「禰宜様宮田」創作メモ

宮本百合子




     桑野村にて

 ○日はうららかに輝いて居る。けれども、南風が激しく吹くので、耕地のかなたから、大波のように、樹木の頭がうねり渡った。何処かで障子のやぶれがビュー、ビュービューと、高く低くリズムをつけて鳴って居る。祖母が、因果なような音を立てて居ると云ったのが、いかにも適切な程、その音は、弱々しく陰気でありながら、絶え間ない執ねさで鳴って居る。

 ○地面と云う地面は到るところ、ゆるんでぬかって居る。
 黄色な草の間を縫うて、まがりくねった里道には、馬のひづめのあとに轍が、一寸も喰い込んで、滅茶滅茶について居る。歩くのにも足駄でなければ、足の上の方までよごれる。
 けれども村の者達は、此の困難な往還に対して、何の不服も感じないのみか、却って、一種のよろこびさえも感じて居る。春の暖さが、地面の底から、しんしんとわき出して、永い冬の間中、いてついて、下駄の歯の折れそうになって居た土を、やわらげて行くからなのである。
 子供達は、背中まで、大きな はね を上げながら、いつともなし足袋をぬいだ足を、思うさまよごしては、気違いのようにはねくり廻って居る。

 ○池の水はすっかり増して、冬の間中は、かさかさにむき出て居た処にまで、かなり深く水がたたえられて居る。日光が金粉をまいたように水面に踊って、なだらかな浪が、彼方の岸から此方の岸へと、サヤサヤ、サヤとよせて来るごとに、浅瀬の水草が、しずかにそよいで居る。
 その池に落ち込む小川も、又一年中、一番好い勢でながれて居る。はるかな西のかん木のしげみの間から、現われて来る流れは、小さな泡沫を沢山浮べながら、さも愉快そうにゆれゆれて流れ、池へ入る口では、せばめられた水嵩が、周囲の草や石にあたって、心のすがすがするような高い、透明な響を起す。その傍に、小さな小屋を立ててすんで居る鯉屋の裏には、鯉にやるさなぎのほしたのから、短かい陽炎かげろうが立ち、その周囲の湿地には、粗い苔が生えて、群れた蠅の子が、目にもとまらない程小さい体で、敏捷に彼方此方とび廻って居る。

 △静かに、かなり念入りな態度で本を読んで居た彼女は、不意に、自分はわきの竹籠に入って居る赤い鉛筆を削らなければならないのだと云う気がした。で、早速、勢よく、その思いつきで、退屈だった自分が助われたと云うような顔をして、それを実行しにかかった。けれども、いざ削るとなると、急にゲッソリと気がぬけて、彼女は、又元のように、鉛筆をしまってしまって本をとりあげた。
 そして、自分が何か分らないこれから起ろうとして居ることを、心の底にバク然と感じて、その為に心が大変落付かないことをさとった。そして、そのこれから先に起ることと云えば、彼が来ると云うことほか、ない。彼が来ること――? 彼女は、顔を赤くして自分の周囲を見廻した。

 △妙な興奮が突然彼女の心を掴んだ。彼女は傍から見ると不機嫌そうに見えた。赤い顔をし、涙をためて、彼女はジイッと暗い暗い向うの方を凝視して居る。激しい、激しい愛情――対象を得ると、忽ち絶望して仕舞う強い強い愛情が、出口を失って彼女の胸の中で燃えて居た。自分の愛情が、斯くも不思議なものであることを知って居れば居るほど、彼女は根本的に陰鬱になって来た。彼女は、一生、此の只独りで感じ、独りで燃える愛情に苦しまなければならないのか?(十九日)
 彼女は、はっきりと
 自分の裡に自分を殺すものがひそんで居る!
と云うことを感じた。
 自分を殺す力は、同時に自分を活かす力である。その力をはたらかせる力の強弱によって自分は生きも死にもする。そして、死と云うものも、あるときは、あまりに強く自分を誘う。

 ○何時も旅行にさえ出ると、きっと自分を苦しめる陰鬱さ。
 今日も私は苦しい悲しい心持がして居る。すっかり自分がむき出しになって、自分の前へ来るような気がする。苦しいけれども、自分にはきっとためになるだろう。自分を凝視して行く力。グングンとさし込んで来る力をジイッと保って居る強み。そう云うものが、女には何だかうすいように思われる。今、私はかなり力のこみあげを自覚して居る。何かになろうとする力が、次第次第に膨らんで来るときの苦しさを、自分は涙と光栄とをもって、堪える。

