新しい潮

宮本百合子




          一

 このたびのアメリカ大統領選挙は、まったく世界の広場のまんなかで、世界じゅうの注目をあつめて、たたかわれた。どこの国でも日本のように共和党の候補者デューイの当選が確実だと、あれほど宣伝されていたのだろうか。日本での宣伝はひどかった。十一月三日の開票日の前日、日本の代表的な新聞はデューイ氏当選確実、共和党早くも祝賀会準備と、まるで丸の内あたりでその前景気をみてでもきたように書きたてた。
 ところが、開票の結果は予想がうらぎられた。民主党のトルーマン大統領が再選した。トルーマン大統領の再選は世界各国の一部の人々には大番くるわせであったらしい。各新聞は、最大の形容のことばをつかって、その番くるわせについて書きたてた。けれどもそれらの記事は、おちついて読むわたしたちに滑稽な、またいくらか腹だたしい感じをあたえた。なぜといえば、トルーマン再選を奇蹟的だの意外だのと書きながら、一方でその新聞は、トルーマンは彼の困難な選挙活動のはじまりから、非民主的だった第八十議会の実状を率直に訴えれば、アメリカ市民は彼に協力するにちがいないという十分の確信にたっていた、といっているのだから。それほど、前から、たとえ主観的なものであるにもしろ政治家としてのトルーマンの確信がはっきりわかっていたのなら、日本の公器であるはずの日本の新聞が、どうして公平に記事を選ばず、デューイ当選を、まるで既定の至上事実のようにわたしたちに宣伝しなければならなかったのだろう。
 こういう悲惨で滑稽な現象のチャンピオンとして、某婦人雑誌が、トルーマン当選の公表された翌日の新聞に、「デューイ夫妻会見記」という特別記事入りの十二月号の広告を出した。ここにも奇蹟的という文字がつかってあった。この雑誌の特派記者が、アメリカの人でもなかなか会えないデューイ夫妻に会見してとった記事ということであった。
 某誌数万の婦人読者は、編集者のこんな先ばしりのみっともなさについても、どんなこころもちも動かされないというのだろうか。戦争中、一頁ごとに米鬼を殺せと刷りこんだ血なまぐさい雑誌だったことを、すべての日本の婦人が忘れてしまったとでもいうのだろうか。そう簡単には考えられない。某誌が軍部御用の先頭に立っていた時分、良人や息子や兄弟を戦地に送り出したあとのさびしい夜の灯の下であの雑誌を読み、せめてそこから日本軍の勝利を信じるきっかけをみつけ出そうとしていた日本の数十万の婦人たちは、なにも軍部の侵略計画に賛成していたからでもなければ、某誌の軍国調を讚美していたからでもないであろう。あのころ、数十万の婦人は、自分たちのふところから出ていった良人や父や恋人たちが、生きてかえってくることをこそのぞんでいたのだ。生きてかえる可能性が、敗戦のなかにあろうとはおもえなかったから、某誌の勇しぶりに、せめてものこころゆかせをつないだ。大本営発表のほとんどすべてがうそであったとわかった八月十五日からあとしばらくは、さすがの某誌も沈黙した。さっそく話をかえて読者にまみえるには、うそへの協力があまりにあらわだった。
 トルーマン再選にからんで、これだけのことをくりかえすことは、意地のわるい詮議だてともおもえるかもしれない。しかし、日本の婦人であるわたしたちの未来の運命についておもいひそめたとき、こういう詮議だてはあながち女の意地わるさから出発しているのでないことが了解されるだろうとおもう。二度とこの世界にあのおそろしい戦争がおこらないように、ところきらわず天から焔が降りそそいでくるあのおそろしさにあわないですむようにとおもっている日本のすべての男女は、ドイツやフランスやその他のあらゆる国々の人民とおなじに、世界を動かす強国の権力者たちが、それぞれのそろばん勘定はしばらくおいて、人類のためという見地から聰明に慎重に行動して、世界平和の確保にたいして誠意ある行動をしてほしいと考えている。

