印象

――九月の帝国劇場――

宮本百合子




 久し振りで女優劇を観る。
 番組に一通り目を通しただけでも、いつもながら目先の変化に苦心してある様子が窺われる。一番目「恋の信玄」から始って、チェーホフの喜劇「犬」に至る迄、背景として取入れられている外国の名を列挙したばかりでも、相当なヴァラエティーは予期されよう。併し、全体として、見物は、その大がかりな規模にふさわしい深い感銘を、観覧後まで心に与えられたであろうか。
 自分としてはかなり物足りなかった。勿論、退屈な時、手当り次第に雑誌でもひもとくように其場かぎりな、相手にも自分にも責任をもたない気分で目だけ楽しませようと云うのならば何も云うべきことはない。けれども、現在は兎に角、将来の長い時間の為に、女優劇は、今のような、一段、気を許した雰囲気にあることは慶ぶべきことではないと思う。真個に気を入れて見て、其でうんと云わせる舞台が、女優独特の実力で創造されて欲しいのである。
 自分が終りまで遂にたんのう出来なかった原因の一つは、脚本そのものが余り光彩陸離たるものでなかったことと、二つには、演出する俳優の心の態度が、ぴったりと自分の胸に響いて来なかったことである。
 一番目「恋の信玄」などは、早苗姫が自殺してからの信玄の心理的経路が鮮明に描かれていなかったらしい為に、肝心の幕切れで、信玄と云う人格、早苗姫の死が、一向栄えないものになったように見える。
 作者は、所々で、信玄を、英雄的概念から脱した人間らしい一性格として扱おうとしているらしい暗示を感じさせる。同じ早苗姫を我ものとする為には親子の離反を厭わず、家国の安危を度外視するにしても、従来のように其動機を只外面からのみ照して、信玄とも云われようものが、何、仕て出来ないことがあろうかと云う名に動かされた行為とはせず、彼時代の圏境の裡に武将として育った一人の人間が、一旦思い込んだら、是が非でも其を通さずには止まない性格的悲劇を捕えようとしたらしい節々が、傅役虎昌の科白のうちにも仄めかされているのである。
 けれども、舞台に現れただけでは、決して其企図が徹底されているとは思われない。早苗姫が、真個にいとしかったのだが、万事が逆転して子には叛かれ、愛人には怨死されるのか、其とも、只、我ものになるからには飽くまでも服させずには置かない故に口説いたのか。若し、心から愛していたのなら、早苗姫が胸を貫いて死んだ刀の血を拭わせずに鞘に納めることもあり得ようが、忽ち、将軍になろうとしての上洛の途につく決心をするのは何故か?
 作者が、私の想像するように、早苗を真心から愛したく思っていたのに、彼の性格的な運命から事は悉く失敗し、最後に彼を捕えたのは、愛でもなく、沈思でもなく、何処までも彼を追い立てて行く武将の野心であったとするならば、最後の一句は、決して、其心をしみじみと味わせるだけの実感を漲らしてはいなかった。
 稍々やや誇張して云えば、早苗の自殺ではっと気を緊めた見物の前に、大きく「ええ、口惜しや、たばかられたか!」と仁王立になった信玄と、ちょんびり、出立の用意を命じて思い入れした信玄とが短くつながって幕になってしまったのである。
 早苗の死、其に連関して全く消極の働きを起した老傅役の自殺、子義信の反乱が、信玄の心にどう影響したか。自分は其が知りたかった。其点がはっきりしてこそ、早苗が、只、敵方に騙り寄せられた城将の妻が古来幾度か繰返したような自裁を決行したのか、又は彼女かれが云うように、国や命を賭けた戦を、彼女かれの命で裁かれたのか、歴然と一方に事実として照し出されたのではあるまいかと思うのである。
 幸四郎も熱を持ち、真実に演じようとはしていたらしいけれど、妙味を見せる場所もなかったように見える。
 嘉久子の早苗は、序幕の舞台が廻ってからが際立ってよかった。
 父鷺坂の居城が、此の武田勢に囲まれて既に危いと云う注進に、はっと顔色を変えて愕く様子。興奮して歩き廻りながら、早く、早く、救を遣れと命を下す辺。私の大嫌な作った姫様声は熱を持ち、響き、打掛の裾をさばいての大きな運動とともに、体中ぞっとするような真実に打たれた心持は忘れ難い。
 無理之助が現れて、さては騙かれたかと心付く辺以下もよかった。
「極楽の鬼」
 第一の感じ。随分賑やかなのに、何故がらんとして立体的でないのだろう。地下室の酒場らしい濃厚な陰翳がなさすぎる。周囲の高い壁がさっぱりしすぎている。声と姿ばかり。真実に心から溶けた雰囲気がない。
 あれ程大勢の男や女を舞台に出したのは、勿論、彼等によって、混雑し、もっとした廃頽的雰囲気アトモスフィーアを感じさせようが為であったろう。その効果は十分あっただろうか。彼等の皆は、舞台の上で自分達の持っている役目を真面目に心に置いて振舞っていたのだろうか。特に、イサベルが激しい熱情で悲惨な身の上話を始めてからの周囲は、自分にとって真個に快いものでなかった。
 第一、今の今まで女王だとか、お前のおかげだとか、わいわい騒いでいた者達が、話せ話せと云って身の上話をさせながら、話し手が我と泣き倒れる程血の出るような事実を語っているのに、歎声一つ発しない冷淡さが事実あるだろうか。