 ○眠ろうとしながら、自分は種々のことを考えた。愛し合うと云うことに就いても、死と云うことについても。
 私は今に、何だか命がけで誰かを恋しはしまいかと云うことを大変に予感して居る。その心持は恐れと、歓喜との混ったもので、苦しい。今まで、多くあった自分の恋。皆失望して、自分からすてて、進もうとする足の下に踏みにじってしまった恋の多くは、何だか、これから来るほんとうの大きな、自分の命とかけがえになるほどの大きな愛の先駆ではあるまいかと思われる。自分はMに pity を感じ、Kには、かなり尊敬の混った愛情を感じて居る。Kに対して、自分の心は、殆ど恋と云ってもいい位のものになって居る。けれども、それを発表することは、絶対に自分自身に禁じる。何故ならば、やがてもう一二年も立つと、今までの多くと同様ふまれるべきものとなってしまうことが、自分に分って居るからである。
 自分の足の下にふまえるにはママしい尊さが彼の中にはある。
 其故自分は、彼に対して友達であろうと努めるのである。
 それがいいのだ。彼と面を合わせて居るとき、自分はどの位、落付いて居られるかと云うことを考えると、自分だけの裡に感じて居る苦痛などは、要するに自分自身の生長の力と異わない。ジイッとして、ジリジリと行くのだ。そこに道がある。光明がある。私自身のほんとうの生が輝く。

 ○真に自分と合一し得た者を得たと云う点に於て、自分は、罪と罰の、ロージャを羨む。

 ○自分は多くのものを愛して居る。が恋は出来ない。私の道徳的な考えを滅茶滅茶にする丈、強い力はどこにも見つかりそうにもない。それは、自分の恋せない心持の理由を知って居ることは賢いことである。たしかに賢い。が、うれしくはない。否寧ろ、哀れむべきとも云える。人生! 人生?

 ○イベットを読み、死の如く強しを読む。二者の間のまるで違った感じは、単に訳者の相違からのみ起って来て居るのでないことは、よく分って居る。けれども、その訳の仕振りは、いかにも、訳者二人の箇人性をあらわして居る。

 ○ジイッと座って居る。うす黒くなった障子を通し、ガラス戸、塀を通して、かすかながら動いて居る外の世界の響が聞えて来る。乾いた道を行く風の音、梢の音。雀のチクチクなく声が、寒い戸外に幾分あたたかい感じを与えて居る。周囲は非常に静かである。が、心は落付かない。何もしないで斯うやって、お客になって居なければならないことは辛い。

 ○三月二十四日。
 生ける屍と闇の力を読む。
 又訳に関して感じたのだけれども、闇の力の方は、あれをあのまま芝居にしていい丈訳が洗練されて居るが、生ける屍の方は殆どひどい位だ。何だか、少し無責任だと云う心持もする。若しあの訳言をあのまま頭に入れて仕舞って、生ける屍とは斯う云うものだと云う者が一人でもあったら、それは佐藤氏の罪だ。
 ○闇の力の、代用の場面のついて居るところは、矢張り、代りにとしてついて居る方が、舞台にかけたらよかろうと思う。ニキタが、赤子を押しころすところを、第一のようにされては、殆ど見て居るに堪えない。ニキタの苦しみ、どうにもならなかった彼の苦しみを、体験するのには、あれを見なければなるまい。けれども、第二のナンを用ってあらわしてある方が、もう少し私には安心な心持がし、又日本の目下の警察ではあれを許しはすまい。
 ト翁が、代りに用っていいとして第二の方を書いて置いて下すったことを感謝する。

 ○雨がひどく降って居る故か、右の手の先の方にリョーマチがついた。手が利かなくなったら困るがなどと思う。小野川の温泉へでも行って見ようか。少しひどく痛いのでいやだ。

 ○人間がひまだと、ろくなことをしないと云うのはほんとうだ。
 孔子が、小人閑居して不善を為す と云ったのは、流石さすがに孔子様だ。今私は、自分で困るほどひまだ。否、強いてひまにさせられて居る。何かしなければならないと、心に思って居ても、現在することがないと、下らないことを思う。彼の(郡山へ来るときのって居た水兵の)言葉ではないが、雑念が起って来る。
 その雑念の起って来ることは、小人の所以であろうが、又自分には、尊いところであろうとも思う。