          二

 アメリカ大統領選挙の結果が発表され、トルーマンの当選が知らされたと時をおなじくして、東京の市ヶ谷では、極東軍事裁判の最終段階の法廷が再開された。トルーマンが政策として、平和のための強国間の協力、アメリカの公務員法案であるタフト・ハートレー法の撤廃、物価の引下げ、人種的差別の撤廃その他を主張して当選したとき、日本では全人民の生活を破壊したさきの侵略戦争共同謀議者二十五名の判決公判が開かれたのであった。荒木をはじめとしてABC順にならべられた二十五名の名は、わたしたち日本の男女が、馬よりも安価な戦争資材として扱われなければならなかった過ぎし日のことをまざまざとおもいおこさせた。あの日の命令者は、人類の平和にたいする罪悪的命令者であったということを、彼らの有罪訴因として読みあげられた十数年間にわたる彼らの行為のかずかずからあらためてこころにうちこまれた。
 人類にたいして犯された侵略的な謀議の罪はさばかれた。けれどもそれではすまないものがのこっている。それは、彼らのひきおこした戦争によって生活の道をこわされ、生きてきていた道を失わさせられた数十万の人々のかたわにされた人生である。手足をもがれた人々の運命がある。孤児と寡婦の人生がある。戦争の惨禍というものの人間的な深刻さは、侵略謀議者がどのように罰せられようとも、それでつぐないきれない人民生活の傷がのこされるからだ。人が人の命をうばうというおそろしい行為でその罪を罰したところで、東條英機の家族は、あしたのたつきにこまりはしない。三十余万の寡婦と十余万の戦傷不具者の苦しみと孤児の人生は、彼らのところにはない。とくに日本では、あれらの人々の生活は、わたしたちにみえないところにある力によってかばわれるだろう。すでにその一つのきざしはあらわれている。作家の石川達三が、侵略戦争共同謀議者二十五名への判決の行われた翌日、新聞記者に語ったことばはつぎのような意味だった。東條たちにたいしていい気味だとおもうのはまちがっている。日本人みんなに責任がある。将来に期待するしかない、と。
 たしかに、いい気味だとおもってすむ程度のなまやさしい犠牲を人民ははらったのではなかった。しかし、日本のみんなが、彼らとおなじようにわるいというのはよくわからない。それは事実でもない。人民は共同謀議によって奴隷のように狩りたてられこそしたが、その謀議に参加するだけの自由さえもっていなかったのだから。さらに石川達三の将来に期待するということばの内容は、もっとはっきりいうとどういうことになるのだろう。作家石川達三は、文学者の戦争協力についての責任が追及されたとき、日本がもしふたたびあやまちを犯すことがあれば、自分もまたあやまちを犯すだろうと公言した作家であった。石川達三という人のこころのなかで、そのことばとこのことばとのあいだには、どういうつながりがあるのだろうか。かつてそのようにいいきった一人の作家が、いままた将来に期するというとき、戦争についてのこのような考えかた、感じかたは、まだ日本に海のなかの氷山のようにそのかくれた底を大きく存在させているということの証左である。石川達三の表現はその日本の氷山の小さいいただきのひらめきにすぎない。そのかげに、世界平和の裂けめをうかがい、日本人民の平和と民主化の裂けめをうかがっている少くない人々が存在していることは明白である。
