さしえ

宮本百合子




『働く婦人』の三月号がとどいた。『働く婦人』がはじめて創刊されたのは一九三二年一月のことだった。その四号から、翌年発行が出来なくなるまで、佐多稲子さんが中心になって随分な努力をしたものだった。このごろ出版協会の文化委員会に出る婦人雑誌のリストの中で『働く婦人』が首位を占める数種の中にちゃんと自分の歴史的な位置をしめしているのを、わたしはいつも感情にふれるものとしてながめる。
『働く婦人』三月号に、村山知義さんの「結婚」という連載小説がある。第六回の三月号の分には、一枚の大きいさし画がついていた。ハダカ電燈のつり下ったせまい台の上に立て鏡だの大きなはけの見える化粧箱がおかれていて一寸見には楽屋かと思える場所で、若い娘が手紙をかいている画である。リボンで髪をむすんだ娘が手紙をかいている横に女クツの片方がころがっている。そして左手に、その娘のほしものが見えている。桜模様の手ぬぐいか何かと並んで娘さんのパンティーがほしてある。いま、どういう種類の娘さんたちが、そういうモードのパンティーをつけるのかしらないが、ふたつにわかれたもものしまりにヒラヒラのついた形が、こっち向きに干してある。その絵を見て、わたしは何だか自然にうけとれなかった。たとえ一人いる室でも、女は、自分の体の形を説明しているような下着を、こういう向きには干さない。反対に、一枚の布として見える向きにかえる。自然にそうする。自然にそうするところに女の生きた官能も感覚もある。
 佐多稲子さんのところに、何年も前からマイヨールの「とげ」という小さい彫像があった。マイヨール独特の親しみぶかいふっくらした裸婦が足にささった小さなとげをとろうとしているところである。その彫像が久しぶりで訪ねた鷺の宮の家のたんすの上に飾られていた。ああここに来ていると思ってながめながら、座布団の上に坐ったとき、わたしは、その彫像の飾りかたに稲子さんの感覚を実につよく感じた。無邪気に足の裏のとげをしらべている可愛い裸婦は、お客に来た人が坐った位置から見たとき、いかにもそれが生きている若い女の心をもっているように、ほんのちょいと体の角度を斜にして、置かれていた。それは、ほんとに自然な優美な角度で、女主人のこころもちが裸婦に通っていた。その置かれかたで、女主人の背後にある裸婦の無邪気なゆたかさが、芸術としてすらりと鑑賞されるのだった。
 村山知義さんの自筆の插画をみていて、わたしは、このマイヨールの「とげ」の飾られていた工合を思い浮べた。「結婚」のさし絵は男が描いたものだという点にこだわって考えないにしろ、一般に、いまの人間感覚のうちに、文化の感覚のうちにこういうパンティーなど登場させたらそれを前から描くという風な流行がありすぎると思う。そういう荒っぽい、むき出しな動物的な傾向が、ジャーナリズムの上に濁流をなしている。文学作品にも、同じ傾向がある。それが反封建といわれている。しかし、性の問題を、性に局限して理解して、だから人前に出せないとしたのが封建思想であった。きょう、性の興味や問題を、文学においても絵でも人間問題の一つのくさりとして扱わないで、性に集中して露出させて扱っているのは、とりも直さずに日本人の人間的感覚のなかに、どんなにまだ封建的な性を性だけに表現するみじめさがつよくのこっているかという証拠である。
 この間「美女と野獣」をみて、接ぷんを人間の心のあらわれとして芸術的に、深い余韻をもって扱っているのに注意をひかれた。より合う心の近さにつれて二つの唇が触れ合おうとしてしかし触れず、互の眼をながめ合ってその瞬間のすぎる風情には、観ていて背筋のひきしまるような美感があふれた。そしてそれは愛の感覚に直接迫るものだった。私たちの新しい芸術で性感は美術の一種として高く人間的に解放されてゆく必要がある。
〔一九四八年四月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「文学新聞」新日本文学会
   1948(昭和23)年4月15日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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