんから。あのひとは、多賀ちゃんがいくらか気づまりなのですって、「馴れていないからね」。きょうは、いいものが島田から参りました。栗よ。いつもあすこのは見事ですが、もう今月から一切こういうものの荷物は送れないことになりましたから大打撃です。とくに開成山から全く野菜が来なくなるのは厨房係には涙ものです。では別に。

 十一月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月十九日
 きょうは少し嬉しいこと。雨が上ったばかりでなく、久しぶりで一人の時間が出来、家にいることも出来、ゆっくり書くひまが出来ましたから。金曜日に、風邪がうつって、と云って居りましたろう? あれが少々本物になりかかって、きのうは体じゅうこわれたセンベのようになって床について居りました。今日は眼の工合がわるくて、その点では書きにくいけれども、ぶくぶくに着て起きて居ります。出る用が多かったところへ寿が先ず床についてしまって(十六・十七)その上、久々でわたしと十日も暮したので、甘ったれてくっついてはなれないので、十六日に一頁かきかけて、珍しく中断してしまいました。六日、十一日、十四日とお手紙頂いていて、随分たくさんのお返しがたまった次第です。先ず、ブランカのばたくり占星について。
 七日のあとに書いた手紙なんかは、典型的ばたくりを反映していて、あれは自分でそれを知らずさし上げたのではなくて、寧ろ、まア御一笑を、というところもあり、仔犬のフコフコもあり、かたがただったのよ。そんな気持がなければ、もっともっと烈婦らしい書きぶりの手紙さし上げたことでしょう。わたしは、家のものたちから余程万能薬と思われているらしくて、わたしの淋しさとか不便とかこわさというものは、全然無視したスパルタ的扱いをうけ、その点ではいや応なしの荒修業です。愚痴をこぼしたってはじまらないから、偉くなって居りますからね。だから、そちらへは、つい、もたれよって、フコフコになるところが少からず、というわけです。だってあなたは、わたしが疲れるとかこわいとか云ったって、少し苦笑して、せいぜい勉強することだね、とおっしゃることは分っていますもの、こうして姉さんやって行けないんなら、田舎へ行って貰うしかないね、なんておっしゃいませんからね。そしてわたしは東京にいなくてはならないのですもの、ねえ。
 土台、わたしのばたくりは、春頃と今と本質的にちがって来て居ります。春ごろのは、本当のばたくりでね、ああいうことがあろうか、こういう風になっては困ると、いろいろの情況を予想して気をもんだ形でした。まだ体がしゃんとしなかったし、急に家じゅうすっからかんになってしまって、もし自分がどうかあったら、あれもこれも、どうなさるだろう、と後脚で突っぱった驢馬になってしまったのね。「あなたはそうおっしゃるけれども」は、私の一代の傑作と見え、大変きつく印象されて、今だに再出現するのは恐縮の至りです。
 今のばたくりの本質は、どんなことになるだろうという風な恐慌的のものではございません。あとで、きょうこそ書けますけれども、生活について、この夏から徐々にわたしの心持は変化して来ていて、どうなるにしろ、という大局の落着きが根底に与えられて居ります。従ってこわさにしろ、首をすくめて浅い息をしているという形ではないのよ。遠くのボーをサイレンかと思ってハッとするという風なものではありません。わたしは、のろのろしているが、割合突嗟の判断はたしかですから、そういう場合の自信もあります。今ひどく疲れたり、へばったりするのは、具体的に、急な時間のとき処理しなくてはならないものが、あなたとわたしの事物ばかりでない、ということから来て居ります。五分間に二本の手が出来ることは大体きまったものです。リュック一つにしろ自分の分だけなら何でもないのよ。しかし先日のようなときは、一人で三つ始末しなくてはならず、その上、食糧のことも何もかも集約的にどっと来るから、一人ではあと大へばりするのよ。もしかしたら、わたしのやりかたは、少々ピントはずれかしら、とお手紙よんで考えました。一人の人間しかいない以上、一人だけの用を先ずしておいてあとはそのときという工合で、当然なのかしら。腹も立つわね、日頃何一つ心がけず放っておく人は其から来る不自由をしてみればいいとかんしゃくも起したいことね。バカ正直で、自分がいるのにと、つい柄にもなく意気ごんでクタクタになって、あなたから信用失墜ではユリちゃんも形なしね。わたし一身のことは(ばたつきの一形態かもしれないけれ共)日頃心がけて、ブーとなってからそれというほどでもないのよ。高射砲の音をきいたからと云って、まさか足どりがあやしくもなりません。今が今、いつ来るかと兢々ともしていないわ。
 余りわたしが意久地なしのようで相すみませんから、一通り弁明いたします。こんどは、例えば自分で気をつけもしない外套をわたしが何とかすると期待したりして貰わないようにするわ。先ず一人単位ということにするわ、ね。そうしたらあれこれの配慮がずっと簡単化します、ガラスだらけの家になったら靴ばきで歩いて暮すわ、ね。十何年も前の冬、本場でスケートの稽古をしようとしてカネのうってあるスケート靴を買いました。そしたら、肝臓の病気になって三ヵ月も入院しているうち春が来てしまって、その靴は、籠に入れられて帰国したまま先達ってまで、新聞にくるまれて居りました。もう無いと思っていたのよ、それが出て何とうれしいでしょう。本場で寒中用、スポート用ですから内側が暖く出来ていて、編上げだから丈夫ですし。底が、釘のあとの(金をとってしまったあと)小さい穴があって、本当は、ワックスでもぬった方がいいのでしょうが、この間、そちらへ一度はいて行ったら、小さい穴もいい工合に泥でつまったみたいです。
