向島の堤をおりた黒い門の家に母方の祖母が棲んでいて、小さい頃泊りに行くと、先ず第一に御仏壇にお辞儀をさせられた。それから百花園へ行ったり
やがて『少女世界』が私の本という新鮮な魅力をもって一冊一冊とためられ、冬の縁側で日向ぼっこをしながらそれをあっちへ積みかえこっちへ積みかえしていた心持が思い出される。もっともこの時分には、もううちの本棚への木戸御免で、その又本棚というのが考えれば途方もないものだった。居間のとなりに長四畳があってそこに父の大きいデスクが置いてある。背後が襖のない棚になっていて、その上の方に『新小説』『文芸倶楽部』『女鑑』『女学雑誌』というような雑誌が新古とりまぜ一杯積み重ねてあって、他の一方には『八犬伝』『弓張月』『平家物語』などの帝国文庫本に浪六の小説、玄斎の小説などがのっていた。その棚の下のどこかに鏡台がおいてあったのを思えばそこは主に母の本棚だったのだろうか。
女学校の二年ぐらいから、玄関わきの小部屋を自分の部屋にして、こわれかかったような本棚をさがし出して来て並べ、その本棚には『当世書生気質』ののっている赤い表紙の厚い何かの合本や『水沫集』も長四畳のごたごたの中からもって来ておいた。
父方の祖母はずっと田舎暮しで、そこの家の本のあるところが、実に夏休みの間の探険場所であった。この祖母は、筆の先をなめて、あぶら一しょ、と書くひとであったから、読む人のなくなった本は薄暗い三畳の戸棚の中やしめ切った客間の裏の板の間におしこんであった。こっちの本には、いろいろな珍しい英語の本があった。西洋の地獄の插画のついたのがあったり、何か機械の図解のついたのがあったり、詩集があったりした。文学の本は少くて、政治や経済の明治初期の本があった。父方の関心はそういうところにあったと思える。西洋の地獄の插画のある本や詩集などは、省吾さんという叔父のもので、そのひとはホーリネスの信者で、支那やアメリカを旅行して日本へかえると間もなく死んだ。
女学校では、勉強の方法、本の使いかたというようなことをちっとも教えない。それ故本を活々とした人間の努力の集積、それを最善につかって有益な結果をひき出す筈のものというような考えかたは、私としては随分後まで身につけなかった。
並べて見ているだけでよろこばしい亢奮を覚えるというような工合で、国民文庫刊行会で出版した泰西名著文庫をよみ、同じ第二回の分でジャン・クリストフなども読んだ。手のひらと眼玉がそれらの本に吸いつくという感じで、全心を傾倒した。
五十銭銀貨を何枚かもって、電車にのって神田へ本を買いにゆく。本を買いにゆく。それは全く感動に堪えない一つの行事であった。今でも本を買う特別な親愛の心はやはり微かな亢奮をふくんでいて独特な味いである。
今十六七歳の少女は、どんな心持で本というものを見て感じているのだろうか。この間もある大きな新刊書を売る店で、その疑いをもった。セイラー服の少女が三四人で本を見ているのだが、その眼にも口元にも何の感興も動いていず、つよい好奇心のかげさえない。あの棚でちょっと一冊、この台でバラバラ、又あの台でバラバラ。そして流眄で本の題を見て小声で云って見たりしている。百貨店であっちのショウ・ケース、こっちのショウ・ケースと次々のぞく。そのように見ている。
本への愛というようなことは、言葉に出してしまうと誇張された響をもつが、やはり人間の真面目な知慧への愛と尊敬、文化への良心とつながったものであると思う。若々しい知識欲が何か求めて本気で本を見る眼差しは、ただ商品を視線で撫でてすぎるのとはちがう、おのずからなはた目の快さをも誘うのが自然だと思う。
本がどっさりあることは、不幸ではない。けれども、現代は本の数はあるが、本のなかみへの愛や探求心や尊敬が随分低められて来ている。文学の領域について云えば、作品の現実が、そこで扱われている感情のありようにしろ本質的には通俗で、読者にその作品の背後の作者の生活態度までを考えさせる力に乏しいため、何かバラバラとめくられて、一寸目についた文句で買われたり、広告で買われたりする傾向をつよめている。
女学校が、本の生きた読みかた、使いかたを教えないことは旧態依然で、しかも個人個人として、本へのそういう薄情の培われる文化の傾きというものは、多くの考えさせるものを持っていると思う。
〔一九三九年十二月〕