 二十五名の侵略戦争謀議者たちが、その心境を書いたという色紙の文句が新聞につたえられた。「公明日月の如し」とか、「我が身命を愛さず唯惜しむ無上道」とか、「得意淡然失意泰然」とかいう辞句は時利あらず、いかような羽目にたちいたろうともわがこころにじるところなく、確信ゆるがずという文句である。「あら尊と音なく散りし桜花」という東條英機の芭蕉もじりの発句には、彼の変ることない英雄首領のジェスチュアがうかがわれる。二十五種類の辞句のうちに、ただの一枚も、こころから日本の未来によびかけて、その平和と平安のために美しい、現実的な祝福をあたえたものがない。このことについて、わたしたちは感じるところがないだろうか。これらの人々のような立場になったとき、こういう感懐を書くのは日本の伝統的風格であるという意見もあろう。そういう見解にたっていうならば、またおのずからつぎの事実が理解されてくる。こんにち、色紙の辞句にあらわれたような観念的でまた独善的な、いわば神がかりの主観にたって、これらの人々は世界の現実をあやまり、戦争を狩りたて、わたしたち全日本人民の生活を破滅させたのだという事実が、いっそうあからさまに示されていることなのである。
 侵略戦争謀議者たちにたいする判決の結果について、減刑運動が許されている。きのうのNHKは、警視庁の役人をマイクに立たせて、減刑運動をとりしまる規則はないし、減刑運動の背後にある思想も言論の自由の立場からとりしまることができない。減刑運動は全国的にひろがってゆく模様だが、国民の冷静な判断にまつよりしかたがない、という意味を話させた。これはみかたによっては、減刑運動を一つのファシズム示威に応用しようとかまえている人々への無取締り通告である。その背後にある思想というのは、五・一五事件、二・二六事件と、暴力で侵略戦争遂行の可能な軍部独裁にまで推進させてきた超国家主義、軍国主義その他、極東軍事裁判の法廷が、それをこそ共同謀議の思想として、有罪を宣告したファシズムの思想である。あるいは、侵略主義の主体としての民族主義思想であろう。
 国際裁判によって有罪とされたそういう思想は言論の自由だからとりしまれないときくと、わたしたちのおどろきは深く大きい。警察でとりしまりたいとおもってとりしまれなかったどんなストライキがあったろう。文化的な仕事しかしていない東宝という映画製作所の闘争で、数千の武装警官と機銃をのせた甲虫が登場した光景は、フィルムにもおさめられた。言論の自由が民主的発言にたいしても、百パーセントの実効をあたえているだろうか。減刑運動という名のもとに、日本のまちがった民族主義の思想がふたたびうごめき出し、戦争挑発が拡大するような事態を許すならば、わたしたち人民の譲歩は、度をこしている。満州侵略に着手した田中義一の内閣に外交官であった吉田茂が、この減刑運動を、国内の民主勢力にたいする一つの均衡物として利用しようとするなら、それは一つの国際的な民主主義にたいする罪悪であるとおもう。

