現実に立って

――婦人が政治をどう見るか――

宮本百合子




 新聞に、ぽつぽつと婦人代議士として立候補を予測される人々の写真などがのりはじめた。自分ではっきり立候補の計画をもっている婦人たちは、ふさわしいと判断した政党に入党手続をしたと報道されているし、立候補を予測されている人の中で、自分は絶対に立候補しないと明言している婦人たちもある。
 選挙という私たちの新しい仕事につれて、婦人は政治をどう考えるかという問題が、目前の事実として段々はっきりして来た。婦人有権者の総数は二千百六十八万人あって、その数は男子有権者よりも四十五万名多い。婦人は自覚、向上して、棄権しないように、という忠言もあちらこちらで聞かれる。けれども、率直にそれら二千百六十八万人の婦人の感想を求めたら、彼女たちの何割が果して今日における日本の女性の責任として、自分たちが急に与えられた権利を理解しているだろうか。
 先日或る座談会でその話題にふれたとき、少くとも隣組の婦人たちの間では、婦人の参政権に対する興味の気ぶりさえも見られないということであった。「そんなことより食べることに忙しくて」と云う表現もきかれた。成程、そういう片づけかたをしている部分も決して少くはないであろう。しかし、最近の十数年間に、夥しい社会の波瀾にたえながら、少女から成熟した女性へと生きて来た今日の若い婦人たちが、そういう主婦たちと同じような心で、自分たちの行使すべき権利について考えていると思えば、それは一つの大きいあやまりであると思う。
 今日二十五歳前後の女性たちと云えば、十四年に亙る戦争の損傷を、最も深く蒙っている人々である。彼女たちは、自分の豊かなるべき青春と、若々しく闊達なるべき人間性が、あらゆる面でどんなに痛めつけられ、無視され、破壊されて来たかということを、めいめいの皮膚で知っている。そのような非道な力の下でしかも猶よく生きようと念願しつづけて来た自分たち若い女性の心情を、いつくしんでやまない情熱をも持っているであろう。生きてゆく上に経済事情がどんなに決定的な条件であるかという事実も、こうして女子の失業が強制されて来れば、考えずにはいられない。一人一人の若い女性が身にあまる現代の疑問と慾求とに満ちて生きている。そこへ、選挙権が与えられた。ひしと身に迫り、身内に疼いている生活上の様々の問題に対して、自分の一票は、どんなに力となってそれを展開し解決に向けて行き得るであろうか。どこへ一票を投じたならば、生活そのものから湧いている多くの願いは正直に答えられ偽りなく行動されるのであろうか。
 真面目な若い女性にとって、自分たちがもつ選挙権の行使ということは、生きてゆく良心の課題として立ち現れて来ているとさえ思えるのである。
 若い、敏感な女性たちは、政治に対する自分の判断に、自信がもてないのではないだろうか。自分がまだ十分の経験や常識をもっていない、という不安ばかりでなく、もっと広く、もっと深く、日本の女性全般が本当には何も分ってはいないのだ、という普遍的な頼りないこわさを感じているのではないだろうか。何も判らないという感じは在りながら、一方にはっきりと、もう騙されて生きたくはないという気持がある。言葉をかえて云えば、もう騙されて生きていきたくはないからこそ、自身の一票の処置について、判らなさを痛感しているのである。
 明治以来つい最近まで七十年余に、日本の文化は極めて不健全な実体をもって来た。世界の多くの国々をみれば、人口の過半を占める婦人たちは、遙か昔に、自分たちの生活する社会の運営に参加している。そして、その自然な経過として、先ず身近な地方自治体への選挙、被選挙権の行使から、彼女たちの政治的発足をしている。イギリスでは一八六九年(明治二年)アメリカも同じ年。オーストラリアは一八九二年(明治二十五年)婦人の公民権が認められた。第一次欧州大戦の終結した一九一八年(大正七年)、イギリスは人民代表法で婦人の参政権を認め、小さいけれども文化的に水準の高いノルウェイは、それより早い一九一三年に完全な婦人参政権を実現した。ソヴェト同盟が、生産と公共的な勤労に従う男女の生活権を尊重して、十八歳以上の男女に等しく選挙・被選挙権を与えていることは、周知のとおりである。