 ○外は真暗である。何の物の形も見えない。只折々とんで来る火の粉が、うるしをといたような闇の中に非常に美くしくやさしく輝く。何かの光、色にうえて居る心は、その群をなしてとんで来る光が目に入ると、瞬間心がかるくうれしくなって来る。けれども、それが消えると、又元のような旅愁が彼女の心に入って来る。

 ○汽車が動いて居るのだと云うことを証挙だてる、どんなささいなものもくらいそとには見えない。其故ときによって、心持の持ちようによると、列車はまるで前へは進まずに、一つところで上下にガタガタゆれたり、ママったりしてあばれて居るようにほか感じられないことさえある。

 ○二十五日夜、仙台よりの汽車中にて、
 ○彼女は二十三四になったかならないである。どっちかと云えば、いい服装をして居るけれども、実際の生活程度はそんなに高くないらしい点がその態度の中にチョイチョイとあらわれる。東京に長く居た地方の女である。新婚後東京の夫の任地へ行くらしい。
 沢山の見送りが来て居る。その前で、彼女はさも輝やかしそうに見える。落着いて、さも安んじた心持で居るように微笑――得意な幾分女性の傲慢もそなえた――をうかべながら、かるく頭を下げながら、挨拶をして居る。そして、丈の高い体は美くしく見えた。御機嫌よう御機嫌ようと云う声に送られて、汽車が構内を出てしまうと、急に彼女の目には、或るたるみがあらわれた。次で、アアよかった。何もかもすんだ。これから、都会で始められようとする生活に対する憧憬の心やらが、彼女の白粉の上に油ののった顔に一どきに渦巻いた。
 三つ折にしたコートの中に手を入れて彼女は、しゃんと体を保って居ようとしたが、四肢の隅々から、ぐんぐんとさしのぼって来る心のゆるみにともなった訳の分らないたよりなさが、いつの間にか、グッタリと、頭を下げさせてしまった。列車がこんで次の部屋の一番隅に頭を見せてよく眠って居る夫の方をややしばらく見て居た彼女は、いきなり口に云われもしない憎らしさ――それは一面に強い愛情をもえたてさせた――を胸一杯にみなぎらせた。白粉のはげないように、小さい手巾をあてながら、自分でどうしたのか分らない涙をこぼした。
 彼女は、やたらに今斯うやって自分を遠い東京へつれて行く夫に対して、可愛くてたまらない心と、にくらしい、両手で、ガリガリとかっさいてやりたいような憎嫌を感じて居た。そして頭のとおいところで、ランチョンの中にあるアメチョコの甘さを考えて居た。

 二十六日桑野にて、
 天気は晴れて、のびかかった麦が、美くしい列になって見える、けれども北風が激しいので、一吹松林をそよがせながら、風が吹いて来ると、向うの山に積った粉雪が運ばれて来て、キラキラと光りながら、彼女の頭に降りかかって来る。

 ○ドストイェフスキーの罪と罰をよんだあとで、漱石氏の明暗をよむ。全くおどろく。先に浜岡氏と話した、複雑な色調の調和と、単純な調和と云うことをこの二つの作について感じた。両方ながら完全なものだと云える。けれどもその完全さがまるで異う。
 ドストイェフスキーの調和、完全な美は、幾色もの完全な調和である。漱石氏のは、白と金の調和だ。二者の間には二つの国民性の差が著しくあらわれて居る。

     飯坂に関して

 ○あの新道は、明治三十七年の戦争の始まるとき三月頃から四月ごろまでに着手した。その年は饑饉だったので、貧民救済事業として行われたので、県庁の保助があった。女から子供まで。
 人員 二三百人   ダイナマイトのきかない岩は何?
 日数 二月位。

 ○崖中から水がたれて居る。
 ○岩の間に菫の小さい葉がしげり出して居る。
 ○桑の尺とり虫が出始め、道ばたに青草がしげり出し、くもが這いまわる。

 ○手品使の広告が通る。広い桜の生わった野道を、多勢の子供にぞろぞろとあとをつかれながら、赤いトルコ帽に、あさぎの服を着た楽隊を先頭にして、足に高い棒材でつぎ足しをし、顔を白粉や何で可笑しくそめた男が、ジョーカーのような帽子をかぶって、両手をはげしく振り、腰を曲げて調子をとりとりねって行く。子供達はきそって、躰が圧しつぶされそうなのぼりのさおをかつがせてもらって行く。
 楽隊はときどき気まぐれなラッパをブーッブーッと吹きならすと、白い綿雲の静かにただよって居る空の奥の方で、同じ調子のかすかな音が反響する。