 体つきから云っても、わたしは烈婦ではないかもしれないけれども、少くとも勇婦ではあり得そうです。烈婦というものはね、やせ型で、眉根キリリと、つり上り唇薄くやや三白眼なのよ。御亭主にも魂をとばしたりはしないものなのよ。勇婦というのは肥って丸くてよく笑って、甘えたいところもあって、でも腰ぬけではないものです。「一旦ことおこれば、ともに岩きにこもらまし 思ひね、わが背」というところがあってなかなかいい筈のものだと思って居りますがどうでしょう。わたしは、ぬけ上った額が黒赤く光って、肩の骨の張った烈婦よりも、桃太郎風の勇婦が気に入ります。勇婦は一本の花を手にもっているゆとりがあって。天日微笑という日光ゆたかな情景には鉢巻しても頬のふっくりした勇婦がふさわしい図柄ではないでしょうか。
 わたしのフコフコも「整理の必要アリ」になってしまって、これからは、少くとも勇婦類似的にかかなくてはならないのは一大事ね。自分に、漠然と、云わずかたらずかぶせられる負担を、明瞭に整理しなければいけない、ということがよく分り、いろいろの御注意をありがたいと思います。
『名将言行録』のこと、あれは、お手紙にもあるように人物の価値というものについて書いてみたかったのでした。松平信綱は智慧伊豆とよばれ、十分自他とも其を許した男のようです、それは、通俗の耳に今日も伝わって居ります。けれども、あれは、家康から三代経って家光という、封建確立時代の代表的智慧で、その下情に通じ、下世話にくだけた機智で、大名に対する商人の苦情を封じるところなど、むしろ憫然たるものがあります、智慧の気の毒さみたいな。それに、天草の乱のときの原城攻撃の態度、ぬけがけ手柄をしようとする、その他、属僚的機敏さはあっても、井伊や北條その他の気骨、大義、骨格を欠いています。人間の大事な礎をかいています、それらのいろいろの逸話を対比して、即効散的人物、重宝人物、何かにつけて「あの男を出せ」的人物が必ずしも人物の優秀を語らないことを書きたかったのです。今の人は、謂わば上の石は右へまわり、下の石は左へまわる間に、はさまれているような暮しが多く、今日の内容づけによる範囲でも常に大義と日常やりくり、うまくやることとの間にすりへらされて妙なキョロキョロした人間が出来つつあります。だから書きたかったのです。けれどもおっしゃる通りかもしれません。小さい書きものに終っては、はじまりませんからね。書いた内容さえ言葉足らずで。読書余録として、いろいろそういう読書の感想がのこされるのとはおのずから別ですから。
 バルザック読みのこした分を又ノートとり乍らよみましょう。
 この夏を通し、それから秋へかかり、この頃になるまでに、わたしの一生にとって二度とない収穫と成長の一時期が経過いたしました。この期間に、私が学びとりいれたことは、あらゆる読書執筆で代えられないものだと思って居ります。
 病気になるまでに(十六年の末)十年間ほどの、わたしの成熟が一段階に到達して、あの頃、わたしが、くりかえし、それから先へ育つこと、「作家」を突破したいこと、を云っていたの覚えていらっしゃいましょう? 自分のその希いのために、わたしは自分の病気も、原稿生活のないことも天祐と思って居りました。チェホフが沖へ出る、と表現したそれを自分に宿題として感じていたのでした。あの時分は、わたしにその要求がめざめていても、いろいろの潮加減で、水脈はとかく岸沿いにゆきやすく、執筆という櫂だけの力では、そこを横に切ることが容易でありませんでした。重宝者になることを、あの頃はあなたも注意して下さいました。生活の事情が停頓的なとき、(複雑な組合せと内容において)芸術家が発育の欲望をもつとき、其は屡※(二の字点、1-2-22)悲劇をさえおこします。その人の情熱の勘ちがいから。トルストイが宗教へゆき、ドストイェフスキーが「悪霊」以後に陥った泥。弱少なる其々が、積極を求めて消耗的恋愛に入ったり、所謂経験ママりに焦って消磨したり。
 わたしに、そのどれもが入用でないことはよくわかっていても、さて、自分の櫂一本では沖へ沖へとゆけませんでした。わたしの自力の不足もあるでしょうし、生活というものの現実のてりかえしもあって。ところが、この夏以来、一度一度とわたしは自分の無意識のうちに求めていた櫂の突っぱりの手答えがついて来て、この頃自分の内心深く眺めやると、何とありがたいことでしょう、岸はいつしか遠い彼方となって自分は沖に出ていることを発見いたします。先頃、波に漂う自分ではなくて航行しつつある自分を感じるよろこび、そういう感じに導かれる比類ないうれしさをお話したでしょう? 勿論覚えていらっしゃるわね、それが更に継続し発展した自覚です。親船、子船にたとえて話していたのも覚えていらっしゃるでしょう? 今になって感じをたしかめてみると、もう二つのものとして、曳かれている子船はなくなっているわ、面白いこと。子船はもう、親船と別のもの、附属もの、ではなくなって、きっちり工合よく親船の舷におさまって、親船のスピード、波をける力を自分のものとして納っているのが分ります。親船がどう向きをかえようと、スピードを変化させようと、もう曳綱がゆるみすぎるとか張りすぎるとかそういう心配は全く不用になって、小船は、身の程は忘れないながら、サアどのようにも、とよろこび確信しているのです。この、きっちりと入れこになって、沖へ出た感じ、何に譬えたら表現されるでしょう。いやで目ざわりで、そら又近づいたときらっていたごたごたした岸はいつかはなれて、潮先が、地球の規律にしたがってさしひきしているその沖に、今や航行中という感じは、どんな模様の旗をかかげたらば語られる歓喜でしょう。
 精神の船は、赤道を通過しました。小さい櫂でエッチラおっちら、やっていた骨折りも決して無駄ではなくて、其は曳き船となり、更にもっと本式の航行形態となりました。
 人間の内容が単純である時期は、一冊の本をよんでさえも、知らなかった一つの扉をひらかれます。時を経て、仕事もすこし重って来たとき、いざ沖へ更に、ということはどんな者にとっても一つの難業です。芸術家は、自身に破産を宣告しなくてはならず、仮にその勇気はあったにしろ、条件が不均衡だと破船いたします。その例が、どんなに多いでしょう。その芸術家の誠実さと難破の危険とは正比例するようにさえ見えます。「伸子」からその後の切りかえのとき、難破必至と観察されましたが、幸に乗り切ることが出来、それから先の、もっと内部的な、もっと切実な、成長は、かくも身もこころもひしと美しさの感動の裡に可能にされたことは稀有なことです。婦人作家の歴史は、ここに到って、真に新鮮な、メロディーをもって高鳴ると思います。個人のよろこびを超えて居ります。沖へ出た感覚のまざまざしさ、おわかり下さるでしょう。
