青年の生きる道

宮本百合子




 日本の人口は七千万といわれている。その中で青年はどれほどの数を占めているのであろうか。今日、日本に生きる私達は皆一かたならない困難を持っているし、一朝一夕に片づかない社会的課題を持っている。日本の民主化という窓は明日に向って明るく開かれているけれども、その国を横切りつつある私達の足もとには長い歴史が今日に齎している雑多な矛盾と障碍とがある。
 青年の生活を思う時、私達の心には一口には言い現わせないいとおしみと希望とがある。こうして日本の若い人々、明日の担い手である若い男女青年の生活を思いやっている時、私達は何か話の始まりにきっかけとなる、せめては一つの小説とか、一つの伝記とかを思い出したいと思う。ところが一寸その例が見当らない。日本の作品ばかりでなく、外国の文学を考えても、直ぐ日本の今日の青年の生活とぴったり心の合った話題を持つ作品が思い浮ばない。これはどういう理由であろうか。勿論、私の文学についての知識が決して広くないということが第一の原因である。けれどももう一つ原因が感じられる。それは今日の日本の社会の事情と、今日までの数年間を日本の青年が経て来た経験とは、日本の歴史に未曾有の内容を持っていたばかりでなくて、それは世界の青年達の経験からも独特な性質を以って際立っているからではなかろうか。
 第二次世界大戦は地球を血みどろにした。そしてその結果、世界は自身の流血の上に立って、国際間の諸矛盾を解決するために戦争というものは再び繰返されるべきものでないということを学んだ。日本も同じ大きな道を辿って同じ結論に到達している訳ではあるが、然しこの過程には世界に類の無い日本の若者だけが負わされた犠牲があった。
 日本の民主化がポツダム宣言によって、政府に対して義務づけられたということは、とりも直さず、第二次世界大戦を契機として日本がどんなに封建的な暴力的な権力によって支配されて来ていたかということを語っている。
 世界が驚きの眼をみはって眺めたものの一つに特攻隊というものがある。特攻隊に参加した若い人々の精神の中には、その人々自身にとってそれぞれ真面目な、情熱を傾けた思いがあったろう。けれども客観的にみればこれは日本の近代的重工業の生産力が全く立ち遅れている苦境を、若く、一つの情熱によって命を捨て得る青年の生命によって埋めて行こうとした軍事的手段であった。特攻隊に参加はしなかったが学徒動員と徴用とによって過去四、五年間日本の全ての若い人が動員された。そして突然、自分の生活の道を変更させられ、何年間か一貫した目的を以ていそしんでいた学業や仕事を放擲させられ、一つの鍋の中に打ち込まれた豆のように煮つめられた。そういう避けることの出来ない事情におかれた若い人々にとって最も致命的であった点は、ただ外に現われた生活の道が強い権力によってへし曲げられたということばかりではなかったと思う。本人達にとって決して自然に受けとれない、納得出来ないそれ等の生活の経験に対して、自分の疑問、自分の探求心、自身の結論を導き出すことを全く許さなかった日本の権力の、非人間的な圧力というものこそ、数百万の青年が今日において昨日を顧みた時、口惜しく思う点があろうと思う。
 私達の人生には、常に難関というものがある。苦境というものなしの人生は一人の人にも可能とされていない。私達がそれらの難関と苦境とに処して何かの希望と方向とを発見し、それを凌ぎ前進して行けるのは何の力によってであろうか。それはただ私達が自分の経験を我が物と充分自覚してうけとり、それをあらゆる角度から玩味し、研究し、社会の客観的な歴史と自分の経験とを照し合わせ、そこから好いにしろ悪いにしろ正直な結論をひき出して、その結論から次ぎの一歩への可能をひき出して行くからであると思う。