 ◎岡村翁は、父親の年も一緒に数えて、百十八歳なのだと云って居るものがあるそうである。四十ばかりの妾が居るのだそうで、東京や京都に行って居るのだと云う。

 ○今日彼に会って見た。年は全く百二十一歳らしい。耳も遠くなって、まめのいったのもたべられなくなってしまったそうだ。

 ○黒の綿リンズの羽織に、青色のつむぎの着物を着て居る。
 すっかりはげた頭の中途に五分位のはばでまっ白な髪の毛がはえて居る。写真で見たより倍も倍も活々した美くしい顔をして居る。

〔欄外に〕
 彼はどう云うときに、自分は生きすぎたと感じたろうか。
 一、彼が(すべて私の推量によれば)――百十二三歳のとき。or 十五六歳のとき、

 ○「おじいさん何か昔のお話をきかせて下さいとさ、
「何? 昔のおはなしかね、……ハイ昔のおはなし、桃太郎
 彼は長火鉢の上にのって居たくりものの桃の菓子器か何かをさした。

 ○三太郎と云う猫がひろって育ててある。
 ○九谷の茶碗が秘蔵である。
 ○天井の竹竿には、下絵をつけた亀の子の絵が幾枚もかさねてかけてある。
 ○大きな机には赤く古ぼけた毛氈がしいてある。竹の筆づつには、ほしかたまったのや、穂の抜けたのや沢山の絵筆がささって居る。

 ○弘法様が信心なそうな。

 ○妾になる女は、丁度見世物の番人のような顔をして、爺さんをとりあつかって居る。
 切角いらっしゃったのだから記念に何かお一つ御書きなすってと云う。おかかせなさってと云うことなのである。
 無心で、猫の頭を撫でて居る老人に、かかせては自分で食って居るようでいやだったので、何とも云わずに居る。

 ◎ハッとして息をとめた瞬間、空中に一杯になって居る小っぽけな羽虫が、一どきにオミヨ、オミヨ、ワラー と大変早口にうたったように聴えた。低いふざけたような音は、そこから、どこまでと云う区切りをつけられないほど広くから起って来た。そしてワラーのおしまいが、ウーンといつまでも尾を引いて、空の真中にのこって居るように思った。
 信夫山と阿武隈川
 昔ジャイアントが居た。
 退屈まぎれにもっこに土を一杯負うて歩き出した。が、今の信夫山のあるところまで来ると、ウンザリしてしまって、負うて居た泥をみんなあけた。ら、それが信夫山になって、そのジャイアントは、その山の頂上に腰をかけて、下をはるかにながれて居るあぶくま川で足を洗った。

 ○日本武の尊が、きずを洗った古湯。

 ○穴*の彼方に大変狐が居た。狐火。で汽車がとまった。
 はだかろーそくのような形で又炬火の小さいようなものである。美くしい、ヒラヒラ、ヒラヒラともえて行く。
 小林区の御役人が来るので、待って居ると、それが見える。

     架空索道

(一)[#「(一)」は縦中横]索道は、今から五年前に出来た。
(二)[#「(二)」は縦中横]もいわ、の村から荷を運搬するためで、十二円五十銭ずつの株式組織である。が、今は利益は全然なく、二円五十銭、三円で、一株が売買されることになって居る。
(三)[#「(三)」は縦中横]今のところ廃する問題はないが、こんど改築のときがあやしい位費用だおれになって居る。
もいわ、の鉱山からどしどし鉱石でも出れば、又鉱山の専有にでもなれば有望でないこともない。
(四)[#「(四)」は縦中横]価格のやすいものはやすい金でとりあつかってくれる。ときどき荷が落ちることがある。会社で、その代をはらう。
(五)[#「(五)」は縦中横]何か一つどこかで荷が落ちると、その震動がどこまでも伝る。そしてあの椅子が少し弾むようになったときにあのくいついたところがはなれる。
(六)[#「(六)」は縦中横]箇人的のものをとりあつかって、とめ置きも、配達もしてくれる。ときには、もいわの田舎人が自分のかいものをのせて行ってもらうこともある。





底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
執筆:1917(大正6)年3〜4月
※「*」は不明字。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について