 わたしの痛感することは、そのような可能を現実にもたらした一つの生活力の深さ厚さ活々さへの感歎です。人は何とやすやす偕に生きるというでしょう。ともに生きるということは、然しながら、どれほど大したことでしょう。真に生ききれる力量が、その無言の規模によって他をも生かすその生かせかたは、壮麗というべきだと思います。自身の生きる力の溢れによって、生きるべきものは、おのずからそれによって活かされてゆく、その創造の微妙さ。古代の埃及人は、肉体の創造されてゆく力、自然力を極めて率直に感歎して、視覚化された人体の形でその泉の下に生成する小人間を彫刻しました、彼等の壁に。その真面目な、原始の精神は、自然力の崇高な浄らかさを感じさせますが、今わたしの話しているような、こういう風な人間精神の生成の過程は、どういう表現であらわされるでしょう。文学と、そして音楽と。それしかないようです、そういう展開そのものが生粋の詩情と理性との全くすこやかな諧調からしか期待されないとおりに。人間の最も鋭い感性と雄渾な知慧との実のりです。
 このようにして、わたしたちの愛する詩集の頁は、おもむろにひるがえされ、ひとしお溶けるように甘美であり、泣かしめるばかり調子高く、そして晴れやかにたのしい休息にみたされた新局面をくりひろげます。
 大きく育つ樹はそれが天然だから、その育ちの大さを自分で知らないものかもしれません。しかし、その天真爛漫な樹も時には、自分の梢が、余り遙々と地平線を見はるかし、太陽がのぼりそして沈むのを見守っていることに心ひそかなおどろきを感じないでしょうか。
 或る晴ればれした早朝、ふと目がさめて傍にすやすやとしているものを見たとき、それが自然である故にしみじみと新しくそのことを感じ直す、それに似たよろこばしき確認というものも、人生にはあります。そうでしょう?
 一組のものが、どれ程の過程を経て真の一組となりゆくか、それを思うと、結婚などという字は、かよわい一画一画がくずれて、今は不用となった或時期までが足場の木のように思えます。

 十二月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月三日
 もう十二月ね、今年があと二十八日で終ると思うと愕ろかれる心もちです。時間的に外からだけ見ると、時が経つのも分らないという位の遑しさであったとも云えますが、一歩深みを眺めやると、時間に詰めこまれた人間生活の歴史の立体的容積と動きとに又新しく愕ろかれるようです。実に忙しかったけれども、決して決してかけ足で通って左右のものが目にも映らなかった年ではありませんでした。その点では寧ろ歩武堂々たるものがありました。そしてわたしも、去年はもたなかった道を歩きその豊富な展望をたのしむことが出来、それはしんからうれしいことね。しんからしんからうれしいことです。二十二日のお手紙ありがたくくりかえしよみました。
 疲れていらっしゃる夜、待っていたというのは、偶然ながら可愛いところがあります。横へおいてついうとうとなさったのね、気がついて目がおさめになったとき、其はやっぱりそこにいたことでしょう。そして、御苦労さまね、少しは楽におなりになって? と云う声の出ないのを、きっと残念に思ったでしょうと思います、自分の着ている上皮が、ちっともきれいな目に気もちいい色合でないことも、気をひけているのよおそらく。この頃本当にすこしましな封筒なんかなくていつも素気ない紙ばかりで。封筒については永年随分気を配って居りましたのにね。でもマアいいわ。わたしがつぎだらけの標準服をきていると同然で、なかみのたのしささえたしかならば、ね。
 十二月十五日
 さあ、やっと私たちの時間が出来ました。三日からきょうまでに、折を見てはちょいと書き、ブーとなってやめたり、用事で中断されてやめたりした七八枚分を、今やぶいてしまいました。原稿さえ、やぶいてすてることのないブランカにしては未曾有のことです。やっと今、ここは私一人。何とうれしいでしょう。
 家に住む人をさがしていて、国は、日頃封鎖的生活ですから僕は思いつかないねエというばかりで、私がやっと見当をつけては連絡をし、ブーの間にあわてて来る人に会い、数日気をもみましたが、結局ないわ、今のところ。暮しがむずかしいから、みんな従来の自分の環境を大切にして、これまでいろいろもとでをかけて便宜をこしらえて来た周囲をはなれるのを不安がって居ります。来てもよいという人は夫婦とも病人で、これからの生活の荒さで悪化するのが分っているという工合ですし。今急に気をもむことはやめました。もっと先へよって来ると、来たいと先方からいう人も出来るでしょうし。国は二十日ごろ帰ってこの次はいつ出て参りますやら。年越しは、寿と相談して、来て貰って一緒にでもいたしましょう。一人も随分ひどいけれ共、国がこういう調子でいて、一日のうちほんの僅か何かして、あとは何となしサービスをしなくてはならなくていられるのもわたしとしては切ないところもあります。ブランカの気もちは、スパルタ人の方形陣に似ていてね、かっちりと必要と目的に適した日常形態にととのえて、キチンと出かけ、手紙をかき、すこしは本もよみ、そういう風にやりたいの。ところが目下のところ、何と云うか不決断で無方策な引越し最中とでもいうのか、国は服装だけは夜昼ともにいかめしく、そしてコタツに入って居ねむりしたり、急に働いたり。めいめい癖があります。