 このようにして自分の経験を綜合し、分析し、推理して発展させて行く理性の能力は人間にだけ与えられている。この人間にだけ与えられている最も人間らしい能力を私達は凡ゆる面でこれまで圧えられて来た。徴用に行った人はどれほど沢山の経験を重ねて戻って来たろう。働かせる者と働く者との物の感じ方、判断、利害がどんなに一致しないかということを学んで来ているに違いない。あのように厳しく、そこから逃げ出せば法律で以て罰せられ、牢屋にまで送られた徴用の勤め先が軍部への思惑だけで、収容力もないほどどっさり徴用工の頭数だけを揃えていることや、そのために宿舎、食糧、勤労そのものさえ、まともに運営されて行かず、日々が空虚に心を荒ませるばかりに過ぎて行くことを怖しいと思わない人があったろうか。華々しく語られている戦勝への希望の裏にこういう現実がいたるところに満ちているということを、その場で暮した青年達で目撃しなかった人達があるだろうか。そのことによって、嫌悪と疑問とを感じない人はなかったと思う。この偽りない気持の中にこそ、それらの青年が自分達に蒙らされた破壊と浪費との中から立ち上って行く真面目なモメントが蔵されていた。口に言われていること、書かれていること、宣伝されていること、それが全部ではなくて、それと全く反対の現実がここにある。その二つの間にあって自分というものの生活がどんな関係であり、どうして行かなければならないかと深く考えることが出来るならば、戦時中の青春の浪費というものは、又違った形でその人々の若さをとり戻させる力となり得たであろう。
 けれども日本の旧い権力は自分の権力を守ることこそ大切であったが、一人一人の若者の青春が、わずか十六、七歳で、或いは二十歳で、或いは二十五歳で打ち砕かれて行くことをしんからいとおしまなかった。同じ死なせるにしても、人間の威厳を自覚させて死なせようとさえもしなかった。支配者達は、青年の生を踏みにじったと同じように死をも侮辱した。それは極端な表現のように思われるかも知れない。果してそうだろうか。
 新聞で私達は玉砕と言われた前線部隊の人々が生還していることを度々読んだ。死んだと思われた人が生きて還って来るといえば私達の心は歓びで踊るように思う。然しその本人達は、そのような歓びを無邪気に感じていられただろうか。自分を死んだものとして無責任に片づけ、而も如何にも儀式ばった形式で英霊の帰還だとか靖国神社への合祀だとか、心からその人の死を哀しむ親や兄弟或いは妻子までを、喪服を着せて動員し、在郷軍人は列をつくり、天皇の親拝と大きく写真まで撮られたその自分が、生きて還ってみた時に「死んでいる」自分の扱われ方にどんな心持がするだろう。生きて還って来るまでにその人の死と闘った経験は、実に口にも筆にも言い現わせないものであったと思う。又、その人が、自分が生きようとして凡ゆる惨苦をしのいでいる時に、その周囲でほんとうに死んで行った人々の様々な死によう、その人々がどんなに自分と同じように最後まで生きようとして闘ったかというその思い出、そういう生の内容を以て「死んでいる」自分の猿芝居のような扱われ方をみた時、どんなに深刻にこれらの人々は自分の生、自分の運命、自分に連らなるすべての愛する人々の運命が、権力によって愚弄されたかということを知るだろう。選挙が迫っている、その人は選挙権を持っている。ところが、書類の上でその人は故人である。まず生き還ってから、戸籍の上に存在するという手続きを経てから選挙手続きも改めてとらなければならない。これらの人々の一票は投票箱に落ちる時人生のどんな響きを立てることだろう。ドストイェフスキイは、ロシアの革命運動に参加した理由で死刑を宣告された。銃殺されようとするその瞬間に特使が来て彼は死なずに済んだ。然しこの一つの経験はドストイェフスキイの生涯を替えたのであった。
