浦和充子の事件に関して

――参議院法務委員会での証人としての発言――

宮本百合子




 私も頂きました資料をよんで感じたことですけれども、やっぱり主人公である浦和充子が、子供を一人でなく三人までも殺したという気持が、このプリントに書かれてある範囲ではわからないのです。あれを読みますと、お魚に毒を入れて煮て、それを子供にわけて食べさせて、それをたべて自分も死のうと思ったということです。
 そうすると小さい子と自分とが半分ずつわけて食べようと思っていたお魚の一切を、子供の一人が食べたがったものだからその子にやったというんですね。自分の分まで皆食べさしちゃった。何か人間の気持、親の気持からいって、自分が一緒に死のうと思っている子供に、毒を入れて煮た魚を、お母さん欲しい、お母さん欲しいといったから、さあおあがりといって自分の分まで余計にその子供に食べさせるということは、私どもにはわからない気持です。まあ普通の親でしたら自分は身体が大きいんだし、親だし、だから子供の始末をしてやろうとしたにせよ、半分にしろ欲しがったから食べさしちまうということは、非常に疑問です。つまりこの事件のファクター、素因のプロパーとして特殊の事情として、普通ではわからない心理が充子という人の気持にあります。
 それから観察しているでしょう。こうやって見ていたら、顔を見ていたらだんだん黒くなってきた。そうして足を出したと、それだから苦しますと可愛想だから締め殺したと。
 だけれども、毒をくわした子供の顔を見ているうちに涙にかきくもるといえば通俗小説ですけれども、それは泣けてくるんです。それを冷静に見ている、作家か何かが冷酷な気持でリアリスティックな気持で見ていれば、その段階がわかるでしょうけれど。――もがき始めたので、はっとなって、とりのぼせたというのならわかるけれども、だんだん黒くなったと見ているのはどうもあまり沈着なんです。そういう心理もわかりません。
 それから私いま松岡さんのおっしゃったことで、女の人の具体的な感じかたを非常に面白く思ったんですけれども、私にもあのプリントで被告の身許引受人というのがわからないのです。あれにはただ身許引受人があったから執行猶予にしたとあります。身許引受人というものと、その充子さんという人との関係がわかっていないし、夫とその人との関係がわかっていません。ああいう生活過程をもっている女の人の場合には、ひとくちに身許引受人といってもいろいろのことが考えられるわけです。そういう点もプリントではわからない。
 そこで判事や検事は、事件を社会問題としての面で強調して、生活苦ということを主張なさったわけです。けれども、どなたかふれられたように本人は生活苦じゃないといっているんです。そうすれば、あの殺した動機というのは、率直に申しますとつまりやけっぱちになった、つらあてという感情が非常に強く支配したんじゃないかと思うんです。つまりお酒を飲んで悪口をいうとか、悪態を吐くとか、ええこん畜生と思ったことを亭主につらあて、社会につらあて、人生に対する反抗心のすべてをああいう行動で表現してしまったんじゃないかということをやっぱり思えるんです。事件そのものとすれば、勿論戦争から惹き起されたことであり、『読売』の方がおっしゃったようにいくらでもある事件でしょうけれども、やっぱりこの事件にはこの人の性格というものが作用しており、それから夫婦関係の、記録なんかでは、とてもわからないいろいろの経緯がからみ、三人の子供が首枷になっているという女の非常に憎悪の気持、子供を憎む気持が非常にあるということ、ある境遇には非常に負担に思って亭主のお蔭でこういう目に遭うと、そういう気持というものを、こういう事件の中では現実に計算してゆかなければ、公平を欠くということになるんじゃないかと思ったわけです。
 ここで、もう一つとりあげるべきことはこの裁判にはセンチメンタルなところがあると思われる点です。その点皆さん『朝日』や『毎日新聞』の方たちがおっしゃいましたけれども、被告は、私は生活苦からやったんじゃありませんといっている、それだのに、判事や検事の人が社会問題、生活苦だということを非常におっしゃる。それで寛大にする。それはやっぱり裁判の民主化とは、いろいろな官僚的でなく裁判をしようということで、また被告の人権を重んじようとする、平沢の事件なんかで皆が非常に困った立場になったというようなことから、へんてこりんな基本的人権の尊重のしかたで、この浦和充子の事件でも裁判所は被告の人権を重んずることを社会問題にすることで表現しています。子供自身の人権が尊重されなければならないという問題は、さっきからときどき繰返されましたが、その面では、判検事とも非常にしきたりの古い考え方で扱われている。子供を卑族と見ています。