 日本人は神経質だし、建築が一つの火の玉にも落付かせておかなく出来ているし、なかなかもってビジネス・アズ・ユージュアルとは行きそうもないことね。伯林ベルリンの各家は地下室を居間として六七時間平気でガンばりつづけて来ているそうですが、こちらでは火消仕事が各人の責任ですから、消耗は大でしょう。うちの壕が、雨の日もなかでは濡れなく出来ているという丈もよほどの見つけものと申す水準ですから。この頃は段々寝起きが上手になって、用がなければすぐ寝てしまいますから、よほど大丈夫よ、御安心下さい。夜も早ね。大抵九時ごろ(わたし一人)もうすこし早くてもいいのです。その代り手紙さえ書く時間がなくなります。そちらへ出かける朝、暁に起されると、帰ってから眠らなくてはもたなくて、眠っている間に午後の大半はすぎてしまったり。わたしの器用な眠り術は、次第に効力を発揮して来るらしうございます。
 ビジネス・アズ・ユージュアルということをもうすこし違った云い方で表現すると、段々毎日の生活が、アンユージュアル・イズ・ユージュアル(非常が常住)ということになって来て、そこではじめて悠々さが出来るのね。戦場的ゆとりと申しましょうか。思えばブランカも、そういう状況で生活することには既に幾分鍛練があるわけです。でも、わたしのたちは、腕力的肉体運動的非常には不向きで、精神的な同様事情に耐えるよりもママ手であるのは欠点ね。スポーツの訓練がないからよ。静坐的な成長をして。スポーツ精神はあるけれ共、筋だの腱だのが至って大したことなくて残念ね。
 八日のお手紙、心からありがとう。あすこには高い空と爽やかな風と、すこやかな人間の息ぶきが流れて居ります。清明な光が透徹して居ります。ああ、実に、云うに任せよ。詩人に生れたものは、おのれの生涯をもって至醇なる芸術とすることしか出来ないのですものね。ダンテにああいう詩を書かせたメジィチ一家は一つのソネットさえつくりませんでした。
 人は、極度の侮蔑を感じたとき物を申しません。人は極度のコンパッションを感じたときやはり物を申しません。そして、人間の自然さが流露して、そういうときには、対手をこころから抱擁し、言葉のない情無尽の思いをつたえます。そういうおのずからの表現が不可能のとき、どうしたらいいでしょう。しかも、その一種類の感情ばかりでなく、二つが交り合って打つ場合、人はどういう身ぶりをしたらいいでしょう。
 口がきけないという形で一定の時間がすぎます。そして、そのうちに、時間的時間観が、歴史的時間感にすっかり移り、すべてのものが在るべき場所に再び安定し、万象が奇妙に透明になってしまったようなのが癒って、やがて人は口をききはじめます。そのとき、人は、もう決してもとの人ではないわ。
 鉄に一定の電流を通すと、組織に変化が生じます。日本の宝本多光太郎博士はそのことをよく知っていらっしゃるのでしょうね。それらの電流が、鉄を、どんなに人類の役に立つものにするかそのことをよく御承知なのでしょうね。
 きょうあたりの寒いこと。こうして書いていて手がかじかみます。アンポン式足袋はいかがでしょうか、あれでも純毛よ。出来上りがいかにもおそるべき手工品ですけれども、作りかたには叶っているのよ。悪料理人の手さき仕事ではないのよ。おとなりの細君に教えて貰って、そこの縁側で縫いました。離れの家、あなたもお当りになったコタツのある方の。底がぬけたら又一足こしらえましょう、二足ぐらいは入用でしょう、きっと。自分にもこしらえます、さむいわ、こうしてかけていても。
 ことしのお歳暮には、こころをこめて、かざらしを一つさし上げます。よくよくお似合いになるのを、ね。万葉の詩人は、あぶらの火に見ゆるわがかざらし、と、素朴な全生活の明暗を髣髴させてうたいました。でも、現代では、かざらしの花のえましさの見えるのも、複雑多彩な光照によってであるし、ひと花ひと花とつみ集めて編まれるかざらしも、ゆき山ゆきというより遙に深い含蓄をこめたものです。あなたの額に、どんなかざらしが似合うでしょう。その眉と髪にはどんな花がふさわしいことでしょうね。少くともそれは、昼もかなしけ、というほどのいとしさのこもった花でなくてはなりますまい。さゆりのゆどこ かぐわしい一つ一つのゆたかな花でなくては、お似合いにはならないわ。
 そして、眼のなかに、花かげがさしたとき、それはどんなに風情ふかいでしょう。己れであって己れでないそのかげに魅せられて、花は益※(二の字点、1-2-22)香い高く益※(二の字点、1-2-22)いのちをつくして咲きつくすでしょうね。
 二十日にあの手紙さしあげて、よかったことね。二十二日のも頂き、そしてから熱を出すようになったのは、幸と申すべきです。発熱の癒りも早いし、あなたが案じて下さる下さりかたも心配というような要素は不用ですもの。参ったらしいね。そうなの。そして、笑うでしょう。これは相当得難いことですものね、考えてみれば。日ごろの養生のねうちが知れたと思ってわるい気もちはいたしません。あなたにしても、やかましく養生のしかたをお云いきかせになって来た甲斐がなくなかったことには御満足でしょうと存じます。子にとって親ほど良医はないし、わたしにとっての名医があるというのはありがたいありがたいことです。
 やっぱり終りまで書きつづけられませんでした。きょうは日当番で、ヒマの種集めをして町会へ届ける用が出来て、其をやって戻り、この机に向ったら犬が吠え、庭木戸から女の人が入って来て、見れば犬を抱いて居ります。先月の六日頃、手術をしに医者へあずけたところ、工合がわるくて二度目にあずけてあったのを、お医者の家で疎開するので返しに来てくれたのでした。元気のいい雌犬だったのに、可愛想にすっかり衰えてしまいました。犬なんて、人工的に断種したりして、気の毒ね、全く。
 うちの主人は仔犬をきらいなの、実際困りもするけれ共。それでそんなことにしたのですが、失敗よ。果して冬が越せるでしょうか。わたしのように、自然なのがすきな者にとって、辛いことです。人間のおかげで、こんなに貧弱にされ、寿命も短くなってしまった犬を見るのは。
 きょうは、一つチャンスをつかんで、夕方迄に風呂をたこうと決心して居ります。この間うちから思いつづけて居りますが、折がなくて。余り風呂に入れないと却って風邪がぬけません。そして、手が痛い痛いし。水仕事で荒れ切ってしまって。
