茶色っぽい町

宮本百合子




 小石川――目白台へ住むようになってから、自然近いので山伏町、神楽坂などへ夜散歩に出かけることが多くなった。元、椿山荘ちんざんそうのあった前の通りをずっと、講釈場裏の坂へおり、江戸川橋を彼方に渡って山伏町の通りに出る。そして近頃、その通りのつき当りに、何という医者だったか屋根の上へ、大万燈のように仰山な電飾(イルミネーション)広告をつけたのを遙か中空に見上げながら、だらだら坂をのぼって左、神楽坂へ行く。時には、神田辺へ行った帰り、廻って逆に音羽通を戻って来ることなどもある。――本郷辺にいると神楽坂は全く縁遠い場所だ。どうせ電車にのって下町に出る位なら、賑かな人通りをぶらつこうと云う位なら、銀座まで一息にのす。歩く道なら大学赤門前から三丁目がある。電車のルートの工合で、動き廻る道筋を制御される我々は、東京の他の沢山の隅々を、何か特別なきっかけのない限り外国に在る街同然知らないで過ごす通り、牛込、神楽坂などに縁遠かった。
 けれども、思い出して見ると、神楽坂は、さすがに去年までまるで歩いたことがないでもなかった。ずっとずっと前、いくつ位だろう、十一二になっていた頃か、飯田町に引越した叔父につれられ、まだ七つばかりの従弟と夜散歩したことがあった。淋しい牛込駅の傍の坂を下って、俄に明るく、ぞろぞろひどい人波が急ぎも止まりも仕ないで急な坂を登り降りしているのにびっくりした覚えがある。今は活動写真館になっている牛込館がまだ寄席であったらしい。そこに入った。高座の上で支那人が水芸をするのを見物した。小学校の記念日に大神楽がきっと来た時代だ。支那人のする水芸そのものは、黒紋付に袴の股立ちをとった大神楽のやることと大して違いはないのだが、その支那人は、(水色の、踝でしっかり結えた股引に、黒い靴を穿いていた。)派手な三味線に合わせ、いざ芸当にとりかかる時、いかにも支那的音声で、
 ハオ!
とか何とか掛声をかけると同時に一二歩進み、ひょいと右か左、どっちかの足を曲げて、パン! と靴裏でもう片方の脚のこむら辺を叩く。靴が軟かいし、永年の修練で、
 ハオ! パン!
と、それは丸い、其癖ひどく刺戟的な勇ましい音を出したものだ。子供の胸に、一種のセンセイションが湧いた。柔軟な鞣に包まれた肉体が、薄い布を透して肉体を搏つ音。原始的な何ものかが在ったに違いない。(この間来ていたデニショウン舞踊団の男の踊手が、そう云えば、かなりしばしばこの肉体を搏つ、野生な、激情的な音を織込んで利用していた――)そこで、水芸の後に、めずらしくイタリー女のハアプ弾奏を聴いた。日本では、天平時代の絵で見るぎり、今でもハアプは数尠い楽器の一つだから、ましてその頃は珍らしい。父が外国から買って来た絵画の本に描かれているそれと同じハアプが裾の広い黒衣の、髪に只一輪真赤な薔薇をさした女と現れたのだから、私は感歎した。女は随分気高く、美しく、音楽も上手に思えた。ハアプが、ヴァイオリンのようではなく、ピアノのような音なのをその時始めて知った。女は、両手で絃を掻き鳴らしながら、高い、顫える声で三つばかり歌を唄って引っ込んだ。何を唄ったのだったか、果して本当に女が気高かったのか、上手に弾いたか、今になっては判らない。
 ――それから後――……そうそう、まだもう一度あの坂の中途まで行ったことがあったが――いずれにせよ、あの辺はつい近頃の馴染なじみと云える。
 二三度続けて散歩するうちに、何となく感じたのだが、神楽坂というところは、何故ああ店舗も往来も賑かで明るいくせに、何処か薄暗いような、充分燦きがさし徹し切れないようなほこりっぽいところがあるのだろう。布地にでも例えると、茶色っぽい綿モスリンのような雰囲気――つまり、どんなに燈灯が軒なみに輝いても、それを明快にキラキラ反映させる何かが無い、明るさを吸い込んでしまう。そんな心持がする。奇妙なことに、私は牛込区という名をきくと、決して神楽坂ばかりでない牛込全体をどうしても茶色と連想する。どうしてだか茶っぽい。他の色が浮ばない。丁度昼間の銀座ときくと、日光に反射する乾いた白灰色の平面しか思い出せないように。その茶っぽい雰囲気は、山伏町の通へ来ると殆ど黒い程になる。――
 八月の或る晩のことであった。私は友達と神田からぐるりと九段を抜けてその茶色っぽき神楽坂に出た。そして、段々矢来の方へ来ると、彼処を通ったことのある人は誰でも知っている左側の家具屋、丁度その前のところを歩いている一人の若い女に目がついた。そこいらで人通りが疎になったばかりではない。若い女の服装が夜目に際立って派手であった。薄紫に白で流行の雲形ぼかし模様に染た縮緬の単衣をぞろりと着、紅がちの更紗の帯を大きく背中一杯に結んでいる。長い袂から桃色縮緬の袖が見えた。まわりを房々だした束髪で、真紅な表のフェルト草履を踏んで行くのだが――それだけで充分さらりと浴衣がけの人中では目立つのに、彼女は、まるで妙な歩きつきをしていた。そんなけばけばしいなりをしながら、片手で左わきの膝の上で着物を抓み上げ持ち上った裾と白足袋のくくれの間から一二寸も足を出したままゆっくり歩いて行く。左右を眺めるでもなく歩いて行く。