明日への新聞

宮本百合子




          一

 新聞というものについての考えかたも、それぞれの時代によって大きい変化を経て来ていると思う。
 明治の開化期、日本にはじめて新聞が発刊された時分、それはどんなに新鮮な空気をあたりに息吹かせながら、封建と開化とが奇妙にいりまじって錯雑した当時の輿論を指導したことだったろう。論説を書いた人々は社会の木鐸であるというその時分愛好された表現そのままの責任と同時に矜持もあったことだと思う。或人は熱心に、新しい日本の黎明を真に自由な、民権の伸張された姿に発展させようと腐心し、封建的な藩閥官僚政府に向って、常に思想の一牙城たろうとした。
 元来、新聞発行そのものが、民意反映の機関として、またその民意を進歩の方向に導くための理想をもって始められた「文明国」らしい仕事であった。
 資本も、そんなに大きいものではなかっただろう。記者として働く一人一人が、当時新しく強く意識された人格の独立を自身の内に感じ、自分が社に負うているよりも、自分が正にその社を担っている気風があった。しかしここで注目すべきことは、日本では、明治開化期が、二十二年憲法発布とともに、却って逆転させられて、人民の自由の封鎖がはっきりその頃からはじまった点である。それまでは闊達であった婦人の政治的活躍も様々の法令や規則で禁止されるようになったし、所謂筆禍によって投獄される新聞人はこの前後に目立って多数になって行った。日本の開化期の文化に関係ある統計のあるものは極めて意味深く近代日本というものの本質を示していると思う。犯罪統計のうち破廉恥罪以外で投獄された人民の第一位を、新聞取締法違反によって告発された執筆者たちが占めていたのである。

          二

 日本の新聞の歴史は、こうして忽ち、反動的な強権との衝突の歴史となったのであるが、大正前後、第一次欧州大戦によって日本の経済の各面が膨脹したにつれて、いくつかの大新聞は純然たる一大企業として、経営されるようになって来た。利潤を追い求める企業としてのあらゆる性格と方法とを備えて来て、どっさりの金を出す広告は気狂いじみた権利を紙面に主張するようになった。各新聞の古風な商売仇的競争も、商品としての新聞の売行きのために激しく鼓舞され、記者たち一人一人の地位は、木鐸としての誇りある執筆者の立場から、大企業のサラリーマンに移って行った。記者その人々の存在は、社名入りの名刺とその旗を立てて走る自動車の威厳によって装われるようになったのであった。
 最近十数年の間戦争を強行し、非常な迅さで崩壊の途を辿った今日までの日本で、新聞がどういうものであったかは、改めて云う必要さえもない。わたし達は本来の意味では新聞というものを持たずに、何年かを過させられたのであった。
 ところで面白いのは、最近何年間かのこの輿論封殺時代に、新聞人は、却ってその前時代の散漫であった人々よりも遙かに内面的になり、批判的になり、且つ客観的な科学性をもって社会事象に向うようになったことである。新聞関係の人々は、各方面を広汎に、戦時中の社会生活の現実を目撃し、理性ある人間であるからには、それを批評せずにはいられなかった。しかし、その声はまったく封じられていた。
 今日、こういう過程を経た新聞人の進歩的な要素が、わたしたち人民の、ひろく強く生き進もうとする熱意と本当に自然な一致をもって結び合わされつつあるのは、実に意義深いことだと思う。言論が客観的な真理に立つ可能とその必然をますと共に、人民の生活意識が、人間らしい欲求の自覚とその行動に進むにつれ、新聞はおのずから一転換を誘われて、再び、金儲け事業としてではない新聞の内容と組織とになろうとしている。様々の形で、そういう動きがある。
 これは、うれしく愉快なことだと思う。サラリーマンから、再び、人民の声を反映し、同時に木鐸たる記者に、自身の本質をとり戻すジャーナリストたちの新しい希望と、それに対する数千万の人々の期待は、互に苦しい時代を経ているだけに、決して表面の交歓ではないと信じている。
〔一九四五年十二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「民報」
   1945(昭和20)年12月1、2日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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