 あなたのおなか呉々もお大事に。国はどういう加減か、ずっと腹工合がまともでない由です。食物のせいでしょうか。熱がお出にならないのは何よりだと思います。すこし暇になり、おっしゃるように読みたいものもお読みになり、お休めにならなくてはいけません。あいにく夜目をさますことが殖えてしまっていけないけれども。きのうあたりは、少し休めたようなお顔に見えましたが、いかがでしたろう。ブランカは、あれからおひるをすまして四時ごろまで眠ってしまいました。
『風に散る』第三巻はまだでしょうか。最後の一行を読終りになったとき、わきにいたら、きっと、ホラ、ね? というでしょう、あれは不思議な小説ですね。ミッチェルさんが、もうあのあと作品は書きません、と云ったのは正直に心持を現した言葉だと思います。あれだけ大規模で、あれだけディテールに充ちた小説の最後の一行が、あんなに力なく云いわけめいているというのは一つの特色です。作者の人生一杯のところへ、あの作品が行きついてしまっていて、抜けちまった感じ。もう、これっきりという感じ。文句の上では明日という日を期待していますが、気魄において、内部世界の現実において、もうこれっきり、というところがむき出されています。だから、何とも云えず空虚です。その、もう、おしまいという感じの空虚さは読者のこころを一種の恐怖でうちます。バトラーという男を第二巻まで作者は力一杯に活躍させましたが、第三巻に至るとバトラーは極めて気の毒なことになって、あれ丈の人間熱量――情熱は、全体として全く浪費されたということになって、スカーレットの本能的な生存力の無意味な波うちとともに、本当に風とともに散り去ってしまった、という形です。作者の人生展望の大さがあの作品と共にギリギリのところまで消費されて、もう次の作品を生むだけの懐疑も理想も現実探求も、あの作者にはあのままではのこされていないようです。もし第二作をかくとすれば、真実の作品たるためには、作者その人の人生が一進展しなければなりません。新たな精神的蓄積がなくてはならず、それは作者自身の人生の見直しでなければならず、しかもバトラーをああ描けた作者、スカーレットをああ描けた作者は、女に珍しいリアリストだけに、逆に自分の人生に対してバトラー流の目をもっているでしょうから、少くとも当分自分の周囲をどう変えるという人柄ではなさそうです。
 大きい作品であって、そういう意味では小さい作品だと思われるところが、あれの独得な点ではないでしょうか。読者があの作品を興味をもって読むにはよむが、よみ終ったあと、自分にのこされた問題、人生課題というものを感じない。これはあれ丈細部が描写され力づよく彩られているにかかわらず、顕著です。「二十日鼠と人間」、又は、「誰がために鐘は鳴る」、などは、描かれている世界にリアルに案内されるばかりでなく、読者は更に現実の人間悲喜の裡にあって、まだ描かれていない人生の諸局面について、真実の存在について、感覚をよびさまされ、それらについて思いをやるだけの想像力の刺戟をうけます。結局大きい作品というのは、読者に、どれ丈人生の諸真実への関心をさまさせるか、という点にかかっていると思います。大作というものの真の価値は、そこね。
 人間情熱の悲しい浪費(バトラー、スカーレット)を描くところで現代文学の限界はつきているでしょうか。そうではないと思います。ヘミングウェイの例をとってみると、彼は「持てるもの持たざるもの」、という漂流的人間誠意――生きる努力の悲劇を描いた後、「誰がため」まで、ともかく漕ぎ出て居ります。点を甘くしても、現代文学の発足点、ドンと鳴ってかけ出す線はそこまでは来ているわ、ね。
 そういうところから云うと、「風に散りぬ」は古い作品です。題材が一八〇〇年代であるばかりでなく、作者の人生への角度が、気強い悧発な強情女らしい古さをもって居ります。
 この頃、そちらに待つ間に「アメリカ発達史」をよみ、南北戦争の時代のところなど大いに面白うございました。所謂再建時代の悲惨の根底も分り、あの作品がその具体的なところをよく描いていることも一層よく分りましたが、しかし、というところが、芸術というものの急所なのね。あの歴史の方が、本質的には芸術的です、何故なら、そのときどきの具象性を一貫した人間の発達の道程というものをとらえて居りますから。題材は雄大ですが、やかましく云ってあの作品に本当のテーマはないのよ、あの作者は、その時代の波瀾推移に興をもったでしょうが、其の波瀾が何に向っているか、という一本の生命はつかみませんでした。
「アメリカ発達史」は、うまく整理されているいいテクストですね、もしあの参考書がよめたらさぞ面白うございましょう、そしてね、あれをよんでいるうちに、アメリカが「新世界」であったわけがまざまざと分り、同時に憲法というものについて新しい興味を誘われました。生活意欲の表現として理性の代弁者として、憲法というものは、きわめて血の通ったものなのね、決して法律学生の端のメクレ上ったノートに丈ちぢこめられるものではないのね。今頃、とお笑いになるかもしれませんが、理性のありようのあれこれについて、痛切に感じるところがあるだけにあの歴史は面白いわ。生成過程が意識されて築かれたというところは印象につよく刻まれます、子供から発足したのでなくて成人からはじまったというところに。若い大人からはじまったというところに。長くなりましたからこれで。発声練習がすみましたから、又スタスタと暇々に書けます、では、ね。

 十二月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月十九日