――私は、異常な気持がした。その若い女を見て、何か感情に訴えられるもののあるのは私ばかりでないと見え、縁台を出して涼んでいる者も、わざわざ頭を廻して、彼女の後姿を見送った。然し、言葉に出して批評する者もない。皆がただ或る感をもって目送する。若い女は、そういう人目に一向頓着せず、やはり着物のわきを抓み上げたなり、赤い帯、赤い草履でゆるゆる行く。女は半町ほど行って、面白くもない編物細工を陳列した一つの飾窓の前に止まった。機械的に、下膨れな顔をキッと仰向け、暫く凝っと眺め、また歩き出す。――後からその歩みぶりを見ると、若い女の心に行く先も、道順もこれぞと云って定っていないのが明かに感じられた。女は、家と名のつくところへ帰って行くのでもない。時間のある処へ訪ねるのでもない。ただ歩いている――幸福でなく、異様にあてどない空虚な空気に包まれながら、歩いてゆく。私は、その女の感情がありあり分るようで、少しせつない気がした。
 一寸した買物をしているうちに私共はその女の姿を見失った。友達も気になっていたと見え、店を出ると、
「どうした? あの女、どっちへ行った?」ときいた。
「よほど先へ行ったから、あの交番のところでどっちへ行ったか分らないわ――でも、きっと明るい方よ、賑かな方へ行ったに違いなくてよ」
 私は、確信をもって云った。
「そういうたちよ」
「――誘う水あらば、いなんとぞ思う――?」
「ふむ」
 幾分陰気になって、我々は山伏町の通りへ曲った。九時前後で、まだ人出は減っていない。夜店のアセチリンガスの匂いが、果物や反物の匂いと混っていた。赤や白のビラがコンクリイトの上に踏躙ふみにじられた活動写真館の入口に、
「只今より割引」
という札が出ていた。七八人の男女が表に出ている写真を看ていた。通りすぎようとすると、友達が、
「一寸」
と私の腕を控えた。
「この麻雀というの、こないだの蜂雀の真似じゃあないこと――そうだ、滑稽だな、澄子の麻雀とは振っている。一寸立ち見をしないこと」
 私は、日本映画は嫌いなのだが、蜂雀を麻雀とこじつけた幼稚なおかしさや、澄子がどんなに真似をするのかという好奇心に釣られた。垂幕たれまくをあげて入ると、中は満員であった。やっと、二人が立つと、すぐ麻雀が始まった。蒲田で、澄子その他が麻雀をして遊んでいると、その遊戯を知らない何とかくんという、ひどく太い眉毛の若者が傍のソファで仮睡をし、夢で女賊マジャーンに出会するという筋なのだが――マジャーンが、スワンソンの蜂雀通りの扮装でスクリーンの上に蜂雀通りの順序で現れると、私共は思わず笑い出してしまった。小柄な、くくれた二重顎の一重瞼の眼付から笑う口許まで、ひどく陶器人形じみた顔付の澄子は、何とうまくスワンソンの真似をすることだろう。さも悪者らしく、巻煙草の横くわえで、のっそりのっそり両手をパンツの衣嚢に肩をそびやかして横行するところから、あの両肱をぐいと持ち上げる憎さげなシュラッギングまで。堪らず私を笑わせたのは、そんな悪漢まがいの風体をしながら、肩つきにしろ、体つきにしろまるでふわふわで、子供っぽくて――謂わば小さな子が大人の帽子でもかぶったようなところのあることだ。
 真似が上手ければ上手いほど可笑しい。自然に溢れる滑稽は、眉太き青年旅行家が殴り倒され、麻雀の保護を受け、麻雀が若者に参る頃から頂上に達した。階上で怪我した若者の看病をするそのまめまめしさ、動作の日本女らしさ、澄子は気がつかず地で行っている。階下では小泥棒共が、騒ぎ立てる。麻雀は彼等を籠絡して、可愛い眉太男を守らなければならない。そこで二階の踊場へ姿を現すと、愕然として、麻雀は自分が麻雀だったのを思い出したらしい。さて、とスワンソン張りにポーズし、眼瞬きの合図をし、シュラッギングをし、さも図太い女賊らしくテーブルに飛びのって一同をさしまねく。――そのうつり変りの間に、何とも云えず愛嬌があった。可愛ゆさに似たものがこぼれる。
 段々監督がたがをゆるめ、馬鹿らしいちゃりを入れ出したので、終りまで見る気がなくなったが、私はそこまで可なり愉快であった。けれども、前後にひしとつめかけている他の見物は、そういう可笑しみは全然感じないらしかった。元になっている蜂雀も知らないらしく一生懸命さに於てだけ俳優に忠実に、生真面目に筋を追っている。私が、友達に、
「もう出ましょうか」
と囁こうとした時であった。視線が、今まで見えなかった左側の群集の方に注がれると、私は、計らずそこに先刻の、着物を抓み上げ、まるでからっぽな後姿で歩いていた若い女を見出した。若い女は、編物細工を眺めた時と同じように情感の死んだ下膨れの顔をきっと上向け、唇一つ動かさず廻転するフィルムをみつめていた。――
〔一九二五年十月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「読売新聞」
   1925(大正14)年10月26日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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