 日本の歴史は、惨憺たる進歩性の敗退の跡を示している。明治維新によって、名目上の民権が認められ、新しい日本を建設しようという希望に燃えた一団の人々は明治十四年(一八八一年)自由党を結成した。有名な中島湘煙(岸田俊子)が十九歳で政談演説を行い、婦人政治家として全国遊説をし、岡山に女子親睦会というのが出来た。成田梅子は、仙台に女子自由党を組織し、男女同権という声は、稚拙ながら新興の意気をもって、日本全国に響いたのであった。
 ところが、一八八九年(明治二十二年)憲法が発布されると同時に、人民の政治的な自由は、それによって基礎づけられてより活溌に展開されるべき筈が、却って、圧力を受けるようになった。憲法発布の翌年一八九〇年、大井幸子が自由党に加入することを警察が禁止し、「集会政社法」は、婦人が政治に関する演説を傍聴することさえ感じた。女学校令というものが出来て、女子教育の普及を計ると云われたのは一八九九年(明治三十二年)のことであるが、その次の年政府は治安警察法第五条で女子の政治運動を禁止した。
 日本の地平線をちらりと掠めた民主主義の黎明は、こうして短い歴史を終った。そして近代国家としての日本は、軽工業の労働の裡に青春を消耗しつくす貧困、無智な婦人の労力を土台にして、第一次欧州大戦迄膨張をつづけて来たのであった。
 第一次大戦終了の後、漸々ようよう新婦人協会が治安警察法第五条の改正を議会に請願し、世界の社会情勢に押されて一九二二年(大正十一年)その改正建議案は貴衆両院を通過したが、その三年後には当時の内閣が、婦人公民権に対してさえ不許可を声明したのであった。昭和五年と云えば、つい先頃のことだが、その年の全国町村長会議は、婦人公民権案反対を決議した。翌六年満州事変が始ってから、あらゆる婦人参政権獲得に関する運動は、軍事目的のために圧倒され、婦選案などは議会にとり上げられさえもしなくなって来た。その頃から、本年八月迄、十四年の間、日本の婦人運動は辛うじて母子保護法を通過させたのみで、炭鉱業者が戦時必需の名目で婦人の坑内深夜業復活を要求したのに対し、何の防衛力ともなり得なかった。婦人の政治参加の問題どころか、戦争に熱中した政府は戦争に対する人民の批判や疑問を封鎖するために、近衛首相を主唱者として、政党を解消させ、翼賛政治会というものにして、議会そのものの機能を奪った。婦人運動の各名流たちは、「精神総動員」に参加して、戦時国債や貯金の誘説のほかに働き、その名声は、戦争の進行につれて益々被いがたくなって来た国内の生活崩壊の事態を、あれやこれやと彌縫びほうするためにだけ利用されるという惨めな状態に陥ったのであった。
 今日、人民全体が既成の「政治」に対しては懐疑的であるし、監視的なこころもちを抱いている。それは、本当に当然なことではなかろうか。今日の饑餓と社会生活全面の破綻をもたらした戦争について、人民を其処へ追い込むまいと献身し、わが身を犠牲とした代議士が、一人でも在っただろうか。只今開催中の臨時議会は、戦争犯罪人の摘発に脅かされて、新聞はおのずから諷刺的に彼等の恐慌を語っている。社会生活の破壊がもたらす様々な辛苦を、家庭で婦人は自身のあかぎれのきれた手によって知っている。婦人の参政権どころか、「食べることの方が忙しい」と反撥する気分を、ひとくちに、日本婦人の無智とばかり見るのは皮相の観察であると思う。「政治」が、今まで何をしてくれたのか、という鋭い感情がその底を貫いて走っている。結局頼れるものではなかったではないか、そのような「政治」に、何を今更、この忙しいのに、というボイコットが示されているのである。