 自分達が云うだけの科白を云ってしまうと、もうあとは貴方の分だ、お遣りなさい。というように、平気で澄し込んでしまう。心は、すこしも中心人物と共に鼓動していない。当然、見物より先に傾注し、活々とした反応を示すべき周囲が、冷やかに納り込んで、一人舞台の芸を種々な感情で観察でもしているように見えるのはどういうものだろう。切角イサベルが興奮し、熱烈になっても、何処にも其に交響する温い心の連絡が感じられない。従って、彼女の興奮は不自然に孤独で、何処となく無理、「芝居」の淋しさが、見る者の眼に湧上って来るのである。
 若し実際の生活の中にある場合なら、到底イサベルは終りまで話し終せる気にはなれなかったろう。
 立役リーディングロールは一人の背に負わされていても、何かの必要から一旦舞台へ立ったら、仮令たとい椅子の足になっても、心をすっぽかしていてはなるまい。綜合的な舞台の芸術を真個に生かすには、只一本無駄な花があってさえ全体の気分ムードに関係する。いたずらな作者の道楽気は反省されなければならないと共に、群集の一人でも、此からの舞台では、仕出し根性を改めなければならないのではあるまいか。
 此時ばかりでなく、「恋の信玄」で手負いの侍女が、死にかかりながら、主君の最期を告げに来るのに、傍にいる朋輩が、体を支えてやろうともしないで、行儀よく手を重ねて見ているのも気がついた。何も、わざとらしい動作をするには及ばない。只、そういう非常な場合、人間なら当然人間同士感じ合うに違いない心を、真面目に自分の心に深めればよいので。
 律子も、イサベルを熱心にはやっていたに違いない。けれども、緊張や熱が放散的で、内面の厚さが稀薄なように感じたのは何故だろう。
 サンピエール寺院に行き、ベルトンを誘惑しようとする場面は、もう少しどうにか美化しても効果が薄くなりはしなかったろうと思う。
 掻口説く声が、もっと蠱惑こわく的に暖く抑揚に富み――着物を脱いでからの形は、あれほかの思案のつかないものだろうか。
 ベルトンが、激しい彼女の誘惑に打勝とうとして苦しむのが、却って見物を失笑させるのは、一つは、イサベルの魅力が見物の心を誘惑するのに余り遠いからではないか。常識では、まあ何と云う風だろう、と呟きながらも、心が自ら眼を誘うような独特な魅惑が、ああいう服装にはあるべき筈だし、又、あらせ得ると思う。
 真個の女の人が扮しているのだから、洋服でも、河合武雄の着る洋服ではない型と味いとを見たい。
 斯様な印象の後に来たので、「邯鄲」は、随分、お伽噺的な愛らしさで、目に写った。巧くこなしたものだと思う。色彩の調和が、気の利いた「犬」の舞台装置とともに、快く目に遺っている。併し、常磐津、長唄、管絃楽と、能がかりな科白とオペラの合唱のようなものとの混合コンビネーションは、面白い思いつきと云う以上、何処まで発育し得るものであろう。自分には分らない。とにかく邯鄲は、材料も適したものであったと云えよう。
「犬」は、しんみりと演じ、落着いて見れば、味いのある深い鋭い諧謔を包んだ作品である。こういうものは、すっかり、ステパン、イワンになり切って、自分達が傍から見て可笑しい何を云っているのも気づかず段々熱中して行くところに、自然な人間的な微笑が現れる筈なのだ。日本の所謂喜劇という概念に励まされて、賑やかに騒いだのでは仕方がない。「可笑しみたっぷり」というくすぐりは、斯様な世界には禁物と思う。――
 要するに、今月の女優劇は決して成功の部類に属すべきものではないと云っても過言では無かろう。
 見物の心に迫って来る俳優の技術は、只外部から磨をかけられた腕の冴えばかりではない。昔のように「型」できめて行くだけではなく、真個に我々の中の生活を、内部から立体的に描写して行く場合には、先ず、役者が演じようとする世界に対して持っている理解に、批判の眼が向って行く。
「役者」と云う商売人になっただけでは足りない、人間として、凡人以上の感受性と洞察が要求される。頭がいる。強い心がいる。
 種々な素人劇団が起るのは、「芝居道」以外の人間には時々我慢の出来ない玄人の臭味と浅薄さとを嫌うからである。併し、目指す方向は正しくても、舞台を踏んで遣りこなす教養がどうしても足りないので不具になる。近頃、女優劇と云えば、既に或る程度の水準が定められ、喧しくがみがみ云わない代りに多くも期待しないという状態にあるのを、自分は飽足らなく思う。そうさせて置く方もして置く方も、淋しい。どうぞ、もう一息のところぐっと深くなって、真個に私共の要求する素人の真剣、純さと、玄人の鋭さを具備した大きいものになって欲しい。どうせ一旦女優になったからには、一生取るにも足りない毀誉褒貶きよほうへんの的となってのみ過るのは、余り甲斐ないことではないだろうか、過去十年の時日は、何か、更にもう一歩を期待させる。
〔一九二一年十月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「新演芸」
   1921(大正10)年10月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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