 戦争前の私達と、済んだ後の私達と決して同じものではなくなっている。そのことは若い人々にとってどんなに自覚されているだろう。日本の民主化が言われはじめた時、青年達は自分の家庭の生活を顧みて、日本の家族制度が動かすことの出来ない段々のように一家の中に刻みつけている戸主、長男、次男、三男の身分の違いを何と思ったろう。戦争や戦災で家を失い、又は夫を失って、実家へ子供を連れて帰って来た女の兄弟達の日暮しをみて、若い人々は、女の一生というものをどう思って眺めるだろう。長男の家族的な負担の重さは、長男という身分に生れあわせた青年達の自由さと身軽さと自分で選ぶ人生の道を奪う場合が多い。同じ男の子でも、次男、三男は長男の犠牲となる場合が多かった。戦争で長男が奪われた時などは、これまでどうせ、分家をするものだとか養子に出るものだとか、という風に扱われていた次男、三男が全く逆に、長男の義務と負担とを負わされることになる例も多い。結婚や恋愛の問題さえも、長男の場合と、次男、三男の場合とでは周囲からの圧迫が違って来る。村の生活では若い者と年輩の者との順位というものはきびしく、村民の寄合いの席順から発言の権利まで同等ではない。都会の工場労働者は、大人になった熟練工よりも、青年工を使った方が賃銀が安いということから、いつも青年労働者を多く使う。または女を使う。
 このあいだ政府はインフレの物価騰貴につれて最低賃銀の基底を公表した。若い人々はあれをみて何を感じたであろうか。男子三十歳から五十歳が最低四百五十円といわれている。では二十八歳の青年、二十五歳の者、二十二歳の者、その人々の労働の報酬はどうなるのだろう。最低はいくらと決められるのだろう。女は三分の一の百五十円と決められた。いつも婦人と青年とがより悪条件で働かされて来たこれまでのしきたりから言えば、三十歳未満の青年は、つまりは女なみだということだろうか。
 これは奇怪千万なことだと思う。婦人が戦争中、戦争が終った今日、どれほどの数で一家の支柱となっているかわからない。同じように兄にかわって、父にかわって一家の経済の柱となっている青年達は、おびただしい数だろうと思う。インフレ防止と言ってモラトリアムがしかれたが、私達の大部分は、モラトリアム公表の一日前に五十銭札で隠しておく二千円、三千円という金を持ってはいなかった。交通費は三倍になっている。米の値も味噌、醤油の値も三倍になっている。三十前の青年だといって「青年価格」というものは日本のどこにも存在しない。然し青年賃金というものは存在する。生の愚弄ということはこのようにして私共の日々の細部に沁みこんでいる。封建制というものが私達の全力をあげて打ち破らなければならないものであるということはこの一つにさえ充分現われている。

 私達は、自分の生をいとおしんでいる。生きるに甲斐ある一生を送ろうとしている。そして生れた以上は働き、学び、健康を保ち、社会のために創造して行く権利を自覚している。民主主義の根本的な人権の確立はこのことにかかっている。同時に私達は自分の人民としての権利――人権の必然に立って、自分達の生活をよりよくして行く努力、社会をより合理的にこしらえ直して行く権利というものを持っている。外部の力から無理強いされた生き方をするべきでないのが民主的な生活であると共に、自分の側からは積極的に、自分の全能力を発揮してよりよい社会にして行くということが人権という言葉に含まれた義務と名誉である。
 手近いところから私達の義務と名誉とは実現され得ると思う。
 学生達の今日の生活は実際にお話にならない。モラトリアムによる学資の制限と住居、食糧、教育資材の欠乏は、小学生から大学生までをひっくるめた困難においている。各専門学校、大学などで学内自治の運動が起っているのは当然である。学生達は自分達の中から委員を選んで食糧の困難、宿舎の問題、資材難を解決しようとしている。学校当局は、丁度幣原内閣が、増産対策も、食糧対策も現実には持っていなくて自然、働く者の生産参加と人民の食糧管理又は供出の管理に任せなければならないでいるとおりに、学生の問題を学校当局として処理して行く能力を欠いてしまっている。これまでの学校というものが学生を真に生かす組織でなかったということがまざまざと現われて来ている。