 さあ、きょうから又一人よ。その点はまことに閉口いたしますが、こうして、すきな時に書いていることが出来たりするのは、これ又かけがえなきよろこびです。二十九日に帰って来て二十日いたわけね。昨夜は、徹夜してけさ四時頃出かけました。ずっと平均して働いておけばいいのに、のんべんとして(あのひとのことだから、きっと内心ではちっとも暇はなかったのかもしれませんが)いて、昨夜陶器の始末などやって五時十分かで出かけました。定期便をさけたわけでしょう。もう今頃は、開成山の茶の間で、大チヤホヤの最中よ、きっと。わたしは、昨夜の警報でたださえ眠る時間が狂いましたから、大丈夫となると、先へ床へ入ってしまいました。けさ一寸出る前に起きましたけれど。あの二人はおかしいやりかたの人たちね、四日のときも女中のこと放っぽり出して行ってしまって、泣いてさわいだりするのをわたしが始末しましたし、今度だって留守居のこと、決まらないうちにパーと立って行ってしまって。行ってしまえば其っきりという風に二人ともやるのは、やっぱり似たもの夫婦というのでしょうね、苦笑してしまうわ。
 今話のある留守居の人は、肴町の通りにスミレヤという電気やがあるの、気がついていらしたかしら。国が昔から出入りさせていた店です。そこに菅谷君という小僧さんがいてね、一種のペットネームのようにうちでは伝八さんと云っていたの、わたしはそういう名だと思っていたら、本名ではなかったのですって。その伝八さんなる菅谷君が年経るままに中僧となり、片腕となり、徴用となり、今は技術徴用でよそに居ります。伝八さんは、なかなか気風のいいところを見込まれると見えて、スミレヤの店からもっと大観音よりの方に春木屋という鳥やがあります、そこの娘さんを獲得して、尾久の近くに世帯をもって居ります。ごたごたしたところだし、実家に遠いし、来てもいい気があるらしいのです。きのう午後細君をよこすということにしておいたのにウーでおじゃんになってしまいました。きょう来るかしら。若い夫婦きりです、伝八さんは電気やさんで放送局の技術試験にパスし、小僧さんから仕上げたにしてはしっかりものでしょう、さらりとした気質です。わたしは、これで案外遠慮をする方だから、他人が一緒に暮すのも、というところもありますけれども、昨今は不用心と義理(隣組)とで、一人ではやれません。このあたりにさえ小供を手先に使うドロがいるのよ、三段構え位で、やるのですって。子供、不良夫婦、ドロと。うちはいざと云うとき迚も壕へもちこめないから日頃から何かしまっておきますし、私一人で、出かけるときは暖い用意のキモノだの、こうして書く道具の入った袋だの皆壕へしまって出かけるのよ、そしておばあさん、娘、孫息子と三匹の犬に、タノンダゾヨ、と出かけます。心元ない仕儀と申すべきです。ですから、誰か一人はいるものがないと、ね。このあたりは家との比較でみんな無人です、うちは極端ですけれど。これから加速的に不用心になりますものね。錠をきっしりかけて寝ることは危いし、サアのとき。その上このいじらしき三匹のタノンダゾヨが三月までにはいなくならなくてはならないのです、可哀想に。皮がいる由。
 今この組長が一寸よっての話に、追っては、ここのうちも強制疎開ということになりそうです、うちの前に坂がありますでしょう? あすこから大幅の道をつけるのですって。動坂から肴町へ出た道と合するのでしょうか。そうすると、うちは坂の真正面という位ですから家から動坂の方へ何間かの幅にひろくなり、その間の何軒かは、影も形も思い出のよすがさえもなくなってしまおうというわけです。来年の半ばごろ迄に生活はどの位変ることでしょう。大したものね。焼けなくてすめば、そういう次第で、どの道、ここは消えるのでしょう、そう思えば哀れもまさる庭木立です。うちなんかは、もう既に荷厄介にしているのですからあきらめいいとして、先の方についこの間買って移って来たばかりの家があり、そこは国宝の美術品をもっていた人の由で、そのために、地下室のいいのがあって、この節はボーと云っても子供や年よりは知らずに眠っているのですって、その中で。そこもかかるらしいのよ。その先住人は、牛車馬車をつらねて故郷なる岐阜へ引あげたところ、本郷にはまだ一発も着弾いたしませんが、あちらにはもうパラパラ。おどろいて居りますって。そうでしょう。この頃の人と住居とかくの如し、ね。寿江子の方もやや同じわけで、どこかへと思いますが、あのひとはもう当分あすこを動かないつもりのようです。今あの年ごろの女のひとは挺身隊召集をうけ、寿は、あちらならば、女学校の音楽の教師をすることが出来、生活的にも基礎が出来ていいらしいのです。どこにいたって、と目下のところ確く心をきめて居ります。経済事情も安定していないから、女学校にでもつとめて月給をとり、勤労報国隊の方も兼ねるというのが、あのひととしてはいい方法でしょう。
 東京その他、そういう便宜のないところで工場働きはあの健康がもちますまい。大分丈夫にはなって居りますが。寿のこの頃の雰囲気は、何となし寂しい人(本人がそう感じているいないは別として、よそめにうける感じとして)のところがあって気になります。光沢がうせて。あのひとの光沢は、何と云ったってゆとりから丈のところがありましたから。今の家は電燈もないのよ、都会風の意味では障子もないのだって。寂しいようにもなるわね、東京へ出て来たって昨今のように夜がこわいと、自分の生れた家へは泊れず、つい坂一つあっちの春江のところにとめて貰ったりして。本当に本当に気の毒です。
 きょう帰りに、正月号の雑誌をしらべに本やによりましたら、十二月の『文芸春秋』はまだ出て居りませんでした。未曾有のおくれかたです、お正月に十二月号、正月下旬に正月号となりそうです。紙の都合その他ね、すべてこの順で、年鑑もいつ頃出るでしょう。本は殆ど全く新刊はありません。
 隣組の用事で、ちょいちょい立ったりしてこれをかいているうちに、もうすこし薄ぐれて参りました、寒いことね、今眠さむなのです、眠い眠いの。そして伝八さんの細君は参りません。三時すぎてはもう来ますまい、夕方の用があるから。
 今夜ユリはホクホクよ、早く御飯たべて、さっさと七時になるやならずにねてしまう計画です。夜中におきたって、其なら幾分寒さもしのぎよいでしょう。
 今時分横になって何をしていらっしゃるでしょう、もう書きものはおやめでしょうし。手がつめたくて書きにくいでしょう? 森長さんのところへ電話したら、二年生(?)の男の子が出て、ア、ア、モシ、と云いました、笑えました。のちに又かけましょう、ねる前によ、勿論、御安心下さい。
