琴平

宮本百合子




 朝、めをさまして、もう雨戸がくられている表廊下から外を見て私はびっくりしたし、面白くもなった。私たちの泊った虎丸旅館というのは、琴平の大鳥居のほんとの根っこのところにあるのであった。廊下から眺める向い側の軒下は、ズラリと土産ものやである。いろんなものが、とりどりにまとまりなく、土産物やらしく並べたてられている。
 私たちは、ゆうべ十二時すぎに琴平駅についたとき、くたびれ果てていた。迎えに出てくれた人が、へこたれている私をからかうように、
「宿がすこし高いところなんですが」
と云った。もうすっかり街すじは暗く、暗い街なみを圧して、もっくりとした山の黒い影が町にのしかかっていた。山裾の町というなだらかな感じはしなくて、動物的に丸いようなもっくりした山の圧迫が、額にせまって感じられた。暫く歩いているうちに石段にかかった。すこし石段をのぼって一寸平らなところを行って、又石段になった。ずっと昔、長崎の夜の町を歩いたとき、灯の明るい、べっこう屋のどっさりある通りがこんな石段道であった。ピエール・ロチが長崎を描いている一番美しいところは、お菊が俥にのって、白い小さい彼女の東洋の顔の上に、祭りの夜の町の色提灯の灯かげを次々とうけながらゆくところである。琴平の怪奇なようなぼっこり山の黒いかげの下の真暗な石段道も、そこが四国であれば珍らしく思えた。
 石段の数が次第に多くなって黒いぼっこり山の頂近いところに、煌々と電燈を射出している一つの家が見えた。
「一寸おどかそうかな」
 若い人はひとりごとのように含み笑いして、
「奥さん、宿やは、あの位のところですよ」
と言った。
「まさか!」
 それでも、いくらか怪しいと思いながら、なおいくつか石段をのぼらされ、やがて左側にたった一つ丸い軒燈がついている店の、閉った表戸の前に立った。くぐりをあけて入るとき、近くに大鳥居のあるのが目に止った。鳥居の下なのね、と云った。けれども、それがけさみるこの琴平の、あの忘られない石段のはじまる大鳥居だとは思いあわされなかった。自分たちが泊る宿やを、土産ものやだのお詣りだのの真只中にあるものとして考えられなかったのであった。
 お詣りの定期が終ったばかりだそうで、土産ものやの前は閑散であるし、虎丸旅館と大看板を下げたその家もしずかである。朝飯のとき前もってきめられていた方の室へ落付くと、石段町の裏の眺めはなかなか風情があった。古風なその一室は、余り高くない裏の崖を右手にして、正面は屋根ごしに、眺望がひらけている。遙かむこうに、もっくりと、この地方独特に孤立した山が一つ見えていてその前景は柿が色づき、女郎花おみなえしが咲く細かい街裏の情景である。
 私たちの用事は、この町の公会堂にあった。ひるになったとき、先発している人の弁当をもって、私が公会堂へゆくことになった。
「どう行ったらいいのかしらん」
「この石段をお下りになって――」
「いや、それより上の方よりが近路じゃ」
 奥から出て来た主人らしい人が、大鳥居のきわから左へ入って、うねうね山道を歩いてゆけば、ひとりでに公会堂の上へ出るからと教えてくれた。
 暖かい十月の六日で、セルで汗ばむ天気であった。弁当の包を片手に下げ、家のわきから左に入ると、男の子供が何人もかたまって遊んでいる小さい農家の前庭へ入った。その前庭から斜めに苔のついた石段が見えている。
「この道をゆくと公会堂へでますか?」
 よその言葉で見馴れぬ女にそうきかれて、子供たちは黙って合点をしたまま、道をあけてくれた。
 いかにも農家の裏山へ通じると云うおもむきの、苔のついた石段をのぼると低い切りどおし道になった。温暖な地方は共通なものと見えてその小道にしげっている羊歯の生え工合などが伊豆の山道を思いおこさせた。季節であればこのこみちにもりんどうの花が咲いたりするだろうか。
 農家のよこ道を通りすぎたりして、人目がくれのその小道は、いつか前方になだらかにひろがる斜面を見おろすところにでた。四国の樹らしく、幹の軽く高いところに梢をひろげた楓がたくさん植わり、桜もある広い芝生へ出た。若い女のひとが三人芝生の隅にかたまっておひるをたべている。背後にどっしりとした御守殿風の建物があった。大玄関にまばらな人かげが見える。それが、琴平の公会堂なのであった。
 藪かげのこみちを歩きながら、この俗っぽい、商人の薄情な琴平に、こういう裏みちもある、ということをなつかしく感じた。慾とくをはなれた年月の間この町にも苔のついた石段が、穏和な生活の道としてあることに安らぎを感じた。
