大橋房子様へ

――『愛の純一性』を読みて――

宮本百合子




 先日は脚本をわざわざまことに有難うございました。あれから丁度林町に出かけるところであったので、途中電車のさわがしさも忘れて拝見し始め、二三日うちにすっかり拝見致しました。いろいろの事を感じたので、早速、手紙を差上げたいと思いながら、少ししなければならない事があったので失礼致しました。
 真個に今日の、少し自分と云うものを考え、周囲に批判的な眼を持つ私共位の女性は、皆な同じ不満、希望、失望を経験するものでございますね。あの御著書全部を貫いている思想的傾向は、その普遍的な性質に於て、私共のものであるとさえ申せますでしょう。或る箇所では、宛然自分の心がそこに顕れて物語っているように感じました。其にしても、総ての感情、理智の燃焼を透し、到る所に貴女のろうたきいきどおりとでも云うべきものが感じられるのは、非常に私の感興をそそりました。
 きっと貴女の持っていらっしゃる詩興、詩趣によるものでしょう。結婚と云うものに対し、愛の発育と云うものに対し、抱いていらっしゃる貴女の全人的な趣味も其処にかなり多くの起因を持っているのではありませんでしょうか。
 私も、女性が――人間全体が――もっと人間らしい自由な輝ある生活をしなければならないこと、特に女が、醒め、しっかり自分を視、人生を空虚な時間的推移でなく送るべきことを、しんみり希望し、期待して居ります。
 勿論、そのためには、現在の諸状態が如何程不合理なものであるかも解っている積りです。けれども私は、或る状態の裡に全く偶然な機会によって出生した一人間が、自己の道をつける為、どんな努力をするか、失敗するか、終局に於いて成し遂げ得たかと云う全過程に深い愛と牽引を感じます。貴女は自分の愚かさ、間抜けさを、そんなに可愛がっていらっしゃらないでしょう。
 全く、王女のように賢く、「はかない定命の下に生れた女」と云う優しい憂鬱、同時に、美しい見識を以て、白鳥のように、生活していらっしゃりたく、又被居るのではないのでしょうか。私は極々人間的なのです、総ての見方が。それ故、自分並全人類の持つ痴愚や不完全さが、随分のところまで認容します。真個に大切な光りとなるものが消され、破られない程度までは。従って生活、人格の発育と云うことを、実際的にも抽象的にも、経験によって居ります。私の裡には、或る程度まで何でも感じて見たく、知って見たい未開人のような好奇心、よい場合には探求心がありますのです。面白いでしょう。私共の日常生活が、形式内容の上に違っているとすれば、それ等は皆、若し私の推察が誤っていなければ、異った二種の人生に対する impulse? によるものとも思えます。(中略)
 あの脚本は、私に智的にも、感情の上にもいろいろの閃きを与えて呉れたと云うことで、ほんとうに御礼を申します。又いずれゆっくりお目にかかりましょう。若し、私があの御本をとおして考えた貴女と云うものに大きな間違いでもしていたら、どうぞ御教え下さいませ。
〔一九二三年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「アルス出版月報」
   1923(大正12)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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