「食べることの方が忙しい」という表現の心理を辿れば、刻下の逼迫は人民がみんな自分たちで何とかやりくって行かなければならないのではないか、という公憤に立っているとも見られるのである。この一事をみても、私たちは、全く自然で正しい政治というものの理解の、つい扉の外にまで迫って来ている。過去の「政治」には目をくれたくない程、生活の実情によって前進させられているのだから、その感情の奥底にある一つの太い流れ、「何から何までどうせ自分たちでやって行かなければならないのだから」という思いを、屈托した不平の呟きとせずこの際、それを条理をもって整理して見てはどうだろう。それが必然だからこそ、自分たちでやって行くに適当した社会的な方法を見出さなければならないという一歩の前進がそんなに不可能なことであろうか。
 食物の問題をひとまかせで暮している一軒の家もない。それが実際である。少しまかせて頼ってみたらば、忽ち東京では甘藷一貫目が五円五十銭となってしまった。
 自分たちでやっている以上、そういう人々が相談して、最も合理的な方法、村と都会との間の生活必需品の交換として、農村生産物と工業生産物との交流を、組織的に円滑にゆくようにしたらば、どうだろうかと考えてみる。すると、その一つが環となって、夥しい問題が私たちの眼前に浮び上って来るのである。日本の農村の生産は現在のままの様式で最高の能率をあげ得るのだろうか。同時に、都会の工場が、何故こうも平和産業に転換することがのろいのであろう。これ迄は変則なインフレ景気で工員たちも遊んで暮せる金があったかもしれないが、現在、人々は遊んで餓えたいか、真面目に働いて安心して食いたいか、二つに一つの答えに迫られて来ていると思う。東京に六十万の失業者があって、その人々は闇商売の面白さに求職していないと報じられている。しかし、人民の購買力は、無限ではない。刻々買いかねる方向を辿っている。腕をもっている人たち、働けば拵えられる人々が、坐って飢えるのを待っているだろうとは思われない。拵えたものが農村で入用だのに、その代りとして農産物を出したくないという非常識なものがあろうとも思えない。では、その二つの極を、どういう仕組みで繋いだら、一番総ての人の満足に近づくことが出来るだろうか。そういう風に考えを展開させてゆくことは、人間が、社会生活の裡に生き、互の協働によって生活を保って来た歴史的な習慣から、ごく自然な当り前な道である。そして、食物の問題についてもそういう風に考えてゆくことが、日本の婦人にだけは出来ないのだと、誰が信じ得よう。日本婦人は、辛苦の負いてとして、永い社会の歴史の間につよさを誇って来た。その、「やりくり」に通暁した配慮を、少しひろげ、更にも少し広くして、自分たちの国としての「やりくり」にも智慧と良心とを発揮することが、どうして出来ないと云えるだろう。
 政治という言葉を、本来の生き生きとした人間の言葉に云い直すと、それは、社会のきりまわし法という表現になる。一家を、男ばかりできりまわせるものならば、妻を喪った男やもめに、蛆が湧くという川柳は出来なかった筈であると思う。
 婦人が、天成の直観で、不具な形に出来上って人民の重荷であった過去の日本の「政治」に、自分たちをあてはめかねているのは、面白いことだと思う。婦人の責任は、身に合いかねる過去の社会きりまわしの形を、娘として、妻として、母としての自分たちの柔かい力のこもった肉体の勢で、器用にほころばし、程よく直してゆくところに在る。よりよく生きてゆこうとする人間の最も貴重な希望が肯定されたとき、その実現のために自分から動き出そうと思わないほど無気力な男も女もない。この頃の日本の交通機関のおそろしい混乱と、そこで敢闘する婦人たちの姿をみたとき、こう迄がんばる日本の婦人が、やがてこの混乱の根本を改革するエネルギーとして自身を見出し、又その方向に真摯な努力をつづける偽りない自身の政党を選別するときが来ることを思わずにはいられないのである。
〔一九四六年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「新社会」
   1946(昭和21)年1月創刊号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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