 数年前、弟が出征したとき、母は、武運長久の願をかけに、山口からわざわざ琴平詣りをした。五月雨のころであった。父にあたる人は七年来の中風で衰弱が目立っていたから、母の琴平詣りも、ほんとうの願がけ一心で、住んでいる町の駅を出たのは夜中のことであった。私がお伴をして、尾の道で汽船にのった。尾の道と云えば「暗夜行路」できき知った町の名である。町を見る間もなく船にのりこみ、多度津につくやいなやバスにつみこまれ、琴平の大鳥居の下へついたときには、かなりの雨になった。
 番傘を、下から煽る風にふき上げられまいと母の上にかざして何百段かの石段をのぼりつめたとき、更に高い本殿まで昇って椽側に腰をおろしたとき、私のこころは憤りでふるえるようであった。子を無事にかえしてほしいと思う母親、許婚の命があるようにと願う若い女。本殿のところに腰かけてみていれば、降りそぼつ雨にうたれて、お百度をふんでいる人さえある。せまい陰気な雨の境内は人ごみで雑踏し、賽銭をなげる音がし、祈祷の声がする。切ない心で諸国から集ったこれらの人々が、みんなあの幾百段をのぼって来ている。信仰の勿体なさを深くするため、印象づけるため、すべての流行する信仰建築は、きっとこういう途中の難関を計算に入れている。善光寺の山門までの長い単調な爪先のぼりの道中は何のためだろう。いじらしい人間の心を食い、無事息災をいのる心でたつきを立てるならば、せめて、年よりの足にたやすい方便を考えてもよいだろう。こういう願かけに、義弟の尊い生命の安危をたくしかねる私の心は、素朴な憤りにふるえた。こういうあわれな仕草で、自分の思いを表現するしかない人民の立場、しきたりが心に刻まれたのであった。
 そういう憤ろしい思いで雨の中をのぼり下った琴平の大鳥居の下に、こういう小道や公会堂があって、暗いやるせない信心とはまるでちがう新しい気運が、そこで開かれている会合で活溌に表現されている現在が愉快であった。こういう著るしい歴史の対照のもとで、琴平の町が私の生活に再び登場して来ようとは思いもかけなかった。そういう心もちは、琴平の裏町のこまやかな風景をすなおに私に感じさせるのであった。
 次の夜、雨の中を、おそく、電車から降りた。子供づれの友人の妻君も一緒で、石段がこれからはじまろうというとき、私は、
「ちょっと、ちょっと」
と、宿の提灯を下げて先に立って行ってくれる友人の一人をよびとめた。
「どう? くりぜんざいというものがあるんですがね、平気ですか?」
 たべずに行っても平気かという意味できいた。石段が多いことで私をおどかそうとした友人であってみれば、その若い眼のはしに、栗ぜんざいというはり紙のある店を見ないで通ったわけではないだろう。琴平も面白いと思っている私は、栗ぜんざいに、いくらか興じてもいるのであった。
「――さあ、平気じゃないですね」
「そうなわけよ」
 どやどやと賑やかに、小さな店へ入った。小さい女の子もいそいそと一人前に椅子にかけて、さて、小さいお椀によそって出された、栗ぜんざいを一吸いして、私たちは、しんみりとおとなしくなってしまった。やがて、女の子が情けなさそうに、
「もういいの」
と母親にお箸をかえそうとした。私は、子供が甘いだろうと信じて、フーフーふきながら吸ったこころもちが可哀想で、
「じゃ、これはどう? きっと、これをたべながらのむと美味しいかもしれない」
と、お芋のおでんをとってやった。
 おでんのお芋は、黒芋で、大半黒くなっていた。
「じゃかえりましょうか」
 又提灯に灯を入れてその店から雨の往来に出た。商人は今日もやはりあくまで琴平流に徹底している。母と来たとき、食堂のようなところで親子丼をたべた。たべたというよりも食べずにいられなかったのであったが、そのときの不親切な味の水っぽさ、もののわるさは忘れがたい。それだのに、くりぜんざいにはつい釣られた。栗とぜんざいとが別々にかかれていたのなら、私たちも大丈夫だったのに、と歎いた。自由平等と重ねてかかれていると、ふとそのままで実質がどこかにあるような気になるように、栗ぜんざいと書かれると、私たちのお人よしが甘い内容づけをして、さか恨みをすることになった。元気に鬱憤をはらしながら、私たちは、旅館へむかう石段をのぼっていった。





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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