雨が降って寒い夕暮など、私はわざと傘を右に傾け、その方は見ないようにして通るのだ。どういう人達が主人なのだろう。そしてまた何故、あの小舎を、彼処に置いておくのだろう。私は、坂を下りかけると、遠くから気をつけて行く。白いものがちらりと見えたり、かちゃりと鎖の音がしでもすると、私は矢を
然し、それより前、家のことを話そう。その犬の飼われている家は、小石川の二つの丘陵地帯を繋ぐ、幅広い坂の中途にある。坂の中途に建った家がよくそうである通り、家全体の地盤が坂より低い。二三段石の踏段を降りて、門から玄関までの敷石を渡ることになっている。細長い、樫の木の生えた、狭く薄暗い門先だ。そこに、犬小舎が置いてある。軒下ではない。門柱の直ぐ傍だ。何だか粘土質らしい、敷石はずれの地びたの上に、古びた木造の犬小舎がある。
私は、その門から男も女も、活々した姿を現したのを嘗て一瞥したことさえない。門扉が開き、まして近頃はアンテナさえ張ってあるのが見えるから、確に人はいるのだ。それにも拘らず、私が通る時出会うのは人ではない。犬だ。いつも、犬だ。白い頭の上から墨汁の瓶をぶっかけられたように、
斑犬を、私は一概に嫌いだというのではない。鷹揚で快活な斑もあるが、その犬のように、全体はっきりした白と黒とで
天気のいい、そして、或る私が最も神経的になることさえ起らない時なら、その斑犬を見るのも平気だ。困るのは或る一事の外天気のわるい時、雨の降る日。この時こそ私にとって目かくし役をする傘がどんなに有難いかわからない。どんな主人が住んでいるのであろうというのはここのことだ。軒下へ犬小舎を置いてやらない主人は、雨が一日びしょびしょ降りつづいても、小舎を雨ざらしの門傍に出したままだ。坂からの傾斜があるから、泥水はどしどし門内に流れ込む。粘土が
だから、私はいやだというのだ。犬の心が傘一重でふせぎ切れるものか。私の足の裏まで雨水づかりで、やり切れなくなったような心持がして来る。
主人はどういう人なのだろう。
もう一つの或ることというのは、私の二階から彼方の木立越しに見える小窓の奥に坐している人と、この斑犬との関係だ。私が、斑犬の遠吠えを気にするのは外でもない。此方で奇妙な不幸な境遇に置かれた犬が、冬の青空に向って遠吠えると、きっと暫くして、あの小窓の奥の女の人も吠え出す。やはり遠吠えで、半獣的な、意味の分らない叫声を、喉の奥から心から送り出す……狂人なのだ、その女の人は。有名な精神病院の監禁室の一部が丁度此方向きになっているので、見まいとしても私の眼に、その鉄棒入りの小窓が写る。
空地があるから、一町ばかりある距離を
〔一九二六年七月〕