 各地で隠匿物資の摘発が行われている。これには生活擁護問題の若い人々やその他種々の農民組合、労働組合の若い人々が大きい動力となって働いている。青年の本来の心にある正義心は、自分達の愚弄された青春をわが手にとり戻そうとしてこれ等の動きに現われて来ている。青年団のこれまでの役目は若い者を賢くするよりも愚かにさせる旗持ちをした。今は役所の下請けをした青年団ももとのままではいられなくなって来た。青年の気持をほんとうに反映して向上して行こうとする心の貯水池によりかかろうとしている。青年団のどこでもがこの頃はさかんに演芸会をやっている。失われた笑いと大声で遠慮なく喋ることと、人前に立って遠慮なく振舞う自由さを若者らしい陽気な演芸会が振りまき始めている。自分をどういう形にして、正直に表現して行くという大切な人間らしい習慣は、特に日本では重大に考えられなければならない。中学生は、工場に働く人々は、渾名をつけることの名人である。兵隊も渾名をつけることはうまい。どんなしかつめらしい髭を生やしていても彼等から渾名をつけられることは避けられない。渾名は大衆的な批判である。青年が渾名をつけることの名人であるという一つの事実の中に、隠されている大きな真理がある。その事実の中に、自からの批判力によってこそ青年は未来をつくる、歴史をつくるといわれる必然があるからである。
 五十になった時、一冊の本さえ読まないじじいでも、十六の時、十八の時、せめて一冊の講談本は読んでいるだろう。少し真面目な若者は、人生の拡がりを自分のものとしたいと思って、読書をねがう気持は痛切である。自分の仕事に必要な技術をたかめようとして専門書を求める気持も痛切である。然し、紙は青年の向上心のために配給されていない、本屋の儲けのために配給されている。基本的な食糧、賃金、住居の問題から文化の面まで日本ではすっかりやりかえられて人民の幸福のために運営されるようにしなければならない。
 こうしてみると、青年の生活にとって特別な関係ある問題は、左をみれば婦人の今日の社会における種々の問題とキッチリ結ばれているし、右をみれば所謂おやじさん達の生活の根本問題と全くつながった線にあることが理解されるだろう。民主戦線という言葉がいたるところに言われている。学生が学生だけで、工場に働く人が工場に働く人だけで固まって、そこだけで解決出来ないほど今日の日本の問題は大きく広い。そして根本的である。村と都会とはお互いの困難を分け持っているし、その自然の解決は双方の協力なしには決して実現しない。青年の賃金の低さは婦人の賃金があがる時でなければ決して騰らないし、民法の上で女が独立の権利を持たないうちは、一家の中で長男だけが持っている特権と負担とは解決しない。人民の利害はこのようにして、人口の九割九分までを包括している。そしてほんの一握りの権力と金力とを持った支配者に向って立っている。この社会の土台がどこにあるか。三角というものは尖った小さい先で立っているか、それとも一番線の長い広いところを土台として立っているか。三角を尖った先で立てることは人間が二つの手の上でさか立ちすることよりも困難である。社会の三角の力強い底辺である人民が、どうして自分達の幸福のために努力しないでいられよう。その底辺の一番重心である青年がどんな理由があって歴史の創り手であるという光栄を捨てるべきだろう。
 選挙が迫って来ている。若い人々の一票はその人々が真実どんな生活を欲しているかということを物語るものだと思う。何故なら今や日本の社会は、少くとも私達の要求をまっすぐに反映しなければならないというところまでは民主化の方向をとって来ているのであるから。自分が何を欲しているか、それをはっきり知ることこそ大切であると思う。老獪な支配者達が私達の心に残っている旧い考え方を足場としてまた再び彼等の横暴を返り咲かせないように、私達は生きることこそ欲しておれ、彼等のために侮辱的な毎日をひきずって行くことは御免であるという事実を知らせなければならないと思う。
〔一九四六年五月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「青年文化」
   1946(昭和21)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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