 今年の正月には恒例の寄植の鉢もございません。何か、花と云えないようなカサカサのものがちょぼっとありますが。
 だからことしはいい花を上げようと考案中です。題だけはもう読みました。指頭花というのよ、ちょっと珍しい題でしょう、われら愛誦詩の作者のものですから、よく読んだら、きっと素晴らしい迫力があって、年頭のうたにふさわしいものでしょうと思います。いずれ御披露いたします。この詩の連作に、雪は花びらに溶けて、というのもございます、御存じでしょう。再び冬はめぐり来ぬ、あはれ、わが春ある冬ぞめぐり来ぬ、といううたい出しです。薄くれなゐの花びらに、ふる初雪のさやけさよ、とつづいていたの、ね、では又。

 十二月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十二月二十六日
 まだ午後二時だのに、日ざしは少し赤っぽくなって斜光の工合がいかにも真冬らしゅうございます。きょうはそれでもいくらか寒気がゆるやかです、きのうも、ね。三四日前何と冷えたでしょう。風邪をお引きにならなくて何よりです。わたしの風邪も、とつおいつ式ね、わるくはなりませんが。夜中おきますからいけないのでしょう。おまけにすぐおきていいように着物を大体着たままでしょう、なおいけないのよ。大いに心がけて、日光によくほした下着によく着換え、なろうことなら体も日光浴させなくてはいけまいと思って居りますが、ヤレやっと、二階へ上って、キモノぬいで、おひさまこんにちは、になると庭の方でチウジョさんと独特なせかせか呼声が起って、それは、何や彼やの配給ですよというわけです。ハイ、とそれから又ヤレコレと着て、かけ出して一度でこりてしまったわ。何しろ此頃睡眠不足がちですから女の人のチユジョさんも益※(二の字点、1-2-22)鋭角の方向を辿る次第です。自分は出来るだけのびやかさを失わず、ユーモアを失わず柔かくやりたいと思います。余りどこへ行ってもひどいので、ユーモアもいいけれども、こちらがユーモラスに感じても相手はそれどころかと力んでいると、折角の罪ない高笑いも云いわけをする必要を生じたりしてね、自分のガタクリぶりを自分から爆笑する能力のない人は昨今全く大ささくれね。無理もありません。電車の中なんかで、全く女のとおりのにらみかたをする男をこの頃見かけます。そして何となし愕然とします、怨みがましい睨みようなんてあまり男はやらなかったわ。もとは、もっと自分の力で何事も解決してゆくことができるということを自分で知っていて、そういう睨みかたをしていたと思います。こうしてみると、女くさいあれこれは、自力喪失から生来しているのと見えます。
 今、ひとりなのよ。いい心持で、然し眼のまくまくは感じつつ、これを書いて居ります。さっきはあれから護国寺前の本やによりまして、やっと『文春』の十二月号を買い、三浦周行の『法制史下巻』をかい、外山卯三郎の切支丹文化史という本を買いました。三浦さんの本は、上巻は十八年に出ていたらしいのですが、買いそこね。外山さんのものは初期渡来のジェスイストのアカデミー史で、彼等の日本においての様々の経営について知ることが出来るらしい本です。すこしずつ目につくときこっちの本を集めて居ります。何年も前からもっている興味がやはり消えないの、益※(二の字点、1-2-22)ひろまり深まるようです。封建の確立前夜、まだ群雄割拠が納まらない時(信長)、ジェスイストが来て、その時代の人々の心にあれだけ浸透したのは、何故であったでしょう。貴婦人の傾倒の理由は何であったでしょう。天主教の全にして一なる神の観念が、その時代の人々の精神に響いて行った行きかたは面白いことね、封建のかたまりかかりの時代の底流との照応で。信長は種子島を国内統一に利用し、坊主の勢力削減法としてジェスイストを扱いました。家光の時の島原の乱も、名将言行録の側からみると、又一種の興味がございますね。鼎の重みを問われるテストであったのね徳川にとっては。天草のくずれが日本の陶器の発達に一役買って居ります、生業として刀をすてて陶工となり平戸焼などはじめたのね。ザビエーやその他日本へ渡来した人々の個人としての宗教的情熱、ジェスイスト的激しさ、荒々しさ、そういうものは武家の何ぞというと生死にかかわった生活感情に不似合と思えなかったでしょうし、様式の華やかさ、やかましさも時代の形式尊重に合ったのでしょう。スペインをアラブから解放しつつ、その宗教即政治という堕落でスペインを疲弊させてしまったスペインのキリスト教団の功罪と、日本などへ来た個々人の偉さとのくいちがいも面白いことね。その人々が遙々東洋へ来たのはどんな心理の動機でしたろう。十九世紀におけるアメリカの宗教復活の波とはちがったうちかたをしているように思えます。こういう時代の日本の科学性の一歩の目ざめ。それから、封建崩壊期にオランダ渡来の新教の形式尊重を脱した十九世紀の近代科学の摂取、このうつりかわりがいかにも面白うございます、日本の理性の覚醒の過程として。大化時代には、内在的であった日本の精神の可能が、思考の様式を学んだように思えるのは違っているかしら。わたしはせまいマスの間に、しねりくねりと身ぶりをした文士的小説はほとほと書く気が失せました。小説を愛する(文学というべきね)こころの本源は、人生へのつきない愛であり、其は、つきつめたところ、いかに生きるか、そして生きたかという厳粛な事実に帰着いたします。そこにこそ、尽きないテーマがあり、つまり人類のテーマがあります。テーマの本流に、作家は可能なかぎり、力をつくして近接すべきです。日光は潤沢ですから泡沫にもプリズムの作用から七色の彩を与えるけれども、それは泡沫が美しいのではなくて、光線はどんなに公平かということの美しさですものね。わたしは、テーマの本流に身を浴したいのよ。切に切に其を希います。文学においてだけ、どうしてポシャリポシャリと浅い水をはねかしていなくてはいけないのでしょう。そんなことはない筈よ、ね。わたしたちの生活において。特にわたしたちの人生において。
