狐の姐さん

宮本百合子




 七月○日 火曜日
 散歩。
 F子洗髪を肩に垂らしたまま出た。水瓜畑の間を通っていると、田舎の男の児、
  狐の姐さん! 化け姐さん!
と囃した。

 七月○日 水曜日
 三時過から仕度をし、T・P・W倶楽部の集りに出かけた。A新聞の竹中さんとP夫人の肝煎り。七八人。P夫人は日本に十六年もいる。劇評家。Nさんも見える。P夫人能もすきで屡々見るらしい。芝居は相当よく分り、花道の効果、または能の表徴的な美も理解しているらしいが、日本語がちっとも読めず、読まねばならぬとも感じていないらしい。それで日本の文学は云々出来ず。
 T・O夫人、山梔くちなしのボタン・フラワ。白駝鳥の飾羽毛つきの帽。飽くまで英国――一九〇〇年代――中流人だ。識ろうとする欲求によってではなく、社交上の情勢によって、顔役として坐っていた。
○アングロサクソン人の、ロシア及ドイツに対する無智な偏見。
○イギリスとアメリカの短篇小説の違い、主としてテクニック上より。
 東京会館で夕飯。お濠の景色。日本風なすき焼部屋。ミスが、面白い変化物語と、アナトール・フランス風の話をした。変化物語、なかなか日本の土俗史的考証が細かで、一寸秋成じみた着想もあり、面白かった。
 九時過Nさんと自動車で、自分林町へ廻る。離れにKと寝る。いろいろ話し、若い男がひとの妻君に対する心持など、感ずるところが多かった。
 ――自分の妻君にされちゃ厭だと思うことは、ひとの奥さんにも仕ないのが本当だろう――
 幾分警告的な意味で云ったが、嫉妬ということが、不図これまでの心持と違った角度から感じられた。「人間には嫉妬の本能がある」いつからか一般人の知識にこんな文句が入り込んで、その固定観念で自繩自縛に陥っている、そんな気がした。所有欲は本能だというのも同じだ。

 七月○日 月曜日
 暑し。
 Yの発起で芝浦のお台場を見物に行く。芝浦から日覆いをかけた発動和船。海上にポツリと浮いたお台場、青草、太陽に照っている休息所の小さなテント。此方ではカフェー・パリスと赤旗がひらひらしている。市民の遊覧、ルウソーの絵の感じであった。陽気で愛らし。
 溺死人の黒い頭、肩。人間の沢山いる棧橋の方へ、何か魂の引力みたいなもので漂って来まいかといいようなくこわかった。その傍を通り過た漁船、裸の漁師の踏張った片脚、愕きでピリリとしたのを遠目に見た。自分、段々段々その死んで漂って行った若い男が哀れになり、太陽が海を温めているから、赤い小旗は活溌にひらひらしているから、猶々切ない心持であった。夜こわく悲しく、Yにしっかり体を捉えて貰ってやっと寝た。
〔一九二七年九月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「新潮」
   1927(昭和2)年9月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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