 この事件に関係した判検事ばかりでなく、一般にまだ日本の人にある基本的人権尊重ということの裏返しのような現われ方を、私どもはこの際に考えて見なければいけないと思います。なぜならば、親子関係の理解の非民主的な点は皆さんよく御注目になっている。私もそれは同感なんです。大体殺すということ、それに対していまのわれわれの神経はどんなになっているかというと、これが基本的人権の一番基礎の問題として疑問を感じるのです。私ども日本人は戦の最中、ずっと死ぬということについて世界で独特の感覚をもっていました。今は死ぬということについては、主体的に自分から死ぬということについては、違った考え方をもつことになったかもしれないが、殺すということについては戦争中の殺すことに平気な傾向を皆もっています。戦争は殺すということについて英雄心をもたせ、優越感を与えてきた。殺人を権力が正当化しました。戦の罪悪は、戦がその戦場でやった非人道的なことのほかに、こうして殺すという恐ろしいことについて無感覚になった人間を非常にたくさん日本の中にもたらした点にあります。これは非常に恐ろしいことだと思う。基本的人権の問題をいう場合も……。
 新聞にいうように、十万とか十五万の武装警官を作るということ、あれは日本の軍隊の再編成です。それから新聞で御覧のとおり、非常に今の警官はピストルが上手で殺すことがうまく、昔の警官はサーベルをがちゃがちゃさせて躓いてびっくりしていたが、いまは殺すことが実に上手である。日本の警官はイギリスのストックヤードの警官のように足を掬って自由を失ったところを逮捕すればよく、その人が警官を殺そうとして反抗をしない限り足を撃って自由を失ったものを逮捕する、そういう訓練はうけていない。日本の今日の警官は大部分が戦争経験者です。これらの人々は人を殺すためにピストルをうつことばかり教わって来た人であり、それを実行した人々です。だから新聞に出る事件を見ると命中面のひろい腹背なんかうっては、必要のない殺人をひきおこしています。それはみんな軍隊で教わったものです。そういう人が十万、十五万あればある意味では一種の殺人隊です。治安を守る人よりもあるときにおいて極端に治安を乱す人である。
 そういうふうなことを、私どもの常識は平和とか基本的人権とかいうことの現実と結びつけて、直ぐピンと感じるような感覚を十分もっていないということが、問題だと思います。たとえば、浦和充子の問題で基本的人権がいわれる場合でも、検事がそれほどこの事件の社会問題の面を強調なさるならば、すべての勤労人民の生活安定の問題、託児所の問題について広い社会問題として労働組合も学生も、いろいろ私ども婦人たちも、みんなそれについては社会的発言をしておりますし、する組織をもっております。たとえば労働組合の婦人部の人たちの要求の必然性がこういう事件に裏書されております。大河内氏もいわれたとおりいろいろの社会的施設の不備について改善を要求する発言をしていろいろの行動をしているのです。デモとかストライキをする。しかし権力はそういうことを禁じる。そういう要求によって、いろいろな行動をしたり発言したりする人を引張るし、その人たちを裁判する。もしこの浦和充子の裁判に当った判事、検事が御自身そのような場合に直面された場合に、大衆の要求として行動した人たちこそ判検事が強調した社会問題そのものを具体的に解決しようとして行動しているのだと、それを禁じ、法律によって裁判することの自己矛盾に気づかれるでしょうか。やはりその人々は親子関係における基本的人権についての理解は古いままで、親の方だけ切離して社会問題に取上げて判定されたような分裂が起ってきやしないか。つまりこういうような殺人事件、詐欺とか強盗、そういう事件では社会の責任を指摘するでしょう。しかし、社会問題そのものを解決して行こうとする社会的行動に対する鎮圧とか、抑圧とかいうものについては、やはり分裂したいままでの考え方をもって法律をお使いになるのじゃないでしょうか。
 今日私どもが基本的人権についていう場合には第一、戦争の犯罪性ののこりとして、それで「殺す」ということについての人間感覚がにぶっているということ。同時に浦和充子の事件その他たくさんの社会問題的な事件の本当に基本的人権を重んじた解決の方法というものは、その原因の一つとなる社会事情改善のための社会的行動そのものについて、基本的人権の擁護が実行されなければならないという点をおとすことができません。この事件にもどって申しますと、私には浦和充子という人の犯罪の動機、その必然性がどの程度まで同情すべきものか十分わからないのです。判検事の基本的人権と社会問題の解決に対する理解の矛盾、そういうものが決してこの事件に関係した判検事個人の問題でなく、今日あるすべての権力の法律を行使する態度の中にある分裂、矛盾として私どもは感情的でない本当に人権擁護の実現のために注目してゆくべき点だというふうに考えます。
〔一九四八年十二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:参議院法務委員会での証人発言
   1948(昭和23)年12月16日
   「平和のまもり」および「新日本文学」
   1949(昭和24)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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