 いつぞやの手紙に、わたしはおかげさまで沖へ出ましたといったでしょう? あれはここのところだと思います。先の頃、わたしは勇気と臆病さと七分三分で、ひょいとしたとき、岸が恋しくなったのね、人声やジャーナリズムのざわめきや、そういうものがききたくなったのでしたと思います。
 来年の日記を何につけようかしらと思ってね、あちこちひっくり返して十三年の日記見つけました、一月丈かいてあるの、いいトジだし、これにしようときめて、書いてあるところよんでみたらば、丁度十三年の封鎖[自注15]の当初だったのは面白うございました。そして同時に、すこし自分に愧しいの、あわてています。遑てるのは当然だけれども、あわてかたがね。堂々とあわてているというのも妙だけれどもマアそういうあわてかただといいけれど、上気せあわて気味で。そうしてみると、と自分に思うのよ。この六年来、世の中の違ったこと、それにつれて自分の成長したことと思われました。十三年の頃にはわが身一つに霜のきびしきという感じがあるのね、霜がおりはじめると、高い木の、その木の更に上の梢から色づきはじめるものなりという自然観察に立った会得が乏しい感受のしかたでした。一葉の紅葉に秋がわかるという大きいうけかたではないようなところがあって。其というのが、あの時分は、丁度、やっとレールにのって、汽車が動き出して、まだ幾丁場も進行していず、せめてあすこ迄はと行きたいところがあったから、その痛切さがああ映っても居りましょう。何だあの汽車は六七年前に車輪をとりかえて元のがつかえるのに新式改良だなんかと熱中して、みなさい、走らないじゃないか、格納庫にいるきりじゃないか[自注16]というのはくやしかったし、更に更に何、あの汽車を扱って車輪の入れかえなんかさせた人間の腕がよくなかったのさなんかというのはどうにも我慢がなりませんでしたからね。いろいろの時代のいろいろのこと面白いことね。
 十九日のお手紙、羽織今日着いた以下数行何となし汗ばむような気もちで拝見しました。わたし今風邪気味ですから、どうかあまり汗ばませないでね。くしゃみになって風邪がこうじます。涙もすこし出たいようになるし。おだやかな慨歎というものは身に沁みるものねえ。わたしは一生折々この種の慨歎をあなたにさせて、もしいなくなったら、一番なつかしいその人の特徴として、ああ俺は何度ブランカには追かけ式家政学のことを云っただろうとお思いになるかもしれないわね。或人が書いています、愛するということは欠点をさえいとしく思うことだ、と。何とかしてこれを牽強附会出来ないものでしょうか。御免なさいね。
 護国寺の本やから駒込郵便局へまわりました。郵便事務というものは実に大したものね、従業員はもっともっと大切にされていいと思いました。それにハンというものはこの種の仕事をどれ丈煩雑にしているでしょう、署名にもちがった煩しさがあるかもしれませんが、十人足らずの人間が些少の金銭を出して貰うのに四人ほどよ、印のことで用の足りないのが。自分もその一人でしたが。中條の印も持って歩かなくては駄目ね。ここの家の経営は日常費は、国府津を貸したものでやって行くことに相談をきめて、其は私がとることにしたら第一回に印です。ここの家の仕来りとしてこれ丈独立性をもたせたのは/はっきりさせたのは、[#「独立性をもたせたのは」と「はっきりさせたのは、」は2行]姉さんの名案と四月来の勤勉の結果です。後者がより多くものを云って居りますね、公私混同せずという信用が大したものでしてね。姉たる又難いかな、ね。それから重い緑色の風呂敷包み抱えてエッチラオッチラ家まで歩きました。その中にはポリタミンと同じようなものが入っています。これももう無くなるというので三本もっているから重かったのです。そして庭から廻って食堂へ入ったら、今すぐ出て来そうにそこいら中とりちらかして寿が千葉へ帰っています、年末で配給が困るのだって。近々又参ります。あの人のいるまわりはタバコの粉でへこたれです。わたしはどうもタバコ好きになれないの。
 すっかり(ざっと)掃除してパンをむして御飯たべ、これをかき出しました。もう四時ね、そろそろ馬崎が来ます、これは開成山へ送る荷のことで相談に来るのよ、家具を送りたいのですって。それがいいわ、ここがもし疎開にでもなれば、来年迚も今ほど運べますまいから。
 六時十五分迄に電球もって日暮里駅へ行きます、凄いでしょう、先生、書生の暮しはこういう風よ、卯女の家で電球がなくて百燭つけてハラハラしているのよ(電球隣組配給、今切りかえで市中で買えないものだから)灯が洩れるところへ丈盲爆がきますから冗談でないでしょう。だから二つの補充球を寄附しようというわけです。母さんが放送して帰りに日暮里まで廻るのよ。こうですものね、女性お気の毒です。
 きょうこそ又七時に床へ入りたいと思っていたのに、今夕飯終り九時五分前です。三行前のところで八百やの配給があり、一時間十五分立ちん坊いたしました、そして暗くなりきらぬうちと大いそぎで御飯たいて、日暮里へ行きました。靄のふかい月夜で、感情を動かされながら歩きました。十一月下旬でもこんな靄のこい夜がありますね。九時すぎ、ボーが鳴りそうだから出してしまうわ、ね。これで。

[自注15]十三年の封鎖――昭和十三年頃、中野重治や百合子等に対する執筆禁止の措置。
[自注16]格納庫にいるきりじゃないか――この手紙を書いた頃、百合子は二度めの執筆禁止の状態におかれていた。そのことをさす。





底本:「宮本百合子全集 第二十二巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本で「不明」とされている文字には、「〓」をあてました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
2005年2月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について