          三

 こういう問題ともにらみあわして、ふたたびアメリカ大統領選挙の話題が浮びあがってくる。あれほど共和党デューイ当選確実とおもいこまれた一つの原因は、アメリカの世論調査所がどこの調査もデューイ優勢を告げたからだった。半官的なギャラップ博士の米国世論調査所の示したこのたびの失敗は、世界の世論調査法に大きい教訓となった。ギャラップの世論調査所員の大多数は女子で、アンケートの送りさきは彼女たちの任意とされていた。彼女たちが労働者や下層民をさけたために、民主党を支持する人民層の意見が反映しなかったのだろうと、東京新聞で小山栄三が書いている。
 ギャラップの世論調査所に働いているのが女子だったから、アンケートの送りさきが限定されたのではなかった。彼女たちが、資本主義の社会のなかで働いて生きる婦人として、はっきり自分たちの存在の意義や生活の本質を理解していなかったからにほかならない。彼女たちの職場と個人個人の生活の雰囲気が、タフト・ハートレー法案にたいしてなんの反対も感じず、アメリカ人口の二パーセントを益するにすぎない所得税法に無関心であり、彼女たちの感情が非アメリカ委員会の活動ぶりに民主的市民としての疑問をいだいていなかった結果であった。
 なぜならば、ギャラップの権威を失墜させ、日本はじめ世界の大資本新聞をとまどいさせて、こんどの選挙にトルーマンが当選したのはアメリカの正直な男女の市民が、身につけているアメリカの民主主義社会生活の訓練と、働く市民としての生活事実に立脚した具体的な判断から、第八十議会で共和党の押しきった政策を批判したからであった。第三党として出馬したウォーレスの進歩党が、率直明白なその綱領によって、民主アメリカの幸福と世界の人民の民主化のためにタフト・ハートレー法や非アメリカ委員会の活動は廃止さるべきものであり、鉄のカーテンはとけうるものであり、またとかせるべきものであり、利潤を追うあまりに戦争挑発のとびこみ台となる基本産業は国有にされたほうがよいと、誰にでもその道理がうなずける綱領を示したからであった。日独にたいする講和促進と中国から手をひくがよいという主張、植民地住民の自立権の確立なども、ウォーレスの政策の一部にふくまれている。
 アメリカ国内の民主的なすべての人々は、政権争いをこえて世界をあかるくするための誠意の披瀝されたウォーレスの綱領を好意的に迎えた。共和党と根本においては大差のない民主党が、トルーマンを当選させるためには、その政策をかけひきなしに民主的人民の見解を代表しようとする進歩党の主張に近づけなければならなかった。タフト・ハートレー法に賛成し、非アメリカ委員会のゆきすぎの活動を放任した代議士がそのなかにふくまれている民主党が、タフト・ハートレー法の撤廃を第一にかかげて労働組合員の投票をあつめ、進歩的な男女の票をあつめなければならなかったところにこそ、このたびの選挙の歴史的な意味があった。トルーマンの当選はまぐれあたりでも奇蹟でもない。当選しようとすれば、アメリカ人民の要求を理解し、それに応える決心をしなければならないということについて、トルーマンがデューイよりも分別をもっていたからであった。ことばをかえていえば、アメリカの分別ある人々が、自分たちの要求をはっきり示すことで、アメリカの民主政治に民主的な方向をあたえたといえるとおもう。下院でタフト・ハートレー法に賛成した七十名の議員が落選し、上院で八名ほどの議員がおなじ理由で落選したことが、NHKの放送でも語られた。
 アメリカ本国の人口比率では婦人が四十六万人少い。労働人口の二八パーセントを婦人が占めて、五百種類以上の職業分野に活動している。家庭の主婦たちにしても、いろいろな婦人団体やクラブの仕事をしている人の率が多い。世界民主主義婦人連盟、反ファシスト同盟、人権擁護同盟そのほかに属している婦人たちの数も少くない。これらの婦人たちが切実に要求しているのは平和であり、民主的であってゆたかな生活の安定であった。その事実を選挙によって表現し、政策をその方向に動かした。そして、トルーマンの公約が選挙のゼスチュアに終らないことを監視している。慣例的な二大政党制はアメリカでうちやぶられた。民主的な人民は、事情によっては彼らの票を集中するウォーレスの党をもっているのであるから。
 わたしたちは、こういう事実からなにを学ぶだろう。まずさしあたり、日本の首相吉田が、再開の国会において、一般施政方針の演説もしないで、日本のタフト・ハートレー法を通過させようとしていることは、妙だ、ということである。政治一般の方針を示さず、検討せず、どうして公務員法案だけは通してよい法案であることが納得されるだろう。政策のはっきりしない政党を支持しようがない、という現実がアメリカの大統領選挙においても示された。いま政権をもっているということが将来を決定する条件ではない。
 わたしたちの一票は、おととし以来、わたしたちの生活のなんのたそくになったろう。わたしたちの一票は、おとぎばなしの欲深爺の背負ったつづらのふたをあける役にだけたったようでさえある。まさかとおもい、どうやらこれならとおもって一票を入れた社会党、民主党、民自党、びっくりばこのようにそのふたがはねあがったら昭和電工、相つぐ涜職事件で日本の民主化は、瓦石をかぶった。ゆうべ、花束をもって国会を訪問した全逓の婦人たちの話が放送された。公務員法案に賛成の議員はこのつぎに選挙しないため、目じるしの花を非賛成の側にある議員の胸のボタンにつけるためであった。日本でも、ボタン・ホールの花が、働く人民の意志の表示につながりはじめたことはおもしろく、うれしい。
〔一九四九年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「女性改造」
   1949(昭和24)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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