小さい婦人たちの発言について

――『わたしたちも歌える』まえがき――

宮本百合子




 春のなだれは、どんなふうにして起るだろう。暖かさが朝ごとにまして来る太陽にとかされてゆく積雪の表面からこれは起らない。冬の間じゅう降りつもって、かたく鋭く氷っていた根雪の底が春に近づく地殼のぬくもりにとけて、ある日、なだれとなる。
 歴史は、どんな風に前進しているだろう。ふるい煤やごみでよごれた表面をもったなりで、しかし、その底の方では確実に新しいものが動きはじめている。夜も昼もと、おさえがたい成長をうながされつつ、――新制高校の若いひとびとの書いた原稿を一つ一つとよみながら、わたしは信頼とよろこびにみたされて、この事実を感じた。
 原稿のなかには、丁度わたしが初めて日記というものをつけはじめたころの年齢のひとのものもあり、もとでいえば女学校の四年ぐらいになって、根のしまった知識慾と人生、社会についてのあこがれや、抗議にみたされている年頃のひとによってかかれたものもある。そのどれもが、それぞれに五年前の日本には表現されず、また存在もしなかった十五歳から十八、九歳までの少女から、ごく若い婦人たちとよばるべき年ごろのひとたちの世界をひらいて示している。同じ十五歳という年齢の内容に、何と精神や感覚の早咲、おそざきのちがいが、はげしいだろう。ちょっとみるとおどろくようなその相異にもかかわらず、十五歳の小さい婦人たちが、少女としてふれてゆく自身の社会環境に対してもちはじめている批評は、またそこに共通な本質にたっている。
 十六歳。そして十七歳の女生徒たち。ここには、この年代のひとの姉たちがその年ごろで経た生活感情と非常にちがったものがあらわれている。たとえば共学を例にとっても。
 現在、大学や専門学校を卒業しようとしている年代の若いひとびとは、その中学校の時代を、共学どころか、人間の理性や感情さえ戦争で圧しひしがれた青春としてすごさせられた。だから大学や専門学校でにわかに共学がはじまったとしても、そこにはお互のぎごちなさがあり、よけい神経のつかわれた傾きがあった。本当にさっぱりとくつろいだ男友達、女友達の感情はまだ発揮されていないというのが、去年あたりまでの座談会などでの感想だった。その現実から、年かさの女学生はまじめに社会生活を考えるひとほど、日本の民主化がこういう風では、女性として伸びてゆくさきがつまっているという実感をもってもいたのだった。結婚と仕事とは、女性の幸福にとって両立し得るものだろうかという疑問をもふくめて。
 ここに集められた十七歳の世代の人たちの記録をみると、そんなところにも、何とも云えず生々とした変化がおこっているのを感じる。「一つの思い出」にワヤワヤと響いている声々のうちに「失われる緑」や、「春から夏へ」の、一人の少女が若い女性へとその蕾の勢でホウをやぶってゆく生活の記録のうちに、もう日本にも新鮮な小さい婦人たち――little women がのびつつあることを、ひしひしと感じさせる。彼女たちは、人間の小さい男が少年であることをあやしむものがないように、人間の小さい婦人としての少女の人生を、いっぱいに生き育とうとしている。共学は、いくらか神経質に互を眺めあう場合ではなくて、人間の小さい男と女とが集って一緒に学び、いろいろの研究や催しをもち、ときには競争しながら互にディスカッションし批判しつつ、おのずから能動的な社会活動の機能力をつよめあってゆく場面となって来ている。
 みんなの前に立って、自分の意見を発表することをあたりまえのこととする習慣の少女たちが、きょうの日本にふえてきているという事実。歴史はこういうところからこそ変ってゆくのだ。同時により大人の女に近づいた十八歳ぐらいの若い婦人たちが、実際問題としての結婚や職業の問題につれ、まだつよくつよくのこっている旧い日本の家の観念、世間というもの、常識のしきたりについて身と心で抗議を示している姿も、わたしたち日本の足どりにある旧いものと新しいものの複雑な摩擦について考えさせる。
 ここに発言しているいきいきとした小さい婦人たちは、彼女たちが十五歳から十八、九歳の女性の肉体と精神とで感じているあらゆる問題こそ、つまりはその人々の一生で解答されてゆかなければならない課題だということについて、どのように自覚しているだろうか。
 人類の社会生産とその文化の歴史にとって鉄の時代は、太古の一頁である。けれども、一人一人の成長と発展の過程には、丹念に青春の青銅時代ブロンズ・エイジがもたらされている。そしてそのういういしく漲るエネルギーによって人間生活のありかたが改めて知覚され、探究され必ず何かの新しい可能もそこに芽生えていて、社会のうちに行為されてゆく。このことは、限りなく美しく、厳粛な事実だと思う。言葉を加えて云えば、わたしたちが二度とこの世に生きることはないものだという事実に人類のたゆみない進歩が暗示されており、青春――人間誕生の意義がひそめられている。
 少くとも、この本に集められた小さい婦人たちの発言の特色は、彼女たちの存在が急速に、そして主体的に社会的になって来ている点だと云えると思う。だが、わたしには疑問もおこった。「私達は太陽だ」などは、こんにちの社会現象のあれこれを追究して、より多くのものがより民主的に、合理的に生活することのできる社会を求めるものの立場として、批判している。それは、感想というよりももっと資本主義の社会矛盾に肉迫した観察であり、価値づけである。わたしがそれを読み終って思うことは、このように熱心に具体的に社会現象についての意見を書いている十七歳のひとは、この具体的でつっこんだ社会観察の眼を、自分の学問の日常生活、そこではもとから行われていた共学のありかた、教師と生徒との関係などに、どのように向けていたのだろう、という疑問であった。更に、家庭の社会的なあり場所とそのなかでの娘としての自身を、どう見出しているのだろうか、と。
 社会への自覚というものは、外の現象だけ向けられるものではないのだから、わたしたち自身のありよう、生きかたが、社会的階級的な存在であり、その現象である。この一冊の本にみちている小さな婦人たち一人一人の欲求、抗議は、自分のものとして自分の中から発しているが、それがもうこんにちの社会のもっている問題そのものであり、その方向で解決されてゆかなければならない本質をもっている。「わたし」というものが、それだけ社会的な内容をもつ存在であるからこそ、その欲求と抗議に客観的で生きた価値がある。
 この本は、いろいろな層の読者に与える何ものかをもっているが、ちがった環境とちがった性格の同じ年ごろの若い人たちがよんだら、男にしろ女にしろ、明日に伸びつつあるお互を知り合うために、どんなに有益だろう。ここには円卓会議ラウンド・テーブルがある。ここではみんなが自分を率直に表現している。そのことによって、ひとを発見し、それぞれにちがいをもちながら共通なよりよい人生への志向を発見するのだ。
 わたしたちがきょう青年の生の記録として、「きけわだつみのこえ」と「生き残った青年達の記録」をもち、更にこういう「わたしたちも歌える」をもつことのうちに、胸のひきしめられるものがある。素朴な少女の「アルバイト」記録のなかに、人々は、まだ日本の一部には軍国主義が健在であるという事実を告げられている。
 若い人々よ、生涯のいつのときにでも、人間の男であり人間の女として生きることに絶望するな。世界の若人たちと手を輪につなげ、日本をふくむ世界の若い人々は、男も女も、野蛮な力で生命と人生がふみにじられることに対しては徹底的に抗議している。
〔一九四九年十二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「わたしたちも歌える」学生書房
   1949(昭和24)年12月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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